第42話 苦すぎる葉菜と、娘を守りすぎる兎人農家
メアリーは、人間の子どもと兎人族の子どもでは身体のつくりが違うのだから、同じように扱わない方がいいと考えており、特に十一歳になる娘のリムについては、自分が子どもの頃に苦手だったものをなるべく遠ざけることが、母親として当然の役目だと思っていた。
三十六歳になるメアリーは、レーヴェンの東門から少し離れた農村で野菜を育てている兎人族の農家であり、長い灰褐色の耳と細身の身体を持ち、夫を六年前に病で亡くしてからは娘と二人で暮らしている。畑では葉菜や根菜を中心に育て、季節によっては豆や香草も扱っており、収穫したものの大半をレーヴェン東市場へ卸すことで生活を支えていた。
兎人族は、人間より耳がよく、遠くの物音や小さな気配へ敏感に反応できる一方、突然の大きな音には驚きやすい者が多いとされているが、もちろん全員が同じ反応をするわけではなく、鍛冶場の近くで平然と暮らしている者もいれば、人間以上に騒音へ強い者もいる。
それでもメアリー自身は、幼い頃から大きな音を苦手としており、狩人が近くで弓を放っただけでも身体が強張ってしまう子どもだったため、自分の娘についても同じようなものだと、本人へ確かめるより先に決めてしまっていた。
そのため、リムが何かに挑戦したいと言うたび、メアリーはできる理由より危険な理由を先に探すようになっていた。
◇
「お母さん、今日の市場、私も行っていい?」
朝食を終えたリムが尋ねた時、卓の上では、今日レーヴェンへ持っていく野菜の納品札をメアリーが確認していた。
「今日は荷車が多いから駄目よ」
「荷車に乗ればいいでしょう?」
「市場は朝から混むの。馬車も入るし、荷物を落とす人もいるから危ないわ」
「先月も同じこと言った」
「先月も混んでたでしょう」
「でも、私は市場へ行ったことあるよ」
「お母さんと買い物へ行くのと、仕事で行くのは違うの」
メアリーは納品札を束ねながら答えた。
「手伝いたいんだけど」
「畑の方をお願い。昼までに朝露菜の傷んだ葉を取っておいて」
「それ、昨日もやった」
「仕事なんだから、毎日やることもあるでしょう」
リムは納得していない顔をしたものの、それ以上は言わず、食器を片づけて畑へ向かった。
◇
リムは十一歳になってから、以前より明確に畑仕事を手伝いたがるようになり、苗を運ぶ程度の仕事だけではなく、収穫量を数えたり、市場へ出す野菜を選別したり、客へ商品の説明をしたりすることにも興味を示すようになっていた。
メアリーとしても、娘が農業へ興味を持ってくれること自体は嬉しかったが、村の畑とレーヴェンの市場では環境がまるで違うため、その点だけはどうしても気になってしまう。
朝の市場には商人や荷運び人が大勢集まり、大きな荷車が何台も狭い通路へ入ってくるうえ、呼び込みの声や金属箱を置く音、家畜の鳴き声まで絶えず重なっているため、耳のいい兎人族の子どもが長くいる場所としては刺激が強すぎるように思えた。
少なくとも、メアリー自身が十一歳の頃であれば、あの騒がしさの中へ一時間もいれば耳の付け根が痛くなり、帰宅してからもしばらく頭の重さが残っていただろう。
◇
「リム、昨日の《苦葉菜》、どこまで分けた?」
畑へ出たメアリーが尋ねると、リムは近くに置いてあった二つの収穫籠を指した。
「こっちが普通ので、こっちが苦いやつ」
《苦葉菜》は、深い緑色の厚い葉をつける野菜であり、火を入れると独特の香りと軽い苦味が出るため、肉料理の付け合わせや豆との煮込みによく使われている。
ところが今年の一部の株は、例年より苦味が強く、見た目にはほとんど違いがないにもかかわらず、生の葉を少し齧ればすぐに分かるほど味が変わっていたため、通常品として出荷してよいか判断に迷う状態だった。
「全部こっちの畝?」
「うん。でも端の三列はそんなに苦くないよ」
「食べたの?」
「ちょっとだけ」
リムが答えると、メアリーはすぐ眉を寄せた。
◇
「勝手に生で食べちゃ駄目でしょう」
「いつも味を見るじゃない」
「お母さんがやるのと同じじゃないの」
「何が違うの?」
「何か変なものがついてるかもしれないし、お腹壊したらどうするの」
「洗ったよ」
「それでもよ」
リムは口を尖らせた。
「じゃあ私、何も自分で確かめられないじゃん」
「今はまだ、お母さんに言ってからでいいでしょう」
「いつまで?」
「もう少し大きくなったら」
「何歳?」
具体的に聞かれると、メアリーは少し言葉に詰まった。
「十三とか十四とか、そのくらいになったら考えるわ」
「前は十二って言ってた」
「そんなこと言った?」
「言ったよ」
リムははっきり覚えており、メアリーはそれ以上うまく理由をつけられなかった。
◇
午前の収穫を終える頃、村の共同倉庫から木箱を運んできた農夫が畑の入口で足を滑らせ、抱えていた箱を地面へ落とした。
乾いた木が土へ強く当たり、周囲へ大きな音が響いた瞬間、メアリーの長い耳は反射的に伏せられ、身体も一瞬だけ硬くなった。
「すまん!」
農夫がこちらへ手を上げる。
「大丈夫よ」
メアリーは答えながら娘を見ると、リムは特に驚いた様子もなく、落ちた木箱から転がった縄を拾っていた。
「リム、大丈夫?」
「何が?」
「今の音」
「びっくりはしたけど、別に大丈夫」
「耳、痛くない?」
「痛くないよ」
リムは不思議そうに母を見返した。
◇
その反応を見ても、メアリーはすぐに考えを変えることができず、今日は大丈夫だっただけで、もっと近くで金属音が鳴れば違うかもしれないと考えた。
市場には今の木箱とは比べものにならないほど大きな音がいくつもあるのだから、やはり娘を連れていかない方がいいのだと、むしろ自分へ言い聞かせるようになっていた。
昼前になると、メアリーは苦味の強い苦葉菜を一籠だけ荷車へ積んだ。
「それ市場で売るの?」
リムが聞いた。
「売らないわ。知り合いの料理屋に見てもらおうと思って」
「私も行きたい」
「今日は駄目」
「また?」
「仕事だから」
「私も仕事覚えたいんだけど」
リムの声が少し強くなった。
◇
「覚えなくていいなんて言ってないでしょう」
「でも、何を言ってもまだ早いって言うじゃん」
「危ないことをさせたくないだけよ」
「何が危ないの?」
「市場は音も大きいし、人も多いし、荷車だって――」
「お母さんが嫌なだけじゃないの?」
メアリーは一瞬、娘が何を言おうとしているのか分からなかった。
「何が?」
「大きい音」
「あなたも兎人なんだから苦手でしょう」
「私は平気だよ」
「今はそう言ってるだけかもしれない」
「何でお母さんが決めるの?」
リムは耳を立てたまま、まっすぐ母を見た。
◇
「お母さんが子どもの時に嫌だったからって、私も同じとは限らないでしょう」
「でも、耳は同じ兎人族なのよ」
「耳が同じだったら、何でも同じなの?」
「そういう意味じゃ――」
「じゃあ行ってみないと分からないじゃん」
メアリーはすぐに返事ができず、リムもしばらく母の言葉を待っていたが、やがて諦めたように収穫籠を持ち上げた。
「もういい。葉っぱ分けてくる」
「リム」
「仕事なんでしょ」
娘はそれだけ言い残し、畑の奥へ歩いていった。
◇
午後、メアリーは一人でレーヴェンへ向かい、東市場で通常の野菜を卸してから、苦味の強い苦葉菜だけを荷車へ残し、知り合いの料理屋を二軒回った。
一軒目では、生の葉を少し味見した料理人から、今年のものは苦すぎて通常の煮込みには使いにくいと言われ、二軒目でも似たような反応が返ってきた。
「薬味みたいに少し使うなら面白いけど、うちで一籠は要らないな」
そう言われたことで、メアリーは通常商品として売ることを一度諦めた。
家畜の餌へ回すこともできるが、苦味が強いだけで傷んでいるわけではないため、何か使い道がないか少し気になり、市場の八百屋から聞いた《持ち込み食堂》という店を思い出した。
◇
西区へ入り、教えられた路地を進むと、目的の看板はすぐに見つかった。
「いらっしゃいませ」
ミレイアに迎えられたメアリーは、苦葉菜を入れた籠を見せた。
「食べられる野菜なんだけど、今年の一部だけ妙に苦いの」
「店主に見てもらいますね」
しばらくすると悠斗が出てきて、一枚の葉を手に取った。
「普段はどのくらい苦いんです?」
「少しだけよ。肉と煮れば気にならないくらい」
「これは?」
「かなり強いわ」
「少し味見しても?」
「洗ってあるから大丈夫」
悠斗は小さく葉を切り、口へ入れた。
◇
数回噛んだところで悠斗の眉が少し寄り、すぐに水を飲むほどではないものの、普段の葉菜としては確かにかなり強い苦味であることが伝わってきた。
「確かに強いですね」
「でしょう?」
「でも、傷んだような苦さではなさそうです」
「食べられはすると思うの。ただ、そのまま商品として出すには苦すぎるのよ」
「加熱したらどう変わるか試してもいいです?」
「お願い」
悠斗は葉を三つに分け、一つは短時間茹で、もう一つは油で炒め、最後の一つは少し長めに煮た。
メアリーもそれぞれを味見した。
「茹でただけだと、まだかなり残るわね」
「炒めると香りはいいですけど、苦味も分かりやすいですね」
「長く煮たのが一番まし?」
「そうですね。ただ、それでも主役にするには強そうです」
◇
悠斗は少し考え、根玉葱と白豆、それに脂のある鳥肉を用意した。
鳥肉を先に焼いて脂を出し、根玉葱をじっくり炒めて甘さを引き出してから、白豆と水を加えて煮込み、苦葉菜は一度茹でてから細かく刻み、最後の方で少量ずつ加えていった。
煮汁に溶け込む苦味を確かめながら量を増やしていくと、単体では強かった苦味が、根玉葱と豆の甘さ、鳥肉の脂によって少しずつ丸くなっていく。
「全部入れないの?」
メアリーが尋ねた。
「全部入れると、たぶん苦すぎます。今日は料理に合わせて量を減らした方がよさそうです」
「余った分は?」
「別の料理へ少しずつ使うか、無理に人用へ回さない方がいいものも出ると思います」
「商品としては難しい?」
「普通の苦葉菜と同じ売り方は難しそうですね」
悠斗は煮込みを皿へ盛った。
◇
「《苦葉菜と白豆の鳥肉煮込み》です」
メアリーが口にすると、最初に鳥肉の旨味と根玉葱の甘さが広がり、そのあとから苦葉菜の香りがゆっくり追いかけてきた。
苦味そのものは確かに残っているが、単独で食べた時のように舌へ鋭く残るのではなく、脂と甘さの中へ一つの味として収まっている。
「これなら食べられるわ」
「好き嫌いは分かれそうですけどね」
「普通のより苦いって分かって買う人なら、欲しがるかもしれない」
「そういう売り方ならありそうですね」
メアリーはもう一口食べながら、通常品と同じものとして出すことばかり考えていた自分に気づいた。
◇
「全部同じ野菜でも、場所によって味変わるんですね」
悠斗が言った。
「今年は特にね。同じ畑でも端の方はそこまで苦くないのよ」
「土とか日当たり?」
「たぶん水分だと思う。端の三列は少し水が抜けやすいから」
「じゃあ、見た目だけでは分からない?」
「ほとんど分からないわ。だから娘が少しずつ齧って分けてた」
そこまで話したところで、メアリーは朝のやり取りを思い出した。
「娘さんも農家なんです?」
「十一歳よ。まだ手伝い」
「味見できるなら、よく見てますね」
「勝手に食べたから注意したけど」
「危ないものだったんです?」
「いつも食べてる野菜ではあるけど……」
メアリーは少し言葉を濁した。
◇
「娘さんが食べたこと自体より、勝手に判断したのが気になったんです?」
「それもあるけど、最近何でもやりたがるのよ。市場にも来たいって言うし、選別もしたがるし、自分で味を確かめたがるし、もう少し待てばいいのにと思う」
「農業が好きなんですね」
「たぶん」
「嫌なんです?」
「嬉しいわよ」
「じゃあ心配?」
「それが一番近いかしら」
メアリーは匙を置いた。
◇
「私、兎人族だから大きな音が苦手なの」
「そうなんですね」
「市場へ行くと、荷車の音や呼び込みの声がずっと聞こえるでしょう。私は子どもの頃、ああいう場所へ行くと耳が痛くなって、帰ってからもしばらく頭が重かった」
「娘さんも?」
「兎人族だから、多少はあると思う」
「本人は何て?」
「平気だって言うのよ」
「実際は?」
「分からない」
メアリーは自分で答えたあと、その言葉の意味を少し考えるように眉を寄せた。
「今日、畑で大きな木箱を落とした人がいたけど、あの子は平気そうだった」
「じゃあ、メアリーさんより音に強い可能性もある?」
「あるのかもしれないけど、耳のつくりは同じよ」
◇
「同じ種族なら、感じ方も近いんですか?」
「普通はそう思うでしょう」
「俺には分からないです」
「人間だものね」
「人間でも、辛いものが好きな人と苦手な人がいますし、大きな音が平気な人と嫌いな人もいます」
「それと同じだって?」
「同じかどうかは分からないです。ただ、同じ人間でも結構違うので」
悠斗は皿に残った苦葉菜へ視線を向けた。
「この葉も同じ畑で育ったんですよね」
「そうだけど、人間と野菜を一緒にするつもり?」
「そこまでは言ってません」
「今、かなり近かったわよ」
「すみません」
悠斗が素直に謝ると、メアリーは小さく笑った。
◇
「でも、同じ畑の同じ種類でも味が違うっていうのは、ちょっと嫌な例えね」
「嫌ですか?」
「分かりやすすぎるから」
メアリーは苦笑したあと、しばらく皿へ視線を落とした。
「私、あの子が赤ん坊の頃からずっと一人で育ててきたの」
「旦那さんは?」
「六年前に病気で亡くなった」
「そうだったんですね」
「それからは、怪我させないように、困らせないようにって、そればっかり考えてきた気がする」
「一人で育てるの、大変だったんでしょうね」
「大変だったけど、それしかなかったからやっただけよ」
メアリーは静かに答えた。
◇
夫を亡くした時、リムはまだ五歳であり、葬儀が終わって数日後に娘が畑の端で転び、膝を擦りむいただけでも、メアリーは心臓が止まりそうなほど慌てた。
夫がいなくなったばかりだったからこそ、自分まで娘を守れなければ、この子には誰もいなくなるのだと思い、それからは危険になりそうなことをなるべく先に取り除くようになった。
刃物を使う仕事はさせず、重い収穫籠は持たせず、市場へ仕事で連れていくことも避けてきたが、娘が小さい頃には、それで困ることはほとんどなかった。
しかし十一歳になった今も、メアリーの中では「危ないものから遠ざける」という方法だけが、そのまま残り続けていた。
◇
「何歳から市場へ連れていくつもりなんです?」
悠斗が尋ねた。
「十三か十四くらい」
「どうしてその年なんです?」
「今より大きいでしょう」
「十三になったら、音に強くなる?」
「それは……分からないわ」
「荷車を避けるのは?」
「今よりは判断できると思う」
「今はできない?」
メアリーは即答できなかった。
娘は村の道を一人で歩き、畑の作業も覚えているため、荷車が来れば避ける程度の判断なら、すでにできるはずだった。
「できるとは思う。でも市場は別なの」
「じゃあ、一度短い時間だけ行ってみて、どこまで大丈夫か見る方法もあります?」
「試すってこと?」
「駄目そうなら帰る前提で」
◇
「わざわざ嫌な思いさせるかもしれないでしょう」
「本人は行きたいんですよね」
「そうだけど」
「なら、本人にも途中で帰る条件を決めてもらうとか」
メアリーは黙って考えた。
「耳が痛くなったら言う、怖かったら離れる、疲れたら休むって先に決めておけば、何も分からないまま長時間連れていくよりは試しやすいかもしれません」
「ずいぶん簡単に言うのね」
「俺、子ども育てたことないので」
「そこは本当に簡単に言うのね」
「すみません」
メアリーは思わず笑った。
◇
「でも、今まで一度も試してないのは本当ね」
「娘さんが平気だって言ってるのも、まだ確かめてない?」
「そうね」
「メアリーさんが苦手だったことと、娘さんが苦手なことは、同じところも違うところもあるんじゃないですか」
「たぶんね」
メアリーは残っていた煮込みを食べながら、同じ畑で育った苦葉菜でも、端の三列と中央では味が違ったことを思い出した。
だから娘も違う、などと単純に考えるつもりはないが、「同じ兎人族だから」という理由だけで、試す前から娘の感じ方まで決めていたことについては、少し考え直す必要があるように思えた。
◇
帰宅したのは夕方であり、リムは畑の端で苦葉菜を三つの籠へ分けていた。
「何してるの?」
「苦さで分けてる」
「二つじゃなかった?」
「普通、ちょっと苦い、すごく苦いにした」
「また食べたの?」
反射的に注意しかけたものの、メアリーは途中で声を止めた。
「洗った?」
「洗ったよ」
「一枚ずつ?」
「ほんの少しだけ」
「お腹変じゃない?」
「平気」
メアリーは娘の分けた籠を確認した。
◇
少しずつ味を見てみると、確かに三段階に分かれており、リムが感覚だけで適当に仕分けたわけではないことが分かった。
「ちゃんと違うわね」
「でしょう?」
「どうして分けたの?」
「すごく苦いのは売れないかもしれないけど、ちょっと苦いのなら普通のと混ぜないで売れるかなと思った」
「何に使うって?」
「肉と煮るとか」
メアリーは驚いた。
「どうして分かったの?」
「前にお母さんが、苦い野菜は脂のある肉と合うって言ってた」
「覚えてたのね」
「仕事覚えたいって言ってるじゃん」
リムは少しむくれた。
◇
「今日、持っていった葉っぱ、料理してもらったわ」
「どうだった?」
「白豆と鳥肉で煮たら食べられた。でも普通のと同じ売り方は難しいって」
「じゃあ、すごく苦い方は加工用?」
「そういう売り方なら試してもいいかもしれない」
「私の分け方、使える?」
「使えると思う」
リムの耳が少し立ち、その嬉しそうな反応を見たメアリーは、今まで娘が「手伝いたい」と言っていたのを、単に大人の真似をしたいだけのように考えていたことに気づいた。
◇
「リム」
「何?」
「次の市場の日、行ってみる?」
娘の表情が一瞬止まった。
「本当に?」
「最初から最後までは駄目。朝の荷下ろしが一段落した頃から、一刻くらいだけ」
「行く」
「まだ条件があるわ」
「何?」
「耳が痛くなったり、音が嫌になったりしたらすぐ言うこと。無理して平気なふりをしないこと」
「分かった」
「荷車の通路には勝手に出ない。お母さんが話してる途中でどこかへ行かない。疲れたら休む」
「分かったって」
「本当に?」
「お母さんの方が大丈夫?」
リムが聞いた。
◇
「何が?」
「市場の音」
思っていなかった質問に、メアリーは目を瞬いた。
「私は慣れてるわよ」
「でもいつも帰ってきたら耳揉んでる」
「見てたの?」
「見てるよ」
リムは自分の長い耳を軽く動かした。
「私よりお母さんの方が音苦手なんじゃない?」
「そんなこと……」
否定しかけたところで、メアリーは言葉を止めた。
市場へ行った日の夜、耳の付け根が重くなり、指で揉むことは確かに多かったため、慣れていることと平気であることは同じではなかった。
◇
「じゃあ、お母さんも嫌になったら休む」
「うん」
「何で私まで条件つけられるの」
「同じ兎人だから?」
リムが笑った。
「それ、今はちょっと嫌な言葉ね」
「何で?」
「何でもない」
メアリーも笑いながら、娘が分けた苦葉菜を市場用の籠へ移した。
◇
次の市場の日、メアリーは普段より少し早く荷物を運び込み、混雑が最も激しい時間を避けてから、村まで迎えの荷車を戻してもらった。
リムが市場へ着いた時には朝一番の荷下ろしはほぼ終わっていたものの、それでも通路には商人や客が行き交い、遠くでは魚商人の呼び声や金属桶を重ねる音が聞こえている。
「大丈夫?」
メアリーがすぐ尋ねた。
「まだ着いたばっかりだよ」
「でも音は?」
「聞こえる」
「痛くない?」
「痛くない」
「無理してない?」
「お母さん」
「何?」
「まだ三十歩くらいしか歩いてない」
リムは呆れた顔をした。
◇
メアリーはそれ以上質問するのを我慢し、自分の売り場へ娘を連れていった。
通常の苦葉菜とは別に、小さな札を立てた籠を一つ置いている。
《今年摘み・強苦味 肉・豆の煮込み向け》
価格は通常品より少し下げており、商品価値が低いからというより、使い方が限られる分だけ試しやすくするためだった。
「これ、私が説明していい?」
リムが尋ねた。
「最初は聞いてなさい」
「分かった」
メアリーはそう言ったものの、娘が客とのやり取りを真剣に見ていることには気づいていた。
◇
しばらくすると、年配の女性が苦葉菜の前で立ち止まった。
「強苦味って、どのくらい苦いの?」
「普通のものよりかなり強いです。一度茹でてから、豆か脂のある肉と煮ると食べやすくなります」
「炒め物には?」
「苦味が残りやすいと思います」
メアリーが説明すると、隣で聞いていたリムが小さく付け加えた。
「根玉葱を多くすると食べやすいです」
メアリーは娘を見た。
客もリムを見る。
「この子も作ったの?」
「うちの娘です。味の選別を手伝いました」
「そうなの」
女性は少し考え、強苦味の方を一束買っていった。
◇
「勝手に話してごめん」
客が離れたあと、リムが言った。
「次から一言言ってからにして」
「怒ってる?」
「怒ってない。でも客によって説明すること違うから」
「分かった」
「根玉葱の話はよかったわ」
「本当?」
「私も忘れてた」
リムは嬉しそうに頷いた。
その直後、近くの金物商が大きな箱を地面へ置き、甲高い金属音が響いたことで、メアリーの耳が反射的に伏せられた。
「大丈夫?」
今度はリムの方から尋ねた。
◇
「私は平気よ」
「耳下がってる」
「ちょっと音が大きかっただけ」
「休む?」
「そこまでじゃないわ」
「無理して平気なふりしないって約束だったよ」
自分が娘へ言った言葉をそのまま返され、メアリーは苦笑した。
「じゃあ、少し奥へ行きましょう」
売り場を隣の商人へ頼み、二人は市場の裏手にある静かな通路へ移動した。
「リムは平気なの?」
「ちょっとうるさいとは思う。でも痛くない」
「本当に?」
「本当」
メアリーは娘の耳の様子を見たが、緊張で固まっているようにも見えず、音へ怯えている様子もなかった。
◇
「お母さんの方が弱いね」
「認めたくないけど、そうみたい」
「同じ兎人なのに?」
「同じ兎人でも違うらしいわね」
メアリーがそう答えると、リムは少し得意そうに笑った。
「私、言ったじゃん」
「一回当たったくらいで調子に乗らないの」
「でも当たった」
「はいはい」
少し休んでから売り場へ戻ると、リムはその後も一刻ほど母の隣で客とのやり取りを見ており、帰る頃には疲れたとは言ったものの、耳の痛みや頭痛はなく、本人は次回も来たいと話した。
◇
それからメアリーは、毎回娘を市場へ連れていくようになったわけではなかった。
朝一番の荷車が集中する時間や、祭り前の極端に混雑する日については、今でも村へ残ってもらうことがある。
しかし理由を「兎人だから危ない」と一括りにするのではなく、その日の混雑や仕事の内容を説明し、リム自身にも判断材料を渡すようにした。
市場へ連れていく日には短い時間から始め、売り場の準備や客への簡単な説明を少しずつ任せ、畑でも食べ慣れている野菜の味見については、洗って状態を確認し、大量には口へ入れないという決まりを作ったうえで、選別の一部を任せるようになった。
刃物を使う作業についても、すべて禁止するのではなく、小さな収穫鎌の持ち方と、刃を自分や他人へ向けないための扱い方から教え始めた。
◇
もちろん、メアリーの心配が完全になくなったわけではなく、リムが鎌を持てば指を見てしまい、荷車の近くを歩けば距離を確認し、市場で大きな音が鳴れば真っ先に娘の耳を見てしまう。
そのたびにリムから「大丈夫」と言われることも多かったが、本当に危ない場面では母の注意を素直に聞くようにもなった。
ある日、市場の通路へ荷馬車が急に入ってきた時には、メアリーが何も言う前にリム自身が売り台の内側へ下がった。
「今のは危なかったね」
「ちゃんと見てたでしょう」
「見てた」
「じゃあ少しは信用して」
「少しずつね」
メアリーはそう答えた。
◇
苦味の強い苦葉菜についても、畑の使い方を少し変えることになった。
リムが分けた三段階の選別を参考にし、通常品として出すもの、強苦味として用途を明記して出すもの、人間用には向かないほど苦いものを分けるようにしたところ、強苦味の苦葉菜は大量に売れる商品ではないものの、豆料理をよく作る家庭や、脂の強い肉を扱う料理人から少しずつ注文が入るようになった。
メアリーは水はけの違いを確かめるため、翌年の作付けでは畑の端と中央で収穫時期を変えることも決め、その記録の一部を、今ではリムへ任せている。
◇
「ここ、昨日より葉の色濃いよ」
畑を歩きながら、リムが言った。
「どれ?」
「この三株」
メアリーが確かめると、確かに中央の株より少し濃い。
「水分は?」
「朝触った時は、こっちの方が乾いてた」
「じゃあ記録しておいて。明日また見ましょう」
「味も見る?」
「まだ小さいから今日は駄目」
「分かった」
以前なら、その一言のあとに「勝手に食べないで」「危ないから触らないで」と何度も付け加えていたが、今は一度伝えれば十分だと考えられるようになった。
◇
数週間後、メアリーはリムと一緒に《持ち込み食堂》を訪れた。
「この子が娘さん?」
悠斗が尋ねた。
「リムです」
「初めまして」
「お母さんが、ここで苦い葉っぱ料理してもらったって聞きました」
「かなり苦かったですね」
「私が分けたやつです」
「選別したんですね」
リムが少し誇らしそうに胸を張ると、メアリーは横から口を挟んだ。
「最初は勝手に味見してたんだけどね」
「ちゃんと洗ったよ」
「そこじゃないでしょう」
「今は決まり守ってるもん」
二人のやり取りを見て、悠斗は少し笑った。
◇
その日は、以前の強苦味より少しだけ穏やかな苦葉菜を持ってきていた。
「畑の水はけを変えたら、少し味が変わったの」
メアリーが説明する。
「じゃあ前より食べやすい?」
「そのまま炒められるか試したくて」
悠斗が一枚を味見すると、以前ほど舌へ強く残る苦味ではなかったため、油で焼いた鳥肉へ根玉葱を加え、そのまま刻んだ苦葉菜を炒め合わせた。
一度茹でなくても、肉の脂と根玉葱の甘さによって十分食べやすく仕上がった。
「《苦葉菜と鳥肉の香り炒め》です」
リムが最初に一口食べた。
「これ好き」
「苦くない?」
メアリーがすぐ尋ねる。
「苦いよ。でも美味しい」
「私は、まだちょっと強いわね」
◇
「同じ兎人なのに?」
リムが嬉しそうに言った。
「その言葉、気に入ってるでしょう」
「うん」
「味の好みまで違うみたいですね」
悠斗が言うと、メアリーは料理をもう一口食べた。
「本当に違うことばかりね」
「同じところもいっぱいあるよ」
リムが答えた。
「何が?」
「根玉葱好きなの一緒」
「そこ?」
「朝寝坊嫌いなのも一緒」
「それは好き嫌いじゃないでしょう」
「畑好きなのも一緒」
その言葉に、メアリーは少しだけ黙った。
◇
「そうね。それは一緒かもね」
メアリーが答えると、リムは満足そうに苦葉菜を食べ続けた。
同じ兎人族であり、同じ家で暮らし、同じ畑を見ながら育った母娘なのだから、似ている部分はいくらでもある。
だからといって、音の感じ方や苦味の好み、怖いものや挑戦したいことまで、すべて同じになるわけではないし、違うところがあることは、母娘として遠くなることでも、これまで教えてきたことが無駄になることでもなかった。
◇
食事を終え、二人は店を出た。
その日は市場へ寄ってから村へ戻る予定になっていた。
「今日、売り場の説明やっていい?」
リムが尋ねた。
「強苦味じゃない方なら、最初の二人だけね」
「三人」
「二人」
「じゃあ上手くできたら三人目」
「誰が上手いって決めるの?」
「お母さん」
「それならいいわ」
リムは嬉しそうに頷いた。
◇
大通りへ出たところで、近くを走っていた荷車が石へ乗り上げ、大きな音を立てた。
メアリーの耳が反射的に伏せられた一方、リムは少し肩を揺らしただけで、そのまま歩いている。
「お母さん、大丈夫?」
娘が尋ねた。
「ちょっと驚いただけ」
「休む?」
「今日は平気。でも市場に着いたら、少し静かなところ通りましょう」
「分かった」
メアリーは娘の手を取ろうとして途中で止め、人通りの多い道を歩くリムが周囲をきちんと確認していることを見て、今は無理に手を引く必要はないと判断した。
◇
メアリーは娘の少し隣を歩き、荷車が来れば一緒に道の端へ寄り、混雑した場所では声をかけながら進んだ。
守ることをやめたわけではなく、危険を見なくなったわけでもないが、自分が怖かったものを娘まで怖いはずだと決め、自分が失敗したかもしれないことを娘にもさせないよう先回りするだけでは、いつまでも本人が何をできるのか知ることはできない。
同じ兎人族であっても、同じ母娘であっても、できることや苦手なことは、本人を見ながら一つずつ確かめていけばいいのだと、今では考えられるようになっていた。
メアリーは市場へ向かって自分より半歩先を歩き始めたリムの背中を見ながら、危なくなった時に手を伸ばせる距離だけは保ちつつ、娘が自分で足を止めるべき場所と進める場所を一つずつ覚えていくのを、今度は先回りして止めるのではなく、必要な時にだけ声をかけながら隣で見守って歩いていった。
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