↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
異世界持ち込み食堂~あなたの食材を料理します~  作者: シロの空


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

61/100

第61話 煮崩れた銀葉芋と、家の味を変えられない宿屋の娘

 リディア・セルンは二十九歳になる人間の女性であり、レーヴェン南門から街道を半日ほど進んだ宿場町フェルトで、家族が営む宿屋《渡り鹿亭》の厨房を任されていた。赤みのある焦げ茶色の髪を肩につかない長さで切り揃え、調理中には邪魔にならないよう布で後ろへまとめており、そばかすの残る頬と濃褐色の目には、客の皿が空になっていないか、鍋の火が強すぎないか、次に出す料理が遅れていないかを絶えず確かめる料理人らしい忙しなさが染みついていた。


 宿屋の娘として育ったため、客室の準備や帳場、馬車で着いた旅人の荷物預かり、夜中に到着した客の案内まで一通りこなせるものの、本人が最も好きなのは厨房だった。夜明け前に出発する馭者へ出す温かい粥から、昼に立ち寄る荷運び人向けの肉煮込み、夜になって酒と一緒に注文される焼きものまで、渡り鹿亭で必要になる料理のほとんどを作ることができ、その腕前も宿場町の料理人として十分に認められている。


 料理を褒められることは多く、それ自体は今でも嬉しい。ただ、ここ数年のリディアには、ある言葉を客から向けられるたび、素直に笑顔だけでは受け取れない小さな引っかかりが残るようになっていた。


「昔から変わらない味だ」


 渡り鹿亭にとって、それは何より価値のある褒め言葉の一つであると同時に、リディアにとっては喜び方が少しずつ分からなくなってきた言葉でもあった。


 渡り鹿亭で最も人気のある料理は、祖母の代から作り続けられてきた《銀葉芋と角鳥肉の白煮込み》であり、冬が近づけば、それを目当てにわざわざ宿へ立ち寄る常連さえいる。リディア自身もその料理を大切にしており、なくしたいと思ったことは一度もなかったが、八年間にわたって同じ料理を繰り返し作り続けるうちに、自分はいつまで祖母の料理を守るだけの料理人でいるのだろうという思いも、次第に消せなくなっていた。


 祖母の味は残したい。それでも、自分の料理も作ってみたい。その二つが本当に両立しないのかどうかすら確かめないまま、リディアは長い間、自分の方から答えを決めつけていたのである。


          ◇


 《渡り鹿亭》は、宿場町フェルトの中でも特別大きな宿ではなかった。二階には客室が七つあり、一階には食堂と厨房、それに馬具や旅道具を一時的に置くための小さな物置があり、裏手には馬を短時間つないでおける屋根付きの場所も設けられているものの、大きな商隊をまとめて受け入れられるほどの広さはないため、裕福な商人や貴族の一行なら町の中央にあるもっと立派な宿を選ぶことも多かった。


 それでも渡り鹿亭には、馭者や小商人、巡回兵、少人数で旅をする冒険者がよく泊まった。設備が豪華ではなくても湯が使え、寝台の藁は定期的に替えられ、夜中に騒ぐ客がいれば主人がきちんと対応してくれるうえ、何より食事に大きな外れがないことを、長い街道を行き来する者たちはよく知っていたからである。


 中でも《銀葉芋と角鳥肉の白煮込み》は、渡り鹿亭を知る者なら一度は食べたことがあるほどの定番料理だった。


 銀葉芋は、葉の裏側が銀色に光る根菜であり、地下にできる芋は大人の拳より一回り大きい。火を通せばほのかな甘味と滑らかな舌触りが出る一方、長く煮すぎると急に形を失うため、柔らかさを出しながら姿を残すには、芋そのものの状態を見ながら火加減と時間を見極める必要がある。


 渡り鹿亭では、その銀葉芋を角鳥の腿肉、根玉葱、乳、少量の香草と一緒に煮込む。材料だけを見れば、街道沿いで手に入らないような珍しいものは一つも使っていないが、元の作り方を考えたリディアの祖母エルナは、宿屋の料理として出すために何度も調整を重ねていた。


 旅人は、家庭で毎日同じ時間に食事をする者とは事情が違う。昼を抜いたまま夕方へ宿へ入る者もいれば、朝から固い保存パンしか口にしていない者もおり、反対に長時間馬車へ揺られて胃が重く、脂の多い料理を受けつけない者もいる。


 そこでエルナは、腹持ちがよく、それでいて重すぎず、冬の街道を渡ってきた身体を温められる料理を作ろうとした。銀葉芋は安定して手に入り、角鳥肉は豚や牛より脂が軽く、乳を使えば煮汁に厚みが出るうえ、根玉葱を加えれば甘味が増し、香草を少量使えば乳の匂いも重くなりすぎない。


 現在の白煮込みは、そうして何年もかけて形になった料理だった。


 その料理はエルナから息子であるカイルへ受け継がれ、さらにカイルから娘のリディアへ渡された。作り方にも細かな決まりがあり、銀葉芋は指二本ほどの厚さへ切り、角鳥肉は煮込んでもぱさつかないよう大きめにし、根玉葱は四つ割りへする。乳を入れるのは芋へ半分ほど火が通ってからであり、香草は最後に一つまみ、塩は仕上げ前に味を確かめてから入れるのが基本だった。


 十五歳で初めて鍋を任された時、父カイルは横に立ち、その順序を一つずつ教えた。


「芋を細かくしすぎるな。煮崩れる」


「これくらい?」


「もう少し大きい」


「肉は?」


「それでいい」


「香草、増やしたらもっと香り出るよ」


「最初は増やすな」


「何で?」


「婆ちゃんが何十年も作ってきた味だからだ。まず、この味を覚えろ」


 当時のリディアは反発するより嬉しさの方が大きく、祖母と父が作ってきた料理を自分も任せてもらえることが、宿屋の娘としてではなく、一人の料理人として認められたように思えていた。


「これ、変えちゃ駄目?」


 何気なく尋ねたリディアに、父は少し考えてから答えた。


「今は変えるな。少し変えた積み重ねで、元の味が分からなくなる」


 リディアは、その言葉を長く忘れなかった。ただし、父が最初に付けた「今は」という部分だけを、年月が経つうちに自分の中から落としてしまっていた。


          ◇


 祖母のエルナが亡くなったのは、リディアが二十一歳の時だった。


 その頃には厨房の仕事の半分ほどを任されていたが、白煮込みだけはまだ父が中心となって作っており、リディアも補助には入るものの、最終的な火加減や塩の量を決めるのはカイルだったため、本人もそれを当然のこととして受け入れていた。


 祖母の葬儀から数日後、昔から渡り鹿亭へ通っている馭者が宿へ来た。白煮込みを注文し、食べ終えた後に少し寂しそうな顔をしながら、「エルナ婆さんがいなくなっても、これは残るんだな」と言った。


 父は「残すよ」とだけ答えた。


 その翌日の昼、厨房へ入ったリディアへ、父は何の前触れもなく鍋を渡した。


「今日からお前が作れ」


「父さんが作ればいいじゃない」


「俺も作る。でも、お前が中心でやれ」


「急じゃない?」


「急じゃない。何年も横で見てきただろ」


「見るのと、自分で全部やるのは違う」


「だから今日からやるんだ」


 リディアにとって怖かったのは、単に料理へ失敗することではなく、祖母の味を自分の手で崩してしまうことだった。


「同じにできるか分からない」


 そう言うと、父は少し厳しい声になった。


「最初から同じにできる奴なんかいない。間違えたら直せ」


 その言葉に背中を押され、リディアは初めて自分が中心になって一鍋を作った。


 銀葉芋は煮崩さなかったものの、中心へ少し硬さが残った。客へ出せないほどではなかったが、父は食べた後、「あと少し早く乳を入れてもいい」とだけ言った。


 二回目ではその言葉を意識しすぎ、今度は乳を早く入れすぎたことで煮汁が重くなった。三回目になって、ようやく父が何も言わなくなった。


「どう?」


 自分から尋ねると、父は鍋の中をもう一度見てから答えた。


「出せる」


「それだけ?」


「客に出す料理なんだから、それで十分だろ」


 褒められなかったことが少し不満だったが、その日の夜、常連客が白煮込みを食べた後に「いつもの味だ」と満足そうに言った瞬間、リディアは胸の奥から嬉しくなった。


 祖母がいなくても料理は残せる。


 自分が作っても、渡り鹿亭の白煮込みとして客へ出せる。


 その時に感じた誇らしさは、八年が経った今でもはっきり覚えている。


          ◇


 それから八年が過ぎ、今では父よりリディアが白煮込みを作る日の方が多くなった。


 銀葉芋を手に持っただけで、その日の硬さがある程度分かる。包丁を入れれば水分の多さも予想でき、根玉葱が甘い季節なら量を少し減らし、角鳥肉の脂が少ない時には煮込み時間をわずかに変える。


 表面的には祖母から続く同じ作り方でも、実際には毎日細かな調整をしていたからこそ、味は安定し、客からも変わらず人気があった。


 一方で、その八年間にリディア自身も料理人として多くのことを覚えていた。


 市場へ行けば新しい香草があり、レーヴェンから来た商人が宿場町では見たことのない酸味の強い果実酢を売っている。他の宿の料理人と話せば、角鳥肉を一度焼いてから煮ることで香りを強める方法があると知り、銀葉芋についても、厚く切って煮る以外に、薄く切って鉄板で焼けば外側を香ばしくできることや、潰して乳と混ぜれば別の料理へ使えることを知った。


 そのたびに、試してみたいと思った。


 実際、白煮込み以外の料理ではいろいろ試している。宿の朝粥に使う香草を変えたこともあれば、余った角鳥肉を細かくして焼きパンへ挟んだこともあり、肉煮込みの酸味を調整した結果、以前より注文が増えたこともあった。


 それなのに、銀葉芋の白煮込みへ手を加えようとした時だけは、十五歳の時に聞いた「変えるな」という父の声が、自分の中で強く戻ってきた。


 香草を少し変えてみたい。


 銀葉芋の切り方を変えたらどうなるだろう。


 そう思っても、包丁を持つ手が止まる。


 この料理だけは、自分が好きに触れてはいけない。


 いつの間にか、それを誰かに言われたからではなく、自分自身の決まりとして抱えるようになっていた。


          ◇


 父のカイルは六十二歳になり、最近では厨房へ立つ時間を少しずつ減らしていた。病気ではなく、腰もまだ動き、包丁を握ればリディアより速く肉を切れることもあるが、朝から夜まで厨房へ立ち続ける生活を何十年も続けてきたため、体力のあるうちに娘へ仕事を渡しておきたいと考えているらしかった。


 ある晩、帳場を閉めた後に、父が帳面をリディアの方へ寄せた。


「来年から仕入れも、お前中心でやれ」


「全部?」


「最初は野菜と保存食だけでいい。肉は俺も見る」


「値段交渉も?」


「当然」


「農家のオドルさん、父さん相手だと安くしてくれるけど」


「だからお前が次の関係を作るんだろ」


「分かった」


「宿代の見直しも、春までに母さんと相談しておけ」


「それも私?」


「お前が次に継ぐんだからな」


 言葉だけを聞けば、代替わりははっきり進んでいた。帳場も仕入れも渡され、客との交渉も任されるようになり、厨房そのものもすでにほとんどリディアが回している。


 それなのに白煮込みだけは、祖母と父の時代から動かしてはいけないものとして、自分の中へ残り続けていた。


 ある日の昼、白煮込みを食べ終えた常連客から声をかけられた。


「やっぱり渡り鹿亭はこれだな。昔から何も変わらん」


「ありがとうございます」


「エルナ婆さんがいた頃と同じ味だ」


「そう言っていただけると嬉しいです」


 笑顔で答えた言葉に、嘘は一つもなかった。祖母の味を覚えている人から同じだと言ってもらえることは、本当に料理人として誇らしい。


 しかし厨房へ戻り、空になった鍋を洗い始めると、その褒め言葉が妙に胸へ残った。


 昔から何も変わらない。


 八年間、芋の状態を見て火加減を変え、肉の質に合わせて煮る時間を調整し、何百という鍋を作ってきた。それでも客が喜んでいる理由を「何も変わらないから」とだけ受け取ってしまうと、自分の仕事は過去を正確に再現することだけなのではないかという思いが消えなかった。


 自分は料理人として成長しているのか。


 それとも、祖母の料理を正しく再現する役目をこなしているだけなのか。


 そんな受け取り方をする自分の方がおかしいのではないかと思い、リディアはその気持ちを誰にも話せずにいた。


          ◇


 数日後、仕入れ先の農家から銀葉芋が届いた。


 例年より少し大きく育っており、表面も滑らかで、切る前から水分が多そうだった。ただ、箱の底へ入っていた十数個だけは運搬中に圧迫されたらしく、表面へ浅い傷がついている。


「こっちは今日使う」


 リディアは傷のある芋だけを分けた。


 保存には向かないが、傷んだ部分を削れば問題なく食べられるため、その日の昼の白煮込みへ回すつもりだった。


 最初の鍋へ銀葉芋を入れると、いつもより早く表面が柔らかくなった。


「今日の芋、崩れやすいですね」


 厨房を手伝う十八歳の少年ノルが、鍋を覗き込みながら言った。


 ノルは宿場町の外れに住む木工職人の次男で、料理の仕事を覚えたいと一年前から渡り鹿亭へ通っている。まだ包丁を扱う速度は遅いものの、言われたことを素直に試す性格であり、リディアも少しずつ鍋を任せるようになっていた。


「水分が多いんだと思う。次は火を少し弱めよう」


「煮る時間も短くします?」


「一気に短くすると芯が残るから、様子を見ながらね」


 一鍋目は、それで何とか仕上がった。


 二鍋目ではさらに注意するつもりだったが、昼の食堂が混み、焼き肉の追加注文と、急いで出発する客からパンの包みを同時に頼まれたため、リディアが別の鍋へ対応している間に、白煮込みを見る時間が少し遅れてしまった。


「リディアさん」


 ノルに呼ばれて戻った時には、銀葉芋の一部が煮汁へ崩れ始めていた。


 全部が形を失ったわけではないものの、祖母の白煮込みとして出すには明らかに崩れすぎている。


「火、止めます?」


「止めて。これ以上は駄目」


 リディアは強く混ぜないようにしながら、一匙だけ味を見た。


 煮崩れた銀葉芋が乳の煮汁へ溶け込み、自然なとろみがついている。芋の甘味も全体へ広がり、いつもの白煮込みより濃厚で、これはこれで十分に美味しかった。


「これ、うまいですよ」


 ノルも少量だけ味を見た。


「分かってる」


「じゃあ出せません?」


「白煮込みを注文した客には出さない」


「見た目だけですか?」


「見た目だけじゃない。食感も別物になってるから、同じ料理として出すのは違う」


「でも味はいい」


「だから、別の料理なら使えるかもしれない」


 そこまで言ったところで、リディア自身が少し驚いた。


 今までなら、失敗したと判断した時点で終わっていた。ところが今日は、白煮込みとして失敗したものを、別の料理として使えるかもしれないと自然に考えていた。


「じゃあ、まかないにします?」


「今日はそうしよう」


 結局、その鍋は家族と使用人の夕食へ回すことになった。


          ◇


 その夜、父も煮崩れた白煮込みを食べた。


「芋、崩したのか?」


「勝手に崩れた。別の注文を見てる間に火が入りすぎた」


「今年のは水分多いからな。いつもの時間でやると駄目だ」


「分かってる」


「最初の鍋は?」


「少し火を弱めたら大丈夫だった」


「なら次からそれでいい」


 叱られるほどではなく、話はそこで終わると思った。


 ところが父はもう一口食べ、少し考えるように匙を止めた。


「でも、これはこれで悪くないな」


 リディアは顔を上げた。


「そう思う?」


「芋の味が煮汁へ出てる。白煮込みとして出したら違うと言われるだろうけど、食い物としてはうまい」


「だったら――」


 そこまで言いかけて、リディアは止めた。


「何だ?」


「何でもない」


 父は深く追及せず、そのまま食事を続けた。


 リディアは自分の皿を見ながら、なぜ最後まで言えなかったのかを考えた。


 これを利用して、別の料理を作ってみたい。


 白煮込みを変えるのではなく、銀葉芋を煮崩すことを前提にした新しい料理を作る。


 父自身が「悪くない」と言っており、今の厨房も自分が任されているのだから、現実には何も止める理由はない。


 それでも新しい銀葉芋料理を作りたいという気持ちそのものが、祖母の料理から離れようとしているように感じられ、祖母の味に飽きたと思われることも、受け継いだものを軽く扱っていると思われることも怖かった。


 実際には誰もそんなことを言っていないのに、自分の中だけで問題を大きくし続けていたのである。


          ◇


 翌週、レーヴェンへ仕入れに行く日が来た。


 月に二度、リディアか父のどちらかが街へ出て、宿場町では手に入りにくい香辛料、保存食、調理道具を買う。今回はリディアの番だった。


 出発前、前日の仕込みで余った銀葉芋を二個、布袋へ入れたところを父に見つかった。


「それ、どうする」


「レーヴェンで料理してもらう」


「店で?」


「《持ち込み食堂》ってあるでしょう。食材を持っていけば料理してくれるって聞いたから」


「ああ。旅人が話してたな」


「知ってるんだ」


「名前だけ」


「止めないの?」


 父が不思議そうな顔をした。


「何で止める」


「家の銀葉芋だから」


「売り物を勝手に一箱持っていくなら止める。二個くらい好きにしろ」


「よその料理人に見せるんだよ」


「料理人同士で食材の話するくらい普通だろ」


 父はそれだけ言うと、馬車へ積む別の荷物を確認し始めた。


 自分の中では、祖母の料理に使う銀葉芋を他の料理人へ見せることにすら小さな後ろめたさがあったため、あまりにも簡単な反応に拍子抜けした。


 もしかすると、白煮込みを必要以上に触れてはいけないものとして扱っているのは、自分だけなのかもしれなかった。


          ◇


 仕入れを終えた後、リディアは西区の《持ち込み食堂》へ向かった。


「いらっしゃいませ」


 扉を開くと、ミレイアが迎える。


「持ち込みをお願いしたいんだけど」


「もちろんです。何ですか?」


 リディアは銀葉芋を二つ取り出した。


「《銀葉芋》です」


「葉っぱが銀色なんですか?」


「裏側だけね。今日は芋しか持ってきてないけど」


 悠斗も厨房から出てきた。


「状態を見てもいいですか?」


「お願いします」


 悠斗は銀葉芋を手に取り、表面の傷を確認してから、指で軽く押して硬さを確かめた。


「少し傷がありますね」


「昨日の仕込みから外した分。そこを削れば問題ないよ」


「普段はどうやって食べます?」


「うちでは煮込みが一番多い」


「どんな煮込みです?」


 リディアは、祖母から続く白煮込みについて説明した。角鳥肉と根玉葱を使うこと、銀葉芋は厚めに切ること、乳を途中から入れ、香草は最後に少量だけ使い、芋の形を残して仕上げることまで話すと、悠斗は食材を見ながら頷いた。


「今日はそれを作ります?」


 リディアは少し迷ってから首を振った。


「違うものがいい」


「何か作りたい料理があります?」


「それが分からないから来たの」


「銀葉芋を別の方法で食べたい?」


「たぶん」


 自分でも曖昧な答えだと思い、リディアは苦笑した。


「何か悩んでます?」


 ミレイアに尋ねられ、リディアはカウンターへ座った。


「料理で悩んでるのか、家のことで悩んでるのか、自分でもよく分からない」


          ◇


 リディアは、白煮込みが宿の名物であることから話した。


 祖母が作った料理であること。


 父を通して自分へ受け継がれたこと。


 昔から通う客が多く、「変わらない」と褒められること。


 そして、その言葉を嬉しいと思いながら、時々苦しくなることまで話した。


「人気なんですね」


 ミレイアが言う。


「かなり。冬になると、それを食べるために寄る人もいる」


「なくしたい?」


「それは絶対にない」


「作るの嫌いになった?」


「それもない」


「じゃあ何が嫌なんです?」


 リディアは少し考えた。


「嫌なんじゃない。嬉しいのに、少し苦しい」


「どうして?」


「昔と同じって褒められるたびに、自分が何も作ってないみたいに感じる時がある」


 言葉にすると、自分でもわがままに聞こえた。


「祖母の料理を受け継げるのは嬉しい。でも、私も料理人だから、新しいものを作りたい。市場へ行けば試したい食材もあるし、銀葉芋だって別の使い方ができると思う」


「やればいいんじゃないですか?」


 ミレイアが言う。


「そうなんだけど」


「できない?」


「白煮込みと同じ材料を使おうとすると、勝手に止まる」


「誰に止められるんです?」


「父さんに、昔『変えるな』って言われた」


「いつ?」


「十五の時」


「今二十九ですよね?」


「分かってる」


「十四年前ですね」


「数字で言わないで。自分でも今、長すぎると思ったから」


 リディアは額を押さえ、ミレイアも少し笑った。


          ◇


 悠斗が銀葉芋を洗いながら尋ねた。


「今も、お父さんは白煮込みを変えるなって言ってるんですか?」


「最近は言われてない」


「新しい料理を作るなとは?」


「それもない。むしろ他の料理は好きにやってる」


「じゃあ、白煮込みだけ?」


「そう」


「昨日、煮崩れたんですよね」


「うん。白煮込みとしては失敗したけど、味は美味しかった」


「それを別の料理にしてみたい?」


「そう思った。でも父さんに言えなかった」


「何て言われると思ったんです?」


 リディアは少し時間をかけて考えた。


 実際に父が何を言うかではなく、自分が何を恐れているのか。


「祖母ちゃんの料理に飽きたと思われるのが嫌なのかも」


「飽きたんですか?」


「違う」


「じゃあ、そのまま言えばいいのでは?」


「それが簡単にできたら、ここまで悩んでない」


 少し強めに返すと、悠斗は「それもそうですね」と素直に引いたため、リディアも思わず笑った。


          ◇


 悠斗は洗った銀葉芋を半分に分けた。


「同じ材料で、二つ作ってもいいですか?」


「二つ?」


「一つは形を残して、もう一つはわざと崩します」


「わざと煮崩すの?」


「昨日の崩れた方が美味しかったなら、失敗として元に戻そうとするんじゃなくて、最初からその状態を使ってみます」


「何を作るの?」


「食べてもらってから、宿で使えそうか考えてください」


「料理人なのに、人へ決めさせるのね」


「持ち込んだ人の店で使うなら、その方がいいと思うので」


 リディアは少し興味を持ち、調理を見ることにした。


 一つ目の銀葉芋は大きめに切り、少量の塩を入れた湯で、形が残るところまで火を入れる。もう一つは小さく切って根玉葱と一緒に鍋へ入れ、こちらは意図的に長く煮た。


「かなり崩すんだ」


「はい。今日は形を残す必要がないので」


 銀葉芋が柔らかくなってくると、悠斗は木べらを使ってさらに潰し、そこへ少量の乳と、角鳥に似た淡白な肉を細く裂いたものを入れた。


「白煮込みに近い材料ね」


「かなり近いですね。でも仕上げを変えます」


 煮詰めた銀葉芋は、やがて匙ですくっても簡単には流れないほど濃くなった。


 悠斗は鍋を火から外して少し冷まし、別に用意していた薄い生地へ具を乗せ、包み、平たく整えた。


「焼くの?」


「焼きます。中はもう火が通ってるので、外を香ばしくします」


          ◇


 鉄板へ置かれた生地には、ゆっくり焼き色がついていった。中身は柔らかいため強く押さえず、表面だけを固めるように火を入れていく。


 一方、形を残して茹でた銀葉芋には少量の油と塩、刻んだ香草を絡め、別の場所で表面へ焼き目をつけた。


 完成した一皿目は《銀葉芋の香草焼き》であり、厚く切った銀葉芋そのものの甘味と食感を残し、表面の香ばしさを加えた単純な料理だった。もう一皿は《銀葉芋と角鳥肉の包み焼き》で、煮崩した銀葉芋へ肉と根玉葱を合わせ、それを生地で包んで焼いている。


 リディアはまず香草焼きを食べた。


 表面は軽く香ばしく、中には銀葉芋らしい柔らかな甘味が残っている。


「これ、朝の付け合わせに使えそう」


「宿でも作れます?」


「鉄板はあるし、茹でた芋を置いておけば注文が入ってから焼ける。白煮込みより早い」


「じゃあ候補ですね」


 次に包み焼きを切ると、中から柔らかくなった銀葉芋が現れた。


 乳のまろやかさ、根玉葱の甘さ、肉の旨味が混ざっており、材料は白煮込みに近いのに、食べた時の印象はまったく違う。


 リディアは一口食べた後、何も言わずにもう一口食べた。


「これ、昨日の失敗した鍋よりちゃんと一つの料理になってる」


「昨日の鍋がなかったら、こういう使い方を考えなかったかもしれませんね」


「そうだね」


「じゃあ、失敗したから出てきた料理です」


「料理人は、失敗を正当化するのが上手ね」


「客に失敗したまま出さなければ、厨房の中では使い道を考えてもいいと思ってます」


 その答えに、リディアは笑った。


          ◇


 包み焼きを食べながら、リディアは妙な感覚を覚えていた。


「祖母ちゃんの料理じゃない」


「そうですね」


「でも銀葉芋も、角鳥肉も、乳も使ってる」


「はい」


「それなのに、祖母ちゃんの料理を壊した感じがしない」


 口にしてから、自分が何を怖がっていたのか、少しだけ分かった。


 新しい料理を作ることが、祖母の白煮込みを否定することのように感じていたのである。


 違う切り方を試したい。


 香草を変えたい。


 煮る以外の方法を試したい。


 そう思うたびに、それでは今までの料理が足りなかったと言っているような気がして、無意識に自分の手を止めていた。


「昔の料理がいい料理なら、別の料理を作る必要はないのかなって思ってた」


「必要があるかどうかで料理を作ってるんです?」


 悠斗が尋ねる。


「宿だから、売れるかは考えるよ」


「でも、全部必要だから作るわけじゃないですよね」


「まあね」


「白煮込みは残したい?」


「残したい」


「新しいのも作りたい?」


「作りたい」


「なら二つあっていいんじゃないですか」


 あまりに簡単な答えに、リディアは苦笑した。


「こっちは何年も悩んでたんだけど」


「白煮込みを変える話と、新しい料理を増やす話を一緒にしてたからじゃないですか?」


 その言葉に、リディアは黙った。


 自分の中では、銀葉芋で新しい料理を作ることと、祖母の白煮込みを変えることが、ほとんど同じになっていた。


 しかし実際には、白煮込みを残したまま別の料理を増やすことができる。同じ材料を使ってもよく、祖母の料理から学んだことを新しい料理へ使ってもよい。


 それは奪うことでも、否定することでもない。


          ◇


「これ、宿で試してみてもいい?」


「もちろん」


「そのままじゃなくて、もっと旅人向けにしたい。朝でも食べやすい大きさにして、手で持てるようにする」


「持ち帰るなら、冷めた時の食感も見た方がいいですね」


「生地が硬くなるかもしれないね」


「中の乳も多いと、冷めた時に重くなるかも」


「じゃあ少し減らす。角鳥肉もそんなに多くなくていい。銀葉芋を多めにすれば値段も抑えられる」


 話し始めると、自然に案が出てきた。


「香草も少し強めにしたい。煮込みより焼いた方が匂いが弱くなるかもしれないから」


「試す時に量を変えてみます?」


「うん。それと、煮崩れた芋を使えるからって、何でも余り物を入れる料理にはしたくない。最初から包み焼き用に煮た方が味は安定する」


「その方がいいと思います」


 料理の話へ移ると、リディアの声は明らかに明るくなっていた。


 ミレイアがそれに気づいて笑う。


「さっきまで悩んでた人と違いますね」


「料理の話なら分かるの。家の話が入ると急に難しくなるだけ」


「じゃあ、家に帰ったら話します?」


 その問いで、リディアの勢いが少し止まった。


「父さんに?」


「他に誰か決める人います?」


「今の厨房は私が任されてる」


「なら、自分で決められる?」


 リディアはすぐには答えなかった。


 任されている。


 仕入れも少しずつ渡されている。


 父はすでに、自分へ宿を継がせるつもりでいる。


 それでも白煮込みに関係することだけは、まだ父の許可が必要だと思っていた。


「まず話す」


 リディアは少し考えた後に言った。


「許可をもらうためじゃなくて、ちゃんと話したい。祖母ちゃんの料理をやめるんじゃないって、自分でも言葉にしておきたい」


 その答えなら、自分でも納得できた。


          ◇


 フェルトへ戻った翌日、リディアは昼営業が終わるのを待ってから、父を厨房へ呼んだ。


「何だ」


「試したい料理がある」


「作ればいいだろ」


 あまりに簡単に返され、リディアはしばらく父の顔を見た。


「何だ、その顔」


「もっと何か言うかと思った」


「何を?」


「祖母ちゃんの料理がどうとか」


 父が眉を寄せた。


「新しい料理なんだろ?」


「銀葉芋と角鳥肉と乳を使う。白煮込みに近い材料だけど、芋をわざと煮崩して、肉と根玉葱を混ぜて、生地で包んで焼く」


「それで?」


「白煮込みを変えたいわけじゃない」


「聞けば分かる」


「まだ説明の途中なんだけど」


「新しい料理作るなとは言ってないだろ」


 リディアは黙った。


「昔、白煮込みは変えるなって言った」


「言ったな」


「私は、ずっと変えるなって意味だと思ってた」


 父は数秒、本当に意味が分からないような顔をした。


「お前、何歳の時の話してる?」


「十五」


「今いくつだ」


「二十九」


「十四年か」


「数えないで」


「十五の娘が婆さんの料理を覚えてる途中で、勝手に塩増やしたり香草変えたりしたら元を覚えられないだろ。だからまず変えるなって言っただけだ」


「それ、最初からそう言ってよ」


「言ったぞ。『まず元の味を覚えろ』って」


 リディアは記憶を探った。


 確かに言われた。


 というより、最初からはっきり言われていた。


 ただ、自分の中には「変えるな」という部分だけが強く残り、それ以外を落としてしまっていた。


          ◇


「じゃあ、今は?」


「今?」


「白煮込み、変えていい?」


 父は少し考えた。


「何を変える」


「分からない。たとえば香草とか」


「理由があるなら試せばいい。ただ、客へいきなり出すなよ」


「怒らないの?」


「何で怒る」


「祖母ちゃんの味だから」


「婆さんの味だから、何をしてもいいとは言わん。でも、お前が八年作って何も分からないままなら、その方が困る」


 父は作業台へ手を置いた。


「白煮込みは、婆さんの時から少しずつ変わってるぞ」


 リディアは目を瞬いた。


「変わってる?」


「角鳥肉の仕入れ先、十年前に変わっただろ。脂が少なくなったから、俺が肉を大きく切るようにした」


「それは知ってる」


「乳も昔は今より濃いやつ使ってた。仕入れがなくなって今の乳になったから、水を減らした」


「それも……知ってる」


「婆さんの頃と材料が全部同じなわけじゃない。それでも客が同じ味だって言うなら、同じにするために変えてきたんだよ」


 その言葉を聞き、リディアは長く息を吐いた。


「私、何を守ってたんだろ」


「知らん」


「父さん、もう少し優しく言えない?」


「十四年勝手に悩んでた奴に言われたくない」


 二人とも少し黙り、その後、どちらからともなく笑った。


          ◇


「それで、新しい料理はもう作ったのか?」


「レーヴェンで一度だけ」


「家では?」


「まだ」


「なら作れ」


「食べる?」


「食わなきゃ分からん」


 リディアはすぐに仕込みへ入ったが、《持ち込み食堂》で食べたものをそのまま再現するつもりはなかった。


 宿で出すなら、朝の旅人が食べやすいものへ変える必要がある。手で持てる方がよく、値段も白煮込みより少し低くできれば、出発前に気軽に買える。


 そこで生地は悠斗のものより少し厚くし、ただし食べた時に重くならない程度へ留める。銀葉芋は完全には潰さず、小さな塊を残し、角鳥肉は細かく裂いて根玉葱を少し多めにする。乳は冷めた時に重くなりすぎないよう減らし、その分だけ香草を少し増やした。


 父は作業台の向かいから見ていた。


「手伝わないの?」


「お前が考えた料理なんだろ」


「料理人として意見くらい言って」


「食ってから言う」


「ずるい」


「最初から横で口出したら、俺の料理になる」


 その言い方に、リディアは少し嬉しくなった。


 父は、これは自分の料理だと思っている。


 そこを疑う必要はなかった。


          ◇


 一回目の試作は、生地が厚すぎた。


 焼き上がりはきれいだったが、食べると中身より生地の存在が強く、朝食として出すには少し重い。


「これは重いな」


 父が言う。


「私も思った。次はもう少し薄くする」


 二回目は生地を薄くしたものの、今度は中身を詰めすぎ、焼いている途中で端が開いた。柔らかい銀葉芋が鉄板へ少し流れ出す。


「欲張りすぎだ」


「分かってる」


「婆さんもよくやってた」


 父の言葉に、リディアは手を止めた。


「祖母ちゃんが?」


「新しい料理作る時はな。あれもこれも入れて、最後にまとまらなくなる」


「新しい料理、作ってたの?」


「当たり前だろ」


「白煮込み以外で?」


「いくらでも」


「聞いたことない」


「残らなかった料理まで、いちいち話さないからな」


 父は昔を思い出すように笑った。


「白煮込みだって最初から今の形だったわけじゃない。最初は銀葉芋を今の半分くらいに切ってた」


「それじゃ崩れるでしょう」


「崩れたよ。全部溶けて粥みたいになった」


「祖母ちゃんが?」


「ああ。爺さんが『これはこれでうまい』って言ったら、三日くらい怒ってた」


 リディアは思わず笑った。


 自分の中では、祖母の白煮込みは最初から完成された料理になっていたが、当然そんなはずはない。祖母も若い頃に失敗し、形にならなかった料理を作り、何度も捨てたり家族で食べたりしながら、今の味へたどり着いたのである。


          ◇


 三回目の試作では、生地を少しだけ厚く戻し、具の量を減らした。銀葉芋の割合を増やし、角鳥肉は全体へ旨味が行き渡る程度に抑える。


 焼き上がったものを、父とノル、それに帳場を手伝っていた母エレナまで呼んで味見する。


「どう?」


 リディアが尋ねると、父は一つを最後まで食べてから答えた。


「朝にいいな。白煮込みより軽いし、急ぐ客ならこっちの方が食いやすい」


「私もそう思う」


 ノルも頷いた。


「手で持てるのがいいですね。食堂で食べなくても渡せます」


 母は料理を食べながら、すでに値段のことを考えていた。


「角鳥肉をこの量にするなら、白煮込みより少し安く出せそうね。銀葉芋が高い時は無理だけど、今くらいなら十分」


「値段、どれくらい?」


「あとで原価出す」


「母さん、早い」


「売る料理なら必要でしょう」


 誰も祖母の料理を壊したとは言わず、家の味を奪うとも言わないまま、普通に新しい宿の料理として話が進んでいく。


 リディアは、自分だけが何年も入り口の前で立ち止まっていたような気持ちになった。


          ◇


「名前、どうします?」


 ノルが尋ねた。


 銀葉芋の包み焼きでも十分に伝わるが、宿屋で出す理由が名前から分かった方がよいと考え、リディアは少し迷った後に答えた。


「《銀葉芋の旅包み》」


「旅?」


「朝に食べる客や、出発前に持っていく客向けだから」


「分かりやすいな」


 父も反対しなかった。


「じゃあ明日から出します?」


 ノルが期待するように尋ねる。


「まだ出さない」


「何で?」


「一回うまくできただけだから。最低でもあと二回は作るし、冷めた時の状態も見たい」


 父が少し口元を上げた。


「慎重だな」


「客に出すんだから当然でしょ」


「そういうところは婆さん似だ」


「本当に?」


「ああ。失敗するのは嫌いじゃなかったけど、客へ出す時だけはしつこかった」


 その言葉も、リディアには少し嬉しかった。


          ◇


 翌日は、生地を焼いてから半刻置いたものを食べた。


 すぐなら問題なく食べられるが、さらに時間を置くと端の部分が硬くなることが分かったため、一日中持ち歩く携帯食には向かないと判断した。


「昼までくらいなら?」


 ノルが尋ねる。


「季節によるね。夏は乳と肉もあるから、長く持たせない方がいい。朝に食べるか、半日くらいの道中用にしよう」


 別の試作では、肉の塩気を少し強くした。


 若い馭者には好まれそうだったが、母からは「朝からこれだと重い人もいる」と言われたため、具そのものの塩味は抑え、必要なら卓上の塩を少し足せる形へ戻す。


 焼き方も試した。


 強火なら早いが表面だけ焦げやすく、弱すぎれば朝の混雑時に時間がかかるため、最終的には前半を中火、最後だけ少し強くする形へ落ち着いた。


 リディアは作った数、生地の厚さ、具の割合、焼き時間、冷めた後の状態まで簡単な帳面へ書き残した。


 祖母の白煮込みを覚えた時とは違い、今回は最初から正解がない。


 父の手を見て、そこへ近づけばよいわけではない。


 自分で作り、食べ、直し、その結果をまた確かめなければならない。


 その面倒さが、思っていた以上に楽しかった。


          ◇


 三日後から、朝食の時間だけ少量を売ることにした。


 初日は六個、二日目は十個、三日目には十五個を用意し、実際に旅人が食べた反応を確かめる。


 初日の朝、一番最初に注文したのは、早朝にレーヴェンへ向かう荷運び人だった。


「新しいのか?」


「今日から試しに出してます」


「何が入ってる」


「銀葉芋と角鳥肉、根玉葱です」


「白煮込みの中身みたいだな」


「近いです。でもこっちは焼いてます」


「一つくれ」


 リディアは少し緊張しながら渡した。


 男は急いでいたため、その場で二口ほど食べる。


「食いやすいな」


「味は?」


「悪くない。俺ならもう少し塩あってもいい」


「朝から濃すぎない?」


「俺はこれくらいなら欲しい」


 その意見を記録しておく。


 同じ日の後半、年配の商人が食べると、今度は「私は今くらいがいい。朝から塩辛いと水が欲しくなる」と正反対の感想が返ってきた。


 そこで味をどちらか一方へ寄せるのではなく、卓上の塩で調整できるようにした。


 客へ出して初めて分かることがあるという感覚を、リディアは久しぶりに面白いと感じていた。


          ◇


 二日目には、旅包みを持ったまま馬車へ乗ろうとした客から尋ねられた。


「紙か布で巻けるか?」


「食べながら行く?」


「ああ」


 その日のうちに、油が染みにくい薄い包み紙を試した。母からは費用がかかると指摘されたため、持ち帰りだけ小銭一枚を加える形へ調整する。


 ノルは、焼き上がった旅包みを置く場所が白煮込み用の皿に近すぎると気づいた。


「朝、混んだら間違えそうです」


「じゃあ旅包みはこっちに置こう。焼く前と焼いた後も場所を分ける」


 厨房の動線も少し変えた。


 新しい料理を一つ増やすだけでも、仕込みだけではなく、売り方、値段、置き場所、包み方まで変わる。


 リディアは、それを一つずつ自分で決めていった。


 不安はある。


 ただ、白煮込みを初めて任された時のような、「正しい形から外れたらどうしよう」という不安ではない。


 試し、合わなければ直せばよい。


 その余地があることが、むしろ楽しかった。


          ◇


 一週間後、昔から渡り鹿亭へ通っている馭者が泊まりに来た。


 冬になるたび白煮込みを注文し、祖母エルナの頃の味も覚えている男だった。


「今日も、いつもの頼む」


「白煮込みですね」


「それ以外に何がある」


「新しいのもありますよ」


「新しい?」


「銀葉芋の旅包み」


「芋?」


「白煮込みと似た材料を使ってます」


「じゃあ、それも一つくれ」


 注文を受けた瞬間、リディアは少し緊張した。


 若い馭者や初めて来る客から褒められるより、この男に食べてもらうことの方が怖かった。


 祖母の味を知っているからである。


 白煮込みと旅包みを一緒に出す。


 男はまず白煮込みを食べ、いつものように満足そうに頷いた後、旅包みを手に取った。


「これはエルナ婆さんの料理か?」


 聞かれた。


 以前なら、そこで何か言い訳を入れたかもしれない。


 祖母の料理を参考にしたとか、白煮込みの材料を使っただけだとか、自分だけのものと言うことを避けたかもしれない。


 今は、はっきり答えた。


「違います。私が考えました」


「そうか」


 男は一口食べた。


「うまいな」


「本当?」


「何で疑う」


「祖母ちゃんの料理と材料が似てるから」


「似てたら駄目なのか?」


「いや」


「ならいいだろ」


 男はもう一口食べる。


「エルナ婆さんだって、よく新しいの作ってたぞ」


 また、その話だった。


          ◇


「知ってるの?」


「そりゃ昔から来てるからな」


「どんなの?」


「妙に酸っぱい汁物とか」


「父さんから聞いてない」


「言わなくていい。あれはひどかった」


 男は笑った。


「他には?」


「魚と乳を一緒に煮たやつ」


「それは?」


「悪くなかった。ただ、魚が安定して入らんから消えた」


「そんなのもあったんだ」


「今残ってる料理だけ見てると、昔から全部完成してたように見えるんだろうな」


 その言葉は、リディアの胸へ素直に入った。


 祖母の料理で今まで残ったものは、成功したものばかりである。


 残らなかった試作は、家の記憶からも次第に消えていく。


 だから孫である自分には、祖母が完成した料理だけを生み出していたように見えていた。


 実際には違う。


 失敗し、消え、また試していた。


 今の自分と同じように。


「これ、何て名前だ?」


 男が尋ねる。


「銀葉芋の旅包み」


「次来た時もあるか?」


「評判悪くなければ」


「じゃあ残せ」


「勝手なこと言うね」


「客だからな」


 男が笑い、リディアも笑った。


          ◇


 その晩、厨房を片づけながら、リディアは父へ言った。


「白煮込みは、これからも残す」


「そうしろ。あれを食いに来る客がいるからな」


「でも、作り方を何も変えないとは限らない」


 父がこちらを見る。


「何を思いついた」


「まだ何も。ただ、今日の銀葉芋が昔より水分多かったら、同じ時間煮たら崩れるでしょう」


「そうだな」


「角鳥肉の脂が少なければ、切り方も変える」


「ああ」


「だったら、昔と同じ手順を全部守ることと、昔と同じ味を守ることは違うんだと思う」


 父は少し考えた後、頷いた。


「やっと分かったか」


「その言い方腹立つ」


「俺は前からやってた」


「教えてよ」


「見て覚えたと思ってた」


「料理人って、その言葉で説明を省略しすぎ」


「お前もノルに同じこと言うぞ、そのうち」


「言わない」


「絶対言う」


 二人はいつもの調子で言い合った後、父が少し真面目な顔になった。


「白煮込みを変えたいなら、まず小さい鍋でやれ」


「うん」


「客に出す前に、俺にも食わせろ」


「許可?」


「意見だ」


「分かった」


「それで、お前が俺の意見を聞かないなら?」


「理由があるなら聞かない」


 父はそれを聞き、少しだけ笑った。


「なら、もう十分だ」


 その言葉に、リディアはしばらく何も返さなかった。


          ◇


 父がすべてを決めなくてもよい。


 自分がすべてを捨てて新しくする必要もない。


 意見を聞き、試し、残し、必要なら変える。


 そのすべてを、同じ厨房の中で行うことができる。


 それから渡り鹿亭には、二つの銀葉芋料理が並ぶようになった。


 寒い夜には、祖母の代から続く《銀葉芋と角鳥肉の白煮込み》を出し、朝や出発前には、リディアが考えた《銀葉芋の旅包み》を焼く。


 どちらかがもう一方へ置き換わることはなかった。


 白煮込みを目当てに来る客は、これまで通り白煮込みを頼む。旅包みを気に入った若い馭者は、朝に二つ買って街道へ出る。中には両方を注文し、「同じ銀葉芋なのに全然違う」と面白がる客もいた。


 リディアも、以前のように「昔と同じだ」と褒められることを嫌に感じなくなった。


 昔と同じ味を出せることは、自分が何もしていない証拠ではない。


 今日届いた銀葉芋が昨日と違えば火加減を変え、角鳥肉の脂が少なければ切り方を変え、乳の濃さが違えば煮る時間を調整する。そうして、その日ごとに違う材料から、客が覚えている味へ近づけることも、今の自分が行っている料理だった。


          ◇


 旅包みも、一度形になったからといって完成して終わりではなかった。


 二週間ほどすると、ノルが具を作る手伝いをするようになった。


「銀葉芋、これくらい潰せばいいですか?」


「全部滑らかにしないで。少し塊残して」


「何で?」


「食べた時に芋が入ってるって分かるから」


「全部潰した方が包みやすいのに」


「包みやすさだけで決めない」


 自分で言った後、リディアは少し笑った。


「何です?」


「昔、父さんに似たこと言われたなと思って」


「じゃあ、これも変えちゃ駄目ですか?」


 ノルが冗談半分に尋ねる。


 リディアは少し考えてから答えた。


「今は、この作り方を覚えて。ただ、理由を分かった後なら変えていい」


 言葉にしてから、十五歳の自分を思い出した。


 父が本当に言いたかったのも、おそらく同じことだったのだろう。


 まず元を覚える。


 その後、変える。


 理由を知らないまま崩すことと、理解したうえで変えることは、同じではなかった。


          ◇


 春が近づいたある日、農家から届いた銀葉芋を見たノルが声を上げた。


「リディアさん、今回の小さいですね」


 冬に収穫されたものより一回り小さく、切った断面にも水分が多い。


 以前なら、祖母の決めた厚さへ無理に合わせようとしていたかもしれない。


 リディアは一つだけ試しに茹で、柔らかくなる時間を確かめた。


「冬の芋と同じ時間だと、かなり崩れるね」


「じゃあ薄くします?」


「逆。少し大きめに切って、火へかける時間を短くする」


「昔の切り方と違っていいんですか?」


 ノルに聞かれ、リディアは自然に笑った。


「同じ味にするために変えるの。何でも同じ手順でやれば、受け継いだことになるわけじゃないから」


「じゃあ、どこまで変えたら別の料理になるんです?」


「それを考えるのが料理人の仕事じゃない?」


「難しいですね」


「難しいよ。私もまだ分からない」


 分からないと言えることが、以前より怖くなくなっていた。


          ◇


 その日の白煮込みは、いつもより少し早く火から下ろした。


 銀葉芋は形を残しながら十分に柔らかくなり、乳の白い煮汁には角鳥肉と根玉葱の旨味が馴染んでいる。


 昼に訪れた常連客が一口食べ、満足そうに笑った。


「やっぱりここは変わらんな」


 以前なら、その言葉に少しだけ胸が詰まった。


 今は違う。


「ありがとうございます」


 何の引っかかりもなく答えられた。


 客が食べているのは祖母から続く味であり、その味を今日届いた少し水分の多い銀葉芋に合わせて仕上げたのは、自分だった。


 昼営業が落ち着くと、今度は旅包みの具を確認する。


 ノルが作ったものは、銀葉芋を少し潰しすぎていた。


「これ、今日は使える。でも次はもう少し塊残そう」


「失敗ですか?」


「客に出せないほどじゃない。ただ、私が今残したい食感とは違う」


「じゃあ直します」


「うん。でもそのうち、全部潰した方がいい料理を考えるかもしれない」


「旅包みを変えるんですか?」


「別の料理になるなら、それもいいでしょう」


 ノルが笑った。


「リディアさん、前より新しいの作るようになりましたね」


「そう?」


「厨房で一人で何か試してること増えました」


 言われてみれば、その通りだった。


          ◇


 白煮込みを捨てたわけではなく、むしろ以前より丁寧に見るようになった。


 祖母が残した作り方を、ただ守るための決まりとしてではなく、なぜそうしているのか考えるようになったからである。


 銀葉芋を厚く切るのは、形を残しながら中まで火を入れるためであり、乳を途中から加えるのは煮詰まりすぎないようにするためであり、香草を最後に少量使うのは乳の香りを消しすぎず、後味だけを軽くするためだった。


 理由が分かれば、その理由を守るために別の方法を使うこともできる。


 同時に、理由を捨てれば別の料理も作れる。


 旅包みでは、銀葉芋の形を残す必要がない。だから煮崩してもよく、むしろ崩した方が包みやすく、肉や根玉葱とも馴染む。


 白煮込みでは失敗だった状態が、別の料理では正解になる。


 その違いが、今のリディアには以前よりずっと面白く感じられた。


          ◇


 初夏へ入る頃には、《銀葉芋の旅包み》も渡り鹿亭の朝の料理として定着していた。


 白煮込みほど昔からの名物ではなく、わざわざ遠方から食べに来る客がいるわけでもない。それでも、早朝に出発する馭者が当たり前のように二つ注文し、常連の小商人が「今日は包みあるか」と聞くようになった。


 ある朝、初めて宿へ泊まった若い夫婦が旅包みを食べた。


「これ、美味しいですね」


 妻の方が言う。


「宿の昔からの料理ですか?」


 リディアは少しだけ笑った。


「いいえ。これは最近できた料理です」


「誰が考えたんです?」


「私です」


 以前なら、そこまで自然に言えなかったかもしれない。


 祖母の料理と同じ材料を使っていることを先に説明したり、別の店で教わった料理を参考にしたと言い添えたり、自分一人のものではない理由を並べたかもしれない。


 今は、ただ事実として言えた。


「白煮込みの方は祖母から続いてます。こっちは、その材料を使って私が考えました」


「じゃあ両方食べればいいですね」


 夫が言う。


「夜、白煮込みにします」


 あまりにも簡単な選択だった。


 客にとっては、最初からどちらか一方ではなかったのである。


          ◇


 その日の夜、リディアは厨房の隅で小さな鍋を火へかけていた。


 白煮込みとは別の試作で、若い銀葉芋を薄く切り、角鳥肉は使わず、少量の香草油と乳酪を合わせて焼くつもりだった。


 父が通りかかる。


「今度は何だ」


「まだ分からない」


「客へ出すのか?」


「うまくいったら」


「何回目?」


「二回目」


「一回目は?」


「焦がした」


「そうか」


 父はそれ以上口を出さず、通り過ぎようとした。


「父さん」


「何だ」


「味見する?」


「完成したら呼べ」


「許可じゃないよ」


「分かってる」


 父は笑った。


 リディアも笑い、鍋へ向き直った。


 祖母から受け継いだ料理を残しながら、自分の料理を増やしていく。


 その中には、後まで残るものもあれば、数回作って消えるものもあるだろう。


 それでよかった。


 祖母自身もそうしていた。


 父もそうしてきた。


 自分だけが、完成した料理を守ることだけを受け継がなければならないわけではなく、失敗し、考え、作り直すことまで含めて、厨房という場所そのものが受け継がれてきたのである。


          ◇


 閉店後、リディアはその日の白煮込み用の鍋を洗い、翌朝の旅包みに使う銀葉芋を確認した。


 厨房には、祖母の頃から使われている大鍋があり、その隣には最近買い足した小さな鉄板が置かれている。昔から使われてきたものと、新しく増えたもののどちらか一方だけで、今の厨房が成り立っているわけではなかった。


 リディアは翌日の仕込み表へ《白煮込み》と《旅包み》の必要量を書き、その下へ、まだ名前の決まっていない新しい試作の材料も小さく書き加えた。


 守る料理があるから、新しい料理を作れないのではない。


 新しい料理を作るから、昔の料理が価値を失うわけでもない。


 客から「昔と変わらない」と言われれば、それを誇ってよいし、自分が考えた料理を「美味しい」と言われれば、それも素直に喜んでよい。


 両方が同じ厨房にあってよいのだと、ようやく自分で納得できた。


 翌朝、いつもより水分の多い銀葉芋を前にしたノルから切り方を尋ねられると、リディアはその日の芋に合わせて大きさを変えるよう指示し、祖母から受け継いだ白煮込みの鍋をいつも通り火へかけた。その隣の鉄板では、自分が考えた旅包みを焼くための生地が並び、さらに奥の小鍋には次の試作に使う香草油が温まっており、昔から続く味を今日の材料に合わせて守ることも、まだ名前のない料理を失敗しながら作ることも、どちらも自分がこれから引き受けていく《渡り鹿亭》の料理なのだと分かったうえで、リディアは朝一番の客へ出す白煮込みの味を確かめ、新しい一日の厨房を動かし始めた。


●評価●ブックマーク●アクション●感想待ってます!


読者様が応援してくれると嬉しいです!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。