第50話 効きすぎる薬蜜と、種族欄を信じすぎる薬師
50話以降から文章量を増やして進めていきたいと考えています。
1キャラ、1キャラが主人公なのでストーリーを入れていきたいです。
ここまで読み進めていただきありがとうございます。
今後ともよろしくお願いいたします
ブックマーク、評価、アクション励みになっています。まだの人は是非
ハクアが薬師として働き始めてから最も多く書いてきた文字は、薬草の名前でも患者の名前でもなく、調合記録の端へ必ず記すことになっている「人間」「獣人」「ドワーフ」「エルフ」といった種族名だった。
三十歳になるハクアは狐系獣人の女性であり、淡い茶色の髪の間から伸びた二つの耳と、腰の後ろから垂れる大きな尾を持っている。レーヴェン南区にある小さな薬舗《白尾薬房》を一人で切り盛りしており、風邪薬や傷薬の調合だけでなく、冒険者が持ち込んだ薬草の鑑定や、長旅へ持っていく常備薬の相談まで引き受けていた。
薬師としての経験は十二年ほどあり、薬草の見分け方や調合の正確さについて疑われることはほとんどないものの、最近のハクアは一つの調合記録を開くたび、以前なら何の迷いもなく書き込めていた種族名の欄へ、わずかに筆を止めるようになっていた。
そうなった原因は、三日前に《白尾薬房》を訪れた一人の患者だった。
◇
「眠気が強すぎたんです」
人間の青年が《白尾薬房》の受付台へ小瓶を置きながら、困ったような顔でそう話した。
名前はマティスといい、二十六歳になる荷運び人で、数日前から続いていた咳のため、ハクアが調合した薬蜜を受け取っていた。
「どのくらい眠りました?」
「昼前に飲んで、気づいたら夕方でした」
「六時間近く?」
「たぶん。それも、起こされたのに一度ほとんど反応しなかったらしくて」
ハクアはすぐに帳面を取り出し、前回の調合記録を確認した。
使ったのは喉の炎症を抑える《青霞葉》、咳を和らげる《静根皮》、苦味を抑える花蜜であり、静根皮には軽い鎮静作用があるものの、成人男性が通常量を一度飲んだだけで六時間も深く眠るほど強い薬ではない。
「ほかに薬を飲みました?」
「飲んでません」
「酒は?」
「前の日から飲んでないです」
「食事は?」
「朝にパンと豆を食べました」
「体調そのものは、前より悪くなっています?」
「咳はむしろ減りました」
ハクアは考えられる原因を一つずつ消すように質問を重ね、その答えを帳面へ細かく書き込んでいった。
◇
「今まで、似た薬で眠気が強く出たことはありますか?」
「あります」
その返事を聞いた瞬間、ハクアは書いていた手を止めて顔を上げた。
「いつです?」
「子どもの頃から、眠くなる薬は大体よく効きます。だから、自分で半分くらいにして飲むこともありました」
「どうして先に言わなかったんですか」
「聞かれなかったので」
反射的に言い返しかけたハクアだったが、そこで口を閉じた。
前回の記録には名前、年齢、おおよその体重、主な症状、既往歴、そして種族として《人間》と書かれているものの、眠気が出やすいかどうかについて、ハクアは一度も尋ねていなかった。
「今回は同じ薬を出しません。少なくとも、同じ量の静根皮は避けて、別の処方へ変えます」
「危ないんですか?」
「あなたには効きすぎる可能性がありますから、同じ使い方を続ける方が危ないです」
ハクアはそう説明し、その場で薬を作り直した。
◇
ところが、ハクアが自分の問診を見直すきっかけになった出来事は、その一件だけでは終わらなかった。
翌日には犬系獣人の女性が来店し、以前別の薬師から「獣人なら人間より強い薬でも大丈夫」と言われて処方された胃薬で具合を悪くした経験があると話した。
さらにその日の午後には、小柄なドワーフの男性が風邪薬を買いに来て、自分は酒には強い一方で眠気の出る薬には極端に弱いため、量を少なくしてほしいと自分から頼んできた。
種族ごとに身体の特徴が異なること自体は、薬師なら誰でも知っており、平均的な体格、代謝、嗅覚、毒への耐性、食べ物への反応などには、確かに種族ごとの傾向が存在する。そこを完全に無視して薬を作れば危険になる場合もあるため、ハクアも十二年間、種族欄を重要な情報として扱ってきた。
しかし最近の自分は、その重要な情報を判断材料の一つとしてではなく、いつの間にか答えそのものとして使うようになっていたのではないかと、初めて疑うようになった。
◇
「人間、成人、二十代後半なら静根皮はこの量……」
閉店後の《白尾薬房》で、ハクアは過去の調合記録を何冊も机へ広げながら、自分が書いた処方を一つずつ読み返した。
内容だけを見れば、どの処方にも明らかな間違いがあるわけではない。
人間の成人男性には標準量を基準にし、身体の小さな種族には減量し、体格の大きな者には必要に応じて増量するという考え方は、薬師として基礎に近いものだった。
ところが記録を遡ってみると、同じ人間でも薬が強く効いた者と弱かった者がおり、同じ獣人でも眠気がほとんど出なかった者と、少量でも長く眠ってしまった者がいる。
それでも次の患者が来れば、まず種族名を見て量を決め、その後で体重や年齢を微調整に使うという順番が、いつの間にか当たり前になっていた。
「順番が、逆だったのかもしれないな……」
ハクアはそう呟きながら椅子へ深く座り直し、さらに昔の帳面を開いた。
◇
薬師になったばかりの頃、師匠から何度も言われていた言葉がある。
《種族を見ろ。年齢を見ろ。身体を見ろ。生活を聞け。薬は同じ名前でも、飲む相手が違えば同じ薬ではない》
新人だった頃のハクアは、その言葉をかなり忠実に守っていた。
知らないことが多かったからこそ、一人の患者へ十も二十も質問をし、過去に同じ薬を飲んだことがあるか、眠気や吐き気は出なかったか、普段どの程度食事を取るか、夜働くのか朝働くのかまで確かめ、薬を渡した後にも可能な限り効き方を聞いていた。
ところが経験を積み、同じような症状の患者を何百人も見るうちに、「人間ならこのくらい」「犬系獣人ならこの程度」「ドワーフなら少し強めでも問題ない」といった型を覚え、そのおかげで仕事は大幅に速くなった。
日に何十人も訪れる患者へ対応する以上、型があることそのものは必要であり、一人の風邪薬を作るたびにすべてを最初から疑っていては薬房が回らない。
それでも、型を使うことと、目の前の患者がその型から外れる可能性を忘れることは、決して同じではなかった。
◇
三日間ほど考え続けた末、ハクアは薬房の棚から、淡い黄金色をした粘りの強い蜜が入った小瓶を取り出した。
瓶の札には《眠鈴蜜》と書かれている。
山地に咲く眠鈴花から採れる蜜で、少量なら喉を保護し、咳を和らげる働きがある一方、多く使うと眠気を強める性質があるため、薬として扱う時には量へ特に注意が必要な品だった。
普段なら薬としてしか使わないが、味そのものは悪くなく、甘さの後ろにわずかな苦味が残る程度なので、量さえ間違えなければ食材として使うこともできると、以前師匠から聞いたことがある。
ハクアはその瓶を手に取り、自分が薬を作る時とは違う考え方で、この蜜を扱う者に一度見てもらいたいと思い、《持ち込み食堂》へ向かった。
◇
「いらっしゃいませ」
店へ入ると、ミレイアがハクアの姿を確認したあと、すぐに手にしている瓶へ視線を移した。
「今日は持ち込みですか?」
「ええ。ただし、少し薬効があります」
「それなら、悠斗さんに先に確認してもらいますね」
厨房から出てきた悠斗へ、ハクアは瓶を直接渡さず、自分で卓の上へ置いてから説明した。
「《眠鈴蜜》という蜜です。毒ではありませんが、多く摂ると強い眠気が出る可能性があります」
「どのくらいなら大丈夫です?」
「そこを一言で答えられないのが、この蜜の難しいところです」
「人によって違う?」
「かなり違います」
悠斗は瓶へすぐ手を伸ばさず、まずハクアが持っている情報をすべて聞くことにした。
◇
「一般的には、健康な成人ならこの小匙の三分の一程度までを一食分の上限にしています。ただし、同じ量でもほとんど何も感じない人と、はっきり眠くなる人がいます」
「種族でも違うんです?」
「傾向はあります。ただ、そこが今日相談したいことでもあります」
「薬の相談ですか?」
「料理の相談に見せかけた、薬師の相談かもしれません」
「それでも、話くらいなら聞きますよ」
ハクアは少し迷ったあと、数日前に人間の患者へ出した薬蜜が効きすぎたことと、その患者が以前から眠気の出る薬へ敏感だったにもかかわらず、自分はそのことを確認せず、《人間の成人男性》という分類を基準に標準量を出してしまったことまで隠さず話した。
◇
「でも、その人が敏感だってこと自体は知らなかったんですよね」
「聞けば分かったかもしれません」
「毎回、そういうことを全部聞くんです?」
「新人の頃は聞いていましたし、今でも効き方に注意が必要な薬では確認するようにしています。ただ最近は、種族と体格を見て『この人なら普通量で大丈夫だろう』と判断して、聞くこと自体を省いたことがありました」
悠斗は眠鈴蜜の瓶を眺めながら、薬では種族の違いがかなり重要なのだろうと尋ねた。
「大事です。それを無視して全員へ同じ薬を出せと言われたら、私は反対します」
「じゃあ、種族を見ること自体が間違いではない?」
「間違いではありません」
「でも、それだけで決めるのは危ない?」
「今の私は、そう考えています」
◇
「料理でも、少し似たところはあるかもしれません」
悠斗が言った。
「どういうところがです?」
「この店にも、身体がすごく小さい人や大きい人、匂いに敏感な人とか、いろんな人が来ます。見た目や種族で、ある程度こうした方がよさそうだって分かることはあるんですけど、本人に聞かないと外れることも多いので」
「薬ほど危険ではないでしょう」
「そこは全然違います。料理なら量を間違えても、薬みたいな大きな問題にならないことの方が多いですから」
悠斗はそう答えたあと、再び眠鈴蜜へ視線を戻した。
「でも、この蜜は普通の調味料より薬に近いなら、俺も勝手に『狐獣人だからこの量』って決めるのは怖いですね」
その言葉を聞いたハクアは、無意識のうちに尾の先をわずかに揺らしていた。
◇
「私は狐系獣人です」
「はい」
「眠鈴蜜には比較的強い個体が多いと言われています」
「ハクアさん本人はどうなんです?」
「……それは分かりません」
「試したことがない?」
「喉薬として少量を舐めたことはありますが、効き目を確かめるために量を増やしたことはありません」
「じゃあ、狐獣人の平均については知っていても、自分がどこに入るかは分からない?」
「そういうことになりますね」
口に出してみると、自分でも少し可笑しかった。
毎日何人もの患者へ薬を出し、種族ごとの反応まで説明している自分が、自分自身については狐系獣人の平均より詳しいことをほとんど知らなかったのである。
◇
「料理に使うなら、どのくらいから始めればいいです?」
「普段薬へ使う量より、ずっと少なくしてください。小匙の二十分の一程度なら、健康な成人が一皿食べる分として大きな作用が出る可能性は低いと思います」
「絶対ではない?」
「絶対ではありません。だから今日は私が食べます」
「体調は?」
「健康ですし、今日はほかの薬も酒も摂っていません」
「食べたあとに予定はあります?」
「薬房へ戻って帳面を書くくらいです」
「もし眠くなったら?」
「店を閉めて寝ます」
「だったら、かなり少量から試しましょう」
悠斗はハクアの説明をすべて聞いたうえで、眠鈴蜜を食材として使うことにした。
◇
用意したのは脂の少ない鳥肉と根玉葱、それに少量の黄芋だった。
眠鈴蜜そのものを直接たっぷり使うのではなく、果実酢と水で大きく薄め、ほんのわずかな塩を加えてから、焼いた鳥肉の表面へ刷毛で薄く塗っていく。
「そんなに少ないんですね」
「薬効があるって聞いたので、最初から味を決めるほど入れるのは怖いです」
「味が分からないかもしれませんよ」
「それなら食べてから考えます。足すことはできても、一度食べたものから減らすことはできないので」
「薬師みたいな考え方ですね」
「料理でも、戻せないものは慎重に入れますよ」
悠斗は一度だけ蜜を塗ったところで止め、追加せずに火を通した。
◇
焼き上がった鳥肉からは、普通の花蜜より少し青さのある、穏やかな甘い香りが漂っていた。
添えられた根玉葱にも同じ蜜を使った薄いタレが少量だけ絡められている一方、黄芋には何も加えず、もし味や身体への反応が強かった場合でも、口を休められるようにしてある。
「《鳥肉の眠鈴蜜焼き》です。最初は少しだけ食べてください」
「料理店でここまで慎重に食べ方を指定されるとは思いませんでした」
「ハクアさんが先に散々怖い話をするからですよ」
「それは確かに私のせいですね」
ハクアは笑いながら鳥肉を小さく切り、まず一切れだけを口へ運んだ。
◇
最初に感じたのは花蜜らしい柔らかな甘さであり、普通の蜜より香りが少し青く、後味には薬草にも似た微かな苦味が残るものの、鳥肉の焼けた脂や果実酢の酸味と合わせると、それほど薬らしさは感じない。
「美味しいですね」
「眠気はどうです?」
「食べた瞬間に出るものではありませんよ。早い人なら四半刻くらいですが、もっと遅いこともあります」
「それなら追加は少し待ちます?」
「そうしましょう」
ハクアは二切れ目へすぐ手を伸ばさず、黄芋を食べながら、自分の身体に何か変化が出るかを待つことにした。
◇
「薬を出す時も、こうやって少量から試せれば楽なんですけどね」
ハクアが言うと、悠斗はそれができない薬もあるのかと尋ねた。
「症状によります。効かなければ困る薬もありますし、一度に必要量を飲まなければ意味がないものもありますから、全部を少量から試すことはできません」
「だから基準量がある?」
「ええ。患者が百人いれば百種類の薬を一から考える、というやり方では薬房が回りません」
「じゃあ、基準そのものを捨てたいわけではないんですね」
その言葉を聞いて、ハクアはここ数日うまく整理できなかった考えが、少しずつ形になってきた。
◇
「私は、種族別の基準を使うこと自体が悪いのではないかと考え始めていました。でも、それはたぶん違います」
「どうして?」
「人間と獣人で明らかに反応が違う薬もありますし、身体の構造が違えば使えない薬もあります。そこを消したら、むしろ危険になりますから」
「じゃあ何が問題だったんです?」
「基準を、確認の始まりではなく、答えの終わりにしていたことです」
ハクアは自分の言葉を確かめるように、ゆっくり続けた。
「《人間だからこの量》《獣人だからこの薬》と決めたあとで、その人自身が過去にどう反応したか、体格はどうか、食事や仕事はどうかという情報を、十分に聞かなくなっていました」
「種族名で、その人の答えまで決めてた?」
「そういうことです」
◇
四半刻ほど経ったところで、悠斗が眠気の有無を尋ねた。
ハクアは目を閉じて身体の感覚を確かめたものの、強い眠気や倦怠感は感じなかったため、今のところはほとんど作用が出ていないと答えた。
「もう少し食べます?」
「同じ量だけ追加してみましょう」
「本当に大丈夫です?」
「自分の反応も知っておきたいので、同じ量までなら試します。ただし蜜そのものを濃くする必要はありません」
悠斗は最初と同程度の量だけを追加し、ハクアは今度も急がずに食べながら、会話を続けつつ身体の変化を確認していった。
◇
「獣人って、薬に強いんですか?」
悠斗が尋ねると、ハクアはその質問を簡単に一括りにはできないと説明した。
「系統によってかなり違いますし、同じ狐系でも個人差があります」
「じゃあ、ハクアさんが狐獣人だから、ほかの狐獣人の薬も全部分かるわけじゃない?」
「もちろんです。そんなことを言ったら薬師として失格ですよ」
答えた直後、ハクアは自分の言葉に引っかかり、少し黙った。
「どうしました?」
「今、自分で言っていて嫌になりました。他人が『狐獣人なら全部分かるだろう』と言えば間違いだとすぐ分かるのに、私は患者へ、それに近いことをしていたのかもしれません」
「完全に同じですかね」
「完全には同じではありませんが、似た部分はあります」
◇
「薬師には、種族差を知る責任があります。だから私は、その知識を持っていることに自信を持っていました」
「それ自体は悪いことじゃないですよね」
「ええ。ただ、知識が増えたことで、目の前の患者へ聞くことを減らしてしまったんです」
ハクアは尾の先を椅子の横へ寄せながら、新人の頃の自分を思い出した。
「新人の頃は知らないことが多かったから、過去に同じ薬を飲んだか、眠くなったか、吐き気は出たか、普段どのくらい食べるか、夜働くのか朝働くのかまで何でも尋ねました。それが最近では、帳面の種族欄と年齢を見ただけで、その人について必要なことを大体分かったつもりになっていたんです」
「経験が増えたから、仕事は早くなった?」
「かなり早くなりました。ただし、薬では、その早さの中で見落としたものが危険になることがあります」
ハクアはそこだけは曖昧にせず、はっきり答えた。
◇
「だったら、これから全部聞き直すんです?」
「そこまではしません。むしろ、それをやれば別の問題が出ます」
ハクアは眠鈴蜜を使った鳥肉をもう一切れ食べながら、薬房の受付に並ぶ患者たちの姿を思い浮かべた。
一日に三十人以上来る日もあり、全員へ新人時代と同じ長さの問診をすれば、夕方になっても半分に対応できるかどうか分からない。
「質問を増やしすぎれば、急いで薬が必要な人を待たせます。だから薬ごとに、必ず聞くべきことを変えようと思っています」
「眠くなる薬なら?」
「過去に鎮静薬や眠気の出る薬へ強く反応したことがあるかを、種族に関係なく確認します」
「胃薬なら?」
「食事や酒、過去の胃薬への反応を聞いて、その後で体格や種族も含めて量を調整します」
「全部聞くんじゃなくて、必要なことを聞く?」
「そうした方が現実的だと思います」
◇
「種族欄は消さないんですね」
「消しません。消した方が危険なことがあります」
「でも、種族だけで決めるのもやめる?」
「そのつもりです」
「結構面倒になりそうですね」
「薬師なので、それくらいは仕方ありません」
ハクアはそう言って笑った。
さらに時間が経っても強い眠気は現れず、身体が少し温かくなったように感じる程度だったため、今日食べた量については、現在の自分には大きな問題がなさそうだと記録することにした。
「狐獣人だから平気だった?」
悠斗が尋ねる。
「いいえ。《今日の私には、この量では強い眠気が出なかった》と書きます」
「かなり細かいですね」
「今は、その細かさを忘れないようにしたいんです」
◇
《白尾薬房》へ戻ったハクアは、その日のうちに調合記録の様式を作り直した。
これまでの帳面には、名前、年齢、種族、主症状、処方という順番で欄が並んでいたが、新しい用紙でも種族欄は残したまま、その下へ《過去に強く出た薬効》《体格・食事・仕事上の注意》《本人からの申告》という欄を増やした。
さらに眠気が出る薬には赤い小さな印、胃を荒らす可能性のある薬には青い印をつけ、該当する薬を出す時だけ必要な質問を忘れないようにした。
すべての患者へ同じ質問を延々とするのではなく、薬の危険性と患者の状態に合わせて確認する内容を変えることで、基準を残しながら、その人自身の情報も拾える形へ変えようとしたのである。
◇
翌朝、最初に来たのは七十歳近い人間の女性だった。
「咳が出るんだけど、前にもらった薬が欲しいねえ」
ハクアは以前の記録を開いたものの、同じ処方をそのまま作り始めることはせず、赤い印の付いた薬が含まれていることを確認してから質問した。
「前回、この薬を飲んだあと、眠気は出ましたか?」
「少し出たね」
「生活に困るほどでした?」
「夜に飲んだから、ちょうどよく眠れたよ」
「昼間にも飲みます?」
「昼は飲まないねえ」
「では夜用として前回と同じ量にして、昼に咳がひどい時のために、眠くなりにくい別の薬も少し出します」
「それは助かるよ」
帳面の種族欄には《人間》と書かれたままだったが、今日の処方を決めたのは、その一語だけではなかった。
◇
次に来たのは猫系獣人の青年で、数日前から続いている胃の痛みを訴えていた。
ハクアは獣人用として普段使っている胃薬をすぐ棚から取るのではなく、まず食生活を尋ねた。
「昨日は何を食べました?」
「焼き魚とパンです」
「酒は?」
「三杯くらい」
「普段も毎晩?」
「大体そのくらいです」
「胃薬で具合が悪くなったことはあります?」
「苦いやつを飲むと、吐くことがあります」
「薬の名前は分かります?」
「そこまでは分からないです」
ハクアは薬箱から二種類の薬を取り出したものの、その答えを聞いて一方を棚へ戻した。
「それなら苦味の強い方は避けます」
「獣人用じゃないんですか?」
「獣人に使うことが多い薬ではありますが、今日はあなたに合う方を選びます」
青年は少し不思議そうな顔をしたものの、素直に頷いた。
◇
数日後、以前薬蜜が効きすぎたマティスが再び来店した。
「この前の薬はどうでした?」
「眠くならなかったですし、咳もだいぶ減りました」
「それならよかったです」
「前の薬は、もう使わない方がいいですか?」
「静根皮そのものが悪いわけではありません。ただ、あなたは鎮静作用が強く出やすい可能性があるので、今後使う場合は量を少なくします」
「人間なのに珍しいんですか?」
その質問を聞いたハクアは、以前なら「少し珍しいですね」とそのまま答えていたかもしれない。
「人間の平均と比べれば強く出た方だと思います。ただ、《人間なのに》というほど変なことではありませんよ」
「そうなんですか?」
「人間の中でも、薬の効き方は全員同じではないでしょう」
「まあ、それはそうですね」
◇
「今度から、眠くなる薬を出される時には、自分は効きやすいと薬師へ伝えてください」
「別の店でも?」
「別の店なら、なおさら最初に言った方がいいです」
「覚えておきます」
「種族と年齢だけでは、そこまでは分かりませんから」
マティスが帰ったあと、ハクアは帳面の《過去に強く出た薬効》という欄へ、静根皮による強い眠気と、その時に使用した量を書き込んだ。
その一行があれば、何年か経って彼が再び来た時にも、《人間・成人男性》という情報だけを見て同じ量を出すことはないだろう。
種族についての知識を捨てたのではなく、それより細かい一人分の情報を、少しずつ積み重ねるようになったのである。
◇
新しいやり方を始めると、予想していた通り、以前より手間が増える場面もあった。
質問を嫌がる患者もいれば、「前と同じのでいいから早くしてくれ」と急かす冒険者もいるため、ハクアはすべてを長々と尋ねるのではなく、危険性が高い薬についてだけ必要な確認をするようにした。
「眠くなる可能性があります。今日は馬に乗ります?」
「乗るぞ」
「なら別の薬にします」
「前はこれで平気だった」
「前回、眠くならなかったですか?」
「少しはなったが」
「馬に乗るなら、その少しが問題です」
「……それなら変えてくれ」
帳面の種族欄には《犬系獣人》と書かれていたが、今日馬へ乗る予定があることまでは、その文字から読み取れなかった。
◇
反対に、種族や系統をきちんと確認したからこそ避けられる危険もあった。
ある日、鳥人族の女性が薬草茶を求めて来店した際、ハクアは薬を決める前に、彼女がどの地域の系統なのかを尋ねた。
「山地系ですか、それとも平原系ですか?」
「平原です」
「《赤灯葉》は飲んだことがあります?」
「ありません」
「平原系の鳥人には動悸が出る例が少し多いので、初めてなら今回は別の葉を使います」
「私も必ず出るんですか?」
「必ずではありません。ただ、初めて使う薬で、ほかに安全な選択肢があるなら、わざわざ危険性の高い方を選ぶ必要はないと判断しました」
「なるほど」
種族差を知っていたからこそ防げる危険がある以上、「個人差があるから」と言って分類そのものを無視することもまた、薬師として無責任だった。
◇
ハクアが探していたのは、種族を見るか、まったく見ないかという二択ではなかった。
種族によって異なりやすい部分は知識として使い、それだけでは分からない部分については本人へ尋ね、過去の反応が記録に残っているなら、平均よりも本人の経験を優先する。
それでも未知の薬を使う場合には、体格や種族による危険性を考え、必要なら少量から始める。
以前より少しだけ手間のかかるやり方ではあったが、一週間ほど続けてみると、患者とのやり取りそのものはむしろ短くなることもあった。一度聞いたことを帳面へ残しておけば、次回から同じ質問を最初から繰り返さずに済むためだった。
◇
半月ほど経った頃、ハクアは眠鈴蜜を再び持って《持ち込み食堂》を訪れた。
「今日は薬師の相談ですか、それとも食事ですか?」
悠斗が尋ねる。
「今日は食事です」
「よかった」
「相談されるの、嫌だったんですか?」
「薬の話は料理より責任が重そうなので」
「それは正しい判断ですね」
ハクアは笑いながら瓶を卓へ置いた。
「前と同じ蜜ですが、今日は前回食べた量までなら、少なくともあの日の私には強い眠気が出なかったと分かっています」
「じゃあ少し増やします?」
「増やす必要はありません。あの味がちょうどよかったので、同じくらいでお願いします」
「分かりました」
悠斗は前回とほぼ同じ量だけを使った。
◇
「調合記録は変えました?」
料理を待つ間に悠斗が尋ねると、ハクアは種族欄を残したまま新しい項目を増やしたことを話した。
「最初は、種族を見ること自体が問題なのかと思っていました。でも違いました」
「何が問題だったんです?」
「種族だけを見て、本人まで見たつもりになっていたことです」
ハクアは自分の尾を椅子の横へ収めながら、以前よりもすっきりした言葉で続けた。
「狐系獣人であることは、私の身体について大切な情報です。でも、それだけで私が眠鈴蜜をどのくらい食べられるかまでは決まりません。それと同じように、患者の種族も大切ではありますが、その人自身を全部説明するものではありません」
「一つの情報として見る?」
「そういうことです」
◇
悠斗が出した《鳥肉の眠鈴蜜焼き》は、前回とほとんど同じ味に仕上がっていた。
ハクアは今度は身体の反応を確かめる試験のように食べるのではなく、普通の食事としてゆっくり味わった。
「前より量を増やせるかもしれませんけど」
「味としては、これで十分です」
「薬効じゃなくて味で決めるんですね」
「今日は料理を食べに来たんですから」
「それもそうですね」
眠鈴蜜をどこまで食べられるか証明する必要もなければ、狐系獣人として平均より強いのか弱いのかを確かめるために量を増やす必要もなく、今日のハクアが美味しいと思える量が、今日の料理にはちょうどよかった。
◇
「最近、この店には種族の違いで困っている人がよく来るんですか?」
ハクアが何気なく尋ねると、悠斗は少し考えてから、そういう客も何人かいたと答えた。
「どんな人です?」
「飛べると思われるのが困る鳥人の人とか、小さいから子ども扱いされる妖精の人とか、大きいからたくさん食べるって決められる巨人の人とかですね」
「ずいぶんいろいろですね」
「でも、同じ種族の違いって話でも、困ってることは全員違いました」
ハクアはその言葉を聞きながら、薬房で毎日見ている患者たちを思い浮かべた。
「種族の違いを気にしないことが、一番公平というわけでもないんですよね」
「俺もそう思います」
◇
「薬では特にそうです。身体の違いを無視したら危険ですから」
「でも、違いだけ見ても危ない?」
「ええ。必要な違いは見て、分からないところは本人へ聞く。それでも分からなければ、分からないまま慎重に扱うしかありません」
「料理でも近いかもしれないですね」
「あなたは食べられるか分からない食材を、名前だけで鍋へ入れませんものね」
「怖いですから」
「私も同じです」
ハクアは笑いながら、最後に残った鳥肉を口へ運んだ。
◇
それから一月ほど経った《白尾薬房》では、受付台の横に新しい札が置かれるようになった。
《以前、薬で強い眠気・吐き気・動悸・発疹などが出たことのある方は、種族に関係なくお知らせください》
その下にはさらに小さな文字で、《種族によって注意が必要な薬はこちらから確認します》と書き加えられている。
最初に札を見た常連の老人は、以前よりずいぶん細かくなったものだと笑った。
「前より面倒になったか?」
「少しだけ。でも前より間違えにくくなりました」
「俺は人間だから、いつもの普通のでいいぞ」
「そう言わず、前に眠くなった薬があったでしょう」
「あれは酒も飲んでたからだ」
「なら、その情報も必要なんです」
「薬師は大変だな」
「十二年通っておいて、今さら言います?」
二人は笑いながら、いつもの調合の確認を続けた。
◇
昼過ぎには、狐系獣人の母親が、同じ狐系獣人の娘を連れて来店した。
「この子、私と同じ薬で大丈夫ですよね?」
以前のハクアなら、親子で同じ系統の獣人なら、年齢と体重だけ調整すればよいと考えていたかもしれない。
今はすぐ薬を選ばず、娘本人へ過去に薬を飲んだ時のことを尋ねた。
「眠くなりやすい薬を飲んだことはある?」
「あるよ」
「その時、どんな感じだった?」
「お母さんは平気だったけど、私はすごく眠くなった」
娘の答えを聞いた母親が驚いて振り向いた。
「そんなこと言ってなかったじゃない」
「眠くなる薬だから、普通だと思ってた」
ハクアはその会話を聞きながら、帳面へ反応を書き込んだ。
◇
「同じ狐獣人でも違うんですね」
母親が言った。
「同じ親子でも違うことはあります」
「じゃあ種族って、あまり意味がないんですか?」
「いいえ、意味はあります。この子へ使わない方がいい薬を判断する時にも、狐系獣人であることは情報の一つになります」
「一つなんですね」
「ええ。年齢や体格、今までの薬への反応、ほかに飲んでいる薬、普段の生活の仕方と同じように、その人を知るための一つです」
ハクアは娘の体格と過去の反応に合わせて量を変え、眠気の出にくい処方を選んだ。
「お母さんと同じ薬ではないけれど、あなたにはこっちの方がいいと思います」
「分かった」
少女は小瓶を両手で受け取り、母親と一緒に店を出ていった。
◇
閉店後、ハクアはその日の帳面をまとめた。
同じ頁には、人間、猫系獣人、狐系獣人、ドワーフ、鳥人と異なる種族名が並んでいるが、その右側には、それぞれ違う生活や身体の反応が書き込まれている。
種族名を消せば、その違いまで公平に扱えるわけではなく、反対に種族名だけを大きく見れば、その人を十分に理解したことにもならない。
薬師に必要なのは、目の前にある違いを見ないふりすることでも、自分の知っている分類へ相手を無理に押し込めることでもなく、薬を安全に使うために必要な違いを確かめ、その分類から外れる一人の反応も同じように記録していくことなのだと、ようやく自分なりに整理できていた。
◇
ハクアは最後に、数日前に自分で食べた眠鈴蜜についても個人記録へ書き加えた。
《狐系獣人・三十歳。健康時、食後。料理一皿に極少量を二度摂取。強い眠気なし。ただし、今後も同量で同じ反応とは限らない》
そこまで書いてから、以前の自分なら《狐系獣人・眠鈴蜜への耐性やや高》と一行で終わらせていたかもしれないと思い、少しだけ笑った。
しかし、その書き方では、次に体調が悪い日に摂った時まで同じ反応をするものだと決めつけてしまう可能性がある。
今日分かったことは今日の記録として残し、明日の身体については明日必要になった時に確かめればよかった。
◇
薬房の外では、夕方の通りをさまざまな種族の人々が行き交っていた。
背の高い者もいれば低い者もおり、耳や角や尾の形も違えば、外見だけではほとんど違いが分からない者もいる。
その姿を眺めながら、ハクアはこれから種族の違いを気にしない薬師になろうとは思わなかった。薬を扱う以上、違いを知らなければならない場面はこれからもあり、知らないことがあれば調べ、危険な傾向があれば患者へ説明しなければならない。
ただし、その知識を使うたびに、目の前にいる一人が本当に平均と同じなのかを確かめる余地だけは、これからも残しておく。
ハクアは明日の診療に使う新しい調合記録を受付台へ揃え、最初の欄に種族名を書く場所をきちんと残したまま、その隣へ以前より広く取った《本人の反応・注意事項》の空欄を眺めると、そこへ何が書かれるのかは患者本人と話してから決めればいいと考えながら、《白尾薬房》の一日の仕事を静かに終えた。
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