第54話 割れた栗と、許可を待つ家令補佐
ハインツは三十六歳になる人間の男性であり、アルヴェール伯爵家で家令補佐を務めていた。癖の少ない濃茶色の髪を短く整え、灰色がかった青い目には人の話を聞く時だけ少し細くなる癖があり、貴族家に仕える者として目立ちすぎない濃灰色の上着を好んで着ている。
背丈は平均より少し高い程度で、騎士のような鍛えられた身体を持っているわけではない。しかし、屋敷と領地を何度も往復し、倉庫や工房へ自分の足で確認に行くことが多いため、机仕事だけをしている使用人より歩く速度は速かった。
言葉遣いは丁寧で、報告書の数字や日付を間違えることをひどく嫌う。
使用人から質問を受ければ可能な限りその場で答えるが、自分より上の者が最終的に決めるべきことについては、たとえ結論がほとんど見えていても勝手に決定しない。
それは慎重さであり、長い間アルヴェール伯爵家で働くうえでは長所でもあった。
ただ、最近になってハインツ自身も、その慎重さの中へ別のものが混じっているのではないかと考えるようになっていた。
◇
ハインツの父は、アルヴェール領にある小さな穀物倉庫の管理人だった。
母は領内の仕立て屋で針仕事をしており、家族が貴族だったわけでも、代々伯爵家へ直接仕えてきた家柄だったわけでもない。
子どもの頃のハインツが覚えている父の姿は、いつも帳面を持っている。
倉庫へ麦袋が何袋入ったか。
雨の日に湿った袋が何個あったか。
どの農家から何日に受け取ったか。
父はすべてを書いていた。
「覚えていても書け」
それが父の口癖だった。
「人間は、自分が忘れることまで忘れるからな」
幼いハインツにはよく分からなかったが、父の横で数字を書き写すうちに、記録することだけは早く覚えた。
◇
十二歳の頃には倉庫の入出庫記録を手伝い、十五歳になる頃には父が席を外していても簡単な受け取りくらいなら任されるようになった。
ところが、その年の秋に一度だけ大きな失敗をした。
雨が続いた日のことだった。
農家から届いた麦袋の一部が湿っていた。
ハインツは触って気づいた。
そのまま奥へ積めば、乾いた袋まで傷むかもしれないとも思った。
本来なら別の場所へ移し、父か上役へ報告するべきだった。
しかし、倉庫の配置を勝手に変えてよいのか分からなかった。
父は別の倉庫へ出ていた。
責任者もいない。
自分はまだ十五歳だった。
◇
ハインツは判断しなかった。
届いた麦袋を、いつもの場所へそのまま積ませた。
夕方に父が戻った時には湿気が周囲へ移り始めており、翌日には十数袋を開いて乾燥させる作業が必要になった。
大損害ではない。
捨てた麦も少なかった。
それでも父は、ハインツへ珍しく強い声で尋ねた。
「気づいていたのか」
ハインツは頷いた。
「なら、なぜ分けなかった」
「勝手に場所を変えていいか分からなかった」
「分からなければ聞け」
「父さんがいなかった」
「なら、その場で一番被害が少ない方を選べ」
◇
父はその後、もう一つ付け加えた。
「ただし、自分で決めていい範囲を覚えろ。何でも勝手に決めるのも違う」
その言葉は正しかった。
ただ、十五歳のハインツには難しかった。
自分で決めるべき時と、上の者へ確認すべき時を分けろと言われても、その境目がどこにあるのかは書類のように線で引かれていない。
結局、ハインツはその後しばらく、迷った時には必ず上へ聞くようになった。
その方が間違いが少なかった。
◇
二十歳を過ぎる頃、父の知人を通じてアルヴェール伯爵家の文官補助へ採用された。
最初の仕事は単純だった。
領地から上がってくる収穫量を写す。
倉庫の在庫を照合する。
商人へ渡す書類を整える。
その正確さを買われ、少しずつ任される範囲が広がった。
屋敷の使用人配置。
領地工房への発注。
修繕費の確認。
小規模な契約の下調べ。
三十歳を過ぎる頃には、老執事オズワルドの下で家令補佐を務めるまでになっていた。
それでも、最後の決定を下すのは伯爵ヴィクトルかオズワルドだった。
ハインツは、それで困っていなかった。
少なくとも、つい数日前までは。
◇
ヴィクトル・アルヴェールが《持ち込み食堂》を訪れた翌日から、屋敷では少しだけ仕事の流れが変わった。
伯爵はすべてを自分で確認しようとする癖を完全に捨てたわけではない。
しかし、いくつかの業務について、条件を決めたうえでハインツへ判断を任せ始めた。
その一つが、領内で新しく試す保存食の小規模調達だった。
「試験分については、お前が判断しろ」
ヴィクトルはそう言った。
「上限額はこれだ。保存性と輸送性を確認し、問題があれば中止して構わん」
「最終決定は伯爵様へ報告してからでよろしいでしょうか」
「試験を始めるかどうかまで、お前が決めろ」
「私が、ですか」
「そう言っている」
ハインツはその場で返事をした。
「承知いたしました」
声だけなら、いつも通りだった。
◇
問題は、その日の午後から始まった。
対象になっていたのは、アルヴェール領北部で採れる《鉄皮栗》という大粒の木の実だった。
外皮は非常に硬いが、中身は粉質が強く、茹でても焼いても食べられる。
冬場の保存食候補として以前から名前は挙がっていたものの、殻を割る手間が大きく、輸送中に自然に割れた実は乾燥しやすいため、まとまった取引にはなっていなかった。
今回は領内の農家と小規模な試験契約を行い、割れた実も含めてどの程度使えるかを見る予定だった。
ところが、最初に届いた見本袋の三割近くが割れていた。
「どうします?」
倉庫係がハインツへ尋ねた。
「割れているものを除いて、残りだけ試しますか」
ハインツは袋を見る。
割れた栗のすべてが悪くなっているわけではない。
殻に亀裂が入っているだけで、中身はまだ乾ききっていないものもある。
ただし、保存試験には向かないかもしれない。
「少し待ってください」
ハインツは答えた。
「伯爵様へ確認します」
◇
書類を持って執務室へ行こうとしたところで、オズワルドに止められた。
六十七歳になる老執事は、長く伯爵家を支えてきた人物である。
「何を確認なさるのですか」
「鉄皮栗の試験見本についてです」
「何か問題が」
「三割ほど殻が割れています」
「腐敗は?」
「今のところ目立ちません」
「試験予算の範囲は?」
「収まっています」
「中止条件には触れますか」
「明確には」
「では、伯爵様へ何を聞かれるのでしょう」
ハインツは少し言葉に詰まった。
◇
「割れたものを試験対象に含めるべきかどうかを」
「それは、あなたへ任された範囲ではありませんか」
「ですが、保存食としての評価が変わります」
「だから試すのでは?」
「……」
オズワルドは穏やかな表情を崩さない。
「ハインツ」
「はい」
「伯爵様が任せると仰った時、どのように聞こえましたか」
「試験運用の判断を私が行うように、と」
「では行ってください」
「結果が悪ければ」
「報告してください」
「判断そのものが間違っていた場合は」
「それも報告なさればよろしいでしょう」
◇
「簡単におっしゃいますね」
ハインツが思わず言うと、オズワルドは少し笑った。
「私も若い頃から簡単にできたわけではありません」
「オズワルド様にも、そういう時期が?」
「ございましたとも」
老執事はそれ以上、自分の話を始めなかった。
「ただし、一つだけ申し上げるなら、任された者が毎回同じ相手へ答えを返しに行けば、任せたことにはなりません」
「しかし、勝手な判断は」
「勝手かどうかを決めるために、上限額と中止条件があるのでしょう」
ハインツは手にしている書類へ目を落とした。
◇
条件は書いてある。
試験用の少量調達であること。
決められた予算内であること。
腐敗や健康被害の可能性があれば中止すること。
日常業務を大きく妨げる場合も中止できること。
その範囲内で、何を試すかはハインツへ任されている。
「……分かりました」
「何をなさいますか」
「まず、割れたものと割れていないものを分けます」
「それから?」
「状態を確認します」
「それから?」
「使えるかどうかを試します」
オズワルドは頷いた。
「よろしいのではありませんか」
◇
とはいえ、ハインツは料理人ではない。
生の鉄皮栗を見ても、どこまで割れた実が料理に使えるのか判断できなかった。
倉庫係も、保存方法については多少知っているが、調理は専門外である。
「食べられるかだけなら茹でれば分かるか」
ハインツが呟く。
「でも、割れたやつって味落ちてるんですかね」
倉庫係が聞く。
「それも確認したいですね」
「厨房へ持っていきます?」
「屋敷の料理人に頼むと、試験というより普通に料理されそうです」
「じゃあどうします?」
ハインツは少し考えた。
そして、数日前にヴィクトルが訪れたという食堂を思い出した。
◇
午後の遅い時間、《持ち込み食堂》へ一人の男が大きな布袋を持って入ってきた。
「いらっしゃいませ」
ミレイアが迎える。
「持ち込みでしょうか」
「はい。少し相談もしたいのですが」
「何です?」
ハインツが布袋を開く。
中には茶褐色の大きな栗が二十個ほど入っていた。
一つ一つが普通の栗よりかなり大きく、厚い殻には細い筋が何本も走っている。
そのうち六個ほどは、殻の一部が自然に割れていた。
「《鉄皮栗》です」
「栗?」
ミレイアが一つ手に取ろうとした。
「かなり硬いので気をつけてください」
「そんなに?」
「生のまま歯で割ろうとするのはおすすめしません」
「しないです」
◇
悠斗も厨房から出てくる。
「見たことあります?」
ハインツが尋ねる。
「市場で小さいものなら」
「食べたことは?」
「一度だけ。焼いたものを買いました」
「なら話が早い」
「今日は料理?」
「それもありますが、割れているものを使えるか確認したいのです」
悠斗は袋の中を見る。
「いつ収穫したものです?」
「三日前です」
「ずっとどう保存を?」
「乾燥した倉庫です。輸送は一日半ほどで、雨には当たっていません」
「割れたのはいつ?」
「分かりません。農家を出た時から割れていたものもあるようです」
◇
「中を見ても?」
「お願いします」
悠斗はまず割れていない一つを取った。
「確かに硬いですね」
「専用の割り具もありますが」
「今日は?」
ハインツが小さな金属具を出した。
「持参しました」
「準備いいですね」
「仕事ですから」
鉄皮栗を金属具へ挟み、少しずつ力をかける。
強く押した瞬間、厚い殻が乾いた音を立てて割れた。
中には淡い黄色の実が詰まっている。
◇
次に、最初から割れていたものを開く。
一つ目は問題なさそうだった。
二つ目は表面が少し乾いている。
三つ目には、ごく小さな変色がある。
「これは外した方がいいですね」
悠斗が言う。
「腐っていますか」
「中まで見ます」
変色部分を切ると、その周辺だけ少し柔らかくなっていた。
「俺ならこれは使わないです」
「残り全部を?」
「この一個です」
「割れているから全部駄目、ではない?」
「今見た限りでは」
ハインツは小さな帳面を取り出して書いた。
◇
「記録するんです?」
ミレイアが聞く。
「仕事なので」
「何の仕事?」
「伯爵家の保存食試験です」
「伯爵家?」
「アルヴェール伯爵家で家令補佐をしております」
ミレイアの顔に納得したような表情が浮かぶ。
「ああ、ヴィクトルさんのところ」
「伯爵様をご存じなのですか」
「この前来ました」
「存じています」
「そっか」
ハインツは少しだけ困った顔をした。
「伯爵様を普通にお名前で呼ばれるのですね」
「ここでは大体そうです」
「かなり慣れません」
◇
悠斗が尋ねる。
「それで、何を確認したいんです?」
「割れたものを保存食の試験対象に含めるべきかどうかです」
「保存食なら、割れてない方が向いてそうですけど」
「私もそう考えています」
「なら分けて試したら?」
「やはりそうなりますか」
「割れてるものを長期保存した結果と、割れてないものを同じに扱うと分かりにくくないですか」
「その通りです」
「じゃあ?」
「……」
ハインツが少し黙る。
ミレイアが首をかしげた。
「何か問題あるんです?」
◇
「問題というほどでは」
「じゃあ何で困ってるの?」
「その判断を私がしてよいのかと」
「さっき仕事って言ってませんでした?」
「任されてはいます」
「ならいいんじゃ?」
「簡単に言いますね」
「最近その台詞、誰かにも言われた気がする」
ミレイアが考える。
悠斗が苦笑した。
「任された範囲は決まってるんですか」
「はい」
「予算は?」
「範囲内です」
「危険があったら?」
「中止できます」
「今危険?」
「腐敗したものは除外すれば、今のところは」
◇
「じゃあ、何を伯爵に聞きたいんです?」
悠斗が尋ねた。
オズワルドとほとんど同じ質問だった。
ハインツは少し嫌そうな顔をする。
「今日は皆、同じことを聞きますね」
「誰かにも?」
「オズワルド様に」
「何て?」
「私へ任されたのだから、自分で判断しろと」
「ならそうしたら?」
「それが難しいのです」
「間違えるのが嫌?」
「当然です」
「間違わない人います?」
「いないでしょう」
「じゃあ何が一番嫌なんです?」
◇
ハインツは答えるまで少し時間がかかった。
「自分の判断で、誰かに損をさせることです」
「伯爵家に?」
「それもあります」
「農家にも?」
「はい」
ハインツは帳面を閉じた。
「今回の試験が悪い結果になれば、鉄皮栗の取引自体が見送られる可能性があります。私の判断で割れたものを混ぜ、それで評価が落ちれば、生産者に不利になります」
「じゃあ割れたものを外す?」
「それでは、実際の輸送で三割割れるという問題を隠すことになります」
「なるほど」
「どちらを選んでも結果へ影響する」
◇
「だから決めたくない?」
ミレイアが尋ねる。
「決めたくないわけではありません」
「でも伯爵に聞きたい?」
「最終責任を持つ方に判断していただく方が」
「安全?」
「……そうです」
「ハインツさんにとって?」
その問いに、ハインツの視線が止まった。
ミレイアは責めるような言い方をしていない。
ただ、そのまま尋ねただけだった。
「結果が悪くても、伯爵が決めたなら自分の判断じゃない?」
「言い方が少し厳しいですね」
「ごめんなさい」
「いえ」
ハインツは否定しなかった。
◇
悠斗は鉄皮栗をいくつか水へ入れ、ゆっくり茹で始めた。
割れていないものと、割れているが状態の良いものは別の鍋へ分ける。
「分けるんですね」
ハインツが言う。
「比べたいので」
「混ぜない?」
「最初から違いがあるって分かってるなら、分けた方が見やすいかなと」
「料理でもそうしますか」
「原因見たい時は」
「食べる時は?」
「最後に合わせることもあります」
「なるほど」
ハインツがまた帳面を開いた。
◇
「昔から、そんなに確認する方だったんですか?」
悠斗が尋ねる。
「仕事では」
「子どもの頃も?」
「帳面は昔から好きでした」
「判断する方は?」
ハインツの手が少し止まった。
「得意ではありませんでした」
「何かあった?」
「大したことではありません」
そう前置きして、十五歳の時に湿った麦袋をそのまま倉庫へ入れた話をした。
誰かの許可がなければ配置を変えてはいけないと思い、結果として被害を広げた。
「父から、勝手に決めるな、しかし必要な時には自分で決めろと教えられました」
「難しいですね」
「非常に」
◇
「その後は?」
「聞ける時には聞くようになりました」
「それで困らなかった?」
「長い間は」
「今は?」
「立場が上がりました」
ハインツは少し自嘲するように笑った。
「昔は上の者へ聞けばよかったのです。しかし今は、下の者から私へ聞かれます」
「さらに上へ持っていってる?」
「重要なものは」
「全部?」
「全部ではありません」
「何なら決められる?」
「日常的な発注、使用人の勤務変更、小規模な修繕、既存契約の範囲内での調整などです」
「結構決めてますね」
◇
「既に基準があるものですから」
「基準ないものは?」
「確認します」
「今回みたいに?」
「そうです」
「でも新しい試験だから、基準を作る側にいる?」
ハインツは黙った。
「そういうことになります」
「なら、最初から正しい基準はない?」
「ありません」
「どうします?」
「試して作るしかない」
「じゃあ今やってることですね」
ハインツは鍋を見た。
湯の中では、二種類に分けた鉄皮栗がゆっくり煮えている。
◇
「でも、試す内容を間違える可能性は残ります」
「それは残りますね」
「随分あっさり認めますね」
「初めての食材だから」
「料理人でも?」
「俺、知らないもの全部当てられるわけじゃないですよ」
「それは以前、伯爵様からも聞きました」
「何を?」
「あなたは食材を見ただけですべて分かるわけではない、と」
「その通りです」
「では、どうして料理できるのですか」
「分かるところから試すからです」
◇
悠斗は鍋の火を少し弱めた。
「匂いを見る。触る。少し加熱する。分からなければ持ってきた人に聞く。危なそうならやめる。それでも分からないことはあります」
「失敗すれば?」
「次に変えます」
「客へ出す料理でも?」
「危険じゃない範囲なら、味の調整を失敗することはあります」
「それを怖いと思いませんか」
「思いますよ」
「それでも作る?」
「料理しないと店にならないので」
ハインツが少し笑った。
「ずいぶん単純ですね」
「仕事って、最後はそういうところありません?」
◇
茹で上がった鉄皮栗を取り出す。
まず、割れていなかったものを開く。
中身は柔らかくなり、粉を多く含んだ芋のような質感になっている。
次に、最初から殻へ亀裂のあったものを開く。
こちらは表面だけ少し乾いているものがあるが、中心まで味が落ちているわけではなかった。
悠斗は両方を小皿へ分けた。
「食べ比べます?」
「お願いします」
ハインツはまず無傷のものを食べた。
「甘いですね」
「結構ありますね」
「割れた方は」
続けて食べる。
◇
「少し乾いています」
「俺もそう感じます」
「ただ、食べられないほどではない」
「ですね」
「長期保存には?」
「今の状態だけじゃ分からないです」
「そうですね」
「ここで分かるのは、三日前に収穫して割れたまま運んだものでも、状態が良ければ料理には使えるくらい?」
「その表現が適切でしょう」
ハインツはすぐに帳面へ書いた。
《割れ=即時廃棄ではない。ただし乾燥進行あり。長期保存用とは別評価が必要》
◇
「何作るんです?」
ミレイアが尋ねる。
「せっかくなので両方使ってみようかと」
悠斗は茹でた鉄皮栗を粗く崩した。
「肉は?」
「燻製肉があります」
「乳酪も合いそう」
「使います」
根玉葱を細かく刻み、少量の油でゆっくり炒める。
そこへ小さく切った燻製肉を加えると、塩気のある香りが広がった。
粗く崩した鉄皮栗を加え、少量の乳で全体をなじませる。
完全に滑らかにせず、栗の形を少し残した。
「割れてた方も混ぜるんですね」
ハインツが言う。
◇
「状態悪いのは外しましたけど、使えるものは」
「分けて味を見た後なら混ぜる?」
「今日は料理として食べたいので」
「試験結果が分からなくなりませんか」
「もう別で食べましたよね」
「そうでした」
「今度は使い道を見る感じです」
悠斗は小さな耐熱皿へ中身を詰め、その上へ乳酪を薄くのせた。
「これ、保存食にはならないですよ」
「分かっています」
「割れた栗を早めに使う料理の一例にはなる?」
「十分です」
「なら焼きます」
◇
炉へ入れた皿から、しばらくすると乳酪の焼ける香りが立ち始めた。
表面には薄く焼き色がつき、その下では栗と根玉葱、燻製肉が一つにまとまっている。
「《鉄皮栗と燻製肉の重ね焼き》です」
悠斗が皿を置いた。
「重ねてはいないように見えますが」
ハインツが言う。
「細かいことは気にしないでください」
「仕事柄、気になります」
「じゃあ《鉄皮栗と燻製肉の乳酪焼き》で」
「そちらの方が正確です」
ミレイアが笑った。
「料理名にまで帳面みたいな正確さ求めるんですね」
◇
ハインツは匙を入れた。
茹でた鉄皮栗は完全な泥状になっておらず、ところどころに小さな塊が残っている。
口へ入れると、栗そのものの穏やかな甘味に燻製肉の塩気が重なり、炒めた根玉葱の甘さと乳酪の濃さが全体をつないでいた。
「これは……かなり食べやすいですね」
「保存食そのままじゃなくて、料理材料としてなら使いやすそうです」
「冬場にはよいかもしれません」
「割れたものも?」
「早めに選別して使うなら」
ハインツはそう答えてから、自分の言葉に気づいた。
「今、決めましたね」
ミレイアが言う。
「まだ仮です」
「でも伯爵に聞いてない」
「……そうですね」
◇
ハインツは皿を見ながら考えた。
割れた栗を無傷の栗と同じ条件で長期保存する必要はない。
到着時に選別する。
状態の悪いものは除外する。
割れていないものは保存試験へ。
割れているが食用可能なものは、短期利用の試験へ。
その上で、割れが輸送中にどの程度発生するのかも記録する。
それなら「割れたから全部失敗」とする必要もなければ、「食べられるから保存性も問題ない」と誤解することもない。
「この方法なら」
ハインツが口を開いた。
「何です?」
「試験を二つへ分けられます」
◇
「保存用と、早期利用?」
「はい」
「それで伯爵家には役立つ?」
「むしろ現実的です。輸送時に一定数割れることが避けられないなら、その分をどう使うかも考えた方がよい」
「農家側は?」
「割れたものを一律で買い取り不可にしなくて済む可能性があります」
「ただし状態悪いのは?」
「受け取れません」
「そこは変えない?」
「食用に向かないものまで買うのは違います」
ハインツの声が少しずつ仕事の調子へ戻っていた。
◇
「値段は同じ?」
ミレイアが尋ねる。
「そこは今後の話です」
「割れてたら安くする?」
「保存価値が違うなら、同額が適切とは限りません」
「農家が嫌がらない?」
「だから交渉します」
「ハインツさんが?」
「……そうなりますね」
「伯爵さんに聞かず?」
ハインツは少しだけ嫌そうな顔をした。
「予算内の試験価格については、私へ任されています」
「じゃあ決められる」
「決められます」
今度は自分からそう答えた。
◇
「でも、失敗するかもしれない?」
悠斗が言う。
「します」
「するんですか」
「可能性はあります」
「さっきより言えるようになりましたね」
「失敗すると決めたわけではありません」
ハインツは水を飲んだ。
「ただ、正解がまだないものを試すのですから、最初の判断が最終的な正解とは限りません」
「それでもやる?」
「私に任された範囲なら」
少し間を置いてから、もう一つ加えた。
「そして、結果が悪ければ私が報告します」
◇
「責任取る?」
ミレイアが聞く。
ハインツはそこで少し考えた。
「以前の私は、責任を取るという言葉を、失敗しないことに近い意味で考えていたのかもしれません」
「違う?」
「失敗しないことだけが責任なら、誰も新しいことを決められません」
「じゃあ?」
「決めた理由を残す。結果を見る。悪ければ止める。必要なら修正する。そして、自分が決めたことを上へ正しく報告する」
「それが責任?」
「少なくとも、今はそう考えます」
悠斗は頷いた。
「料理の試作とちょっと似てますね」
「ただし伯爵家の金が動きます」
「そこは全然違いますね」
◇
食事を終えたハインツは、残った鉄皮栗を二つの袋へ分けた。
無傷のもの。
割れているが、状態の良いもの。
使わないと判断した一個だけは別の布へ包む。
「それも持って帰るんです?」
ミレイアが尋ねる。
「比較用に記録します」
「食べないのに?」
「なぜ除外したかを倉庫係にも見せるためです」
「本当に何でも残すんですね」
「全部は残しません」
「でも記録は?」
「残します」
「やっぱり」
ミレイアが笑った。
◇
屋敷へ戻ると、ハインツはすぐ倉庫係を呼んだ。
「試験方法を変更します」
「伯爵様の許可は?」
その質問に、ハインツの身体が一瞬だけ止まった。
以前なら「これから確認する」と答えていただろう。
「今回の範囲については、私が判断します」
倉庫係が少し驚いた。
「では、どうします?」
「無傷のものと割れたものを分けてください」
「割れたものは廃棄ですか」
「違います。中身を確認し、腐敗や変色があるものだけ除外します」
「残りは?」
「短期利用分として別試験に回します」
◇
「保存試験には入れない?」
「入れません。条件が違います」
「どのくらい置きます?」
「無傷のものは従来案通り。割れたものは毎日状態を確認し、食用可能期間を記録します」
「全部料理するんですか」
「一部は厨房へ頼みます」
「何作る?」
「そこは料理長に任せます」
「いいんです?」
「私は保存と利用条件を見る担当です。料理の種類まで指定する必要はありません」
言ってから、ハインツ自身が少し笑った。
任せる側の言葉を、自分が使っていた。
◇
「ただし」
ハインツは続ける。
「何を作ったかと、調理前の状態だけは記録してください」
「やっぱり記録はするんですね」
「当然です」
倉庫係も笑った。
「分かりました」
「それから農家へ連絡を」
「返品?」
「いいえ。今回届いた割れ率が約三割だったことを伝え、出荷時点でどの程度割れていたか確認します」
「輸送で割れたか知りたい?」
「そうです」
「次は梱包変える?」
「必要なら」
「それも俺たちで決める?」
「試験予算の範囲なら、まず一つ試します」
◇
午後には農家から返事が来た。
出荷時点で割れていたのは一割程度だった。
つまり、残りは輸送中に増えた可能性が高い。
鉄皮栗は硬い。
そのため、丈夫だから多少乱雑に積んでも問題ないと思われていた。
しかし、殻同士がぶつかれば亀裂は入る。
「藁を増やします?」
倉庫係が尋ねる。
「増やしすぎると荷の量が減ります」
「じゃあ木箱?」
「費用が上がります」
「どうします」
以前と同じ問いだった。
だが今度、ハインツは伯爵の執務室を見なかった。
◇
「次回分だけ、二種類に分けましょう」
「二種類?」
「半分は今まで通り。半分は薄く藁を挟んで積む」
「比較する?」
「はい。割れ率と梱包費を両方記録します」
「箱は変えない?」
「まず一度に変える条件を増やさない方がいいでしょう」
「分かりました」
「もし藁だけで十分減るなら、それが最も安い」
「減らなかったら?」
「次に箱を考えます」
「伯爵様への報告は?」
「今日の夕方にします」
「許可じゃなく?」
「報告です」
◇
夕方、ハインツはヴィクトルの執務室へ入った。
「鉄皮栗の件をご報告いたします」
「問題があったか」
「見本の約三割に殻割れがありました」
ヴィクトルの眉が少し動く。
「試験は止めたか」
「いいえ」
以前のハインツなら、その答えを言う前に緊張していたかもしれない。
今も緊張している。
それでも続けた。
「無傷品を保存試験へ、割れているが食用可能なものを短期利用試験へ分けました」
「理由は」
「両者を同じ条件で評価すると、保存性の結果が混ざるためです」
「腐敗したものは?」
「除外します」
◇
「割れの原因は分かったか」
「出荷時点では約一割とのことでしたので、輸送中に増えた可能性が高いと考えています」
「対策は」
「次回の試験納入で、従来梱包と藁を増やした梱包を半量ずつ比較します」
「費用は」
「試験予算内です」
「農家とは話したか」
「はい。条件変更について了承を得ています」
「買取価格は?」
「今回は従来通りです。次回以降については、割れた実の利用価値と実際の損失率を確認してから交渉したいと考えています」
ヴィクトルはしばらく黙って書類を読んだ。
◇
「なぜ私へ先に聞かなかった」
その質問に、ハインツの背筋が一瞬固くなった。
やはり勝手だったのか。
そんな考えが反射的に浮かんだ。
「伯爵様から、試験開始と中止を含めた判断を任されていたためです」
「そうだ」
ヴィクトルはそのまま書類へ視線を戻した。
「なら問題ない」
「……はい」
「ただし、割れた実を短期利用へ回すなら、実際にどの程度需要があるかも見ろ」
「承知しました」
「屋敷内だけで食べて終われば、領内の商品にはならん」
「料理店や菓子店にも少量試してもらいます」
「そこまでの予算は?」
「現在の範囲内で収まります」
◇
「なら進めろ」
「はい」
ハインツは書類を受け取る。
部屋を出ようとしたところで、ヴィクトルが呼び止めた。
「ハインツ」
「はい」
「間違っていれば止める」
「承知しております」
「私が止める前に、お前が気づいたならお前が止めろ」
ハインツは少しだけ目を見開いた。
「それも、私の判断で?」
「何のために任せたと思っている」
「……失礼いたしました」
「謝るところではない」
ヴィクトルは少しだけ苦い顔をした。
「私も最近、同じことを教わった」
◇
誰からなのかは聞かなかった。
聞かなくても、だいたい想像できた。
「承知しました」
今度の返事は、先ほどより少しだけ自然だった。
◇
試験は一週間続いた。
無傷の鉄皮栗は、乾燥した倉庫で問題なく保存できた。
一方で、割れたものは二日目から乾燥が目立ち始め、四日目には食感がかなり落ちた。
ただし、到着当日から二日ほどであれば十分料理に使えた。
屋敷の料理長は、茹でて肉料理へ添える方法だけでなく、潰して焼き菓子の生地へ混ぜる方法も試した。
領内の料理店へ少量渡すと、「保存用として割れたものを買うのは難しいが、安ければ季節料理に使える」という返事があった。
菓子店からは、むしろ殻が割れている方が下処理の手間が少し減るという意見まで出た。
◇
もちろん、すべてが都合よく進んだわけではない。
藁を増やした輸送試験では、割れ率は三割から一割強まで下がった。
しかし、同じ荷車に積める量が少し減ったため、輸送費はわずかに上がった。
「結局どっちが得です?」
倉庫係が尋ねる。
「計算します」
ハインツは答えた。
割れて価値が落ちる分。
藁を増やして積載量が減る分。
割れたものを短期利用として売れる場合の価格。
それらをまとめてみると、藁を少し増やした方が損失は小さかった。
◇
「じゃあ次から全部これ?」
「まだ一回です」
「もう一回試す?」
「はい」
「慎重ですね」
「慎重なのは変えるつもりがありません」
「前と違う?」
倉庫係が笑いながら尋ねる。
ハインツは少し考えた。
「以前なら、次の試験をするかどうかも伯爵様へ聞いていたでしょう」
「今は?」
「同じ条件でもう一度試します」
「自分で決める?」
「私へ任された範囲ですから」
◇
二度目の輸送でも似た結果が出た。
そこでハインツは、鉄皮栗の試験調達を一段階だけ広げることにした。
ただし、いきなり大量契約にはしない。
無傷品は保存用。
殻割れ品は到着後すぐ選別し、状態のよいものだけ短期利用へ回す。
農家側には梱包方法を変更してもらい、その追加費用については買い取り価格へ一部反映する。
割れ品は無傷品より低い価格にする代わり、一定基準を満たすものについては買い取り対象から外さない。
その条件案をまとめ、最後にヴィクトルへ報告した。
「進めろ」
返事は短かった。
◇
数日後、ハインツは再び《持ち込み食堂》を訪れた。
今度持ってきた鉄皮栗は一つだけだった。
「また試験ですか?」
ミレイアが尋ねる。
「今日は違います」
「じゃあ何で栗?」
「余ったので」
「食べに来た?」
「はい」
ミレイアが目を丸くする。
「仕事じゃなく?」
「完全に仕事ではない、と言い切るのは難しいですが」
「やっぱり仕事?」
「食べたくなったので持ってきました」
「それなら食事ですね」
「そういうことにします」
◇
悠斗が栗を受け取る。
「試験どうでした?」
「継続になりました」
「うまくいった?」
「問題も見つかりました」
「駄目だった?」
「いいえ。問題が分かったので、次に何を変えるか決められました」
「それならよかったですね」
「以前なら、問題が出たことを失敗だと思ったかもしれません」
「今は?」
「試験なのですから、問題を見つけることも結果の一つです」
「仕事っぽい答え」
「仕事ですから」
「今日は食事じゃ?」
「それとこれは別です」
◇
悠斗は鉄皮栗を茹で、今度は前回より簡単に調理した。
粗く潰した栗へ少量の乳と塩を混ぜ、炒めた根玉葱を加える。
上から薄く乳酪をのせて焼く。
「前とあまり変わらない?」
ミレイアが言う。
「今日は燻製肉なしです」
「何で?」
「栗の味を強くしたかったので」
ハインツが尋ねる。
「私が何も指定しなくても決めるのですね」
「料理任されてますから」
「怖くありませんか」
「塩を入れすぎる方は怖いです」
「そういう意味では」
「分かってます」
◇
出された料理をハインツはゆっくり食べた。
前回より栗の甘さが直接感じられる。
根玉葱の甘さもあるが、乳酪の塩気が入ることで食事としてまとまっている。
「美味しいですね」
「今日は普通に感想言いましたね」
ミレイアが言う。
「仕事の報告ではありませんから」
「じゃあ帳面出さない?」
ハインツは一瞬、上着の内側へ手を伸ばしかけた。
そこにはいつもの帳面が入っている。
少し考えて、手を戻した。
「今日は書きません」
「本当に?」
「忘れたら?」
悠斗が尋ねる。
「食事の味くらい、忘れても問題ありません」
「ハインツさんが言うとすごいですね」
◇
食事を終えたあと、ハインツは屋敷へ戻った。
その日の午後、若い使用人から厨房裏の棚を修理する相談を受けた。
「板が一枚割れてます」
「予備は?」
「あります」
「交換費用は?」
金額を聞く。
家令補佐の判断で認められる範囲だった。
「交換してください」
「オズワルド様へ確認しなくていいですか」
「必要ありません」
「でも、棚の形少し変わります」
「使い勝手は?」
「前より鍋が置きやすくなると思います」
「なら、交換後に確認します」
若い使用人は少し驚いたあと、頷いた。
◇
以前から決められなかったわけではない。
ハインツは長い間、日常の小さな判断をいくつもしてきた。
ただ、基準のない仕事や新しい試みになると、誰かから答えをもらってから動きたくなっていた。
それは慎重さでもある。
すべて捨てる必要はない。
大きな契約。
領民の生活へ広く影響すること。
伯爵家の方針そのものを変えること。
そうしたものまで一人で決めれば、単なる独断になる。
だから上へ相談すべきことは、これからも相談する。
◇
しかし、自分へ任された範囲の中でさえ、間違いを恐れて答えを返し続けていれば、いつまで経っても誰かが自分の代わりに判断することになる。
父が十五歳の自分へ言ったことを、ハインツはようやく少し違う形で理解し始めていた。
勝手に決めるな。
だが、必要な時には決めろ。
その二つの間にあるのは、完璧な線ではない。
自分が何を任され、どこまでなら失敗しても止められ、どこから先は他人の権限に入るのかを確かめながら、その都度判断するしかない。
◇
夕方、倉庫係が新しい鉄皮栗の記録を持ってきた。
「次の便です」
「割れ率は?」
「十二個です」
「総数は?」
「百一個」
「前回とほぼ同じですね」
「次、どうします?」
ハインツは記録を見る。
二度の試験と同程度。
梱包方法の効果は再現している。
予算にも余裕がある。
農家との仮契約条件にも反していない。
ここで伯爵へ確認する必要はない。
「次回も同じ梱包で続けます」
「分かりました」
「ただし、さらに二回同じ数字が出たら、正式契約案を作りましょう」
「その時は伯爵様へ?」
「はい」
◇
「そこは確認するんですね」
「正式契約は私の権限を超えます」
「なるほど」
「何でも自分で決めればよいという話ではありませんから」
「境目、分かるようになりました?」
倉庫係の何気ない質問に、ハインツは少し考えた。
「以前よりは」
「まだ迷う?」
「当然です」
「その時は?」
「まず、自分へ何を任されているか確認します」
「それでも分からなかったら?」
「その時は聞きます」
「前と同じじゃないですか」
「順番が違います」
◇
倉庫係が笑った。
「確かに」
ハインツもわずかに笑い、今日の数字を帳面へ記入した。
数字を書き終える。
次回の欄はまだ空白になっている。
以前なら、その空白を見るだけで早く予定を書き込みたくなったかもしれない。
今は、次の輸送結果が出てから書けばよいと思える。
空白だからといって、仕事が止まっているわけではない。
自分で決めるべき時には決め、まだ決める材料がない時には待ち、自分の権限を超えるところまで来たなら、そこで初めて上へ渡せばいい。
ハインツは帳面を閉じると、伯爵の執務室へ許可を求めに向かうのではなく、次の試験に必要な藁の量を倉庫係と確認するため、自分が任された仕事の続きを進めていった。
●評価●ブックマーク●アクション●感想待ってます!
読者様が応援してくれると嬉しいです!




