第62話 乾いた青麦と、帰る場所を決められない行商人
セドリック・ヴァールは三十七歳になる人間の男性であり、レーヴェンを含む北西街道一帯を回りながら、布地、保存食、縫い針、灯油、簡単な薬草、農具の替え刃といった生活用品を売る行商人として、十五年以上も町から町へ移動する暮らしを続けていた。日に焼けた顔には長い旅暮らしで刻まれた細かな皺があり、砂埃と日差しで色の抜けた茶髪は耳へかからない程度に切り揃えているものの、何日も野宿が続けば手入れまで行き届かず、帽子を取った瞬間に前髪が好き勝手な方向へ跳ねていることも珍しくない。
背丈は平均よりやや低いが、荷馬車の積み下ろしを長年続けてきたため脚と腰は頑丈で、車輪が浅い泥へ嵌まった程度なら、馬を落ち着かせたうえで一人でも押し出せるくらいの力がある。旅商人としては口数が多い方ではなかったが、相手が話好きなら自分から商品を勧めるより聞き役へ回り、初めて訪れる農村では警戒されないよう、井戸端や宿で土地の様子を聞いてから商売を始める程度の柔らかさも身につけていた。
そのため商売は安定していた。北の鉱山町では冬前になると厚手の靴下と油を求められ、南へ続く宿場では春の初めに縫い針と布紐がよく売れる。山間部へ入れば塩や保存果実の需要が高まり、反対に農村では収穫期が近づくと鎌の替え刃や縄の方が喜ばれる。十五年間同じ地方を巡ってきたことで、決まった季節になると「そろそろセドリックが来る頃だ」と待っている村まであり、本人も、そうした顔馴染みの存在を商人としての財産だと思っていた。
だから、自分の暮らしに大きな不満があるわけではなかった。
荷馬車を引いて知らない土地へ向かうことが嫌になったわけでもなく、商売に飽きたわけでもない。冬の峠道で凍える夜や、荷が売れずに利益を落とす月があっても、それを含めて今の生活を自分で選んできたという自覚がある。
それでも近頃、朝になって荷馬車へ乗るたびに、ふと考えることがあった。
自分は次の町へ向かっているのか、それとも、一つの場所へ留まらないために移動し続けているだけなのか。
その違いを意識するようになったきっかけは、母親から渡された、売り物にもならない一袋の乾いた青麦だった。
◇
セドリックは、レーヴェンから北西へ馬車で三日ほど進んだ《ロアン村》で生まれた。
村の周囲には緩やかな丘が続き、そのほとんどが青麦畑として使われていた。青麦は普通の麦より乾燥に強く、多少痩せた土地でも育つ一方、実が硬く、粉へ挽いた時に独特の香ばしさが出るため、山間部へ運ぶ保存食や旅人向けの固焼きパンによく利用されている。
春の終わりから夏へかけて、畑は文字通り青みを帯びた穂で覆われる。
秋が近づくにつれて色は灰金色へ変わり、収穫後には短く切られた茎だけが地面へ残る。幼い頃のセドリックにとって、季節とは暦で数えるものではなく、青麦の色が変わることで知るものだった。
父のゲルトは青麦農家で、母のマルナは畑を手伝いながら村の共同窯にも出入りし、各家が持ち込んだ生地を焼いたり、保存用の固焼きパンを作ったりしていた。セドリックには三歳下の弟オルンがおり、兄弟は収穫後の畑を走り回り、脱穀前の麦束へ潜り込んでは父に見つかって叱られた。
当時のセドリックは、自分も当然この村で大人になると思っていた。
父から畑の一部を受け継ぎ、青麦を作り、近隣の村の娘と結婚するかもしれない。弟もどこか近くに家を構え、別々の畑を持ったとしても、収穫の時期になれば互いに手を貸す。
人生というものは、父や祖父が歩いてきた道の先へ、自分の分が自然に続いているのだと考えていた。
その考えが変わったのは、十七歳の冬だった。
父が肺を悪くし、長時間畑へ出られなくなったのである。
命を失うほどの病気ではなかったが、冷たい空気の中で働けば咳が続き、一日畑へ出た翌日は寝込むようになった。家の収入は大きく減り、十四歳だった弟だけで畑を支えることもできない。
母は共同窯で働く時間を増やしたが、それだけでは冬を越すための金が足りなかった。
そこでセドリックは、冬の間だけレーヴェンへ働きに出ることになった。
雪が解けるまで街で荷運びをし、春になったら戻って畑へ入る。
家族の誰もが、その程度に考えていた。
本人も同じだった。
◇
レーヴェンで最初に見つけた仕事は、商人の荷運びだった。
市場から倉庫へ塩袋を運び、朝には荷車へ布を積み、夕方には売れ残った品をまた下ろす。農作業とは使う筋肉が違い、最初の一週間は肩と腕が痛んだが、働いた分だけ日当が出ることは新鮮だった。
村では、一日の仕事量とその日の収入が直接つながるわけではない。
畑をどれだけ丁寧に手入れしても、雨が降らなければ収穫は減る。
反対に、条件さえよければ少ない手間で十分育つこともある。
商売の世界はそれとは違い、少なくとも目の前で物と金が動いていた。
塩が足りない町へ塩を運べば売れる。
布が余っている町へ布を持ち込めば売れない。
誰かが不足しているものを知り、そこへ運ぶことで金になる。
単純ではないにしても、農村の少年には分かりやすかった。
春が近づいた頃、雇い主の商人から声をかけられた。
「北の宿場まで荷を運ぶ。二週間だけ手伝わないか」
「村へ戻る予定があります」
「二週間後でも畑は逃げないだろ」
その時、セドリックは初めて予定を延ばした。
それが二週間で終われば、人生は大きく変わらなかったかもしれない。
ところが北の宿場へ行くと、別の商人から鉱山町まで荷を運ぶ仕事を紹介された。
そこでは、村でほとんど見たことのなかった鉄器が山のように積まれ、鉱夫たちが一晩で何十本もの固焼きパンを買っていく。
帰路では、逆に鉄の小道具をレーヴェンへ運んだ。
同じ道を戻っているのに、荷物が違えば見えるものも変わる。
青年だったセドリックには、そのすべてが面白かった。
知らない町へ着くたび、村では珍しい食べ物がある。
方言が違う。
値段が違う。
同じ青麦で作ったパンでさえ、ロアン村では日常食なのに、別の土地では「北西の保存パン」として高く売られている。
結局、その年の春にすぐ戻ることはなかった。
家へは手紙と金を送った。
夏前になって一度帰り、秋にはまた出た。
次の年も同じように街道を回った。
気づけば、冬だけの出稼ぎは旅商人への道へ変わっていた。
◇
二十歳になる頃には、自分で小さな荷車を借り、少量の商品を仕入れて売るようになった。
もちろん、最初からうまくいったわけではない。
安いからと塩を大量に買い込み、同じ時期に何人もの商人が同じ町へ塩を運んだせいで、利益をほとんど出せなかったことがある。南の村で高く売れると聞いた保存果実を積んだところ、途中の長雨で荷台へ水が入り、半分以上を腐らせたこともあった。
山村の女たちなら装飾布を欲しがるだろうと思い、鮮やかな色の布を仕入れた時には一枚も売れず、代わりに何の期待もせず積んでいた縫い針が一日でなくなった。
失敗するたびに、セドリックは覚えた。
欲しい物は、自分が想像するだけでは分からない。
土地へ行き、人へ聞き、去年売れたから今年も売れると思わない。
冬が長ければ灯油が減り、雨が多ければ防水用の油布が売れる。
村で結婚が続けば布が売れ、家畜病が出れば塩や薬草の方が先に動く。
商品だけでなく、その土地の暮らしそのものを見なければ、行商は続かない。
その考え方が身につくにつれて、商売は安定していった。
同時に、旅そのものが自分の暮らしになった。
朝になれば馬へ水を飲ませ、車輪を確認し、天気と道を見て出発する。昼には街道沿いでパンを齧り、日暮れまでに宿へ入れなければ荷馬車の近くで野宿する。
どの町の宿が安いか。
どの村なら納屋を借りられるか。
どの峠では春でも雪が残るか。
そうしたことが、畑仕事と同じくらい身体へ染みついていった。
◇
ロアン村へ帰らなくなったわけではない。
年に二度か三度、多い年なら四度帰った。
父の体調は完全には戻らなかったものの、無理をしなければ畑の軽い仕事はできるようになった。弟のオルンは成長し、やがて家の畑の大半を引き継いだ。
セドリックも帰れば収穫を手伝った。
街で知り合った商人へ青麦を紹介し、村の売り先を増やしたこともある。
そのため、家族との関係が悪くなったことは一度もなかった。
母は帰るたびに食事を作ってくれた。
父は街道の様子を聞いた。
弟とは、子どもの頃と同じように酒を飲みながらくだらない話をした。
自分の寝台も家へ残っていた。
ところが、二十代の半ばを過ぎた頃から、村へ三日以上いると妙に身体が落ち着かなくなった。
朝になる。
弟は畑へ出る。
母は共同窯へ行く。
父は倉庫や家の修理をする。
誰もセドリックを邪魔者扱いしているわけではない。
手伝おうと思えば、仕事はいくらでもある。
それでも、畑仕事の段取りはすでに弟が決めており、家の修繕も父と弟で話がついている。
自分がいなくても、家は普通に回る。
当然のことだった。
十年以上離れて暮らしてきたのだから、自分がいなくても困らない形になっていなければおかしい。
しかし、それを目の前で感じると、どこに手を置けばよいのか分からなくなる。
三日目には次の町の相場を考え始め、四日目には荷物の確認をし、五日目になると予定より早く出発したくなった。
その度に、自分はもうこの家の人間ではないのかもしれないと思った。
ところが、何か月も帰らずにいると、今度はロアン村のことが気になった。
父の体調。
母の腰。
弟の畑。
今年の青麦の出来。
共同窯はまだ同じ人間が使っているのか。
帰れば落ち着かないのに、離れれば気になる。
旅をやめたいわけではないのに、帰らなくてよいとも思えない。
その矛盾を、セドリックは長い間、深く考えないようにしてきた。
◇
その年の初冬、セドリックは久しぶりにロアン村へ十日近く滞在することになった。
本来の予定では、北から運んできた羊毛を渡し、青麦を少し仕入れ、三日ほどで南へ向かうはずだった。
ところが到着した翌日の夜から早い雪が降り始め、峠道が一時的に閉じた。
最初の二日は、弟の家の屋根を直すのを手伝った。
三日目には倉庫の青麦を袋へ詰め直し、四日目には共同窯へ油を運んだ。
それなりにすることはあった。
しかし五日目になると、急ぎの用事はほとんどなくなった。
朝食後、セドリックは何となく立ち上がった。
「どこ行くの」
母に聞かれる。
「外」
「何しに?」
「何かあるだろ」
「今日は雪掻きも終わってるよ」
「倉庫見る」
「昨日見たでしょう」
「馬」
「オルンがもう水やった」
セドリックは座り直した。
母は呆れたように笑った。
「たまには何もしないでいればいいでしょう」
「何もしないって、何するんだ」
「だから何もしないの」
「難しいこと言うな」
「旅ばっかりしてるから、そうなるんだよ」
その日の昼、弟にも似たことを言われた。
「兄貴、三日いるとそわそわするからな」
「荷があるから気になるだけだ」
「荷車は倉庫に入ってるし、道は閉じてる」
「開いた時にすぐ動けるようにだな」
「昨日も車輪見てただろ」
「確認は必要だ」
「一日に三回も?」
弟は笑った。
セドリックも自分でおかしくなった。
仕事が好きなのは確かだ。
しかし、仕事がない時にどう過ごせばいいか分からないほど、移動する生活へ慣れていたらしい。
◇
六日目には雪が弱まり、村の中なら歩けるようになった。
セドリックは一人で畑の端まで行った。
収穫を終えた青麦畑には短い茎だけが残り、その上へ薄く雪が積もっている。
子どもの頃なら、この景色を見ると冬が来たと思った。
父が畑へ出る時間が減り、母が共同窯で保存パンを焼き始め、夜になると家の中で籠や縄を直す季節。
今のセドリックは、雪の厚さと空の色を見て、峠道があと二日程度で開くかもしれないと考えた。
自分でも、その違いに気づいた。
「もう旅商人の頭なんだな」
誰もいない畑で呟いた。
嫌ではなかった。
ただ、昔の自分が消えたようにも感じた。
その夜、夕食の後に母が言った。
「春になったら、また来るの?」
「道次第だな」
「いつもそれだね」
「商売だから仕方ない」
「別に日にちまで決めろとは言ってないよ」
「じゃあ何だ」
「来たいなら来ればいいって言ってるだけ」
セドリックは少し眉を寄せた。
「帰ってこいって意味じゃないのか」
「住めってこと?」
「ああ」
「そんなこと言ってないよ」
「昔は畑継げって言ってただろ」
「十何年前の話してるの」
母は笑った。
「オルンが畑やってるし、あんたは今の仕事があるんでしょう。今さら全部やめて戻ってこられても、それはそれで困るよ」
「困るのか」
「そりゃ困るよ。畑半分返せとか言われたら、オルンが困る」
少し離れたところにいた弟が笑った。
「俺は困るぞ」
「言わねえよ」
「ならいい」
あまりにも普通に言われ、セドリックは拍子抜けした。
◇
自分の中では、故郷へ帰ることと、故郷へ戻って暮らすことが、いつの間にか同じ意味になっていた。
だから村へ来るたび、ここで生活する自分を想像し、それが今の自分には合わないと感じるたびに、「もうここは帰る場所ではない」と考えていた。
母は、そもそもそんな選択を迫っていなかった。
「帰ってこいとは言ってないよ」
出発前日にも、母は似た言葉を繰り返した。
「来たくなったら来ればいいって言ってるだけ」
その時、母は荷台へ小さな麻袋を積んだ。
「何だ、これ」
「青麦」
「売り物ならもう積んでる」
「売り物じゃない。去年の残り」
「古いのか?」
「乾きすぎて、粉にすると少しぱさつくんだよ。共同窯じゃ使いにくいから、家で食べる分へ回してた」
袋を開けると、よく乾燥した青麦が入っていた。
粒は小さく硬く、表面には青麦特有の灰青色が残っている。
「こんなの持たせてどうするんだ」
「昔、あんた煎った青麦が好きだったでしょう」
「子どもの頃の話だろ」
「旅先で食べればいい」
「これだけ乾いてたら、歯が折れるぞ」
「煮ればいい」
「簡単に言うな」
「料理くらい覚えなさい」
母は当然のように言った。
セドリックは断らず、荷台の端へ袋を置いた。
翌朝には峠道が開いたという知らせが届き、予定より七日遅れて村を出た。
父は玄関前まで出てきた。
弟は馬の蹄を確認してくれた。
母は、いつものように荷物の隙間へ保存パンを押し込んだ。
「春までには一回くらい顔見せな」
「道次第だ」
「本当にそれしか言わないね」
「商人だからな」
そう答えて出発したが、母から言われた「帰ってこいとは言っていない」という言葉と、「来たくなったら来ればいい」という言葉だけは、何日経っても妙に残った。
◇
数日後、セドリックはレーヴェンへ入った。
街へ着けば考えることはいくらでもある。
北市場へ行って山村から運んできた乾燥茸と羊毛を卸し、鍛冶屋から注文されていた小型工具を受け取る。翌週南へ運ぶ油と針を仕入れ、布商人へ次の季節の値段を聞き、馬具屋では傷んだ革紐を一本交換した。
動いている間は、自分が何に迷っていたのか忘れられる。
夕方、いつも使っている商人宿へ入り、荷物を整理している時だった。
荷台の隅から、母に押し込まれた青麦の袋が出てきた。
「そういや、あったな」
売り物にはならない。
そのまま次の町へ持っていってもよい。
捨てる理由もない。
袋を開き、硬い粒を指でつまんでいると、子どもの頃の記憶が戻った。
収穫後、乾いた青麦を母が鉄鍋で少しだけ煎ってくれたことがある。
香りが立つまで鍋を揺らし、熱いうちに木皿へ移す。
父からは、食べすぎれば腹を壊すから少しにしろと言われていた。
それでも弟と二人で、熱い粒を指先で転がしながら何度も食べた。
かなり硬い。
それでも噛むと甘味があり、独特の香ばしさがあった。
久しぶりに、あの匂いを嗅ぎたいと思った。
しかし宿の厨房を借り、何時間も青麦を煮るほどの気力はない。
そこで、以前別の商人から聞いた《持ち込み食堂》を思い出した。
客が食材を持っていけば、それを見て料理してくれる店だという。
青麦自体は珍しい食材ではないが、これほど乾いたものなら、何か使い方を考えてもらえるかもしれない。
◇
《持ち込み食堂》へ入ると、店内は夕食時より少し早いせいか、まだ静かだった。
「いらっしゃいませ」
ミレイアが迎える。
「持ち込みって、普通の麦でもいいのか?」
「食べられるものなら大丈夫ですよ。見てもいいですか?」
セドリックは麻袋を開いた。
「青麦だ」
「かなり硬そうですね」
「去年のやつで、乾きすぎてるらしい」
悠斗も厨房から出てきた。
「少し見ますね」
「頼む」
悠斗は粒を手に取り、指で押して硬さを確かめ、匂いも嗅いだ。
「古いのは古いですけど、嫌な匂いはないですね。虫も見えない」
「保存は村の乾燥倉庫だ」
「なら使えそうです。ただ、そのまま炊くとかなり時間がかかりそうですね」
「だろうな」
「普段はどう食べます?」
「粉にしてパンか、粥だ。俺は子どもの頃、煎ったやつをそのまま食ってた」
「美味しかったですか?」
ミレイアが尋ねる。
「その頃はな」
「今なら?」
「歯が先に負ける」
ミレイアが笑った。
セドリックも少しだけ笑い、袋を悠斗へ渡した。
◇
「じゃあ、今日は柔らかくしましょう」
悠斗は青麦を軽く洗い、水へ浸した。
「かなり時間かかりますけど、大丈夫です?」
「今日は宿へ戻るだけだ。急いでない」
「なら、少し水を吸わせてから煎ります」
「濡らしてから煎るのか?」
「表面の水気は切ります。中へ少し水を入れてから煎った方が、完全に乾いたままより後で火が入りやすいと思うので」
セドリックはカウンターへ座った。
しばらくして、悠斗が水気を切った青麦を厚い鍋へ入れ、焦がさないようゆっくり温め始めた。
最初はほとんど匂いがしない。
やがて粒の表面が乾き、鍋の中で小さな音を立てるようになると、少しずつ香ばしい匂いが立った。
セドリックの姿勢がわずかに変わった。
「これだ」
「昔の匂いですか?」
「ああ」
記憶というものは、思い出そうとしても出てこないのに、匂い一つで勝手に戻ることがあるらしい。
共同窯の近くにある土間。
冬へ入る前の冷たい空気。
母が鉄鍋を振る音。
弟が熱い青麦を勝手につまみ、指を火傷しそうになって怒られたこと。
父が奥で縄を編みながら、二人とも食べすぎるなと言っていた声まで、思っていた以上にはっきり浮かんだ。
どれも忘れたつもりはなかった。
ただ、十五年間の旅の中で、日常的に思い出す必要がなくなっていただけだった。
「故郷の食べ物なんですね」
ミレイアが尋ねる。
「ああ」
「今もそこに住んでるんですか?」
「いや」
「じゃあどこに住んでるんです?」
セドリックは答えようとして、少し止まった。
「……旅してる」
「宿とか?」
「宿か、荷馬車の横か、その時による」
「家は?」
「家なら村にある」
「じゃあそこが家?」
「そう言われると、何か違う」
自分で答えながら、不機嫌な声になったことが分かった。
◇
ミレイアは気にした様子もなく、水の入った器を置いた。
「帰るところって意味なら、村なんですか?」
「まあな」
「帰る?」
「年に何度かは」
「じゃあ帰る場所なんですね」
「だから、そう簡単じゃない」
セドリックは少し苛立ち、水を飲んだ。
他人に説明できないことを、自分でも分かっていないのだから仕方がない。
「長く村にいると出たくなるんだ」
しばらくして、自分から話した。
「今の仕事も好きだ。畑へ戻るつもりもない。弟が家を継いでるし、俺が戻ってもすることがない」
「それなら旅を続ければいいんじゃないですか?」
「俺もそう思ってる」
「じゃあ、困ってない?」
「……そう言われると困ってないんだよな」
それでも何かが引っかかる。
自分でも曖昧だった。
悠斗は青麦を煎り終えると、鍋へ多めの水を入れ、弱い火へ移した。
◇
「この青麦、捨てなかったんですね」
悠斗が言う。
「母親が持たせたものを道端に捨てるほど薄情じゃない」
「売れないし、料理するのも面倒なのに?」
「荷物の邪魔になるほどじゃない」
「じゃあ、持ってればいい?」
「ああ」
「何か、村みたいですね」
セドリックが眉を寄せた。
「どういう意味だ」
「旅を続けるならなくても困らないけど、なくすほどでもない」
「村を荷物扱いするな」
「すみません」
悠斗は笑わなかった。
セドリックも本気で怒っているわけではなかった。
むしろ、少しだけ刺さった。
村がなくても旅はできる。
家族と縁を切っているわけでもない。
帰る必要が絶対にあるわけでもない。
それでも、なくなることを想像すると嫌だった。
自分の中で、故郷とはそういう場所になっていたのかもしれない。
◇
青麦がゆっくり水を吸っている間、悠斗は根玉葱を細かく切り、少量の燻製肉を刻んだ。
別の鍋で燻製肉から脂を出し、そこへ根玉葱を入れる。
香ばしい青麦の匂いへ、肉の煙っぽい香りと根玉葱の甘い匂いが重なる。
「何を作るんだ?」
「青麦の煮込みです。麦が柔らかくなったら、こっちと合わせます」
「粥か?」
「粥よりは粒を残すつもりです」
「旅の途中で作るには面倒だな」
「だから普段は作らない?」
「これだけ時間かかるならな」
「故郷の料理って、旅先で再現しにくいものもありますよね」
「青麦の料理が全部こうじゃない。粉ならパンにできる」
「でも今持ってるのは、粉にならないくらい乾いた青麦」
「そうだ」
セドリックは鍋を見た。
売り物にならない。
粉にも向かない。
旅では使いにくい。
それでも母は、自分が昔好きだったという理由だけで持たせた。
「母親ってのは、面倒なもん持たせるな」
「嫌ですか?」
「嫌なら置いてきた」
答えた後、自分で笑った。
結局、そういうことなのだろう。
◇
麦が少し柔らかくなるまでには時間があった。
ミレイアは別の客へ飲み物を出し、悠斗も時折鍋を確認しながら他の仕込みをしている。
セドリックは急かされないことが、かえって落ち着かなかった。
普段なら食事は早い。
行商中は、次の町へ着く時間を考えて食べる。
宿へ泊まる日でさえ、翌日の積み込みや道を確認しながら食べることが多い。
今日のように、一つの鍋が出来上がるのを待つだけの時間は珍しかった。
「旅って、ずっと忙しいんですか?」
戻ってきたミレイアが尋ねる。
「時期による」
「休む日は?」
「荷が売れない時」
「それ休みなんですか?」
「商売してないなら休みだろ」
「気持ちは?」
「次どこで売るか考える」
「じゃあ休んでないですね」
「商人はそういうもんだ」
言ってから、母にも「何もしないのができない」と言われたことを思い出した。
「村にいる時も?」
「……同じこと言われた」
「誰に?」
「母親」
「じゃあお母さん正しい?」
「認めたくないな」
セドリックは苦笑した。
◇
「俺は、村へ戻りたいわけじゃない」
少しして、自分から話し始めた。
「はい」
「畑を継げと言われても困る。今は弟がやってるし、商売も好きだ。俺は旅してる方が性に合ってる」
「なら旅を続ける」
「ああ」
「でも村にも行きたい?」
「しばらく行ってないと、気にはなる」
「それが変なんですか?」
「どっちが本当なのか分からなくなる」
「どっちも本当じゃ駄目?」
ミレイアの返答に、セドリックは顔を上げた。
「人間は一つの場所に住むだろ」
「セドリックさん、今一つの場所に住んでないですよね」
「……まあな」
「なら、帰る場所まで一つの意味に決めなくてもいいんじゃないですか」
「帰るなら住む場所じゃないのか」
「旅行に行った人が家へ帰ったら住むでしょうけど、親の家に帰るって言う人もいますよ」
「親の家なら、自分の家じゃないだろ」
「でも帰るって言うんじゃないですか?」
セドリックは返事をしなかった。
◇
悠斗が、柔らかくなり始めた青麦を一粒味見した。
「もう少しですね」
「ずいぶんかかるな」
「乾ききってるので。ただ、芯まで水が入ってきてます」
悠斗は鍋へ少し水を足しながら言った。
「旅の途中で泊まるところと、帰った時に迎えてくれるところって、同じじゃなくてもいいと思います」
「お前はどうなんだ」
セドリックは何となく尋ねた。
悠斗の手が、ごくわずかに止まった。
「俺は……自分のことだと、まだうまく整理できてないです」
「そうか」
「でも、帰れる場所があるからって、そこへ住まなきゃいけないとは思いません」
「帰って、また出るのか」
「それでも帰ったことにはなるでしょう」
その言葉は、セドリックが長い間持っていた考えを、思っていたより簡単に崩した。
自分の中では、故郷とは最終的に戻る場所だった。
旅を終えた時に帰る場所。
だから旅を終えるつもりがない自分は、故郷へ本当には帰れないと思っていた。
年に何度村へ顔を出しても、それは訪問であり、帰郷という言葉をどこか大げさに感じていた。
しかし母は、自分へ住めとは言っていない。
弟も畑を返せとは言わない。
家の寝台は残っている。
三日いて、また出てもよい。
帰るとは、そこで止まることではないのかもしれない。
◇
「でも、それじゃ中途半端じゃないか」
セドリックは言った。
「何がです?」
「村の人間でもない。町の人間でもない。どこに住んでるか聞かれても、旅してるとしか答えられない」
「行商人なんですよね」
「そうだ」
「じゃあ、それでいいんじゃないですか?」
「肩書きの話じゃない」
「じゃあ、どこに所属してるか?」
「たぶんな」
ミレイアが少し考えた。
「知ってる村いっぱいあるんですよね?」
「ああ」
「待ってる人もいる?」
「商売だからな」
「でも顔を覚えられてる」
「まあ」
「故郷にも家族がいる」
「ああ」
「それでも、どこにもいない感じがする?」
その言い方が、一番近かった。
「そうかもしれん」
セドリックはゆっくり答えた。
◇
長く旅をすれば、知り合いは増える。
鉱山町ではいつも同じ宿の主人が部屋を空けてくれる。
南の村では縫い針を待つ老婆がいる。
ある宿場では、セドリックが着くと馭者たちが酒へ誘う。
それぞれの場所へ少しずつ知り合いがいて、そのどこにも完全には属していない。
以前は、それを自由だと思っていた。
今も自由だと思う。
ただ、年齢を重ねるにつれて、その自由の裏側にある「自分がいなくてもどの場所も普通に続く」という事実が、以前よりはっきり見えるようになった。
ロアン村も同じだ。
自分がいなくても畑は育つ。
弟の子どもたちは、自分が毎日いなくても大きくなる。
母は共同窯へ行き、父は家で暮らす。
当然のことなのに、それが自分の居場所を少し薄くするように感じることがあった。
「いなくても回る場所には、帰れないのか?」
セドリックが言う。
悠斗は少し考えてから答えた。
「俺、この店が一日休んでも街は普通に回りますよ」
「そりゃそうだ」
「でも、だから店が俺の場所じゃないってことにはならないと思います」
セドリックは黙った。
「必要とされないと、居場所じゃないですか?」
その問いには、すぐ答えられなかった。
◇
必要とされることは、分かりやすい。
荷物を運べば金を払われる。
商品を待っている人がいる。
商人として、自分が来る理由がある。
故郷では、そうではない。
自分がいなくても困らない。
手伝えば助かる。
帰れば喜ばれる。
けれど、生活が成り立たなくなるほど必要とされているわけではない。
だからこそ、自分はそこへ何のために帰るのか分からなくなっていた。
母が言った「来たくなったら来ればいい」という言葉を思い出す。
何かをするためではなく、来たいから来る。
セドリックは、そんな理由で移動することに慣れていなかった。
商人の旅には、いつも目的がある。
売る。
買う。
届ける。
仕入れる。
道を変える時にも、金や時間の理由がある。
理由もなく帰るということだけが、自分には難しかった。
◇
「できました」
悠斗の声で、考えから戻った。
器へ盛られたのは、《青麦と燻製肉のとろ煮込み》だった。
長く煮た青麦は完全に形を失わず、粒の輪郭を残しながらも、匙で簡単に潰せるほど柔らかくなっている。燻製肉から出た塩気と根玉葱の甘味が麦へ染み込み、最後に少量の乳を加えたことで、全体には穏やかなまろやかさがあった。
表面には刻んだ香草が少しだけ散らされている。
「ずいぶん立派になったな」
セドリックが言う。
「元は乾いた麦ですけど」
「家じゃこんなもの作らなかった」
「まず食べてみてください」
匙ですくい、口へ運ぶ。
最初に燻製肉の塩気が来る。
その後から、柔らかくなった青麦の香ばしさと、根玉葱の甘さが広がった。
しばらく煮たことで、麦の硬さはほとんどない。
それでも噛むと、粒の中心にわずかな弾力が残っている。
「柔らかいな」
「かなり煮ましたから」
「でも麦の味は残ってる」
「最初に煎ったので、香りも少し残ったと思います」
セドリックはもう一口食べた。
子どもの頃に食べた煎り麦とは違う。
母の料理でもない。
旅先で食べてきた麦粥とも違う。
それでも、青麦の香りだけは確かにロアン村のものだった。
◇
「懐かしいですか?」
ミレイアが尋ねる。
「ああ」
「帰りたい?」
今度は、以前より考えずに答えられた。
「今すぐはいい」
「じゃあいつ?」
「春には行く」
「住む?」
「住まない」
「それでいいんじゃないですか」
「簡単にまとめるな」
「でも、今言えたでしょう」
セドリックは匙を止めた。
確かに、言えた。
春には行く。
住まない。
二つを続けて言っても、矛盾しているようには感じなかった。
今までは、どちらか一つへ決めなければならないと思っていた。
旅を続けるなら、故郷は過去にする。
故郷へ帰るなら、いつか旅を終える。
その二択そのものが、自分で作ったものだった。
春に三日だけ帰り、その後また旅へ出てもよい。
夏に一週間いてもよい。
何年か後に事情が変われば、もっと長く住むこともあるかもしれない。
今、そこまで決める必要はない。
◇
「残った青麦、全部使います?」
食べ終わりかけた頃、悠斗が尋ねた。
「いや、半分残してくれ」
「旅の途中で煮るんですか?」
「たぶん煮ない」
「じゃあどうするんです?」
「次に村へ行った時、母親に作り方を教える」
「この料理を?」
「ああ。ただ、あの人なら勝手に変えるだろうけどな」
「何を入れそう?」
「豆」
「合いそうですね」
「乳も増やす」
「それもありそう」
「肉も別のもの使うかもしれん」
母が作れば、きっと持ち込み食堂で食べたものと同じにはならない。
それでよかった。
故郷の味は、一字一句変わらないものだけではない。
自分が十五年前と同じ青年ではないのだから、家や村の方だけを昔のままにしておく必要もなかった。
セドリックは代金を払い、残った青麦を袋へ戻した。
店を出る時、ミレイアが声をかけた。
「春に帰ったら、何するんです?」
セドリックは足を止めた。
「分からん」
「また仕事?」
「今回は……何もしない日を一日くらい作る」
「できそう?」
「たぶん無理だ」
「じゃあ練習ですね」
セドリックは笑いながら店を出た。
◇
それからも、旅の道順そのものを大きく変えたわけではなかった。
レーヴェンを出た翌朝には南西街道へ入り、二つの町と三つの村を回った。冬の終わりには鉱山町へ工具を運び、帰りには石炭を少量積んだ。
年が明ける頃には南から来た布地を北へ流し、春先に必要になる農具の注文も取り始めた。
以前と同じ生活だった。
朝になれば荷馬車を確認し、宿を出る。
日中は売り買いをし、夕方には次の道を決める。
その中で、一つだけ変えた。
旅程帳の春の欄へ、ロアン村で三日間休む予定を書き込んだのである。
これまでロアン村へ行く予定を書く時には、「青麦仕入れ」「家族訪問」「倉庫確認」「共同窯へ油納品」など、必ず何らかの用事を書いていた。
今回は、最初に「三日滞在」と書いた。
その下へ仕事の予定は入れなかった。
荷を仕入れるかどうかは、行ってから決める。
畑を手伝う必要があれば手伝う。
何もなければ何もしない。
帳面を見た知り合いの行商人が、不思議そうな顔をした。
「お前、春に三日も空けるのか?」
「ああ」
「何かある?」
「故郷へ行く」
「青麦仕入れ?」
「今回は決めてない」
「誰か病気?」
「違う」
「じゃあ何しに?」
少し前のセドリックなら、何か理由を探しただろう。
今は、その必要を感じなかった。
「帰るだけだ」
そう答えると、思っていたより言葉は軽かった。
◇
春になり、街道沿いの雪が消え始めた頃、セドリックは予定通りロアン村へ向かった。
荷馬車には商売用の商品も積んでいたが、村へ売る予定のものはほとんどない。
途中の宿場で知り合いの商人に会い、どこへ行くのか尋ねられた時も、「ロアン村へ帰る」と自然に答えられた。
村の入口が見えたのは昼過ぎだった。
冬には雪で白かった畑から、新しい青麦の芽が少しずつ伸びている。
その風景を見た時、以前のように「ここへ戻って暮らせるか」とは考えなかった。
ただ、春になったのだと思った。
家へ着くと、母が玄関先へ出てきた。
「早かったね」
「予定通りだ」
「青麦買いに?」
「今回は買わない」
「じゃあ何しに来たの」
以前と同じ問いだった。
セドリックは荷台から小さな荷物を下ろしながら答えた。
「帰ってきた」
母が一瞬だけこちらを見た。
感動して抱きつくような人間ではない。
「そう。じゃあ荷物置いたら、裏の薪運んで」
「帰った人間へすぐ仕事させるのか」
「何もしないの苦手なんでしょう」
「一日は何もしないつもりだった」
「初日から無理そうだね」
母は笑った。
◇
弟のオルンも畑から戻ってきた。
「兄貴、今回は何日?」
「三日」
「短いな」
「俺には長い」
「じゃあ二日目にはそわそわするな」
「今回は休むって決めてる」
「何もしない?」
「一日くらい」
オルンは驚いた顔をした。
「熱あるのか?」
「お前までそれか」
二人で笑った。
夕方になると父も家の外へ出てきた。
「街道どうだった」
「南側はもう問題ない。北の峠は朝だけ凍る」
「今年は青麦の芽が早い」
「見た」
「北の商人、今年も買うか?」
「たぶんな。値段は去年より少し下がる」
結局、普通に仕事の話もした。
ただ、それをしに帰ったわけではない。
だから話が終わっても、次の用事を探す必要がなかった。
夕食まで少し時間が余った。
セドリックは家の前へ椅子を出し、何となく畑を見た。
最初の十分ほどは落ち着かなかった。
そのうち弟の子どもが寄ってきて、街の話をせがんだ。
結局、何もしない時間も、完全に何も起きないわけではなかった。
◇
その日の夕食前、セドリックは持ち帰った青麦を出した。
「これ、前にもらったやつ」
母が袋を見て呆れた。
「まだ残してたの?」
「半分は食った」
「どうやって」
「レーヴェンで料理してもらった。今日は同じようなの作る」
「料理できるの?」
「鍋に入れて煮るくらいできる」
「それを料理できるって言う人は信用できないね」
「うるさい」
結局、母と二人で台所へ立つことになった。
青麦を洗う。
少し水を吸わせる。
水気を切り、鍋で軽く煎る。
香ばしい匂いが立つと、母が言った。
「昔、これ好きだったね」
「覚えてたのか」
「親は覚えてるもんだよ」
「俺は忘れてた」
「今思い出したなら同じでしょう」
青麦へ水を入れ、弱い火へかける。
「根玉葱と燻製肉を合わせる」
「豆は?」
「店では入ってなかった」
「でもあるよ」
「やっぱり入れるのか」
「あるなら入れればいいでしょう」
「別の料理になるぞ」
「家で食べるんだから、誰に怒られるの」
セドリックは笑い、止めなかった。
◇
母は予想通り豆を入れた。
燻製肉は少なかったため、家にあった塩漬け肉も足した。
乳も、悠斗が使った量より多い。
セドリックが「入れすぎじゃないか」と言うと、母は「寒い日はこれくらいでいい」と勝手に決めた。
完成したものは、《持ち込み食堂》で食べた青麦の煮込みとは明らかに違った。
豆が多い。
乳も強い。
肉も違う。
しかし、煎った青麦の香りだけは同じだった。
弟は一杯食べた後、すぐに二杯目をよそった。
「これ、冬にいいな」
「乾きすぎた青麦なら余る年もあるしね」
母が言う。
「共同窯でも大鍋で作れるかも」
「売るのか?」
「売るんじゃなくて、作業の日に食べればいい」
「父さんは?」
「悪くない」
父も普通に食べていた。
セドリックは、自分が持ち帰った料理が、すでに家の中で別の形へ変わり、そのまま村の日常へ入りそうになっているのを見ていた。
それでいいと思った。
◇
二日目の朝、セドリックは本当に仕事を入れなかった。
弟が畑へ行く時もついていかなかった。
母に共同窯へ行くかと聞かれても断った。
「じゃあ何するの」
「何もしない」
「昨日までできないって言ってたのに」
「練習だ」
母は笑いながら出ていった。
一人になった。
最初は家の中をうろついた。
壊れた棚がないか見る。
荷馬車の方へ行きかける。
途中で止まる。
「休むって難しいな」
結局、村の外れまで歩くことにした。
仕事ではない。
荷も持たない。
売るものもない。
ただ歩く。
昔遊んだ水路の近くまで行くと、子どもが三人遊んでいた。
自分の知らない家の子もいる。
反対に、昔あった納屋がなくなっている。
村は、自分が離れている間にも変わっていた。
それでも、道の曲がり方や畑の匂いは変わらない。
自分がいなくても続いていた場所へ、また自分が戻ってきている。
それを以前ほど寂しいと思わなかった。
◇
昼過ぎには、昔から知っている老人に呼び止められた。
「セドリック、今日は商売しないのか」
「休みだ」
「珍しいな」
「そんなにか」
「お前が村へいる時、いつも荷か畑見てるからな」
「今日は何もしない」
「なら手伝ってくれ」
「何もしないって言ってるだろ」
老人は笑った。
結局、壊れた柵を少し支えるのを手伝った。
完全に何もしない日は失敗した。
ただ、以前のように「せっかく村へいるなら何か役に立たなければ」とは思わなかった。
頼まれたから手伝った。
終わったらまた座った。
それでよかった。
◇
三日目の朝、予定通り荷馬車を出す準備をした。
以前なら、村へ長くいた後の出発には少し後ろめたさがあった。
また置いていくような気持ちになる。
同時に、やっと出られるという安堵もあり、その二つが混ざることが嫌だった。
今日は少し違った。
出ることは決めている。
商売を続けたい。
次の町へ行きたい。
それでも、ここへ帰ってきたことまで否定する必要はない。
母は保存パンを荷台へ入れた。
「次はいつ?」
セドリックは少し考えた。
以前なら「道次第」とだけ答えただろう。
実際、道と商売次第で予定は変わる。
だから絶対の日を約束する気はない。
「夏の終わり頃には来る」
「分かった」
「遅れたら秋になる」
「それでもいいよ」
「畑の収穫前なら、少し手伝う」
「仕事しに来るの?」
「帰ったついでだ」
母は笑った。
「それならいい」
◇
弟も荷馬車の横へ来た。
「今度は三日より長くいる?」
「分からん」
「また道次第?」
「いや、俺次第だ」
言ってから、自分でも少し驚いた。
道だけが決めるわけではない。
商売だけが決めるわけでもない。
自分が帰りたいと思えば、多少予定を組み替えて帰ってもよい。
その程度の自由は、旅商人としての自分にもある。
「何だそれ」
弟が笑う。
「別に」
「また青麦の料理作る?」
「母さんが勝手に作るだろ」
「もう共同窯で話してたぞ」
「早すぎる」
「明日試すらしい」
セドリックは呆れながら笑った。
◇
荷馬車を出し、村の道を抜ける。
春の青麦畑が、両側へ広がっていた。
遠ざかる家を見ても、以前のように「ここへ戻って暮らすべきなのか」とは考えなかった。
自分は旅商人である。
これからも町から町へ移動し、必要なものを運び、季節ごとに違う土地で眠る。
その生活が好きで、今のところやめるつもりはない。
同時に、ロアン村は帰る場所であり続ける。
そこへ住んでいなくてもよい。
家族から必要とされる仕事がなくてもよい。
何かの用事を作らなくても帰ってよい。
数日過ごし、また出てもよい。
旅を終える場所でなければ、帰る場所と呼べないわけではなかった。
セドリックは村を出てしばらくしたところで荷馬車を止め、旅程帳を開いた。
夏の終わりの欄へ、まだ何も決まっていないロアン村の予定を書き込む。
今度は「青麦仕入れ」とも「家族訪問」とも書かなかった。
ただ《ロアン村 帰る》とだけ記し、その横へ商売の予定を空けておいた。
用事ができれば、その時に書けばよい。
帰る理由まで先に用意する必要はない。
帳面を閉じると、セドリックは再び馬を歩かせた。荷台には南へ運ぶ商品が積まれ、前には次の宿場へ続く街道が伸びている一方で、背後には夏になればまた帰ると自分で決めた村がある。その両方を持ったまま旅を続けられることが分かった今、彼はどこにも帰らないために進むのではなく、帰る日も含めて自分の道を選ぶ旅商人として、次の町へ向かって荷馬車を進めていった。
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