第43話 乾きすぎた海藻と、陸に慣れた人魚の旅人
サフィがレーヴェンへ到着してから三日が経っていたが、宿の主人も道具屋の店員も、彼女が自分の脚で街を歩いている姿を見るたび、どうして人魚が陸上を普通に歩けるのかと一度は尋ねてきた。
二十五歳ほどに見えるサフィは、南方の海岸都市から内陸部を旅している人魚族の女性であり、腰まで届く青緑色の髪と、耳の後ろから首筋にかけて薄い鱗を持っている。両脚にも細かな青い鱗がところどころ残っているものの、外見だけを見れば人間と大きく変わらず、靴を履いて石畳を歩き、階段を上り、荷物を抱えて宿へ戻ることにも特別な不自由はなかった。
人魚族には、生涯のほとんどを海中で暮らし、陸上へ出る時だけ魔術や薬によって一時的な脚を得る一族もいる一方、サフィの故郷である浅瀬群島の人魚たちは、成長するにつれて海中と陸上の両方へ適応した身体を持つ者が多い。泳ぐ時には脚の外側にある薄い膜が広がり、水中では人間とは比べものにならない速度で進めるものの、陸へ上がればその膜は身体へ密着し、普通に二本の脚で歩けるため、サフィにとって陸上を歩くことは珍しい技術でも特別な能力でもなかった。
それでも海から遠く離れたレーヴェンでは、彼女を初めて見た者の多くが、人魚とは海から出られない種族だと思い込んでいるらしく、その違いを説明することが旅の目的より先に必要になる場面が何度もあった。
◇
「本当に水に入らなくて大丈夫なんですか?」
朝食を受け取りに一階へ下りたサフィへ、宿の若い従業員が心配そうに尋ねた。
「昨日も聞いたよね」
「いや、でも昨日からずっと外を歩いてたでしょう」
「歩いてたよ」
「乾かないんです?」
「乾くって、魚みたいに?」
「そういう意味じゃないですけど……」
青年は困ったように頭を掻いた。
サフィは怒るほどではないと思いながらも、三日間で似たような質問を何度されたか思い出す気にもなれなかった。
「水は普通に飲むし、肌が乾けば油も塗るけど、桶に浸かってないと死ぬわけじゃないよ」
「そうなんですね」
「海に戻らないと息できないと思ってた?」
「少し」
「首にあるのは鱗で、鰓じゃないから」
「鰓じゃないんですか?」
「そこから説明するの?」
サフィが笑うと、青年は申し訳なさそうに頭を下げた。
◇
相手に悪意がないことは分かっており、知らないから尋ねているだけなのだから、聞かずに勝手な扱いをされるよりは質問された方がずっといい。
それでも、自分が何をしにレーヴェンまで来たのかを話す前に、毎回まず「陸を歩けるのか」「水がなくても平気なのか」「魚を生で食べるのか」と聞かれることには、さすがに少し疲れていた。
今回の旅の目的は、海岸都市で売られている保存食を内陸へ運べるか調べることであり、サフィは浅瀬群島の商人たちから頼まれ、いくつかの港町と内陸都市を回っている途中だった。
海産物そのものなら、すでに塩漬けや乾物として内陸へ運ばれているものの、群島でよく食べられている海藻や貝の加工品は、内陸へ持ち込んでも使い方が分からないと言われることが多く、商品としてはほとんど定着していない。
そのためサフィは、単に売れるかどうかを見るだけではなく、内陸の人間がどう食べるのかまで確かめるつもりで旅を続けていた。
◇
その日の午前中、サフィは中央市場へ向かった。
荷袋には、故郷から持ってきた《潮紐草》の乾物が入っている。
潮紐草は、浅瀬の岩場へ長く伸びる濃紺色の海藻であり、生の状態では幅の狭い帯のように柔らかいものの、保存のため日干しすると細い縄のように縮み、かなり硬くなる。
故郷では、水へ戻してから魚や豆と煮るほか、細く刻んで酸味の強い調味液へ漬けることも多かったが、今回持ってきた一袋は輸送中に乾燥が進みすぎたらしく、普段のものよりさらに硬くなっていた。
水へ戻せば使えるのか、それとも乾きすぎて品質が落ちているのかについては、サフィ自身にもまだ判断できていなかった。
◇
「海藻かい?」
市場の乾物屋へ見せると、店主の男は潮紐草を一本持ち上げた。
「そう。水で戻して煮る」
「このまま食うんじゃないのか」
「このまま噛んだら歯が負けるよ」
「人魚って、こういうの生で食うんじゃないのか?」
サフィは思わず男の顔を見た。
「誰から聞いたの」
「いや、何となく」
「人間だって麦を畑から抜いて、そのまま毎日食べるわけじゃないでしょう」
「それもそうか」
店主は笑ったものの、悪びれた様子はなかった。
「売れそう?」
サフィが尋ねる。
「使い方が分からんな。煮れば食えるって言われても、どのくらい戻して、何と合わせるんだ?」
「だから説明札つけるつもり」
「それでも、見慣れない黒い紐を買う客がどれだけいるかだな」
その返事は、サフィがある程度予想していたものだった。
◇
別の乾物屋でも反応は似ており、珍しい食材として興味は持たれるものの、実際に仕入れるとなると話は変わり、どう料理するのか分からないものを大量には置けないと言われた。
それ自体は商人として当然の判断であり、サフィも断られたことへ腹を立てるつもりはなかった。
ただ、三軒目で店主から「人魚の客なら買うかもしれない」と言われた時には、さすがに少し引っかかった。
「レーヴェンに人魚、そんなにいる?」
「ほとんど見ないな」
「じゃあ誰に売るの」
「……人間でも好きな奴いるかもしれん」
「だから、その食べ方を探してるの」
サフィは苦笑しながら潮紐草を袋へ戻した。
◇
昼を過ぎる頃、中央市場の端にある休憩所で水を飲んでいると、一人の商人が声をかけてきた。
「それ、南の海藻だろ?」
振り向くと、食料品を扱っているらしい中年の男が、袋から見えている潮紐草を指していた。
「知ってるの?」
「港で見たことがある。内陸へ持ってくる奴は珍しいな」
「売れるか試してるところ」
「難しいだろ」
「今のところね」
「海の奴らには普通でも、こっちじゃ海藻食う習慣が薄いからな」
「そうみたい」
男は少し考えたあと、サフィの脚へ視線を落とした。
「ところで、人魚って長く陸にいると脚が痛くならないのか?」
サフィは水を飲み終えてから、ゆっくり男を見た。
◇
「痛くならないよ」
「そうなのか」
「人間って、一日に何回人魚の脚の心配するの?」
「そんなに聞かれるのか?」
「今日だけで三人目」
男は気まずそうに笑った。
「悪かった」
「知らないなら仕方ないけどね」
「海の方じゃ、人間について変な思い込みないのか?」
「あるよ」
「例えば?」
「人間は全員泳げないとか」
「俺は泳げるぞ」
「でしょ」
「なるほどな」
二人はそこで少し笑った。
◇
「海藻を料理できる店探してるなら、西区の《持ち込み食堂》へ行ってみたらどうだ」
「持ち込み?」
「客が食材持っていく店だ。珍しいものでも見てくれるらしい」
「海藻でも?」
「それは店主に聞いてくれ」
サフィは店の場所を教えてもらい、その日の市場回りを切り上げて西区へ向かった。
売れるかどうかを判断する前に、内陸の食材と合わせた時にどんな使い方ができるのかを試してみるのは悪くなく、それに乾きすぎた一袋が本当に使えるのかについても、料理人の意見を聞いてみたかった。
◇
「いらっしゃいませ」
《持ち込み食堂》へ入ると、ミレイアが迎えた。
「持ち込みなんだけど、海藻でもいい?」
「店主に見てもらいますね」
「食べられるものではあるよ。ただ、いつもより乾きすぎてる」
「分かりました」
しばらくすると悠斗が厨房から出てきた。
「これですか?」
「《潮紐草》。うちの方じゃ普通に食べる」
悠斗は濃紺色の乾物を一本手に取り、指で曲げようとしたが、ほとんどしならず、乾いた枝のような硬さが残っていた。
「かなり固いですね」
「普段の乾物は、もう少し曲がるんだけどね」
「水に戻せば柔らかくなる?」
「普通なら」
◇
「じゃあ試してみます」
悠斗は潮紐草を短く切り、冷たい水、ぬるい水、温かい湯の三つへ分けて浸した。
「温度で変わる?」
サフィが尋ねる。
「戻り方を見るだけです。急に熱い湯へ入れると食感が変わるものもあるので」
「海藻、料理したことある?」
その質問に、悠斗の手がほんの少し止まった。
「似たものなら」
「似たもの?」
「俺がいたところにも、海で採れる葉みたいな食べ物がありました」
「へえ」
サフィは興味を持ったものの、悠斗がそれ以上話す様子を見せなかったため、深く追及することはしなかった。
◇
しばらく待つと、ぬるい水へ入れた潮紐草が最も均一に戻り始め、乾燥していた時には細い縄ほどだったものが少しずつ幅を取り戻し、濃紺色も深い緑に近づいていった。
「戻るね」
「使えそうです」
「乾きすぎてても平気?」
「今のところは。ただ、中心まで戻るのに時間がかかりそうです」
悠斗は一本を取り出し、端を少し切って食感を確かめた。
「まだ芯がありますね」
「故郷だと、もっと長く水へ入れるよ」
「じゃあ待ちましょう」
「急がないんだ」
「急いで戻して美味しくなくなるなら、待った方がいいので」
サフィはその答えに頷いた。
◇
潮紐草が戻るまでの間、悠斗は鳥肉と根玉葱、それに白豆を軽く煮込んだ温かい料理を出した。
旅の途中で食べ慣れない料理が続いていたサフィにとっては、鳥肉の旨味が溶けた素朴な煮汁が身体へ馴染みやすく、空腹も少しずつ落ち着いていった。
「海の人って、魚ばかり食べるんです?」
悠斗が尋ねる。
サフィは匙を止めた。
「店主もそれ聞く?」
「すみません。聞き方悪かったです」
「魚は食べるよ。でも毎日魚だけじゃない」
「他は?」
「貝、海藻、豆、芋、穀物も食べるし、島には鳥もいる。山羊飼ってる島もあるよ」
「思ったより普通ですね」
「その『普通』が何を基準にしてるか、ちょっと気になるけどね」
「……確かに」
悠斗は苦笑した。
◇
「人魚って言うと、みんな海の中の話しかしないんだよね」
サフィが続ける。
「海に住んでるから?」
「それはそうなんだけど、私の故郷は島だから、陸の畑もあるし家も半分は地上に建ってる。海中の家だけで暮らしてる一族もいるけど、うちは違う」
「同じ人魚族でも?」
「かなり違うよ。深い海に住む一族は光に弱かったりするし、河口近くの一族は淡水でも平気だし、逆に海水から長く離れられない人たちもいる」
「サフィさんは?」
「私は陸でも平気。ただ、泳がない日が続くと身体が重くなる」
「じゃあ水は必要?」
「泳ぐためにはね。生きるために毎日浸からないと駄目ってわけじゃない」
◇
「説明するの、大変そうですね」
「最近そればっかり」
サフィは笑った。
「最初は面白かったんだけどね。『脚あるの?』って聞かれて、『あるよ』って見せるのも」
「今は?」
「十回超えると疲れる」
「それはそうですよね」
「でも、聞かれないともっと面倒なことになる時もある」
「例えば?」
「宿で浴槽を一日中貸し切りにされそうになった」
悠斗が思わず笑いそうになり、すぐに口元を押さえた。
「笑っていいよ。私も笑ったから」
「本当に必要だと思われたんですね」
「『人魚のお客様がお困りにならないように』って、宿の主人がすごく真剣だった」
◇
「断った?」
「もちろん。お湯全部使ったら他の客が困るでしょう」
「でも親切ではある?」
「親切だよ。だから余計に言いにくいんだよね」
サフィは匙を皿へ置いた。
「悪意で決めつけられるなら怒れるけど、親切でやられると、『ありがとう、でも違う』って一回ずつ説明しなきゃいけない」
「黙って受け入れることもある?」
「前はね」
「前?」
「港町で、人魚だからって魚を生で山盛り出された時、悪いと思って全部食べた」
「好きだったんです?」
「嫌いじゃないけど、三日連続はきつかった」
悠斗は少し笑った。
◇
「断ればよかったのに」
「その時は、せっかく用意してくれたからと思ったんだよ」
「でも三日?」
「初日に喜んで食べたから、『やっぱり人魚は生魚が好きなんだ』って思われたらしい」
「なるほど」
「私が黙って合わせたせいで、相手の思い込みを強くしたんだよね」
サフィは自分で言いながら、少し困ったように笑った。
「それで最近は、違う時はなるべく言うようにしてる」
「全部?」
「全部は無理。毎回説明してたら、旅が終わらない」
「じゃあ、必要なところだけ?」
「そう。困るところだけ直す」
悠斗は頷いた。
◇
一刻ほど経つと、潮紐草は十分に水を含み、最初の硬さが嘘のように柔らかくなっていた。
悠斗は少量を切り、軽く茹でてから味を確かめた。
「塩気ありますね」
「海水で洗ってから干してるから」
「じゃあ塩は少なめでよさそうです」
悠斗は鳥肉の脂を少し使って根玉葱を炒め、細く切った潮紐草を加えると、少量の水を入れて蓋をし、海藻の食感がさらに柔らかくなるまで蒸すように火を通していった。
最後に白豆を加え、潮紐草が持つ塩気だけでは足りない分を少量の塩で整える。
「《潮紐草と白豆の鳥肉蒸し煮》です」
◇
サフィが一口食べると、最初に鳥肉と根玉葱の甘い香りが広がり、そのあとから潮紐草の海らしい香りと塩気が追いかけてきた。
故郷では魚と合わせることが多いため、鳥肉と一緒に食べるのは新鮮だったが、脂を吸った潮紐草は思っていた以上によく馴染んでいる。
「これ、いいね」
「海藻の味、強すぎないです?」
「ちょうどいい。白豆とも合うんだ」
「内陸だと豆は手に入りやすいです」
「なら売り方に使えるかも」
サフィはすぐに荷袋から小さな帳面を取り出した。
◇
「商売の記録です?」
「そう。どう食べればいいかまで書かないと、買ってもらえないから」
「乾燥したまま売る?」
「そのつもり。ただ、今回みたいに乾きすぎた時の戻し時間も書いた方がいいね」
「普段より長めに?」
「うん。あと、ぬるい水がよさそう」
「戻しすぎると柔らかくなりすぎるかもしれないので、時間は何段階か試した方がいいですね」
「それもやる」
サフィは料理を食べながら、細かく記録を書いていった。
◇
「人魚向けじゃなくて、内陸の人向けの食べ方を考えてるんですね」
悠斗が言った。
「当たり前でしょう。ここで売るんだから」
「市場の人は、人魚が買うかもって言ってたんですよね」
「いたとしても、それだけじゃ商売にならないよ」
「故郷の食べ方、そのまま売るのは?」
「できるものもある。でも、こっちに魚が毎日あるわけじゃないなら、豆や鳥肉に合わせた方が使いやすい」
「変えるの、抵抗ない?」
「何で?」
「故郷の食べ方だから」
サフィは少し考えた。
「故郷の料理をそのまま残したい時は、その通り作るよ。でも商品として別の土地へ持っていくなら、そこの人が使える形も考えないと意味ないでしょう」
◇
「人魚らしい食べ方にこだわらないんですね」
悠斗が言うと、サフィは眉を上げた。
「また『人魚らしい』って言った」
「あ」
「今のはちょっと面白いから許すけど」
「すみません」
「人魚らしいって、誰が決めるの?」
「……難しいですね」
「海の中で潮紐草を魚と食べるのも人魚の料理だし、陸で豆と煮て食べるようになったら、それもそのうち人魚の料理になるかもしれない」
「変わってもいい?」
「変わるでしょう。食べ物なんて、人が移動すれば一緒に変わるよ」
サフィは自然な口調で答えた。
◇
「そう考えると、サフィさん自身も少し似てますね」
「何が?」
「海の人だけど、陸も歩く」
「それは生まれつきだけどね」
「でも周りが想像する人魚と違う?」
「それはそう」
「だからって、人魚じゃなくなるわけでもない」
サフィは少し黙ったあと、笑った。
「店主、今日は例えが海藻から私に来たね」
「すみません」
「別に嫌じゃないよ。今回は分かりやすい」
サフィは残った料理を食べながら、自分が内陸へ来てから繰り返し感じていた苛立ちについて考えた。
◇
人魚だから泳げると思われること自体は間違っておらず、サフィは実際に泳げるうえ、人間よりずっと水中での移動を得意としている。
海産物をよく食べることも事実であり、陸上だけで育った人間より海の知識が多いのも間違いではなかった。
問題だったのは、そこから「だから陸では普通に歩けない」「だから魚しか食べない」「だから水へ浸かっていなければならない」と、知らない部分まで勝手に埋められてしまうことである。
それに対して毎回怒っていても疲れるだけだが、困ることまで黙って受け入れれば、相手はそれが正しいのだと思い込み続ける。
どこまで説明し、どこから流すのかを自分で決めることも、旅を続けるためには必要なのかもしれなかった。
◇
「この店、人魚来たことある?」
サフィが尋ねた。
「たぶん初めてです」
「じゃあ次の人魚が来た時、『水桶必要ですか』って聞く?」
「聞かないと思います」
「何て聞く?」
悠斗は少し考えた。
「何か必要なことありますか、ですかね」
サフィは満足そうに頷いた。
「それが一番楽」
「人魚だから必要なものを予想するより?」
「本人に聞いた方が早いよ。必要なら言うし」
「覚えておきます」
「でも海水浴できる場所聞かれたら教えてあげて。私も知りたいから」
「レーヴェン、海ないですよ」
「それは知ってる」
二人は笑った。
◇
食事を終えたサフィは、残った潮紐草を持って宿へ戻った。
その夜、帳面には料理の記録だけでなく、内陸向けの説明文も書き加えた。
《潮紐草――乾燥保存可。ぬるい水で十分に戻し、細く切る。魚だけでなく、鳥肉・豆・根菜とも合わせられる。塩気が残るため、味付けは最後に調整すること》
さらに、その下へ小さく注意を書いた。
《乾燥が強いものは戻し時間を長くする。硬いままだからと捨てない》
書き終えたあと、サフィは自分でも少し笑った。
見た目や状態が普段と違うだけで、使えないものだと先に決める必要はないという意味では、今日一日に起きたことが妙につながっているように思えた。
◇
翌朝、宿の主人がサフィへ声をかけた。
「サフィさん、昨日はよく眠れましたか?」
「うん」
「浴室の方、水を多めに残してありますが」
サフィは一瞬だけ目を閉じた。
「主人さん」
「はい」
「前にも言ったけど、私は毎日水に浸からなくても大丈夫だよ」
「あ、そうでしたね」
「でも普通に風呂は好きだから、夜に使っていい?」
「もちろんです」
「それなら嬉しい」
以前なら、相手が親切で用意してくれたのだからと、そのまま余計な水まで使ったかもしれなかったが、今回は必要ではない部分だけを訂正し、ありがたい部分についてはそのまま受け取った。
◇
その日の市場では、サフィは潮紐草を少量ずつ試し売りすることにした。
前日に話した乾物屋の一軒へ戻り、料理法を書いた札と、一食分に分けた小さな束を見せる。
「昨日の黒い紐か」
「そう。でも使い方まとめた」
「鳥肉でも食えるのか?」
「昨日試した。豆と煮てもいい」
「戻すのにどれくらい?」
「この乾き具合なら、ぬるい水で一刻くらいから確認。柔らかさ見て延ばす」
「面倒だな」
「乾物なんて大体そうでしょう」
「それもそうだ」
店主は札を読みながら、まずは少量だけ仕入れてみることにした。
◇
大量の契約ではなく、店先の片隅へ置く程度の量だったが、サフィにとっては十分だった。
知らない食材をいきなり大量に仕入れろと言うつもりはなく、実際に誰かが買い、料理して、また欲しいと思うかを見なければ先へは進めない。
昼頃になると、年配の女性が潮紐草の束を手に取った。
「これ、何?」
店主が答えようとしたところで、サフィが横から声をかけた。
「海で採れる葉みたいなものです。水で戻して煮ます」
「魚と?」
「魚でもいいけど、鳥肉と白豆でも美味しかったですよ」
「あなた、海の人?」
「人魚です」
女性はサフィの脚へ視線を落とした。
◇
「人魚なのに脚あるの?」
予想通りの質問が来たため、サフィは一瞬だけ苦笑した。
「私の一族はありますよ」
「他の人魚は違うの?」
「違う一族もいます」
「へえ」
女性はそれ以上驚くことなく、すぐに潮紐草へ視線を戻した。
「これ、一束で何人分?」
「二、三人なら十分です」
「じゃあ試してみようかしら」
女性は一束を買った。
サフィは、自分の脚について必要なことだけを短く答え、そのまま自然に食材の話へ戻れたことに、少しだけ気分が軽くなった。
◇
数日間の試し売りで、潮紐草は飛ぶように売れたわけではなかったが、最初に買った客の一人がもう一度店を訪れた。
「この前の海藻、もう一束ある?」
「ありますよ」
乾物屋の主人が答える。
「どう食べた?」
サフィが尋ねると、客は笑った。
「豆と塩漬け肉で煮たら、思ったより美味しかったわ。少しだけ酢を入れたらもっと好きだった」
「酢?」
「変だった?」
「いや、やったことない。今度試したい」
「海の人でも知らない食べ方あるのね」
「いっぱいあるよ」
サフィは素直に答えた。
◇
その客が帰ったあと、乾物屋の主人が腕を組んだ。
「二袋くらいなら次も置いていいぞ」
「本当?」
「まだ大量にはいらん」
「十分」
「料理札も一緒にな」
「分かった」
サフィは帳面へ数量を書き込んだ。
商品として成功したと呼ぶには小さすぎる取引かもしれないが、少なくとも「内陸では海藻は売れない」と決める理由はなくなった。
故郷の食べ方をそのまま持ってくるだけではなく、この土地にある豆や肉、酢と組み合わせれば、潮紐草にも別の使い方が生まれるのだと実感できた。
◇
レーヴェンを出る前日、サフィは残っていた潮紐草を少し持って《持ち込み食堂》を再び訪れた。
「売れました?」
悠斗が尋ねる。
「少しだけ。でも追加で置いてもらえることになった」
「よかったですね」
「あと、客が酢入れて煮たら美味しかったって」
「それ試してみます?」
「そのために来た」
悠斗は潮紐草を戻しながら、今度は根玉葱と白豆に酸味のある果実酢を合わせることにした。
酢を最初から強く入れるのではなく、仕上げに少量ずつ加えていくと、潮紐草の海らしい香りが軽くなり、豆の重さも抑えられた。
◇
「これ好き」
サフィが食べてすぐ言った。
「故郷でも作れそう?」
「作れる。向こうにも酸っぱい果実あるから」
「持ち帰る?」
「料理の方をね」
「潮紐草は元々向こうのものですもんね」
「そうそう」
サフィは笑いながら帳面へ新しい料理を書き足した。
《潮紐草と白豆の酸味煮――内陸の客から教わった方法を参考》
その一文を書いてから、サフィは少し満足そうに眺めた。
◇
「故郷に戻ったら、内陸の食べ方として紹介する?」
悠斗が尋ねた。
「するよ」
「人魚の料理に、人間の食べ方が入る?」
「入ったら駄目?」
「いえ」
「こっちだって、海のものを人間が食べたら、そのうちそこの料理になるでしょう」
「そうですね」
「誰の料理か決めるより、美味しかったら覚えた方が得だよ」
サフィは気軽にそう答えた。
旅を始める前には、故郷の食材を内陸へ広めることばかり考えていたが、実際に旅をしてみれば、持っていくものと同じくらい持ち帰るものも増えていた。
◇
「明日、レーヴェン出るんです?」
「うん。次は北西の街」
「海からもっと離れますね」
「だから面白いんだよ」
「水、大丈夫?」
悠斗がわざと尋ねたため、サフィは一瞬だけ彼を睨んだ。
「店主」
「冗談です」
「覚えたと思ったのに」
「すみません」
「まあ、水筒は必要だけどね」
「それは人間も一緒です」
「そこは一緒だ」
二人は笑った。
◇
翌朝、サフィは宿代を払い、荷袋を背負ってレーヴェンの西門へ向かった。
途中で乾物屋へ寄り、次回運べる潮紐草の量と、故郷へ戻ったあと連絡を取る方法を確認した。
「次はもう少し柔らかく干してくれ」
店主が言った。
「輸送でまた乾くかもしれない」
「なら、その時は戻し方の札を変えるか」
「そうして」
「それと、人魚の客が来たら、お前のところ紹介すればいいか?」
「人魚だからって潮紐草買うとは限らないよ」
「そうだったな」
店主は笑った。
◇
西門を出る頃には、朝の光が街道へ差し込み、旅人や荷馬車が少しずつ行き交い始めていた。
サフィは海からさらに遠ざかる方向へ歩き出したが、陸へ来たからといって自分が人魚でなくなるわけでもなく、内陸の料理を覚えたからといって故郷の食文化を失うわけでもない。
自分を見た誰かが人魚について何かを想像することまでは止められず、その想像の中には正しいものも、少しずれたものもあるだろう。
だからこそ、すべての誤解へ腹を立てるのでも、親切だからと何でも受け入れるのでもなく、自分が困るところだけはきちんと違うと伝え、知られていないことについては必要な時に説明すればいい。
サフィは荷袋の中に、故郷から持ってきた潮紐草と、レーヴェンで書き加えた新しい料理の記録を一緒に収め、海から離れるほど自分の知っている人魚像だけでは足りない相手と出会えることを少し楽しみにしながら、次の街へ続く街道を自分の二本の脚で歩いていった。
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