第37話 香りの弱い茶葉と、家業を離れられない茶商人
フィオ・ラテは、自分が本当に茶を売りたいのかと尋ねられるたびに、答えを考えるより先に「もちろん」と口にする癖が、いつの間にか身についていた。
二十七歳になる彼女は、レーヴェン東市場から少し離れた商店通りで《ラテ茶房》という茶葉店を切り盛りしており、乾燥させた葉をそのまま煮出す普段使いの茶から、花や果皮を混ぜた香り茶、祝い事や贈答に使われる上等茶まで、二十種類以上を扱っている。店は祖父の代から続いており、現在は父のマルクが名目上の店主を務めているものの、仕入れ先とのやり取りや日々の接客、在庫の管理については、すでにフィオが中心になって動かしていた。
幼い頃から茶葉の匂いに囲まれて育ち、十歳になる前には色の違いを見分け、十五歳の頃には湯の温度によって香りがどう変化するのかまで父から教えられていたため、周囲からは当然のように「いずれ店を継ぐ娘」と見られてきた。
フィオ自身も、その見方をこれまで一度も否定していなかったが、否定しなかったことと、自分からその道を選んだことが本当に同じなのかについては、最近になって少しずつ分からなくなっていた。
◇
「この《春霞茶》、今年はずいぶん香りが弱いね」
午前中、長く店へ通っている老婦人が、試飲用の小さな杯を手にしながら言った。
春霞茶は、北東の丘陵地帯で春先に摘まれる薄緑色の茶葉であり、湯を注ぐと柔らかな花に似た香りが立つことで知られている。《ラテ茶房》では父の代から扱っている定番品で、毎年まとまった量を同じ農園から仕入れていた。
「今年は摘み取り前に雨が多かったので、少し香りが穏やかなんです」
フィオは慣れた調子で答えた。
「味は悪くない?」
「渋みが少ないので、飲みやすさなら去年より上だと思います」
「でも、春霞茶って香りを楽しむものでしょう?」
「そうですね」
老婦人は少し迷ったあと、いつもの半分だけ買って帰っていったため、フィオは笑顔で見送ったものの、扉が閉まるとすぐに、棚へ並んだ春霞茶の袋へ視線を戻した。
◇
今年の春霞茶が例年より香りに乏しいことは、最初の荷が届いた時点でフィオにも分かっていた。
茶葉そのものに傷みはなく、味も決して悪いわけではなく、むしろ渋味が少ないため、普段濃い茶を好まない客には飲みやすい出来になっている。ただ、《春霞茶》という名前で毎年買いに来る客の多くは、蓋を開けた瞬間に広がる花のような香りを期待しているため、去年までと同じ説明だけで売ることには、フィオ自身も違和感を覚えていた。
「また半袋?」
奥から出てきた父のマルクが尋ねた。
「うん。香りが弱いって」
「今年はそういう年なんだから仕方ない」
「説明はしてる」
「なら問題ないだろ」
マルクは春霞茶の袋を一つ持ち上げ、そのまま棚の奥へ並べ直した。
◇
「値段はこのままでいいのかな」
フィオが尋ねる。
「契約した仕入れ値は変わってない」
「でも客が期待してるものとは少し違うよ」
「質が落ちたわけじゃない。香りの出方が違うだけだ」
「それを質が違うって言う客もいる」
「じゃあ説明すればいい」
「説明しても、いつもの春霞茶だと思って買いに来るんだよ」
父は少し面倒そうに眉を寄せた。
「長く商売していれば、毎年まったく同じものなんて来ない。葉物なんだから天気で変わるのは当たり前だ」
「分かってるよ」
「なら、お前が迷う必要はない」
その一言を聞いた瞬間、フィオの顔からわずかに表情が消えた。
◇
午後になると、別の常連客が春霞茶を買いに来た。
「今年のも、去年みたいな香り?」
そう尋ねられたフィオは、一瞬だけ答えに詰まったあと、いつもより慎重に言葉を選んだ。
「去年より香りは弱めです。ただ、渋みは少なくて飲みやすいですよ」
「弱いのか」
「はい」
「じゃあ別のにしようかな」
客は棚を見回し、《白鈴茶》という香りの強い別の茶葉を選んだため、売上そのものがなくなったわけではなかったものの、フィオは春霞茶の袋だけが減らずに棚へ残っていくことを気にしていた。
◇
閉店後、フィオは在庫帳を開いた。
今年仕入れた春霞茶はまだ予定量の半分以上が残っており、今の売れ方が続けば、次の季節まで在庫を抱える可能性がある。
「父さん」
「何だ」
「春霞茶、仕入れ先に次便を減らせないか聞いてみる」
「契約量は決まってる」
「まだ全部届いてないでしょ」
「向こうも、うちが買う前提で摘んでるんだ」
「でも、このままだと残る」
「来月になれば動くかもしれない」
「何を根拠に?」
マルクは帳簿から顔を上げた。
◇
「お前は最近、すぐ数字だけで変えようとするな」
「数字見ないで商売する方が変でしょ」
「去年まで売ってきたものを、今年少し違うからってすぐ扱いを変えたら、仕入れ先との付き合いが続かん」
「切るなんて言ってない」
「量を減らすってことは、向こうからすれば似たようなものだ」
「それなら、この在庫を誰が買うの?」
「売り方を考えるのがお前の仕事だろ」
その言葉を聞いて、フィオは口を閉じた。
父の言っていることが間違っているとは思わない。それでも、なぜ自分だけが売り方を考えなければならないのかという不満が、その時になって初めて、曖昧な苛立ちではなく言葉になりそうな形で胸に残った。
◇
「父さんはどうしたいの」
「何が」
「この春霞茶をどう売るのか」
「いつも通り売ればいい」
「だから、それじゃ残りそうなんだって」
「じゃあ工夫しろ」
「私が?」
「今はお前が店を回してるんだから当然だろ」
「店主は父さんでしょ」
「いずれお前の店になる」
マルクがあまりにも自然に答えたため、その言葉はフィオの胸の奥へ、以前から溜まっていた違和感ごと強く引っかかった。
◇
「それ、いつ決まったの?」
「何がだ」
「私がこの店を継ぐってこと」
マルクはしばらく娘を見た。
「今さら何を言ってる。子どもの頃から店を手伝ってきただろ」
「手伝ったら継ぐことになるの?」
「嫌だったのか」
「そういう話じゃない」
「じゃあ何だ」
フィオ自身も、すぐにはうまく言葉にできなかった。
茶の仕事が嫌いなわけではなく、客に合う茶を選ぶことも、香りを確かめることも、新しい仕入れ先を探すことも好きだった。それでも、「好きだからこの店を継ぐ」と自分で決めた記憶だけは、これまでのどこを探しても見つからなかった。
◇
「私は、継ぐって一度も言ったことないよね」
「言わなくても分かるだろ」
「何が?」
「これだけ仕事を覚えて、店を任されてるんだ。今さら別の道へ行くなんて話になる方がおかしい」
「それを父さんが決めるの?」
「家の店だぞ」
「だからって、私の仕事まで自動で決まるの?」
マルクの表情が硬くなった。
「嫌なら、もっと早く言えばよかっただろ」
「聞かれたことないのに?」
それ以上どちらも続けられず、店の奥には、これまで二人の間で言葉にされなかったものまで含んだ重い沈黙が残った。
◇
フィオはその夜、自宅へ戻ってからも父とほとんど話さなかった。
母は数年前に病で亡くなっており、現在は父と二人で暮らしているため、食卓へ二人きりで座ると、会話がないことが余計にはっきり分かる。それでもフィオは、自分から話を戻そうとはしなかった。
父に言われた「嫌ならもっと早く言えばよかった」という言葉が、食事をしている間も何度も頭の中を回っていた。
確かに、自分はこれまで一度も嫌だと言っていないが、それは本当に継ぎたかったからなのか、それとも継ぐ以外の選択肢について考える必要がないまま大人になったからなのか、今のフィオには自分でも判断できなかった。
◇
翌日も、《ラテ茶房》は普段通り開いた。
朝から客が来れば茶葉を量り、好みを聞き、湯の温度や煮出す時間まで説明するため、仕事をしている間のフィオの動きに迷いはなかった。
「香りが強いのが欲しいんだけど、苦いのは苦手で」
若い女性客から相談されると、フィオは白鈴茶ではなく、香りをつけた《花蜜茶》を勧めた。
「こっちは花を混ぜてるので香りは強いですけど、茶葉自体の渋みは弱めです」
「春霞茶は?」
「今年のものは香りが穏やかです。飲みやすい方が好きなら、むしろ合うと思います」
「じゃあ少し試してみる」
客の好みに合わせて説明することだけなら、考え込む必要もなく自然にできた。
◇
客が帰ったあと、父が棚を整えながら小さく言った。
「今の売り方でいいじゃないか」
「何が?」
「春霞茶だ。去年と違うところを説明して、合う客へ売ればいい」
「それは私も考えてた」
「ならやればいい」
「そういう話じゃない」
フィオは袋の口を閉じながら答えた。
「昨日の話と混ぜないで」
「混ぜたのは父さんでしょ。売り方を考えるのが私の仕事だって言って、その理由に『いずれ私の店になる』を使ったじゃん」
「実際そうなると思ってた」
「私は今、それが分からないって言ってるの」
マルクは何か言おうとしたものの、結局そこで口を閉じた。
◇
その日の昼過ぎ、フィオは試飲用に煮出した春霞茶を一瓶へ移し、少量の茶葉も包んで店を出た。
「どこへ行く」
父が尋ねる。
「売り方考えてくる」
「店は?」
「一時間くらいなら父さん一人で見られるでしょ」
マルクは何か言いかけたものの、結局止めなかった。
フィオは包みを抱えたまま商店通りを抜け、以前客から聞いたことのある《持ち込み食堂》へ向かった。
茶葉を料理へ使ってもらうつもりがあったわけではなく、ただ自分の店の中にいると、何を考えても父との言い争いへ戻ってしまいそうだったため、少し場所を変えたかった。
◇
「いらっしゃいませ」
ミレイアに迎えられ、フィオは空いている卓へ座った。
「持ち込みですか?」
「一応。茶葉なんだけど」
「お茶?」
「食材になるかは分からない」
厨房から出てきた悠斗へ、フィオは春霞茶の包みを渡した。
「香り、見てもらえる?」
「俺で分かる範囲なら」
悠斗は乾いた葉を少量取り、指先で軽く崩してから匂いを確かめた。
「かなり穏やかですね」
「やっぱりそう思う?」
「弱いと言えば弱いですけど、草っぽさは少ない気がします」
「味も見て」
◇
フィオが持ってきた煮出し済みの茶と、悠斗が店の湯で新しく淹れたものを並べ、二人で少しずつ味を確かめた。
「渋くないですね」
「今年はそうなの。例年はもっと香りが強くて、少し渋みもある」
「同じ名前の茶葉なんですよね?」
「同じ農園、同じ品種、同じ摘み方。ただ、今年は雨が多かった」
「じゃあ今年だけ少し違う?」
「たぶんね」
悠斗はもう一口飲んだ。
「飲みやすいです」
「でも春霞茶を買う客は、香りを期待してる」
「別の人には向いてるかもしれない?」
「そう思って、売り方を変えようとしてるところ」
◇
「料理にも使えます?」
悠斗が尋ねた。
「使いたいの?」
「茶葉って、煮出す以外にも香り付けに使えることがあるので」
「これは香り弱いよ」
「だからこそ、料理へ入れた時にどうなるか試してみたいです」
悠斗は茶葉を細かく砕き、少量を湯へ入れて濃いめに煮出したあと、そこへ少しだけ蜜を加え、さらに薄く切った果実を浸していった。
「何作ってるの?」
「茶の香りを使った果実煮みたいなものです。強い茶葉だと、逆に果実の香りが負けるかもしれないので」
「弱い方がいいこともある?」
「料理によっては、ありそうです」
フィオは少し意外そうに、鍋の中を覗き込んだ。
◇
しばらく煮たあと、悠斗は柔らかくなった果実を小皿へ盛った。
「《春霞茶の果実煮》でどうでしょう」
「そのまま茶で飲むより、香りが分かりにくくならない?」
「一度食べてみてください」
フィオが一口食べると、最初に果実の甘味と酸味が広がり、そのあとから、ごく穏やかな茶の香りが残った。
「薄いね」
「はい。でも、その分だけ果実を邪魔しない感じがあります」
「これ、去年の春霞茶なら?」
「たぶん茶の香りがもっと前へ出ると思います。そっちが好きな人もいるでしょうけど」
「同じ名前でも、使い方を変えた方がいい場合もあるってことか」
「俺は今年のものしか知らないので、そこまでは言い切れませんけどね」
悠斗はそう言って笑った。
◇
「あなたって、すぐ正解みたいに言わないんだね」
フィオが言った。
「知らないものなので」
「料理人なら、もっと『こう使えばいい』って言うのかと思った」
「選択肢は出せますけど、茶葉をどう売るかについては、フィオさんの方がずっと詳しいでしょう」
「私のこと知ってるの?」
「さっき店の名前を聞いたので。茶商人なんですよね」
「そう」
フィオは一度答えたあと、少し間を置いた。
「……たぶん」
悠斗が首を傾げた。
「たぶん?」
「今、自分が茶商人でいたいのかどうか、分からなくなってる」
◇
フィオは、父との言い争いについて話した。
幼い頃から店を手伝い、仕事を覚え、気づけば仕入れも接客も任されるようになっていたことや、周囲も父も、自分がいずれ店を継ぐものだと当然のように考えていることまで、一つずつ説明した。
「嫌いなんです?」
「茶は好き」
「店は?」
「嫌いじゃない。接客も好きだし、仕入れ先を探すのも面白い」
「じゃあ、何が嫌なんでしょう」
「分からないから困ってるの」
フィオは少し苛立ったように答えたあと、自分でも考えながら続けた。
「継ぎたいって自分で決めたことがないのに、もう決まったことみたいになってるのが嫌なのかもしれない」
◇
「別の仕事をしたい?」
「それも分からない」
「やってみたいことはあります?」
「旅をして、いろんな土地の茶を見たいと思ったことはある」
「仕入れの旅じゃなくて?」
「そう。売る前提じゃなくて、その土地の人が何を飲んでるのかとか、どう作ってるのかとか、もっと見てみたい」
「行ったことは?」
「店を空けられないから、近場だけ」
「お父さんは?」
「昔は仕入れでよく旅してた」
「フィオさんは行かなかった?」
「私が店に残る役だったから」
そこまで話したところで、フィオは少し苦い顔をした。
◇
「それも最初から決まってた?」
悠斗が尋ねた。
「父が『自分が行く』って言って、私は店番する。それが一番効率いいから」
「嫌だった?」
「最初は別に。でも何年も続くと、私だって行ってみたくなった」
「言いました?」
「忙しい時に一回だけ。でも『店を任せられるのはお前だけだ』って言われた」
「褒められてるみたいですね」
「そうなの。だから余計に断りにくい」
フィオは苦笑した。
「必要とされてることと、自分がやりたいことが同じなら簡単なんだけどね」
◇
悠斗はしばらく考えたあと、春霞茶の葉をもう一度見た。
「今年の茶葉も、去年と違うから駄目ってわけではないんですよね」
「さっきの料理みたいに、向く使い方はあると思う」
「でも去年と同じものとして売ると、期待とずれる?」
「そう」
「フィオさんも似てる、って言ったら怒ります?」
フィオはすぐに眉を寄せた。
「食材と人を一緒にしないで」
「ですよね。やめます」
あまりにもあっさり引いたため、フィオは逆に少し笑った。
◇
「ただ、今年の茶葉を見て今年の売り方を考えるみたいに、今の自分を見て今後を考えるくらいはしてもいいのかなと思ったんです」
「それ、結局似た話にしてるじゃん」
「少しだけ」
「ずるいなあ」
フィオは杯を持ち上げながら笑った。
「でも、今すぐ店を継ぐか辞めるかまで決めなくてもいいのかな」
「期限があるんです?」
「父はまだ元気だし、明日から店主になれって話ではない」
「なら、その前に試せることもありそうですね」
「例えば?」
「旅に行ってみるとか」
フィオは杯を置き、悠斗を見た。
◇
「店を何週間も空けるのは無理」
「何週間じゃなくても?」
「近場なら数日」
「それで見たいものは見られる?」
「北の湖畔に、燻して香りをつける茶を作る村がある。三日あれば往復できる」
「行ったことは?」
「ない」
「なら、まずそこへ行ってみるとか」
「父が店番することになる」
「元々店主なんですよね」
そう言われると、フィオは思わず笑った。
「そう考えると、本当にそうなんだよね」
父は今でも接客ができ、茶葉の知識についても自分以上の部分が多いため、一日も店を任せられない相手ではなかった。
◇
「私が勝手に、もう自分が店を回さなきゃって思ってた部分もあるのかな」
「お父さんも実際に任せてたみたいですし、どっちか一方だけじゃないんじゃないですか」
「そこは父のせいだけにしてくれない?」
「事情を知らないので」
「本当に逃げるね」
「人の家族のことは、適当に決めたくないので」
フィオは少し黙ってから、やがて笑った。
「じゃあ、三日だけ行ってみようかな」
「茶を見に?」
「うん。店を辞めるためじゃなくて、自分が何を見たいのか確かめるために」
「帰ってきてから考える?」
「そうする」
◇
食事を終えて《ラテ茶房》へ戻ると、父は店の奥で帳簿をつけていた。
「遅かったな」
「一時間って言ったでしょ」
「一時間二十分だ」
「細かい」
フィオは春霞茶の包みを棚へ戻したあと、父の向かいへ座った。
「話がある」
「昨日の続きか」
「うん」
マルクは帳簿を閉じ、娘の方へ身体を向けた。
◇
「私、北の湖畔へ行きたい」
「仕入れか?」
「違う。茶を見に行きたい」
「何日だ」
「三日」
「店はどうする」
「父さんがいるでしょ」
マルクは眉を寄せた。
「来週は取引先への届けが二件ある」
「午前中にまとめれば回れる。注文の準備は前日に私がやる」
「春霞茶の売り方もまだ――」
「それも決める。ただ、三日いないだけで店が回らないなら、私が継ぐかどうか以前に、店のやり方そのものを考えた方がいいと思う」
マルクは、すぐには言葉を返さなかった。
◇
「店を辞めたいのか」
「分からない」
「またそれか」
「分からないから見に行くの」
フィオは父の顔をまっすぐ見た。
「茶は好きだよ。この店も嫌いじゃない。でも、好きだから継ぐのか、ずっとここにいたから継ぐしかないと思ってるのか、それを一回ちゃんと分けて考えたい」
「三日旅したくらいで分かるのか」
「分からないかもしれない」
「なら意味ないだろ」
「分からないって分かるだけでも、今よりはましだよ」
父はしばらく黙っていたが、今度は話を打ち切ることなく、娘の言葉を聞いていた。
◇
「父さんは、私に継いでほしい?」
フィオが尋ねると、マルクは少し考えてから答えた。
「……ほしい」
「どうして?」
「お前が一番、この店の茶を分かってるからだ」
「父さんより?」
「俺とは違う分かり方をしてる」
「何それ」
「俺は茶そのものを見る。お前は客がどう飲むかまで見る」
フィオは少し目を見開いた。
「それ、初めて聞いた」
「言う必要があると思わなかった」
「そういうところだよ」
フィオは呆れたように息を吐いた。
◇
「でも、継いでほしいのと、私が継ぐって決めるのは別にして」
「俺の希望を言うなってことか」
「言っていい。ただ、それがもう決まったことみたいに言わないで」
「……分かった」
「本当に?」
「努力する」
「そこは即答してよ」
「俺も今までずっとそうなると思ってきたんだ。すぐ全部変わるか」
父は少し不機嫌そうに答えたものの、娘の希望を拒絶はしなかった。
「湖畔へ行くなら、月初めの方がいい。来週後半は注文が多い」
「行っていいの?」
「もう決めてる顔してるだろ」
「決めた」
フィオは久しぶりに、父の前で素直に笑った。
◇
その夜、二人は春霞茶の売り方についても話し直した。
「今年の分だけ、札を変えたい」
フィオが言った。
「どう変える」
「《今年摘み・穏香》って付けて、例年より香りが弱くて渋みが少ないって最初から書く」
「値段は?」
「基本はそのまま。仕入れ値が同じだから。ただ、少量の試し袋を作る」
「量を減らして安く見せるのか」
「違う。初めての人でも試せる量にして、気に入れば普通の袋を買ってもらう」
「残ったら?」
「果実茶との組み合わせも試す」
マルクは、娘の顔をしばらく見た。
「もうかなり考えてるじゃないか」
「それと継ぐ話は別だからね」
「分かってる」
◇
翌日から、《ラテ茶房》の春霞茶の棚には新しい札が出た。
《今年摘み・穏香――例年より香りは穏やか。渋み少なく、軽い飲み口》
その下には通常袋より小さな試し袋も並べた。
最初の数日は以前より説明する手間が増えたものの、客の反応は悪くなく、「香りが弱いなら夜に飲みやすそう」「濃い茶が苦手な人への贈り物なら、こっちの方がいいかも」と言って手に取る者も現れた。
これまで春霞茶を買わなかった客が試し袋を選ぶこともあり、逆に例年の強い香りを求める客には別の茶を勧められるようになったことで、少しずつ棚の在庫も動き始めた。
◇
一週間後、フィオは三日分の荷物を背負い、北の湖畔へ向かう乗合馬車へ乗った。
父は店の前まで見送りには来なかったものの、朝食の席で「向こうの燻し茶は湿気に弱いから、持ち帰るなら二重袋にしろ」と何度も言っていたため、フィオは、結局父も茶の話しかできないのだと思って少し笑った。
湖畔の村では、薪の煙を当てながら乾燥させる《燻湖茶》の作り方を見せてもらった。
葉を摘む時間や、火から離す距離、使う薪の種類によって香りが変わり、同じ村の中でも家ごとに味が違うため、フィオは作り手の話を聞きながら、何種類もの茶を飲み比べていった。
今回は仕入れが目的ではないため、値段を尋ねるより先に、まず一杯を飲むことができた。
◇
それは、フィオにとって思っていた以上に新鮮な経験だった。
これまでは新しい茶を見れば、店に置けるか、客へいくらで出せるか、既存の商品と競合しないかといった商売のことを先に考えていた。
今回は買い付けが目的ではないため、ただ香りを嗅ぎ、作り手へ理由を尋ね、別の家の茶と飲み比べながら、その土地でなぜその作り方になったのかまで聞くことができた。
そうやって一日を過ごしているうちに、フィオは自分が心から楽しいと感じていることへ気づき、同時に、茶そのものから離れたいわけではなかったことも少しずつ理解した。
店から逃げたかったのではなく、「店にい続ける以外の選択を持てない状態」が苦しかったのだと考える方が、今の自分にはしっくりきた。
◇
三日目の午後、フィオは小さな燻湖茶の包みを土産に買い、レーヴェンへ戻った。
《ラテ茶房》へ入ると、父が客へ茶葉を量っているところだった。
「戻ったのか」
「今戻った」
「遅い」
「予定通りだよ」
客が帰るまで待ち、フィオは背負っていた荷物を下ろした。
「店、どうだった?」
「普通だ」
「本当に?」
「お前がいない方が静かだった」
「じゃあ私いらないじゃん」
「売上は少し落ちた」
「そこはちゃんと言うんだ」
言い合いながらも、以前より会話は軽かった。
◇
「湖畔はどうだった」
マルクが尋ねた。
「面白かった」
「燻湖茶は?」
「家ごとに全然違った。樫薪を使うところは香りが重くて、白枝を使う家は少し甘い」
「温度は?」
「低めで長く乾かす家が多かった。ただ、湖の南側は風が強いから短くするらしい」
「そうか」
父の目つきが少し変わり、完全に茶商人の顔になった。
「持って帰ったか?」
「少しだけ。仕入れ用じゃなくて土産ね」
「飲むぞ」
「今?」
「今だ」
フィオは笑いながら荷をほどいた。
◇
二人で燻湖茶を煮出し、店の奥で飲んだ。
煙の香りは強いものの、口に含むと意外に柔らかく、最後には木のような甘い香りが残る。
「店に置けそうだな」
父が言った。
「すぐ商売にしないでよ」
「茶屋が茶を飲んで、売れるか考えるのは普通だろ」
「私も少し考えたけど」
「考えたんじゃないか」
「でも今回は、それだけじゃなかった」
フィオは杯を卓へ置いた。
◇
「私、茶の仕事は続けたい」
マルクは何も挟まず、娘の言葉を待った。
「店も、今すぐ離れたいわけじゃない。ただ、継ぐかどうかはもう少し考える」
「続けるのに、継がないこともあるのか」
「あるでしょ。旅しながら茶を探す仕事だってできるし、別の街に店を出すかもしれないし、最終的にこの店を継ぐかもしれない」
「ずいぶん増えたな」
「今まで一個しかなかったから」
「この店を継ぐのが一個目か」
「そう」
父は少し寂しそうな顔をしたものの、娘の話を否定はしなかった。
◇
「じゃあ、いつ決める」
「期限決める必要ある?」
「俺もいつまでも店主やれん」
「それはそうだね」
二人は少し考えた。
「一年」
フィオが言った。
「長い」
「三十年近くの仕事を決めるんだから、一年くらいちょうだい」
「半年」
「九か月」
「……一年でいい」
「最初からそれでいいじゃん」
「交渉だ」
「家族相手まで商人やらないでよ」
フィオは呆れたように笑った。
◇
それからフィオは、《ラテ茶房》で働きながら、二月に一度ほど近郊の産地へ短い旅をするようになった。
店を空ける日は事前に父と分担を決め、配達が多い週は避ける一方で、父が遠方の仕入れへ出る時には、これまで通りフィオが店を守る。
以前と比べれば、店で行っている仕事そのものはそれほど大きく変わっていないが、「ここにいるしかない」と思いながら働くことと、「今はここで働く」と自分で決めて店に立つことには、フィオにとって思っていた以上に大きな違いがあった。
春霞茶も少しずつ売れ、季節が変わる前には、当初心配していた量の大半が棚から消えていた。
◇
ある日の午後、フィオは春霞茶と燻湖茶を少量ずつ持って《持ち込み食堂》へやって来た。
「今日は二種類ですか?」
悠斗が尋ねた。
「比較したいの」
「料理で?」
「できれば」
フィオは春霞茶の袋を片側へ置き、燻湖茶を反対側へ並べた。
「こっちは前の香りが弱いやつ。こっちは北の湖畔で見つけた燻し茶」
「結局、仕入れたんですね」
「少量だけね。店で試験販売してる」
「旅はどうでした?」
「すごくよかった」
フィオは迷うことなく答えた。
◇
悠斗は二種類の茶を別々に煮出し、春霞茶は薄切りの果実と合わせ、燻湖茶は塩をした鳥肉へ少量だけ香りを移す使い方を試した。
同じ茶葉という種類でも、穏やかな春霞茶は果実の甘酸っぱさを邪魔せず、燻湖茶は強い煙香によって肉の風味をはっきり変えていく。
フィオは二皿を食べ比べながら、楽しそうに考え込んでいた。
「店で出すなら?」
悠斗が尋ねる。
「春霞茶の方は、茶として飲むより料理用で売るつもりはないよ。ただ、こういう使い方もあるって札には書けるかも」
「燻湖茶は?」
「これは普通に飲んでほしい。肉に使うのも面白いけど、最初に茶として知ってほしいから」
「ちゃんと決まってますね」
「茶商人だからね」
フィオは自然に答え、その言葉を口にしたあとで、自分自身が少しだけ笑った。
◇
「前は『茶商人です』って言うと、この店を一生継ぐって意味まで一緒についてくる気がしてた」
「今は違う?」
「うん。今の私は茶商人。それで、この先この店の店主になるかどうかは、また別の話」
「分けられたんですね」
「たぶんね」
「まだ『たぶん』なんだ」
「全部決めたら面白くないでしょ」
フィオは燻湖茶の杯へ口をつけながら、どこか楽しそうに笑った。
◇
「お父さんは納得してます?」
「完全にはしてないと思う。たまに『店を継いだら』って前提で話すし」
「その時は?」
「言い直させる」
「強いですね」
「でも父さんも最近は、『もし継ぐなら』って言うようになったよ」
「変わりましたね」
「少しだけ」
フィオは笑った。
「私も、父さんが勝手に全部決めたみたいに思ってたけど、私が一度も聞き返さなかったのも大きかったと思う」
「じゃあ両方?」
「たぶん両方。そこも、全部どっちかのせいにしない方が楽だった」
◇
食事を終えたフィオは、残った茶葉を包み直した。
「春霞茶、今年の分は売り切れそう?」
悠斗が尋ねる。
「あと少し。例年の香りを期待してた人には無理に勧めなかったけど、その分、軽い茶が好きな新しい客が増えた」
「来年も同じ売り方?」
「来年の葉を見てから決めるよ」
「今年と違ったら?」
「その時は、その時の茶を見て売る」
フィオは、今ではそれが当然だと思えるような口調で答えた。
◇
店へ戻ったフィオは、閉店前に残っていた春霞茶を棚から一袋取り出した。
その香りは、最初に荷が届いた頃と変わらず穏やかであり、去年までの春霞茶を知るフィオにとっては、やはり少し物足りなく感じる。
それでも、この茶葉が失敗作だとはもう思っていなかった。
例年と同じ香りではないのなら、その違いを隠さず、その年の茶葉として扱えばいいのであり、自分についても、家業を継ぐ娘として育ってきた過去を消す必要はなく、その経験を持ったまま、これから何を選ぶのかを考えればよかった。
◇
「フィオ」
奥から父が呼んだ。
「何?」
「来月、南の高地から新しい茶が来る」
「知ってる」
「試飲、一緒にやるか」
「その日は私、湖西の村へ行く予定」
「またか」
「二日だけ」
「帰ってからでも間に合うか」
「試飲用を残しておいてくれればね」
マルクは少し考えたあと、頷いた。
「分かった。じゃあ帰ってきた日にやる」
「うん」
◇
以前のフィオなら、父の予定へ合わせることを先に考え、自分の旅をずらしていたかもしれない。
今は互いの予定を確認し、どちらか一方が当然のように譲るのではなく、両方を続けられる日を探すようになっている。
《ラテ茶房》を継ぐかどうかについて、フィオはまだ答えを出していないが、その答えを今すぐ持っていないことを、以前ほど不安には感じなくなっていた。茶の仕事を続けたいという気持ちは自分で確かめることができ、旅をして産地を見たいという望みも、実際に外へ出たことで、ただ店から逃げたいだけではなかったと分かったからである。
この店に残るのか、別の形で茶に関わるのか、それとも最後には《ラテ茶房》を継ぐのかについては、その先で決めればいい。
フィオは棚に残った春霞茶の袋を整えると、明日の試飲用として少量だけ別へ取り分け、その年の茶葉に合う売り方を考えるのと同じように、自分のこれからについても誰かに決められた形へ急いで当てはめることなく、実際に見て、選び、確かめながら決めていくつもりで、その日の店じまいを続けた。
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