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異世界持ち込み食堂~あなたの食材を料理します~  作者: シロの空


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第58話 泥のついた白蕪と、頭を下げすぎる農夫

 ヨハン・クレイグは四十六歳になる人間の男性であり、アルヴェール伯爵領の南東部にある農村《セイル村》で、自分の畑を耕しながら周辺の農家をまとめる役目も務めていた。日に焼けた肌には長年の野良仕事で刻まれた細かな皺があり、短く刈った焦げ茶色の髪にもすでに白いものが混じり始めているうえ、太い指には鍬や鎌を握り続けてきた者に特有の硬い節と古い傷がいくつも残っている。


 背丈はそれほど高くないものの、腰と肩には土仕事で鍛えられた厚みがあり、重い野菜籠を一人で運ぶ程度なら今でも若い農夫に簡単には負けなかった。ところが人と話す時だけは、その頑丈な身体を小さく折り畳むように頭を下げる癖があり、相手が商人でも役人でも、自分より身分が高いと分かった瞬間には必要以上に腰を低くしてしまう。


 村の者たちは、ヨハンを気の弱い男だとは思っていなかった。畑の水路を誰が修理するかで揉めれば双方の事情を聞いたうえで判断し、共同倉庫の使用順を決める際には年長者が相手でも必要なら反対する。病害が出た畑を隔離すべきかどうかで意見が割れた時には、自分の畑が隣接しているにもかかわらず、村全体への被害を防ぐため早期処分を主張したことさえあった。


 つまり、自分たちと同じ農民を相手にしている限り、ヨハンは必要なことを言える人物だった。


 しかし、相手が領主家の者や役人になると事情はまるで変わり、問いかけられれば「問題ございません」と答え、条件を尋ねられれば「仰せの通りに」と返し、多少の不満や不安があったとしても、それを口へ出す前に飲み込んでしまう。そうした態度は礼儀を重んじているというより、偉い者へ逆らえば自分だけではなく家族や村にまで迷惑がかかるという、子どもの頃から身体へ染み込んだ恐れに近かった。


          ◇


 セイル村は、レーヴェンから馬車で一日ほど南東へ進んだ場所にあり、周囲を緩やかな丘と広い畑に囲まれている。主に麦と根菜を育てる村で、春には根玉葱、夏には豆類、秋から冬にかけては白蕪や土中で甘味を蓄える《土蜜根》が多く収穫されていた。


 豊かな村とは言えなかったが、土質は比較的安定しており、大凶作さえなければ最低限の収穫は確保できた。そのため何世代にもわたって同じ土地を耕し続けてきた家も多く、ヨハンの家もその一つだった。


 父親は口数の少ない農夫で、母親は畑仕事をしながら家畜の世話と保存食作りを担っていた。ヨハンは四人きょうだいの長男として生まれ、物心がついた頃には畑の石拾いや水運びを手伝っており、農作業を知らないまま過ごした日はほとんどなかった。


 父から何度も教えられた言葉がある。


「土は嘘をつかん。手を抜けば、その分だけ返ってくる」


 ヨハンは、その言葉が好きだった。畑仕事は決して楽ではないが、種を蒔き、草を取り、水をやり、天候にも恵まれれば、それなりの形で結果が返ってくる。自然を相手にしている以上、努力だけではどうにもならない年もあるものの、それでも人の機嫌を読み続けるよりは分かりやすかった。


 ただし、父にはもう一つ、ヨハンが同じくらい何度も聞かされた教えがあった。


「役人には逆らうな。領主様の家の者には、もっと逆らうな」


 幼いヨハンは、その理由を深く考えずに覚えた。


          ◇


 ヨハンが十一歳だった年、村で水路の使用を巡る揉め事が起きた。


 夏の雨が少なく、上流側の畑が水を多く使ったことで、下流側まで十分な量が届かなくなったのである。村の中で何度も話し合いを続けたものの、双方とも自分たちの作物を守りたいので譲らず、最後には領の管理を担当する役人が状況を確認するため村へ来ることになった。


 役人は実際に水路を見たうえで、上流側が水を取る時間を短くし、下流へ流す時間を増やすよう命じた。村全体を見れば妥当な判断ではあったが、ヨハンの父には本当なら一つ確認しておきたいことがあった。


 決められた時間では、水路の最奥に近い自分たちの畑まで、十分な水量が届かない可能性が高かったのである。


 それでも父は何も言わなかった。役人が最後に「異論はあるか」と尋ねても、誰より深く頭を下げながら、「ございません」とだけ答えた。


 数日後、父が懸念していた通りに水が足りなくなり、家の畑の一部が枯れた。


「何であの時、言わなかったの?」


 悔しくなったヨハンが父へ尋ねると、父はしばらく黙ってから低い声で答えた。


「役人が決めたことだ」


「でも、足りないって分かってたんでしょ」


「だからって逆らえるか」


「聞くだけでもよかったじゃないか」


「子どもには分からん」


 父はそこで話を終わらせ、それ以上説明しなかった。


          ◇


 その年、家の収穫は大きく減った。


 暮らせないほどではなかったが、冬を越すために保存していた豆の一部を売り、母が大切に飼っていた羊まで一頭手放すことになった。それでも父は役人を恨むような言葉を口にせず、自分たちの畑が水路の奥にある以上、仕方のなかったことだと繰り返した。


 ヨハンも、それ以上は何も言わなくなった。


 ただ、その出来事を通じて、二つの考えを同時に覚えた。


 偉い者の決定に口を挟むのは危険かもしれない。


 けれど、黙って従えば自分たちが損をすることもある。


 本来なら整理しなければならない二つの教訓だったが、当時のヨハンにはどう考えればよいのか分からず、結果として、村の中では必要なことを言う一方で、外から来た権限のある者には黙るという現在の性格が作られていった。


          ◇


 二十代になると、ヨハンは父から畑を引き継ぎ、近隣の農家と協力しながら作物を市場へ出すようになった。その頃には妻のミーナと結婚し、息子二人と娘一人にも恵まれ、自分自身が子どもへ何かを教える立場になっていた。


 父親になってからは、自分の子どもたちへ同じ恐れ方を教えたくないという気持ちもあった。


「分からないことは聞け。困っているなら言え。畑のことは、畑を見ている者にしか分からないことがある」


 そう教えてきたものの、自分自身がその通りにできているかと問われれば、胸を張ることはできなかった。


 村役人へ税の納入時期を尋ねる程度なら問題なく、商人へ買い取り価格の相談をすることもできる。ところが伯爵家の紋章がついた馬車が村へ入ってきただけで、昔の父親と同じように身体が固くなった。


 無礼があってはいけない。口答えと思われてはいけない。農民が余計なことを言って、取引そのものを失ってはいけない。


 そう考えれば考えるほど、本当に伝えるべきことまで喉の奥へ引っ込んでいった。


          ◇


 問題が起きたのは、その年の秋だった。


 アルヴェール伯爵家では、領内で生産される農産物の流通を見直す試みが始まっており、家令補佐ハインツが担当する小規模な試験契約も、その一つとして進められていた。保存性の高い作物を新たに選び、運搬時の損傷率、保管方法、買い取り価格、包装方法まで確認しながら、条件が合えば翌年以降の取引を増やす計画である。


 セイル村が候補に選ばれたのは、《白冠蕪》という大型の蕪を安定して生産していたからだった。


 白冠蕪は普通の蕪より一回り大きく、表面は白く滑らかで、寒さに当たると中の甘味が増す。生でも食べられるが、煮込めば柔らかくなり、それでいて崩れにくいため、冬の食材としては非常に扱いやすい。


 ただし、一つ大きな問題があった。


 形が揃いにくいのである。


 市場で高値がつくのは丸く、皮がきれいで、大きさも一定のものに限られ、少し曲がったものや二股に分かれたもの、表面へ土傷がついたものは、味が変わらなくても価格が大きく下がってしまう。


 今回の伯爵家の試験では、まず「見栄えのよい白冠蕪を一定数揃えること」が条件として示された。


          ◇


 ヨハンは村の代表として、その説明を聞いた。


 ハインツ本人と農産物担当の事務係が二人で村を訪れ、畑の近くにある集会小屋で条件を説明した。


「最初は百個を試験として購入します」


 ハインツが書類を見ながら話す。


「大きさはこの範囲。表面の大きな傷は避け、葉は短く切り揃えてください。運搬籠はこちらで一部用意しますが、村側でも従来の籠を使い、差を比較したいと思います」


「承知しました」


 ヨハンは深く頭を下げた。


「包装作業に必要な人数は?」


「問題ございません」


「今までより手間が増えますが?」


「問題ございません」


「収穫時期を少し早めてもらう可能性もあります」


「仰せの通りに」


 そこでハインツが書類から顔を上げた。


「クレイグさん」


「はい」


「本当に問題はありませんか?」


「はい。伯爵家からのお話でございますので」


「伯爵家からの話だから問題がない、という意味ではないのですが」


「申し訳ございません」


「謝らなくても構いません」


 そう言われても、ヨハンは反射的にさらに頭を下げた。


          ◇


 説明が終わった後、村の農家たちが集まった。


「どうだった?」


 一人の農夫が尋ねる。


「百個だ。形の揃ったやつを出す」


「百個だけ?」


「今回は試験だ」


「包装も変えるって聞いたぞ」


「ああ」


「誰がやる?」


「みんなで分ける」


 若い農夫が不安そうに口を挟んだ。


「収穫を早めたら、小さいのが増えないか?」


「増えるかもしれん」


「それ、言った?」


 ヨハンは一瞬だけ黙った。


「向こうで決めることだ」


「でも、畑を見てるのは俺らだろ」


「試験なんだから、まずやってみればいい」


 そう答えながら、自分でも少し苦しい言い方だと思った。


          ◇


 実際に作業を始めると、懸念していた問題はすぐに表面化した。


 白冠蕪を通常より早く収穫すると、大きさの基準に届かないものが目に見えて増えた。さらに表面をきれいにするため、泥を落としてから布で拭く作業が追加されたことで、一箱を仕上げるまでの時間も従来より長くかかった。


 普段なら、収穫した蕪は大まかに泥を落とし、葉を切って市場へ運ぶだけでよい。ところが今回は大きさを測り、傷の有無を確認し、泥を丁寧に落としたうえで形の悪いものを除外し、選ばれたものだけを擦れないよう藁を挟みながら籠へ並べなければならない。


 一つ一つの作業だけを見れば大したことではないものの、百個を揃えるとなると、必要な人手も時間も無視できないほど増えた。


 しかも、基準から外れた白冠蕪が大量に残った。


          ◇


「これ、どうする?」


 ヨハンの長男であるニールが、畑の端へ積まれた蕪を見ながら尋ねた。


 二十三歳になったニールは、父と同じように農業を継ぐつもりで働いている。


「市場へ出す」


「こんなに一度に?」


「分けて出せばいい」


「それでも値崩れするだろ」


「仕方ない」


「伯爵家に言わないの?」


「何をだ」


「早く採ると規格外が増えるって」


「もう始めた後だ」


「だから次を変えてもらえばいいだろ」


「試験の途中で文句を言うな」


 ヨハンが少し強い声を出すと、ニールは黙った。


 その顔を見て、すぐに言いすぎたと思ったものの、素直に謝ることもできなかった。


「文句じゃなくて、結果だろ」


 しばらくしてニールが言った。


「何?」


「早く採ったら小さいのが増えましたって、それは試験の結果じゃないの?」


「分かってる」


「じゃあ何で言わないんだよ」


「簡単に言うな」


「何が?」


「伯爵家との取引だぞ。村一つの都合で条件を変えろなんて言えば、次から声がかからなくなるかもしれん」


「でも、向こうは試験なんだろ?」


「そうだ」


「だったら、失敗したことまで伝えるための試験じゃないのか」


 息子に言われた言葉が、ヨハンの胸へ残った。


          ◇


 試験納品の三日前には、さらに別の問題まで重なった。


 夜に雨が降ったことで、収穫した白冠蕪の表面へ湿った泥が大量につき、いつも以上に洗浄へ時間がかかったのである。若い農夫たちは交代しながら作業を続けたが、それでも予定より半日近く遅れ、ヨハン自身も夜まで残って泥を落とした。


「明日、ハインツ様へ連絡した方がいい」


 村の会計係が言った。


「何を?」


「予定より遅れるかもしれないって」


「まだ間に合う」


「間に合わなかったら?」


「間に合わせる」


「どうやって?」


「人を増やす」


「もう増やしてる」


「なら夜もやる」


「このまま続けたら怪我するぞ」


 ヨハンは答えず、目の前の蕪へ手を伸ばした。


          ◇


 翌朝、伯爵家から進捗確認の使いが来た。


「進み具合はいかがですか?」


 若い事務係が尋ねる。


 ヨハンの後ろでは、眠そうな顔をした農夫たちが黙々と泥を落としていた。


「問題ございません」


 いつもの言葉が、考えるより先に口から出た。


「予定通り、明日の夕方には積み込みできますか?」


「はい」


「本当に?」


「はい」


 事務係は少し迷うような顔をしたが、それ以上は何も言わず、馬へ乗って村を離れていった。


 ヨハンもすぐ作業へ戻ったが、その日の午後、若い農夫の一人が手を切った。


 幸い大きな怪我ではなかったものの、疲労で手元が鈍り、蕪の葉を落とす刃物を滑らせたのである。


 そこでヨハンは、ようやく作業を止めた。


「今日は終わりだ」


「でも納品は?」


 ニールが聞く。


「明日の朝からやる」


「間に合わないぞ」


「分かってる」


「じゃあどうする?」


 ヨハンは答えられなかった。


 間に合わせると言った。


 問題ないと伝えた。


 それなのに、実際には問題があるどころか、自分が黙っていたせいで村の者へ無理をさせてしまった。


 伯爵家から嫌われないために黙ったはずなのに、このままではむしろ約束を破ることになる。


「父さん」


 ニールが静かに声をかけた。


「何だ」


「レーヴェン行ってこいよ」


「今から?」


「遅れるって言うしかないだろ」


「使いを出せば」


「自分で行った方がいい」


 ヨハンはしばらく息子の顔を見てから、ようやく頷いた。


          ◇


 その日の夕方、ヨハンは一人でレーヴェンへ向かった。


 馬車では時間がかかるため村から借りた馬を使い、できるだけ日が落ち切る前に街へ着けるよう急いだ。


 出発前、妻のミーナが小さな布袋を渡してきた。


「これ持っていって」


「何だ」


「昼から何も食べてないでしょう」


「途中で食う」


「本当に?」


「分かった。食うよ」


 中には黒パンと干し肉、それから小さな白冠蕪が二つ入っていた。


「蕪まで?」


「今日、除けたやつ。小さいけど、煮れば食べられるから」


「町で生のまま食えってことか」


「そういう意味じゃないよ。帰りにでも持って帰ればいいでしょう」


 ヨハンは苦笑しながら袋を受け取った。


          ◇


 レーヴェンへ着いた頃には、すでに日が傾いていた。


 伯爵家の本邸へ直接向かい、門番へ名を告げると、試験契約の件だと伝わっていたため、しばらく待たされた後にハインツが応対へ出てきた。


「クレイグさん」


「申し訳ございません」


 顔を見た瞬間、ヨハンは深く頭を下げた。


「何があったのですか?」


「納品が遅れます」


「どの程度でしょう」


「半日、場合によっては一日ほど」


「原因は?」


「こちらの不手際でございます」


「具体的には?」


「雨で泥落としに時間がかかり、作業が遅れました」


「それだけですか?」


「はい」


 ヨハンはそう答えたものの、ハインツはすぐには次へ進まず、しばらく黙ったままこちらを見ていた。


          ◇


「クレイグさん」


「はい」


「最初の説明の時、私は何度か問題がないか尋ねました」


「はい」


「その時も『問題ございません』と答えましたね」


「申し訳ございません」


「謝罪を求めているわけではありません」


「はい」


「収穫時期を早めたことで、何か変化はありましたか?」


 ヨハンの胸が詰まった。


「……少し」


「具体的には?」


「小さい蕪が増えました」


「どの程度?」


「普段より二割ほど多く、規格から外れております」


「他には?」


「泥を丁寧に落とす作業で、時間がかかっています」


「どの程度?」


「一箱につき、普段の倍近くです」


 ハインツの表情が少し変わった。


「それを、なぜ伝えなかったのですか?」


 責めるような声ではなかったが、それでもヨハンは身体が固くなるのを感じた。


「こちらで対応すべきことだと思いました」


「誰がそう決めました?」


「誰が、とは」


「試験条件を変えたことで増えた作業なら、それも試験結果です。村側だけで処理するよう、こちらから指示しましたか?」


「いいえ」


「では、なぜ黙っていたのですか?」


 ヨハンは言葉を探し、ようやく絞り出した。


「伯爵家とのお話ですので、こちらから条件に意見するのは……」


 そこまで言うと、ハインツが小さく息を吐いた。


          ◇


「少し前の私なら、その返事を聞いても詳しく確認しなかったかもしれません」


「はい?」


「ですが、今は聞きます。クレイグさん、本当に困っていることを全部話してください」


「ですが」


「これは服従を求める命令ではありません。試験を続けるために必要な情報を求めています」


 ヨハンはすぐには口を開けなかった。


 伯爵家の家令補佐を前にして、「手間が多すぎる」「今の条件では厳しい」と言うことが、本当に許されるのか分からない。子どもの頃から身体へ染み込んだ恐れは、相手が穏やかに話している程度で簡単には消えてくれなかった。


 ハインツは急かさずに待ち、しばらくしてから続けた。


「今日中に全部決める必要はありません。ただ、今のまま『問題ない』という報告だけでは、こちらも正しい判断ができません」


 その言葉は、ヨハンが想像していたものとは少し違って聞こえた。


          ◇


「……百個を揃えるために、かなり多く掘りました」


 ヨハンがようやく言う。


「何個ほどでしょう」


「正確には数えておりませんが、百七十以上です」


「七十以上が規格外?」


「小さいもの、曲がったもの、傷のあるものを合わせれば、それくらいになります」


「それらはどうします?」


「市場へ出します」


「一度に?」


「分けます」


「価格は下がりませんか?」


「下がると思います」


 ハインツは手元の帳面へ書き込んだ。


「他にはありますか?」


「包装へ人手がかかります」


「何人ほど増えています?」


「普段より四人ほど多く必要です」


「時間は?」


「半日以上余計にかかっています」


 一度話し始めると、これまで黙っていたことが次々と出てきた。


 収穫時期を早めることで成長途中のものが増えること。形を揃えるため選別を厳しくすれば、本来なら十分売れる蕪まで規格外へ回ってしまうこと。泥を完全に落とすには水も人手も必要になり、藁を挟んで並べる包装は傷を減らせそうな一方、一籠へ入る数が減るため運搬効率が落ちること。


 百個だけなら何とかできても、これを五百、千と増やすなら、今の条件のままでは村側の負担が大きすぎることまで、ヨハンはようやく口にした。


「それを最初に聞きたかったのです」


 最後にハインツが言った。


 ヨハンは俯いた。


「申し訳ございません」


「謝る必要はありません、と言いたいところですが、黙られるのは困ります」


 今度は、はっきりそう言われた。


          ◇


「困るのですか?」


「はい。試験は、うまくいくと証明するためだけに行うものではありません」


 ハインツは帳面を閉じた。


「何が難しいのか、どこへ余計な負担が出るのかを確認するためでもあります。村側が無理をして条件を達成し、それを『問題なし』と報告すれば、こちらはその条件で継続できると判断してしまうでしょう」


 ヨハンは黙って聞いた。


「その結果、来年から数量を増やしたらどうなります?」


「……村が回らなくなるかもしれません」


「それでは困ります」


「ですが、こちらから値段や条件へ口を出すのは」


「口を出してください。ただし、理由と数字を持って」


 ヨハンが思わず顔を上げる。


「何でも要求すれば通るという話ではありません。こちらにも予算がありますし、買い手として譲れない条件もあります。それでも、交渉するには双方の事情が必要です」


 ヨハンはその言葉を、すぐには理解しきれなかった。


「交渉、ですか」


「そうです」


「伯爵家と農民が?」


「今回については、契約相手としてです」


「でも、こちらは伯爵様の領民です」


「領民であることと、農産物の売買条件を相談することは別でしょう。税を払わないと言っているわけでも、領主の命令へ反抗しているわけでもありません」


 ヨハンは、子どもの頃の父を思い出した。役人へ何も言わず、家の畑が枯れることになっても「仕方ない」とだけ言った父と、自分がいつの間にかほとんど同じことをしていた。


          ◇


「納品は一日遅らせましょう」


 ハインツが言った。


「よろしいのですか?」


「試験ですから。その代わり、村へ戻ったら無理に作業を続けず、十分に休ませてください」


「もう今日は止めています」


「それでいいです」


「ですが、遅れた分の費用は」


「後で整理します。今回の遅れが村側の怠慢によるものなのか、こちらの条件設定が原因なのかも含めて確認しなければ、次の判断ができません」


 また同じ考え方を示された。


 感情で許すのではなく、試験のために必要だから確認し、条件を変える。


 ヨハンが恐れていた「文句を言う農民」という扱いではなかった。


 話が終わる頃には、外はかなり暗くなっていた。


「今日は泊まっていきますか?」


 ハインツが尋ねる。


「いえ。村へ戻ります」


「今から?」


「馬なら夜半には着けます」


「疲れているでしょう」


「問題ございません」


 反射で答えた瞬間、ハインツが無言でこちらを見た。


 ヨハン自身も、自分が何を言ったのかすぐに分かった。


「……疲れております」


 言い直すと、ハインツがわずかに口元を緩めた。


「それなら、宿を取った方がいいでしょう」


「はい。そうします」


          ◇


 屋敷を出たヨハンは、近くの安宿へ向かうつもりだった。


 ところが歩き始めてから、自分が昼からほとんど何も食べていないことに気づいた。妻から渡された布袋には黒パンと干し肉が残っており、そのまま宿で食べても十分ではある。


 袋の底へ手を入れると、小さな白冠蕪が二つ触れた。


 二つとも、伯爵家の規格には届かなかったものだった。一つは少し曲がり、もう一つは二股に分かれているが、食べられないわけではなく、味にも問題はない。


 ヨハンは二つの蕪を見ながら、最近村へ来た商人が話していた店のことを思い出した。


 持ち込んだ食材を料理してくれる、西区の《持ち込み食堂》。


 腹も減っていたため、宿へ向かう前にそちらへ足を向けることにした。


          ◇


 店へ入ると、温かい料理の匂いが鼻へ届いた。


「いらっしゃいませ。持ち込みですか?」


 ミレイアが声をかける。


「一応、そのつもりだ」


 ヨハンは布袋から二つの白冠蕪を出した。


「蕪?」


「《白冠蕪》だ」


「大きいですね」


「これは小さい方だ」


「これで?」


「ああ。売り物の基準だと外れる」


 ミレイアが二股になった方を持ち上げた。


「どうして?」


「形が悪い」


「食べられない?」


「いや、食べられる」


 そのやり取りを聞き、厨房から悠斗も出てきた。


「今日採れたものですか?」


「今朝だ」


「泥が少し残ってますね」


「悪い」


「畑から来たなら普通ですよ。傷んでいる感じもなさそうです」


 悠斗は水で泥を落とし、皮を薄く削った。二股になった部分も丁寧に洗い、少し切って生のまま味を見る。


「甘いですね。辛味も少ない」


「寒くなってきたからな。煮るともっと甘くなる」


「じゃあ、今日は煮ましょう」


          ◇


「何か合わせたいものはあります?」


「何でもいい」


「普段、村では何と食べます?」


「肉がある日は塩漬け肉と煮る。普段は豆か根玉葱だ」


「今日は肉ありにします?」


 ヨハンは一瞬考えた。


 昼食をまともに食べておらず、腹の奥がかなり空いている。


「……頼む」


「分かりました」


 悠斗は白冠蕪を大きめに切り、塩漬け肉を水で少し戻しながら根玉葱と豆を用意した。


 ヨハンはカウンターへ座り、出された温かい水の器を両手で包んだ。そこでようやく、自分が思っていた以上に疲れていることへ気づいた。


「畑仕事ですか?」


 ミレイアが尋ねる。


「ああ」


「レーヴェンの人じゃないですよね」


「セイル村から来た」


「遠い?」


「馬で一日くらいだ」


「今日は何しに?」


 ヨハンは少し迷ってから答えた。


「伯爵家へ謝りに来た」


「何したんです?」


「納品が遅れる」


「怒られました?」


「いや」


「じゃあ?」


「困ってることを話せと言われた」


 ミレイアが首を傾げた。


「今まで話してなかったんですか?」


「話せるか。相手は伯爵家だぞ」


          ◇


 ミレイアは少し考えてから言った。


「でも、何か買ってもらう話なんですよね?」


「そうだ」


「なら、値段とか条件とか話すんじゃないですか?」


「普通はな」


「伯爵家だと違う?」


「違うだろ」


「どう違うんです?」


 ヨハンは答えようとして、言葉に詰まった。


 領主家だから。


 身分が高いから。


 自分たちは農民だから。


 理由はいくつも思い浮かぶが、売買の条件を相談する場面で、それがどこまで関係するのかを考えたことはなかった。


「相手に逆らうのが怖い?」


 悠斗が根玉葱を炒めながら尋ねた。


「逆らうつもりはない」


「じゃあ、困ってるって言うのは逆らうことですか?」


「……昔から、余計なことは言うなって教わった」


「誰に?」


「親父だ」


 ヨハンは水を一口飲み、子どもの頃にあった水路の出来事を話した。


          ◇


 役人が使用時間を決めたこと、父が水不足になると分かっていたのに何も言わなかったこと、その結果として自分たちの畑が一部枯れたことまで話すと、悠斗もミレイアも途中で口を挟まず聞いていた。


「それで、今も言わないようにしてる?」


 悠斗が尋ねる。


「村の中なら言う」


「外だと?」


「相手による」


「伯爵家には言えない?」


「ああ」


「でも今日は、言ったんですよね」


「言わされたようなものだ」


「何て言われたんです?」


「試験に必要な情報だから話せ、と」


 悠斗が鍋へ水を入れ、炒めた根玉葱と塩漬け肉を移した。


「それなら、向こうは聞きたかったんじゃないですか」


「そうらしい」


「なのに最初は問題ないって?」


「言った」


「本当は?」


 ヨハンはしばらく黙った後、思わず本音をこぼした。


「問題だらけだ」


 言ってから、自分自身が少し驚いた。


          ◇


「どんな問題です?」


 ミレイアが尋ねる。


「早く掘れば小さいのが増える。形を揃えると規格外が大量に出る。泥を落とすのに人手がかかるし、包装にも時間がかかる」


「じゃあ、かなり大変ですね」


「大変だ」


「でも最初は問題ないって?」


「……そうだ」


「どうして?」


「嫌なら取引をやめると言われるかもしれん」


「実際に言われたんですか?」


「いや」


「前に誰かが?」


「知らん」


「じゃあ想像?」


 ヨハンは眉を寄せた。


「農民は、そういうものだ。偉い人から仕事をもらったら、まずありがたいと思う」


「ありがたいと思うことと、無理をすることは同じですか?」


 悠斗が聞いた。


「同じではない」


「なら、無理なら無理って言ってもいい?」


「それが難しいんだ」


「どうして?」


「もし、村の代わりはいくらでもあると言われたらどうする」


「実際、他にも作ってる村はあるんですか?」


「ある」


「じゃあ本当に条件が合わなければ、他の村と取引することになるかもしれない?」


「そうだ」


「でも、それって黙って無理しても同じじゃないですか?」


 ヨハンが悠斗を見る。


          ◇


「どういう意味だ」


「無理な条件を受けて、来年もっと数量が増えて、途中でできなくなったらどうなります?」


「……取引は切られるかもしれん」


「なら、最初に話して調整できるか確認した方がまだいいんじゃないですか?」


 ヨハンは黙った。


「もちろん、それでも条件が合わなくて取引しないことになるかもしれません。でも、それは文句を言ったからじゃなくて、条件が合わなかったからですよね」


「同じではないのか」


「俺は違うと思います」


 悠斗は白冠蕪を鍋へ入れながら続けた。


「料理でも、火が通らない食材を時間通り出せって言われたら、そのままでは無理です。だから切り方を変えるとか、時間を延ばすとか、別の料理にするとか相談します」


「客が偉い人でも?」


「偉い人に生焼け出す方がまずいでしょう」


 ミレイアが吹き出し、ヨハンも少しだけ口元を緩めた。


「確かにな」


「できないことをできるって言う方が、後で困ると思います」


「農業も同じか」


「そこはヨハンさんの方が詳しいでしょう」


 その言葉に、ヨハンは少し考え込んだ。


          ◇


 白冠蕪を作ってきた年数、雨の後にどれだけ泥が残るか、収穫を何日早めればどれほど大きさが変わるか、どの畑で土傷がつきやすく、運搬時には葉をどこまで残せば割れにくいか。


 そうしたことについてなら、ハインツより自分の方が詳しい。


 それは自慢ではなく、長年畑を見続けてきた者として当然の事実だった。


 伯爵家の事務係が最初からすべてを知っているはずはない。


 ならば、こちらが伝えなければ分からない。


 父が水路の件で何も言わなかった時、自分は「聞くだけでもよかった」と思っていた。それなのに今の自分は、息子から同じことを言われていた。


「親父と同じことをしてるな」


 ヨハンが呟いた。


「お父さんと?」


「ああ」


「嫌ですか?」


「嫌というより……情けないな」


「でも今日、話したんですよね」


 ミレイアが言う。


「聞かれたからな」


「次は聞かれる前に言うとか」


「それができれば苦労しない」


「じゃあ、一個だけ言うところから始めたら?」


「一個?」


「全部まとめて言おうとするから怖いんじゃないですか。次に会った時、一番変えてほしいことって何です?」


 ヨハンは少し考えた。


「収穫時期だな」


「どうしてほしい?」


「三日遅らせたい。そうすれば大きさが揃うし、規格外も減る」


「じゃあ、まずそれを言えばいいんじゃないですか」


 随分簡単な話に聞こえた。


          ◇


「三日遅らせれば、伯爵家の予定がずれるかもしれん」


「だから相談する?」


「そうなるな」


「向こうが駄目って言ったら?」


「別の条件を考える」


「それが交渉じゃないですか?」


 ハインツにも、ほとんど同じことを言われた。


 双方の事情を出し、そのうえで続けられる条件を決める。


 言われてみれば当たり前なのに、相手の身分が高いというだけで、自分はその当たり前から逃げていた。


「できましたよ」


 悠斗が鍋を火から下ろした。


 出されたのは、《白冠蕪と塩漬け肉の豆煮込み》だった。


 大きめに切られた白冠蕪は形を残したまま柔らかくなり、根玉葱と豆を煮込んだ汁には塩漬け肉の旨味がゆっくり溶け込んでいる。表面には刻んだ香草が少量だけ散らされ、素朴な料理でありながら、長く馬に乗って冷えた身体には十分すぎるほど温かそうに見えた。


 ヨハンは匙を入れ、まず蕪を一つ取った。


 噛むとほとんど抵抗なく崩れ、寒さに当たった白冠蕪特有の甘さへ、塩漬け肉の塩気が重なった。


「うまい」


「小さくても?」


「当たり前だ」


「曲がってても?」


「味は変わらん」


 そう答えてから、ヨハンは少しだけ苦笑した。


          ◇


「今回の規格だと外れるんですよね?」


「ああ」


「じゃあ、規格が悪い?」


「そうとも言い切れん。見た目を揃えたいなら必要だ」


「伯爵家で丸ごと出すなら?」


「形が揃ってる方がいいだろう」


「煮込むなら?」


「切れば分からん」


「じゃあ用途次第ですか?」


「そうなるな」


 ヨハンはもう一口食べた。


 今回の試験では、最初から「形のよいもの」だけを集めようとしていた。


 しかし、伯爵家が白冠蕪を何に使うのかまで、ヨハン自身は詳しく確認していなかった。


「規格外の蕪、全部安く売るんですか?」


 悠斗が尋ねる。


「そのつもりだった」


「何個くらいあります?」


「今の試験だけで七十以上だ」


「味は?」


「同じだ」


「じゃあ、別の使い道を相談してみてもいいんじゃないですか」


「伯爵家に?」


「必要なら。形の悪いのまで買えって言うんじゃなくて、切って使う用途なら要りませんかって聞く」


 ヨハンは匙を止めた。


「そんなことまで言っていいのか」


「聞くくらいなら。無理なら今まで通り市場へ出せばいいでしょう」


「……そうか」


 言う前から諦める必要はない。


 その考え方が、少しずつ腹へ落ちてきた。


          ◇


 食事を終える頃には、身体の冷えもかなり取れていた。


「残りの蕪、どうします?」


 悠斗が尋ねる。


「一つ残ってるな」


「持って帰ります?」


 ヨハンは少し考えた後、布袋へ戻した。


「明日、ハインツ様へ見せる」


「どうして?」


「これも試験の結果だからだ」


 自分で口にした言葉に、少し驚いた。


 規格外になった白冠蕪も、失敗として隠すものではない。


 どのくらい出るのか。


 なぜ出るのか。


 食べられるのか。


 それもすべて、次の条件を決めるための情報になる。


 ヨハンは料理代を払い、残った一つを大切に布へ包んだ。


          ◇


 翌朝、宿を出たヨハンはそのまま伯爵家へ向かった。


 昨日の話で用事は済んでいるため、本来なら村へ戻ってもよかったが、もう一度ハインツへ会いたいと門番へ伝えた。


 しばらくして前日と同じ部屋へ通される。


「クレイグさん?」


「昨日の話の続きがございます」


 ヨハンは頭を下げたものの、昨日ほど深くはなかった。


「どうぞ」


 ハインツが席を勧める。


 ヨハンは持ってきた白冠蕪を机の上へ置いた。


「これは?」


「規格から外れたものです」


「理由は?」


「小さいことと、形が曲がっているためです」


「味は?」


「問題ありません」


 今度の「問題ありません」は、本当に問題がないという意味だった。


「昨日、これと同じものを食べました」


「どこで?」


「西区の食堂で」


 ハインツがわずかに目を細めた。


「もしかして、《持ち込み食堂》ですか?」


「ご存じなのですか?」


「何度か行っています」


「そうでしたか」


 それなら、妙に納得できる気がした。


「煮込みにしたら、普通にうまかったです」


「でしょうね」


「そこで考えたことがあります」


 ヨハンは一度息を吸い、以前なら何度も入れていたであろう「差し出がましいことですが」という前置きを使わず、そのまま話した。


          ◇


「収穫時期を三日ほど遅らせたいです」


 ハインツはすぐに否定せず、理由を尋ねた。


「三日あれば、大きさが基準へ届くものが増えます。今の時期なら急に育ちすぎることも少ないので、規格外も減ると思います」


「納品時期は遅れます」


「はい。ですから、伯爵家側の使用予定と合わせて相談したいです」


「分かりました。他には?」


 ヨハンは続けた。


「泥を全部きれいに落とす作業も見直したいです。大まかに落として乾かし、その後で布で払う方が早い。水洗いするなら、村ではなく使用直前でもよいかもしれません」


「衛生面は?」


「乾いた土なら傷みにくいです。ただし、雨の後は状態が違うので、そこは別に考える必要があります」


 ハインツは、濡れたまま運ぶ場合との違い、土を残したまま保存した時の期間、傷がついた場合の腐敗率まで細かく質問した。


 ヨハンは分かる範囲で答えた。


「それから、規格外についても相談があります」


 以前なら、この一言を口にするだけでもかなり勇気が必要だっただろう。


「続けてください」


「形だけが悪く、味に問題がないものを別枠で買う需要はありますか?」


「厨房用ということですか?」


「はい。丸ごと客前へ出すなら向きませんが、切って煮るなら同じです」


「価格は?」


「通常品より安くても構いません。ただ、市場へ一度に流して値崩れするより、一定数まとめて引き取ってもらえれば助かります」


 ハインツはしばらく考えた。


          ◇


「それは私だけでは決められません」


「分かっています」


 ヨハンは自然に答えた。


「料理長と使用量を確認し、条件が合えば別の試験を組みます」


「お願いします」


「買い取りを保証するわけではありません」


「承知しています」


「断る場合もあります」


「その時は市場へ出します」


 それでよかった。


 相談したからといって、必ず要求が通るわけではない。


 断られたからといって、侮辱されたことになるわけでもない。


 条件が合えば取引し、合わなければ別の方法を探す。


 それが契約なのだと、ようやく少し理解できた。


「昨日より話しやすくなりましたか?」


 最後にハインツが尋ねた。


「まだ怖いです」


 ヨハンは正直に答えた。


「私が?」


「伯爵家が、です」


「そうですか」


「失礼でしたら」


「失礼ではありません。立場が違う以上、そう感じることもあるでしょう」


「はい」


「ただ、今回の試験については、黙られる方が困ります」


「覚えておきます」


「次から『問題ございません』と答える前に、一度考えてください」


 ヨハンは少し笑った。


「それは、かなり難しいです」


「私も似たような癖がありますので、分かります」


 ハインツも、わずかに口元を緩めた。


          ◇


 村へ戻ると、農夫たちがすぐに集まってきた。


「どうだった?」


「怒られた?」


「取引なくなる?」


 次々と質問が飛んでくる。


 ヨハンは馬から降り、荷物を下ろしながら答えた。


「納品は一日遅らせる」


「本当に?」


「ああ。試験だから、その遅れも結果として見るそうだ」


「大丈夫なのか?」


「大丈夫かどうかは、これから見る」


 ニールが腕を組んだ。


「他には?」


「収穫時期を三日遅らせる案を出した」


「父さんが?」


「ああ」


「自分から?」


「しつこいぞ」


 周囲が少し笑った。


「規格外も、別で買えるか伯爵家側に確認してもらう」


「曲がってるやつも?」


「味に問題がないものだけだ」


「値段は?」


「まだ決まってない。だから、これから話す」


 ヨハンはそこで、村の者たちを見回した。


「今度から作業時間を全部記録する。何人で何時間かかったか、規格外が何個出たかも数える」


「何で?」


「話す時に数字がいる」


 ニールが少し満足そうに頷いた。


「それ、最初からやればよかったな」


「うるさい」


「でもやるんだろ?」


「やる」


          ◇


 その日から、村では試験作業の記録方法を変えた。


 収穫した白冠蕪の総数、基準へ入った数、小さくて外れた数、傷で外れた数、曲がっているだけの数、泥を落とすために必要だった時間、包装へ使った人数、藁の量まで、これまでなら感覚で済ませていたものを、できる範囲で数字として残していった。


 最初は面倒だという不満も出たが、数日続けると意外なことが見えてきた。


 曲がっているだけの白冠蕪は全体の一割近くある一方で、傷が深く食用にも保存にも向かないものは、それよりずっと少ない。つまり「見た目が悪い」と一括りにしていた中に、十分利用できるものがかなり含まれていたのである。


 収穫時期を三日遅らせた試験では、規格内へ入る割合も明らかに増えた。


 泥落としについても、水洗いを減らし、乾燥させてから布で払う方法を試すと手間がかなり軽くなった。ただし、雨の翌日は土が固まりやすく、同じ方法が使えないことも分かったため、ヨハンはその違いまで記録に残した。


「これも言うの?」


 若い農夫が尋ねる。


「言う」


「細かすぎない?」


「向こうが判断する材料になる」


 以前のヨハンなら、こんなことまで言えば面倒な農民だと思われるのではないかと不安になっただろう。


 今は、必要な情報なら出した方がよいと思えるようになっていた。


          ◇


 二週間後、ハインツが再び村へ来た。


 今度は料理部門の担当者も同行しており、規格外の白冠蕪について実際に確認することになった。


「規格外を種類ごとに見せてください」


 ヨハンは三つの籠を用意していた。


 一つには小さいもの、一つには曲がっているもの、最後の一つには表面へ軽い傷があるものを分けてある。


「このうち、保存に向かないのは?」


「傷が深いものです。曲がりや大きさだけなら、保存性にはほとんど関係ありません」


「厨房で使う場合は?」


「小さい方が皮を剥く手間は増えますが、味は同じです」


 料理部門の担当者が一つ切って中を確認した。


「煮込みなら問題なさそうですね」


「はい」


 その場で全量買い取りが決まったわけではなく、むしろ細かな条件が次々と出た。


 小さすぎるものは皮を剥く手間が増えるため価格を下げたい。傷のあるものは長期保管できないので納品日を分けたい。曲がりだけなら比較的扱いやすいため、別枠でまとめられるかもしれない。


 村側からも、選別へ追加の人手がかかるなら最低価格は必要だと伝えた。


 一度の話し合いでは決まらず、ハインツたちは数字を持ち帰り、後日もう一度相談することになった。


 以前のヨハンなら、その場で決まらなかったことを失敗だと思ったはずだった。


 今は、話し合う材料が増えただけだと思えた。


          ◇


 最終的に、伯爵家は形のよい白冠蕪を従来の試験価格で買い取り、曲がりや小型でも傷みのないものについては、厨房用として少し安い価格で一定量を購入することになった。


 すべての規格外が売れるわけではなく、村側にも選別の手間が残る。それでも、以前なら市場へ一度に出して値を落としていた分の一部に、安定した別の売り先ができた。


 収穫時期についても、伯爵家の使用予定と合わせながら三日遅らせる方法が採用され、最初の試験より規格内へ入る割合が明らかに上がった。


 完璧な条件ではない。


 伯爵家にとっても村にとっても、もっと改善できる部分は残っている。


 それでも、どちらか一方が黙って無理をする条件ではなく、双方が続けられる形へ少しずつ近づいていた。


          ◇


 その夜、ヨハンは家族と食卓を囲んだ。


 ミーナが白冠蕪と豆の煮込みを出すと、ニールが少し嫌そうな顔をした。


「また蕪?」


「畑に山ほどあるんだから食べなさい」


 妻が返す。


「最近毎日だぞ」


「規格外が減っただけありがたいと思え」


 ヨハンが言うと、ニールが笑った。


「父さん、それ伯爵家にも言える?」


「何をだ」


「規格外まで買ってありがたく思えって」


「言うわけないだろ」


「じゃあまだ頭下げすぎだな」


「お前は一度、伯爵家の屋敷で話してこい」


「必要なら行くよ」


 息子は平然と答えた。


 以前なら、その態度を危なっかしいと思っただろう。


 今でも少し心配ではあるが、何でも黙って従えと教えるよりはよい。


「行くなら、数字を持っていけ」


 ヨハンが言う。


「数字?」


「何が困るのか、どれだけ困るのか。感情だけで言うな。それと、相手の話も聞け」


「父さんみたいに全部『はい』って?」


「違う。聞いたうえで、自分の条件も言え」


 ニールは少し驚いた顔をした後、ゆっくり頷いた。


          ◇


 さらに数週間後、ヨハンは白冠蕪の納品で再びレーヴェンを訪れた。


 今度は規格内のものと厨房用を分け、それぞれの数と状態を帳面へ記して持ってきていたため、納品そのものは以前よりずっと早く終わった。


 そのまま村へ戻ることもできたが、少しだけ時間がある。


 ヨハンは西区へ向かい、《持ち込み食堂》の扉を開いた。


「いらっしゃいませ」


 ミレイアが迎える。


「あ、この前の蕪の人」


「蕪の人はやめろ」


「今日は持ち込み?」


 ヨハンは小さな袋を持ち上げた。


「一つだけ」


 中には、少し曲がった白冠蕪が入っていた。


「また規格外?」


「ああ」


「まだ出るんですね」


「畑で育てるんだから、全部同じ形になるわけないだろ」


 悠斗が笑った。


「今日はどうします?」


「前と同じ煮込みでもいい」


「せっかくだから別にします?」


「任せる」


「今度はちゃんと食べたいものあります?」


 以前の自分なら「何でもいい」と答えていただろう。


 ヨハンは少し考えた。


「焼いたやつが食べたい」


「焼き蕪?」


「できるなら」


「できますよ」


 悠斗は白冠蕪を厚めに切り、表面へ軽く油を塗ってから、じっくり焼き始めた。


          ◇


 火が通るにつれて表面には香ばしい焼き色がつき、内側は水分を保ったまま柔らかくなっていった。悠斗は仕上げに少量の塩を振り、香草を混ぜた乳酪のソースを添えた。


 前回の煮込みとはまったく違う料理だった。


 ヨハンは一口食べ、急がずに噛んだ。


「どうです?」


「うまい」


「曲がってても?」


「その話、まだするのか」


「大事かと思って」


「味は最初から変わらん」


「じゃあ変わったのは?」


 ヨハンは少し考えてから答えた。


「俺の扱い方だろうな」


 形が悪いから下へ回す。


 条件が厳しいから黙って耐える。


 偉い相手だから何も言わない。


 そうやって最初から決めつけていたものが、少しずつ変わった。


          ◇


 食事を終えた後、ヨハンは代金を払い、店を出た。


 翌朝には村へ戻り、また畑仕事が始まる。


 伯爵家との取引も、これですべてうまくいくとは限らない。来年は天候が変わるかもしれず、価格について揉めることもあるだろうし、条件が合わず、どちらかが断る話になる可能性もある。


 それでも、その時には黙って頭を下げるだけではなく、自分たちの事情を言葉と数字にして伝えればよい。


 通らなければ、別の方法を考える。


 それを「逆らうこと」とは別のものとして、ヨハンはようやく考えられるようになっていた。


          ◇


 村へ戻った翌日、若い農夫が共同倉庫の前で待っていた。


「ヨハンさん、相談があります」


「何だ」


「次の納品なんですけど、籠の数が足りません」


「どれくらい?」


「今のままだと六つほど」


「伯爵家へ追加を頼むか?」


「頼んでいいんですか?」


 若い農夫は不安そうだった。


 少し前までのヨハンなら、まず村の中だけで何とかしろと答えたかもしれない。


 今は違った。


「必要な理由をまとめろ」


「理由?」


「何個足りないのか、買うならいくらかかるのか、今ある籠を使った場合には何が困るのか。それを出してから相談する」


「断られたら?」


「その時は別の方法を考える」


「怒られませんか?」


 ヨハンは少し笑った。


「相談しただけで怒るなら、その時に考えればいい。それより、何も言わずに納品できなくなる方が困る」


 自分の口から出た言葉が、数か月前なら信じられないほど自然だった。


 ヨハンは若い農夫へ帳面を渡し、必要な籠の数と理由を書き出すよう指示すると、自分もその隣へ腰を下ろした。


 誰かに従うためだけに頭を下げるのではなく、互いに続けられる条件を探すために話すことも仕事なのだと、今度は村の若者へ自分の言葉で教えながら、ヨハンは次の納品へ向けた相談を始めていった。


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