第52話 薄すぎる出汁と、先回りしすぎる老執事
オズワルド・ケインは六十七歳になるアルヴェール伯爵家の執事であり、若い頃から四十年以上にわたって同じ家へ仕え続けてきた男だった。白髪は毎朝きれいに後ろへ撫でつけ、細身の身体を包む濃紺の上着には一つの皺も残さず、屋敷の廊下を歩く時には年齢を感じさせないほど背筋を伸ばしているため、初めて会った者からは実際より幾分若く見られることもある。
感情を大きく表へ出すことは少なく、祝い事でも声を上げて笑うことは滅多にないが、冷淡な人物というわけではない。主人の予定を覚えるだけでなく、料理人の子どもが熱を出した時には勤務を交代させ、庭師が腰を痛めれば負担の軽い仕事へ回し、使用人同士の揉め事が起きれば双方の話を聞いてから配置を変えるなど、屋敷で暮らす者たちの細かな事情まで把握することを自分の務めとしてきた。
オズワルドがアルヴェール家へ入ったのは二十三歳の時である。
彼自身は貴族の生まれではなく、レーヴェンから二日ほど離れた小さな宿場町で、馬具を扱う商家の三男として育った。兄二人が家業を継いだため十五歳で親元を離れ、王都にある大商家で給仕や帳簿整理を学んだあと、紹介を受けて先代アルヴェール伯爵の従者となった。
当時の彼は、自分のように家名も土地も持たない者が身を立てるには、誰より早く必要なことへ気づき、命じられる前に動ける人間になるしかないと考えていた。
主人が水を欲しがる前に杯を満たし、客人が寒さを口にする前に暖炉へ薪を足し、旅程が乱れる可能性を見つければ代替案まで準備しておく。そうした働き方を続けた結果、オズワルドは先代から重用され、やがて若かったヴィクトルの身の回りを任されるようになり、さらにその娘であるレティシアが生まれてからは、彼女の成長も長く傍らで見守ってきた。
だからオズワルドにとって、相手が言葉にする前に必要なものを用意することは、単なる癖ではなく、自分が何十年も磨いてきた職人技に近いものだった。
それが時として、相手が自分で考える前に答えまで用意してしまうことがあるとは、最近まで深く考えたことがなかった。
◇
レティシアが《持ち込み食堂》を訪れた数日後、今度はオズワルドが一人で店の扉を開いた。
いつもの執事服ではなく、紋章のない灰色の外套を羽織っているものの、姿勢も歩き方も変わらないため、以前店で顔を合わせたミレイアにはすぐ分かった。
「いらっしゃいませ。今日はレティシアさんと一緒じゃないんですね」
「本日は私用で参りました」
「私用?」
「はい」
オズワルドはそう答え、小さな蓋付きの陶器壺を卓へ置いた。
「こちらを料理に使っていただけますでしょうか」
厨房から出てきた悠斗が壺を見る。
「中身は?」
「《白枝鳥》を煮た汁でございます」
「出汁みたいなもの?」
「おそらく、その呼び方が近いかと」
「飲める?」
「もちろんでございます」
「じゃあ見てみます」
◇
蓋を開けると、ほとんど透明に近い淡い黄金色の液体が入っていた。
香りは確かに鳥肉を煮たものだが、鼻を近づけてもかなり弱く、脂もほとんど浮いていない。
悠斗は小さな匙へ取ると、オズワルドへもう一度確認してから味見した。
「かなり薄いですね」
「やはり、そう感じられますか」
「水っぽいというほどじゃないですけど、料理の土台にするには少し弱いかな」
「そうですか」
オズワルドは落胆するというより、予想していた答えを確かめたような顔をした。
「これ、オズワルドさんが作ったんです?」
「いいえ。屋敷の若い料理人が作ったものです」
「失敗?」
「料理長は、そのように判断いたしました」
「それで持ってきた?」
「捨てる予定でしたので」
◇
「捨てる前に使えるか見てほしいってことですか?」
ミレイアが尋ねる。
「それもございます」
「他にも?」
オズワルドは少しだけ間を置いた。
「私が、その若い料理人へ余計なことを言った可能性がございます」
「余計なこと?」
「本人が何を作ろうとしていたのか確認せず、私が先に答えを与えてしまったのではないかと」
悠斗は壺を見ながら尋ねた。
「何て言ったんです?」
「それを説明するには、少々長くなります」
「料理しながらなら聞けます」
「では、お言葉に甘えましょう」
◇
アルヴェール伯爵家の厨房では、料理長の下に五人の料理人が働いている。
その中で最も若いのが二十歳の青年、ノル・フェインだった。
農村の食堂を営む家に生まれ、十八歳で伯爵家の厨房へ入って二年になる。包丁の扱いや火加減にはまだ未熟なところがあるものの、味覚は悪くなく、新しい組み合わせを試すことを好むため、料理長からも将来を期待されていた。
「昨日、ノルが夕食用の白枝鳥を捌いておりました」
オズワルドが説明する。
「その鳥は骨も使えるので、普段なら濃い煮汁を取って翌日のスープへ回します」
「それで、この出汁?」
「はい。ただし、彼はいつもより火を弱くし、短時間で切り上げようとしていたのです」
「何で?」
「私はそれを聞きませんでした」
オズワルドは静かに答えた。
◇
「見た瞬間に、失敗すると思った?」
「正確には、味の薄い煮汁になると判断しました」
「それで何て?」
「火を強め、骨を追加し、香味野菜も多く入れるよう伝えました」
「ノルさんは?」
「従いました」
「じゃあ今のこれ、オズワルドさんに言われた通り?」
「途中までは」
オズワルドは壺の中を見た。
「その後、料理長が味を見て、途中で別の鍋へ切り替えました。この汁は最初の段階で取り分けたものです」
「つまり、オズワルドさんが口を出す前の?」
「そうです」
◇
「なら何で失敗って言われたんです?」
ミレイアが聞いた。
「料理長は、《いつもの煮汁としては薄い》と判断しました」
「いつもの煮汁としては?」
悠斗が聞き返す。
「はい」
「ノルさんは、いつもの煮汁を作ろうとしてたんですか?」
「そこが問題でございます」
オズワルドは少しだけ目を伏せた。
「後になってから、違うものを作るつもりだったと聞きました」
「何を?」
「薄い煮汁を使った野菜料理です」
◇
ノルが作ろうとしていたのは、白枝鳥の骨から穏やかな旨味だけを取り出し、その汁で春野菜を軽く煮る料理だった。
濃い鳥の味を前へ出すのではなく、青菜や若い豆の香りを残したまま、わずかな肉の旨味で支えるものにしたかったらしい。
「それなら薄いの、わざと?」
「本人はそう申しておりました」
「最初から?」
「はい」
「オズワルドさんには説明しなかった?」
「説明する前に、私が指示しました」
ミレイアが少し困ったように尋ねる。
「ノルさん、反論しなかったんですか?」
「しませんでした」
「どうして?」
「私が執事だからでしょう」
◇
アルヴェール家の厨房で最終的な料理判断を下すのは料理長であり、本来オズワルドが細かな調理法まで命じる立場ではない。
ただし、宴席の時間や客人の好み、食材の配分、厨房と給仕の進行などを調整するため、彼が料理人へ指示を出すこと自体は珍しくなかった。
長く屋敷にいる使用人たちは、オズワルドが厨房へ口を出しても必要があれば普通に意見を返す。
しかし、まだ勤め始めて二年のノルにとっては違った。
「私は、彼が従ったので納得したものと考えていました」
「でも違った?」
「昨夜、料理長から聞きました」
「本人は怒ってた?」
「怒っているというより、もう一度試したかったようです」
「じゃあ試せばいいんじゃないですか?」
悠斗が言った。
「私もそう考えました」
◇
「それで今日、本人にもう一度作ればいいと伝えました」
「じゃあ解決?」
「いいえ」
オズワルドは珍しく、少し苦い表情をした。
「彼は《また間違っていたら、最初に教えてください》と答えました」
悠斗は手を止めた。
「それ、どういう意味だと思いました?」
「以前の私なら、《承知した》と答えていたでしょう」
「今は?」
「少し考えてしまいました」
「何を?」
「私は、彼が失敗しないよう先に教えることを親切だと思っていました。しかし、それでは彼が自分で判断した結果が正しかったのか、間違っていたのか、確かめる機会まで奪うのではないかと」
◇
オズワルドがそのことを強く意識したのは、レティシアとのやり取りがあったからだった。
彼女から「皆が私に合うものを先に決めている」と言われた時、オズワルドは最初、それが悪いことだとは思わなかった。
実際、執事の仕事には主人が不快な思いをしないよう先回りする役目が含まれている。
しかし、その後レティシアが服や視察先について理由を尋ね、自分で判断するようになっていく姿を見て、オズワルドは自分がこれまで「困らせないこと」と「考えさせないこと」を、同じように扱っていた場面がなかったかを思い返すようになった。
「若い料理人まで?」
ミレイアが聞く。
「お嬢様だけではなかったようです」
「使用人にも先回りする?」
「むしろ使用人に対しての方が多いかもしれません」
◇
「例えば?」
「新人給仕が客間へ入る前に、失敗しそうだと思えば私が配置を変えます」
「それ自体は安全じゃないですか?」
「重大な失礼につながるなら必要です」
「じゃあ問題ない?」
「しかし、少し遅い程度であれば本人に経験させることもできたでしょう」
「他には?」
「庭師見習いが剪定を迷っていれば、どの枝を切るべきか先に伝えます」
「危ない?」
「木は戻せませんので、場合によります」
「全部やめればいいわけじゃない?」
「そこが難しいのです」
オズワルドは穏やかに答えた。
◇
「失敗させればいい、という話ではございません」
「ですよね」
「主人の財産を大きく損ねる失敗や、人を傷つける可能性がある失敗を、成長のためだからと放置するわけにはまいりません」
「じゃあ、どこまで口出す?」
「それが分からなくなりまして」
悠斗は少し笑った。
「珍しいですね」
「何がでしょう」
「オズワルドさんが《分からない》って言うの」
「お嬢様にも似たことを言われました」
「じゃあ慣れた方がいいかも」
「六十七歳からでございますか」
「遅い?」
「何とも申し上げにくいですね」
◇
悠斗は薄い出汁を小鍋へ移した。
「これ、使ってみます」
「お願いいたします」
「濃くしないで?」
「できれば、この薄さを生かせるものを」
「それなら野菜使います」
黄芋では少し重くなりそうだったため、悠斗は柔らかな《朝雫菜》、若い白豆、細い根菜、それから少量の塩漬け肉を用意した。
「肉も入れる?」
ミレイアが聞く。
「少しだけ。出汁が弱いから、全部野菜だと物足りないかもしれない」
「でも肉味にしない?」
「そこまで入れない」
オズワルドが調理台を静かに見ていた。
◇
「料理人さん」
「はい?」
「今、肉を入れると決めた理由は、私が求めたものと違う可能性があるからでしょうか」
「違いますよ」
「では?」
「俺が食べて、このくらいならあった方がいいと思ったからです」
「もし私が入れないでほしいと言えば?」
「理由聞いて考えます」
「必ず従うわけではない?」
「食べられなくなる要望なら断りますし、店として出したくないものなら説明します」
「なるほど」
オズワルドは何かを確認するように頷いた。
「判断を聞くことと、判断を任せ切ることは別なのですね」
「たぶん」
「最近、その《たぶん》が多いですね」
「人生相談屋じゃないので」
悠斗の返事に、ミレイアが笑った。
◇
薄い白枝鳥の出汁へ細切りの根菜を入れ、煮崩れない程度まで火を通す。
そこへ若い白豆と朝雫菜を加え、最後に小さく刻んだ塩漬け肉をほんの少しだけ加えると、弱かった出汁の旨味に厚みが加わった。
それでも濃い肉のスープにはならず、青菜の香りと豆の甘さが十分に分かる。
「味見します?」
悠斗が小皿へ少量取る。
オズワルドは受け取って口へ運んだ。
「確かに、薄いですね」
「駄目です?」
「いいえ。先ほど壺の中だけを味わった時より、食べる意味が分かります」
「汁だけで完成じゃないですからね」
「ノルも、このようなことを考えていたのでしょうか」
「本人に聞いた方がいいです」
「そうですね」
◇
悠斗は最後に塩を調整し、深めの皿へ盛った。
「《白枝鳥の薄出汁と春野菜の煮もの》です」
「名前もそのままですね」
「いい名前思いつかなかったので」
オズワルドは匙を取った。
透明に近い汁は一口目だけなら確かに淡く、普段伯爵家で出される濃厚な肉のスープに比べれば、明らかに味の主張が弱い。
しかし、朝雫菜を一緒に食べると葉の青い香りが残り、白豆を噛めば穏やかな甘さが広がる。
塩漬け肉は量が少ないため料理全体を支配せず、時折混じる濃い塩気が薄い汁の中でアクセントになっていた。
「これは、濃い出汁では作れないのでしょうか」
「作れますけど、野菜より肉の味が前に出ると思います」
「では、薄いことそのものが役割になっている」
「そうですね」
◇
オズワルドは二口目を食べた。
「私は昨日、この汁を見た瞬間に不足していると判断しました」
「普段の出汁と比べたから?」
「はい」
「間違いだった?」
「判断そのものは間違いではなかったと思います」
「そうなんですか?」
ミレイアが聞く。
「《普段使っている濃い出汁としては足りない》という判断は、今でも正しいでしょう」
「じゃあ何が違った?」
「何を作ろうとしているのかを聞かなかったことです」
オズワルドは静かに答えた。
◇
「薄いから失敗なのではなく、何に使うかによって不足かどうかが変わる。私は、ノルがいつもの出汁を作っているものと決めつけてしまいました」
「でもノルさんも説明しなかった?」
「はい」
「そこは本人にも問題ある?」
「あると思います」
「なら全部オズワルドさんが悪いわけじゃない?」
「それは分かっております」
オズワルドは少しだけ笑った。
「最近のお嬢様にも言われました。何でも自分の責任にしてしまうのも、ある意味では相手の判断を奪うのではないかと」
「レティシアさん、そんなこと言うようになったんですね」
「ここ数日は質問が増えまして」
「大変?」
「非常に」
そう言いながら、オズワルドの表情はどこか楽しそうだった。
◇
「でも、前よりよいと思っております」
「何が?」
「私が間違っていれば、理由を聞かれるようになりました」
「前は?」
「従っておられました」
「楽だった?」
「執事としては」
「今は?」
「時間はかかります」
オズワルドはそこで少し間を置いた。
「ですが、お嬢様が何を考えているのか以前より分かります」
「それならいい?」
「はい」
「ノルさんにも聞く?」
「そのつもりで参りました」
「何を?」
「昨日、何を作りたかったのかを、最初から」
◇
食事を終えたあと、オズワルドは残っている薄出汁を持ち帰ることにした。
「全部使わないんですか?」
ミレイアが聞く。
「ノルにも味を見せたいと思います」
「この料理ごと?」
「可能であれば」
「持ち帰れるようにします」
悠斗は小さな蓋付き容器へ一人分を取り分けた。
「作り方も書きます?」
「いいえ」
「いらない?」
「先にノルへ、彼ならどう使うのか聞きます」
「そのあと必要なら?」
「その際には伺いに参ります」
「それがいいかも」
◇
屋敷へ戻ったオズワルドは、すぐに厨房へ向かった。
昼食の片づけをしていたノルは、執事が現れると反射的に背筋を伸ばした。
「オズワルド様」
「少し時間をいただけますか」
「はい」
「昨日の白枝鳥の煮汁についてです」
ノルの表情が固くなった。
「やっぱり、あれは駄目でしたか」
「その答えを、私から先に申し上げるのはやめようと思いまして」
「……はい?」
「あなたは何を作ろうとしていたのですか」
ノルはしばらく返事をしなかった。
◇
「昨日も言いましたけど、野菜の煮ものを」
「もう少し詳しく聞かせてください」
「薄い汁で?」
「なぜ薄くしたかったのですか」
ノルはまだ戸惑っているようだった。
「春の朝雫菜って、濃い肉の汁に入れると全部同じ味になるじゃないですか」
「はい」
「でも、さっと煮ると少し青臭さが残るんです。俺、その味が結構好きで」
「それを残したかった?」
「はい。白枝鳥の骨なら、弱く煮ても甘い味が出るので、それだけ使ったらどうかなって」
「以前に試したことは?」
「家では似たことやってました」
「実家の食堂で?」
「肉が少ない時に」
◇
ノルは農村の食堂で育った。
裕福な店ではなかったため、肉が少ない日は骨を長時間煮て濃い汁を取るのではなく、少量の骨を短く煮て野菜を加え、素材の味で量を補う料理を母親がよく作っていたという。
「伯爵家で出すような料理じゃないと思ったんですけど」
「なぜです?」
「薄いからです」
「あなた自身も、そう考えていたのですか」
「料理長のスープと比べたら、全然違うし」
「では、なぜ作ろうと?」
「レティシア様が最近、農園の野菜をそのまま味わいたいって言ってたので」
オズワルドは少し目を見開いた。
◇
「お嬢様のために?」
「勝手にですけど」
「なぜ昨日、私へその説明をしなかったのです」
ノルは言いにくそうに視線を落とした。
「オズワルド様が、違うって言ったからです」
「違うとは申し上げておりません」
「火を強くして、骨を増やした方がいいって」
「それは……確かに申し上げました」
「だから、そういうのは伯爵家で出すものじゃないんだと思って」
「私の指示を、料理そのものへの否定と受け取った?」
「はい」
オズワルドはそこで黙った。
◇
「申し訳ありませんでした」
オズワルドが頭を下げると、ノルは慌てた。
「いや、そんな、俺の方が」
「最後まで説明を聞かなかったのは私です」
「でも、俺も言えばよかったので」
「その通りです」
「……そこは言うんですね」
「全て私の責任にすれば、あなたが次に説明する必要までなくなりますから」
ノルは少し驚き、それから笑った。
「オズワルド様、最近ちょっと変わりました?」
「そのように見えますか」
「前なら、もっと早く結論言ってました」
「私もそう思います」
◇
オズワルドは《持ち込み食堂》から持ち帰った煮ものを出した。
「こちらを味見してください」
「これ、あの汁ですか?」
「はい」
ノルが一口食べる。
「……似てます」
「何に?」
「俺が作ろうとしてたのに」
「同じでは?」
「俺は塩漬け肉入れるつもりなかったです」
「では、それは違いますね」
「あと豆ももっと少なくするつもりでした」
「なぜ?」
「汁を飲む料理じゃなくて、野菜を食べる料理にしたかったので」
「なるほど」
「でも、この肉はいいかも」
「そう思うのですか」
「少しなら」
◇
「では、もう一度作りますか」
オズワルドが尋ねる。
ノルは一瞬だけ警戒するような顔をした。
「どう作ればいいです?」
「それを私へ聞くのですか」
「だって失敗したら」
「食材を無駄にするほどの失敗になると思いますか」
「たぶん、そこまでは」
「火事になりますか」
「しません」
「誰かが体調を崩す可能性は?」
「食べられる材料しか使わないので、大丈夫だと思います」
「では、まずあなたの考えで作ってください」
ノルは目を瞬いた。
「本当に?」
「途中で必要なら料理長へ相談なさい」
◇
「オズワルド様は?」
「聞かれれば意見を申し上げます」
「先に言わない?」
「重大な問題が見えた場合は止めます」
「重大って?」
「生焼けの肉を出そうとしている場合や、食べられないものを入れようとしている場合などです」
「味が薄いだけなら?」
「まず完成まで見ます」
ノルは少し笑った。
「それ、怖いですね」
「失敗するのが?」
「完成してから自分で食べるのが」
「私も食べましょう」
「本当に?」
「その方が公平でしょう」
「じゃあ作ります」
◇
その日の午後、厨房の空いている時間を使い、ノルはもう一度白枝鳥の骨を鍋へ入れた。
火は前日と同じく弱く、骨の量も少ない。
オズワルドは少し離れた場所から見ていた。
途中で「もっと火を」と言いたくなる瞬間が何度もあった。
長年の経験から、このままでは濃い出汁にならないことが分かる。
しかし、今回は濃くしないことが目的なのだと聞いている。
だから黙っていた。
「何か変です」
ノルが鍋を見ながら言った。
「何がでしょう」
「オズワルド様が後ろにいるのに何も言わないのが」
「必要ですか」
「……ちょっと落ち着かないです」
◇
「では一つだけ申し上げます」
「はい」
「私の顔を見て判断せず、鍋を見なさい」
ノルが笑った。
「それだけ?」
「今のところは」
「分かりました」
ノルは再び鍋へ向き直った。
出汁が取れると、朝雫菜、若い豆、薄切りの根菜を加えて火を通した。
途中で塩を加えすぎかけたところでは自分で手を止め、匙で味を確かめる。
「薄いな……」
ノルが呟く。
オズワルドは反応しなかった。
ノルはもう一度味見し、今度は塩ではなく香草を少量加えた。
◇
「できました」
「では、いただきましょう」
二人は厨房の隅にある小さな作業卓で同じ料理を食べた。
悠斗のものよりさらに軽く、塩漬け肉がない分だけ野菜の香りが前へ出ている。
「いかがですか」
ノルが緊張した顔で尋ねる。
「私が先に言ってよいのですか」
「今度は聞いてます」
「では」
オズワルドはもう一口食べた。
「私は、もう少し塩があってもよいと思います」
「やっぱり?」
「ただし、薄いこと自体は悪くありません」
「本当に?」
「はい。朝雫菜の香りはよく分かります」
「豆は?」
「少し硬いですね」
「そこは俺も思いました」
◇
「なら次はどうします?」
「豆だけ先に煮ます」
「私もそれがよいと思います」
「塩は?」
「あなたはどうしたいのですか」
「少し増やします。でも、肉は入れないです」
「なぜ?」
「入れると俺が作りたい味から離れるから」
「では、それでよいのでは」
ノルはしばらくオズワルドを見た。
「前だったら、もっと決めてくれましたよね」
「決めてほしいですか」
「楽ではあります」
「では、私が全部決めましょうか」
「……いや、今はいいです」
「なぜ?」
「自分で作った感じがしなくなるから」
◇
オズワルドは、その言葉を聞いて少しだけ目を細めた。
「それを昨日、聞くべきでした」
「俺も言えばよかったです」
「では次から、違うと思えば言ってください」
「でもオズワルド様に?」
「私にも」
「料理長にも?」
「必要なら」
「伯爵様にも?」
「そこは内容によります」
ノルが吹き出した。
「全部同じじゃないんですね」
「身分も役割もございますので」
「ですよね」
「意見を持つことと、誰にでも同じ言い方をすることは別です」
「分かりました」
◇
翌日の昼食には、ノルが改良した薄出汁の野菜料理が、小さな一皿としてレティシアへ出された。
「新しい料理?」
レティシアが尋ねる。
「ノルが試作したものです」
オズワルドが答えた。
「薄いですね」
「お気に召しませんか」
「いいえ。野菜の味がよく分かります」
「塩は?」
「私はもう少しだけ欲しいかも」
給仕の横で待っていたノルが、少し緊張しながら口を開いた。
「次は少し増やします」
レティシアが彼を見る。
「あなたが作ったの?」
「はい」
「どうして薄く?」
「野菜の味を残したかったからです」
「それなら私は好きです」
◇
「でも、もう少し塩は欲しい?」
「はい」
「分かりました」
「私がそう言ったから必ず増やすの?」
レティシアの問いに、ノルが詰まった。
「え?」
「あなたはどう思う?」
ノルはちらりとオズワルドを見る。
オズワルドは何も言わなかった。
「……俺も、少し増やしていいと思います」
「なら次に試して」
「はい」
レティシアは満足そうに食事へ戻った。
「オズワルド」
「はい」
「今、何も言わなかったでしょう」
「必要がございませんでしたので」
「前なら?」
「ノルに答えを促していたかもしれません」
◇
「我慢したの?」
「少々」
「難しい?」
「非常に」
「私が質問するようになってから、屋敷が面倒になった?」
「かなり」
レティシアは笑った。
「嫌?」
「いいえ」
「本当に?」
「皆が何を考えているか、以前より聞くようになりましたので」
「時間かかるでしょう」
「かかります」
「効率悪い?」
「短期的には」
「長期的には?」
オズワルドは少し考えた。
「私がいなくても判断できる者が増えるなら、むしろよいかもしれません」
◇
その言葉は、口にしてから自分自身へ強く返ってきた。
オズワルドは六十七歳である。
まだ健康で、すぐに仕事を辞めるつもりもないが、いつまでも伯爵家へ仕え続けられるわけではない。
以前から後任候補を育てる必要は分かっていた。
しかし実際には、若い使用人が迷うたび自分が答えを出し、問題が起きそうになれば先回りして処理してきた。
それでは、自分がいなくなったあとに同じような判断をできる人間は育たない。
完璧な執事であり続けようとするほど、屋敷を自分へ依存させていた可能性がある。
そのことへ気づくと、オズワルドは少し可笑しくなった。
◇
「どうしました?」
レティシアが尋ねる。
「いえ。私も少々、仕事を抱え込みすぎていたようです」
「父上と同じ?」
「伯爵様より重症かもしれません」
「珍しい。自分で認めるのね」
「最近、認める練習をしております」
「誰に教わったの?」
「お嬢様と、西区の料理人でしょうか」
「私も入るの?」
「もちろんです」
レティシアは少し照れたように笑った。
「でも、全部任せないでね」
「承知しております」
「必要な時は先に止めて」
「当然です」
「その境目、分かる?」
「まだ迷うでしょう」
「オズワルドでも?」
「だから考えるのでございます」
◇
それからしばらく、オズワルドは屋敷の中で一つだけ新しい習慣を始めた。
誰かが作業をしている時、失敗しそうに見えても、すぐに答えを言う前に一度だけ確認する。
「何をしようとしているのですか」
その質問を挟むだけだった。
新人給仕が客間へ普段とは違う順番で杯を置こうとしていれば、まず理由を聞く。
庭師見習いが枝を残そうとしていれば、なぜ切らないのかを尋ねる。
帳簿係が数字の並べ方を変えていれば、勝手に元へ戻さず、何を見やすくしたかったのかを確認する。
理由を聞いた結果、本当に危険だったり不適切だったりすれば止める。
しかし、目的に合った別の方法なら、そのまま最後までやらせることも増えた。
◇
もちろん、何度も失敗は起きた。
新人給仕が持った盆を傾け、空の杯を二つ割った日もある。
帳簿係が新しい並べ方を試した結果、かえって数字を探しにくくなり、翌日には元へ戻したこともあった。
若い庭師が剪定した低木は、左右の形が少し不揃いになった。
以前のオズワルドなら、そのどれも途中で気づいて修正していただろう。
今でも、高価な器が乗っている時や、人前で重大な失礼につながる場合は止める。
ただ、取り返せる程度の失敗なら、本人が結果まで見てから直す機会を残すようになった。
◇
ある午後、新人給仕が割った杯を片づけながら、青い顔で謝った。
「申し訳ありません。もっと早く止めていただければ……」
オズワルドは一瞬、昔の自分ならどう答えたかを考えた。
「次は止めてほしいですか」
「え?」
「同じ持ち方をしていれば」
新人は少し考えた。
「危ないなら、教えてほしいです」
「どこが危なかったと思います?」
「盆を片手で持ったことです」
「それだけでしょうか」
「……杯を端へ寄せすぎました」
「では次は?」
「中央へ寄せて、扉を開ける時は一度止まります」
「分かりました」
「怒らないんですか」
「二つ割りましたので、記録はします」
「そこはするんですね」
◇
「伯爵家の物ですから」
「はい」
「ただし、あなたがなぜ割ったか理解しているなら、私が怒鳴る必要はございません」
「次も割ったら?」
「同じ理由なら厳しく申し上げます」
「違う理由なら?」
「まず理由を聞きます」
新人は少し複雑そうな顔をした。
「オズワルド様、最近変わったって皆言ってます」
「悪い意味で?」
「少し怖くなくなったって」
「それは困りますね」
「やっぱり?」
「執事として一定の威厳は必要です」
「じゃあ今の話、言わなかったことにします」
「そうしてください」
オズワルドは珍しく小さく笑った。
◇
数日後、《持ち込み食堂》へ再び足を運んだオズワルドは、今度は陶器壺ではなく、小さな包みを持っていた。
「今日は何です?」
ミレイアが尋ねる。
「礼でございます」
「食材?」
「ノルが焼いた薄焼きパンです」
「持ち込み?」
「いえ。皆様で召し上がってください」
「それならもらいます」
悠斗が包みを受け取る。
「出汁料理、どうでした?」
「本人のものが完成しました」
「うまくいった?」
「私はもう少し塩があってもよいと思いました」
「ノルさんは?」
「本人も同じ判断をしました」
「じゃあ増やした?」
「少しだけ」
◇
「それでレティシアさんは?」
「美味しいと申しておりました」
「よかったですね」
「はい」
オズワルドは一度店内を見回した。
「料理人さん」
「何です?」
「一つ伺っても?」
「どうぞ」
「あなたは、客が間違った料理法を求めた場合、どこまで任せますか」
「食べられる範囲なら、好みとしてやることもあります」
「明らかに美味しくないと思っても?」
「一回説明します。それでも本人が試したいなら、危なくなければやるかもしれません」
「失敗する可能性が高くても?」
「その失敗ごと食べたいなら」
◇
「なるほど」
オズワルドは頷いた。
「何かまだ悩んでます?」
「境目は、これからも一つではないのだと思いまして」
「たぶんそうですね」
「また《たぶん》ですね」
「料理でも毎回違いますから」
「執事も同じかもしれません」
「人によって?」
「人と状況によって」
オズワルドは少しだけ笑った。
「新人と伯爵様へ同じ任せ方はできませんし、失敗してもよい仕事と、絶対に避けるべき失敗も異なります」
「じゃあ毎回考える?」
「それが仕事なのでしょう」
◇
オズワルドは《持ち込み食堂》を出たあと、まっすぐ屋敷へ戻った。
夕方にはレティシアが工房視察から帰ってくる予定であり、ヴィクトルからは翌週の来客予定を整理するよう頼まれている。
以前と同じように、やるべき仕事は多い。
主人より先に気づかなければならないことも、使用人へ指示を出さなければならないことも、これから先なくなるわけではない。
先回りする力そのものを捨てれば、彼が何十年も積み上げてきた執事としての長所まで失ってしまう。
変えるべきなのは、先回りすることではなく、どこまで先へ行くかだった。
◇
屋敷へ戻ると、若い使用人が玄関広間で大きな花瓶を抱えていた。
翌日の来客に合わせ、二階の客間へ運ぼうとしているらしい。
花瓶は重く、床へ落とせば確実に割れる。
若者は一人で持ち上げようとしていた。
以前ならオズワルドは、何も聞かずに「二人で運びなさい」と命じていただろう。
「何をしようとしているのですか」
まず尋ねる。
「二階へ運びます」
「一人で?」
「はい。持てると思います」
「階段を上がった経験は?」
「この大きさではありません」
「落とした場合、取り返せますか」
若者は花瓶を見た。
「……無理です」
「では、どうします?」
「誰か呼びます」
「その判断がよろしいでしょう」
◇
若者は近くにいた使用人へ声をかけ、二人で花瓶を運び始めた。
オズワルドはその様子を見送った。
答えを言ってしまえば数秒で終わる話であり、わざわざ尋ねる方が効率は悪い。
それでも、自分で危険を判断した経験が一度残れば、次に似た物を運ぶ時には彼自身が人を呼べるかもしれない。
逆に、階段の途中で足を滑らせるまで黙って見守る必要もない。
任せるとは、何が起きても口を出さないことではなかった。
先に気づいた者が全部を奪うことでもない。
◇
夕方、レティシアが帰宅すると、玄関でオズワルドを見つけた。
「ただいま、オズワルド」
「お帰りなさいませ」
「今日、織物工房で新しい染め方を見せてもらったの」
「後ほどお話を伺いましょう」
「今は忙しい?」
「少々」
「では夕食後にするわ」
「ありがとうございます」
レティシアは数歩進み、振り返った。
「オズワルド」
「何でしょう」
「私が今、夕食前に話すと言ったら止めた?」
「内容と時間によります」
「すぐ答えないのね」
「お嬢様も、すぐに答えを求めない練習をなさってはいかがですか」
「言うようになったわね」
◇
レティシアは楽しそうに笑い、そのまま自室へ向かった。
オズワルドは彼女の背中を見送りながら、自分が初めてこの屋敷へ来た若い頃を少しだけ思い出した。
当時は、主人より早く動くことこそ有能さの証明だと思っていた。
その考えは今でも間違っているとは思わない。
客が寒さを訴えてから薪を探す執事より、先に暖炉を整えておく執事の方がよいだろう。
主人が予定を忘れてから慌てるより、前日に必要な書類を揃えておく方がよい。
ただし、人の考えまで先に決めてしまえば、それは準備ではなく代行になってしまう。
◇
その夜、オズワルドは翌日の使用人配置表を作った。
いつもなら、若い使用人の得意不得意を考え、自分一人で配置を決めていた。
今回は途中まで書いたところで筆を止め、翌朝に二人だけ本人へ希望を聞いてみる欄を残した。
好きな仕事だけを選ばせるつもりはない。
屋敷には誰かが必ずやらなければならない仕事があり、希望通りにならない日もある。
それでも、希望を聞いたうえで別の配置にするのと、最初から本人の考えなど存在しないものとして決めるのとでは意味が違う。
オズワルドは余白へ小さく《本人確認》と書き込んだ。
◇
書き終えたあと、彼は一度その文字を見つめた。
四十年以上続けてきた働き方を、完全に変える必要はないのだと思う。
むしろ、自分が積み上げてきた経験があるからこそ、危険な失敗と取り返せる失敗の違いを判断し、助言するべき時と黙って見守るべき時を選べるはずだった。
六十七歳になっても、その境目を毎回正しく見極められるとは限らない。
だから間違えた時には、理由を聞き直せばいい。
相手が自分の考えを持っているなら、それを聞いたうえで必要な助言をすればいい。
命じることをやめるのではなく、命じる前に相手が何を考えているのかを見る余地を残すことなら、今からでも始められる。
オズワルドは翌日の配置表を閉じると、いつものように屋敷全体の戸締まりを確認しながら廊下を歩き、誰かの前からすべての失敗を消してしまう執事ではなく、自分がいなくても考えて動ける者を少しずつ増やしていく執事でありたいと考えながら、最後の灯りを静かに落とした。
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