第57話 欠けた蜜菓子と、笑わない護衛騎士
エドガー・ヴァレンは三十四歳になる人間の男性であり、アルヴェール伯爵家に仕えて十二年目になる護衛騎士だった。濃い灰色の髪を短く整え、日に焼けた顔には左の頬骨から耳の近くまで細い傷が残っており、鎧を脱いで平服へ着替えても、長年剣を振ってきた者だと分かるほど肩と腕には厚みがある。
背丈は高く、立っているだけでも周囲へ圧迫感を与えやすいうえ、仕事中には必要以上に表情を変えないため、屋敷へ入ったばかりの使用人からは怖い人物だと思われることが多かった。しかし実際には怒鳴ることを好まず、若い騎士が失敗した時にも、何を間違えたのかを本人へ説明させてから注意するので、長く一緒に働いている者ほど彼が感情の激しい人間ではないことを知っている。
護衛としての能力にも不足はなく、馬車が出発する前には車輪や馬具だけでなく、街道の混雑状況や立ち寄る場所まで確認する。予定外の経路変更が必要になれば、自分一人で判断できる範囲と隊長へ確認すべき範囲を切り分け、危険を見つければ主人を守ることを最優先に動けるため、若い騎士から頼られることも少なくなかった。
そんなエドガーには、一つだけ周囲からよく言われることがあった。
滅多に笑わないのである。
生まれつき無愛想だったわけではなく、少年時代の彼は友人たちとくだらない冗談を言い合い、祭りの日には夜まで騒ぎ、弟や妹を笑わせるためにわざと転んでみせるような子どもだった。
それでも現在のエドガーは、護衛任務の最中だけではなく、勤務を終えて鎧を脱いだ後でさえ、笑おうとすると無意識に表情を止めてしまう。
そうなった理由は、十五年近く前に起きた一つの出来事にあった。
◇
エドガーはレーヴェンから北西へ二日ほど進んだ宿場町で生まれ、父親は街道警備を担当する兵士、母親は宿屋の厨房を手伝う働き手だった。三人きょうだいの長男だったため、幼い頃から弟や妹の面倒を見ることが多く、父が不在の日には母の代わりに水を汲み、薪を運び、夕方になれば二人を家へ連れ戻す役目まで任されていた。
父親の仕事を見て育った影響から剣への興味も強く、木の枝を剣代わりにして遊んでは、年下の弟から本気で怒られるまで勝ち続けていた。妹から「兄さんばかり勝つのはずるい」と言われれば、次は大げさに負けて地面へ倒れ、二人を笑わせるような少年でもあった。
十二歳になる頃には町の警備兵から簡単な剣の扱いを教えてもらうようになり、十五歳で父の知人を頼ってレーヴェンへ出ると、騎士団に所属する従士として働き始めた。
剣を持った瞬間に誰より強かったわけではない。
足も特別速くはなく、魔力にも目立った才能はなかった。
それでも同じ訓練を何百回繰り返しても嫌がらず、前日にできなかった動きを翌朝にはもう一度試し、失敗した理由を自分なりに考えて修正する粘り強さがあった。さらに模擬戦では、自分が敵役へ一撃を入れることより、仲間が危険な位置へ入っていないかを見ることの方が得意だった。
そのため攻撃役より護衛役として評価されるようになり、二十歳で正式な騎士となった後、二十二歳の時にアルヴェール伯爵家の護衛部門へ配属された。
エドガー自身も、自分にはその仕事が向いていると思っていた。
守る対象が明確であり、自分が見るべき場所も分かる。誰かより目立つ必要はなく、必要な時だけ前へ出ればよい護衛という仕事は、彼の性格にも合っていた。
ところが、配属から一年ほど経った頃、一度だけ自分の注意が遅れた出来事が起きた。
◇
二十三歳だったエドガーは、当時まだ幼かったレティシアを含む伯爵家の一行を護衛し、領内の視察へ同行していた。
目的地は危険な地域ではなく、街道にも事前に警備兵が配置されていたため、護衛任務としては比較的安全な部類だった。盗賊の活動報告もなく、魔獣が街道近くまで下りてきたという知らせもなかったため、護衛隊にも過度な緊張はなかった。
昼過ぎに小さな村へ立ち寄ると、村人たちが伯爵家の一行を歓迎し、広場には簡単な料理や焼き菓子が並べられた。護衛騎士たちも交代で短い休憩を許され、若かったエドガーは同僚から渡された蜜菓子を食べながら、村の子どもたちが木剣を振り回している様子を眺めていた。
その時、一人の少年がエドガーへ近づいてきた。
「騎士様」
「何だ?」
「強い?」
「仕事で剣を持っているくらいにはな」
「俺も強いよ」
少年はそう言いながら、自分の身長の半分ほどもある木剣を得意そうに掲げた。
「そうか。それは怖いな」
「勝負して!」
「俺は休憩中なんだ」
「じゃあ休憩で勝負!」
周囲にいた子どもたちが笑い、同僚の騎士まで「負けてやれ」と面白がって声をかけてきた。
エドガーも笑いながら立ち上がった。
「一回だけだぞ」
腰の剣には触れず、落ちていた細い枝を一本拾う。
「来い」
「行くぞ!」
少年が勢いよく木剣を振った。
◇
当然ながら、本気で相手をする必要などなかった。
少年が振り下ろす木剣を大げさに避け、次の一撃ではわざと足を滑らせたように見せると、周囲の子どもたちが声を上げて笑った。
「騎士様、弱い!」
「おかしいな。今日は調子が悪いらしい」
「もう一回!」
「一回だけと言っただろ」
「まだ勝ってない!」
「今のでお前の勝ちでいい」
「ちゃんと倒れてない!」
「厳しいな」
エドガーも笑っていた。
その瞬間だった。
広場の外れで、荷運びに使われていた馬が突然大きく鳴いた。
積み荷を固定していた縄の一部が外れ、木箱が地面へ落ちた音に驚いたらしい。馬は身体を大きく振り、手綱を持っていた村人の手から一度離れた。
近くにいた護衛騎士がすぐに反応した。
「馬だ!」
その声を聞いて、エドガーも振り向いた。
しかし、一歩遅かった。
◇
暴れた馬が伯爵家の一行がいる方向へ身体を向けた時には、別の護衛騎士がすでに進路へ入り、もう一人が手綱をつかんでいた。馬は数歩進んだところで止まり、伯爵家の者にも村人にも怪我人は出なかった。
大きな事故にはならなかった。
レティシア本人も、後になれば馬が暴れたことすらほとんど覚えていない程度の出来事だった。
それでも、任務後に行われた確認で、護衛隊長はエドガーを呼んだ。
「ヴァレン」
「はい」
「今日の広場の件だ」
「申し訳ありません」
「何について謝っている?」
「馬への反応が遅れました」
「そうだな」
隊長は感情的に怒鳴らなかった。
「お前が子どもと遊んでいたから馬が暴れたとは言わん。お前が遊ばなかったとしても、縄が外れれば馬は暴れただろう」
「はい」
「だが、異変への反応が一歩遅れたのは事実だ」
「はい」
「護衛中に気を抜くな。笑うなとは言わんが、自分が何のためにそこにいるのかは忘れるな」
隊長が言ったのは、それだけだった。
◇
本来なら、その注意は護衛任務中の集中についての話だった。
エドガー自身も、頭では理解していた。
村の子どもと遊んだことそのものが問題だったのではなく、その間に周囲への注意が薄れたことが問題だった。もし完全に休憩へ入るのであれば、誰が自分の位置を担当するのかを明確に確認してから離れるべきだったし、護衛担当のまま遊ぶなら、子どもへ意識を向けながらも周囲の変化を見ていなければならなかった。
必要だったのは、その区別だった。
しかし二十三歳だったエドガーは、失敗を二度と繰り返したくないという気持ちから、隊長の言葉を必要以上に広く受け取ってしまった。
護衛中に楽しめば気が緩む。
笑えば周囲への注意が落ちる。
余計な会話をすれば、その分だけ異変への反応が遅れる。
だから仕事中には表情を変えず、常に緊張していなければならない。
最初は任務中だけの決まりだった。
ところが、それを何年も続けているうちに、仕事を終えた後でも周囲を見る癖が抜けなくなった。
食事をする時には入口が見える席を選び、酒を飲む時にも酔うほどは飲まず、同僚が冗談を言っていても自分だけは声を上げて笑わない。休暇で故郷へ戻った時ですら、宿屋へ入れば無意識に非常口を探し、人の出入りを確認してから席へ座るようになった。
護衛騎士としては、むしろ評価が上がった。
ただし、その評価を得るために本当に必要だったものと、自分が勝手に加えた決まりの境界を、エドガー自身が分からなくなっていた。
◇
三十四歳になった現在、エドガーは若い護衛騎士を指導する立場にもなっていた。
その日の午前中も、屋敷裏の訓練場では二人の若い騎士へ馬車護衛の訓練を行っていた。
「馬車だけを見るな」
エドガーは木剣を腰へ戻しながら言った。
「守る対象を見ることは必要だが、それだけを見ていれば周囲の異変が遅れる。人が多い場所なら手を見る者、屋根や窓を見る者、進行方向を見る者を分けろ」
「全員で全部を見るんじゃないんですか?」
若い騎士が尋ねた。
「できるならやってみろ」
「……無理ですね」
「だから役割を分ける」
「でも、担当外で危険を見つけたら?」
「当然知らせる。担当を分けるというのは、他を見なくていいという意味ではない」
エドガーは地面へ簡単な配置図を描き、馬車の前後左右へ人を置く意味を説明した。
誰が何を見るのかを明確にする。
それが護衛の基本だと、彼自身が教えている。
◇
「休憩はどうします?」
「交代で取る」
「全員が休んじゃ駄目?」
「当たり前だ」
「一人ずつ?」
「人数と危険度による。安全な場所なら半数ずつでも構わんが、誰が任務中で誰が休憩中なのかは曖昧にするな」
説明しながら、エドガーは一瞬だけ言葉を止めた。
誰が任務中で、誰が休憩中なのかを曖昧にしない。
自分で何百回も若い騎士へ教えてきたことだった。
それなのに、自分自身については勤務を終えた後まで、完全には任務から降りていない。
「ヴァレンさん?」
「何でもない。続けるぞ」
その時は、それ以上考えなかった。
◇
午後になると、エドガーはレティシアの外出護衛を担当した。
目的は中央区にある衣装商との打ち合わせで、危険を伴う予定ではなかったものの、伯爵令嬢が外出する以上、最低限の護衛は必要になる。
馬車の前後へ騎士を配置し、エドガーは右側を担当した。
中央区へ入れば人通りが増える。
荷車の位置、路地から出てくる者、馬車へ近づきすぎる子どもを確認しながら進む。
衣装商へ到着した後も、店の出入口と裏口を一度確認してから配置についた。
仕事としては、いつも通りだった。
打ち合わせが終わり、レティシアが店から出てきた時、彼女の手には小さな紙包みがあった。
「エドガー」
「はい」
「今日の予定はこれで終わり?」
「屋敷へ戻りましたら護衛記録を提出し、本日の勤務は終了となります」
「その後は?」
「特に予定はございません」
「では、これをあげる」
差し出された紙包みを、エドガーは受け取った。
◇
包みを開くと、中には琥珀色の焼き菓子がいくつか入っていた。
蜂蜜を多く使った硬めの菓子らしく、表面には細かく刻まれた木の実が散らされているものの、どれも端が欠けたり中央から割れたりしており、形の整ったものは一つもない。
「本日の衣装商からでしょうか」
「向かいの菓子店からよ。焼いている途中で割れたものを、安くまとめて売っていたの」
「なぜ私に?」
「欲しそうに見えたから」
「見ておりません」
「見ていたわ」
「周囲を確認していただけです」
「菓子店の棚を?」
「店内も警戒対象になり得ます」
「蜜菓子の棚をずいぶん長く警戒していたのね」
レティシアの声には明らかに笑いが混じっていた。
「甘いものは嫌い?」
「嫌いではありません」
「好き?」
「普通です」
「本当に?」
エドガーは少し黙った。
「……比較的、好みではあります」
「それを普通とは言わないと思うわ」
◇
「なら今、一つ食べてもいいのよ」
「勤務中ですので」
「馬車は止まっているし、交代の護衛もいるでしょう?」
「屋敷へ戻ってからいただきます」
「私が食べろと命令したら?」
「護衛上の必要がなければ、命令の意図を確認いたします」
「そういうところは本当に固いわね」
「申し訳ありません」
「謝るところでもないでしょう」
レティシアはそう言って馬車へ戻った。
エドガーは包みをしまい、護衛位置へ戻る。
その時も、自分が菓子を食べなかったことについて特に疑問は感じなかった。
仕事中だから食べない。
それは自分にとって、長年当たり前になっていた。
◇
屋敷へ戻った後、エドガーは護衛記録を提出し、騎士用の軽装へ着替えた。
すでに勤務は終了している。
自室の机へ置いた紙包みを開き、ようやく一つ取り出した。
蜜菓子の表面は硬く、噛むと最初に木の実の香ばしさが広がり、その後から蜂蜜の濃い甘さが追いかけてくる。内側にはわずかにしっとりした部分が残っており、見た目よりも重い甘さがあった。
美味い。
そう思った途端、十五年前の村で食べた蜜菓子を思い出した。
同じ菓子ではない。
それでも、蜂蜜を焼いた香りと硬い生地の感触が、長く触れていなかった記憶を引き出した。
木剣を持った少年。
周囲で笑っていた子どもたち。
暴れた馬と、それへ一歩遅れて振り向いた自分。
そして任務後、隊長から言われた言葉まで、以前よりはっきりと思い出した。
「護衛中に気を抜くな。笑うなとは言わんが、自分が何のためにそこにいるのかは忘れるな」
エドガーは、手の中に残った菓子を見た。
笑うなとは、言われていない。
◇
それは昔から分かっていたはずだった。
しかし、「笑うなとは言わん」という部分より、「気を抜くな」という部分だけを長く残してきた。
自分が失敗した原因を一つに絞れば、次は防げると思ったのかもしれない。
笑わなければ気を抜かない。
楽しみすぎなければ周囲を見落とさない。
常に緊張していれば、同じ失敗をしない。
単純な規則にしてしまった方が、二十三歳の自分には分かりやすかった。
エドガーは二つ目の蜜菓子を手に取りかけ、そこで止めた。
このまま自室で食べてもよかった。
だが、レティシアだけでなく伯爵家の者たちが最近何度も話題にしている店を思い出した。
《持ち込み食堂》。
持っていった食材を料理する店だと聞いている。
すでに焼き菓子になっているものまで持ち込んでよいのかは分からなかったが、少なくとも聞くだけなら問題はない。
エドガーは残った蜜菓子を包み直し、屋敷を出た。
◇
夕食には少し早い時間だったため、《持ち込み食堂》の店内は昼の混雑を終えた後の静けさに包まれていた。
「いらっしゃいませ」
ミレイアが迎える。
「持ち込みを頼みたい」
「はい。何ですか?」
エドガーは紙包みを開いた。
「焼き菓子だ」
「もう料理されてますね」
「やはり駄目か?」
「駄目じゃないですけど、どうしようかな」
ミレイアが厨房へ声をかけ、悠斗が近づいてきた。
欠けた蜜菓子を一つ持ち上げ、匂いと断面を確認してから、エドガーを見る。
「これ、そのままでも食べられますよね?」
「食べられる」
「傷んでるわけでもない?」
「ああ。形が崩れたから安かっただけらしい」
「じゃあ、どうして持ってきたんです?」
「持ち込んだ食材を料理する店だと聞いた」
「そうですけど、何か食べたい料理あります?」
「それを考えるのが料理人ではないのか?」
「料理人も考えますけど、持ってきた人が何を食べたいか考えるのも大事なので」
エドガーは少し返答に困った。
◇
「甘いものは好きですか?」
悠斗が尋ねる。
「嫌いではない」
「好き?」
「今日二度目だな、その質問は」
「誰かに聞かれたんですか?」
「主人に」
「何て答えました?」
「比較的、好みではあると」
「じゃあ好きなんですね」
「そうなるのか?」
横で聞いていたミレイアが笑った。
「嫌いじゃなくて、好みなら、かなり好きじゃないですか?」
「分類の基準が分からん」
「食べたいと思うなら好きでいいと思います」
エドガーは少し考えた。
好きだと言ったところで、何か問題が起きるわけではない。
「甘いものは好きだ」
そう口にすると、妙に簡単な答えだった。
◇
悠斗は蜜菓子を一つ割り、指先で硬さを確かめた。
「かなり蜂蜜が入ってますね。木の実も多いし、そのまま焼き直すと表面が焦げそうだ」
「では、別の料理にはできないか?」
「いや、崩します」
「すでに崩れているが」
「もっと細かくします」
悠斗は蜜菓子を清潔な布の間へ挟み、木の棒で軽く叩いていった。
完全な粉にはせず、細かな欠片が残る程度で止めると、砕けた断面から蜂蜜と焼いた木の実の香りが強く広がる。
「形が悪いから安かったんですよね?」
「ああ」
「だったら、形を残す料理にしなくてもいい。味を使います」
エドガーは、砕かれていく蜜菓子を眺めた。
欠けていることを直すのではなく、さらに崩してしまう。
少し不思議なやり方だった。
◇
悠斗は鍋へ乳を入れ、沸騰させないよう弱い火で温め始めた。別の器では卵を丁寧に溶き、少量の乳を加えながら混ぜ、甘味は蜜菓子から十分に出ると判断したのか、追加の砂糖や蜂蜜はほとんど使わなかった。
小さな耐熱器の底へ粗く砕いた蜜菓子を敷き、その上から卵と乳を合わせた液を静かに流し込む。さらに浅い鍋へ湯を張り、器を置いて蓋をすると、火をかなり弱く調整した。
「何を作っている?」
「卵と乳を使った柔らかい菓子です。蜜菓子を底と上に使います」
「菓子を材料にして、また菓子を作るのか」
「そうなります」
「回りくどいな」
「料理って、たまにそういうものですよ」
「時間はかかるか?」
「少しだけ」
「なら待とう」
エドガーはそう答え、カウンターへ向かった。
◇
空いている席はいくつもあった。
エドガーは一度店内を見回し、入口と窓の位置を確認した後、背中側に壁があり、正面から扉を見られる席を選んだ。
意識して選んだわけではない。
座った後でさえ、それが自分にとって特別な行動だとは思わなかった。
ミレイアが水を運んできて、エドガーの座っている場所を見る。
「騎士さんですか?」
「分かるか」
「座る前に入口と窓を見たから」
「癖だ」
「仕事中?」
「今は勤務外だ」
「今日はもう終わったんですか?」
「ああ」
「じゃあ休んでいい時間ですね」
「そうだな」
返事をしながらも、店の扉が開く音がすれば、エドガーの視線は自然にそちらへ動いた。
◇
「休むの、苦手ですか?」
ミレイアが尋ねた。
「休憩は規定通り取っている」
「そうじゃなくて、休んでる時にちゃんと休むの」
「違いが分からん」
「休憩時間なのに仕事のことばかり考えてたら、身体は座ってても頭はずっと働いてるでしょう?」
「護衛は完全に注意を切るわけにはいかない」
「勤務が終わった今も?」
エドガーは答えかけて止まった。
店内には主人もいない。
自分が守るべき対象もいない。
剣は携帯しているが、それは騎士として普段から身につけているだけで、今この瞬間に何かを護衛しているわけではなかった。
「……今は護衛していない」
「じゃあ、何を警戒してるんです?」
「特に何かがあるわけではない」
「でも入口を見てますよ」
「癖だ」
「その癖って必要?」
エドガーはすぐには答えなかった。
◇
周囲を見ること自体は悪いことではない。
街中では盗難も起きるし、酔った者が騒ぎを起こすこともあるため、騎士でなくても多少の注意は必要だろう。
しかし、自分が今しているのは、そうした一般的な注意なのか。
扉が開くたびに相手の手元を見る。
店内へ入った人数を数える。
腰へ何かを下げていないか確認する。
壁際の席を選ぶ。
それは明らかに、護衛任務中の行動だった。
「昔からこうなんですか?」
悠斗が鍋の様子を確認しながら尋ねた。
「十五年ほどだ」
「何かきっかけが?」
エドガーは少し迷った末、村で起きた出来事について話した。
◇
子どもと遊んでいたことも、馬が暴れたことも、自分の反応が一歩遅れたことも隠さず話した。
「怪我人は?」
悠斗が尋ねる。
「いない」
「怒られた?」
「注意は受けた」
「何て?」
「自分が何のためにそこにいるのか忘れるな、と」
ミレイアが首を傾げた。
「笑うなって言われたんですか?」
「言われていない」
「遊ぶなって?」
「それも言われていない」
「じゃあ、どうして笑わなくなったんです?」
「笑っていれば気が緩む」
「必ず?」
「必ずとは言わん」
「じゃあ、ご飯食べてる時は?」
「多少は注意が落ちる」
「寝てる時は?」
「交代要員がいる」
「お風呂は?」
「何の話だ」
「ずっと警戒するの無理じゃないですか?」
エドガーは少し眉を寄せた。
◇
「だから護衛は交代する」
「なら、交代した後は休んでいいんですよね?」
「理屈ではそうだ」
「何で理屈だけ?」
「長く続けた癖は簡単には変わらん」
「それは分かります」
悠斗は無理に否定しなかった。
「でも、エドガーさんが若い騎士に休憩を取らせる時、その人には警戒し続けろって言います?」
「言わない」
「何て?」
「担当を引き継いだ後は休めと言う」
「自分には?」
そこでエドガーは黙った。
自分には言っていない。
交代しても周囲を見る。
勤務が終わっても入口を確認する。
眠る直前まで翌日の経路を考える。
若い騎士が同じことをしていれば、むしろ注意するだろう。
◇
「昨日のことを考えながら今日の護衛をしていたら、今日の異変を見落とすぞ」
かつて自分が若い騎士へ言った言葉まで思い出した。
疲労した状態で集中力を保てると思うなとも教えている。
休むべき時に休むことも、次の任務へ備える仕事の一部だと説明してきた。
それなのに、自分だけは例外にしていた。
「矛盾しているな」
エドガーが言った。
「何が?」
「俺が部下へ教えていることと、自分でしていることだ」
「気づいてなかった?」
「正確には、考えないようにしていたのかもしれん」
「何で?」
「今のやり方で失敗していないからだ」
エドガーは水の入った杯を見る。
「失敗しない方法を変えるのは、少し怖い」
◇
十五年前から今まで、大きな護衛失敗はしていない。
ならば、自分が笑わず、常に緊張してきたことが正しかったのではないか。
その考えを完全には捨てられなかった。
「じゃあ、全部変えなくていいんじゃないですか」
悠斗が言った。
「何?」
「周りを見るのが役に立ってるなら、それは残せばいいと思います」
「では何を変える?」
「必要ないところまで同じ強さでやってる部分?」
「そんな簡単に分けられるか」
「護衛では分けてるんですよね?」
「何をだ」
「危険度です」
エドガーが悠斗を見る。
◇
「危険が高い場所と低い場所で、護衛の人数とか変えないんですか?」
「変える」
「剣をずっと抜いてます?」
「抜かない」
「危険があるかもしれないのに?」
「抜刀する必要がある状況か判断する」
「じゃあ、警戒と緊張も同じじゃないですか?」
エドガーは返答しなかった。
「剣を鞘に入れてるから警戒してないわけじゃないでしょう?」
「当然だ」
「なら、笑ってるから周りを見てないとも限らないんじゃないですか」
単純な言葉だった。
しかし、自分は十五年間、その二つをほとんど同じものとして扱ってきた。
◇
警戒している自分と、楽しんでいる自分。
片方を選べば、もう片方が弱くなると思っていた。
だが、剣を抜かずに周囲を警戒することは毎日している。
馬車のそばで会話をしながら周囲を見ることもできる。
食事をしながら音を聞くこともできる。
ならば、笑った瞬間だけ護衛能力が失われると考える理由はない。
「できました」
悠斗の声で、エドガーは思考から戻った。
カウンターへ小さな器が置かれる。
「《蜜菓子のやわらか卵焼き》です」
◇
器の中には淡い黄色の柔らかな卵生地があり、その表面へ粗く砕いた蜜菓子と木の実が散らされていた。底にも菓子の欠片が敷かれているため、匙を入れると卵生地と一緒に、乳を吸ってしっとりした蜜菓子が持ち上がってくる。
「温かいうちにどうぞ」
エドガーは匙で一口すくった。
最初に広がったのは、卵と乳の穏やかな味だった。そこへ蜂蜜の濃い甘さが加わり、最後に木の実の香ばしさが残る。
元の蜜菓子はかなり硬かったが、底に敷かれた部分は乳を吸って柔らかくなっている。一方、上に散らされた欠片には元の歯応えが残っているため、一つの菓子の中で二つの食感を楽しめた。
「美味い」
「甘すぎません?」
「ちょうどいい」
「やっぱり甘いもの好きですね」
「もう否定していない」
そう答えると、ミレイアが満足そうに頷いた。
◇
エドガーは二口目を食べた。
十五年前の村で食べた菓子とは、味も形も違う。
それでも蜂蜜の香りを感じるたび、記憶の中の広場が少しずつ戻ってきた。
「村の菓子も、こんな味だったんですか?」
ミレイアが尋ねる。
「もっと硬かった。木の実も入っていなかったと思うが、蜂蜜の香りは似ている」
「美味しかった?」
「ああ」
「子どもと遊んだのは?」
「楽しかった」
今度は迷わず答えた。
「じゃあ、あの日って悪いことだけじゃないんですね」
「そうだな」
エドガーは匙を動かしながら、十五年前の出来事を別の角度から思い返した。
◇
自分は長い間、あの日を「失敗した日」として記憶していた。
しかし、実際には誰も怪我をしていない。
村人との交流も問題なく終わり、伯爵家の視察も予定通り続けられた。
自分が反省すべき点は確かにあった。
だからといって、その前に子どもと遊んだ時間まで失敗へ含める必要はなかった。
「もし今、同じことがあったらどうします?」
悠斗が尋ねる。
「子どもに勝負を挑まれたらか?」
「はい」
「護衛中なら、まず自分が現在の担当かを確認する」
「担当だったら?」
「交代できる者がいるなら引き継ぐ。いなければ断る」
「引き継げたら?」
「少しくらいなら相手をする」
「笑っても?」
エドガーは少し考えた。
「そこまで禁止する必要はないだろう」
◇
「もう答え出てるじゃないですか」
ミレイアが言う。
「理屈ではな」
「じゃあ実際にできるか試すだけ?」
「簡単に機会が来るとは限らん」
「別に子どもと剣で遊ばなくてもいいでしょう」
「例えば?」
「休憩の時に入口見えない席へ座るとか」
エドガーは店内を見る。
「それに何の意味がある」
「分かりません」
「分からんのか」
「でも、エドガーさんが必要ない時まで警戒してるか確かめるなら、小さいことからでいいんじゃないですか?」
確かに、いきなり十五年の習慣を全部変える必要はない。
自分がどこまでを必要な警戒として残し、どこからを余計な緊張として手放せるのか、少しずつ確かめればよかった。
◇
エドガーは残った菓子を最後まで食べた。
欠けていた蜜菓子は元の形へ戻されたわけではなく、むしろさらに細かく砕かれたうえで、別の菓子の材料になった。
それでも、元の蜂蜜の味も木の実の香ばしさも失われていない。
十五年前から身につけてきたものも、全部捨てる必要はないのだろう。
周囲を見る習慣は残す。
異変へ早く気づく訓練も続ける。
守るべき相手がいる時には、必要な緊張を保つ。
ただし、勤務を終えた後まで同じ強さで警戒し、笑うことまで自分へ禁じる必要はない。
「いくらだ」
エドガーは代金を払い、席を立った。
◇
店を出ようとしたところで、ミレイアが声をかけた。
「まだ入口見てますね」
「十五年の癖が一食で消えるなら苦労はしない」
「直すんですか?」
エドガーは少し考えてから答えた。
「全部は直さない」
「どうして?」
「周囲を見ること自体は、護衛として必要だからだ」
「じゃあ何を?」
「必要のない時まで、任務中のつもりでいる部分だけだ」
「どうやって?」
「まず、どこまでが必要なのかを確かめる」
「騎士っぽいですね」
「騎士だからな」
ミレイアが笑い、エドガーもほんの少しだけ口元を緩めた。
◇
翌朝、エドガーはいつも通り護衛訓練へ参加した。
若い騎士二人へ馬車護衛の基本を教え、狭い道へ入る前に見る場所、人混みで警戒すべき動き、交代時に必ず伝える情報を一つずつ確認する。
訓練内容を変える必要はなかった。
昼になり、交代の時間が来た。
「ヴァレンさん、交代します」
若い騎士が声をかける。
「ああ。東側の通用門で荷車の出入りが増えている。そこだけ注意してくれ」
「了解です」
「異常があれば呼べ」
「はい」
いつもなら、交代した後も一度は訓練場を振り返っていた。
その日は振り返らず、休憩室へ向かった。
◇
騎士たちの休憩室には、すでに三人の同僚が食事をしていた。
空いている席は二つある。
一つは壁際で、扉と窓の両方が見える場所。
もう一つは長机の反対側にあり、座れば入口へ背中を向けることになる。
普段なら迷うことなく前者を選んでいた。
エドガーは足を止める。
今の自分は休憩中であり、訓練場の担当は別の騎士へ正式に引き継いでいる。
屋敷そのものにも警備担当がいる。
自分が入口を見続ける必要はない。
エドガーは、入口へ背を向ける席へ座った。
「珍しいな」
向かいの同僚が言う。
「何がだ」
「お前がそこ座るの」
「空いていた」
「いつも入口が見えるところだろ」
「今日は俺の担当ではない」
そう答えると、同僚が不思議そうな顔をした。
◇
最初の数分は落ち着かなかった。
扉が開くたび、振り返りたくなる。
廊下から足音が聞こえれば、誰が来たのか確かめたくなる。
それでも、緊急なら声がかかる。
休憩中の自分が一つ一つ確認する必要はない。
エドガーは食事へ意識を戻した。
今日の昼食は豆と燻製肉の煮込み、黒パン、酢漬けの野菜だった。
以前なら食べながらも周囲へ意識の半分を残していたが、今日は煮込みの味が思ったより濃いことや、黒パンを汁へ浸すと食べやすくなることまで意識できた。
「今日の煮込み、少し塩が強くないか?」
エドガーが言う。
同僚が目を丸くした。
「お前、食事の感想言うんだな」
「言ってはいけないのか」
「いや、初めて聞いた気がする」
「そこまで無口ではない」
「仕事の話以外、ほとんどしないぞ」
エドガーには反論しづらかった。
◇
しばらくすると、若い騎士の一人が前日の訓練で転んだ話になった。
「本当に見事だったぞ。剣だけ残して本人が前に飛んだからな」
「足場が悪かったんです」
「平地だっただろ」
「石がありました」
「どのくらいの?」
「……小さいのが」
「豆粒くらいだったぞ」
周囲が笑った。
エドガーもその場面を見ていた。
確かに、見事な転び方だった。
口元が動きそうになり、いつもの癖で止めかける。
今は勤務を交代している。
笑わない理由はない。
「剣を離さなかった点だけは褒めようと思っていたが、本人より先に剣だけ残ったのなら、褒めるところが減ったな」
エドガーが言うと、休憩室が一瞬だけ静かになった。
◇
次の瞬間、同僚たちが笑った。
「ヴァレンが冗談言ったぞ」
「冗談ではない」
「昨日も誰かにそう言った?」
思いがけない返しに、エドガー自身も吹き出した。
大きな笑いではなかったが、周囲が驚いてこちらを見る程度には、はっきり声が出ていた。
「おい、本当にどうした?」
「何もない」
「何か良いことあったのか?」
「菓子を食った」
「菓子で人間そこまで変わるのか」
「知らん」
また笑いが起きた。
エドガーも、今度は止めなかった。
◇
笑っていても、訓練場の鐘は聞こえている。
廊下を走る足音にも気づいた。
しかし、その足音が自分たちの方へ向かっていないことまで分かったため、立ち上がる必要はないと判断できた。
警戒を完全に失ったわけではない。
ただ、すべての音へ反応する必要がなくなっただけだった。
休憩を終える時刻になると、エドガーは席を立った。
「戻る」
「もう笑わないのか?」
「仕事中に必要があれば笑う」
「笑うのに必要性を求めるなよ」
「うるさい」
休憩室を出る時にも、背後から笑い声が聞こえていた。
◇
それから数日、エドガーは自分の行動を意識して確認した。
護衛任務中には、これまで通り周囲を見る。
危険度が高い場所では余計な会話を減らし、主人が人混みへ入る時には表情まで意識して集中する。
そこを変えるつもりはなかった。
一方、交代して休憩へ入った後には、担当場所を見に戻らない。
勤務を終えた後には、翌日の経路確認を必要以上に繰り返さない。
食堂では、必ずしも壁際を選ばない。
最初は小さなことばかりだったが、それでも自分がどれほど長い時間を「まだ任務中であるかのように」過ごしてきたのかが分かってきた。
何より意外だったのは、緊張を弱めても護衛中の集中力が落ちなかったことである。
むしろ休憩後には以前より頭が軽く、周囲の変化を見やすい日さえあった。
◇
数日後、再びレティシアの外出護衛を担当する機会が来た。
目的地へ向かう途中、小さな広場で馬車を止めることになった。
予定より早く到着したため、十分ほど時間を調整する必要があったのである。
広場では数人の子どもが木剣で遊んでいた。
一人の少年が騎士姿のエドガーに気づき、しばらくこちらを見ていたが、やがて好奇心を抑えられなくなったように近づいてきた。
「騎士様」
「何だ」
「強い?」
「お前よりは強いと思う」
「俺も強いよ」
「そうか」
「勝負する?」
十五年前と、あまりにもよく似た言葉だった。
◇
以前のエドガーなら、その場で断っていただろう。
護衛中だから。
それだけで十分な理由になると思っていた。
今は、まず自分の役割を確認した。
馬車の前方には二人、後方には一人の護衛が配置されている。
自分は現在、レティシアの馬車右側を担当しており、このまま勝手に持ち場を離れることはできない。
ならば、遊べないのではない。
遊ぶなら担当を引き継げばよい。
「少し待て」
エドガーは近くの騎士へ声をかけた。
「五分だけ右側を頼めるか」
「構いません」
「異常があればすぐ呼べ」
「了解です」
担当を明確に引き継いでから、エドガーは少年へ向き直った。
「五分だけだ」
「いいの?」
「ああ」
◇
少年から予備の木剣を借りる。
十五年前のように大げさに負ける必要もなければ、本気で勝つ必要もない。
少年が勢いよく振った木剣を軽く受け、足の位置を確認しながら少しずつ後ろへ下がった。
「そこだ!」
「遅い」
「もう一回!」
「腕だけで振るな。足も使え」
「こう?」
「前へ出すぎだ」
「これなら?」
「さっきよりいい」
周囲にいた子どもたちも集まってきた。
エドガーは少年の剣を軽く横へ流し、自分の木剣を肩へ当てる。
「一本」
「今のなし!」
「なぜだ」
「まだ本気じゃなかった!」
「便利な言葉だな」
子どもたちが笑った。
◇
もう一度構える。
少年が勢いよく踏み込んだ。
「そこ!」
「足を先に出しすぎるな。転ぶぞ」
「転ばない!」
言った直後に少年が自分の足へ引っかかり、前へ倒れそうになった。
エドガーがすぐに腕をつかむ。
「言っただろ」
「今のは石!」
「石はない」
「小さいのがあった!」
数日前の休憩室で聞いた言い訳とまったく同じだった。
エドガーは耐えきれず笑った。
「何で笑うの!」
「いや、知り合いにも同じことを言う奴がいてな」
「そいつ弱い?」
「お前よりは強い」
「じゃあ俺も強くなる!」
「そうしろ」
◇
笑っていても、周囲への意識は残っていた。
馬車がわずかに軋む音も聞こえる。
広場へ入ってきた荷車の位置も見えている。
担当を代わってくれた騎士が馬車右側へ立っていることも確認できた。
十五年前とは違う。
笑わなくなったからではない。
自分が今どの役割にいるのかを明確にしたからだった。
五分が経つ前に、エドガーは木剣を返した。
「終わりだ」
「もう?」
「仕事がある」
「またやって」
「会えたらな」
「絶対だよ!」
「任務次第だ」
「難しい!」
「騎士は忙しいんだ」
少年は不満そうな顔をしながらも、最後には笑って手を振った。
◇
エドガーも片手を上げ、護衛位置へ戻った。
「異常は?」
交代してくれた騎士へ尋ねる。
「ありません」
「ありがとう。戻る」
「楽しそうでしたね」
「仕事へ戻れ」
「もう戻ってます」
「なら前を見ろ」
相手が少し笑い、エドガーも口元を緩めた。
そのやり取りを馬車の中から聞いていたらしく、窓が少し開いた。
「エドガー」
レティシアが顔を覗かせる。
「はい」
「楽しそうでしたね」
「そちらまで同じことを言われるのですか」
「事実でしょう?」
◇
「護衛中に申し訳ありません」
「なぜ謝るの?」
「私用で持ち場を交代しましたので」
「交代したことで問題が起きた?」
エドガーは周囲を確認する。
予定の遅れはない。
護衛配置にも穴はなく、他の騎士へ過剰な負担をかけたわけでもない。
「ございません」
「では、謝る必要もないのではなくて?」
「……そうですね」
「前なら断っていたでしょう?」
「はい」
「何かあった?」
エドガーは少し考えた。
「欠けた蜜菓子を食べました」
「私があげたもの?」
「食堂で別の菓子にしていただきました」
「そう」
レティシアはそれ以上尋ねず、少し笑って窓を閉じた。
◇
馬車が再び動き始める。
エドガーはいつもの位置へ戻り、街道の先、人の動き、左右の路地を確認しながら歩いた。
表情を固める必要はなかったが、警戒まで緩めたわけではない。
今は護衛中である。
だから必要な場所を見る。
それだけだった。
屋敷へ戻り、正式に勤務終了の報告をした後は、鎧を脱いだ。
以前なら、それでも気持ちだけは護衛のまま一日を終えていただろう。
その日は違った。
勤務は終わった。
ならば、今からは自分の時間だった。
◇
エドガーは中央区の菓子店へ立ち寄った。
店頭には、以前レティシアから渡されたものと同じ蜜菓子が並んでいる。
形の整った商品が棚へ美しく並べられ、その横には焼いている途中で欠けたり割れたりしたものを集めた安い袋が積まれていた。
「どちらにします?」
店員が尋ねる。
エドガーは少し考える。
金がないわけではない。
形の整ったものを買っても構わない。
「欠けた方を一袋」
「ご自宅用ですか?」
「ああ」
「味は同じですよ」
「知っている」
代金を払い、紙袋を受け取った。
今度は誰かから与えられたものではなく、自分が食べたいと思ったから自分で買った菓子だった。
◇
翌日の休憩時間、エドガーはその袋を騎士たちの休憩室へ持っていった。
「食うか?」
同僚へ差し出す。
「どうした、急に」
「買った」
「それは見れば分かる。お前が菓子を配る理由を聞いてるんだ」
「一人では多い」
「甘いもの好きだったのか?」
「ああ」
以前なら「嫌いではない」と答えていただろう。
今は、わざわざ曖昧にする必要を感じなかった。
「甘いものは好きだ」
同僚は少し驚いた後、蜜菓子を一つ取った。
「知ってるぞ」
「なぜだ」
「昔から宴会の時、甘い皿だけ減るの早かったからな」
「誰が食ったか見ていたのか」
「護衛騎士だから周囲は見てる」
エドガーは一瞬黙った後、声を上げて笑った。
◇
仕事中には周囲を見る。
危険度が高ければ緊張を強め、必要なら剣を抜いて守るべき相手の前へ立つ。
休憩へ入る時には担当を引き継ぎ、任せた相手を信じて席を離れる。
勤務を終えたなら、自分がその瞬間まで守り続ける必要のないものからは意識を離す。
十五年前の失敗から学んだことを、全部捨てる必要はなかった。
あの日に隊長から教えられた「自分が何のためにそこにいるのか忘れるな」という言葉も、今になってようやく、本来の意味で受け取れるような気がした。
護衛中なら、自分が護衛であることを忘れない。
休憩中なら、他の騎士へ任せたことを忘れない。
仕事が終わったなら、自分がもう護衛担当ではないことまで忘れない。
笑わないことは、そのどれにも必要な条件ではなかった。
エドガーは欠けた蜜菓子を一つ口へ運び、同僚のくだらない冗談に今度は笑いを止めることなく、休憩が終われば再び護衛騎士として持ち場へ戻れることを分かったうえで、それまでの時間を誰かを守るためではなく、自分自身が休むための時間として過ごしていった。
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