第39話 割れやすい木の実と、母を一人にできない郵便配達人
ハリー・バースは、母親を長い時間一人にしておくことが心配だから自分は夕方までに家へ戻っているのだと、ここ数年ずっと同じように考えてきた。
三十二歳になる彼は、レーヴェン市内と周辺の村を回る郵便配達人であり、東区にある郵便所へ朝早く出勤すると、その日に預かった手紙や小包を革鞄へ詰め、割り振られた経路を歩いて届けている。市内だけで終わる日もあれば、城壁の外まで足を延ばして農村をいくつも回る日もあり、雨や風が強いという理由だけで配達を止められる仕事ではないため、二十代の頃には数日がかりの遠方便へ出ることも珍しくなかった。
それでもハリーは、自分の仕事そのものを嫌いになったことはない。
遠方で暮らす息子から届いた手紙を受け取って目を細める老人や、仕入れ先からの注文書を待ち続けている商人、故郷から返事が届くたび封を何度も撫でる旅人の姿を見ていると、自分が運んでいるものは単なる紙ではなく、その向こうにいる誰かとのつながりなのだと思えるからだった。
ただし、どれほど仕事が忙しい日であっても、ここ数年のハリーは夕方になる前にできるだけ配達を終え、七十一歳になる母のオルガ・バースが待つ自宅へ戻れる経路を優先して選んでいた。
◇
「また西門外れの便、断ったのか?」
朝の仕分けをしている最中、隣で荷札を確認していた同僚の配達人が尋ねた。
「今日は市内便が残ってるからな」
「市内便って言っても、午前中で大半終わるだろ。午後の西便まで行けば追加手当が出るぞ」
「戻りが遅くなる」
「母ちゃんの夕飯か?」
「それもある」
ハリーは簡単に答えながら、手紙を地区ごとに分け、その日の順路に合わせて革鞄の中へ収めていった。
同僚はそれ以上強く勧めなかったものの、夕方前に戻れる仕事ばかりを選び続けていることについては、以前から気になっていたらしい。
「お前、それ毎回だな」
「何が」
「夕方までに帰れる仕事しか取らないだろ」
「悪いか?」
「悪くはないけど、来月から北村便の担当が一人抜けるって話、聞いてるだろ」
「聞いてる」
「あそこ、手当いいぞ」
「朝が早いし、戻るのも遅い」
「だから金がいいんだよ」
ハリーはそれ以上返事をせず、最後の封書を鞄へ収めて蓋を閉じた。
◇
北村便については、すでに郵便所の責任者からも正式に打診されていた。
レーヴェンから北へ延びる街道沿いの村を七つ回る経路であり、一日で往復できる日もあれば、荷量や天候によっては途中の宿へ一泊し、翌日に戻らなければならないこともある。
体力と経験が必要になる分だけ手当は良く、長距離経路を安定して担当できれば、将来的には地区主任への昇格にもつながりやすい。
父が亡くなる前の二十代半ばまでのハリーであれば、多少迷ったとしても最終的には引き受けていただろう。
当時は城壁外の長距離便にも何度も出ており、三日から五日ほど家を空ける仕事であっても、自分が戻る頃には次の便について考えているような生活を送っていた。
しかし父が七年前に病で亡くなり、母と二人暮らしになってからは、少しずつ日帰りの経路ばかりを希望するようになっていた。
◇
オルガは七十一歳という年齢の割には元気であり、腰に多少の痛みがあるため重い荷物を持って長距離を歩くことこそ難しくなっているものの、自分で料理も洗濯もでき、近所の市場へなら一人で買い物にも出かけられる。
医者から常に付き添いが必要だと言われているわけでもなく、家の中で日常生活を送る分には、息子の助けがなければ何もできない状態ではなかった。
それでもハリーには、父を亡くした直後に一人で家へ残された母の姿が、七年経った今でも強く残っている。
葬儀が終わった翌朝、仕事へ出ようとしたハリーへ、オルガは「気をつけて行っておいで」と普段と変わらない声をかけた。
ところがその日の夜に帰宅すると、母は明かりもつけないまま暗い食卓へ座っており、本人は少し考え事をしていただけだと言ったものの、ハリーには、三十年以上連れ添った夫を失ったばかりの母を一人にしたことが、ひどく残酷な行為のように思えた。
それ以降、遠方便へ出る回数を少しずつ減らし、気づけば夕方までに帰宅できることを前提に仕事を選ぶようになっていた。
◇
その日の配達を終えたハリーが自宅へ戻ったのは、夕刻よりかなり早い時間だった。
「ただいま」
普段なら台所か居間から母の返事が聞こえてくるはずなのに、家の中は妙に静かだったため、ハリーは靴を脱ぐより先に眉を寄せた。
「母さん?」
台所を覗いても姿はなく、居間から裏庭まで一通り確認しても母を見つけられなかったため、胸の奥へ嫌な感覚が広がった。
転んだのではないか、具合が悪くなって近所へ助けを求めたのではないかと考えながら玄関へ戻ろうとしたところで、外から扉が開いた。
「あら、早かったのね」
そこには紙袋を抱えたオルガが立っていた。
「どこ行ってたんだよ」
「市場だけど」
「一人で?」
「一人で市場へ行ったらおかしいの?」
「言ってから行ってくれよ」
「誰に?」
「俺に」
「あなた仕事だったでしょう」
オルガは、息子がなぜそんな顔をしているのか分からないというように見返した。
◇
「近所の誰かにでも言っておいてくれればいいだろ」
「どうして市場へ行くだけで、いちいち誰かへ報告しないといけないの」
「帰ってきた時にいなかったから、何かあったのかと思ったんだ」
「まだ夕方にもなってないじゃない」
「転んでたらどうする」
「今日は転んでないわよ」
「今日は、だろ。次も同じとは限らない」
ハリーの声が少し強くなると、オルガは抱えていた紙袋を卓へ置き、息子の方へ身体を向けた。
「ハリー、私が一人で市場へ行くの、そんなに嫌?」
「嫌とかじゃない。危ないって言ってるんだ」
「市場まで歩いて十分よ」
「年も年なんだから、少しくらい慎重にした方がいいだろ」
その言葉を聞いた瞬間、オルガの表情から先ほどまでの穏やかさが消えた。
◇
「七十一になったら、歩いて市場へ行くのに息子の許可がいるの?」
「そんなこと言ってないだろ」
「言い方を変えてるだけで、ほとんど同じじゃない」
「心配してるだけだ」
「その心配を理由に、私のすることまで先に決めないでちょうだい」
「何でも決めてるみたいに言うなよ」
「あなた、自分の仕事まで変えてるでしょう」
その言葉を聞き、ハリーは一瞬だけ口を閉じた。
「何の話だ」
「この前、郵便所のケインさんに会ったの。北の村を回る仕事をあなたに頼んだけど、断られたって言ってたわ」
「母さんには関係ない」
「私のせいで断ったなら、十分関係あるでしょう」
「母さんを何日も一人にできないからだよ」
「私は、毎日夕方までに帰ってきてほしいなんて頼んでないわ」
オルガは、怒鳴るのではなく静かな声で言った。
◇
「何だよ、それ」
「あなたが三日も四日も帰ってこなくていいって言ってるわけじゃない。でも、夕方までに必ず戻らないと私が困るって、誰が決めたの?」
「父さんが死んだ時――」
「七年前の話でしょう」
「母さん、あの時一人で真っ暗な部屋にいたじゃないか」
「覚えてるわよ」
「だったら、俺が家を空けたらまた――」
「あの日は、夫が死んだ次の日だったのよ」
オルガの声は大きくなかったが、その分だけ言葉の一つ一つがハリーにははっきり届いた。
「悲しくて、何もする気になれなくて、明かりをつけることすら忘れていただけよ。だからって、七年後まで毎日あなたに夕方前に帰ってきてほしいなんて、一度も言った覚えはないわ」
ハリーはすぐに何か言い返そうとしたものの、自分でも何を返せばいいのか分からなかった。
◇
「でも、あの時は一人だっただろ」
「そうね」
「寂しくなかったのか」
「寂しかったわよ」
「じゃあ、俺がいる方がいいだろ」
「寂しいことと、あなたの仕事まで縛ってほしいことは同じじゃないの」
オルガは椅子へ腰を下ろした。
「あなたが家にいてくれるのは嬉しいし、一緒に夕飯を食べるのも好きよ。でも、それを私が一人で何もできないから必要なんだって決められるのは嫌なの」
「そこまで言ってない」
「今日、市場へ行っただけで責めたでしょう」
「責めたんじゃない。心配したんだ」
「心配と監視は、近づきすぎると似てくるわよ」
ハリーは眉を寄せたものの、母が何を言いたいのか分からないとは言えず、そのまま黙った。
◇
その日の夕食では、いつもより会話が少なかった。
オルガが市場で買ってきた根菜と豆を煮込んだ料理を食べながら、ハリーは何度も母の言葉を思い返した。
自分は母を助けているつもりであり、夕方までに帰宅し、薪を運び、水桶が重ければ代わりに持ち、屋根の修理が必要なら自分で上がって直してきた。
休日にはまとめて買い物を済ませ、母が重い荷物を抱えて遠くまで歩かなくてもいいようにもしているため、そのどれもが間違っていたとは思わない。
ただ、自分が母を困らせたくないと考えて始めたことと、母自身が今も望んでいることが、本当に同じままなのかと考えると、自信を持ってそうだとは言えなかった。
最後に「何をしてほしい」と母へ尋ねたのがいつだったのかについても、どうしても思い出せなかった。
◇
翌朝、ハリーはいつもより少し早く郵便所へ入り、責任者のところへ向かった。
「北村便、まだ決まってないのか?」
「まだだ。何だ、気が変わったか?」
「いや……条件をもう少し聞きたい」
「今まで聞かなかったのか」
「大体しかな」
「来週までには決めたいところだ。お前なら道も知ってるし、経験もあるから助かるんだがな」
「一泊すること、どれくらいある?」
「月に二、三回くらいだろう。冬は雪次第でもう少し増えるかもしれん」
「毎日北へ出るわけじゃないんだよな」
「北村便は週三回で、それ以外は市内便か休みだ。連日泊まりになるような組み方はしない」
ハリーはそこで初めて、これまで自分の頭の中で考えていた北村便と、実際の勤務条件が少し違っていることへ気づいた。
自分の中では、北村便を引き受けることは母を何日も繰り返し一人にすることとほとんど同じ意味になっていたが、実際には毎日泊まりになるわけでも、何日も続けて家を空けるわけでもなかった。
◇
「来週まで待ってくれ」
「いいぞ」
「まだ引き受けるとは言ってないからな」
「分かってる。条件を聞いてから考えろ」
責任者はそれ以上急かすことなく、その日の配達袋をハリーへ渡した。
ハリーは鞄を肩へ掛けて市内へ出ると、午前中は南区から中央市場を回り、午後には西区へ入った。
いつもなら最短経路で配達を終え、そのまま自宅へ戻るところだったが、その日は一軒だけ不在の家があり、受取人が夕方には戻ると近所の住人から聞いた。
明日へ回すこともできたものの、中身は役所からの期限付き通知であり、できれば今日中に渡したかったため、ハリーはしばらく迷った末、近くで時間を調整して待つことにした。
◇
西区の路地を歩いていると、《持ち込み食堂》の看板が見えた。
郵便を届けたことは何度かあるため店の場所は知っており、夕方までまだ少し時間があるうえ、昼食も取っていなかったことから、ハリーは鞄の中にある手紙の状態を確認してから扉を開いた。
「いらっしゃいませ」
ミレイアが声をかけた。
「食事できる?」
「もちろんです。持ち込みはあります?」
「いや、仕事中だから何もない」
「大丈夫ですよ」
案内された席へ座ると、ハリーは革鞄を足元の、自分から常に見える位置へ置いた。
仕事柄、預かっている郵便物から不用意に目を離さないことだけは、長年の習慣になっている。
◇
しばらくして、悠斗が黄芋と鳥肉、それに根玉葱を使った温かい焼き料理を運んできた。
薄く切った黄芋を下へ敷き、炒めた根玉葱と鳥肉を重ねて焼き上げ、表面には少量の乳酪を溶かしてある。
「《鳥肉と黄芋の重ね焼き》です」
「助かる」
ハリーが最初の一口を食べると、黄芋の柔らかな甘さに根玉葱と鳥肉の旨味が重なり、空腹だった身体へ熱がゆっくり広がった。
「郵便の人ですよね」
悠斗が革鞄を見て言った。
「ああ。前にここにも何回か届けてる」
「ありがとうございます」
「礼を言われるようなことじゃない。仕事だからな」
そう答えながらも、ハリーは食べる手を止めなかった。
◇
「今日はまだ配達残ってるんです?」
「一件だけ。夕方に戻る相手を待ってる」
「それで時間調整ですか」
「そうだな」
「普段もこの時間まで外にいるんです?」
「いや、もっと早く帰ることが多い」
「仕事が少ない日を選んでる?」
「少なくしてる」
悠斗は少し首を傾げた。
「自分で経路を選べるんですか?」
「全部じゃないが、経験が長いから希望は出せる」
「じゃあ、早く帰れる場所を希望してる?」
「母親が家にいるからな」
「一緒に暮らしてるんですね」
「七十一だ」
年齢を口にした瞬間、ハリーは前日の言い争いを思い出した。
◇
「お元気です?」
「元気だよ。元気だから余計に困ることもある」
「どういう意味です?」
「一人で市場に行ったりする」
「元気なら行くんじゃないです?」
あまりにも普通の返事が返ってきたため、ハリーは思わず眉を寄せた。
「年寄りが転んだら大変だろ」
「それはそうですね」
「だから俺がいる時に買い物すればいい」
「お母さんは、それでいいって言ってるんです?」
ハリーはすぐには答えられなかった。
悠斗は少し待ったものの、それ以上無理に聞こうとはせず、厨房へ戻ろうとした。
「昨日、喧嘩した」
その背中へ、ハリーが自分から声をかけた。
◇
「母さんが一人で市場へ行って、それで俺が注意したら、仕事を母さんのために変えるなって言われた」
「仕事を変えてるんです?」
「遠い村を回る担当を頼まれてる。でも戻りが遅いし、一泊になる日もあるから断ってた」
「お母さんのために?」
「そうだよ」
「頼まれたんですか?」
「頼まれてない」
自分で答えた言葉が気に入らなかったのか、ハリーは少し苛立ったように水を飲んだ。
「でも、父親が死んでから母さん一人なんだ。俺まで何日も帰らなかったら、何かあった時どうする」
「近くに頼れる人はいない?」
「近所にはいる。叔父の家も歩いて十五分くらいだ」
「じゃあ、何かあった時に誰にも頼れないわけではない?」
「そういう問題じゃないだろ」
「すみません」
悠斗は素直に謝り、それ以上その部分を押すことはしなかった。
◇
「俺がやりたいからやってるんだ」
ハリーは、誰へ言い聞かせるでもないように続けた。
「早く帰るのも、重いものを持つのも、母さんが困らないようにしてるだけだ」
「それ自体が悪いとは思いません」
「じゃあ何だ」
「お母さんが実際に困ってることと、ハリーさんが困るはずだと思ってることが同じなら、たぶん問題ないんでしょうけど」
ハリーは悠斗を見た。
「違うって言いたいのか」
「俺には分からないです。お母さんに会ったこともないので」
「なら言うなよ」
「はい」
悠斗はそこで本当に話を止めたが、何気なく返されたその言葉だけは、食事を終えたあともハリーの中へ残った。
◇
《持ち込み食堂》を出たハリーは、予定していた家へ向かい、夕方に戻ってきた受取人へ無事に通知を渡した。
そこから自宅へ戻ると、いつもより一時間以上遅い時間になっていたため、扉を開ける前には少し身構えた。
しかし家の中では、オルガが普段と変わらない様子で夕食の支度をしていた。
「遅かったのね」
「配達が一件残った」
「そう」
「怒らないのか」
「どうして私が怒るの?」
「夕飯、いつもより遅くなるだろ」
「まだ作ってる途中よ。一時間くらいずれたって、私のお腹が消えてなくなるわけじゃないでしょう」
ハリーは何とも言えない顔で母を見たあと、昨日の話を避けるのをやめた。
◇
「母さん」
「何?」
「北村便、本当に俺がやってもいいと思ってるのか」
「昨日からそう言ってるでしょう」
「一泊する日もあるぞ」
「毎日じゃないんでしょう?」
「週三回の担当で、泊まりは月に二、三回くらいらしい」
「それなら、私が具体的に何に困ると思ってるの?」
「何かあったらどうする」
「何かって?」
「転ぶとか、具合が悪くなるとか」
「あなたが市内にいても、配達中ならすぐ帰れないでしょう」
「それはそうだけど」
「近所のマーサさんもいるし、あなたの叔父さんも近い。具合が悪ければ医者を呼ぶくらい、自分でもできるわ」
「本当に大丈夫か?」
そう聞かれたオルガは、鍋を混ぜていた手を止めた。
◇
「ハリー、私は『絶対に何も起こらないから大丈夫』って言ってるんじゃないの」
「じゃあ何だよ」
「何か起こるかもしれないし、転ぶことだってあるかもしれない。年を取れば、昨日できたことが明日できなくなることだってあるでしょうね」
「だったら、やっぱり俺が――」
「だから、その時に必要なことを一緒に考えてほしいって言ってるの」
オルガは鍋から離れ、椅子へ腰を下ろした。
「今の私は市場へ一人で行けるし、自分の食事も作れる。だったら今の私に必要なのは、まだ起きてもいないことを理由に、何もできない人として扱われることじゃないわ」
「でも俺は息子だぞ」
「知ってるわよ。三十二年前からね」
「心配するなって方が無理だろ」
「心配するのは勝手よ。でも、心配したからって私の生活まで先に狭くしないで」
ハリーは、すぐに返せる言葉を見つけられなかった。
◇
「父さんが死んだ時、母さんが本当に心配だったんだ」
「知ってる」
「一人で暗い部屋にいたのを見た時、俺まで家を空けたら駄目だと思った」
「そう思わせたなら、ごめんなさいね」
「謝ってほしいわけじゃない」
「私も、あの頃はあなたが早く帰ってくると安心してた。でも、七年ずっと同じ気持ちのままじゃないのよ」
オルガは少し困ったように笑った。
「あなたが長距離の仕事を減らしたの、最初の一年くらいはありがたかったわよ」
「その後は?」
「二年目くらいから、『この子、いつまで夕方前に帰ってくるつもりなんだろう』って思ってた」
「それなら言えよ」
「あなたが得意そうに薪を抱えて帰ってくるから、言いにくかったのよ」
「俺のせいかよ」
「私も言わなかったから、お互い様でしょうね」
二人はそこでようやく少し笑い、昨日から張っていた空気が少しだけ緩んだ。
◇
「じゃあ北村便、やってもいいのか」
「私に許可を取るみたいな聞き方をやめなさい」
「許可じゃなくて相談だよ」
「それなら、私は賛成。あなた、昔は遠くへ配達するの好きだったでしょう」
「覚えてたのか」
「帰ってくるたび、どこの橋が壊れてただの、どこの村で変な犬に追われただの、ずっと話してたじゃない」
「あれは犬じゃなくて牧羊獣だ」
「私には同じようなものよ」
「全然違う」
ハリーは久しぶりに、若い頃の長距離配達について母と笑って話した。
◇
ただし、北村便へ出ることを決める前に、二人は生活についても具体的に話し合った。
「一泊する可能性がある日は、前日に言って」
「それはもちろん」
「それから重い水桶は、私一人で無理なら近所へ頼むわ」
「俺が休みの日にまとめてやる方法もある」
「それでもいいけど、全部あなたがやる前提にはしないで」
「分かった」
「あと、冬になって道が凍ったら、市場へ行く回数は減らす」
「そこは俺が言おうと思ってた」
「私が先に言ったから、あなたが止めたことにはならないわよ」
「別に競ってない」
オルガは少し満足そうに頷き、話がまとまると再び夕食の支度へ戻った。
◇
翌日、ハリーは郵便所の責任者へ、まず試しとして北村便を引き受けたいと伝えた。
「本当にいいのか?」
「やってみる。ただし、最初の一か月は試しで頼みたい」
「家のことか?」
「それもあるし、俺自身が長距離から七年くらい離れてたからな。昔と同じつもりで始めて身体がついてこなかったら困る」
「それで構わん。無理なら経路を調整する」
正式な単独担当になる前に、まず二週間ほど前任者と一緒に道を回ることになった。
七年ぶりに長距離用の革鞄を物置から出すと、革は少し硬くなっていたものの、油を入れて手入れをすればまだ十分に使えそうだった。
「昔の鞄?」
オルガが懐かしそうに尋ねる。
「ああ」
「まだ持ってたのね」
「壊れてないのに捨てる理由ないだろ」
ハリーは革へ油を馴染ませながら、久しぶりに翌日の遠出を楽しみにしている自分へ気づいた。
◇
最初の北村便の日、ハリーは夜明け前に家を出た。
普段より多い郵便物を背負い、前任者と一緒に北門から街道へ出ると、最初の村までは二時間ほど歩き、そこから丘を越えて次の集落へ向かった。
久しぶりの長距離便は思っていた以上に身体へ負担があり、午前の終わりには肩や脚へ重さを感じたが、それでも市内の同じ路地を繰り返し回る仕事では見られなかった景色が次々と現れた。
以前よく休憩した道標や、七年前には古かった橋が新しく掛け替えられているのを見つけるたび、ハリーは少しずつ昔の感覚を取り戻していった。
四つ目の村では、十年以上前から知っている老人が彼の顔を見るなり声をかけてきた。
「お前、またこっち来るようになったのか」
「しばらく試しでな」
「若い頃より腹出たな」
「その手紙、持って帰るぞ」
「それは困る」
そんなやり取りまで以前と変わらず、ハリーは思わず笑った。
◇
初日は日帰りで、家へ着いた頃にはすでに日が落ちていた。
「ただいま」
「おかえり。遅かったわね」
「予定通りだ」
「分かってるわよ」
「何かあった?」
「何もない」
「本当に?」
「市場へ行って、マーサさんと昼を食べて、帰ってきて洗濯したくらいよ」
「市場へ行ったのか」
ハリーは反射的に何か言いかけたものの、途中で口を閉じた。
「何?」
「……いや。何もなかったならいい」
「ちゃんと少しは成長したじゃない」
「子ども扱いするな」
「あなたが先に私を子ども扱いしてたでしょう」
オルガは楽しそうに笑った。
◇
「夕飯は?」
「もう作ってあるわよ。温めれば食べられる」
「待ってなかったのか」
「お腹が空いたから先に食べたわ」
「そこは待ってくれてもいいだろ」
「帰る時間がはっきりしない人に合わせて空腹を我慢するのは嫌よ」
「ずいぶん自由だな」
「今さら気づいたの?」
ハリーは苦笑しながら、自分の分として残されていた鍋を火へ掛けた。
母が一人で夕食を済ませていたことに以前なら寂しさを感じたかもしれないが、その日は、自分が遅くなるからと空腹を我慢させなかったことに少し安心した。
◇
二週間の試行を終える頃には、ハリーも北村便の流れへ再び慣れていた。
問題になったのは、初めて一泊しなければならなくなった日だった。
朝から雨が続き、途中の川が増水したことで予定より進みが遅れ、責任者からも無理に帰らず街道沿いの宿へ泊まるよう指示が出た。
以前のハリーであれば、母のことが気になって何とかその日のうちに戻る方法を探していたかもしれない。
今回は同じ宿へ泊まる商人へ頼み、翌朝レーヴェンへ向かう荷馬車に短い伝言を託した。
《予定通り宿泊。明日夕方帰る》
自分でも驚くほど簡単な文面だったが、それ以上に書かなければならないことは思いつかなかった。
◇
翌日の夕方に帰宅すると、オルガは玄関先で小さな籠を整理していた。
「ただいま」
「おかえり」
「伝言届いた?」
「昼前にね」
「何かあった?」
「その質問、毎回するつもり?」
「最初の何回かくらいはいいだろ」
「何もなかったわよ。それより、面白いものを買ったの」
オルガは籠の中から、茶色い殻に包まれた木の実を一つ取り出した。
「何だそれ」
「《薄殻実》っていうらしいわ。近郊から来た行商人が売ってたのよ」
薄殻実は親指より少し大きな丸い木の実であり、表面の殻には細かな筋が走っていた。
「殻がすごく薄くて、運んでる途中でかなり割れちゃうんですって」
「そんな壊れやすいもの、よく買ったな」
「中身が美味しいって言うから」
◇
「割れてるのもあるじゃないか」
「だから安かったのよ」
籠の中を覗くと、確かにいくつかの殻には亀裂が入り、中身が少し見えているものまで混じっていた。
「傷んでないのか?」
「そこが分からないから、食堂へ持っていこうと思ってたの」
「一人で?」
ハリーはそこまで言ったところで、自分がまた同じことを言いかけていると気づき、言葉を止めた。
オルガが黙って息子を見る。
「……俺も休みだから、一緒に行く」
「それなら歓迎するわ」
母が満足そうに笑うのを見て、ハリーは少しだけ気まずそうに頭を掻いた。
◇
翌日の午後、休みだったハリーは、オルガと一緒に《持ち込み食堂》を訪れた。
「いらっしゃいませ」
ミレイアが二人を迎える。
「今日は持ち込みです」
オルガが籠を卓へ置くと、厨房から出てきた悠斗が中を確認した。
「木の実ですか?」
「《薄殻実》っていうらしいです」
「ハリーさんのお母さん?」
「そうだ」
「初めまして」
オルガは笑顔で頭を下げた。
「息子が前にここで食事したって聞いてね」
「余計なこと言うなよ」
「何が余計なの」
二人がいつもの調子で言い合うのを見ながら、悠斗は薄殻実を一つ手に取った。
◇
悠斗は、殻が割れていないものと、すでに亀裂が入っているものを分けていった。
「割れてるものは、いつ割れたか分からないんですよね」
「そうなの。行商人も、運んでる途中でかなり割れたって言ってたわ」
「じゃあ、中身を一つずつ見た方がよさそうです」
殻を開くと、中には淡い黄色の実が入っていた。
割れていないものからは乾いた甘い香りがあり、小さな亀裂だけのものも中身に異常はなかったが、殻が大きく開いていた一部には湿気を吸ったような柔らかさがある。
悠斗は匂いと表面を確かめ、その実だけを別へ避けた。
「これは使わない方がいいですね」
「割れてたら全部駄目なの?」
オルガが尋ねる。
「そうでもないです。亀裂が小さくて、中が乾いているものなら大丈夫そうなので、一つずつ状態を見て決めます」
ハリーは横から、その作業をじっと見ていた。
◇
「ずいぶん慎重に見るんだな」
「殻が中を守ってる食べ物は、割れたあとに状態が変わりやすいことがあるので」
「じゃあ、やっぱり割れない方がいいんだろ」
「運ぶ時だけ考えれば、そうだと思います」
「ほら」
ハリーが母へ顔を向けると、オルガは呆れたように眉を上げた。
「何が『ほら』なのよ」
「いや、別に」
悠斗は二人を見比べたものの、そこでは何も聞かなかった。
使える薄殻実を乾煎りすると、淡かった香りが少しずつ強まり、乳脂にも似た柔らかな甘い香りが立ってきた。
「このまま食べてもよさそうですけど、料理にします?」
「せっかくだからお願い」
オルガが答えた。
◇
悠斗は煎った薄殻実を粗く砕き、茹でて潰した黄芋へ混ぜ、炒めた根玉葱と少量の塩漬け肉を加えた。
全体を混ぜてから小さく丸め、平たく整えたものを鉄鍋へ並べ、表面に焼き色がつくまで両面をゆっくり焼いていく。
最後に砕いた薄殻実を少量だけ上から散らし、香ばしさが分かりやすいよう仕上げた。
「《薄殻実入り黄芋焼き》です」
オルガが最初に一口食べると、黄芋の柔らかな甘さの中へ、煎った木の実の香ばしさと軽い歯応えが入り、塩漬け肉の旨味が全体をまとめていた。
「あら、美味しい」
「本当だな」
ハリーも続いて一つ取り、思っていたより濃い木の実の風味に少し驚いた。
◇
「殻が薄くても、中身まで弱いわけじゃないのね」
オルガが言った。
「ただ、割れた後に悪くなってないかは見ないと駄目ですけどね」
悠斗が答える。
「全部もっと厚い殻なら、運びやすいのにな」
ハリーが何気なく言うと、オルガはすぐに笑った。
「まだそれ言ってる」
「何だよ」
「薄い殻だから危ないって決めたいんでしょう」
「今は木の実の話だろ」
「あなた、私のことも似たように思ってるじゃない」
ハリーは黄芋焼きを持ったまま、しばらく母を見た。
「またその話か」
「せっかく一緒に来たんだから、少しくらいしたっていいでしょう」
オルガはまったく遠慮する様子がなかった。
◇
「この子、私が七十一だからって、何かあったらすぐ壊れる壺みたいに扱うのよ」
「壺扱いなんてしてない」
「市場へ行くだけで心配するでしょう」
「それは今、直してる途中だ」
「最近は少しましになったわね」
「母さんだって無茶するだろ」
「無茶をしてるなら止めればいいのよ。市場へ行くこと自体を無茶だって決めないで」
悠斗は二人の前へ追加の皿を置きながら、口を挟まず聞いていた。
「店主さんはどう思う?」
突然オルガから振られた悠斗は、少し困ったように二人を見た。
「俺ですか?」
「そう」
「お二人の普段の生活を知らないので、どこまでが本当に危ないのかは分からないです」
「この人、前もそうだった」
ハリーが少し呆れたように言った。
◇
「ただ、今日の木の実についてなら、全部を同じ扱いにはしませんでした」
悠斗は、料理へ使った実と、状態が悪くて避けた実を示した。
「殻が割れてないから必ず大丈夫とも言えませんし、小さな亀裂があるから全部捨てるわけでもなく、中身を見て決めました」
「人と木の実を一緒にするなよ」
「それはそうですね」
悠斗がすぐに認めると、オルガが楽しそうに笑った。
「でも私は気に入ったわ。年齢だけ見て全部危ないって決められるより、その日にできることを見てもらった方がいいもの」
ハリーは反論しかけたものの、母の言葉を途中で遮ることはせず、そのまま料理へ視線を落とした。
◇
「俺は、母さんに怪我してほしくないだけだ」
しばらくして、ハリーが言った。
「知ってるわよ」
「父さんが死んだ時みたいに、一人でつらい思いしてほしくない」
「それも知ってる」
「だったら、少しくらい心配させろよ」
「心配するなとは言ってないでしょう」
オルガは息子の顔を見た。
「心配して、聞いて。それから私が『今は大丈夫』って言った時は、その言葉も聞いてちょうだい」
「それで本当は無理してたら?」
「その時は止めていいわよ」
「どこからが無理か判断するの、難しいな」
「人間なんだから、毎回きれいに線を引けるわけないでしょう」
その答えを聞き、ハリーは少し困ったように笑った。
◇
北村便の試行期間が終わったあと、ハリーは正式に担当を引き受けた。
週に三回北へ向かい、一泊する可能性がある日は事前に母へ伝え、天候が悪くなりそうなら近所の知人にも一言だけ知らせておく。
オルガも、重い買い物をする日は無理に一人で運ばず、息子の休日へ合わせるか、近所の知り合いへ頼むようになった。
ただし、小さな買い物や友人宅へ出かける程度のことについては、ハリーへ逐一許可を求めることはしない。
最初のうちは、帰宅して母がいないと胸がざわついたものの、卓の上に「マーサさんのところへ行ってくる」と書いた紙を見つければ、以前のように慌てて探し回らず、自分の夕食を用意しながら帰りを待てる程度には慣れていった。
◇
北村便を始めて二か月ほど経った頃、郵便所では次の地区主任候補を選ぶ話が出た。
「ハリー、お前も候補に入れるぞ」
責任者が言った。
「俺が?」
「北便の遅配が減ってるし、新人にも道を教えてるだろ」
「主任になったら仕事増えるよな」
「少しな。ただ、毎日机に座るわけでも、毎日長距離へ出るわけでもない」
以前なら、母のことを考えた時点で仕事内容を詳しく聞かず断っていたかもしれない。
今回はすぐに返事をせず、勤務日数や配達へ出る回数、遅くなる日の頻度まで一つずつ確認した。
「返事、いつまで?」
「十日後」
「分かった。それまで考える」
ハリーは、母がどう思うかを先に決めることなく、まず自分がその仕事をしたいのか考えるために話を持ち帰った。
◇
その夜、ハリーは食卓で母へ話した。
「主任候補になった」
「よかったじゃない」
「まだ決まってない」
「やりたいの?」
「そこを考えてる」
「私のことじゃなくて?」
ハリーは少し黙ったあと、頷いた。
「今回は、まず自分がやりたいかどうかを考えてる」
「それならいいわ」
「もし主任になったら、帰りが遅い日は少し増える」
「分かった」
「本当にそれだけ?」
「何を言ってほしいの」
「いや……前なら、俺が勝手に母さんが困るって決めて断ってたから」
「今は勝手に断らないんでしょう?」
「ああ」
「だったら、あなたがやりたいかどうかまで私が決める必要はないわ」
オルガは豆を皿へ取りながら、いつも通りの調子で答えた。
◇
ハリーはそれから十日間、自分の仕事について考えた。
長距離便を再び始めてみると、若い頃に好きだったものが今も自分の中へ残っていることが分かった。
道を覚え、新人へ安全な渡河地点を教え、天候を見て経路を調整することにも面白さを感じる一方で、自分が毎日机へ座り、他人へ指示だけを出す仕事をしたいわけではないとも思った。
責任者へ詳しく聞くと、地区主任になっても週の半分ほどは配達へ出られるというため、ハリーはその条件ならやってみたいと考え、候補を受けることにした。
母のためにやりたい仕事を諦めることもせず、反対に母のせいへして何かを選ぶこともせず、自分がどうしたいのかを考えて決めたのは、思えば随分久しぶりのことだった。
◇
数日後、休みの日にオルガと市場を歩いていたハリーは、以前薄殻実を売っていた行商人を見つけた。
「また買う?」
オルガが尋ねる。
「母さんが食べたいなら」
「あなたは?」
「俺も嫌いじゃない」
「じゃあ半袋くらいにしましょうか」
オルガが買おうとすると、ハリーは籠の中の実をいくつか手に取り、殻の亀裂や湿り気を確認した。
「何してるの?」
「割れ方を見てる。大きく開いて中まで湿ってるのは避けた方がいいだろ」
「食堂で覚えたの?」
「何でも安いからって買えばいいわけじゃないからな」
「ちゃんと学んでるじゃない」
ハリーはそう言いながら、殻が閉じているものと、小さな亀裂だけで状態のよさそうなものを選んだ。
◇
帰り道では、オルガがいつもより少しゆっくり歩いていた。
ハリーはその変化に気づいたものの、すぐに腕を取ったり、歩くのをやめさせたりすることはしなかった。
「疲れた?」
「少しね」
「ここで休む?」
「次の角に椅子があったでしょう。そこまでなら歩けるわ」
「分かった」
以前であれば、疲れたと聞いた瞬間に荷物をすべて持ち、腕を支え、市場へ来たこと自体を責めるところまで一気に進んでいたかもしれない。
今は、母が自分で次の角まで歩くと言うなら隣を歩き、必要だと言われた時に手を貸せばいいと考えられるようになっていた。
角の休憩椅子へ着くと、オルガは腰を下ろし、ハリーも隣へ座った。
◇
「今日はちょっと足が重いわ」
「次から荷物が多い時は、俺がいる日にした方がいいな」
「今日はあなたがいるでしょう」
「そうだったな」
「だから、いつもより多く買ったのよ」
「なら最初から荷物持たせろよ」
「行きはまだ持てたからいいの」
「今は疲れてるだろ」
「帰りは持って」
「分かった」
ハリーは母の籠を受け取った。
助けることそのものを拒まれていたのではなく、いつ、何を手伝ってほしいのかまで母自身が決めたいだけなのだと、今では以前よりよく分かる。
◇
その日の夕方、二人は買ってきた薄殻実を少量持って《持ち込み食堂》へ立ち寄った。
「また薄殻実ですね」
悠斗が言う。
「今度は最初から状態を見て買った」
ハリーが籠を卓へ置いた。
「割れてるのも少しありますけど」
「小さい亀裂だけで、中が湿ってなさそうなやつを選んだ」
「じゃあ確認してみますね」
悠斗が殻を開いて一つずつ確かめたところ、今回持ち込んだ実はほとんど問題がなかった。
そこで乾煎りした薄殻実を粗く砕き、鳥肉と根玉葱の炒め物へ加え、前回よりも木の実そのものの香ばしさが分かりやすい一皿へ仕上げた。
◇
「北の仕事、続いてるんです?」
悠斗が尋ねた。
「ああ。今度、地区主任の候補にも入った」
「すごいですね」
「まだ候補だ」
「お母さんはどう思ってるんです?」
「本人に聞けよ」
ハリーがそう返すと、オルガが笑った。
「私は応援してるわよ。ただし、主任になって疲れて帰ってきたからって、私に八つ当たりしなければね」
「しないよ」
「昔、若い頃に一回したでしょう」
「いつの話だよ」
「二十六の頃」
「よく覚えてるな」
「母親ですもの」
二人のやり取りを聞きながら、悠斗も少し笑った。
◇
食事を終えて店の外へ出ると、夕暮れの街には仕事を終えた人々が行き交っていた。
オルガは自分の籠を持とうとしたものの、その日は市場を長く歩いて少し足が疲れているため、ハリーが先に受け取った。
「これは持つぞ」
「お願い」
「明日は市場へ行く?」
「行かないわ。マーサさんが来るから家にいる」
「明後日は俺、一泊になるかもしれない」
「さっき聞いたわ」
「何かあったら叔父さん呼べよ」
「分かってる」
「無理に重いもの持つなよ」
「そこまでにしておきなさい」
「……分かった」
ハリーは言いたくなった言葉をもう一つ飲み込み、母の歩幅へ合わせて歩き始めた。
◇
母を心配する気持ちがなくなったわけではなく、おそらくこれから先、オルガがさらに年齢を重ねれば、実際に心配しなければならないことは少しずつ増えていく。
今は一人で歩ける市場への道が何年か後には難しくなるかもしれず、料理や掃除についても、いつか誰かの手を借りなければならない日が来る可能性はある。
その時には、その時の母の状態を見ながら、何を自分で続け、何を人へ頼み、ハリーがどこまで手伝うのかを改めて話し合えばいい。
まだ起きていない未来の不安を理由に、今できていることまで先回りして取り上げる必要はなく、逆に母が大丈夫だと言ったからといって、何も見なくていいわけでもない。
心配なら尋ね、必要なら手を貸し、危険だと思えばその理由を伝えたうえで、相手の言葉も聞けばいいのだと考えたハリーは、母から預かった籠を片手に持ち、自分より少しゆっくりになった歩幅へ自然に合わせながら家までの道を進み、翌朝には再び、自分で選び直した北の配達路へ向かうつもりでいた。
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