第51話 形の揃わない木苺と、伯爵令嬢の選び方
レティシア・アルヴェールは十九歳になる伯爵令嬢であり、レーヴェン周辺に広い農地といくつかの村を持つアルヴェール伯爵家の長女として生まれた。淡い金色の髪を背中の半ばまで伸ばし、薄青色の瞳と整った顔立ちを持つ彼女は、社交の場では穏やかで礼儀正しく、相手の身分によって露骨に態度を変えることもないため、若い令嬢としては評判のよい人物だった。
ただし、その育ちは決して自由なものではない。
幼い頃から家庭教師や侍女に囲まれ、文字や歴史だけでなく、家格による席順、他家の紋章、舞踏、食事作法、領民へ向ける言葉遣い、王都の貴族社会で不用意に口にしてはいけない話題まで覚えてきた。何かを選ぶ時には必ず「伯爵令嬢としてふさわしいか」という基準が先に置かれ、自分が好きか嫌いかを尋ねられるより前に、周囲が最も問題の起きない答えを整えてくれる環境で育ったのである。
父であるヴィクトル・アルヴェールは四十八歳で、領民からは堅実な統治を行う伯爵として知られている。派手な宴や見栄のための浪費を嫌い、税や農地の状態を自分でも確認する現実的な男だが、家族に対しても説明を省きがちなところがあり、「必要だから覚えろ」とは言っても、その先にどんな選択肢があるのかまで細かく話すことは少なかった。
そのためレティシアは、父が強制したわけでもない多くのことを、自分で「長女だから当然なのだろう」と受け入れてきた。
そんな彼女の傍らには、物心がつくより前から一人の老執事がいた。
オズワルド・ケインは六十七歳で、レティシアが生まれるよりずっと前からアルヴェール家に仕えている。白髪をきれいに後ろへ撫でつけ、細身ながら背筋は今も真っ直ぐで、感情を大きく表へ出すことは少ないが、レティシアが幼い頃に熱を出せば夜通し医師との連絡を取り、初めて馬へ乗った日に転びかければ誰より先に駆け寄った男でもあった。
本人はあくまで「執事として当然の務め」と言うものの、レティシアにとっては家族と使用人の中間にいるような存在であり、頼りになる一方で、彼女が危険や失敗へ近づかないよう先回りして道を整えすぎるところもあった。
レティシア自身、それを窮屈だと強く思ったことはなかった。
少なくとも、一年前までは。
◇
十九歳になった頃、父ヴィクトルから「領地を知れ」と命じられたことをきっかけに、レティシアは屋敷の外へ出る機会を増やした。
それまでの彼女が知っていた領地とは、帳簿に書かれた収穫量や税額、地図の上に記された村名、晩餐で出される農産物の産地といった、整えられた情報の集まりだった。
実際に農村へ足を運んでみれば、畑には泥があり、果実は同じ木から採れても大きさが違い、領民たちは伯爵家へ納めない作物も普通に食べている。
そこで初めて、レティシアは自分が「知っている」と思っていたものの多くを、実際には外側からしか見ていなかったことに気づき始めた。
その変化を最も強く感じさせたのが、《夕映え木苺》だった。
◇
夕映え木苺は、アルヴェール領北側の丘陵地で昔から栽培されている小さな果実で、熟すと赤紫色になり、強い酸味のあとから花に似た甘い香りが広がる。
伯爵家では昔から菓子や果実酒に使われているが、屋敷へ納められるのは、色と大きさが揃い、表面にほとんど傷のないものだけだった。
だからレティシアは長い間、それ以外の実は品質が悪いのだと思っていた。
農園を訪れたある日、作業を終えた農民の女性から「食べてみますか」と渡されたのは、少し曲がり、一部の粒が小さな夕映え木苺だった。
最初は、なぜ伯爵家へ納めないものを自分へ渡すのかと戸惑った。
それでも口へ入れてみれば、少し酸っぱかったものの十分に美味しく、むしろ香りは屋敷で食べてきたものより強く感じた。
「これ、駄目な実ではないのですか」
レティシアが尋ねると、農園の女性は不思議そうな顔をした。
「駄目ではありませんよ。形が揃ってないだけです」
その返事が、レティシアの中へ妙に残った。
◇
後日、その木苺を少しだけ屋敷へ持ち帰ると、長年伯爵家に仕える料理長は困ったような表情を見せた。
「お嬢様のお口へ入れるものでございません」
悪意がないことは分かっていた。
料理長は幼い頃からレティシアの好物を把握し、体調を崩した時には食べやすい料理を工夫してくれた人物であり、彼なりに「伯爵令嬢へ出すなら、もっと良いものを」という気持ちで言ったのだろう。
それでも、その言葉を聞いた時、レティシアは初めて少し引っかかった。
自分が食べたいかどうかを、まだ一度も聞かれていない。
そして自分もまた、「それなら仕方ありません」と言いかけていた。
◇
数日後、レティシアは領地の農園から譲ってもらった夕映え木苺を小さな籠へ入れ、レーヴェン西区へ向かった。
護衛を完全に外すことは父にもオズワルドにも認められなかったため、二人の護衛兵には通りの向こうで待ってもらい、自分だけで《持ち込み食堂》の扉を開いた。
店へ入った瞬間、足が止まった。
貴族向けの店とは違い、入口には家紋を確認する者もいなければ、客の身分によって席を分ける給仕もいない。
木製の卓が並ぶ小さな店内では、冒険者らしい男と市場帰りらしい女性が同じ空間で食事をしており、誰もレティシアへ特別な視線を向けていなかった。
「いらっしゃいませ」
ミレイアに声をかけられ、レティシアはようやく我に返った。
「こちらは、持ってきた食材を料理していただけるお店で間違いありませんか?」
「はい。食べられるものなら、状態を確認してから料理します」
「では、こちらをお願いしたいのです」
レティシアは籠を卓へ置いた。
◇
厨房から出てきた悠斗は、籠の中を覗いた。
「木苺みたいですね」
「《夕映え木苺》です」
「食べられるもの?」
「はい」
「毒とか、食べない方がいい部分は?」
「ありません。ただ、種は少し多いです」
「自分で採ったんですか?」
「はい。全部ではありませんが、いくつかは私が摘みました」
「農家の人?」
悠斗が尋ねたあと、レティシアの服装を見て少し首をかしげる。
「違います」
「じゃあ趣味?」
「それも少し違います」
レティシアは迷った末、隠す理由もないと思って名乗った。
「レティシア・アルヴェールと申します。アルヴェール伯爵の娘です」
ミレイアの表情が一瞬だけ固まった。
「伯爵令嬢?」
「はい」
「失礼なこと言ってませんでした?」
「まだ何も言われていません」
レティシアが笑うと、ミレイアは少し安心した。
◇
「伯爵家の人が、どうして規格外の木苺を?」
悠斗は身分を聞いても態度を大きく変えず、そのまま尋ねた。
そのことが、レティシアには少し新鮮だった。
「規格外と分かりますか?」
「大きさがかなり違うので」
「やはり分かるのですね」
「でも傷んでる感じはしません」
悠斗は一粒を手に取り、表面を確認した。
「これは形が違うだけ?」
「そうです。屋敷へ納める基準には合わないものです」
「味は?」
「私は美味しいと思います」
「じゃあ、どうして持ってきたんです?」
レティシアは少しだけ考えた。
「自分で選んで食べてみたかったからです」
◇
悠斗もミレイアも、その答えだけでは意味が分からなかったらしい。
レティシアは農園で起きたことと、料理長に言われた言葉を説明した。
「家では食べさせてもらえない?」
「正確には、私が強く希望しませんでした」
「断られたんじゃない?」
「一度は《お嬢様のお口へ入れるものではない》と言われました。でも、そこで私も引き下がりました」
「じゃあ本当に駄目かは分からない?」
「そうなんです」
レティシアは自分でも不思議そうに笑った。
「最近、それに気づきました」
◇
悠斗は夕映え木苺を一つ切り、状態を見た。
果肉は十分に瑞々しく、傷みも見えない。
「味見しても?」
「もちろんです」
悠斗が一口食べる。
「結構酸っぱいですね。でも美味しい」
「そうですよね」
レティシアの声が少し明るくなる。
「これなら肉に合わせられそうです」
「菓子ではなく?」
「食事にしたいって言ってましたよね」
「覚えていたんですね」
「さっき聞いたので」
「すみません」
レティシアは少し照れた。
◇
悠斗は鳥肉を使うことに決め、夕映え木苺を半分ほど軽く潰した。
そこへ根玉葱、果実酢、少量の蜜を合わせ、酸味を生かしたソースを作っていく。
「形の悪いものから使ってます?」
レティシアが尋ねる。
「特に分けてないです」
「揃ってなくても?」
「潰すので、形は関係ないですよね」
レティシアは手元を見つめた。
「伯爵家では、最初に見た目でかなり分けます」
「飾りに使うなら分かります」
「では、選ぶこと自体が悪いわけではない?」
「悪くないと思いますけど」
「本当に?」
「料理によるんじゃないですか」
◇
悠斗は少し考えながら続けた。
「例えば皿の上にそのまま飾るなら、同じくらいの大きさが揃ってる方がきれいですよね。でも煮るなら、形が曲がってても味が同じなら使える」
「はい」
「傷んでたら形が良くても外します」
「当然ですね」
「だったら、何のために選ぶかじゃないですか」
「何のために……」
「伯爵家に出せないから駄目、じゃなくて、この料理には向いてる、この料理には向いてない、で分ける感じです」
レティシアは少し黙った。
「それは食材だからできるのでしょうか」
「たぶん人の人生を木苺と同じようには決められないと思います」
悠斗の返事に、レティシアは思わず笑った。
◇
「でも、少し似ています」
「何が?」
「私もずっと、《伯爵令嬢にふさわしいか》で選ばれてきました」
「服とか?」
「服、勉強、付き合う方、行く場所、それから将来の結婚相手も」
「全部決まってる?」
「そこが、自分でもよく分からなくて」
レティシアは少し困った顔をした。
「父は、私の意見も聞くと言っています」
「じゃあ聞いてくれる?」
「たぶん。でも、私は何を選びたいのか分からないんです」
「どうして?」
「選ばなくても困らないように育ててもらったからだと思います」
◇
その言葉には、家族を責める響きはなかった。
「私は恵まれていると思っています」
レティシアは続けた。
「食べるものに困ったこともありませんし、学びたいことは大抵学ばせてもらえました。危険な目に遭わないよう守ってもらいましたし、嫌な相手へ無理に笑いかけろと言われたこともありません」
「それなら悪くない家?」
「とても大切な家族です」
「でも?」
「誰かが先に考えてくれることに慣れすぎました」
レティシアは籠の中の木苺を見た。
「だから、自分の希望を言うことまで、わがままのように感じるんです」
◇
「言ったら怒られる?」
ミレイアが尋ねる。
「分かりません」
「今まで怒られたことは?」
「欲しい服があってお願いした時は買ってもらいましたし、乗馬を習いたいと言った時も許してもらいました」
「じゃあ割と聞いてくれる?」
「そうですね」
「それなのに言えない?」
「家の将来に関わることは別だと思っていました」
「誰に言われたの?」
レティシアは口を開き、そのまま黙った。
「……誰にも」
「自分で決めてた?」
「どうやら、そのようです」
◇
鳥肉の皮が香ばしく焼け始める。
悠斗は火を弱め、夕映え木苺のソースを味見した。
「甘さ、もう少し入れます?」
「私は酸っぱい方が好きです」
レティシアが答えた。
「じゃあこのくらいで」
悠斗はすぐに蜜を足すのをやめた。
その何気ない動作を見て、レティシアは少し不思議な感覚を覚えた。
自分が「酸っぱい方が好き」と言っただけで、その意見がそのまま料理へ反映された。
伯爵令嬢だから特別に扱われたわけでも、逆に遠慮されたわけでもない。
ただ、食べる本人の好みとして聞かれただけだった。
◇
「私、今まで料理長にもあまり好みを言っていませんでした」
「嫌いなものも?」
「食べられないものは言います。でも、どちらが好きかくらいなら任せていました」
「それで困ってなかった?」
「困ってはいません」
「じゃあ任せるのも悪くないですよね」
「そうですね」
レティシアは少し考えた。
「任せること自体が問題なのではなくて、任せる以外の選択肢がないと思っていたことが問題なのかもしれません」
「それなら分かります」
「自分で決めないのと、自分で任せるのは違いますね」
「たぶん」
◇
料理が完成すると、悠斗は焼いた鳥肉の横へ夕映え木苺のソースを添え、焼いた黄芋と根玉葱も一緒に盛りつけた。
「《鳥肉の夕映え木苺添え》です」
「綺麗ですね」
「形揃ってない実ですけど」
「それでも綺麗です」
レティシアは少し笑いながら、まずソースだけを少量口へ入れた。
火を通した木苺の強い酸味が舌へ広がったあと、根玉葱と蜜の穏やかな甘さが続き、最後には果実特有の華やかな香りが残る。
次に鳥肉へ添えて食べると、皮の香ばしさと脂の濃さを酸味が軽くし、菓子に使った時とはまったく違う印象になった。
「美味しいです」
「よかった」
「これ、本当に屋敷へ納めない実ですよね」
「俺に聞かれても」
「そうでした」
レティシアは笑った。
◇
「家でも作ってもらいます」
「今度は言う?」
「はい」
「料理長に断られたら?」
「どうして駄目なのかを聞きます」
「食べられない理由なら?」
「諦めます」
「見た目だけなら?」
「私が食べる分については、作ってほしいと伝えます」
レティシアはそこまで答えてから、少しだけ姿勢を正した。
「たったそれだけのことなんですね」
「何が?」
「希望を言うことです」
「言ったあと通るかどうかは別ですけどね」
「はい。でも、言う前から自分で却下する必要はなかった」
◇
そこへ店の扉が開き、老紳士が一人入ってきた。
白髪を後ろへ整え、濃紺の上着を隙なく着こなしたその男は、店内へ入るとすぐにレティシアを見つけた。
「お嬢様」
「オズワルド」
「お約束のお時間を過ぎております」
「もうそんな時間?」
「護衛の二人が、こちらへ入るべきかどうかで困っております」
「ごめんなさい」
オズワルドは一礼したあと、卓の上へ視線を移した。
「そちらは夕映え木苺でございますか」
「ええ」
「規格外のものですね」
「食べてみたら美味しかったわ」
「それは何よりでございます」
あまり驚かない返事に、レティシアは少し眉を寄せた。
◇
「オズワルドは、私がこれを食べてもいいと思うの?」
「傷んでおらず、人体に害がないのであれば、強く反対する理由はございません」
「でも屋敷では出なかったわ」
「お嬢様が希望されているとは存じませんでした」
「言わなかったから?」
「はい」
「料理長も同じことを言うと思う?」
「おそらく」
レティシアは小さく息を吐いた。
「私、皆が止めてると思ってた」
「何をでしょう」
「色々なことを」
「私どもが実際にお止めしていることもございます」
「例えば一人で街に出ること?」
「それは今後も反対いたします」
オズワルドは即答した。
◇
「どうして?」
「伯爵家の長女である以上、誘拐や脅迫の対象になり得ます。お嬢様がお強いかどうかとは別の問題でございます」
「それなら理由があるのね」
「もちろんです」
「でも、農園で泥道を歩くことは?」
「お召し物が汚れるため、以前は止めました」
「危険だからではなく?」
「そこまでではございません」
「なら次は歩いてもいい?」
「適した靴をご用意いただければ」
レティシアは少し笑った。
「そんなに簡単だったの?」
「何がでございますか」
「私はずっと、令嬢だから泥道を歩いてはいけないと思っていたわ」
「晩餐用のお召し物で歩かれては困ります」
「服の問題だったのね」
◇
オズワルドも、少しだけ困ったように笑った。
「お嬢様は、時々こちらの注意を大きく解釈されるところがおありです」
「今まで言わなかったでしょう」
「必要を感じておりませんでしたので」
「そこなのよ」
「何がでしょう」
「皆、私が分かっていると思ってる」
「お嬢様も、私どもが分かっていると思っておられたのでは?」
レティシアは返事に詰まった。
「……その通りね」
◇
食事を終えたレティシアは、残った木苺を持ち帰ることにした。
「帰ったら父上と話したい」
店を出る前に、レティシアはオズワルドへ言った。
「何についてでしょう」
「私の将来について」
「結婚のお話も?」
「それも含めて」
「伯爵様は今晩、晩餐をご一緒される予定です」
「そこで話してもいい?」
「もちろんでございます」
「私、何をしたいかまだ決まってないの」
「それをそのままお伝えになればよろしいのでは」
「決まってないのに?」
「決まっていないことも、一つの現状でございます」
「オズワルドは前からそう思ってた?」
「はい」
レティシアは少し不満そうに彼を見た。
「もっと早く言って」
「聞かれませんでしたので」
「皆それを言うのね」
◇
その日の夕方、アルヴェール伯爵家の食堂には、家族だけの簡素な晩餐が用意されていた。
父ヴィクトルは若い頃から父親である先代伯爵に領地経営を叩き込まれ、二十代前半から農地の管理や治水事業へ関わってきた人物だった。豪快さや人を惹きつける華やかさは持たない代わりに、帳簿の数字と実際の畑を照らし合わせることを好み、自分が理解していない仕事へ口を出すことを嫌う。
その性格は領主としては長所だったが、娘に対しても「自分で分からないならまず見てこい」という考えを持っており、説明するより経験させる方を選びがちだった。
「今日は西区まで出たそうだな」
ヴィクトルが尋ねる。
「はい」
「何をしに行った」
「夕映え木苺を料理してもらいました」
「農園から持って帰った実か?」
「屋敷へ納められない方です」
「傷んでいたのか?」
「いいえ」
「なら食えるだろう」
あまりにも普通の返事に、レティシアは手を止めた。
◇
「父上は、私が食べてもいいと思うのですか」
「なぜ駄目なんだ」
「伯爵家用ではないから」
「客へ出すなら話は別だが、自分で食う分だろう」
「そうです」
「好きにすればいい」
レティシアはしばらく父を見た。
「父上、私が夕映え木苺の規格外品を食べたいと言ったことはありますか」
「今日初めて聞いた」
「そうですよね」
「何が言いたい」
「私は、言っていないのに駄目だと思っていました」
「誰に駄目だと言われた」
「料理長には、お口へ入れるものではないと」
「客用に出す品質ではないという意味だろう」
「やはりそうなのですね」
「本人に聞いたのか?」
「今日、聞こうと決めました」
◇
「何かあったのか」
ヴィクトルが尋ねる。
「父上、私の結婚相手はもう決まっていますか」
レティシアが突然そう言うと、父の手が止まった。
「決まっていない」
「候補はいますか」
「話が来ている家はある」
「父上が選ぶのですか」
「最終的には家同士の判断も必要だが、お前の意思を無視して決めるつもりはない」
「どの程度、私の意思を聞いてくださいますか」
ヴィクトルはしばらく娘を見た。
「嫌な相手なら嫌だと言え。理由は聞く」
「理由がなくても嫌だったら?」
「まず会ってから考えろと言うかもしれん」
「それでも嫌なら?」
「話し合う」
「結婚を急ぎたくないと言ったら?」
「なぜかを聞く」
◇
「私、全部決められていると思っていました」
「誰がそんなことを言った」
「誰も」
「ならなぜそう思った」
「長女だからです」
「長女なら家の責任はある」
「やはり」
「だが、責任があることと、一言も意見を言えないことは別だ」
レティシアは黙った。
ヴィクトルは少し眉を寄せた。
「お前は昔から、言われたことをよく覚える」
「はい」
「だが、分からない時も黙って考え込む癖がある」
「そうでしょうか」
「ある」
「オズワルドにも似たことを言われました」
「なら直せ」
「簡単に言いますね」
「十九年かけてついた癖なら、十九年かけて直せばいい」
◇
レティシアは少し笑った。
「それでは、領地の仕事も聞きたいです」
「何をだ」
「私は長女だから、将来すべてを継がなければならないと思っていました」
「すべてとは何だ」
「農地、税、村々の管理、それから家そのものを」
「誰がそう言った」
「……また誰も」
「弟もいるだろう」
「では弟が継ぐのですか」
「それもまだ決めていない」
「私が一部を担当することも?」
「ある」
「結婚後も?」
「相手との条件次第だ」
「では、私は何をすることになるのですか」
「それを決めるために領地を見せている」
レティシアはしばらく父を見つめた。
◇
「説明してくださればよかったのに」
「聞かれなかった」
「父上まで」
「何だ」
「今日、全員から同じことを言われています」
「ならお前にも原因がある」
「分かっています」
レティシアは一度息を吐いた。
「私は、もう少し領地を回りたいです」
「回ればいい」
「農園だけではなく、工房や市場、倉庫も見たいです」
「オズワルドと予定を組め」
「行き先は私も決めたい」
「理由を説明できるなら好きにしろ」
「理由が、知りたいからだけでも?」
「仕事として行くなら、何を知りたいかくらいは考えろ」
「分かりました」
◇
「それから結婚候補の資料も見たいです」
「明日渡す」
「父上が一番望む家は?」
「先に自分で読め」
「教えてくださらない?」
「俺の意見を先に聞いたら、お前はまたそれを正解だと思うだろう」
その言葉に、レティシアは何も返せなかった。
「まず自分で見ろ。分からないところは聞け。その後で俺の考えも話す」
「はい」
「ただし、家の利害はある。それは無視できん」
「分かっています」
「自分で選ぶというのは、好きなものだけを取ることではないぞ」
「それも、今日少し分かった気がします」
◇
食事の終わり頃、レティシアは厨房へ夕映え木苺を取りに行った。
料理長は籠を見て少し困った顔をした。
「お嬢様、こちらは規格外品でございますが」
「食べられますか」
「はい」
「傷んでいますか」
「いいえ」
「では、今夜少し食べたいです」
「承知しました」
あまりにも簡単に答えられ、レティシアは思わず聞き返した。
「作ってくださるの?」
「もちろんでございます」
「前は、お口へ入れるものではないと」
「正式な晩餐へお出しする品質ではないという意味で申し上げました」
「私が自分で食べたいなら?」
「そのように仰っていただければ、最初からお出ししました」
レティシアは額へ手を当てた。
◇
「私、本当に聞いていなかったのね」
「何のことでしょう」
「こちらの話です」
「では、洗ってお出しします」
「それと、明日は鳥肉に合わせてみてほしいの」
「夕映え木苺をですか?」
「酸味のあるソースにできますか」
「できます」
「本当に?」
「果実を肉へ合わせる料理は珍しくありません」
「それも知らなかった」
「お嬢様がお望みにならなかったので、あまりお出ししておりませんでした」
「もう聞かないで」
「何をでしょう」
「何でもありません」
レティシアは笑って厨房を出た。
◇
翌日から、レティシアの生活が急に別物になったわけではなかった。
朝に着る服は侍女へ任せることも多く、食事も毎回自分で献立を決めるわけではない。
領地へ出る時には護衛を伴い、危険な場所へ立ち入る場合にはオズワルドや父の許可も取った。
それらをすべて拒否することが自由なのではないと、今は理解し始めている。
ただし、以前との違いが一つだけあった。
「なぜですか」
誰かに何かを勧められた時、レティシアはそれを尋ねるようになった。
◇
数日後、領内の織物工房を訪れた時もそうだった。
工房主は伯爵令嬢が来ると知り、最高品質の布だけを正面へ並べていた。
レティシアは説明を聞いたあと、作業台の端に積まれている布片へ目を向けた。
「こちらは何ですか」
「商品にならない端切れでございます」
「なぜ商品にならないの?」
「長さが足りなかったり、織り目が少し曲がっていたりしますので」
「使えないのですか」
「礼装や大きな服には難しいですが、小袋や補修布には使えます」
「では、使えないものではない?」
「用途が限られる、という方が近いですね」
レティシアは夕映え木苺のことを思い出した。
◇
「形が悪いから価値がないわけではないのね」
レティシアが言うと、工房主は頷いた。
「もちろんです。ただし、何にでも使えるわけではありません」
「それも大事ですね」
「はい」
以前のレティシアなら、《商品にならない》という一言だけを覚え、その理由までは聞かなかったかもしれない。
今は、何に使えないのか、何になら使えるのかまで尋ねた。
全部に別の価値を見つけなければならないわけでもない。
使おうとする方が費用のかかるものや、修復する意味のないものも当然ある。
それでも、一つの基準から外れたという理由だけで、何も知らずに判断を終えることは減らせると思った。
◇
屋敷へ戻った夜、ヴィクトルから結婚候補として名前が挙がっている三家分の資料が渡された。
レティシアは父へ「どの家が一番よいですか」と尋ねそうになり、途中でやめた。
まず自分の部屋へ持ち帰り、一人で読む。
一人目は二十四歳で、父親の領地経営を手伝っている。
二人目は二十一歳で、王都の官職を目指して学んでいる。
三人目は二十八歳で、すでに自家の交易部門を任されていた。
家格だけを見るなら大きな差はない。
だからこそ、何を知ればよいのかを自分で考える必要があった。
◇
レティシアは紙を一枚取り出し、質問を書き始めた。
結婚後はどこで暮らすつもりなのか、自分が領地の仕事を続けることをどう思うのか、子どもが生まれた場合に妻へ何を求めるのか、領民と直接話すことをどう考えているのか。
途中で少し考え、もう一つ書き加えた。
《自分と違う意見を言われた時、その人はどうするのか》
書いた文字を見ながら、レティシアは初めて、家柄だけではなく相手との話し方を気にしている自分に気づいた。
誰を選ぶかはまだ決められない。
それでも、何も分からないという状態から、何を知りたいのかが少し分かる状態へは進めていた。
◇
翌朝、レティシアはオズワルドへ三人すべてとの面会を希望した。
「三家すべてでございますか」
「はい」
「伯爵様の優先順位を先に確認なさいますか」
「後で聞きます」
「なぜでしょう」
「先に聞いたら、その順番で相手を見てしまいそうだから」
オズワルドはほんの少し目を細めた。
「承知いたしました」
「変でしょうか」
「いいえ」
「オズワルドなら、前の私にはどうした?」
「伯爵様のご意向を確認し、その上で最も円満に進む順番をお勧めしたでしょう」
「今は?」
「お嬢様が何を知りたいかを伺ってから予定を組みます」
「変わってくれるの?」
「お嬢様が変わられたのであれば、仕える側も合わせる必要がございます」
◇
「でも危険なことは止める?」
「当然でございます」
「そこは変わらないのね」
「それが私の仕事です」
「嫌がっても?」
「理由をご説明した上で止めます」
「前よりいいわ」
「以前も説明していたつもりですが」
「足りなかったの」
「今後は気をつけます」
オズワルドが素直に答えたため、レティシアは少し驚いた。
「謝るのね」
「必要であれば」
「もっと何でも完璧だと思ってた」
「六十七年生きても、分からないことはございます」
「それも初めて聞いた気がする」
「聞かれませんでしたので」
「もうそれは禁止」
レティシアは笑った。
◇
同じ日の午後、レティシアは再び夕映え木苺の農園を訪れた。
今度は屋敷へ納める果実だけでなく、選別後に残る実の使われ方についても聞いた。
「これは市場へ?」
「形は悪いですが味がいいので、安く出します」
「こちらは?」
「酸味が強すぎるので煮詰めます」
「これは?」
「傷が深いので、今日中に家で食べます。明日までは持たないでしょう」
「全部使うの?」
「いいえ。傷みが進んでいるものは捨てます」
農園の女性は当然のように答えた。
「全部に使い道を見つけるわけではないのですね」
「手間の方が大きければ、無理に使っても仕方ありませんから」
◇
レティシアは頷いた。
何でも価値あるものへ変えればよいという話ではない。
見た目だけで判断しないことと、何でも残すことは別だった。
自分の選択についても、同じなのかもしれない。
候補として名前が挙がった人と必ず会わなければならないわけではなく、会ったからといって必ず結婚する必要もない。
反対に、自分の希望だけで家の事情をすべて無視することもできない。
何が変えられて、何が変えにくく、何を引き受けなければならないのかを一つずつ知ってから選ぶしかないのだろう。
◇
農園から帰る時、レティシアは自分で摘んだ木苺を一籠だけ持ち帰った。
今度は形の良いものと悪いものをわざと混ぜたわけではなく、自分が食べたいと思った実を一つずつ選んだ結果、自然と大きさがばらばらになった。
馬車へ乗ると、オズワルドが籠を見た。
「本日の分は随分不揃いですね」
「私が選んだから」
「基準は?」
「食べてみたいと思ったもの」
「それだけでございますか」
「今日はそれでいいの」
「客人へお出しするものでは?」
「私と父上が食べる分」
「でしたら問題ございません」
◇
「オズワルドも食べる?」
「では、一つ頂戴いたします」
レティシアは籠を差し出した。
「自分で選んで」
「お嬢様がお選びにならないのですか」
「自分で選ぶ練習は私だけがするものじゃないでしょう」
「私は日常的に選んでおります」
「じゃあ、甘そうなのを選んで」
オズワルドはしばらく籠を眺め、色の濃い一粒を取った。
「それにした理由は?」
「よく熟しているように見えましたので」
「食べてみて」
オズワルドが口へ入れる。
「どう?」
「酸味が強いですね」
「外れた?」
「予想とは違いました」
「じゃあ失敗?」
◇
オズワルドは少し考えた。
「食べられますので、失敗とまでは申しません」
「次は別のを選ぶ?」
「そういたします」
「それでいいのね」
「木苺程度であれば」
「結婚はそう簡単じゃない?」
「比べること自体をお勧めいたしません」
「分かってるわ」
レティシアは笑いながら、自分も一粒選んだ。
形は少し曲がっていたが、香りが強そうだったからである。
口へ入れると、最初に酸っぱさが来たものの、そのあとにはしっかり甘さが残った。
◇
今までのレティシアなら、誰かが最も良い一粒を選び、皿へ整えて出してくれるのを待っていた。
そのこと自体が悪かったわけではない。
人に任せれば時間を使わずに済み、その分だけ自分にしかできない仕事へ集中できることもある。
けれど、何を任せるのかまで他人任せにしてしまえば、自分が何を好み、何を嫌い、どこなら譲れて、どこでは自分の意見を持ちたいのかさえ分からなくなる。
十九歳までに身につけられなかったものを、一日ですべて取り戻せるとは思わない。
だからレティシアは、まず小さなところから選ぶことにした。
◇
屋敷へ戻ると、侍女が翌日の外出用に二着の服を用意していた。
「こちらの紺色がよろしいかと存じます」
以前なら、そのまま頷いていただろう。
「どうして紺なの?」
「明日は工房訪問ですので、多少の汚れが目立ちにくく、生地も丈夫だからです」
「では紺にするわ」
レティシアはそう答えた。
「ご自分で別のものを選ばれますか?」
「いいえ。理由を聞いて納得したから、あなたの勧めた方にする」
侍女は少し不思議そうにしながらも頷いた。
「承知いたしました」
◇
次に夕食の献立を料理長から聞いた時も、すべてを変更しようとはしなかった。
魚料理と豆の煮込みは任せ、その代わり食後に夕映え木苺をそのまま出してほしいと頼んだ。
父との面会時間もオズワルドへ任せたが、自分が話したい内容だけは先に伝えた。
何もかも自分で決めるのではない。
任せるところは任せ、理由が必要なところでは聞き、自分の希望を持っているところでは言葉にする。
それだけでも、以前より少しだけ自分が生活の中へ戻ってきたように感じられた。
◇
その夜、ヴィクトルと二人で夕映え木苺を食べながら、レティシアは結婚候補について自分が考えた質問を見せた。
「多いな」
「多すぎますか」
「会う前から全部聞いたら面接になる」
「では減らした方が?」
「会話の中で聞け」
「どうやって?」
「それも自分で考えろ」
「父上は本当に教えてくれませんね」
「答えを言ったら、お前がその通りにやるだろ」
「昔なら」
「今も半分はそうだ」
レティシアは少しむっとした。
「信用されてません?」
「信用してるから失敗させる」
その返事に、レティシアは黙った。
◇
「失敗してもいいのですか」
「取り返せる範囲ならな」
「結婚相手選びで失敗したら、取り返せないでしょう」
「だから会っただけで決めない」
「断ってもいい?」
「相手にも断る権利がある」
「そうですね」
「選ぶ側だと思いすぎるな。お前も選ばれる側だ」
レティシアはその言葉をしばらく考えた。
「少し怖いです」
「何がだ」
「自分で決めることが」
「なら怖いまま考えろ」
「父上も怖かったことがありますか」
「いくらでもある」
「領地を継いだ時も?」
「二十代で父が倒れた時は毎日怖かった」
◇
「そんな話、初めて聞きました」
「聞かれなかった」
「父上までそれを言うのは禁止です」
レティシアが思わず笑うと、ヴィクトルもわずかに口元を緩めた。
「なら今後は聞け」
「はい」
「俺も必要なことは話す」
「約束です」
「善処する」
「それ、約束になってません」
「領主は軽々しく約束しない」
「父親としては?」
「……話すようにする」
レティシアは満足そうに頷いた。
◇
部屋へ戻る前、レティシアは残っていた夕映え木苺を一粒だけ手に取った。
その実は大きくもなく、色も完全には揃っていなかったが、今夜の自分にはそれで十分だった。
伯爵令嬢として守らなければならないものは、これからも残る。
家の都合を無視できない場面もあれば、自分一人の希望より多くの人の生活を優先しなければならない日も来るだろう。
それでも、身分があることと、自分の考えを持たないことは同じではない。
誰かの助言を受け入れることと、誰かに人生を預け切ることも違う。
レティシアはその違いをまだ上手く説明できなかったが、少なくとも以前より一つだけ確かなことを知っていた。
◇
選ぶというのは、周りの意見をすべて拒んで自分だけで決めることではなく、必要な話を聞き、分からないところを尋ね、自分が何を望んでいるのかを言葉へしたうえで、それでも引き受けるべきものがあるなら納得して選び取ることなのだろう。
翌朝、レティシアは農園へ向かう予定表を確認したあと、侍女が用意した紺色の外出着を自分の意思で身につけ、護衛が必要だというオズワルドの判断も理由を理解したうえで受け入れた。
そして馬車へ乗る直前、今日の視察先に予定されていなかった小さな加工場へも立ち寄りたいと自分から申し出ると、何を見るために行きたいのかを説明し、予定を調整できると分かってから追加してもらった。
誰かが用意した道をすべて捨てるのではなく、その道を歩くか、少し曲がるか、別の場所へ立ち寄るかを自分でも考えるために、レティシアは昨日より少しだけ多く周囲へ問いかけながら、まだ決まっていない自分の将来へ向かって歩き始めた。
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