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異世界持ち込み食堂~あなたの食材を料理します~  作者: シロの空


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第53話 固すぎる干し肉と、任せるのが遅すぎた伯爵

 ヴィクトル・アルヴェールは四十八歳になる伯爵であり、レーヴェン周辺に広がる農地と複数の村、いくつかの工房や倉庫を治めるアルヴェール家の現当主だった。茶色の髪には四十代へ入った頃から白いものが混じり始め、体格は騎士ほど大きくないものの、若い頃から領内を馬で回ってきたため身体は引き締まっており、華美な衣服より動きやすく丈夫な服を好む。


 性格は堅実で、帳簿に書かれた数字だけを見て判断することを嫌い、収穫量が落ちたと聞けば実際に畑へ行き、橋の修繕費が増えれば現場へ足を運び、市場で価格が荒れれば商人と農民の双方から話を聞く。領民からは「派手ではないが話を聞く伯爵」と評されており、宴会や社交で人を惹きつけるタイプではない代わりに、長く暮らす者ほど彼の仕事ぶりを信頼していた。


 ただし、そんなヴィクトルにも弱点があった。


 自分が一度責任を引き受けた仕事を、他人へ渡すのがひどく遅いのである。


 それは、生まれ育った環境と無関係ではなかった。


          ◇


 ヴィクトルは先代伯爵の長男として生まれたが、幼い頃から次期当主として厳しく育てられたわけではない。


 父である先代伯爵は豪快な人物で、領民との距離も近く、自分で何でも決めて前へ進むことを好んでいた。若いヴィクトルに対しても「見て覚えろ」とだけ言い、細かな説明をするより現場へ連れ回すことを選んだため、彼は十代の頃から畑の泥へ靴を沈め、倉庫番や農民、商人たちが何を見て仕事をしているのかを知るようになった。


 その生活が急に変わったのは、ヴィクトルが二十四歳の時だった。


 先代伯爵が視察先で倒れ、そのまま長期間療養することになったのである。


 当時のヴィクトルには、まだ正式な当主として全てを任される準備ができていなかった。


 それでも領地の仕事は待ってくれず、税の徴収、冬支度、河川工事、商人との契約更新、隣領との境界交渉といった問題が次々と押し寄せた。


 若かった彼は、分からないことを周囲へ聞きながら、一つずつ処理するしかなかった。


          ◇


 その時、最も近くで支えたのが、まだ四十代だったオズワルド・ケインである。


 現在六十七歳になるオズワルドは、商家の三男として生まれたあと若くして奉公へ出て、先代伯爵の時代からアルヴェール家へ仕え続けてきた執事だった。相手が求めるものを言葉にする前に用意することへ長け、予定、金銭、使用人の配置、客人への対応まで広く見渡すため、若いヴィクトルにとっては執事である以上に、領主として立つための足場を整えてくれた人物でもあった。


 しかし、当時のヴィクトルは「自分が頼りないから周囲が助けている」と感じていた。


 だからこそ、一人前の伯爵になるためには、自分で判断できることを増やし、自分で背負える仕事を増やさなければならないと思った。


 その考えは彼を成長させた。


 同時に、必要以上のものまで自分で抱える癖を残した。


          ◇


 父が亡くなり、ヴィクトルが正式に伯爵位を継いでから二十年以上が過ぎても、その癖は完全には消えなかった。


 各村には代官がおり、農地には管理人がいて、倉庫には責任者がいる。


 屋敷の内部にはオズワルドがおり、成長した娘レティシアも最近では領内の視察へ出るようになった。


 それでも重要な決裁書類は自分で細部まで読み、少しでも気になる数字があれば現場へ確認を取り、部下が判断できる内容であっても最後には自分で結論を出そうとする。


 周囲から何度「そこまで伯爵様が見る必要はありません」と言われても、ヴィクトルは「俺が責任者だ」と答えてきた。


 その日、《持ち込み食堂》へ足を運んだ理由も、最初は仕事と呼べるほど大げさなものではなかった。


          ◇


 ヴィクトルが店へ現れたのは、昼を少し過ぎた頃だった。


 伯爵が来ると事前に知らされていたわけではないため、ミレイアは最初、質のよい外套を着た年配の男性客として迎えた。


「いらっしゃいませ」


「ここが《持ち込み食堂》か」


「はい。食材をお持ちでしたら、状態を見て料理できます」


「そう聞いている」


 ヴィクトルはそう答え、肩に掛けていた革袋を卓へ置いた。


 中から出てきたのは、掌ほどの幅に切られた濃い茶色の干し肉だった。


 表面はよく乾いており、腐敗した匂いはないものの、見るからに硬そうで、指で押してもほとんど沈まない。


「これは?」


 悠斗が厨房から出てきて尋ねる。


「《灰角鹿》の干し肉だ」


「食べられるもの?」


「もちろんだ。ただし、少し問題がある」


「硬い?」


「非常に硬い」


          ◇


 悠斗はヴィクトルの許可を得て、小さく切った端を確認した。


「保存食ですか?」


「領内の北側で冬用に作っている」


「普通はもっと柔らかい?」


「完全に柔らかいわけではないが、これは乾かしすぎた」


「失敗品?」


「そういう扱いになっている」


「捨てる予定?」


「家畜の餌へ回すか、長く煮て使用人用の煮込みへ使う予定だった」


 ヴィクトルの言い方に、ミレイアが少し首をかしげた。


「使用人用なら食べられるんですよね?」


「食べられる」


「じゃあ失敗っていうのは?」


「本来の商品としては出せないという意味だ」


 その答えを聞いて、悠斗は前に来たレティシアの木苺を少し思い出した。


          ◇


「これ、伯爵家の領地で作ったものです?」


「そうだ」


「何で伯爵様が自分で持ってきたんですか?」


 ミレイアが聞いてから、相手の身分を知らずに少し砕けた聞き方をしたかもしれないと思ったらしく、姿勢を正した。


 ヴィクトルは気にした様子もなく答えた。


「娘からこの店の話を聞いた」


「レティシアさん?」


「知っているのか」


「前に来ました」


「だろうな。ここへ来てから質問が増えた」


「困ってます?」


「多少は」


 ヴィクトルはそう言ったものの、声には嫌そうな響きがなかった。


「その娘が、《商品にならないものでも使い方を見ればいい》と言うのでな」


「それで干し肉を?」


「ちょうど問題が起きていた」


          ◇


 灰角鹿の干し肉を作っていたのは、北側の村にある保存食工房だった。


 もともとは冬に備えて領内で消費するための施設だったが、近年は品質が安定してきたため、市場へ出す量も増えていた。


 ところが今年、若い責任者が乾燥工程を少し変えた結果、三十枚ほどの干し肉が予定以上に水分を失い、通常の商品よりかなり硬く仕上がってしまった。


「責任者は?」


 悠斗が聞く。


「三十二歳の男で、名はハインツという。工房で働いて十一年になる」


「経験はある?」


「十分ある」


「じゃあ何で変えたんです?」


「新しい乾燥棚を使った」


「性能違った?」


「風が以前よりよく通る」


「乾きすぎた?」


「そういうことだ」


 ヴィクトルは卓の上の干し肉を見た。


          ◇


「それで伯爵様が怒った?」


 ミレイアが尋ねる。


「怒ってはいない」


「じゃあ?」


「作り直しを命じた」


「普通では?」


「その後が少し問題だった」


「何があったんです?」


「私は、工房の作業手順まで決めた」


 悠斗が手を止めた。


「伯爵様が?」


「乾燥時間、棚へ置く間隔、肉の厚さ、確認する時刻までな」


「料理職人じゃないですよね?」


「違う」


「詳しい?」


「一般的な工程は知っている」


「ハインツさんより?」


「それはない」


          ◇


 ヴィクトル自身も、そのことには気づいていた。


 それでも、損失が出たという報告を受けた瞬間、昔の癖が出た。


 問題が起きたなら自分が原因を確認し、自分が次の失敗を防がなければならないと思い、工房へ行って細かな手順まで口を出した。


「ハインツさんは何て?」


「従った」


「反対しなかった?」


「しなかった」


「納得した?」


「その時はそう思っていた」


「今は?」


「分からん」


 ヴィクトルは短く息を吐いた。


「昨日、娘に聞かれた。《ハインツ本人は、次にどうするつもりだったのですか》とな」


          ◇


「それで?」


「答えられなかった」


「聞いてなかった?」


「俺が先に決めたからな」


「オズワルドさんと似てますね」


 ミレイアが言う。


 ヴィクトルが眉を上げる。


「オズワルドが何かしたのか」


「本人から聞いた方がいいです」


「最近、あいつも妙に人へ質問するようになった」


「この家、連鎖してますね」


 悠斗が苦笑する。


「笑い事ではない」


「すみません」


 ヴィクトルも本気で怒っているわけではなかった。


          ◇


「ただ、伯爵様の立場なら責任はあるんですよね」


 悠斗が言った。


「当然だ」


「工房が失敗して損が出たら、最終的には伯爵家にも影響する?」


「市場へ出す予定だった分だからな。大きな損ではないが、続けば問題になる」


「じゃあ何も言わないわけにもいかない?」


「そうだ」


「でも細かい作り方まで決めなくてもよかった?」


「その可能性はある」


 ヴィクトルは腕を組んだ。


「俺は昔から、誰かへ任せて失敗されると、自分が確認しなかったせいだと思う」


「本当に伯爵様のせい?」


「最終責任は俺だ」


「責任と作業って同じですか?」


 悠斗が尋ねた。


          ◇


 ヴィクトルはすぐには答えなかった。


「どういう意味だ」


「店なら、俺が料理失敗したら俺の責任です。でも、ミレイアが皿運んで少し配置間違えたからって、俺が次から全部運ぶとはならないですよね」


「ならんだろう」


「でも店の責任者は?」


「お前だ」


「じゃあ責任者だから全部やる、ではない?」


「規模が違う」


「それはそうです」


 悠斗は認めた。


「ただ、規模が大きいなら余計に全部できないんじゃないですか」


 その言葉に、ヴィクトルは少し眉を寄せた。


          ◇


「全部やっているつもりはない」


「もちろんです」


「代官も管理人もいる」


「じゃあ、どこまで任せてる?」


「日常業務は任せている」


「失敗した時だけ戻す?」


「……そうかもしれん」


「それだと、任された人はどうなるんでしょう」


 ミレイアが尋ねた。


「何がだ」


「成功してる間は任されてるけど、一回失敗したら全部決められる?」


 ヴィクトルは黙った。


「私なら、次も失敗しないように考える前に、言われた通りやろうって思うかも」


「それが安全ではある」


「でも、その人が次に自分で判断できるようになります?」


 ミレイアの問いに、ヴィクトルは少し長く考えた。


          ◇


「俺が若い頃は、誰もそんなに細かく教えなかった」


 やがてヴィクトルが言った。


「先代伯爵?」


「ああ。父は雑な男だった」


「失敗した?」


「何度もした」


「怒られた?」


「かなり」


「でも任された?」


「放り投げられた、と言った方が近い」


 ヴィクトルは昔を思い出すように目を細めた。


「二十五の頃、穀物倉庫の修繕費を安く抑えすぎて、翌年に雨漏りしたことがある」


「大変ですね」


「保管していた麦をかなり駄目にした」


「それは怒られたでしょう」


「父はまだ療養中だった」


          ◇


「じゃあ誰が?」


「オズワルドと倉庫責任者だ」


「どうしたんです?」


「修繕費を減らした判断がなぜ駄目だったか、全部調べ直した」


「次は?」


「屋根材を変えた」


「うまくいった?」


「ああ」


「そのあと、伯爵様は倉庫の修理方法まで全部決めるようになりました?」


「いや」


「何で?」


「俺は建築職人じゃないからだ」


 悠斗は頷いた。


「じゃあ今の干し肉も似てる?」


「そう簡単に結びつけるな」


「料理屋なので」


「何の理由にもなっていない」


 それでもヴィクトルは少し笑った。


          ◇


 悠斗は干し肉を薄く切ろうとしたが、そのままではかなり力が必要だった。


「本当に硬いですね」


「だから失敗だと言った」


「食べられないほどでは?」


「煮れば食える」


「じゃあ煮ます」


「普通だな」


「でも、その前に少し戻してみます」


 悠斗は干し肉を薄い温水へ浸し、塩分と硬さがどの程度戻るかを確かめることにした。


「何作る?」


「白豆と根菜の煮込みにします。干し肉の旨味を汁へ移す感じで」


「商品用にはならんぞ」


「料理にするなら関係ないです」


「保存食として売れないものを、料理材料として売る?」


「それが採算合うなら」


 悠斗はそう答えた。


          ◇


「採算が問題だな」


 ヴィクトルの顔がすぐ領主のものへ戻った。


「三十枚程度なら工房や使用人で消費できる。しかし、同じ失敗が大量に出る前提で新しい販路を作るのは違う」


「そうですね」


「だから《失敗品も使えるから問題ない》にはしたくない」


「それは俺もそう思います」


「では、何のために料理する?」


「今回もうできちゃった分を食べるためです」


「単純だな」


「失敗を活用することと、失敗を放置することは別でしょう」


 ヴィクトルは少しだけ目を細めた。


「娘も似たことを言っていた」


          ◇


「レティシアさん?」


「ああ。《規格外品の使い道を考えることと、規格をなくすことは違います》とな」


「木苺で覚えた?」


「何でも木苺へ結びつける時期らしい」


「オズワルドさんが困ってました」


「俺も困っている」


 ヴィクトルはそう言いながらも、どこか楽しそうだった。


「ただ、以前より質問はまともになった」


「前は?」


「聞かずに全部自分で決めつけていた」


「伯爵様に似た?」


「……否定しづらいな」


          ◇


 干し肉が少し柔らかくなると、悠斗は細めに切り分けた。


 鍋では根玉葱を炒め、そこへ戻した干し肉と根菜、白豆、水を加えてゆっくり煮る。


 乾燥で硬くなった肉は短時間では柔らかくならないため、弱火で時間をかけて旨味を汁へ出していく。


「待つんですね」


 ミレイアが言う。


「こういう肉は急いでも柔らかくならないです」


「強火にしたら?」


「水が減るだけで、外側だけ崩れて中が硬いこともあります」


 ヴィクトルが鍋を見つめた。


「何事も急げばいいわけではない、という話にする気か?」


「何も言ってませんよ」


「顔に出ている」


「料理見てるだけです」


          ◇


 煮込みができるまでの間、ヴィクトルは工房の責任者ハインツについて話した。


 ハインツは父親も同じ工房で働いていた職人の家に生まれ、十五歳から保存食作りを手伝ってきた。


 父を早くに亡くしたあとも工房へ残り、肉の乾燥だけでなく燻製、塩漬け、倉庫管理まで覚え、三年前に前任者が引退したことで責任者を任された。


「優秀なんですね」


 ミレイアが言う。


「優秀だから任せた」


「なのに失敗した?」


「優秀でも失敗はする」


「じゃあ、その一回で任せるのやめたわけじゃない?」


「やめてはいない」


「でも細かいやり方は決めた?」


「そうだ」


「本人からしたら、信用なくなったように感じるかも」


 ヴィクトルの視線が止まった。


          ◇


「それは考えなかったな」


「聞いてみないと分からないですけど」


「そうだな」


 ヴィクトルは低く答えた。


「俺は、失敗を責めるつもりではなかった」


「じゃあ何で細かく決めた?」


「次に同じ損を出したくなかった」


「それは分かります」


「俺が条件を決めれば、少なくとも同じ乾燥しすぎは防げる」


「でもハインツさんが別の条件で改善案持ってたら?」


「潰すことになる」


「聞かなかった?」


「聞かなかった」


 ヴィクトルは苦い顔をした。


          ◇


「責任者って難しいですね」


 ミレイアが言う。


「何がだ」


「任せて失敗したら、自分も何か言われるんですよね」


「当然だ」


「じゃあ口出したくなるのも分かる気がします」


「そうだろう」


「でも全部決めたら、その人を責任者にした意味なくなる?」


「……そこだな」


 ヴィクトルは椅子へ少し深く座った。


「俺はハインツを責任者として置いているのに、問題が起きた途端、ただの作業者として扱ったのかもしれん」


「次どうします?」


「まず聞く」


「何を?」


「本人が何を考えていたかだ」


          ◇


「それで、案が悪かったら?」


 悠斗が尋ねる。


「止める」


「良かったら?」


「任せる」


「分からなかったら?」


「試す範囲を決める」


 ヴィクトルはそこまで答えてから、少しだけ自分で驚いたようだった。


「試す範囲?」


「伯爵様が今言いましたよ」


「分かっている」


「例えば?」


「全部の肉で新しい方法を試すから損が大きくなる。最初は十枚だけにする」


「それなら失敗しても?」


「損失を限定できる」


「成功したら広げる?」


「そうだ」


「それ、最初からハインツさんに考えさせてもよかった?」


「たぶんな」


          ◇


「《たぶん》って言いましたね」


 ミレイアが笑う。


「何か問題か」


「オズワルドさんも最近言ってました」


「本当にあいつと似た話になってきたな」


 ヴィクトルはため息をついた。


「長年一緒にいると似るんでしょうか」


「やめてくれ」


「仲良いんですね」


「主従だ」


「四十年以上?」


「俺が子どもの頃からいる」


「それなら家族みたいなものでは?」


「本人に言うな。面倒になる」


 その返答には、長年の信頼が隠しきれずに滲んでいた。


          ◇


 やがて煮込みから、干し肉の濃い香りが立ち始めた。


 硬かった肉は完全に柔らかくなったわけではないものの、匙で切れる程度まで戻り、白豆と根菜にも旨味が染み込んでいる。


 悠斗は塩気を確認し、干し肉から十分に塩分が出ていたため追加の塩はほとんど使わなかった。


「できました」


 深皿へ盛られた料理には、白豆、根菜、細く切った灰角鹿の干し肉がたっぷり入っている。


「《灰角鹿の干し肉と白豆の煮込み》です」


「ずいぶん普通の名前だな」


「分かりやすい方がいいでしょう」


「まあいい」


 ヴィクトルは匙を取った。


          ◇


 煮込まれた灰角鹿の肉は、通常の生肉を使った料理より噛み応えが残っているものの、最初のような石に近い硬さはなくなっていた。


 乾燥によって凝縮された旨味が汁へ溶け込み、白豆と根菜がそれを吸っているため、肉そのものを大量に食べなくても料理全体へ濃い味が回っている。


「うまいな」


 ヴィクトルが言う。


「商品にできます?」


 悠斗が尋ねる。


「この煮込みを?」


「硬い干し肉を、煮込み用として安く売るとか」


 ヴィクトルはすぐには頷かなかった。


「少量なら可能性はある」


「でも?」


「通常品より乾燥しすぎている分、重量が軽い。値段をどうするか、保存性が本当に上がっているか、品質のばらつきも確認が必要だ」


「さすが商売の話になると細かい」


「領主だからな」


          ◇


「でも捨てなくて済む?」


「今回の三十枚はな」


「じゃあ成功?」


「食材としては」


「工房の失敗としては?」


「失敗は失敗だ」


 ヴィクトルははっきり答えた。


「そこは変えない?」


「変えない。狙って作ったものではないからな」


「でも使える?」


「使える」


「両方でいいんですね」


「何がだ」


「失敗したことと、価値が残ってること」


 ヴィクトルは煮込みを一口食べたあと、静かに頷いた。


「そうだな」


          ◇


 以前のヴィクトルは、問題が起きるとまず再発を防ぐことを考えた。


 それ自体は間違っていない。


 領地を預かる者として、同じ損失を繰り返させないことは必要である。


 ただし、再発防止の方法まで自分一人で決める必要があるかどうかは別の問題だった。


 失敗した本人が何を見落とし、次に何を変えようとしているのかを聞かなければ、本当に学んだのかさえ分からない。


 責任者である自分が最後に判断することと、最初から最後まで全てを自分で決めることは同じではなかった。


          ◇


「今日、工房へ行く」


 ヴィクトルが言った。


「今から?」


「帰りに寄れる」


「ハインツさんに会う?」


「ああ」


「細かい手順取り消す?」


「話を聞いてからだ」


「もし向こうが伯爵様の手順でいいって言ったら?」


「それも理由を聞く」


「本当に質問増えましたね」


 ミレイアが笑う。


「娘のせいだ」


「悪いこと?」


「仕事が増える」


「でも?」


 ヴィクトルは少しだけ笑った。


「判断材料も増える」


          ◇


 食事を終えたヴィクトルは、残っている干し肉を数枚だけ持ち帰った。


「この煮込み、作り方を工房へ伝えてもいいか?」


「もちろんです」


「料理長にも試させる」


「伯爵様が作り方決めない?」


「俺は料理人じゃないと言っただろう」


「さっきまで乾燥方法決めてたのに」


 ミレイアが言うと、ヴィクトルは少し不満そうな顔をした。


「だから見直すんだ」


「すみません」


「笑ってるだろ」


「少しだけ」


 ヴィクトル自身も、最後には苦笑した。


          ◇


 その日の午後、ヴィクトルは北側の保存食工房へ向かった。


 工房では灰角鹿の肉が並び、作業員たちが塩の量や乾燥状態を確認している。


 伯爵が予定外に現れたことで、内部には一瞬緊張が走った。


「ハインツはいるか」


「奥におります」


 呼ばれて出てきたハインツは三十二歳で、短い黒髪と日に焼けた肌を持ち、細身ながら前腕には肉を扱う仕事でついた力がある。若い頃から同じ工房で働いてきたため口数は多くないものの、肉の状態を見る目は確かで、部下からも真面目な責任者として信頼されていた。


「伯爵様」


 ハインツは緊張した様子で頭を下げた。


「先日の失敗の件でしょうか」


「そうだ」


          ◇


「申し訳ありません。次はご指定いただいた通りに」


「その前に聞きたい」


 ヴィクトルが言うと、ハインツが顔を上げた。


「何でしょう」


「お前は、次にどうするつもりだった」


「……伯爵様に言われた方法で」


「俺が指示する前だ」


 ハインツは少し黙った。


「考えていたことがあっただろう」


「ありました」


「なぜ言わなかった」


「伯爵様がもう決められたので」


「言えばよかった」


「言ってよかったんですか」


 その問いに、ヴィクトルは一瞬返事を失った。


          ◇


「責任者なんだから言え」


「でも、失敗した直後でしたので」


「だから?」


「自分の判断が間違っていたあとに、伯爵様の指示へ別案を出すのは……」


「逆らっているように思ったか」


「少し」


 ヴィクトルは眉間へ指を当てた。


「俺の言い方が悪かったな」


「いえ」


「そこですぐ否定するな」


「ですが」


「俺にも悪いところはある」


 ハインツは困ったような顔をした。


「今日は何だか、いつもと違いますね」


「最近、家の中で質問する人間が増えた」


「レティシア様ですか」


「なぜ分かる」


「この前ここでも質問をたくさんされました」


          ◇


「何を聞かれた」


「干し肉の違いや、失敗品をどうするのかを」


「それで?」


「ちゃんと聞いて帰られました」


「以前は聞かなかったか」


「説明したら頷いて終わりでした」


 ヴィクトルは小さく笑った。


「やはり変わっているな」


「いい意味で?」


「たぶん」


「伯爵様が《たぶん》と言うのは珍しいですね」


「今日はそれを何度も言われる」


          ◇


「それで、お前の案を聞かせろ」


 ヴィクトルが本題へ戻す。


 ハインツは作業台の上に置かれた新しい乾燥棚を指した。


「今回、乾きすぎた原因は棚の風通しです。以前の棚と同じ時間置いたのが駄目でした」


「そこまでは俺も見た」


「次は時間だけ短くするつもりではありませんでした」


「他に?」


「肉の厚さごとに置く場所を変えます」


「どういうことだ」


「この棚、下段の方が風が弱いんです」


「測ったのか?」


「昨日、布を吊って確かめました」


「なら、厚い肉を上段、薄い肉を下段へ?」


「はい。それと、途中で一度重さを測ります」


          ◇


「重さ?」


「乾燥前の重さと比べれば、水分がどのくらい抜けたか目安になります」


「今までは?」


「触った感覚で見ていました」


「それで問題なかった?」


「古い棚なら」


「新しい棚では基準が変わった?」


「そうです」


 ヴィクトルはしばらく考えた。


「俺が決めた手順より細かいな」


「長くこの仕事をしてますので」


「それなら最初から言え」


「……はい」


「ただし」


 ヴィクトルはハインツを見た。


「次は全部で試すな」


「分かっています」


          ◇


「何枚にする」


「十枚で試すつもりでした」


「俺も同じ数を考えていた」


「本当ですか」


「そんなに意外か」


「少し」


「失礼な奴だな」


 ハインツは少し笑った。


「十枚でやれ。結果と重さを記録して、俺にも報告しろ」


「分かりました」


「俺が指定した乾燥時間は?」


「どうします?」


 ヴィクトルは少し考えた。


「参考に残せ。ただし、その通りやれとは言わん」


「いいんですか」


「お前が責任者だ」


 ハインツの表情がわずかに変わった。


          ◇


「ただし、好きにしていいという意味ではない」


「はい」


「結果が悪ければ理由を説明しろ。二度続けて同じ原因で失敗したら、次は俺ももっと口を出す」


「分かりました」


「それから、今回の硬い干し肉は捨てるな」


「どうするんです?」


「煮込みへ使える」


「煮込み?」


「白豆と根菜で煮る」


「伯爵様が考えたんですか」


「違う」


 ヴィクトルは即答した。


「西区の食堂だ」


「レティシア様が行った?」


「そうだ」


「伯爵様も行ったんですね」


「悪いか」


「いえ」


          ◇


「ただし、この失敗品を新しい商品にするかは別途考える」


「分かりました」


「今回は使い切る」


「はい」


「失敗を帳消しにはしない」


「もちろんです」


「だが、食べられるものまで捨てる必要もない」


 ハインツは頷いた。


「料理法、教えてください」


「後で紙を回す」


「伯爵様が?」


「料理長に書かせる」


「そこは任せるんですね」


 ヴィクトルが眉を寄せた。


「お前まで言うのか」


 ハインツは慌てて口を閉じたが、少し笑っていた。


          ◇


 数日後、十枚だけを使った新しい乾燥試験が行われた。


 ハインツは肉の厚さごとに棚の位置を変え、一定時間ごとに重さを量り、乾燥率を記録した。


 結果は完全ではなかった。


 二枚はまだ硬くなりすぎ、一枚は逆に水分が多く残った。


 それでも七枚は以前より狙った状態へ近づいている。


「七枚か」


 報告書を受け取ったヴィクトルが言う。


「まだ商品化するにはばらつきがあります」


「次は?」


「厚さをもう少し揃えます。それと中段の風を測り直したいです」


「やれ」


「伯爵様から条件は?」


「必要なら言う」


「今回は?」


「今の案で続けろ」


 ハインツは頷いた。


          ◇


 二回目の試験では、十枚中九枚が目標に近い状態へ仕上がった。


 残った一枚は少し乾燥が強かったものの、最初のように煮込まなければ食べられないほどではない。


 三回目には、ようやく全てが工房の基準へ収まった。


「これなら本番へ戻せます」


 ハインツが言う。


「一度に全部戻すな」


「半量から?」


「そうしろ」


「分かりました」


 ヴィクトルは完成した干し肉を一枚手に取り、指で曲げて硬さを確かめた。


「俺の指定した方法よりよくなったな」


「伯爵様の方法も参考にしました」


「気を遣うな」


「本当です」


          ◇


「乾燥時間を短くする考えは使いました」


「他は?」


「肉の間隔も広げました」


「なら全部無駄ではなかったか」


「はい」


 ヴィクトルは少しだけ安心した。


 自分が口を出したことそのものが全て間違いだったわけではない。


 長年領地を見てきた経験から、気づけることもある。


 問題は、その経験を唯一の答えとして押しつけることだった。


 責任者として意見を出し、失敗の範囲を制限し、最終的な結果を確認する。


 その途中に、実際の仕事を最もよく知る人間が考える余地を残せばよい。


          ◇


 同じ頃、最初に硬くなりすぎた干し肉は、伯爵家の厨房や保存食工房で煮込みへ使われ始めた。


 料理長は悠斗から聞いた方法をそのまま再現するのではなく、香草と少量の酒を加え、屋敷向けの味へ調整した。


 工房ではもっと簡単に、白豆と根菜だけで大鍋へ入れ、作業員の昼食として出した。


「これ、あの失敗した肉ですか」


 若い作業員が尋ねる。


「そうだ」


 ハインツが答える。


「普通にうまいですね」


「だから失敗していいわけじゃないぞ」


「分かってます」


「次は硬くしない」


「でも硬くなったら?」


「まず原因を調べる」


「そのあと煮る?」


「使える状態ならな」


          ◇


 その日の夕方、ヴィクトルは工房から帰る途中で娘のレティシアと鉢合わせた。


「父上、北の工房へ行っていたのですか」


「ああ」


「干し肉の件?」


「そうだ」


「ハインツさんと話しました?」


「話した」


「どうでした?」


「お前の質問が増えたせいで、俺まで余計なことを考えるようになった」


「悪かったですか」


「仕事は増えた」


「オズワルドも同じことを言います」


「お前は少し減らせ」


「必要な質問です」


「全部そう言う」


 レティシアは楽しそうに笑った。


          ◇


「それで、任せることにしたのですか」


「任せた」


「全部?」


「そんなわけがあるか」


「では、どこまで?」


「試験方法は本人に考えさせた。試す量は俺が制限した。結果は報告させた」


「それなら父上も判断しているのですね」


「当然だ」


「何もしないことが任せることではない?」


「そうだ」


 ヴィクトルは娘を見た。


「お前も勘違いするな。自分で選ぶというのは、周りの意見を聞かないことではない」


「分かっています」


「本当か」


「最近は、分からない時には分からないと言うようにしています」


「それは進歩だな」


          ◇


「父上も?」


「何がだ」


「分からないと言えますか」


 ヴィクトルは少し考えた。


「必要なら」


「では、私が将来どの仕事を一番向いていると思いますか」


「分からん」


「早いですね」


「今の時点で決められるか」


「でも父上の意見は?」


「農地の話を聞く時は楽しそうだ」


「それだけ?」


「工房でも質問が多い」


「商人の話も面白いです」


「だからまだ分からんと言っている」


 レティシアは満足そうに頷いた。


「では、もう少し見ます」


「そうしろ」


          ◇


 屋敷へ戻ったヴィクトルを待っていたのは、いつものように何枚もの決裁書類だった。


 橋の補修費、倉庫の人員、秋祭りへの支出、隣村との水路調整など、どれも領主として確認すべきものではある。


 ヴィクトルは最初の一枚を読み、いつもの癖で細かな数字まで自分で調べ直そうとした。


 そこで一度手を止める。


 この書類には、すでに財務係の確認印がある。


 内容も、伯爵本人が最初から計算し直さなければならないほど複雑ではない。


 ヴィクトルはオズワルドを呼んだ。


「この数字、財務責任者が確認したんだな」


「はい」


「問題は?」


「私が見た範囲でもございません」


          ◇


「なら通す」


 ヴィクトルが署名すると、オズワルドが一瞬だけ彼を見た。


「何だ」


「いえ。再計算なさらないのかと思いまして」


「必要か?」


「私は必要ないと考えます」


「ならやらん」


「珍しいですね」


「お前まで言うな」


「最近、屋敷中が変わっておりますので」


「原因はレティシアだ」


「お嬢様は伯爵様が原因だと仰るかもしれません」


「どういう意味だ」


「似た者親子ということでございます」


「余計なことを言うようになったな」


「最近、意見を申し上げるよう求められておりますので」


          ◇


 ヴィクトルは苦笑しながら次の書類を取った。


 今度は水路の配分に関するもので、二つの村が異なる希望を出している。


 これは担当者だけに任せるには重い問題だった。


「これは俺が見る」


「承知しました」


「明日、双方の代表を呼べ」


「午後でよろしいですか」


「午前は?」


「別件がございます」


「なら午後だ」


 オズワルドが予定を書き留める。


 ヴィクトルはそのやり取りをしながら、仕事を減らすことが目的ではないと改めて思った。


 自分で見なければならないものと、任せてよいものを分けることが必要なのだ。


          ◇


 何日か経った頃、ヴィクトルは再び《持ち込み食堂》へ立ち寄った。


 今度は食材を持っていなかった。


「今日は普通に食事ですか?」


 ミレイアが尋ねる。


「そうだ」


「珍しいですね」


「何がだ」


「伯爵様が一人で食堂に」


「娘も来ているだろう」


「最近は時々」


「なら俺が来てもいい」


「もちろんです」


 悠斗が厨房から顔を出した。


「干し肉どうでした?」


「工房は改善した」


「ハインツさんの方法で?」


「本人の案を中心にした」


「うまくいった?」


「三回目でな」


          ◇


「伯爵様の手順は?」


「一部は使った」


「じゃあ両方?」


「そういうことだ」


「よかったですね」


「それから、硬くなった肉も使い切った」


「全部?」


「工房と屋敷で煮た」


「新商品にする?」


「今のところしない」


「何で?」


「失敗品を前提に商売は組まん」


「でも、また出たら?」


「少量なら用途はあると分かった」


「じゃあ選択肢が増えた?」


「そうだ」


 ヴィクトルは頷いた。


          ◇


 その日は、店にあった普通の鳥肉と野菜の煮込みを頼んだ。


 食材に特別な問題はなく、料理について長い相談をする必要もない。


 席へ座ったヴィクトルは、久しぶりに仕事の書類を一枚も持っていなかった。


「何か落ち着かんな」


「何がです?」


 ミレイアが聞く。


「何も読むものがない」


「食事しに来たんですよね?」


「そうだ」


「じゃあ食事だけしてください」


「娘にも似たことを言われた」


「休めって?」


「食事中くらい仕事を置けとな」


「正しいと思います」


「皆で同じことを言うな」


          ◇


 料理が届くまでの短い時間、ヴィクトルは窓の外を眺めた。


 通りでは商人が荷車を押し、子どもが二人走り抜け、向かいの店では職人が看板を直している。


 領主として見れば、それぞれが領地の経済を構成する人間であり、問題が起きれば自分の判断が必要になることもある。


 それでも、今この瞬間まで全てを管理する必要はない。


 市場には市場を預かる者がおり、通りには警備を担当する者がいて、職人は自分の店を自分で運営している。


 その全てが自分の領地の中で動いていても、自分の手で一つずつ動かしているわけではなかった。


          ◇


「伯爵様」


 悠斗が料理を置いた。


「何だ」


「冷める前にどうぞ」


「ああ」


 ヴィクトルは匙を取った。


 特別な食材でも、高価な料理でもない。


 柔らかく煮た鳥肉と根菜に、塩と香草を使っただけの温かい一皿だった。


 それでも、その日のヴィクトルには十分だった。


 仕事を誰かへ任せたからといって、自分の責任がなくなるわけではない。


 反対に、自分が責任者だからといって、他人の仕事まで全部自分の判断へ置き換える必要もない。


          ◇


 任せた者が失敗すれば、報告を受け、理由を確かめ、必要なら修正する。


 大きな危険があるなら先に止める。


 取り返せる範囲なら試させる。


 本人の案に足りないところがあるなら、自分の経験を加えればいい。


 その結果として最終的な責任を引き受けることこそ領主の仕事であり、すべての手を自分の手へ置き換えることが責任ではないのだと、ヴィクトルはようやく少しずつ理解し始めていた。


          ◇


 食事を終えて屋敷へ戻ると、机の上には新しい報告書が置かれていた。


 北の工房から届いた干し肉の製造記録で、乾燥前後の重量、棚の位置、天候、作業時間が細かく書かれている。


 以前なら、その数字を一つずつ自分でも計算し直していただろう。


 ヴィクトルは最初にハインツのまとめを読んだ。


《新棚の基準は暫定的に確立。次の二回は同条件で確認し、問題がなければ正式手順としたい》


 その下には工房の責任者としての署名がある。


 ヴィクトルはしばらく報告書を眺めたあと、余白へ短い返答を書き込んだ。


《二回確認後、結果を報告せよ。問題がなければ工房判断で手順へ採用してよい》


          ◇


 筆を置いたところで、オズワルドが部屋へ入ってきた。


「確認されましたか」


「ああ」


「追加の指示は?」


「ない」


「珍しいですね」


「お前、本当にそれを言うようになったな」


「事実ですので」


「必要なら後から口を出す」


「承知しております」


「任せっぱなしにはしない」


「それも存じております」


「ならいい」


 オズワルドは書類を受け取った。


「伯爵様」


「何だ」


「少し肩の力が抜けましたか」


「抜いていない」


「そうでございますか」


「顔が笑っているぞ」


「失礼いたしました」


          ◇


 ヴィクトルは椅子へ背を預けた。


 二十四歳の頃、父の代わりに急いで仕事を覚えなければならなかった自分は、周囲へ頼りながらも、いつか全てを自分で判断できる領主にならなければならないと思っていた。


 けれど、領地の全てを一人で判断できる人間など、最初から存在しなかったのかもしれない。


 畑については農民の方が詳しく、保存食についてはハインツの方が詳しく、屋敷の運営ではオズワルドが自分より多くを知っている。


 自分が持つべきものは、全ての答えではない。


 誰の知識を聞き、どこまで任せ、どの結果について自分が最後に責任を引き受けるのかを決める力なのだろう。


          ◇


 翌朝、ヴィクトルは視察予定を確認した。


 本来なら北の工房へもう一度行き、乾燥棚の状態を自分で見ようと考えていた。


 予定表には、そのための時間も空けてある。


「オズワルド」


「はい」


「北の工房視察は外す」


「よろしいのですか」


「報告を待つ」


「では午前が空きます」


「南の水路資料を見る」


「休まれないのですね」


「必要な仕事だ」


「承知しました」


 ヴィクトルは少し考え、続けた。


「ただし昼は空けろ」


「会食ですか」


「違う」


          ◇


「食事をする」


 オズワルドが一瞬だけ黙った。


「当然のことでございます」


「何だ、その顔は」


「何でもございません」


「娘には言うな」


「なぜでしょう」


「面倒だからだ」


「お嬢様は喜ばれると思いますが」


「だから面倒なんだ」


 ヴィクトルは苦笑しながら予定表を閉じた。


 そして午前中に自分で見るべき水路の問題へ集中し、北の工房については、任せた責任者から約束した報告が届くまで待つことにした。


          ◇


 数週間後、灰角鹿の干し肉は新しい乾燥棚でも安定して作れるようになった。


 ハインツは正式な作業手順をまとめ、工房の若い職人たちへ、新しい棚では古い感覚だけに頼らず重量も確認するよう教え始めた。


 最初の三十枚を硬くしすぎた失敗は、記録から消されていない。


 むしろ、なぜ乾きすぎたのか、新しい棚で何を変えたのかという経緯まで手順書の末尾へ残された。


 ヴィクトルは完成した記録へ目を通したが、文章を自分の言葉へ直させることはしなかった。


 必要なところだけ質問し、問題がないと判断すると、そのまま承認印を押した。


          ◇


 印を押し終えたあと、ヴィクトルは机の端に一枚だけ残していた硬い干し肉を手に取った。


 最初の失敗品から記録用として残しておいたもので、今でも指で曲げようとしてもほとんど動かない。


 そのまま食べるには硬すぎる。


 商品として売るには基準を外れている。


 だからといって、その一枚が完全に無意味だったわけでもない。


 煮込めば食べられたし、何より、その失敗をきっかけに新しい乾燥棚の扱いを工房全体で覚えることができた。


 使い道が残っているから失敗ではない、という話ではない。


 失敗したからといって、その後に得られるものまで無価値になるわけでもなかった。


          ◇


 ヴィクトルは干し肉を記録棚へ戻すと、次の決裁書類へ手を伸ばした。


 書類には、東側の村で新しい農具を試験導入したいという提案が書かれている。


 以前なら、どの農具を何本買い、誰に使わせ、いつまでに結果を出すかまで自分で決めていたかもしれない。


 その日は、提案を書いた農地管理人の試験計画を先に読んだ。


 三つの農家で少数だけ使い、従来品との作業時間を比べ、破損率も記録すると書かれている。


 ヴィクトルは内容を最後まで確認し、一点だけ安全面について追記を求めると、それ以外の方法は管理人の案のまま進めることを認めた。


          ◇


 領主である以上、決断を避けることはできない。


 誰かへ任せた結果が悪ければ、それを理由に自分だけ責任から逃げることもできない。


 だからこそ、全てを抱え込むのではなく、誰へ何を任せたのかを理解し、必要な報告を受け、重要なところでは自分の判断を示すことが求められる。


 ヴィクトルはようやく、任せることを責任の放棄ではなく、責任を果たすための方法の一つとして考えられるようになっていた。


 そして次の書類を開いた時も、まず自分ならどうするかを書き込むのではなく、その仕事を任されている者が何を考え、どこまで準備したのかを最後まで読んでから、自分が本当に口を出す必要のある場所だけを選ぶことにした。


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