第56話 崩れた乳酪と、名前で呼べない侍女
ソフィア・メルツは二十七歳になる人間の女性であり、アルヴェール伯爵家の令嬢レティシアに仕える専属侍女の一人だった。淡い栗色の髪を耳の下でまとめ、仕事中には一本の後れ毛も落ちないよう留めており、細い眉の下にある薄茶色の瞳は、相手の服装や手元の乱れを一度見ただけでも覚えてしまうほど観察力に優れている。
背丈は女性として平均的だったが、歩く時には背筋を伸ばし、足音を立てないよう静かに動くため、実際より少し高く見られることが多かった。華美なものを好まない性格で、伯爵家から支給される侍女服にも飾り紐を必要以上につけず、休日に着る私服まで灰色や薄茶色といった目立たない色を選んでいる。
レティシアが外出する時には予定を確認して衣服や携行品を整え、帰宅すれば翌日に必要な物を先回りして用意する。茶会へ同行した時には令嬢のそばへ控えながらも客の前へ不用意に出ず、それでも必要な瞬間には言われる前に動けるよう、会話と周囲の変化へ注意を向け続けていた。
侍女としての能力に不足はなく、仕え始めて九年になる現在では、レティシア本人からもかなり信頼されている。
その一方で、ソフィアには職務とは別のところに、長い間直せないまま残っている癖があった。相手との仕事上の立場が変わると、それまでどれほど親しかった相手であっても、以前と同じようには話せなくなってしまうのである。
◇
ソフィアはレーヴェンから半日ほど離れた小さな酪農村で生まれ、父親は伯爵領内の牧場で羊を飼い、母親はその羊乳から乳酪や発酵乳を作って周辺の町へ売っていた。家は裕福ではなかったが食べるものに困るほど貧しくもなく、兄一人と妹一人に挟まれた三人きょうだいの真ん中として、家の仕事を手伝いながら育った。
幼い頃のソフィアは、今よりずっとよく喋る子どもだった。
村には年の近い子どもが十人ほどしかおらず、その中でも二歳年上のマーヤ・ベルンとは特に仲がよかった。マーヤの家は仕立て仕事をしており、母親同士も顔見知りだったため、二人は五歳の頃から互いの家を行き来していた。
羊の世話を手伝う日もあれば、仕立て屋の床へ落ちた端切れを集め、人形の服を作って遊ぶ日もあった。夕方になってどちらかの母親から呼ばれるまで一緒にいるのが当たり前で、その頃のソフィアがマーヤを呼ぶ時には、名前以外の呼び方を使った記憶がなかった。
◇
十三歳になる頃、ソフィアには文字を読む才があると村の教師から言われた。
父も母も簡単な帳面なら読めたものの、長い文章を書いたり複雑な計算をしたりすることは得意ではなかったため、村の教会学校で手紙や計算を学ぶ娘を誇らしく思っていた。
一方のマーヤは文字よりも手仕事が得意で、十五歳になる頃には母親に代わって簡単な服の直しを任されるほど腕を上げていた。二人の得意なものは少しずつ違っていったが、それによって一緒に過ごす時間や話す内容が大きく変わることはなかった。
十七歳になった年、ソフィアはレーヴェンへ働きに出ることになった。
村から伯爵家へ乳酪を納めていた商人が、文字を読めて身なりの整った若い女性を伯爵家が侍女見習いとして募集していると教えてくれたことがきっかけだった。
「町へ行くの?」
出発の前日、マーヤが尋ねた。
「受かったらね」
「帰ってくる?」
「休みが取れたら」
「偉くなっても、私の服を直せって言わないでよ」
「偉くならないよ」
「伯爵様の家で働くんでしょ?」
「働くだけ」
二人はそんな話をしながら笑い合い、別れの日にも、何年後かに距離ができるとは考えていなかった。
◇
伯爵家での生活は、ソフィアが想像していた以上に厳しかった。
侍女の仕事は掃除や衣服の管理だけではなく、主人の予定、来客時の礼儀、他部門との連絡、衣装や装飾品の保管方法まで覚える必要があり、言葉遣いについても細かな決まりがあった。
誰に対してどの敬称を使うべきか、伯爵家の人間について外で話す時にはどのように呼ぶのか、商人や職人へ依頼を伝える際には、必要以上に高圧的にならず、それでも伯爵家からの正式な注文であることを曖昧にしない言い方まで教え込まれた。
最初の一年だけで、ソフィアは何度も注意を受けた。
親しい相手へ使う言葉と、職務上使う言葉は違う。
その区別を徹底して覚えたことで侍女としては成長したが、その頃からソフィアは、仕事の言葉を使う時には私的な感情まで一緒に引っ込めなければならないような感覚を持つようになった。
◇
二年目になる頃には仕事にも慣れ、ようやく数日の休暇を取って村へ帰ることができた。
マーヤはすでに母親と一緒に仕立て屋で働いており、久しぶりに顔を合わせた瞬間には昔と同じように笑った。
「ソフィア!」
その声を聞いただけで、長い間離れていた故郷へ本当に戻ってきたのだと思えた。
「久しぶり、マーヤ」
その日は昔の話や町での仕事について話し、マーヤが作った服を見せてもらいながら過ごしたため、二人の間に何かが変わったとは感じなかった。
問題が起きたのは、それから三年ほど経った頃だった。
◇
伯爵家が村の仕立て屋へ、使用人用の衣類を一部発注することになった。
大きな契約ではなく、丈夫な作業用の上着を数着作るだけだったが、注文内容を確認するため村へ向かった担当者の一人に、当時二十二歳だったソフィアも選ばれた。
仕立て屋へ入ると、帳場にいたのはマーヤだった。
「ソフィア」
昔と変わらない声で呼ばれたものの、その後ろには伯爵家の事務係が一人立っていた。
ソフィアは一瞬だけ迷った。
今日は私的な訪問ではなく、伯爵家からの正式な仕事で来ている。
「ベルンさん。本日はよろしくお願いいたします」
そう答えた瞬間、マーヤの笑顔がほんの少しだけ止まった。
◇
その日の打ち合わせでは、ソフィアは終始「ベルンさん」と呼び続けた。
私的な訪問ではなく、伯爵家の発注を確認するために来ている以上、昔からの友人だからといって契約の場で馴れ馴れしくするべきではないと考えていたからである。
マーヤも仕事中は何も言わなかった。
打ち合わせが終わり、同行していた事務係が先に馬車へ戻った後で、ソフィアはようやくいつもの呼び方へ戻した。
「マーヤ、久しぶり」
「うん」
返事は返ってきたが、以前よりわずかに遠く感じられた。
「どうしたの?」
「別に」
「怒ってる?」
「怒ってないよ」
そこまで言われると、ソフィアにはそれ以上尋ねることができなかった。
◇
その後も二人は完全に疎遠になったわけではなく、年に一、二度は手紙をやり取りし、村へ帰れば顔を合わせることもあった。
それでも、以前と同じではなくなった。
マーヤはソフィアを「伯爵家の侍女さん」と冗談めかして呼ぶことが増え、ソフィアも相手が自分へ距離を置きたいのだろうと考え、以前ほど積極的には話しかけなくなった。
互いに嫌っているわけではなく、明確な喧嘩をしたわけでもない。
ただ、一度ずれた距離をどちらも戻し方が分からないまま、それぞれが相手の態度を見てもう一歩ずつ下がり、気づけば五年近い時間が過ぎていた。
◇
その日、アルヴェール伯爵家へ一つの小包が届いた。
宛先は伯爵家ではなく、ソフィア個人だった。
布で包まれた箱を開くと、中には羊乳から作られた白い乳酪がいくつも入っていた。一般的な硬い乳酪より柔らかく、手で持てる程度には固まっているものの、箱の端にあったものは輸送中に崩れたらしく、いくつかは形が大きく欠けている。
箱の隅には短い手紙が入っていた。
《母さんが多く作りすぎたから送ります。崩れたのは売り物にできないけど、味は同じです。マーヤ》
ソフィアは、その数行を何度も読み返した。
◇
マーヤから食べ物が送られてくるのは初めてではなく、昔は干した果物や村の焼き菓子が届いたこともある。
しかし、ここ数年は手紙だけだった。
今回は売り物にならなかった乳酪とはいえ、かなりの量が入っている。
「どうしました?」
レティシアが尋ねた。
ちょうど外出準備をしていたところで、ソフィアが箱を見たまま動かなくなっていることに気づいたらしい。
「故郷から乳酪が届きました」
「美味しそうね」
「少し崩れております」
「形が崩れると、味も悪くなるの?」
「いえ。味そのものには問題ございません」
「では食べられるのでしょう?」
「はい」
レティシアは興味深そうに箱を覗き込んだ。
◇
「誰から?」
「幼なじみです」
「仲がよいの?」
ソフィアはすぐには答えられなかった。
「以前は、かなり親しくしておりました」
「今は?」
「悪いわけではございません」
「難しい答えね」
「少し、距離ができております」
「喧嘩をしたの?」
「しておりません」
「喧嘩をしなくても距離ってできるのね」
「できます」
思わず即答すると、レティシアが少し笑った。
「そうね。喧嘩をした方が、何が悪かったのか分かりやすい時もあるものね」
◇
「この量、一人で食べるの?」
「使用人食堂へ分けようかと考えております」
「せっかくあなた宛てに送られたのに?」
「食べきれませんので」
「料理にしてもらえば?」
「厨房へ頼むほどでも」
「またそういう言い方をしていると、クラリスに怒られるわよ」
「給仕長に?」
「最近、食事について妙に厳しくなったもの」
ソフィアにも心当たりがあった。
会食担当の休憩制度が変わり、使用人食堂の料理を温かい状態で出すための調整まで始まっている。
「では、厨房へお願いしてみます」
そう答えかけたところで、レティシアが首を振った。
「食堂へ持っていけば?」
「《持ち込み食堂》ですか」
「ええ」
◇
「最近、皆様そちらへ行かれますね」
「そうね」
「何か特別なことがあるのでしょうか」
「食事が出るわ」
「食堂ですから」
「それ以外は、自分で確かめてみれば?」
レティシアはそれ以上勧めなかった。
ソフィアも少し考えた末、その日の仕事を終えた後に乳酪の半分を包み、屋敷を出ることにした。
◇
夕方前の《持ち込み食堂》は、昼の混雑が一段落していた。
「いらっしゃいませ。お一人ですか?」
ミレイアが迎える。
「はい。こちらを持ち込ませていただきたいのですが」
ソフィアが包みを開くと、ミレイアが中を覗き込んだ。
「乳酪?」
「羊乳から作ったものです」
「少し崩れてますね」
「輸送中に割れたようです」
「食べるのは大丈夫?」
「問題ありません」
悠斗も近づき、乳酪の表面を見た。
「匂いを確認しても?」
「お願いします」
◇
悠斗は乳酪を一つ割り、内側まで状態を確認した。
外側には少し乾燥があるものの、中は白く柔らかく、異臭もない。
「塩気は強いですか?」
「それほどではありません。故郷ではパンへ塗ったり、芋料理へ入れたりします」
「加熱すると溶ける?」
「完全には溶けず、少し形が残ります」
「酸味は?」
「多少あります」
「それなら使いやすそうですね」
悠斗が小さく味を見る。
「美味しいです」
「ありがとうございます」
「ソフィアさんが作ったんですか?」
「いいえ。幼なじみの家で作ったものです」
◇
「お土産?」
ミレイアが尋ねる。
「送られてきました」
「じゃあ今日は、それを自分で食べたくて持ってきたんですか?」
「そうですね」
答えてから、ソフィアは少しだけ意外に思った。
いつもなら「無駄にしたくないから」や「食べきれないから」と理由を説明していたはずだったが、今日は確かに、自分が食べてみたいと思ったから持ってきている。
「何か合わせたいものあります?」
悠斗が尋ねる。
「特にはありません」
「故郷でよく食べたものなら?」
「黄芋と根玉葱、それから薄い平焼きパンですね」
「肉は?」
「祝い事以外では、それほど多くありませんでした」
「じゃあ今日は肉を使わずに作ってみます」
◇
悠斗は黄芋を茹で始め、根玉葱を薄く切っていく。
「ソフィアさん、伯爵家で働いてる人ですよね?」
ミレイアが尋ねる。
「正確には、伯爵家へ仕える者です」
「レティシアさんの?」
「ご存じなのですね」
「来たことありますから」
「専属侍女をしております」
「長いんですか?」
「九年ほどです」
「大変?」
「仕事ですから、大変なことはあります」
「でも好き?」
ソフィアは少し考えた。
「好きなのだと思います。少なくとも、誇りを持っております」
「なら好きでいいんじゃないですか?」
「そうですね」
◇
「幼なじみとは同じ村?」
「はい」
「今も仲いい?」
ソフィアは、その日二度目になる答えを返した。
「悪くはありません」
「また難しい言い方ですね」
「今日、同じことを言われました」
「誰に?」
「レティシア様です」
「じゃあ本当に難しいんですね」
「喧嘩をしているわけではないのです」
「何かあった?」
ソフィアは少し迷ったものの、五年前の仕立て屋での出来事を話した。
◇
「仕事で会って、名字で呼んだんですね」
「はい」
「友達なのに?」
「仕事中でしたから」
「マーヤさんは何て呼んだの?」
「最初に、私を名前で呼びました」
「その後は?」
「仕事中は普通に話しておりました」
「終わってから?」
「少し距離がありました」
「それで何年くらい?」
「五年ほどになります」
ミレイアが驚いたように目を見開いた。
「五年?」
「毎日会う相手ではありませんので、気づけばそれくらいになっていました」
◇
「手紙は?」
「時々やり取りしています」
「手紙では名前で書く?」
「最初は」
「今は?」
「今も《マーヤへ》とは書きます」
「じゃあ名前で呼べるじゃないですか」
「手紙では」
「会うと無理?」
「無理というほどではありません」
「じゃあ呼べる?」
「……分かりません」
悠斗が根玉葱を炒めながら尋ねる。
「仕事じゃない時も『ベルンさん』って呼ぶんですか?」
「最近は会っていません」
「前に会った時は?」
「最初だけマーヤと呼びましたが、その後は呼びかけそのものを減らしていたと思います」
「それ、余計に気まずくなりません?」
「なりました」
◇
ソフィアは自分でも理由を分かっていた。
名前で呼べないのではなく、呼んだ時に相手がどう反応するかが怖いのである。
以前と同じように「マーヤ」と呼んで、相手から「もうそういう関係ではない」と示されたら、今残っている曖昧なつながりまで失う気がしていた。
「マーヤさん、怒ってると思います?」
悠斗が聞く。
「分かりません」
「聞いたことは?」
「いいえ」
「どうして?」
「怒っていないと言われましたから」
「本当に怒ってなかった可能性もありますよ」
「それなら、なおさら何を聞けばよいのか分かりません」
「寂しかったか、とか?」
ミレイアが言った。
◇
ソフィアは少し黙った。
「そこまで聞く必要がありますか」
「ないかもしれません」
「では」
「でも、ソフィアさんは気になってるんですよね」
「……はい」
「マーヤさんが今どう思ってるかは、ここでは分からないです」
悠斗が言う。
「当然です」
「だから、結局本人に聞くしかないんじゃないですか」
「随分簡単に言いますね」
「ここ最近よく言われます」
「伯爵家の方々にも?」
「たぶん」
ソフィアは思わず笑った。
◇
茹で上がった黄芋を悠斗は粗く潰し、炒めた根玉葱を混ぜたうえで、崩れた羊乳酪を加えた。
乳酪は熱によって柔らかくなるものの完全には液体にならず、白い小さな塊を残したまま黄芋へなじんでいく。
「崩れてる方が使いやすそうですね」
ミレイアが言う。
「料理によってはそうですね。丸ごと出すなら形がいい方がきれいですけど、混ぜるなら最初から崩すので」
「売り物にならないって手紙にはありました」
ソフィアが言う。
「形が崩れてるから?」
「おそらく。村では形を整えて売りますので」
「味は同じ?」
「先ほど食べた限りでは、ほとんど変わらないと思います」
「じゃあ家で食べる分には問題ない?」
「昔は崩れたものを家族で食べていました」
◇
「マーヤさんとも?」
ミレイアが尋ねる。
「はい。子どもの頃、乳酪を型から外す時に崩れることがありました。母は売れないと言って家へ残すのですが、私たちはむしろ喜んでいました」
「どうして?」
「形のよいものは売るための商品ですから、勝手に食べてはいけなかったのです」
「崩れたら食べられる?」
「そうです。マーヤが遊びに来ている日に崩れると、薄いパンへ塗って一緒に食べました」
久しぶりに、過去のことを説明するソフィアの声が柔らかくなった。
◇
「それ送ってきたってことは、昔のこと覚えてるんじゃないですか?」
ミレイアが言う。
ソフィアが顔を上げた。
「偶然でしょう」
「そうかもしれないです」
「売れないものを分けただけかもしれません」
「それもあるかも」
「母が余らせたから、と書いてありました」
「じゃあ本当にそれだけかもしれないですね」
「……否定しないのですね」
「だって、マーヤさんが何を考えて送ったかは分からないですもん」
ミレイアはあっさり答えた。
「でも、送ろうと思った時にソフィアさんを思い出したのは本当ですよね」
◇
その部分だけは、ソフィアにも否定できなかった。
誰にでも送れるものだったし、村には親戚もいれば、近所へ分けることもできる。
それでもマーヤは箱へ詰め、送料を払い、レーヴェンの伯爵家まで送ってきた。
何を考えていたのかまでは分からない。
ただ、ソフィアのことを一度も思い浮かべずに送ったということだけはあり得なかった。
「できました」
悠斗が皿を運んできた。
「《羊乳酪と黄芋の平焼き》です」
薄く伸ばした生地の上へ黄芋と根玉葱、崩した乳酪を混ぜた具を広げ、折りたたんで両面を焼いてある。表面には薄く焼き色がつき、切った隙間から乳酪と黄芋の香りが上がっていた。
◇
ソフィアは一口食べた。
薄い生地の表面には香ばしさがあり、中の黄芋は柔らかく、根玉葱の甘さに羊乳酪の穏やかな酸味と塩気が重なっている。子どもの頃に食べていたものより手が込んでいるのに、どこかよく知っている味に感じられた。
「懐かしいです」
「似た料理ありました?」
「もっと簡単ですが、黄芋と乳酪を平焼きパンで挟んで食べることはありました」
「マーヤさんとも?」
「ええ」
ソフィアはもう一口食べてから、昔を思い出した。
「マーヤは乳酪を入れすぎるのです。焼くと横から流れ出るので、母に何度も怒られていました」
「ソフィアさんは?」
「私は入れすぎないよう止める方でした」
◇
「昔から真面目だったんですね」
「そうかもしれません」
「マーヤさんは今も入れすぎるかな」
「さすがに三十歳を過ぎて、同じことはしないでしょう」
「聞いてみたら?」
「乳酪を入れすぎるかどうかをですか?」
「話すきっかけにはなるかも」
「五年ほど距離がある相手へ最初に聞く内容ではないと思います」
「じゃあ何て言います?」
ソフィアは、そこで答えられなくなった。
◇
「謝るんですか?」
悠斗が尋ねる。
「何についてでしょう」
「名字で呼んだこと?」
「仕事上は間違っていなかったと思っています」
「なら、そこを謝る必要はない?」
「ただ、相手が嫌だったなら、それは知っておきたいです」
「仕事でそう呼ぶ理由を説明するとか?」
「今さら?」
「今さらでも」
「五年ですよ」
「五年経ったら言っちゃ駄目って決まりあります?」
ソフィアは少し眉を寄せた。
「ありません」
「じゃあ、別に言ってもいいんじゃないですか」
◇
「でも、昔みたいに戻れるとは限りません」
「戻す必要あります?」
その質問には、すぐ答えられなかった。
「どういう意味です」
「十七歳の時と同じ関係にはならないかもしれないですよね」
「当然でしょう」
「なら、昔と同じにするんじゃなくて、今どう話すか決めればいいんじゃないですか」
ソフィアは手を止めた。
昔と同じに戻すことを、無意識のうちにずっと基準にしていたのかもしれない。
マーヤと以前のように話せなければ、関係を直したことにはならないと考えていた。
◇
しかし、二人とももう十代ではない。
ソフィアは伯爵家の侍女になり、マーヤは仕立て屋として働いているため、仕事の場で会えば昔と同じ呼び方をしないこともあるだろう。
その事実まで否定する必要はない。
「仕事の時はベルンさんでもいい?」
ミレイアが尋ねる。
「私はその方がよいと思います」
「休みの日は?」
「……マーヤと呼びたいです」
「じゃあそうしたら?」
「相手が嫌がったら」
「その時考える」
「本当に簡単に言いますね」
「でも、嫌がるかどうかを今ここで考え続けても分からないですよ」
◇
「仕事の呼び方と、友人としての呼び方を分けることは、おかしいでしょうか」
ソフィアが悠斗へ尋ねる。
「俺には普通に聞こえます」
「でも、そのせいで相手を傷つけたかもしれない」
「それは本人に聞かないと分からないです」
「そこへ戻りますか」
「戻ります」
ソフィアは苦笑した。
「食堂へ来たのに、答えをもらえませんね」
「マーヤさんの気持ちは作れないので」
「料理なら作れる?」
「それは作ります」
悠斗の答えに、ソフィアは少し笑った。
◇
食事を終え、残った乳酪を包み直す。
「全部使わなかったんですね」
ソフィアが尋ねる。
「持って帰る分もあった方がいいかなと思って」
「使用人へ分けるつもりでした」
「それでもいいですけど、自分で食べる分も残したらどうです?」
ソフィアは少し考えた。
「二つだけ残します」
「自分用?」
「一つは」
「もう一つは?」
「まだ分かりません」
そう答えたものの、もう一つを誰と食べたいのかと考えれば、頭に浮かぶ相手は一人しかいなかった。
◇
屋敷へ戻った翌朝、ソフィアは手紙を書いた。
最初の一行で、筆が止まった。
《マーヤへ》
そこまではいつもと同じである。
《乳酪をありがとう。美味しくいただきました》
そう続け、《持ち込み食堂》で黄芋と一緒に焼いてもらったことも書いた。
幼い頃、マーヤが乳酪を入れすぎて母に怒られていたことを覚えていると書こうとしたところで、もう一度筆が止まった。
馴れ馴れしいだろうか。
余計なことだろうか。
五年前から、そう考えて書かなくなった言葉がいくつもあった。
それでもソフィアは、今度は筆を置かなかった。
◇
《昔、あなたが乳酪を入れすぎて、母に何度も怒られていたことを思い出しました。今も同じでしょうか》
そこまで書いてから、さらに続けた。
《以前、仕事で村へ行った時にベルンさんと呼んだことで、あなたを遠ざけたように感じさせていたなら、ごめんなさい。仕事の場だったので、あの呼び方を間違いだとは今も思っていません。ただ、仕事が終わった後まで距離を置くつもりはありませんでした》
かなり長く感じたものの、消さなかった。
《もし今度会えるなら、仕事ではない時には、またマーヤと呼びたいと思っています》
最後にそう書いた。
◇
昔に戻りたいとは書かなかった。
返事を急かす言葉も入れず、ただ自分がどう思っているのかだけを伝えた。
手紙を出した後の一週間は長く感じられた。
返事が来ない可能性も考えたし、忙しいだけかもしれない、困らせたかもしれないと何度も考えた。
それでも、何も書かなかった時とは違い、自分の側でできることはもう済ませている。
あとは相手がどう受け取るのかを待つしかなかった。
◇
八日後、村から封書が届いた。
ソフィアは仕事の合間には開かず、勤務を終えて自室へ戻ってから封を切った。
《ソフィアへ》
最初の一行を見ただけで、少し肩の力が抜けた。
《乳酪を入れすぎるのは、今もやります。母にはまだ怒られます》
思わず笑いながら続きを読む。
《あの時、ベルンさんと呼ばれたのは少し寂しかった。でも、仕事ならそういうものなんだろうとも思っていました。怒っていると言うほどではなかったので、怒ってないと言いました》
ソフィアはそこで、手紙を一度机へ置いた。
◇
怒ってはいなかったが、寂しかった。
その二つは同時に成立する。
自分は「怒っていない」と言われたことで、それ以上聞いてはいけないと勝手に決めていた。
マーヤの手紙はまだ続いていた。
《その後、ソフィアもあまり話さなくなったから、伯爵家で働く人と村の仕立て屋では、昔みたいにはいかないんだと思っていました》
お互いに同じことをしていた。
相手が距離を置いたと思って自分も一歩下がり、その一歩を相手が見て、さらに距離を取った。
その繰り返しによって、誰も望んでいない五年間が作られていた。
◇
最後の数行を読む。
《今度の休みに帰ってくるなら、店へ来てください。仕事の注文ならベルンさんでいいです。でも休みの日までそう呼ばれたら、たぶん笑います》
最後には、もう一文だけ書かれていた。
《乳酪は次も崩れたのを送ります。その方がソフィアが食べるから》
ソフィアはしばらく手紙を見ていた。
大きな和解の言葉があったわけではなく、五年間がなかったことになったわけでもない。
それでも、次に会うための場所はできた。
◇
二週間後、ソフィアは一日の休暇を取り、朝早くレーヴェンを出て昼前に故郷へ着いた。
家へ顔を出して両親と食事をした後、午後になって仕立て屋へ向かう。
扉の前まで来ると、足が止まりそうになった。
今日は仕事ではなく、伯爵家の注文書も持っていない。
侍女服ではなく、薄茶色の簡素な私服を着ている。
それでも、五年分の距離が扉一枚の向こうへ詰まっているように感じられた。
ソフィアは一度だけ息を整え、扉を開けた。
◇
店の奥で布を切っていたマーヤが顔を上げた。
三十二歳になったマーヤは昔より髪を短くしており、腕まくりした服には糸くずがいくつもつき、首には採寸用の紐をかけている。
マーヤも一瞬だけ動きを止めた。
「いらっしゃいませ」
仕事用の声だった。
ソフィアは少し迷ってから答えた。
「今日は注文ではありません」
「じゃあ何ですか、伯爵家の侍女さん」
昔から変わらない、少し意地の悪い笑い方だった。
ソフィアもようやく口元を緩める。
「久しぶり、マーヤ」
五年ぶりに、相手の名前をためらわず呼んだ。
◇
マーヤはすぐには答えなかった。
それから手にしていた布を作業台へ置き、少しだけ笑った。
「久しぶり、ソフィア」
それだけだった。
ソフィアが想像していたほど劇的なことは起こらず、抱き合うこともなければ、五年間についてその場ですべて話し切ることもない。
それでも、以前のように名前で呼び合うことはできた。
「乳酪、まだある?」
ソフィアが尋ねる。
「あるけど」
「崩れた方がいい」
「何でわざわざ崩れた方なの」
「食べたいから」
「売り物じゃないよ」
「知ってる」
マーヤが笑った。
◇
「じゃあ裏で食べる?」
「お店は?」
「今は客いないから」
「仕事中でしょう」
「自分の店だから少しくらい休む」
「昔なら、お母様に怒られていたのでは?」
「今もいるよ」
店の奥から声が飛んできた。
「聞こえてるよ、二人とも」
マーヤが顔をしかめる。
「ほらね」
ソフィアは思わず笑った。
◇
二人は店の裏へ回り、形の崩れた羊乳酪と薄いパン、それに少量の黄芋を卓へ並べた。
「焼く?」
マーヤが尋ねる。
「乳酪を入れすぎないなら」
「五年ぶりに来て最初にそれ?」
「手紙に今もやると書いてあったから」
「じゃあ今日は多めに入れる」
「横から出るでしょう」
「出た方が美味しい」
「昔から変わらないね」
「全部変わったら気持ち悪いでしょ」
マーヤはそう言いながら、本当に乳酪を多めに入れた。
◇
焼いている途中、乳酪が端から少し流れ出た。
「ほら」
ソフィアが指摘する。
「これが美味しいんだって」
「焦げるよ」
「少しくらい焦げた方がいい」
仕事上なら、ソフィアはこんなやり取りをしない。
伯爵家の注文でここへ来たなら、マーヤを名字で呼び、数量と納期を確認し、私的な話は仕事が終わってからにするだろう。
それでよかった。
今日は仕事ではないから、別の呼び方で話せる。
二つの関係は、どちらか一方を偽物にしなければ成立しないものではなかった。
◇
「今度、仕事で来たら」
マーヤが焼けたパンを分けながら言う。
「何?」
「ベルンさんって呼ぶんでしょ」
「そのつもり」
「私もメルツ侍女って呼おうかな」
「それは職名として不自然でしょう」
「じゃあソフィア侍女?」
「もっと不自然」
「面倒だね、伯爵家」
「そこは伯爵家のせいではないと思う」
二人は顔を見合わせて笑った。
◇
食べ終えた後、ソフィアは夕方の馬車に間に合うよう立ち上がった。
「もう帰る?」
「明日は勤務があります」
「今度はいつ?」
「まだ分からないけれど、次の休みが取れたら手紙を書きます」
「また五年後じゃない?」
「それは長すぎる」
「仕事じゃなく?」
「仕事ではない手紙を送ります」
「分かった」
マーヤは残った乳酪を布へ包んだ。
◇
「持っていって」
「また?」
「今度は自分で取りに来たから送料いらないし」
「崩れてる?」
「もちろん」
「売れる方は?」
「金払うなら売るよ」
「友人割引は?」
「伯爵家の侍女なら定価」
「今日は仕事じゃないのに?」
「そこは別」
ソフィアは包みを受け取った。
「ありがとう、マーヤ」
「どういたしまして、ソフィア」
◇
レーヴェンへ戻った翌日、ソフィアはいつも通り侍女服を着て、レティシアの部屋へ入った。
「お帰りなさい」
「ただいま戻りました」
「幼なじみには会えた?」
「はい」
「名前で呼べた?」
ソフィアは少し驚いた。
「なぜ、そのことを」
「何となく、そういう話だと思っていたから」
「呼べました」
「よかったわね」
「はい」
ソフィアは素直に頷いた。
◇
「でも、仕事で会えば名字で呼ぶつもりです」
「それでいいの?」
「はい」
「昔と同じに戻ったわけではない?」
「戻る必要はないのだと思います」
レティシアが少し目を細めた。
「どういう意味?」
「昔の私たちは子どもでした。今は私は侍女で、彼女は仕立て屋です。その立場までなかったことにする必要はありません」
「では何が変わったの?」
「仕事の呼び方をしたから友人ではない、と勝手に考えなくなりました」
「相手も?」
「少なくとも、休日には名前で呼んでよいそうです」
◇
レティシアが笑った。
「随分細かい決まりね」
「必要なのです」
「そう?」
「私には」
ソフィアも少し笑った。
その日の午後、伯爵家の衣装部門から仕立て屋へ送る発注書の確認が回ってきた。
発注先一覧の中には《ベルン仕立店》の名があり、ソフィアは必要な数量、価格、納期を一つずつ確認した。
条件に問題はない。
私的な関係を理由に優先もしなければ、不利に扱うこともしない。
仕事は仕事として処理すればよかった。
◇
書類の確認欄へ署名した後、ソフィアは次の休暇予定を確認した。
三週間後の午後が空いている。
以前なら、まだ確定していないのだからと何もしなかっただろう。
今度は短い私信を一枚用意した。
《マーヤへ。三週間後に半日の休みが取れそうです。確定したらまた書きます。前に食べた平焼きパンを、今度は私が作ってみたいです。乳酪は入れすぎない量でお願いします》
最後の一文を書いた後で少し考え、もう一つ付け足した。
《仕事の注文書は別便で届きます。そちらではベルンさんと呼びます》
翌日届いた返事には、短くこうあった。
《分かりました。休みの日はマーヤでお願いします。乳酪の量については聞きません》
◇
ソフィアは手紙を折り、自室の机へしまった。
伯爵家で働く自分も、村で育った自分も、どちらか一方を捨てなければならないものではない。
礼儀正しく名字で呼ぶ日があってもよく、昔と同じように名前で呼ぶ日もあってよい。
相手との関係を大切にするというのは、いつでも同じ距離で接することではなく、その場でどの立場にいるのかを互いに分かったうえで、それでも必要な時には自分から手を伸ばせることなのだと、今のソフィアには思えた。
翌日のレティシアの予定表を確認して侍女としての仕事へ戻ると、三週間後の休暇欄だけには小さく印をつけ、次に仕立て屋を訪れる時には仕事なら「ベルンさん」、休日なら「マーヤ」と、自分で選んだ呼び方をためらわず使うつもりで、その日の準備を進めていった。
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