第36話 傷んだ葉菜と、値札を下げられない八百屋
ネネ・マールは、売れ残った野菜の値段を下げるたびに、自分まで安く見られているような気持ちになることを、これまで誰にも話したことがなかった。
二十五歳になる彼女は、レーヴェン東市場の一角で《青葉籠》という小さな青果店を営む鼠系獣人であり、丸みのある耳と細い尾、それに人よりわずかに敏感な嗅覚を持っている。店先には黄芋や根玉葱のように保存の利く品だけではなく、朝露を含んだ葉菜、香りの強い草実、赤や橙に熟した果実まで並び、近所の家庭や宿屋の料理人が毎日のように買いに来ていた。
店はもともと母親のルエナが一人で始めたものであり、ネネは十五歳の頃から本格的に手伝うようになった。母が腰を痛めて長時間立てなくなってからは、仕入れも値決めも客とのやり取りもほとんどネネが担うようになり、三年前には正式に店主として看板を引き継いでいる。
小さな店で利益を残すためには、仕入れた品をできるだけ無駄なく売り切らなければならないということを、ネネ自身も誰よりよく理解していた。
◇
「この《朝雫菜》、昨日のだろ?」
昼前、常連の宿屋料理人が店先の籠を覗き込みながら尋ねた。
朝雫菜は、薄く広い葉と柔らかな茎を持つ青菜であり、採れたてのものは葉先までしっかり立っているものの、時間が経つにつれて少しずつ萎れてくる。火を通せば甘味が出るため煮物や炒め物によく使われるが、見た目の鮮度を重視する客は、やはり朝採れの束から先に選びたがった。
「昨日の夕方に仕入れた分」
「じゃあ少し安くならない?」
「まだ悪くなってないよ」
「でも朝のやつより葉が寝てるだろ」
「食べる分には変わらない」
「だったら値段もちょっとくらい変えてくれていいじゃないか」
料理人は冗談めかして笑ったものの、ネネは同じようには笑い返さなかった。
◇
「同じ畑で採れた同じ品だよ。昨日買ったからって、急に半値になるわけじゃない」
「半値なんて言ってないだろ」
「じゃあ、いくら下げてほしいの」
「銅貨一枚くらい」
「その一枚を毎回引いてたら、こっちが残らないよ」
「そんな怒ることじゃないだろ」
「怒ってない」
口ではそう答えたものの、ネネの声にはすでに硬さが混じっていた。
料理人は少し困ったように頭を掻いたあと、結局朝採れの葉菜を二束だけ買って帰っていき、昨日から残っていた朝雫菜へ手を伸ばすことはなかった。
◇
昼を過ぎる頃になると、昨日から残っていた朝雫菜の葉先は、朝よりさらに少し下がっていた。
腐敗しているわけでも、異臭がするわけでもなく、加熱して食べるのであれば何の問題もない。それでも朝採れの束と隣り合わせに並べれば、見た目の鮮度ではどうしても劣ってしまう。
ネネが籠を店の奥へ移そうとしたところで、隣の乾物店を営む年配の女性から声をかけられた。
「今日も残しとくのかい?」
「夕方までなら売れるかもしれないから」
「夕方になったら、もっと見た目が落ちるよ」
「分かってる」
「だったら昼から値札を変えたらいいじゃない」
「簡単に言わないでよ」
思わず強い口調で返すと、隣の店主は慣れた様子で肩をすくめた。
◇
「別にあんたが損しろって言ってるんじゃないよ」
「値下げしたら損になることもあるでしょ」
「売れずに捨てたら、仕入れた分が全部損になるじゃないか」
「まだ捨てるって決まったわけじゃない」
「昨日も葉菜を一籠持って帰ったろ」
「母さんが食べるから」
「二人であれだけ食べるのかい?」
ネネは返事をせず、朝雫菜の籠をそのまま店の奥へ運んだため、隣の店主もそれ以上は口を出さなかった。
◇
ネネが値下げを嫌うようになったのは、母から店を継いで以降のことだった。
ルエナが店に立っていた頃は、夕方になれば少し萎れた葉物をまとめて安く売ったり、傷の入った果実を加工用として別の籠へ移したりしていた。客から「もう少し負けて」と言われても、笑いながら断ることもあれば、その日の残り具合や品の状態を見て値段を変えることもあった。
ネネには、そうしたやり方が昔から少し曖昧に見えていた。
値札を出したのなら、その値段で売り、同じ品である以上は同じ金額で扱う方が、商売として分かりやすい。そうして基準を揺らさない方が、客から軽く見られることもないだろうと考えていた。
◇
ところが、店を継いだ最初の年に、ネネは大きな失敗をしている。
秋の終わり、大量に出回った《茜実》という果実を普段より安く仕入れられたため、彼女はいつもの倍近い量を仕入れた。
朝のうちはよく売れたものの、同じことを考えた店が多かったらしく、午後になる頃には市場全体で値段が下がり始めた。
周囲の店が少しずつ値札を変える中でも、ネネだけは朝から掲げていた値段を動かさなかった。安売りすれば、客に「待てば下がる店だ」と思われるかもしれず、自分の店の品は最初に決めた値段へ見合うものだと証明したかったからである。
その結果、茜実は夕方になっても大量に残った。
◇
翌朝には表面が柔らかくなり始め、通常の商品として並べられないものが増えていた。
母は煮詰めて保存する方法を提案したが、店で扱うには量が多すぎたため、結局いくつもの籠を処分することになった。
傷んだ果実を捨てるために運びながら、ネネは、前日の夕方に少しでも値段を下げていれば、まだ十分に食べられるうちに誰かへ買ってもらえたかもしれないと何度も考えた。
それでも、その経験から素直に値下げできるようになったわけではなく、むしろ反対に、値段を下げるという行為そのものが、自分の最初の判断が間違っていたと認めることのように感じられるようになった。
◇
「今日のこれ、どうするの」
夕方、店を手伝いに来た母のルエナが、残った朝雫菜を見ながら尋ねた。
腰を痛めてから長時間立つことはできなくなったものの、体調のいい日には帳簿の確認や袋詰めを手伝っている。
「持って帰る」
「また?」
「まだ食べられるから」
「二束くらいなら家でも食べきれるけど、それ以上は無理だよ」
「知り合いに分けてもいいでしょ」
「売り物だったものを毎日配ってたら、それこそ商売にならないよ」
母は責めるような声ではなく、ごく普通の調子で言った。
「だったら、昼に少し値段を下げればよかったじゃない」
その言葉を聞き、ネネの耳がわずかに下がった。
◇
「母さんまでそれ言うの?」
「前から言ってるでしょ」
「簡単に値下げすると、客がその値段しか見なくなるんだよ」
「毎日下げろとは言ってない」
「一回やったら、また待たれるかもしれない」
「待つ客もいるだろうね」
「ほら」
「でも朝採れが必要な人は朝に買うし、少し安ければ十分だって人は夕方に買う。昔だってそうだったよ」
「母さんの頃とは違うの」
「何が違うの?」
「店主が私だから」
ルエナは、その答えを聞いて少し黙った。
◇
「母さんは何年もやってたから、客も分かってた。でも私は店を継いだばかりの頃から、若いってだけで値切られたし、鼠系だから細かい金にうるさいだろって笑われたこともある」
ルエナの表情が変わった。
「そんなこと言われたの」
「何度もじゃない。でも、実際に言われたことはある」
「どうして今まで言わなかったの」
「言ったって変わらないでしょ」
ネネは残った葉菜を束ねながら続けた。
「だから、こっちが一回でも簡単に値段を変えたら、また『若いから押せば下がる』って思われるのが嫌なの」
母はすぐには答えず、娘の手元を見ていた。
◇
「それで、どんな状態でも同じ値段にしてるの?」
「一度決めた値段は守る」
「朝採れも、昨日の夕方から残ったものも?」
「同じ商品なら同じでしょ」
「状態が違ってても?」
「食べられるなら」
「ネネ、値段を守ることと、品物の状態を見ないことは別なんじゃないかい」
「分かってるよ」
「本当にそう思ってる?」
「分かってるって」
ネネは話を終わらせるように、店じまいの布を棚へ掛けた。
◇
翌朝、残っていた朝雫菜のうち半分は、自宅で湯通しして食べることになった。
残りは近所へ分けたため捨てずには済んだが、ネネは、本来なら売上になっていたはずの品を無償で配ったという事実から目を逸らすことができなかった。
そこで、その日の仕入れでは葉物を少し減らした。
ところが午後になると、今度は宿屋から急な注文が入り、朝雫菜を十束ほしいと言われた。
「十束?」
「宴会が増えたらしい。夕方までに欲しいって」
仕入れ先の農家から届いた分だけでは足りなかったため、ネネは市場内を回り、他の店から不足分を普段より少し高い値段で買い足すことになった。
◇
その日の売上だけを見れば損はしなかったものの、ネネは帰宅してから帳簿を見ながら、しばらく眉を寄せていた。
仕入れを増やせば売れ残る可能性が高くなり、減らせば急な注文へ対応できない。生鮮品を扱う以上、毎日ぴったり売り切れる量だけを仕入れることなどできないと頭では分かっているのに、余った時の扱いを自分で狭くしているせいで、必要以上に仕入れ量そのものを恐れるようになっていた。
「少し散歩してきたら?」
母に言われた。
「何で」
「ずっと帳簿睨んでるから」
「数字が合わないわけじゃないよ」
「だから余計に外へ出た方がいいんだよ」
ネネは不満そうな顔をしたものの、結局上着を取り、家を出ることにした。
◇
市場を離れて西区まで歩いたところで、《持ち込み食堂》の看板が目に入った。
以前から店の存在は知っていたが、自分で食材を扱う仕事をしているため、わざわざ別の店へ持ち込んで料理してもらう機会はなかった。
それでも今日は、帳簿の数字から少し離れて、普段と違うものを食べたい気分だった。
店へ入る直前になって、ネネは手に何も持っていないことへ気づいたものの、持ち込みなしでも普通に食事できると市場の客から聞いたことがある。
「いらっしゃいませ」
ミレイアに迎えられ、ネネは二人掛けの卓へ座った。
「今日は持ち込みなしでもいい?」
「もちろんです」
「じゃあ、何か野菜多めのものが食べたい」
「分かりました。店主に聞いてきますね」
◇
しばらくすると、悠斗が厨房から顔を出した。
「野菜多めなら、黄芋と根玉葱の煮込みか、葉菜の炒め物もできます」
「葉菜って何使うの?」
「朝雫菜です」
ネネの丸い耳がわずかに動いた。
「どこの?」
「東市場で買ったものです」
「何時に?」
「朝ですけど」
「ちょっと見せて」
悠斗は少し驚いたものの、厨房から使う予定の朝雫菜を一束持ってきた。
ネネは葉先、茎、切り口まで順番に確認した。
「これ、昼まで持たせるなら水を当てすぎない方がいいよ」
「やっぱりですか?」
「茎だけ少し湿らせて、葉は濡らしすぎない方がいい。こういう葉は水が残ると傷みやすいから」
「詳しいですね」
「八百屋だから」
◇
「東市場の《青葉籠》です」
「もしかして、鼠系の店主さん?」
「それ私」
「何度か買ったことあります」
「気づかなかった」
「朝は仕込みで急いでることが多いので」
自分の店を覚えていたと知り、ネネは少しだけ機嫌を直した。
「うちの野菜、どう?」
「状態いいですよ。特に根玉葱は外れが少ないです」
「ちゃんと選んでるから」
「仕入れも自分で?」
「もちろん」
仕事の話になると、ネネの声は先ほどまでより少し明るくなった。
◇
悠斗は朝雫菜を使い、塩漬け肉と根玉葱、それに少量の豆を合わせた炒め煮を作った。
葉の部分は最後に加えて火を入れすぎないようにし、茎は先に炒めて甘味を引き出している。
「《朝雫菜と塩漬け肉の温炒め》です」
「普通だね」
「野菜を食べたいって言われたので、あまり変わったことはしてません」
「嫌いじゃないよ、そういうの」
ネネは一口食べた。
茎にはまだ軽い歯応えが残っており、葉には肉の旨味と根玉葱の柔らかな甘さが絡んでいる。
「これ、少し萎れた朝雫菜でも作れる?」
「程度によりますけど、葉が少し寝たくらいなら問題ないと思います」
その答えを聞き、ネネの手が止まった。
◇
「どれくらいまで?」
「腐ってたり、葉が溶け始めていたりするものは使いませんけど、少し水分が抜けた程度なら、火を通す料理へ回すことはあります」
「客に出す?」
「状態を見て、問題なければ出しますよ」
「朝採れと同じ値段で?」
悠斗は少し考えた。
「料理として出すなら、一皿にした時の品質が同じところまで仕上げられるなら、同じ値段にすることもあると思います。ただ、食材そのものを売るなら、見た目や残り時間によって値段を変えることもありそうですね」
「やっぱり変えるんだ」
「八百屋さんなら、そういうことも普通にあるんじゃないです?」
ネネは少し口を尖らせた。
◇
「普通だから嫌なの」
「どうして?」
「値段を下げると、客が安くなるまで待つようになるかもしれないから」
「夕方まで?」
「そう。朝に買わず、値段が落ちるまで待つ客が増えたら困る」
「実際に増えたことはあるんです?」
「分からない」
「まだ、ほとんど値下げしたことがない?」
「そうだよ」
悠斗は少し意外そうな顔をした。
「じゃあ、売れ残ったらどうしてるんです?」
「持って帰るか、人に分ける」
「毎回?」
「全部じゃないよ」
「捨てることもあります?」
「ある」
ネネは少し低い声で答えた。
◇
「それは、かなりもったいないですね」
「分かってる」
「だったら値段を下げればいいのに、とは思いますけど」
「それが嫌なの」
「値下げすることそのものが?」
「私が決めた値段を、客に言われたくらいですぐ変えるのが嫌」
「客に言われなくても、自分で夕方になったら変えるのも?」
「それも何となく同じに感じる」
「どうしてです?」
ネネはしばらく黙っていたが、店を継いだばかりの頃に言われたことを、少しずつ話し始めた。
◇
若いから押せば値下げすると思われたことや、鼠系だから金に細かいと笑われたこと、母の店を継いだだけで自分には商売が分かっていないと決めつけられたことまで、ネネは思い出しながら話した。
だからこそ、一度決めた値段を簡単には変えず、誰に何を言われても同じ条件で売ることで、自分が《青葉籠》の店主なのだと認めさせようとしてきた。
「それは嫌ですね」
悠斗は、話を軽く片づけるような慰めを挟まずに答えた。
「でしょ」
「値切られて下げるのは嫌でも、品の状態を見て自分で値段を決め直すのも、同じように感じるんですね」
「……少しね」
「誰かに言われなくても?」
「私が決めても」
ネネは匙を皿へ置いた。
◇
「最初に高くつけすぎたって、自分で認めるみたいで嫌なの」
「でも朝の状態なら、その値段で合ってたんですよね」
「朝はね」
「夕方になれば、品の状態は変わる?」
「変わる」
「だったら、別の状態になった商品へ値段をつけ直すことまで、朝の値段が間違っていたことになるんでしょうか」
ネネは眉を寄せた。
「それ、言い方を変えてるだけじゃない?」
「そうかもしれません」
「うまく丸め込もうとしてない?」
「してないですよ。俺も八百屋じゃないので、本当にそこは分からないです」
悠斗は少し笑った。
「ただ、朝と夕方で同じ葉菜でも使える時間や向いている料理が違うなら、価値まで完全に同じではないのかなと思っただけです」
◇
「価値が下がるって言いたいの?」
「下がるというより、用途が変わることもある、くらいです」
「同じ葉菜なのに?」
「さっきの炒め物なら少し萎れても使えますけど、生のまま皿へ飾りたい人には朝採れの方が向いてますよね」
「それはそう」
「なら、朝は生食や飾りにも使える品として売って、夕方は加熱向きとして少し安く売るとか」
「名前を分けるの?」
「そこはネネさん次第ですけど、ただ値下げするより理由は伝わると思います」
ネネは腕を組み、少し考えた。
◇
「《加熱向け》って書くのはありかも」
「同じ商品をただ安くした感じは減りそうです?」
「少しはね」
「なら、値段が違う理由も客へ説明しやすい」
「でも、安くなるまで待つ人は出るよ」
「出るかもしれませんね」
「じゃあ困るじゃん」
「朝採れじゃないと困る人まで、夕方まで待ちます?」
ネネはすぐには答えなかった。
「宿屋とか、その日に使う量が決まってる店は朝に買う」
「家庭でも、昼や夕方に生で食べたいなら早く買いますよね」
「たぶん」
「なら、待つ人は元々それほど急いでいない人かもしれません」
◇
「でも、夕方まで残るかどうか分からないよ」
「それも伝えたらどうです?」
「何て?」
「夕方まで残っていた場合だけ加熱向けにする、とか」
「そんな売り方、聞いたことない」
「駄目です?」
「駄目とは言ってないけど」
ネネは少しだけ笑った。
「料理人って、商売のこと適当に考えるね」
「適当というより、八百屋の常識を知らないだけです」
「それを普通に認めるんだ」
「知らないものは、知らないですから」
悠斗はそう答え、空いた皿を下げた。
◇
その日の帰り、ネネは市場へ戻らず、そのまま自宅へ向かった。
母のルエナは、卓で乾燥豆の選別をしていた。
「食べてきたの?」
「うん」
「何食べた」
「朝雫菜」
「家にもあるのに」
「そうなんだけど」
ネネは上着を脱ぎながら、食堂で話した内容を母へ伝えた。
「加熱向けって分けるのかい」
「変かな」
「別に変ではないね」
「母さんもやってた?」
「名前まではつけてなかったけど、夕方に『煮物ならこれで十分だよ』って安く渡すことはあったよ」
「それと同じか」
「だいたいね」
◇
「でも、待つ客が増えたら嫌なんだよ」
「増えすぎて困ったら、やり方を変えればいいじゃない」
「そんな簡単に変えていいの?」
「店なんて、試しながらやっていくもんだよ」
「母さん、いつもそれ言うよね」
「だって本当にそうだったからね」
ルエナは豆を一つずつ分けながら続けた。
「私だって最初から今の売り方だったわけじゃないし、午前に売れすぎて昼には品切れしたこともある。雨の日に果物を仕入れすぎて、かなり腐らせたことだってあるよ」
「それは知ってる」
「知らない失敗だっていっぱいある。あんたが生まれる前から店をやってるんだから」
ネネは少し笑った。
◇
「母さんは、値段を下げるの怖くなかった?」
「何が怖いの」
「安い店だって思われること」
「安い時もある店とは思われてたんじゃない?」
「それでいいの?」
「高い時もあるからね」
ルエナの答えは、いつも通りあっさりしていた。
「大事なのは、どうしてその値段なのか自分で分かってることじゃないかい。朝の新しい葉菜と、夕方まで残った葉菜を同じ値段にするなら、それにも理由が必要だし、変えるなら変えるで自分なりの理由が必要になる」
「客に押されて変えるのとは違う?」
「そこはまったく別の話だよ」
ネネはその言葉を聞きながら、しばらく黙っていた。
◇
翌朝、《青葉籠》の店先には、いつも通り朝採れの朝雫菜が並んだ。
値段も昨日までと変えず、午前中は特別なことをせず、普段通り客へ売っていった。
昼を過ぎ、葉が少し寝始めた束が三つ残ったところで、ネネはそれらを一束ずつ手に取った。
茎にはまだ張りがあり、匂いにも異常はないため、生で見栄えよく使うなら朝採れより劣るものの、炒め物や煮物へ使うのであれば問題ない状態だった。
ネネはしばらく考え、小さな木札を一枚用意した。
◇
《本日中の加熱向け 少しお得》
値段は通常より一割だけ下げることにした。
木札を立てた瞬間には、まるで自分から店の価値を下げてしまったような落ち着かなさが胸の奥に残り、ネネは何度も札へ目を向けた。
隣の乾物店の女性はすぐに変化へ気づいた。
「やっとやったね」
「見ないでよ」
「市場で店出してて、見ないでくれは無理だろ」
「今日だけ試すの」
「いいんじゃないかい」
「客が夕方まで待つようになったら、やめるからね」
「好きにしな」
ネネは腕を組み、しばらく札を睨むように見ていた。
◇
最初に加熱向けの朝雫菜を買ったのは、近所に住む年配の男性だった。
「これ、何が違うんだ?」
「朝のより少し葉が寝てる。生で飾るより、炒めるか煮るならこっちで十分」
「今日の夕飯で煮るつもりなんだ」
「だったら問題ないよ」
「安いなら二束もらう」
「ありがとう」
男は一度も値切ることなく、木札に表示された金額をそのまま支払って帰っていった。
ネネは代金を受け取りながら、自分が想像していたようなことが何も起こらなかったため、少し拍子抜けした。
◇
次に来たのは、以前値下げを頼んできた宿屋料理人だった。
「お、今日は安いじゃないか」
「加熱向けだけね」
「朝のも下げてよ」
「そっちは下げない」
「一束くらいいいだろ」
「嫌なら加熱向け買って」
「生で添える分が欲しいんだよ」
「だったら朝の値段」
ネネは迷わず答えた。
料理人は少しだけ笑った。
「なるほど、用途で分けたのか」
「そう」
「じゃあ朝のを三束。それと加熱向けも二束くれ」
「両方買うの?」
「スープにも使うからな」
ネネは意外そうに目を見開いた。
◇
その日の朝雫菜は、夕方までにすべて売れた。
通常価格で売った分もあれば、一割下げた分もあるため、全部を朝の値段で売り切った場合と比べれば一束あたりの利益は少なくなっている。それでも昨日のように自宅へ持ち帰ったり、近所へ分けたりした品は一つもなかった。
ネネは閉店後に帳簿を開き、いつもより細かく数字を確認した。
「どう?」
母が尋ねる。
「悪くない」
「どれくらい?」
「全部通常価格で売れた場合よりは少ない。でも、昨日みたいに残した時よりはちゃんと利益がある」
「なら、試した意味はあったね」
「一日だけじゃ分からないよ」
「だったら、しばらく続けて見ればいい」
ネネは小さく頷いた。
◇
それから一週間、ネネは毎日同じ時間に同じような値下げをしたわけではなかった。
午前中に売り切れれば、当然ながら何も変えずに終える。
夕方になっても状態がほとんど落ちていない品については、通常価格のまま置いた。
葉先が少し萎れ、生食向きとは言いづらくなったものだけを《加熱向け》として分け、値段についても状態に合わせ、一割から二割ほど下げることにした。
さらに、傷があるものの中身に問題のない果実には《煮込み・焼き菓子向け》、形の不揃いな根菜には《刻み料理向け》という札も試したところ、売り場が分かりにくくなるどころか、客からはむしろ選びやすいと言われることが増えていった。
◇
もちろん、値札を分けたからといって、すべてが思い通りに進んだわけではない。
「これ、もう少し下がらない?」
ある日の夕方、若い客が加熱向けの葉菜を持ちながら尋ねた。
「表示の値段まで」
「でも、もう閉店近いでしょ」
「だから、その分はもう下げてる」
「残ったら困るんじゃない?」
「困るけど、それ以上下げるかどうかは私が決める」
「少しくらいいいじゃん」
「駄目」
ネネは、以前のように感情的になることなく、はっきりと断った。
客は少し不満そうな顔をしたものの、そのまま表示価格で一束買って帰っていった。
◇
そのやり取りを見ていた母が、閉店後に笑った。
「ちゃんと断れたじゃない」
「何が?」
「値下げしてると、何でも言われたら下げると思われるのが怖かったんだろ」
「今でもそれは嫌だよ」
「でも、自分で値段を変えるのと、相手に押されて変えるのは違った?」
「……違った」
「ならよかったじゃない」
「まだ全部安心したわけじゃない」
「何が気になるの」
「これで店の印象がどうなるか」
ルエナは少し考えながら、棚へ視線を向けた。
◇
「一か月後も客が普通に来てるなら、それで大丈夫なんじゃない」
「雑すぎない?」
「商売は数字だけでも分からないし、気分だけでも決められないからね。実際にやりながら見て決めればいい」
「またそれ」
「便利な言葉だからね」
母が笑うと、ネネも少しだけ笑った。
店を継いだ頃から、自分は母よりきっちりやらなければならないと思ってきた。若いから軽く見られないようにし、獣人だからという偏見を商売へ持ち込まれないようにするためには、値段も規則もなるべく揺らさない方がいいと考えていた。
ただ、基準を持つことと、目の前の状態が変わっても何一つ動かさないことは、同じではなかった。
◇
十日ほど経った頃、《青葉籠》へ一人の女性客がやって来た。
「明日の昼に使う野菜なんだけど、今日買っても大丈夫なものある?」
「何作るの?」
「肉と一緒に長く煮る予定」
ネネは棚を見回し、朝採れの葉菜ではなく、形の少し崩れた根玉葱と、加熱向けへ分けた朝雫菜を選んだ。
「これなら少し安くていいよ。明日まで置くなら、葉菜だけ濡らしすぎないようにして」
「新しい方じゃなくていいの?」
「長く煮るならこっちで十分だよ。朝採れを使っても、仕上がりはそんなに変わらないから」
「店の人が安い方を勧めて大丈夫なの?」
「必要ないのに高い方を買わせる方が、次に来てもらえなくなるでしょ」
口にした直後、ネネ自身が少し驚いた。
◇
以前なら、高い方が売れるのであれば、それで構わないと考えていたかもしれない。
騙しているわけではなく、どちらも食べられる商品なのだから問題ないと思っていた。
けれど今は、客が何に使うのかを聞いたうえで、その用途へ合う品を選ぶ方が、一度高い品を売るよりも、次にまた自分の店を使ってもらえるような気がしていた。
女性は勧められた野菜を買い、数日後にはもう一度店へやって来た。
「前の野菜、ちょうどよかったよ」
「本当?」
「煮たら全然気にならなかった。今日も同じ感じのある?」
「今日は加熱向けの葉菜はまだ出してないけど、夕方まで残れば分けるかもしれない」
「じゃあ、またその頃に来るね」
客はそう言って帰っていった。
◇
ネネはその背中を見送りながら、少しだけ複雑な気持ちになった。
確かに夕方まで待つ客は現れたため、自分が最初に心配していたことが完全な思い込みだったわけではない。
しかし、その客はもともと朝採れを必要としておらず、安いものしか買わない客になったというより、自分の用途に合う時間と品を選ぶようになっただけだった。
その一方で、朝採れの見た目が必要な料理人や、その日の昼に使う家庭客は今まで通り早い時間に買っているため、売り方を分けたからといって、すべての客が安い方へ流れたわけでもなかった。
◇
月末になると、ネネは仕入れ帳と売上帳を並べ、この一か月の数字を確認した。
値下げした分だけ一品あたりの利益は減っているものの、その一方で、廃棄した葉物と果実の量は前月より大きく減っており、自宅へ持ち帰って消費した分も少なくなっている。
すべてを差し引いてみると、店に残った利益は前月よりわずかに増えていた。
「母さん」
「何?」
「先月より残った」
「お金が?」
「うん」
「よかったじゃない」
「もっと早くやればよかった」
「それは、今のあんただから言えるんだよ」
ルエナは笑った。
◇
「前のあんたには、たぶん無理だったと思うよ」
「何で」
「値段を下げることと、客に負けることを同じにしてたから」
「母さん、分かってたの?」
「だいたいはね。でも私が言っても、あの頃のあんたは聞かなかったでしょ」
「言ってたじゃん」
「言っても聞かなかったじゃない」
「……そうだけど」
ネネは少し唇を尖らせた。
「だったら、もっとちゃんと言ってよ」
「店主はあんたなんだから、最後は自分で納得しないと続かないよ」
母の言葉に、ネネは反論しなかった。
◇
数日後、ネネは小さな籠を持って《持ち込み食堂》を訪れた。
「今日は持ち込みですか?」
ミレイアが尋ねる。
「うん。売り物にしなかったやつ」
籠の中には、葉先が少し下がった朝雫菜と、表面に小さな傷がある根玉葱、それに形の歪んだ赤実が入っていた。
悠斗が出てくると、ネネは籠を卓へ置いた。
「全部、食べる分には問題ない。今日中に加熱するなら使えるよ」
「八百屋さんのお墨付きなら助かります」
「ちゃんと自分でも見てよ」
「もちろんです」
悠斗は、品の状態を一つずつ確かめていった。
◇
「前より持ち帰り、減ったんじゃないです?」
「かなり減ったよ」
「じゃあ今日はどうして?」
「売り場の分け方を試してる途中で、少しずつ残ったのをまとめて持ってきた」
「料理してほしい?」
「できれば」
「何か希望あります?」
「全部一緒に使えるものがいい」
悠斗は少し考えたあと、朝雫菜は最後に加え、根玉葱と赤実を先に煮る料理を作ることにした。
塩漬け肉を少量使い、赤実の酸味を活かした温かい煮込みへ仕上げていく。
◇
出来上がった《根玉葱と赤実、朝雫菜の軽い煮込み》を食べながら、ネネは最近の店の変化を話した。
「夕方まで待つ客、やっぱり出たよ」
「困りました?」
「思ったほどじゃなかった。待つ人は、だいたい最初から朝採れじゃなくてもいい人だった」
「なら、客ごとに分けられた?」
「うん。生で使いたい人、その日にすぐ使う人、次の日に煮る人で、欲しいものが違うみたい」
「値下げは、まだ嫌です?」
「客に言われて下げるのは今でも嫌」
「自分で決めるのは?」
「前よりずっと平気」
ネネは煮込みを食べながら答えた。
◇
「最初の値段が間違ってたわけじゃないって、思えるようになったから」
「朝には朝の値段がある?」
「そう。夕方には夕方の状態があるし、加熱向けなら加熱向けとしての値段がある」
「同じ野菜でも、少し違う商品みたいな感じですか」
「完全に別物じゃないけど、売る時の条件が違うって感じかな」
「なるほど」
「それに、何でも安くするわけじゃないからね」
「そこは変えない?」
「言われたからって下げない。状態を見て、私が決める」
その言い方には、以前のように自分を守るため無理に声を強くしているような尖り方がなかった。
◇
「お母さんは何て?」
「『やっと商売らしくなってきた』って」
「厳しいですね」
「ずっと店をやってた人だから」
「ネネさんも店主ですよね」
「そうだよ」
ネネは間を置かずに答えた。
以前なら、その言葉を口にする時にはどこか身体へ力が入っていたかもしれない。
自分は母の代わりではなく、自分自身が店主なのだと証明するため、必要以上に強く振る舞おうとしていたからである。
今は、値段を守る時もあれば、品の状態を見て変える時もあり、そのどちらも自分で理由を持って決めるのであれば、それで十分に店主としての判断になると思えるようになっていた。
◇
食事を終えたあと、ネネは悠斗へ一つ相談した。
「店で、簡単な料理の札を置いてもいいかな」
「料理の札?」
「加熱向けの野菜を買った人に、『炒めるならこう』『煮るならこう』って簡単な使い方を書くの」
「いいと思います」
「詳しい作り方まで書かなくてもいいよね」
「むしろ、何に向くかだけの方が使いやすいかもしれません」
「じゃあ、今日のこれも書いていい?」
「もちろん。ただ、俺の店の名前まではいらないですよ」
「何で」
「八百屋さんの売り方として出した方が自然でしょうから」
ネネは少し考えてから頷いた。
◇
翌日から、《青葉籠》の棚には用途を記した小さな木札がいくつか増えた。
《加熱向け朝雫菜――塩漬け肉と炒めても、豆と煮ても可》
《傷あり赤実――煮込み、焼き菓子、甘煮向け》
《形不揃い根玉葱――刻み料理なら通常品と同じ》
料理人ではないネネが書くため、細かな分量や火加減までは載せず、何に向いている品なのかだけを短く示した。
すると、それまで傷物を何となく避けていた客からも「この料理なら使える」と言われることが増え、中には用途を先に話してから品を選ぶ客も現れたため、ネネ自身も、ただ野菜を袋へ入れて渡すだけではなく、「何に使うのか」を尋ねるようになっていった。
◇
ある日の夕方、若い母親が小さな子どもを連れて店へ来た。
「今日のスープに入れる野菜、安いので何かある?」
以前のネネなら、その言葉を聞いた瞬間に少し身構えていたかもしれない。
安いものを求める客は、自分の店の品を低く見ているのではないかと考えていたからだ。
今は棚を見回し、朝から残った根玉葱と、加熱向けへ移した葉菜を選んだ。
「これなら十分使えるよ。今日のうちに煮るなら問題ない」
「いくら?」
「合わせてこの値段」
「助かる」
「葉菜は最後に入れた方がいいよ。煮すぎると柔らかくなりすぎるから」
「分かった」
◇
母親は代金を払い、子どもの手を引いて帰っていった。
ネネはその背中を見送りながら、安く売ったという感覚よりも、必要としている人へ、その用途に合った状態のものを渡せたという感覚の方を強く持てるようになっていた。
もちろん、何でも値下げすればいいとは今でも思っていない。
朝から状態のいい品を安くしろと言われれば断るし、表示価格からさらに値切られても、品の状態や売れ残り具合に自分なりの理由がない限り、下げるつもりはなかった。
自分の仕事を軽く扱われることに慣れる必要はないものの、品物の状態が変わった時に値段まで見直すことは、商人として弱くなることとは違うのだと、今では理解できていた。
◇
閉店後、ネネはその日の売れ残りを一つずつ確認した。
葉菜は一束も残っておらず、赤実が二つと根玉葱が三つだけ籠に残っている。
「それ、持って帰る?」
母が尋ねた。
「赤実は明日の朝まで大丈夫そう。根玉葱も、今の状態ならそのまま売れると思う」
「値段はどうするの?」
「明日の朝にもう一度見てから決める」
「今は決めないの?」
「一晩置いたあとの状態を見ないと、本当のところは分からないでしょ」
ルエナは一瞬だけ娘の顔を見たあと、どこか嬉しそうに笑った。
「そうだね」
「何、その顔」
「別に何も」
「絶対何か言いたいでしょ」
「店主らしくなったと思っただけだよ」
「前から店主だってば」
ネネも笑いながら、残った野菜を籠へ戻した。
◇
翌朝、ネネは前日から残った赤実と根玉葱を一つずつ手に取り、匂いと張り、それに表面の状態まで確かめた。
赤実の一つは少し柔らかくなっていたため《煮込み向け》へ回し、もう一つはまだ通常品として並べられると判断する。根玉葱については三つとも状態に問題がなく、前日と同じ値段で棚へ戻すことにした。
朝だから高くし、夕方だから機械的に安くするのではなく、その時の状態と用途を見て、自分で決めればいい。
客に押されないためだけに値段を動かさないのではなく、なぜその金額なのかを自分の言葉で説明できるように値段を決めればいいのだと考えると、以前ほど値札を変えることそのものが怖くなくなっていた。
ネネは新しく仕入れた朝雫菜を棚へ並べながら、前日から残った品についても同じように一つずつ確かめ、その日の《青葉籠》で何をどの状態で、いくらで売るのかを、自分の目と手で決めていった。
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