第38話 ほどけた縫い目と、家族の頼みを断れない仕立屋
リサ・メーベルは、家族から頼まれた仕事に代金をつけることを、見知らぬ客から料金を受け取るよりも、ずっと難しいことだと思っていた。
三十五歳になる彼女は、レーヴェン南区の商店街で《銀糸針房》という仕立屋を営んでおり、普段着の裾直しから旅装の補強、宿屋の従業員服、商人が使う上着の仕立てまで、幅広い仕事を一人で引き受けている。店の奥には大きな裁ち台が置かれ、壁際の棚には染め上げた布や替え糸、革紐、留め具などが細かく分けて並んでおり、どの材料がどこにあるのかは、暗がりでも手を伸ばせば分かるほど身体へ染みついていた。
手が早く、縫い目も丁寧で、急ぎの修繕にも可能な範囲で応じるため、近所では頼りになる仕立屋として知られているが、その評判の裏側には、リサ自身がほとんど誰にも話していない困り事があった。
客から受けた注文についてなら、納期も料金も必要な材料もきちんと決められるのに、親族から「ちょっと直してほしい」と頼まれた途端、その仕事だけが何となく帳簿の外へ追い出され、空いているはずの時間へ押し込まれてしまうのである。
◇
「姉さん、これ今日の夕方までに直せる?」
朝の開店準備をしていたリサの前へ、二歳下の弟カイルが一枚の上着を差し出した。
市場で荷運びの仕事をしている彼の作業着は、右袖の縫い目が大きく裂けており、肘の近くには布そのものが薄くなった部分まで見えているため、単純に破れたところを縫い合わせるだけでは、数日も経たないうちにまた裂ける可能性が高かった。
「今日?」
「明日の朝から使いたいんだ」
「予備は?」
「洗ってて乾いてない」
「じゃあ今夜取りに来る?」
「できれば仕事帰りに欲しい」
リサは返事をする前に、裁ち台の上へ置かれている注文票へ目を向けた。
今日中に仕上げなければならない客の仕事が三件あり、午後には宿屋から椅子張り用の布端処理まで持ち込まれる予定になっているため、予定通り進んだとしても余裕が多い日ではなかった。
「夕方は難しいかも」
「そこを何とか頼むよ。姉さんならすぐでしょ」
その言葉を聞いた瞬間、リサの眉がわずかに動いた。
◇
「すぐって、見た目ほど簡単じゃないよ。縫い目だけじゃなくて布も薄くなってるから、内側から補強しないとまた破れる」
「じゃあ補強も頼む」
「今ので仕事増えてるからね」
「家族なんだから、そのくらいいいだろ」
カイルは悪びれた様子もなく笑ったため、リサは腹の底に小さな苛立ちが生まれるのを感じたものの、弟が明日の朝からその作業着を本当に必要としていることも分かっていた。
「分かった。ただし夕方ぎりぎりになるかもしれないからね」
「助かる。さすが姉さん」
「次からは、こんなに破れる前に持ってきて」
「覚えてたらね」
弟は軽い調子でそう言い残し、店の外へ出ていった。
リサは裂けた袖を裁ち台の端へ置きながら、自分が断れなかったことよりも、弟が「頼めばやってくれる」と疑っていないことの方へ、少し強い疲れを感じていた。
◇
弟の上着を置いて間もなく、今度は店の裏口が開いた。
「リサ、いる?」
入ってきたのは、母の妹にあたる叔母のベティだった。
「いるけど、今日は忙しいよ」
「そんなに時間かからないから」
叔母がそう言いながら袋を開いた時点で、リサには嫌な予感がしていた。
中から取り出されたのは、食卓へ掛けるための大きな布であり、四辺のうち二辺では端の糸がかなりほどけている。
「端がほつれてきたの。今度の日曜に親戚が集まるから、その前までに直してほしくて」
「日曜なら、まだ四日あるけど」
「そうそう。だから急ぎじゃないでしょ」
「急ぎじゃないなら来週でもいい?」
「日曜に使うって言ったじゃない」
「それなら日曜より前に必要なんだから、十分急ぎじゃない」
リサがそう返すと、叔母は少し不思議そうな顔をした。
◇
「だって四日もあるんだから、仕事の合間にできるでしょう?」
「その四日間にも客の注文が入ってるんだよ」
「でも布の端だけよ」
「一周全部でしょう?」
「そうだけど、リサなら早いじゃない」
また同じ言葉だった。
何年も針を持ち、布の癖や糸の張りを覚え、迷わず手を動かせるようになったからこそ短い時間で終えられる仕事なのに、その技術によって時間を縮められるほど、家族の中では「簡単なこと」として扱われやすくなる。
「置いていくからお願いね」
「待って、まだやるって――」
「日曜に取りに来るわ」
叔母はリサの返事を最後まで聞かずに布を置き、そのまま店を出ていった。
リサは閉じた扉をしばらく見つめたあと、裁ち台に増えた二つ目の無償仕事へ視線を落とし、朝のうちから予定が崩れ始めていることを意識した。
◇
午前中のうちに、常連客から預かっていた旅用外套の修繕を終え、昼前には商家の娘から頼まれていた袖丈直しへ取りかかったところまでは、予定通りに進んでいた。
ところが昼になる頃には、裁ち台の端へ置かれた弟の作業着が視界へ入るたびに、夕方までに直さなければならないという意識が頭から離れなくなった。
客から代金を受け取っている仕事を途中で止めるわけにはいかないため、リサは昼食を後回しにし、袖丈直しをいつもより早い手つきで仕上げた。
縫い目そのものに問題はなかったが、最後の確認をしている途中で糸端が一か所だけ長く残っていることに気づき、すぐに鋏で切り直した。
普段ならほとんどしない見落としであり、次に何を終えなければならないのかを常に考えながら手を動かしていたせいで、確認へ回す集中力まで削られていることを、リサ自身も認めざるを得なかった。
◇
午後になると、予定通り宿屋から椅子張り用の布が届いた。
「明日の昼まででいいんですよね」
「そう。十脚分だから、無理なら二日に分けてもいいよ」
持ち込んだ宿屋の女将は、布の束を置きながら言った。
「二日でもいいんですか?」
「椅子は半分ずつ入れ替えるから、急がなくても困らないよ」
「分かりました。じゃあ明日五脚分、残りは明後日にします」
「それで十分。無理して全部やらなくていいからね」
リサは注文票へ二日に分けた納期を書き込みながら、客とはこうして普通に相談できるのだと、改めて思った。
急ぎかどうかを確かめ、無理なら日程を分け、料金も仕事量に応じて決めることができるのに、家族から頼まれた仕事だけは、その確認すらしないまま「何とかする」と引き受けてしまうことが多かった。
◇
夕方近くになり、リサはようやく弟の作業着へ取りかかった。
裂けた部分を縫い合わせるだけでは、荷物を持ち上げた時に再び力がかかってしまうため、内側から別布を当て、肘を曲げても引っ張られにくいよう少し余裕を持たせながら補強していく。
見た目だけなら小さな修繕でも、作業着としてもう一度安全に使える状態へ戻すには、それなりの手間と時間が必要になる。
予定より仕事が押していることに気づき、リサが無意識に手を速めた瞬間、針先が左手の人差し指へ深く刺さった。
「っ……」
反射的に手を引くと指先へ赤い血が膨らんだため、布へ落とさないよう慌てて手を離し、端布を使って傷口を押さえた。
仕事を続けられないほどの怪我ではなかったものの、焦って針を動かしていたことだけは明らかであり、リサはしばらく傷口を押さえたまま、深く息を吐いた。
◇
少しして弟のカイルが店へ現れた。
「できた?」
「今、終わったところ」
「助かった」
カイルは上着を受け取り、袖を通して肘を何度か曲げ伸ばしした。
「前より丈夫そうだな」
「薄くなってたところにも布を当てたからね。しばらくは大丈夫だと思う」
「さすが姉さん」
弟は満足そうに笑ったあと、そのまま帰ろうとした。
「待って」
「何?」
リサは一度呼び止めたものの、材料代だけでも払ってほしいという言葉を口に出そうとした瞬間、家族相手に金の話をすることが妙に冷たいことのように感じられた。
「……何でもない」
「じゃあまたな」
弟が扉を閉めると、リサは結局言えなかった言葉を飲み込み、自分が使った補強布と糸の量を見ながら、また帳簿に残らない仕事が一つ終わったのだと考えた。
◇
その日の閉店後、リサは叔母から預かった食卓布を裁ち台いっぱいに広げた。
日曜まではまだ時間があるため、今夜やる必要がないことは自分でも分かっている。
それでも目の前に未完成の仕事があると落ち着かず、少しだけ進めておけば明日が楽になるという理由をつけて、結局針を手に取った。
一周すべての端を処理するとなれば二時間近く必要になるため、今夜は半分だけと決めて始めたものの、きりのいいところまで進めようとしているうちに、店の外は完全に暗くなっていた。
手を止めた頃には肩が重く、昼食を抜いたせいもあって空腹が強くなっており、自宅へ戻ってから料理を作る気力までは残っていなかった。
そこでリサは外套を羽織り、どこかで温かいものを食べてから帰ることにした。
◇
南区から西区へ向かう途中、以前客から聞いたことのある《持ち込み食堂》の看板が目に入った。
店の前を通ったことは何度かあったものの、中へ入るのは初めてだった。
手に食材を持っていないことへ気づいたが、持ち込みなしでも普通に食事ができると聞いていたため、そのまま扉を開けた。
「いらっしゃいませ」
ミレイアに迎えられ、リサは空いている卓へ案内された。
「持ち込み、ないんだけど大丈夫?」
「もちろんです」
「じゃあ、すぐ食べられるものがいい」
「かなりお腹空いてます?」
「昼、食べてない」
「それなら店主に早めに作ってもらいますね」
椅子へ座ったリサは、その日初めて、針も布も持たずに両手を膝の上へ置き、ようやく肩から力を抜いた。
◇
しばらくして、悠斗が温かい皿を運んできた。
黄芋と白豆、それに小さく切った鳥肉を煮た料理で、根玉葱の甘さと肉の旨味を使い、疲れている時でも食べやすいように味は強くしすぎていない。
「《鳥肉と白豆の黄芋煮》です」
「ありがとう」
リサが匙を入れて一口食べると、柔らかく煮えた黄芋が舌の上でほどけ、白豆の穏やかな味へ鳥肉の脂と根玉葱の甘さが重なった。
何口か食べているうちに、ようやく自分が思っていた以上に空腹だったことへ気づいた。
「昼、かなり忙しかったんです?」
悠斗が尋ねた。
「仕事が詰まってて」
「仕立屋さん?」
「分かる?」
「指に針跡が多いので」
リサは言われて自分の手を見た。
◇
「《銀糸針房》って店をやってる」
「聞いたことあります。旅用の服を直してもらったら、かなり丈夫になったって話していたお客さんがいました」
「誰だろ」
「冒険者だったと思います」
「その人なら何人もいるから分からないね」
リサは少し笑い、そのまま食事を続けた。
「今日は急ぎの仕事が多かったんです?」
「客の仕事は、そこまででもなかったんだけどね」
「じゃあ、別の仕事が入った?」
「家族の頼み」
そう答えた瞬間、自分でも分かるくらい声へ疲れが混じった。
◇
「弟の作業着を今日中に直して、叔母の食卓布を日曜までに仕上げることになった」
「それも注文なんですか?」
「注文と言えば注文だけど、お金はもらってない」
「材料代も?」
「今のところはね」
「そういう頼み、よくあるんです?」
「家族だから」
リサは反射的にそう答えたあと、自分で少し考え直した。
「……かなりよくある」
「困ってる?」
「困ってるって言ったら、家族を助けたくないみたいじゃない」
「助けたいんです?」
「それは助けたいよ」
「じゃあ、何が一番嫌なんでしょう」
悠斗は自分の答えを先に置くことなく、ただそう尋ねた。
◇
「頼まれること自体は嫌じゃないんだと思う」
リサは匙を持ったまま、少し考えながら話し始めた。
「弟の作業着だって、本当に必要なら直してあげたいし、叔母の布も日曜に使うなら間に合わせてあげたい。でも、みんな私が仕立屋だから、簡単にできると思ってる」
「仕事として見てもらえてない感じ?」
「たぶんね」
「家族だから、少しくらい手伝うのは普通だと思ってる?」
「私もそう思ってる」
「その少しくらいが、どこまでなのかは決めてます?」
そう尋ねられると、リサはすぐには答えられなかった。
◇
「弟さんの作業着は、どれくらいかかりました?」
「補強まで入れて四十分くらい」
「叔母さんの布は?」
「全部やれば二時間はかかる」
「他にも、家族から頼まれることはある?」
「母の服の裾とか、従姉妹の子どもの上着とか、親戚が集まる前は特に増えるね」
「一か月で何時間くらい?」
「数えたことない」
「帳簿には書かないんです?」
「客じゃないから」
悠斗は少し考えたあと、静かに尋ねた。
「じゃあ、リサさん自身も、どれくらい時間を使ってるか正確には分からない?」
「……そうなるね」
リサはそこで匙を止めた。
◇
「客の注文なら、全部書くんだけどね」
「納期も?」
「もちろん。料金も材料も全部記録する」
「家族の分は?」
「空いてるところでやる」
「空いてなかったら?」
「夜に回す」
「今日みたいに?」
「そう」
悠斗はそれ以上すぐには何も言わなかったが、リサは自分が口にした言葉を聞き返すように考えた。
家族の仕事は帳簿へ書かず、予定にも正式には入れないまま、それでも実際には客の仕事と同じように自分の時間と手を使っている。そのため、予定表の上では余裕があるはずなのに、夕方になる頃には仕事が押し、最後には食事や睡眠の時間を削って埋め合わせることになっていた。
◇
「料金を取れば全部解決するって話じゃないよ」
リサが先回りするように言った。
「そうですね」
「家族相手に毎回きっちり代金を請求したいわけじゃないし、母の服をちょっと直すだけで金を取るのも違うと思う」
「なら、取らない仕事があってもいいんじゃないですか」
「それじゃ今までと同じじゃない」
「料金と、いつやるかを別に考えることはできません?」
リサは悠斗を見た。
「どういうこと?」
「無料で直すとしても、仕上げる日まではリサさんが決めるとか」
「家族が急いでたら?」
「本当に急いでるなら、その時に予定を見て相談する?」
「簡単に言うね」
「仕立屋じゃないので、そこは簡単にしか言えません」
悠斗は少し笑った。
◇
「弟さんの作業着は、本当に今日じゃないと困ったんですよね」
「明日の朝に使うからね」
「なら、その仕事を急ぎとして引き受けたこと自体は、リサさんも納得してる?」
「うん」
「叔母さんの食卓布は?」
「日曜まで」
「今日の夜にやらなくても間に合う?」
「それはそうだけど、後に残すのが嫌で」
「じゃあ、そこは叔母さんが今日やれと言ったわけじゃなくて、リサさん自身が今日やろうとした?」
そう言われると、リサは少し顔をしかめた。
「……そういうことになるね」
「家族から頼まれた時点で、全部なるべく早く終わらせなきゃと思う?」
「断ったり待たせたりすると、冷たいと思われそうで」
「実際に言われたことがあるんですか?」
「あるよ」
リサは視線を少し落とした。
◇
数年前、従姉妹から祭り用の服を直してほしいと頼まれたことがあった。
その時は客から受けていた注文が立て込んでいたため、祭りの前日までには間に合わないと断ったところ、従姉妹から「仕事の客にはやるのに、家族には冷たいね」と冗談半分に言われた。
相手は深い意味で言ったわけではなかったのかもしれないが、その一言だけは妙に残った。
家族なのだから助けるべきだという期待と、仕事なのだから代金を受け取っている客を優先するべきだという責任の間で、どちらを選んでも誰かをがっかりさせるような気がして、それ以降のリサは、頼まれた家族仕事をなるべく早く片づけることで両方を成立させようとしてきた。
結果として、そのために削られていたのは、自分の食事や休息の時間だった。
◇
「その従姉妹、かなり怒ってたんです?」
「少し不満そうではあったと思う」
「その後は?」
「次の年も普通に頼んできた」
「じゃあ、その一回で関係が壊れたわけではない?」
「壊れてないよ」
「なら、待ってもらうことって、リサさんが思ってるほど大きなことじゃなかったのかもしれませんね」
「そこまで大げさな話じゃないでしょ」
「そうですね。ただ、家族じゃなくなるほどのことでもなかった」
悠斗がそう言うと、リサはしばらく黙った。
「でも、頼まれたら助けたい気持ちはあるんだよ」
「そこは変えなくていいんじゃないですか」
◇
「助けるかどうかと、いつやるかを分けるってこと?」
「例えばですけど」
「料金を取るかどうかも?」
「それも別で決めればいいのかなって」
リサは、これまで家族から頼まれた時のことを順番に思い返した。
今までは、家族から仕事を持ち込まれた時点で、「無料で、なるべく早く、できれば相手の希望通りに」という条件まで一緒に引き受けていた。
しかし、無料でやることと当日中に仕上げることは同じではなく、家族を助けることと、すでに受けている客の納期を圧迫することも同じではない。
「なんか、すごく当たり前のことを言われてる気がしてきた」
「俺もそんな気がします」
「そこは否定してよ」
リサは苦笑しながら、残っていた煮込みを食べ終えた。
◇
食事を終えて店へ戻ると、裁ち台の上には、叔母の食卓布が半分だけ縫い終わった状態で残っていた。
いつもなら、そのまま続きを始めていたかもしれない。
しかし砂器を見れば、すでに夜はかなり進んでおり、日曜までにはまだ三日あるうえ、明日の客の注文にも余裕がある。
リサは縫い針へ手を伸ばす代わりに、まず帳簿を開いた。
普段なら記録しない家族からの頼みを、初めて客の仕事と同じ予定欄の下へ書き足していく。
《カイル 作業着補強――完了》
《ベティ叔母 食卓布端処理――日曜まで》
料金欄はどちらも空けたままにし、その代わり必要だった時間と、これから必要になる時間だけを記入した。
◇
弟の作業着には四十分、叔母の食卓布には残り一時間ほど必要になる。
さらに思い出せる範囲で、今月すでに引き受けた家族の服直しや小物の修繕を書き出してみると、合計時間は六時間近くになっていた。
「こんなにやってたの……」
毎回一つずつなら「少しくらい」と思える仕事でも、まとめればほぼ一日分に近い。
しかも帳簿へ載せていなかったせいで、その六時間は予定上では存在しないことになり、実際に作業するたびに、食事や夜の時間へ押し出されていた。
リサは数字を見ながらしばらく考えたあと、叔母の食卓布を畳み直し、その夜は続きをせずに店を閉めた。
◇
翌朝、リサは叔母のベティへ使いを出し、食卓布については日曜の朝までに渡すと伝えた。
すると昼前には本人が店へやって来た。
「土曜にはできないの?」
「日曜に使うんでしょう?」
「そうだけど、前日に受け取っておきたいじゃない」
「だったら土曜の夕方にする。ただし、今日はやらないよ」
リサがはっきり言うと、叔母は少し驚いた。
「忙しいの?」
「客の注文があるから」
「でも、もう半分やったんでしょ?」
「それも昨日、客の仕事が終わったあとにやったから、帰るのがかなり遅くなったの」
そこまで聞いて、ベティはようやく少し申し訳なさそうな顔をした。
◇
「そんなに時間かかると思わなかったわ」
「一周全部だからね」
「端を縫うだけでしょう?」
「その『だけ』で二時間くらいかかるんだよ」
「そんなに?」
「だから次から頼む時は、いつまでに欲しいか先に言って。私も、その日までにできるか答えるから」
「家族なのに予約がいるの?」
叔母は冗談めかして笑った。
以前のリサなら、その言葉を聞いただけで自分の方が言い過ぎたような気持ちになっていたかもしれない。
「家族でも、私の手は一組しかないからね」
そう返すと、ベティは一瞬だけ黙ったあと、すぐに笑った。
「それはそうね」
◇
「あと、布の交換が必要な修理は材料代だけもらうことにする」
「私からも?」
「店で買った布を使うならね。今回の糸くらいならいらないけど」
「分かったわ」
「本当に?」
「あなたが自分で仕入れてる材料なんでしょう?」
「そう」
「だったら、その分くらいは払うわよ」
あまりにも簡単に受け入れられたため、リサは少し拍子抜けした。
これまで家族へ料金の話をすれば冷たいと思われると、自分の中で勝手に決めつけていたが、少なくとも叔母は、なぜ必要なのかを説明すれば普通に受け入れている。
◇
その日の午後、弟のカイルも再び店へ来た。
「昨日の袖、すごくいい。動かしても引っ張られない」
「そりゃよかった」
「それでさ、ズボンの膝も薄くなってて――」
「いつまでに必要?」
弟が最後まで話し終える前に、リサが尋ねた。
「え?」
「そのズボン。いつ使うの」
「予備あるから、来週でもいいけど」
「じゃあ来週の水曜」
「今日じゃ駄目?」
「駄目じゃないけど、今日は客の仕事があるから水曜にする」
「姉さんなら早いじゃん」
「早くできても、必要な時間そのものがなくなるわけじゃないよ」
カイルは少し意外そうに姉を見た。
◇
「昨日、急に持ってきて悪かった?」
「本当に必要だったから、昨日のは仕方ない。でも次はもう少し早く言って」
「分かった」
「それと、補強布を使う時は材料代もらうから」
「家族なのに?」
「払いたくなかったら、使える布を自分で持ってきて」
「……材料代払う」
弟は財布から硬貨を出そうとした。
「昨日の分はいらないよ。次からでいい」
「分かった」
「あと、急ぎなら最初にちゃんと急ぎだって言って。急ぎじゃないのに今日中って頼むのはなし」
「分かったって」
カイルは少し笑った。
「姉さん、何かあった?」
「昨日、針を指に刺した」
「それで?」
「それだけじゃないけど、まあ色々考えたの」
弟も何となく察したらしく、今度は「今日やって」とは言わず、ズボンを預けて帰っていった。
◇
それから数日の間、リサは家族からの頼みについても、必ず帳簿へ書くようにした。
料金を取らない仕事であっても、必要な時間と希望されている日だけは記録する。
急ぎでなければ先に受けている客の納期を優先し、本当に急ぐ理由がある時だけ、その日の予定を見て調整するようにした。
最初は、身内の小さな頼みまで記録することを少し大げさに感じたが、帳簿へ書くだけで「空いた時間にやればいい」という曖昧な仕事が減り、夜になってから突然思い出して針を持つことも少なくなっていった。
◇
土曜の夕方、叔母の食卓布は予定通り完成した。
ベティは受け取りに来ると、縫い直された端を指で確かめながら満足そうに頷いた。
「きれいになったわ」
「次はもっと早く持ってきて」
「分かったわよ」
「本当に?」
「前みたいに、返事を聞かずに置いていくのはやめる」
「それならいい」
叔母は布を畳みながら少し考え、財布から硬貨を一枚取り出した。
「今回、糸代くらい払う?」
「いらないって言ったでしょ」
「じゃあ今度、お菓子持ってくる」
「それならもらう」
二人はそこで笑い、少なくとも今回の頼みが、以前のようにリサだけへ不満を残して終わることはなかった。
◇
家族との関係が、急に客との商売と同じになったわけではない。
母の服にできた小さなほつれなら、その場で直して代金も取らないし、弟が明日の仕事で本当に必要なものを破れば、予定を調整できる範囲で急いで直すつもりもある。
叔母から簡単な直しを頼まれれば、余裕のある日に引き受ければいい。
ただし、家族であるという理由だけで、すべてが無料かつ最優先になるわけではないということを一度言葉にしたことで、リサ自身も、以前より気持ちよく頼みを引き受けられるようになった。
◇
数週間後、リサは一風変わった食材を入れた籠を持ち、《持ち込み食堂》へやって来た。
「今日は持ってきたんですね」
ミレイアが籠を覗き込む。
「お客さんからもらったの」
中には、《糸瓜実》と呼ばれる細長い緑色の実が三本入っていた。
糸瓜実は、若いうちなら柔らかな果肉を食べられるものの、成熟しすぎると内部の繊維が急激に硬くなり、煮ても焼いても口に残るため、食用には向かなくなる植物だった。
「一つだけ、かなり育ってますね」
悠斗が手に取った。
「それが問題なの。くれた人は全部食べられるって言ってたんだけど、一本だけやたら硬い」
「切って確認してもいいです?」
「お願い」
悠斗は三本を順番に切った。
◇
二本は包丁が素直に入り、中には淡い色の柔らかな果肉が詰まっていたが、最後の一本だけは刃を入れた時点で感触が明らかに違い、断面には細い筋が何重にも走っていた。
「これは、食べるにはかなり厳しそうですね」
「やっぱり?」
「若い二本は使えますけど、こっちは無理に料理しない方がいいと思います」
「全部もらったものだから、使えるなら使ってほしかったんだけど」
「硬い方まで?」
「捨てるのも悪い気がして」
「食材として使えないなら、無理に食べようとしなくてもいいんじゃないですか」
その言葉を聞いたリサは、少しだけ笑った。
「前にも似たようなこと言われた気がする」
◇
「何かありました?」
「家族の頼みを全部引き受けようとしてた時に、やるかどうかと、いつやるかは別だって話したでしょ」
「そういえば」
「今なら、もらったからって全部使わなきゃいけないわけじゃないっていうのも、少し分かる気がする」
「食材と家族を一緒にしすぎると怒られそうですけどね」
「今回は私が言ってるからいいの」
「なるほど」
悠斗は若い糸瓜実だけを使うことにし、薄く切って油で炒めたあと、塩漬け肉と根玉葱を加え、最後に溶いた卵を流してまとめていった。
◇
「《糸瓜実と塩漬け肉の卵炒め》です」
リサが食べると、糸瓜実の果肉は熱によって柔らかくなり、根玉葱の甘さと肉の塩味を吸いながらも、最後にはわずかに青い香りを残していた。
「これなら普通に美味しいね」
「若い方は使いやすいですね」
「硬い方は?」
「料理には使わないです」
「きっぱり言うね」
「頑張って食べられるようにする意味が、あまりなさそうなので」
「使えるものと、使わない方がいいものを分ける判断も必要なんだね」
リサはそう言いながら、少し笑った。
◇
「最近、家族の頼みはどうです?」
悠斗が尋ねた。
「前より楽になったよ」
「頼まれる数が減りました?」
「数はそんなに変わってない。でも急ぎじゃないものは待ってもらってるし、材料が必要ならその分は払ってもらうようにした」
「揉めなかった?」
「全然揉めなかった人もいるし、一人だけ『昔はそんなこと言わなかったのに』って言った従姉妹もいた」
「どうしたんです?」
「昔は言えなかっただけだって答えた」
「それで?」
「ちょっと不満そうだったけど、来月でいいって言ったら普通に置いていった」
「関係は変わりました?」
「別に。次の日には別の話してた」
リサは自分でもおかしそうに笑った。
◇
「結局、私が一番怖がってたんだと思う」
「嫌われること?」
「家族なのに冷たいって思われることかな。でも、一回『今週は無理』って言ったくらいで家族じゃなくなるわけじゃなかったし、本当に困ってる時は今まで通り助けられる」
「客の仕事は?」
「納期遅れが減ったし、夜まで残る日も少なくなったよ」
「昼は食べてます?」
「食べるようにしてる」
「それはよかったです」
悠斗がそう言うと、リサは少し恥ずかしそうに水を飲んだ。
◇
店へ戻った翌日、リサは新しい注文票を壁へ貼った。
客用の欄とは別に、端へ小さく《家族・知人》という欄を作り、そこにも希望日と必要時間を書くようにした。
料金欄については、無料なら無料と書き、材料代だけ受け取るならその金額を記す。
家族を客と同じように扱いたいわけではなく、親しい相手から頼まれた小さな仕事まで一枚ずつ商売として数えたいわけでもない。
それでも、自分の手を使う時間まで「なかったこと」にしてしまえば、その分は必ずどこかへ押し出され、その先が食事や睡眠や、すでに代金を受け取っている客の仕事ばかりになることを、リサはようやく理解していた。
◇
昼頃、母が小さな布袋を持って店へ来た。
「リサ、これお願いできる?」
「何?」
「買い物袋の持ち手が取れかけてるの」
リサは状態を確認すると、縫い直すだけなら十分もかからない仕事だと分かった。
「今日使う?」
「急がないよ。次に市場へ行くの三日後だから」
「じゃあ明日の午後に直す」
「分かった」
「材料は今あるので足りるから、お金はいらないよ」
「ありがとう」
母はそれだけ言って袋を置いた。
以前なら十分で終わる仕事だからと、その場で針を出して客の注文を止めていたかもしれないが、今のリサは袋へ小さな札をつけ、《明日午後》と書いて棚へ置いた。
◇
そのあと、リサは何事もなかったように、途中だった旅装の袖へ針を戻した。
家族から頼まれた仕事を後回しにしたわけではなく、必要になる時までに間に合う場所へ、きちんと予定として置いただけだった。
助けたい相手を助けることも、自分の仕事を大切にすることも、どちらか一方だけを選ばなければ成り立たないものではない。
誰かの頼みを受けるたびに自分の予定をほどいてしまうのではなく、必要なところだけ結び直しながら続けていけばいいのだと考えたリサは、目の前の旅装へ一定の間隔で糸を通し、その日に仕上げると決めた仕事を一つずつ進めながら、《銀糸針房》の裁ち台に向かい続けた。
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