第59話 焦げた香草焼きと、主人の名でしか褒められない料理人
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マルセル・ドーランは三十九歳になる人間の男性であり、レーヴェン中央区に屋敷を構える子爵家《ラングフェルト家》で、料理長として七年間働いていた。明るい茶色の髪は仕事の邪魔にならないよう短く整えられ、額には火のそばで長く働き続けてきた者らしい細かな皺が刻まれており、右手の親指から人差し指にかけては、包丁と鍋を扱い続けた結果としてできた硬い皮が残っている。
料理人としては大柄な方で、重い鉄鍋を片腕で移動させられるほどの腕力もあるが、厨房内での動きはその体格から想像するよりずっと静かだった。若い料理人が失敗した時にも、怒鳴って萎縮させるより、なぜそうなったのかを本人へ説明させ、原因を理解させたうえで次の仕事を任せる方を好んでいる。
料理の腕前にも不足はなく、ラングフェルト家では客を招く大きな晩餐会から家族だけの夕食、さらには使用人向けの食事まで、ほとんどすべての献立へ目を通していた。肉の焼き加減や魚の下処理だけではなく、季節の野菜の状態、保存食の残量、香草や調味料の仕入れ時期まで把握しており、主人であるラングフェルト子爵が予定外の客人を連れて帰ったとしても、その日の在庫から短時間で一卓を整えられる。
周囲から見れば、マルセルは十分に成功した料理人だった。
給金は安定し、厨房の裁量も大きく、主人から腕を信頼され、若い料理人を育てる立場にもいる。それでも本人はここ数年、自分の料理を褒められることが以前ほど嬉しくなくなっていた。
料理そのものが評価されなくなったわけではない。むしろラングフェルト家の食事は評判がよく、他家の貴族から「あの家の晩餐は外れがない」と言われることさえあった。
しかし、その褒め言葉の中に、マルセル自身の名前が入ることはほとんどなかった。
客人たちが褒めるのは、いつも「ラングフェルト家の料理」だった。
◇
マルセルは、レーヴェンから西へ一日ほど進んだ小さな町で生まれた。
父親は宿屋の厨房を任されていた料理人で、母親は宿泊客の対応と帳場を手伝っていたため、幼い頃から料理を作る人間と食べる人間の間を行き来しながら育った。家族が宿屋を所有していたわけではなく、両親とも雇われて働く立場ではあったが、少年時代のマルセルにとって、厨房は家とほとんど同じくらい長い時間を過ごす場所だった。
十歳になる頃には野菜の皮を剥き、十二歳には簡単な煮込みを任され、十五歳になる頃には父親の隣で肉を焼くようになった。料理が好きになった理由を一つだけ挙げることは難しかったが、材料を切り、火へかけ、塩を加え、匂いや色を見ながら調整すれば、同じ食材でも結果が変わるところが面白かった。
上手くできれば客が笑い、失敗すれば皿が残る。すべてが単純ではないにしても、少なくとも自分の工夫が食べた人間の反応として返ってくるところを、若いマルセルは好んでいた。
父も、自分の仕事についてよく話した。
「料理は名前より皿だ。誰が作ったかじゃなく、食った奴がうまいと思えばそれでいい」
若い頃のマルセルは、その考えを疑うことなく受け入れていた。
「じゃあ父さんの名前なんか、誰も知らなくてもいいの?」
ある時そう尋ねると、父は大きく笑った。
「宿屋の料理がうまいって言われれば、それで給金が出る。名前を売りたいなら吟遊詩人にでもなれ」
その答えがおかしくて、マルセルも一緒に笑った。料理人として働き始める前の彼にとって、誰が作ったかより、皿が美味ければそれでよいという考え方には何の迷いもなかった。
◇
十七歳になると、もっと大きな厨房で働きたいと思い、マルセルは一人でレーヴェンへ出た。
最初に雇われたのは中央区にある中規模の食堂で、商人や役人が多く利用する店だった。そこでは父から教わった宿屋料理だけでは足りず、ソースの作り方、魚の保存、香草の組み合わせ、肉の部位ごとの火入れなど、知らない技術を次々と覚えなければならなかった。
当然、失敗も多かった。
初めて任された魚料理では火を通しすぎて身を固くし、宴会用の煮込みでは塩を入れすぎ、先輩料理人から鍋ごと作り直させられたこともある。それでも、失敗した理由を覚えれば次は前よりよい皿を出せるため、苦労そのものを嫌いにはならなかった。
二十代前半には副料理長を任されるようになり、その後、貴族家へ料理人を紹介していた商人を通じてラングフェルト家へ入った。
最初は厨房の三番手だった。
当時の料理長は六十歳近い男で、名前をオルバンと言った。口調は厳しかったが、肉の焼き上がりを匂いだけで見抜き、魚の鮮度を触れた瞬間に判断するほど腕の確かな料理人だった。
「貴族家の厨房は店と違う」
入った初日に、オルバンはそう言った。
「何が違うんです?」
「客を選べない。料理を食う人間だけを見てりゃいいわけでもない。家の格式、主人の好み、客人の身分、季節、予算まで、全部まとめて一皿にしろ」
マルセルには、その言葉の意味が最初はよく分からなかった。
しかし、働き始めるとすぐに理解した。
◇
同じ肉でも、家族だけで食べる夕食と、他家の当主を招く晩餐では扱い方が変わる。味がよいだけでは足りず、皿の見栄え、料理を出す順番、使う器、料理名まで、その家が客人へどのような印象を与えるかに関わってくる。
客人の好みが分かっていれば、苦手な香草は避ける。最近別の宴会で似た料理を食べていたと知れば、同じものが続かないよう献立を変える。主人が新しい領産品を売り込みたいと考えているなら、その食材を目立つ形で使うこともあった。
料理が単なる食事ではなく、家そのものを見せる手段になる。
マルセルは、その難しさを面白いと思った。
自分一人で好きなものを作るより、いくつもの条件がある中で最善を探す方が、自分の技術を試されている気がした。オルバンのもとで仕事を学び続け、三十二歳の時、引退する彼から料理長を引き継いだ。
「これからはお前の厨房だ」
最後の日、オルバンはそう言った。
「俺の?」
「好き勝手していいって意味じゃないぞ」
「分かってます」
「でも、最後に決めるのはお前だ。誰かの真似だけしてたら、料理長になった意味がない」
その言葉は嬉しかった。
ようやく、自分の責任で料理を作れる立場になったのだと思った。
◇
ところが料理長になって数年が経つと、その気持ちは少しずつ変わっていった。
最初は、本当に些細な違和感だった。
晩餐会の翌日になると、客人から主人へ褒め言葉が届く。
「さすがラングフェルト家の食卓だ」
「昨日の肉料理は実に見事だった」
「季節の香草の使い方がよかった」
そうした言葉を聞けば、自分たちが作った料理を評価されたのだから、当然嬉しいはずだった。主人も厨房の働きを当然のものとして扱う人間ではなく、客人から褒められれば、できるだけその言葉を料理人たちへ伝えてくれた。
「昨日の客人が料理を褒めていたぞ」
「ありがとうございます」
「特に香草焼きが気に入ったらしい」
「それはよかったです」
その場では、マルセルも本当にそう思っていた。
しかし何度も同じことが続くうちに、心のどこかで妙な引っかかりが残るようになった。
客人は料理長が誰なのか知らない。
厨房に何人いるのかも知らなければ、誰が献立を考え、誰が肉を焼き、誰が味を整えたのかも知らない。料理人たちが何度試作し、どこを変えて一皿を完成させたのかも、食卓からは見えない。
それらはすべてまとめて、「ラングフェルト家の料理」と呼ばれる。
◇
それが貴族家の料理人の仕事なのだと、マルセル自身も理解していた。
屋敷の中で働く者は、自分の名前を売るために雇われているわけではない。料理が褒められれば、その家の評価が上がり、家の評価が上がれば、そこに仕える者たちの仕事も間接的には認められたことになる。
頭では分かっている。
それでも、ある頃から、自分が料理を考えているのか、それとも誰かの名前の中へ消えていく皿を作っているだけなのか、自分でも分からなくなることがあった。
その気持ちを誰かへ話したことはない。
贅沢な悩みだと思ったからである。
給金は十分に出ており、厨房の裁量も大きい。主人から理不尽に怒鳴られることもほとんどなく、自分の考えで若い料理人へ技術を教えることもできる。
そんな環境で「自分の名前が出ない」と不満を言えば、何を言っているのだと思われても仕方がない。
だから黙った。
ただ、口にせず押し込めた気持ちは消えず、少しずつ料理の作り方へ影響し始めていた。
◇
以前のマルセルは、新しい料理を考えることが好きだった。
市場で見慣れない野菜を見つければ少量を買い、余った肉の部位があれば別の調理法を試し、若い料理人にも「失敗してもいいから一皿作れ」と言っていた。うまくいかなければ原因を探し、別の切り方や火加減を試し、その過程そのものを料理人の仕事だと考えていた。
ところが最近は、評判のよかった料理を繰り返すことが増えている。
一度成功した料理なら失敗しにくく、客人も喜び、主人にも安心して出せる。料理長として考えれば、非常に合理的な選択だった。
それなのに、厨房で働いていても以前ほど胸が動かない。
副料理長のベルクが、ある日その変化へ気づいた。
「料理長、最近新しい皿やらないですね」
「必要がない」
「前は余った食材で試してたじゃないですか」
「宴会が続いている。失敗する余裕はない」
「でも今日の昼は空いてますよ」
「仕込みを進めろ」
そう返すと、ベルクはそれ以上何も言わなかった。
マルセル自身も、なぜその指摘へ少し苛立ったのか分からなかったが、考えないまま仕事へ戻った。
◇
その週、ラングフェルト家では五家を招く小規模な晩餐会が予定されていた。
主人からは、領内で採れ始めた《香炎草》を使ってほしいという希望が出ている。香炎草は、葉を刻むと柑橘に似た爽やかな香りが立つ一方、加熱するとわずかな辛味が出る香草で、特に脂の多い獣肉へ合わせると後味を軽くしてくれる。
マルセルは以前にも何度か使っていた。
「主菜は赤牙豚にします」
献立の確認で主人へ伝える。
「香炎草は?」
「表面へ塗る油へ混ぜます。焼く前に一部、仕上げに一部を使います」
「前にも似た料理を出していたな」
「はい」
「評判がよかった」
「今回も問題なく仕上がると思います」
主人は満足そうに頷いた。
その瞬間、マルセルの中で、また同じ料理を出すのかという小さな声が聞こえたものの、晩餐会でわざわざ危険を取る必要はないと、自分でその考えを押し戻した。
◇
晩餐会当日、厨房は昼過ぎから忙しくなった。
前菜、魚料理、肉料理、付け合わせ、甘味まで、それぞれを食卓へ出す時間から逆算しながら、全員が決められた作業を進めていく。赤牙豚は大きな塊肉を使い、表面へ塩をすり込み、刻んだ香炎草と油を混ぜたものを薄く塗ってから焼く予定だった。
マルセルは火加減を確認し、副料理長へ細かな指示を出した。
「最初は強めで表面を焼く。その後で火を落とせ」
「はい」
「香炎草は全部入れるな。焦げやすいから、仕上げ用を必ず残しておけ」
「分かってます」
肉は順調に焼けていた。
ところが仕上げ直前、一人の若い料理人が、残しておくはずだった香炎草を誤ってすべて肉の表面へ乗せてしまった。
「誰がやった」
マルセルの声が低くなる。
二十歳になる料理人のサムが、青い顔で手を挙げた。
「すみません。仕上げ用だと思って」
「逆だ。仕上げ用を残すんだ」
「申し訳ありません」
香炎草はすでに熱へ当たり始めており、このまま長く置けば、細い葉はすぐ焦げて苦味を出してしまう。
マルセルは長い火箸を手に取り、肉の表面から香草を素早く落とした。
「焦げた分は使うな。新しいのを刻め」
「でも、残りが」
副料理長のベルクが棚を見る。
香炎草はほとんど残っておらず、朝に届いた分を使い切っていた。
「市場へ走れば間に合いますか?」
「無理だ。肉を出す時間に間に合わん」
「では、無しで仕上げますか?」
マルセルは肉を見る。
火入れそのものは問題なく、味も壊れてはいない。しかし、本来狙っていた爽やかな香りは弱くなっている。
「柑橘酢を少し使う。全部の代わりにはならんが、脂は切れるから、仕上げに薄く塗れ」
「はい」
急な変更を加えながらも、料理は予定時刻に食卓へ出された。
◇
完全に狙い通りの仕上がりではなかったが、客人から苦情は出ず、むしろ食事を終えた主人からは後でこう言われた。
「今日の肉もよかった。ラングフェルト家らしい味だった」
「ありがとうございます」
マルセルは頭を下げた。
客人が満足し、主人にも問題なしと判断されたのだから、料理長としては成功した晩餐だったはずである。
厨房へ戻ると、サムが待っていた。
「料理長、本当にすみませんでした」
「次から仕上げ用と加熱用を分けて置け。札もつけろ」
「はい」
「同じ失敗をしなければいい。今日は料理として出せたんだから、次に活かせ」
「……ありがとうございます」
若い料理人は深く頭を下げた。
本来なら、それで終わる出来事だった。
大きな失敗ではなく、客人にも迷惑をかけず、サムも反省している。
それでも、マルセルの中には妙な疲れだけが残った。
◇
厨房の隅には、焦げて取り除いた香炎草が小さな皿へまとめられていた。
多くは葉先が黒くなっており、晩餐へ使える状態ではない。ただし、全部が炭になったわけではなく、根元の部分にはまだ緑色が残っている。
ベルクが片づけのため、その皿へ手を伸ばした。
「料理長、これ捨てますよ」
「ああ」
反射的に答えた後、マルセルはベルクの手を止めた。
「待て」
「これですか?」
「少し残せ」
「焦げてますよ」
「全部じゃない。焦げてないところもある」
「何に使うんです?」
マルセルはすぐに答えられなかった。
以前なら、失敗した香草を見れば、使える部分がないか考えただろう。それなのに今の自分は、何に使うかさえ思いつかないまま、ただ捨てるのが惜しいという理由だけで残そうとしている。
「分からん。とにかく少しだけ残せ」
結局、焦げた香炎草の一部を小さな布へ包み、マルセルはそれを持ち帰った。
◇
自室へ戻って包みを開くと、香炎草の一部は黒く焦げていたものの、すべてが使えない状態ではなかった。指で軽く揉めば、焦げ臭さの奥からまだ柑橘に似た香りが残っていることも分かる。
使えなくはない。
ただし、客人へそのまま出せるほど良い状態でもない。
マルセルはしばらく考えた末、その日は何もせずに包み直した。
翌日になっても、捨てる気にはならなかった。
昼の仕込みを終えた頃、副料理長のベルクがそのことを思い出したらしい。
「料理長、最近西区に変な食堂があるの知ってます?」
「変な?」
「食材を持っていくと料理してくれる店です」
「そんな店はいくらでもあるだろ」
「いや、料理になってなくてもいいらしいですよ。余りものとか、見たことない食材とかでも相談できるって」
「それで?」
「昨日の香炎草、まだ持ってるんでしょう」
マルセルはベルクを見る。
「なぜ知ってる」
「持って帰ったの見ました」
「余計なところを見てるな」
「料理長が変なことするからです」
「何が言いたい」
「試してもらえばいいじゃないですか。焦げた香草で何ができるか」
マルセルは鼻で笑った。
「焦げた香草を料理人へ持っていって、何とかしろと言うのか」
「料理長なら、昔は面白がったと思ってましたけど」
「昔ならな」
そう口にした瞬間、マルセル自身がその言葉の意味に気づいた。
ベルクも黙った。
少ししてから、今度は真面目な声で続ける。
「やっぱり最近、変ですよ」
「仕事に支障は出していない」
「そういう話じゃないです。料理長、前は失敗した食材を見たら、次にどう使えるか考えてたでしょう」
マルセルは返事をしなかった。
「昨日も焦げた香草を見てたから、何か考えてるのかと思ったんです」
「何も考えていない」
「なら、捨てればよかったじゃないですか」
その通りだった。
捨てられなかった理由を、自分でも説明できない。
◇
その日の勤務が終わった後、マルセルは焦げた香炎草を持って西区へ向かった。
自分では、何か特別な答えを求めているつもりはなかった。料理人として、まだ使える部分があるなら試してみたいだけだと、自分に言い聞かせながら歩いた。
《持ち込み食堂》へ着いた頃には、夕食時より少し前だった。
扉を開くと、ミレイアが迎えた。
「いらっしゃいませ」
「持ち込みだ」
「はい。何ですか?」
マルセルは小さな布包みを出し、カウンターの上で開いた。
ところどころ黒くなった香炎草を見て、ミレイアが少し目を丸くする。
「焦げてます?」
「ああ」
「最初から?」
「そんな香草があるか」
厨房から悠斗も出てきた。
「見てもいいですか?」
「好きにしろ」
悠斗は葉を一枚取り、焦げた部分と焦げていない部分を分けながら匂いを確認した。
「完全に駄目ではないですね。焦げたところはかなり苦いけど、根元にはまだ香りが残ってます」
「分かるか」
「何で焦げたんです?」
「晩餐の仕込みで若いのが間違えた」
「料理人なんですね」
「ラングフェルト家で料理長をしている」
ミレイアが少し姿勢を正した。
「貴族のお屋敷の料理長なんですか?」
「ああ」
「すごいですね」
「別にすごくはない」
マルセルは反射的にそう答えた。
◇
「これ、どうしたいです?」
悠斗が尋ねる。
「使えるなら使ってくれ」
「料理は何でも?」
「任せる」
「嫌いなものはあります?」
「特にない」
「甘い料理でも?」
「構わん」
「肉でも?」
「ああ」
「分かりました。じゃあ少し考えます」
悠斗は香炎草をもう一度確認し、焦げた部分をかなり丁寧に除いていった。完全に黒くなった葉先は捨て、茶色くなった部分についても少量ずつ味を見て、苦味が強ければ使わない。
最後に残ったのは、持ち込んだ量の半分にも満たなかった。
「これだけか」
マルセルが言う。
「使えるところだけなら」
「料理長なら全部使えと言われそうだな」
「無理に使ってまずくするくらいなら捨てます」
悠斗は迷わず答えた。
その返答に、マルセルは少しだけ口元を緩めた。
「正しい」
「料理人さんなら分かりますよね」
「分かる」
「じゃあ、残った香りを油へ移します。もう一度焦がすと意味がないので、かなり弱い火で」
悠斗は小さな鍋へ油を入れ、焦げていない香炎草を低い温度でゆっくり温め始めた。
「高温にしないなら、香りだけ取れるな」
「そうです。今回は香草自体を食べるより、残っている香りを使います」
「全部を皿へ残す必要はないのか」
「使う意味があるところだけ残せばいいと思います」
マルセルは、その言葉を聞きながら小鍋を見ていた。
◇
油へ香炎草の香りが移る間、悠斗は黄芋を茹で始めた。さらに白身の肉を細かく切り、根玉葱と一緒に炒め、塩を控えめに加えて味を整える。
「何を作る?」
「焼きものです。黄芋を潰して、中に肉と根玉葱を入れて焼きます」
「香炎草は?」
「最後に香りを移した油を使います」
「主役ではないんだな」
「今日はそうします。量も少ないですし、無理に前へ出すより、後味に残す方が合いそうなので」
マルセルはカウンターへ座った。
ミレイアが水を置きながら尋ねる。
「料理長って大変ですか?」
「仕事は大変だ」
「厨房に何人くらいいるんです?」
「全体で十二人。直接料理をするのは八人だ」
「全部見るんですか?」
「献立と仕上げはな。細かい仕込みは、それぞれに任せている」
「じゃあ、今日の香草も料理長さんの失敗になるんですか?」
マルセルは少し眉を上げた。
「作業を間違えたのは若い料理人だが、責任は俺にある」
「成功した料理は?」
「厨房全体の成果だ」
「料理長さんの?」
「ラングフェルト家の料理だ」
ミレイアは少し考えてから尋ねた。
「それ、嬉しいですか?」
思いがけない質問だった。
◇
「何が」
「家の料理って言われるの」
「そういう仕事だ」
「仕事なのは分かりました。でも、嬉しいかどうかを聞いたんです」
マルセルは水へ手を伸ばした。
「評価されるのは悪くない」
「でも?」
「何でもない」
「今、でもって顔しました」
「顔で分かるのか」
「店でずっと人を見てますから」
「給仕は厄介だな」
ミレイアは笑った。
悠斗も手を動かしながら会話を聞いていた。
「何かあるんですか?」
悠斗が尋ねる。
「大した話ではない」
「大した話じゃなくてもいいですよ。料理ができるまで少しかかりますし」
マルセルはしばらく黙った。
誰にも話したことのないことだった。
◇
「俺が作った料理を客が褒めても、俺の名前は出ない」
口にしてみると、思った以上に子どもじみた不満のように聞こえた。
「当然だ。貴族家の料理人だからな。客は主人の招待で食べに来るのであって、厨房へ挨拶しに来るわけじゃない」
悠斗は何も言わずに聞いている。
「給金も出ている。献立も任されている。主人にも大きな不満はない。だから、こんなことを気にする方がおかしい」
「でも、実際には気になるんですか?」
ミレイアが尋ねる。
「……最近はな」
「いつから?」
「はっきりとは分からん。料理長になって最初の数年は何とも思わなかった」
「今は?」
「褒められても、また家の名前かと思うことがある」
言葉にしてしまうと、長い間曖昧だった不満が少しずつ形を持ち始めた。
◇
「自分の名前で褒められたいんですか?」
悠斗が尋ねる。
「そう言うと、随分みっともないな」
「みっともないかどうかは置いといて、そうなんです?」
マルセルは即答できなかった。
自分の名を街中へ広めたいわけではない。店を出したいという夢があるわけでもなければ、ラングフェルト家を辞めたいと思っているわけでもない。
「俺は店を持ちたいわけじゃない」
「はい」
「ラングフェルト家を辞めたいとも思っていない」
「はい」
「ただ……俺が考えた料理だと、誰かに分かってほしいのかもしれん」
それが、今の自分の気持ちへ最も近い言葉だった。
「厨房の人は分かってるんじゃないですか?」
ミレイアが言う。
「まあな」
「主人は?」
「俺が献立を決めていることは知っている」
「じゃあ、誰に分かってほしいんでしょう」
また答えられない。
客人なのか。
世間なのか。
それとも、自分自身なのか。
「分からん」
マルセルは正直に答えた。
◇
「名前が出ないのが嫌なのか、自分で料理を作ってる実感がなくなってるのか、どっちです?」
悠斗が尋ねた。
「何が違う」
「全然違うと思います。名前を呼ばれたいなら、どうやって料理人を紹介してもらうか考える話になる。でも、作ってる実感がなくなってるなら、料理の作り方そのものの話かもしれない」
マルセルは黙った。
「最近、新しい料理は作ってます?」
「……少ない」
「昔は?」
「よくやった」
「どうしてやめたんです?」
「評判のいい料理がある。わざわざ変える必要がない」
「本当にそれだけですか?」
副料理長のベルクにも似たようなことを言われた。
マルセルは、自分の中にあるものを少しずつ整理した。
「新しい料理を作っても、結局は家の料理になる」
口にした瞬間、胸の奥へ引っかかっていたものが少し形になった。
「だから、わざわざ考える意味が薄くなった?」
悠斗が尋ねる。
「……たぶんな」
「でも同じ料理を繰り返してても、家の料理ですよね」
「そうだ」
「それで楽しいですか?」
「最近は、あまり」
「それなら、名前の問題だけじゃない気がします」
マルセルは腕を組んだ。
「では何だ」
「自分で料理してるのに、自分で選ばなくなってるとか」
その言い方に、マルセルは少し腹が立った。
「貴族家の料理人は、好き勝手に選べる仕事じゃない」
「それは分かります」
「主人の希望もある。客人の好みもある。予算も格式もある。店で自由に作るのとは違う」
「でも昔は、その制約の中で考えるのが面白かったんですよね?」
その一言で、マルセルは黙った。
◇
その通りだった。
オルバンから「全部まとめて一皿にしろ」と言われた時、自分はそれを面白いと思った。主人の希望があり、客人の好みがあり、家の格式があり、使える予算も決まっている。その条件の中で自分なりの答えを出すことが、料理人としての腕の見せどころだと思っていた。
いつからか、答えを考えるより、以前成功した答えを繰り返すようになっていた。
それを「家のため」と説明していたが、間違いではないにしても、それだけが理由ではなかった。
「怖くなったのかもしれんな」
マルセルが言う。
「何がです?」
「新しい料理が失敗するのが」
「料理長になって責任が増えたから?」
「ああ。それに、もし失敗すれば家の評価に響く。俺が最後に止める立場だから、料理長になる前みたいには試せない」
「だから安全な料理を出す?」
「その方が合理的だ」
「でも料理するのがつまらなくなった」
「……そうだな」
そこまで言うと、かなり単純な構図に見えた。
名前が出ないことへの不満だけではない。
料理長になって責任が増え、失敗を避けるようになり、同時に自分の料理が「家の料理」として扱われることで、新しいことへ挑戦する意味まで自分で薄くしてしまった。
その二つが混ざり合い、何が不満なのか自分でも分からなくなっていたのである。
◇
「できました」
悠斗が皿を置いた。
黄芋を潰して丸く成形し、中へ炒めた肉と根玉葱を詰めたものを両面から焼いてある。表面には薄く香ばしい焼き色がつき、仕上げに香炎草の香りを移した油が塗られているため、皿が置かれた瞬間、焦げ臭さではなく爽やかな香りがほのかに立った。
「《黄芋の肉詰め香草焼き》です」
マルセルはすぐには食べず、まず匂いを確かめた。
「香炎草は弱いな」
「残った量が少なかったので、強く出すのは無理でした」
「でも、ちゃんといる」
「はい。最初に香りが来るんじゃなくて、食べた後に少し残るくらいにしました」
マルセルは一口分を切った。
黄芋は表面だけが薄く焼け、内側は柔らかい。中には肉と根玉葱の旨味が入り、噛み終える頃になると、香炎草の爽やかな香りがほんの少し鼻へ抜ける。
「うまい」
「よかったです」
「焦げた香草を使った料理には見えんな」
「焦げたところは使ってないですから」
「持ってきたものを全部使う店ではないんだな」
「持ってきたものを、食べられる形にする店です。使わない方がいい部分まで無理に入れることはしません」
「なるほど」
マルセルは、もう一口ゆっくり食べた。
◇
香炎草そのものは、ほとんど皿に残っていない。
それでも、香りだけは確かに料理の一部になっている。
「この料理、誰の料理だ?」
マルセルが尋ねた。
悠斗は少し考えてから答えた。
「俺が作った料理です」
「店の料理ではなく?」
「店の料理でもあります」
「両方か」
「はい。ここで出してるから店の料理だし、考えて作ったのは俺なので、俺の料理でもあります」
マルセルは、その答えを気に入った。
「貴族家だと、そう簡単には言えない」
「そうでしょうね」
「客人へ出せば、ラングフェルト家の料理になる」
「でも作ったのは、マルセルさんと厨房の人たちですよね」
「そうだ」
「じゃあ、ラングフェルト家の厨房が作った料理で、その献立を考えたのがマルセルさんでもいいんじゃないですか?」
マルセルは皿を見た。
「客が知らなくても?」
「知らない人がいるのと、作った人が存在しないのは別でしょう」
その言葉は、意外なほど静かに胸へ入ってきた。
◇
客人が料理人の名前を知らない。
それは事実である。
しかし、だからといって、自分が考えたことまで消えるわけではない。厨房の若い料理人は知っており、副料理長も知っている。主人も、献立を誰が決めているかは知っているし、何より自分自身が知っている。
では、何が足りなかったのか。
「自分で、自分の料理じゃないことにしてたのかもしれんな」
マルセルが呟く。
「どういう意味です?」
「家の料理だから俺のものじゃない。そう思えば、失敗しても成功しても少し距離を置ける」
「楽なんですか?」
「楽だ。失敗しても、家の料理の一つが失敗しただけだと思えるし、成功しても、自分が何かを成し遂げたと思わなくて済む」
「でも、それだとつまらない?」
「そうだな」
マルセルは残りをゆっくり食べた。
焦げた香炎草は、完全な形では使えなかった。捨てた部分も多く、元の料理へ戻すこともできない。
それでも、残った香りは別の料理に使えた。
失敗したものを、そのまま無かったことにする必要はない。
ただし、失敗した形へ固執する必要もない。
「料理長を辞めるつもりはない」
マルセルが言う。
「はい」
「家の料理を作るのも嫌ではない」
「はい」
「客へ俺の名前を出せとも言わない」
「じゃあ、何を変えます?」
マルセルは少し考えた。
「新しい料理を作る」
ミレイアが笑った。
「まずはそこから?」
「ああ。名前の話をする前に、自分で作るのをやめてる方を何とかする」
◇
「失敗したら?」
悠斗が尋ねる。
「客へ出す前に止める」
「さすが料理長」
「厨房で試す分には、失敗しても家の評判にはならん。俺はいつの間にか、その試す段階まで危険だと思ってたらしい」
「昔はやってたんですよね」
「ああ」
「じゃあ戻す?」
「戻すというより、今の立場でやり直す」
マルセルは料理代を払った。
「あと、一つ聞きたい」
「何です?」
「この料理、俺が似たものを厨房で作ってもいいか」
「もちろん」
「そのまま真似はしない。ラングフェルト家で出すなら別の形にする」
「好きに変えてください」
「そうする」
店を出る頃には、マルセルは久しぶりに翌日の厨房で何を試すかを考えていた。
◇
翌朝、マルセルはいつもより早く厨房へ入った。
副料理長のベルクは、すでに仕込み表を確認している。
「早いですね」
「お前もな」
「料理長より遅く来たら怒られるんで」
「怒鳴ったことはほとんどないだろ」
「顔が怖いです」
「余計なことを言うな」
マルセルは棚と保管庫を確認し、黄芋、根玉葱、昨日の赤牙豚の端肉を作業台へ出した。
「何するんです?」
ベルクが尋ねる。
「試作だ」
その一言を聞いたベルクは、手にしていた紙から顔を上げた。
「今、試作って言いました?」
「聞こえただろ」
「何か月ぶりです?」
「数えるな」
「何作るんです?」
「まだ決めてない」
「それはまた珍しいですね」
「うるさい」
マルセルは黄芋を茹で始めた。
昨日食べた料理をそのまま再現するつもりはない。ラングフェルト家で出すなら、もう少し軽く、客人が一口ずつ食べやすい形へ変えたい。
肉を中へ詰めるより、薄く重ねた方が皿へ整えやすいかもしれない。
香炎草も、生葉を刻むだけではなく、香りを油へ移す方法を使える。
一つ考え始めると、次の案が自然に出てきた。
◇
「ベルク」
「はい」
「お前なら、黄芋と赤牙豚をどう合わせる」
「俺ですか?」
「そうだ」
「料理長が決めるんじゃ?」
「聞いてるんだから答えろ」
ベルクは作業台の材料を見ながら考えた。
「薄切りにして重ねるなら、間に酸味が欲しいですね。肉と芋だけだと重くなるので」
「何を使う」
「乾燥赤実か、果実酢」
「果実酢は強すぎる」
「なら煮詰める?」
「それだと今度は重くなる」
「じゃあ赤実を少し刻む」
マルセルは頷いた。
「やってみろ」
「俺が?」
「試作だ。失敗してもいい」
ベルクは一瞬驚いた後、笑った。
「料理長、本当に昨日何があったんです?」
「焦げた香草を食った」
「焦げたまま?」
「正確には、使えるところを使った料理だ」
二人で試作を始めると、若い料理人たちも少しずつ集まってきた。
◇
最初の一皿は、黄芋の水分が多すぎて焼いている途中に崩れた。
二皿目は肉の塩気が強く、赤実の酸味とぶつかった。
三皿目になるとようやく形がまとまり始め、味の方向も見えてきた。
「香炎草、最後だけでいいんじゃないですか?」
サムが遠慮がちに言った。
例の失敗をした若い料理人である。
「理由は?」
「中に入れると香りが弱くなるからです。焼く前に入れると、また火が強すぎて苦くなるかもしれません」
「なら試せ」
「俺が?」
「お前が言ったんだろ」
「はい」
サムは緊張しながらも、自分で香炎草の量を決めた。
完成した四皿目は、薄く潰した黄芋と赤牙豚の細切りを重ねて表面を焼き、仕上げに香炎草の油と刻んだ生葉を少量散らしたものになった。
全員で味を見る。
「悪くない」
マルセルが言う。
ベルクが笑った。
「料理長の『悪くない』は、かなり上ですよ」
「まだ塩が少し強い」
「そこ直せば出せます?」
「まず昼の使用人食で試す」
「いきなり客じゃないんですね」
「当然だ。試作と本番を分けるためにやってる」
マルセルは久しぶりに、完成途中の皿へ自分から次の修正点を書き込んだ。
◇
数日後、その料理は主人の家族向けの夕食へ出された。
客人を招く正式な晩餐ではなく、家族だけで囲む比較的気楽な食事である。
食後、ラングフェルト子爵が厨房へ使いを寄越した。
「主菜がよかったので、料理長へ伝えるようにとのことです」
給仕が言う。
マルセルは一瞬だけ黙った。
「主人は何と?」
「『新しい料理だったな。今後も使えそうだ』と」
「そうか」
「それから、『誰が考えた』とも聞かれました」
マルセルが顔を上げた。
「何と答えた」
「料理長を中心に、厨房で試作したと伝えました」
「そうか」
給仕が去った後、ベルクが横からこちらを見た。
「嬉しそうですね」
「普通だ」
「顔に出てますよ」
「給仕もお前も、人の顔ばかり見てるな」
「で、嬉しいんですか?」
マルセルは少し考えた。
「嬉しい」
それを認めても、何かが減るわけではなかった。
「でも俺一人の料理じゃない」
「昨日の試作、全員参加でしたからね」
「サムの香草の使い方も残ってる」
「じゃあ厨房の料理ですね」
「ラングフェルト家の料理でもある」
「料理長の料理でも?」
マルセルは少し笑った。
「それも入れておけ」
◇
その後も、マルセルが毎日新しい料理を作るようになったわけではない。
晩餐会が続けば、実績のある料理を選ぶ。失敗できない場面では、安全な方法を使い、主人の希望が明確なら、それへ沿った献立を優先する。
そうした料理長としての基本まで変える必要はなかった。
ただし、一週間に一度、昼の仕込みが比較的軽い日に、正式な試作時間を設けることにした。
厨房の若い者も参加してよい。
使うのは余った食材や、少量だけ仕入れた新しい材料。
客人へ出せない失敗作になれば、原因を確認してそこで終わらせる。うまくいけば使用人食で試し、その後に家族用、必要なら最後に晩餐へ上げる。
以前、自分が自然にやっていたことを、今度は料理長として厨房の仕組みにした。
◇
最初のうちは、若い料理人たちも遠慮していた。
料理長の前で自分の案を出すことに慣れておらず、マルセルが「何かないか」と尋ねても、誰もすぐには口を開かない。
「失敗してもいいと言ってるだろ」
「でも料理長の試作ですよね」
サムが言った。
「誰がそんなこと言った」
「料理長が始めたので」
「厨房の試作だ。俺の答えを当てる時間じゃない」
その言葉を聞き、ベルクが笑った。
「じゃあ俺、昨日余った川魚で一個あります」
「言え」
「酸味の強い果実と合わせて焼くのはどうです?」
「理由は?」
「脂が少ない魚だから、普通に焼くと少し物足りない」
「やってみろ」
こうして少しずつ、若い料理人たちも自分の案を口にするようになった。
◇
一か月ほど経った頃には、試作から二つの料理が正式な献立へ入っていた。
一つは香炎草を使った黄芋と赤牙豚の重ね焼き。
もう一つは、サムが原案を考えた川魚と酸味のある果実を合わせた焼き料理だった。
後者を初めて主人へ出した時、ラングフェルト子爵は食後に尋ねた。
「これはマルセルの料理か?」
給仕からその言葉を伝えられ、マルセルは少し考えた。
「サムを呼べ」
「本人を?」
「ああ」
若い料理人は、何事かと青い顔でやって来た。
「料理長、何かまずかったですか?」
「違う。主人が誰の料理か聞いた」
「え?」
「お前が考えた料理だと伝える」
「料理長のでいいです」
「よくない」
「でも」
「お前が原案を考えて、厨房で直した。なら、そのまま伝えればいい」
サムは落ち着かない顔をした。
◇
「怒られませんか?」
「なぜ怒られる」
「俺みたいなのが考えたって」
「料理を考えたからだろ」
「でも、ラングフェルト家の料理ですよね」
「そうだ」
「じゃあ、それだけで」
「家の料理で、お前が考えた料理だ。どちらか一つへ決める必要はない」
自分で言いながら、あの日《持ち込み食堂》で聞いた言葉を思い出した。
店の料理であり、作った人間の料理でもある。
ラングフェルト家の料理であり、厨房で働く誰かが考えた料理でもある。
サムは主人へ直接会ったわけではなく、給仕を通じて、若い料理人が原案を考え、厨房全体で仕上げた料理だと伝えられただけだった。
それでも、後から「よい工夫だった」という言葉が返ってきた。
サムは、その日ずっと落ち着かなかった。
「料理長」
「何だ」
「名前が出ると、こんな感じなんですね」
「どんな感じだ」
「怖いけど、嬉しい」
マルセルは笑った。
「分かる」
昔の自分なら、その感覚を「料理人は名前じゃない」と切り捨てていたかもしれない。
今は、名前を求める気持ちそのものを否定しなくなっていた。
◇
数週間後、マルセルは勤務を終えてから再び《持ち込み食堂》を訪れた。
今度は焦げた香草を持っていない。
代わりに、新しく仕入れた香炎草を少量だけ包んで持ってきた。
「今度は焦げてないですね」
ミレイアが言う。
「当たり前だ」
「今日は何を作ります?」
悠斗が尋ねる。
「俺にもやらせろ」
「え?」
「厨房、少し借りられるか」
悠斗は少し考えた。
「危ないことしないなら」
「料理長に何を言ってる」
「初めて来た人には貸さないですけど、もう料理人なのは分かってるので」
「助かる」
マルセルは袖をまくった。
作ったのは、黄芋と赤牙豚の重ね焼きを小さくした料理だった。
屋敷で出しているものと完全に同じではなく、食堂で一人が食べやすいよう少し簡略化し、香炎草の量も自分の好みに合わせて強めにしている。
悠斗も途中で意見を出した。
「香草、最後だけじゃなく油にも入れます?」
「ああ。最初にお前がやった方法だ」
「じゃあ、かなり低い温度で」
「分かってる」
「焦がさないでくださいね」
「一度の失敗をいつまで言う」
ミレイアが笑い、マルセルもつられて笑った。
◇
完成した料理を、三人で少しずつ味見した。
「前より香りが強いですね」
悠斗が言う。
「屋敷では客人向けだから、もう少し抑えてる」
「こっちは?」
「俺が食いたい量だ」
そう答えてから、マルセルは自分でその言葉を気に入った。
誰かのために作る料理がある。
家のために作る料理もあり、客人の好みに合わせる料理もある。
それらを大切にしながら、自分が食べたい料理を考える時間まで捨てる必要はない。
「料理名は?」
ミレイアが尋ねる。
マルセルは少し考えた。
「《香炎草と黄芋の重ね焼き》でいい」
「普通ですね」
「料理名まで目立たせる必要はない」
「そこは変わらないんですね」
「全部変える必要はないだろ」
食べ終えた後、マルセルは店を出た。
◇
夜のレーヴェンは、昼間より静かだった。
明日になればまたラングフェルト家の厨房へ入り、主人のために献立を考える。晩餐会があれば家の名に恥じない料理を出し、客人が満足すれば、その言葉はきっとまた「ラングフェルト家の料理は素晴らしい」という形で届くだろう。
それでよかった。
その言葉の中に、自分たちの仕事が含まれていることを、今は以前より素直に受け取れる。
ただし、それだけで終わらせる必要もなかった。
厨房では、自分が何を考えたのかを残す。若い料理人の工夫には、その人間の名前を残す。新しい皿を作る時には、失敗を恐れるあまり、客へ出すより前の試作まで止めてしまわない。
家の料理を作ることと、自分たちの料理を作ることは、必ずしも反対ではない。
翌朝、マルセルは厨房へ入ると、いつも通り仕込み表へ目を通した後、その週の試作欄へ新しく届いた春鳥の肉と香炎草の名を書き加えた。担当者の欄には自分の名だけでなくベルクとサムの名も並べ、晩餐へ出せる一皿になるかどうかはまだ分からなくても、誰が考え、誰が試し、どこで失敗し、どこを直したのかまで自分たちの仕事として残していくつもりで、久しぶりに答えの決まっていない料理へ向けた仕込みを始めていった。
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