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異世界持ち込み食堂~あなたの食材を料理します~  作者: シロの空


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第55話 傷のある林檎と、先に食べられない給仕長

 クラリス・モーウェンは四十四歳になる人間の女性であり、アルヴェール伯爵家の本邸で給仕部門をまとめる給仕長を務めていた。黒に近い焦げ茶色の髪を後頭部で隙なくまとめ、長時間立ち続けても姿勢を崩さない細身の身体には、華美な装飾を避けた濃紺の給仕服がよく似合っている。


 灰褐色の瞳は人の手元をよく見ており、食卓へ皿を置く位置が指一本分ずれていても気づくほど観察力が高かった。声を荒らげることは滅多にないものの、静かな声で「もう一度お願いします」と言われる方が怒鳴られるより緊張すると、若い給仕たちの間では半ば冗談のように語られている。


 アルヴェール家へ仕えて二十八年、給仕長になってから十二年が過ぎていた。


 伯爵ヴィクトルが客を迎える晩餐会では料理を運ぶ順番から食器の配置まで確認し、伯爵令嬢レティシアが茶会を開く日には、客の好みや体調まで記録したうえで香茶の濃さや菓子の量を調整する。


 給仕という仕事を、クラリスは誇りに思っていた。


 誰かの前へ食事を出す仕事は、単に皿を運ぶことではない。温かいものを温かいうちに届け、必要な時には水を注ぎ、客同士の会話を妨げず、食べる者が料理以外へ余計な注意を向けなくても済むように整えるところまでが仕事だと考えている。


 自分が目立たないほど、よい給仕である。


 クラリスは若い頃からそう教わり、自分も同じように後輩たちへ伝えてきた。ただ、その考え方を長く守り続けた結果、自分たちが食べる側へ回る時まで「給仕する者は後でよい」と考えるようになっていたことには、最近まで気づいていなかった。


          ◇


 クラリスはレーヴェンの北にある街道沿いの宿屋で生まれ、父は厨房と仕入れを担当し、母は宿泊客への給仕と帳場を受け持っていたため、幼い頃から食事を出す仕事は暮らしの中にあった。


 夕方になると旅人が続けて到着し、食堂へ煮込み料理や焼いた肉を運ばなければならない。客が増えれば十二歳だったクラリスも水差しを持ち、空いた皿を下げながら、母から頼まれたパンを卓へ届けていた。


 母から最初に教わったのは、客より先に食べてはいけないという当たり前の規則だった。


「お腹が空いていても、お客さんへ出す分を先に食べてはいけないよ」


 売るために用意した料理を働く者が先に減らせば、必要な分が足りなくなる。忙しい時間に給仕係が全員食卓へ座れば、客へ料理を届ける者もいなくなるため、宿では客が落ち着いてから家族と使用人が交代で食事を取っていた。


 幼いクラリスは、その順番をむしろ誇らしく感じていた。


 大人たちと同じように空腹を我慢し、最後まで働いてから食べると、自分も宿を支える一人になったような気がしたのである。


          ◇


 十六歳の時、街道沿いに新しい大規模な宿が開き、クラリスの家が営む宿は少しずつ客を失った。


 すぐに閉じたわけではなく、父も母も数年は営業を続けたが、クラリスは自分まで家へ残るより、働き口を一つ減らした方がよいと考えた。


 ちょうどその頃、アルヴェール伯爵家が若い給仕見習いを募集しており、宿で働いた経験を評価されたクラリスは十六歳で本邸へ入った。


 最初は、自分が知っている給仕と貴族家の給仕の違いに驚いた。


 宿では、熱い料理を早く運び、皿を落とさず、客の注文を間違えなければ十分だった。しかし伯爵家では、誰から先に料理を置くのか、皿をどちら側から下げるのか、客の会話が続いている時にはどの瞬間まで待つのかという細かな判断まで求められた。


 主人が食べ始める前に使用人が余計な音を立ててはいけない一方で、酒を注ぎすぎてもいけず、空になりかけている杯を長く放置することも許されない。


 礼儀には理由の分かるものもあれば、長く続いてきたため守られているものもあり、クラリスはそれを一つずつ覚えていった。


          ◇


 十九歳の頃には正式な給仕係となり、二十代後半には新人教育まで任されるようになった。


 その間に一度だけ、大きく体調を崩したことがある。


 伯爵家で三日続けて客を招いた時のことで、昼の茶会から夕方の会食へ続き、翌日にも晩餐が予定されていた。


 若かったクラリスは、忙しい時に休むのは経験の浅い者がすることだと思い込み、一日目の昼食を抜き、夕食も冷えたパンを立ったまま食べただけで仕事を続けた。


 二日目も似たような状態が続き、三日目の夕方には厨房と食堂をつなぐ廊下で視界が暗くなり、その場へ膝をついた。


 当時の給仕長には厳しく叱られた。


「倒れるまで働く者を、よく働く者とは呼ばない」


 クラリスもその言葉を受け止め、それ以降は若い給仕が食事を抜いていれば注意し、具合が悪ければ休ませるようになった。


 ところが、本人は自分へ同じ基準を適用しなかった。


 倒れるほど抜かなければよく、忙しい日は後で食べればよい。若い者を先に休ませ、自分は最後に回ればよいのだと、給仕長であることを理由に考え続けた。


 その姿勢が少しずつ部門全体へ広がっていることを、クラリスは見落としていた。


          ◇


 きっかけになったのは、伯爵家で開かれた小規模な会食だった。


 大きな晩餐会ではなく、ヴィクトルが領内の商人と役人を数名招き、今後の取引について話すための夕食で、参加者も七名しかいなかった。


 厨房も給仕も、伯爵家としてはそれほど多くない人数で対応できる予定だったが、話し合いが長引き、終了時刻を一時間以上過ぎた。


 若い給仕の一人である十八歳の女性、エナは昼からほとんど何も食べておらず、途中で厨房係がクラリスへ知らせに来た。


「エナの夕食、先に取らせますか」


 クラリスは食堂の様子を確認したうえで答えた。


「もう少し待ってください。あと一皿で主菜が終わりますから、そこまで済めば交代できます」


「でも、昼も少なかったみたいで」


「長くはかかりません」


 無茶を言ったつもりはなかった。


          ◇


 主菜を運び終えれば休ませる予定だったが、客の一人が予定になかった追加の酒を希望し、別の客が温かい茶を求めたことで、使用する食器まで変更する必要が出た。


 クラリスは対応し、エナもそのまま動き続けた。


 十分ほどして、エナが下げた皿を持ったまま廊下で壁へ手をついた。


「エナ?」


 クラリスが声をかける。


「大丈夫です」


 返事はしたものの、顔色が明らかに悪かった。


「座ってください」


「まだ卓が」


「私が代わります」


「でも」


「給仕長命令です」


 厨房裏の椅子へ座らせ、水と食事を持ってこさせると、大事には至らなかった。


 空腹が強くなり、長時間立ち続けたことで気分が悪くなっただけで、食べて休めば顔色も戻った。


「申し訳ありません」


 エナが言う。


「謝る必要はありません。体調が悪いなら、もっと早く言いなさい」


「言おうと思ったんですけど」


「なぜ言わなかったのです」


 エナは少し迷ってから答えた。


「クラリスさんが、まだ食べてなかったからです」


          ◇


「私が食べていないことと、あなたの食事に何の関係がありますか」


「だって給仕長がまだ働いてるのに、私だけ先に食べるのは……」


「私は自分で時間を決めています」


「でも、いつも一番最後ですよね」


「立場が違います」


「だから私も、後輩ができたら先に行かせた方がいいのかなって」


 クラリスはそこで初めて、自分の行動が指示とは別の形で後輩へ教えられていたことに気づいた。


「私は、食事を抜くよう教えた覚えはありません」


「分かってます」


「では、どうして」


「クラリスさんがいつもそうしているからです」


 エナの言葉は責めるものではなかったが、だからこそクラリスには重く残った。


          ◇


 会食が終わった後、クラリスは使用人用の食堂へ向かった。


 自分の夕食は残されていたが、根菜の煮込みも薄切りの肉もパンも、すっかり冷めている。


 いつものことだった。


 厨房へ頼めば温め直すことはできるものの、片付けをしている者へ余計な仕事を増やしたくなかったため、クラリスはそのまま食べ始めた。


 味に不満はない。


 ただ、エナの「クラリスさんがやっているから」という言葉だけが、食事を終えても頭から離れなかった。


          ◇


 翌朝、厨房から別の問題が上がってきた。


「この林檎、どうします?」


 調理補助の男が木箱を指す。


 中には赤と黄色が混じった大きな林檎が二十個ほど入っていた。


 アルヴェール領南部の果樹園から届いた《紅蜜林檎》で、甘味が強く香りもよいため、伯爵家では来客用の果実や菓子へよく使われる。


 品質そのものは悪くない。


 ただし、箱の端に入っていた六個だけは、輸送中にぶつかったのか表面がへこみ、一部の皮が変色していた。


「客用には出せませんね」


 クラリスが答える。


「厨房で使います?」


「傷んだ部分を除けば使えるでしょうから、使用人の昼食に回してください」


 そう答えた瞬間、クラリスはわずかな違和感を覚えた。


          ◇


「どうしました?」


「いえ、少し考えただけです」


 傷のない林檎は客用にし、傷のある林檎は使用人用へ回す。


 それ自体は合理的な判断だった。


 客へ丸ごと出す果実には見た目も価値として含まれるし、傷があるからといって捨てる必要はなく、加熱料理に利用すれば無駄にもならない。


 何も間違ってはいないはずなのに、昨日のエナの件があったためか、「使用人用」という言葉が妙に耳へ残った。


「六個全部、私が預かります」


「何かするんです?」


「少し確認したいことがあります」


 クラリスは木箱から傷のある林檎だけを取り分けた。


          ◇


 その日の午後、クラリスは休憩時間を使って《持ち込み食堂》へ向かった。


 ヴィクトル、レティシア、オズワルド、ハインツと、最近では伯爵家の人間が何人も訪れているため、使用人の間でも店のことは知られ始めていた。


 クラリス自身は、最初こそ少し警戒していた。


 伯爵家の人間が揃って町の小さな食堂へ通っているというのは、給仕長としては奇妙に見えたからである。


 しかし、ハインツから「食材を見る時の考え方が参考になる」と聞いていたこともあり、傷ついた林檎を持っていく場所として思い出した。


「いらっしゃいませ」


 ミレイアが迎える。


「持ち込みですか?」


「はい。少し相談もあります」


 クラリスが布包みを開いた。


          ◇


「林檎?」


「《紅蜜林檎》です」


「少し傷がありますね」


「そのことで相談したいのです」


 悠斗も厨房から近づいてくる。


「今朝届いたものですか?」


「はい。輸送中についた傷だと思われます」


「切って見てもいいですか」


「お願いします」


 悠斗は最もへこみの大きな林檎を選び、傷の周囲を確認してから切った。


 皮の下には少し茶色くなった部分があったため、そこを大きめに除き、さらに中心近くまで切って状態を確かめる。


「これは使えますね」


「やはり」


「他も全部同じとは限らないので、一つずつ見る必要はあります」


「承知しました」


          ◇


「何に使う予定だったんです?」


 悠斗が尋ねる。


「傷のないものは来客用です」


「こっちは?」


「使用人の昼食に回す予定でした」


「じゃあ何で持ってきたんです?」


 クラリスは少し考えてから答えた。


「傷のある食材を、使用人用だから使っているのか、それとも料理として使えるから回しているのか、自分でも分からなくなりまして」


 ミレイアが首をかしげる。


「傷があるものを使用人に食べさせるのが嫌なんですか?」


「違います。食べられるものを捨てる方が嫌です」


「なら何が気になるんです?」


 クラリスは言葉を探した。


          ◇


「客には傷のないものを出し、使用人には傷のあるものを使う。その判断自体は合理的だと思っています」


「そうですね」


「ですが、その順番がいつの間にか、私の中で別のものと一緒になっていたのではないかと思いまして」


「別のもの?」


「よいものは主人へ、残ったものは使用人へ。主人が食べ終えてから使用人が食べ、主人が休んでから使用人が休むというような考え方です」


「全部同じものとして?」


「本来は違うはずです」


 クラリスはそう答えた。


「違うはずなのに、私は同じように扱っていたのかもしれません」


          ◇


 ミレイアが椅子を勧め、クラリスは少し迷ってから腰を下ろした。


「何かあったんです?」


「昨日、若い給仕が体調を崩しました」


「大丈夫でした?」


「大事には至っていません」


 クラリスはエナの話をした。


 昼から十分な食事を取らないまま会食が長引き、自分は交代させるつもりだったものの予定より遅くなったこと、さらにエナ自身もクラリスがまだ食べていなかったため先に休むことをためらっていたことまで説明する。


「私は食べるなと言ったわけではありません」


 最後にそう付け加えると、ミレイアが尋ねた。


「でも真似したんですね」


「そのようです」


          ◇


「クラリスさん、いつも最後に食べるんですか」


「基本的には」


「どうして?」


「給仕長ですから、全員が適切に配置されているか確認する必要があります」


「確認が終わった後は?」


「他の者を先に休ませ、その間に必要な仕事を処理してから食べます」


「その仕事って、食べる前じゃないと駄目なんですか」


 クラリスは答えようとして止まった。


「場合によります」


「昨日は?」


「昨日なら……交代要員を調整すれば、主菜を運び終えた段階で十五分ほど食事を取ることはできたと思います」


「じゃあ何でしなかったんです?」


「自分が抜けた時に何かあれば困ると思ったからです」


          ◇


「実際、何かありました?」


 悠斗が尋ねる。


「追加の酒と茶の注文がありました」


「クラリスさんじゃないと対応できなかった?」


「いいえ」


 答えはすぐに出た。


「副担当はいないんですか」


「おります」


「任せられない?」


「任せられます」


「なら、やっぱり仕事そのものより、給仕長が会食中に食事へ下がることへ抵抗があるんですかね」


 クラリスは少し考え、静かに頷いた。


「おそらく、その方が近いでしょう」


          ◇


「規則なんですか?」


「明文化されたものではありません」


「昔から?」


「私が見習いだった頃の給仕長も最後に食べていました」


「その前は?」


「分かりません」


「理由は?」


 クラリスはしばらく黙ってから答えた。


「給仕する者は、食べる者より後にするものだからでしょうか」


「客へ出す料理を店員が先に食べるって話なら分かります」


 悠斗は切った林檎を見ながら答える。


「でも、仕事を交代して休憩を取るのも同じ話なんですか?」


「そこが分からなくなりました」


「この店だと、混んでる時はミレイアが俺より先に食べることもありますよ」


 クラリスがミレイアを見る。


          ◇


「店主より先に?」


「ありますよ。その日の仕事次第です」


「抵抗はありませんか」


「最初はちょっとありましたけど、私が食べてる間は悠斗さんが店を見て、悠斗さんが食べる時は私が見ます」


「役割を交代している?」


「そうしないと二人とも冷たいご飯になりますから」


「それでも店は回るのですね」


「回るようにしています」


 クラリスは少し考えた。


「伯爵家の会食とは規模が違います」


「そうですね。だから同じやり方にしろとは言えません」


 悠斗が答える。


「でも、仕事上の理由と、立場だけを理由にすることは分けて考えてもいいかもしれないですね」


          ◇


 悠斗は傷を除いた紅蜜林檎を薄く切った。


「今日はこれ、料理に使っていいですか?」


「お願いします」


「甘い料理と食事、どっちがいいです?」


「お任せします」


「じゃあ食事にします」


 悠斗は豚に似た家畜の肉を薄く切り、軽く塩を振ると、根玉葱も細く刻んでいく。


 林檎は全量を煮崩さず、半分は薄切りのまま使い、残りは少量の水で柔らかくして潰した。


「肉と林檎ですか」


 クラリスが尋ねる。


「酸味と甘味があるので合うと思います」


「客用に出せる料理になりますか?」


「まだ作ってないので分かりません」


「使用人用なら?」


「そこでも判断は変わらないです」


 クラリスが悠斗を見る。


          ◇


「変わらない?」


「誰が食べるかで、使う食材の値段や盛り付けを変えることはあると思います。でも、使用人が食べるから雑に作っていいって意味にはならないですよね」


「もちろんです」


「なら、傷のある林檎を使用人へ出すこと自体が問題じゃないんじゃないですか」


 クラリスは頷いた。


「私も、そこではないと感じています」


「じゃあ何だと思います?」


「選ぶ理由でしょうか」


「理由?」


「客へ丸ごと出すには見た目が基準を満たさない。しかし、食用として問題がないので加熱料理へ利用する。それなら理解できます」


「はい」


「ですが、『使用人だから傷物でよい』と考え始めれば、同じ食材でも意味が変わります」


          ◇


「食事の順番も同じ?」


 ミレイアが尋ねる。


「おそらく」


 クラリスは自分の考えを確かめるように続けた。


「会食の最中に給仕担当が全員座るわけにはいかない。それは仕事上の理由です。しかし、『使用人だから主人より休んではいけない』と考えるなら、それは別の話になる」


 悠斗が頷く。


「仕事の順番と、人の価値の順番を一緒にしない方がいいってことですかね」


 クラリスはその言葉をすぐには受け取らず、一度考えた。


「身分差そのものをなくせという話ではありませんよね」


「俺は伯爵家の仕組みを知らないので、そこまでは言えません」


「主人と使用人では役割も責任も違います」


「はい」


「客と給仕係も違います」


「それもそうですね」


          ◇


「なら、同じ食事時間にする必要もない?」


「それは仕事次第だと思います」


「しかし、食べられる時間を作らないのは違う?」


「倒れたら仕事できないので」


 非常に単純な答えに、クラリスは思わず少し笑った。


「伯爵様もハインツも、ここで似たような顔をしたのでしょうね」


「どんな顔です?」


「難しく考えていたことを、随分簡単に返された時の顔です」


「悪かったですか」


「いいえ」


 悠斗は肉を焼き始め、表面へ色がついたところで一度取り出すと、残った脂で根玉葱と薄切りの林檎を炒めた。


 林檎が柔らかくなりすぎないところで、潰した林檎と少量の果実酢を加え、そこへ肉を戻して全体を短く煮る。


          ◇


「林檎、傷があったとは分からなくなりますね」


 ミレイアが言う。


「切って使いましたから」


「客用にもできそう?」


「料理としてはできると思います」


「じゃあ何で最初は客に出せなかったんです?」


「丸ごと果実として出す場合は、外見も含めて一皿だからです」


 クラリスが答えた。


「この状態なら?」


「傷んだ部分を安全に除き、料理として仕上がっているなら、別の基準で判断できます」


「同じ林檎なのに?」


「使い方が違いますから」


 口にしてから、クラリスは少し目を細めた。


          ◇


「何か?」


 ミレイアが聞く。


「自分で答えていて、昨日のことに似ていると思いました」


「人も使い方?」


「その言い方は少し危険ですね」


「あ、ごめんなさい」


「ですが、役割が違えば必要な条件も違うという意味では似ています」


 クラリスは続ける。


「会食の最中に卓へ残る者は必要ですが、全員が最初から最後まで残る必要があるとは限らない」


「交代?」


「はい」


「今までは?」


「軽食を取らせることはありました。ただ、正式な食事休憩は会食後になることが多かったですね」


          ◇


「どのくらい働き続けるんです?」


「準備を含めれば、長い時は六時間以上になることもあります」


「それはお腹空きますね」


 ミレイアが言う。


「途中でパンを食べる程度は認めています」


「クラリスさんも?」


「私は食べないことが多いですね」


「どうして?」


「給仕長が厨房裏でパンを食べているところを見られるのは、あまり格好がよくないと思っていました」


「誰に?」


「他の使用人に」


「だから皆も食べなくなった?」


 クラリスは返事をしなかったが、昨日のエナの言葉を思い出せば、完全には否定できなかった。


          ◇


「できました」


 悠斗が皿を置いた。


「《紅蜜林檎と豚肉の煮焼き》です」


 薄く焼いた肉の上には根玉葱と林檎が絡み、果実を使った淡い色のソースがかかっている。付け合わせには黄芋を粗く潰したものが添えられ、肉の汁と果実の甘酸っぱさを受け止めるように仕上げられていた。


 クラリスは最初に林檎と肉を一緒に口へ運んだ。


 紅蜜林檎の甘さだけが前へ出るわけではなく、果実酢の酸味が加わることで肉の脂が軽くなっている。柔らかくなった根玉葱の甘さも重なり、傷のあった果実を処理するためだけに作った料理とは思えなかった。


「美味しいですね」


「よかったです」


「これなら伯爵家の食卓へ出しても……」


 そこまで言って、クラリスは止まった。


          ◇


「出せそうです?」


 悠斗が尋ねる。


「料理長が同じ判断をするなら、十分可能だと思います」


「じゃあ使用人用じゃなくなる?」


 ミレイアが聞く。


「いいえ」


「どっちにも出せる?」


「そうなりますね。食卓全体の構成によって盛り付けや量は変えるでしょうが、料理そのものは同じように作れるはずです」


 クラリスは皿を見る。


「傷のある林檎を使ったから、使用人しか食べられないわけではない」


「最初からそうですよね?」


「そうです」


「でも何か変だった?」


「私の中で、傷のあるものを下へ回すという感覚が先に立っていたのでしょう」


          ◇


「下?」


 ミレイアが聞き返した。


「失礼。使用人側へ、という意味です」


「でもクラリスさんも使用人ですよね」


「はい」


「自分が食べるものを、下って思ってた?」


 クラリスはすぐには答えられなかった。


 伯爵家には身分の区別があり、主人と使用人が同じ立場であるはずもない。給金を受け取って仕えている以上、主人を優先すべき場面はいくつもある。


 しかし、自分たちが食べる食事そのものまで「主人用より一段下で当然」と、いつの間にか考えていたのかもしれなかった。


「食事の目的が違います」


 クラリスは慎重に答えた。


          ◇


「来客用はもてなしを含みますから、見た目や希少性、季節感も必要です」


「使用人は?」


「仕事を続けるため、健康を保つため、それから普通に食事を楽しむためです」


「最後もあるんですね」


 悠斗が言う。


「あります」


 クラリスは少し強く答えた。


「使用人だから味を楽しんではいけないなどとは思っていません」


「なら温かい方がいい?」


「当然でしょう」


「クラリスさん、昨日冷たい夕飯食べました?」


 まるで見ていたような質問に、クラリスは少しだけ眉を動かした。


          ◇


「食べました」


「温められなかった?」


「頼めば可能でした」


「頼まなかった?」


「片付け中の厨房へ手間をかけたくなかったので」


「自分が給仕されるの、苦手です?」


 ミレイアが尋ねる。


「嫌いというわけでは……」


 答えかけて、クラリスは止まった。


 家族の宿を出てから、誰かに食事を運んでもらうことへ落ち着かなさを覚えるようになった。使用人食堂で席についていても、後輩が水を持ってくれば自分で取りに行くと言い、厨房係が料理を温め直そうとすれば、そのままでいいと止めることが多かった。


 給仕長になってからは、特にそうだった。


「得意ではないのかもしれません」


          ◇


「給仕するのは得意なのに?」


「する側だからです」


「される側になると?」


「後輩へ仕事を増やしている気がします」


「クラリスさんが料理を運ぶ時、お客さんにそう思われたら?」


「困ります」


 答えは即座に出た。


「なぜ?」


「それが私の仕事ですから」


「厨房の人がクラリスさんのご飯を温めるのは?」


「それも……仕事のうちではあります」


「じゃあ頼んでもいい?」


「必要な範囲なら」


「必要な範囲って難しいですね」


 ミレイアの言葉に、クラリスは苦笑した。


          ◇


「私は、必要という言葉を自分に対して狭く使いすぎていたようです」


「エナさんには?」


「温かいものを食べなさいと言います」


「自分には?」


「冷めていても食べられる、と考えます」


「同じじゃないですね」


「ええ」


 クラリスは残った肉を食べる。


 温かい。


 ただそれだけのことが、妙に意識へ残った。


 温かい料理を食べることは特別な贅沢ではなく、食事の時間に食事を受け取ることも給仕長の地位に反する行為ではない。


          ◇


「会食の仕組み、変えるんですか?」


 悠斗が尋ねる。


「いきなり大きくは変えません。まず通常の小規模会食で、給仕を交代できるよう組み直します」


「二組に分ける?」


「単純に前半と後半へ分けるだけでは経験者が偏るので、経験者を両方に残しながら休憩時間だけずらします」


「クラリスさんは?」


「私もどこかで交代します」


 ミレイアが少し笑う。


「必ず最後じゃなく?」


「必ず最後、とは決めません。その日の担当と勤務時間で判断します」


「身分じゃなく?」


「仕事で決めます」


          ◇


「それがいいかもしれませんね」


 悠斗が言う。


「まだ試していません」


「じゃあ試す?」


「はい」


「うまくいかなかったら?」


「修正します」


 クラリスはそう答えてから、ハインツが最近よく口にする言葉に似ていると気づいた。


 伯爵家の中で、何かが急激に変わったわけではない。


 ヴィクトルは伯爵のままであり、オズワルドは執事、ハインツは家令補佐、クラリスは給仕長としてそれぞれ異なる責任を持っている。


 ただ、役割が違うことと、何もかも上から下へ一方向に流すことは、同じではないのかもしれなかった。


          ◇


 会計を済ませる前に、クラリスは残った紅蜜林檎を見た。


「三個残っていますね」


「持って帰ります?」


「はい」


「使用人用?」


 ミレイアが尋ねる。


 クラリスは少し考えた。


「厨房へ渡します」


「何用?」


「料理長に状態を見てもらい、料理として使えるなら用途は料理長に決めてもらいます」


「客用になるかも?」


「なるかもしれません」


「使用人用かも?」


「それもあります」


「じゃあ誰用かは先に決めない?」


「食材を見てから決めます」


 クラリスはそう答え、包みを閉じた。


          ◇


 屋敷へ戻ると最初に厨房へ向かい、料理長へ三個の林檎を渡して、《持ち込み食堂》で食べた料理について説明した。


「肉と合わせたんですか」


「ええ」


「傷の状態は?」


「この程度なら、悪い部分を除けば使えました」


「明日のまかないで試します?」


 料理長が尋ねる。


 クラリスは以前ならそのまま頷いただろう。


「先に決めなくて構いません」


「え?」


「料理として来客へ出せるなら、来客用に使ってもよいでしょう」


「傷物を?」


「丸ごと出すわけではありません」


「まあ、それなら」


「使用人食へ使うのも構いません」


「どっちなんです?」


「料理長が、献立として適切だと考える方へ使ってください」


          ◇


「珍しいですね」


「何がです?」


「クラリスさんなら、用途まで決めて渡すと思ってました」


「給仕長が厨房の献立まで決める必要はありません」


「昔は割と決めてましたよ」


「それは申し訳ありませんでした」


「謝るほどでは」


 料理長は笑った。


「じゃあ試します」


「お願いします」


 クラリスは厨房を出ようとして、もう一つ思い出した。


「それから、使用人食堂の夕食について相談があります」


「何です?」


「会食担当者の食事を、全員終了後にまとめて出す方式を変えたいのです」


          ◇


「途中で出す?」


「交代で」


「温かい状態で?」


「可能な範囲で」


「厨房の負担は増えますよ」


「そこを確認したいのです」


「人数は?」


「まず次回の小規模会食だけで試します」


 料理長は少し考える。


「給仕の休憩時間が事前に分かるなら、できなくはないです」


「時間がずれた場合は?」


「全部作り置きにせず、煮込みみたいに温めやすいものを入れれば対応できます」


「献立も調整する?」


「その日の客料理との兼ね合いですね」


「では、その部分は任せます」


          ◇


「また珍しい」


「今日はよく言われます」


 クラリスは苦笑し、給仕部門へ戻った。


 次にエナを呼ぶ。


 体調はすっかり戻っていた。


「昨日のことですが」


「すみませんでした」


「最初に謝るのをやめなさい」


「はい」


「私の方にも問題がありました」


「クラリスさんが?」


「あなたへ休憩を取るよう言いながら、自分ではほとんど取っていなかったことです」


「でも給仕長だから」


「その言葉を、私も使いすぎました」


 エナが少し驚いた顔をする。


          ◇


「次の会食から、休憩を交代制にします」


「途中で食べるんですか」


「はい」


「お客様がいるのに?」


「食堂から全員いなくなるわけではありません」


「クラリスさんも?」


「私もです」


「先に食べることも?」


「勤務状況によってはあります」


「本当に?」


「何度も確認しないでください」


 クラリスが少し眉を上げると、エナは慌てて姿勢を正した。


「すみません」


「それも今は必要ありません」


          ◇


「それから、体調が悪い時は言いなさい」


「はい」


「私が食べているかどうかは基準にしないでください」


「でも先輩が働いてたら」


「先輩より先に休むことが失礼になる場面もあります。しかし、勤務表であなたの休憩時間に決まっているなら、それは失礼ではありません」


「仕事だから?」


「そうです」


「じゃあ、クラリスさんが働いてても?」


「あなたの担当が引き継がれているなら休んでください」


「分かりました」


 エナは少し考えてから尋ねた。


「クラリスさんも同じですか」


 クラリスは一瞬答えに詰まりそうになったが、今度は逃げなかった。


「同じです」


          ◇


 三日後、試す機会が来た。


 来客は五名で、夕食を交えた商談として予定時間は三時間だった。


 クラリスは事前に給仕係を組み直し、前半から入る者、途中で交代する者、最後まで残る担当を分けながら、経験の浅い者だけが食堂へ残らないよう配置した。


 クラリス自身も、開始から一時間半ほど経ったところで十五分の休憩を取る予定にした。


 副担当へ確認事項を渡す。


「この時間、私は使用人食堂へ下がります」


 副担当の男性が驚いた。


「クラリスさんが?」


「そうです」


「何かあったら?」


「急ぎなら呼んでください」


          ◇


「急ぎじゃなければ?」


「戻ってから聞きます」


「伯爵様から直接何かあったら?」


「あなたが対応できる内容なら対応してください」


「判断できなければ?」


「その時だけ呼んでください」


「全部呼ぶことになりそうです」


「それでは交代する意味がありません」


 クラリスは一つずつ対応可能な範囲を確認した。


 酒の追加、食器の交換、茶の変更、客が席を離れる時の対応など、どれも副担当が通常業務として処理できる。


「これで大丈夫です」


「本当に行くんですね」


「行きます」


          ◇


 予定の時刻になり、食堂では主菜が半分ほど進んでいた。


 大きな問題はない。


 クラリスは卓を一度確認し、副担当へ視線を送る。


 相手が頷いた。


 クラリスは食堂を出したものの、廊下へ出た瞬間、足が自然に止まりそうになった。


(戻った方がいいのでは)


 まだ客は食べており、伯爵も席にいる。


 給仕長である自分が、その時間に使用人食堂へ向かう。


 何年もしてこなかったことだった。


 それでもクラリスは戻らず、そのまま使用人食堂へ入った。


          ◇


 厨房係が準備していた夕食を運んでくる。


「クラリスさん?」


「何です」


「本当に今食べるんですね」


「あなたまで言うのですか」


「だって初めて見たので」


「今後は時々見ることになります」


「温めた方がいいです?」


 クラリスは反射的に「そのままで」と言いかけた。


「お願いします」


 言い直す。


 厨房係が少し目を丸くした。


「はい」


          ◇


 出てきたのは、豆と根菜を使った温かい煮込みとパンだった。


 来客用の料理とは食材も盛り付けも違う、使用人用の普通の夕食である。


 それでも温かかった。


 クラリスは椅子へ座って食べ始めた。


 最初の数分は食堂のことが気になり、追加注文が入っていないか、副担当が困っていないか、皿を下げる時刻は大丈夫かと考え続けた。


 しかし、呼びに来る者はいない。


 半分ほど食べたところで、今度はエナが使用人食堂へ入ってきた。


          ◇


「交代です」


「あなたも今?」


「はい」


「食堂は?」


「引き継ぎました」


「問題は?」


「ありません」


 エナはクラリスから少し離れた席へ座り、厨房係から食事を受け取った。


「温かい」


 小さくこぼれた言葉を、クラリスは聞こえないふりをしようとしてやめた。


「いつも冷めていましたか」


「会食の日は、少しだけ」


「そうですか」


「でも、食べられればいいと思ってました」


「私もです」


 エナが驚いて顔を上げた。


「同じですね」


「だからといって、これから毎回最高の状態で食べられるとは限りません」


「分かってます」


          ◇


「仕事の都合で遅れる日もあります」


「はい」


「それでも、遅れることが当然だとは考えないようにしましょう」


「はい」


「それと」


「何です?」


「私が先に食べていても、驚かないでください」


 エナが少し笑った。


「それは慣れるまで時間かかるかもしれません」


「私もです」


          ◇


 十五分後、クラリスは食堂へ戻った。


 問題は起きていなかった。


 酒の追加注文が一度あり、副担当が処理している。


 客の一人が匙を落とした時には、別の給仕が交換していた。


 ヴィクトルが温かい茶を求めた件も、すでに対応済みだった。


「何か報告は?」


 クラリスが副担当へ尋ねる。


「今お伝えした三つだけです」


「判断に困ったことは?」


「ありません」


「では続けましょう」


 それだけだった。


          ◇


 会食終了後、クラリスは記録を取った。


 交代中の問題、料理の提供遅延、客からの苦情、厨房負担、給仕係の休憩時間を一つずつ確認する。


 料理の提供に遅れはなく、客からの苦情もなかった。


 厨房側の負担は少し増えたものの、事前に献立を調整したことで大きな支障は出ておらず、給仕係も全員十五分以上の休憩を確保できている。


 エナを含め、途中で体調を崩した者はいなかった。


 クラリスは最後に一行だけ書き加えた。


《給仕長不在時間十五分。通常対応に支障なし》


          ◇


 その一文を見て、少し複雑な気分になった。


 自分がいなくても仕事は回る。


 以前なら、給仕長として必要とされていないようで、わずかな寂しさを覚えたかもしれない。


 しかし今は違った。


 自分が十五分離れただけで崩れる部門なら、それは自分が優秀なのではなく、仕組みが弱いということになる。


 副担当が判断でき、若い給仕が引き継げるなら、給仕長として人を育ててきた意味がある。


 クラリスは記録用紙を閉じた。


          ◇


 翌朝、料理長が先日の紅蜜林檎について話しかけてきた。


「例の林檎、使いましたよ」


「何に?」


「二個は朝の菓子へ、最後の一個は使用人の煮込みへ」


「同じ箱の林檎を分けたのですね」


「傷の位置と熟し方が違ったので」


「客へ出した菓子は問題ありませんでしたか」


「何もありませんでした」


「使用人食は?」


「こっちも好評でしたよ」


「そうですか」


 クラリスはそれだけ答えた。


          ◇


「何か確認しないんです?」


 料理長が尋ねる。


「何をです?」


「どっちに良い方を使ったとか」


「必要ありません。用途に合うものを選んだのでしょう?」


「もちろん」


「なら、それで十分です」


 料理長が少し笑った。


「最近、伯爵家全体で何か流行ってるんですか」


「何がです?」


「任せるとか、試すとか」


「……偶然ではないでしょうか」


「本当に?」


「少なくとも、料理を無駄にしないことは昔からです」


          ◇


 さらに一週間、クラリスは会食時の交代休憩を試した。


 当然、問題も出た。


 大人数の晩餐では十五分の休憩を一度に取らせると人手が足りなくなったため、十分と十分に分ける者を作った。


 厨房側の食事提供時間がばらつきすぎた日には温め直しが増えたため、会食担当者用の献立には温め直しやすい煮込みを増やした。


 客の予定が急に変わった日には、休憩時間そのものをずらす必要もあった。


 最初から完璧にはならなかったが、以前より若い給仕たちが空腹を隠さなくなった。


          ◇


「あと二十分なら大丈夫です」


「今のうちに食べておきたいです」


 そういう申告が出るようになり、クラリスもそれを甘えとは考えなかった。


 給仕中に勝手に席を離れることは許さない。


 しかし、決められた交代時間に食事を取ることは仕事の一部として扱う。


 体調が悪い時には報告し、会食が予想以上に長引いた場合には責任者が再配置する。


 規則を作ると、意外なことも見えてきた。


 若い給仕たちだけでなく、年長の者の方が休憩を後回しにすることが多かったのである。


          ◇


「私は大丈夫です」


 五十代の給仕が言う。


「若い子から行かせてください」


「あなたの休憩時間です」


「でも」


「勤務表を見てください」


「クラリスさんなら昔、先に若い子を休ませていましたよね」


「昔の私を基準にしないでください」


 クラリスははっきり言った。


「あなたが今休めば、後半にあなたが食堂へ残れます。その方が全体が安定します」


「そういう理由なら」


「そういう理由です」


 年長の給仕は納得し、休憩へ向かった。


          ◇


 クラリスはそこでようやく、自分が変えたかったものの形を理解した。


 年上だから後。


 役職が上だから後。


 使用人だから後。


 そのような順番をすべて否定したいわけではない。


 礼儀や仕事には順番が必要であり、客より先に給仕係が食卓へ着くことはできない。緊急の用事があれば休憩を後ろへずらす必要もあり、主人の来客をもてなすため、高価な食材を客用へ優先することもある。


 ただし、それぞれに仕事としての理由が必要だった。


 身分や立場だけを理由に「自分は後で当然」と考えてしまえば、本当に必要な順番まで見えなくなる。


          ◇


 数日後の午後、クラリスは仕事で西区へ出た帰りに《持ち込み食堂》へ寄った。


 手には何も持っていない。


「いらっしゃいませ」


 ミレイアが迎える。


「今日は林檎なし?」


「ありません」


「相談?」


「それもありません」


「じゃあ食事?」


「はい」


 ミレイアが少し嬉しそうに笑う。


「何食べます?」


「今日の煮込みをお願いします」


「普通のでいい?」


「普通ので」


 クラリスは席へ座った。


          ◇


 しばらくして、悠斗が温かい煮込みを運んできた。


「どうぞ」


「ありがとうございます」


 クラリスは自然にそう言って皿を受け取った。


 自分で厨房へ取りに行こうとはしない。


 ミレイアが水を置く。


「ありがとうございます」


「慣れました?」


「何にです?」


「給仕されるの」


 クラリスは少し考えた。


「まだ少し落ち着きません」


「じゃあ自分で運ぶ?」


「いいえ」


 クラリスは水差しへ手を伸ばさなかった。


          ◇


「今日は客ですから」


「そうですね」


「それに」


 クラリスは続けた。


「誰かが仕事としてしてくれていることを、申し訳ないという理由だけで断るのも、その仕事を軽く扱うことになる場合があるのだと考えるようになりました」


「難しくなりましたね」


 ミレイアが言う。


「簡単に言えば、今日は運んでもらいます」


「それでいいと思います」


 クラリスは煮込みを食べ始めた。


 温かい食事を、温かいうちに食べる。


 以前なら意識もしなかったほど単純なことを、今は少しだけ大切に感じていた。


          ◇


 食事を終えて屋敷へ戻ると、翌日の勤務表が届いていた。


 レティシアの小さな茶会が予定されており、来客は四名、給仕係はクラリスを含めて三人で足りる。


 以前なら自分を最初から最後まで固定し、残る二人を交代させていただろう。


 クラリスは勤務表を書き直した。


 開始直後は自分とエナが入り、中盤から副担当を加える。


 その後エナが休み、次にクラリスが休む。


 終盤は三人で片付けへ入る。


 無理のない配置だった。


          ◇


「クラリスさん」


 勤務表を見たエナが声をかける。


「明日、クラリスさんが二番目に休憩になってます」


「見れば分かります」


「間違いじゃ?」


「違います」


「私より先ですよ」


「あなたは開始前に早めの昼食を取るでしょう」


「はい」


「私は準備があるので取れません。だから茶会の途中で先に休みます」


「そういう理由?」


「そういう理由です」


 エナは勤務表をもう一度見てから、納得したように頷いた。


          ◇


 翌日、茶会は予定通り始まった。


 レティシアと客たちへ茶を運び、菓子を置き、会話の邪魔をせず必要な時だけ杯を確認する。


 クラリスはいつも通り給仕長として働いた。


 決められた時間になると副担当が食堂へ入り、引き継ぎを済ませる。


 クラリスはエナを見る。


「十五分下がります」


「はい」


「何かあれば」


 そこまで言って、クラリスは止めた。


 エナが少し笑う。


「判断できないことだけ呼びます」


「お願いします」


          ◇


 使用人食堂へ入る。


 今日の食事は根菜と豆を煮込んだ温かいスープとパンだった。


 厨房係が皿を置く。


「どうぞ」


「ありがとうございます」


 クラリスは椅子へ座ったまま受け取った。


 食堂の向こうでは誰かが皿を洗い、廊下の先では別の使用人が荷物を運んでいる。伯爵家の主人たちは別の部屋で茶を飲み、その間も屋敷の中ではそれぞれの人間が、自分の時間に自分の役割を果たしていた。


 クラリスが今ここで食べているからといって、その順番が壊れるわけではない。


          ◇


 主人と使用人の立場は同じではなく、給仕長と新人の責任も同じではない。


 だからこそ、誰が上かという一つの順番だけではなく、その場で誰が何を担当し、誰が今休めるのかを考えなければならない。


 傷のない林檎を来客へ出し、傷のある林檎を料理へ使うことにも、仕事としての理由がある。


 同じように、誰かが先に食べ、誰かが後に食べることにも、その日の仕事として説明できる理由があればよい。


 クラリスはスープを最後まで食べ終えた。


          ◇


 立ち上がったところで、自分で皿を厨房へ運ぼうとして手を伸ばす。


「置いておいてください」


 厨房係が声をかけた。


「こちらで下げます」


 以前なら「これくらい自分でします」と答えていただろう。


 クラリスは手を止める。


「お願いします」


「はい」


 厨房係が皿を受け取った。


 それだけのやり取りだったが、クラリスにとっては以前より少し自然に言えるようになっていた。


          ◇


 クラリスは給仕服の襟を整えて使用人食堂を出た。


 茶会へ戻れば、また給仕する側になる。


 客の茶を確認し、皿を下げ、エナや副担当へ指示を出す。


 役割は何も失っていない。


 むしろ、自分が休んでいる間にも仕事が回ることを確かめられた分だけ、給仕長として見るべきものは以前より増えていた。


 食堂の扉へ手をかける前に、クラリスは自分が十分に食べたことを一度だけ確かめた。


 空腹を我慢したことを誇る必要も、最後に食べたことを献身の証にする必要もない。


 必要な者へ先に食事を出すことと、自分たちは後でよいと決めつけることは同じではない。


 クラリスは茶会の続く部屋へ戻ると、交代してくれた副担当へ小さく礼を告げ、今度は自分がその者の休憩を受け持つため、誰が上かではなく誰が今その役割を担うのかを確かめながら、温かい食事を食べ終えた身体で再び給仕の仕事へ戻っていった。


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