第35話 湿った岩塩と、家へ帰れない塩商人
トーマ・ギルは、レーヴェンへ戻ってくるたびに、自宅より先に倉庫へ向かう習慣を二十年近く続けていた。
四十四歳になる彼は、城壁都市レーヴェンと西方の塩鉱地帯を往復しながら岩塩を扱う商人であり、料理用の細かな白塩から、肉や魚の保存に使われる粗塩、革加工や染色に回される低級塩まで、用途に合わせて複数の品を仕入れている。豪商と呼ばれるほど大きな商会ではないものの、宿屋、肉屋、漬物屋、皮革工房など決まった取引先を多く抱えており、彼が数週間街を離れることも珍しくなかった。
妻のマイラと十六歳になる娘のリーナは市内南区の家で暮らしており、トーマ自身もそこを住まいとしているものの、一年のうち三分の一ほどは仕入れの旅に出ているうえ、街へ戻ったあとも倉庫や取引先を回ってから帰宅するため、家族と食卓を囲める日は本人が思っているほど多くなかった。
それでもトーマは、商人なのだから仕方がないと考えている。
家族を養うために働き、その仕事のために家を空けているのだから、自分は父親としてやるべきことをやっているつもりだった。
◇
秋の雨が細く降り続いた日の午後、トーマは西方から戻ってきた荷馬車と一緒に、レーヴェンの西門をくぐった。
今回の旅は十八日間に及び、荷台には大きな麻袋が二十以上積まれている。
「トーマさん、先に家へ行かなくていいのか?」
御者を務めていた若い男が尋ねた。
「荷を下ろしてからだ」
「俺たちでやっとくぞ」
「湿気を食ってる袋がある。中を見てからじゃないと帰れん」
「明日の朝でもいいだろ」
「塩は待ってくれん」
トーマは荷馬車から降りると、そのまま倉庫の扉を開けた。
長旅で身体は重く、背中にも鈍い痛みが残っていたが、荷物の状態を確認しないまま家へ帰る方が落ち着かなかった。
◇
問題の袋は、荷台の一番外側に積まれていた。
道中で強い雨に降られた際、覆い布の端から水が入り込んだらしく、麻袋の一部が濃い色へ変わっている。
トーマが紐を解いて中を確かめると、本来なら乾いた粒として崩れるはずの灰白色の岩塩が、いくつもの塊になって固まっていた。
「やっぱり湿ってるな」
御者が横から覗き込んだ。
「表面だけじゃない。中まで少し水を吸ってる」
「売れない?」
「料理用の上等塩としては、そのまま出せん」
塩そのものが腐敗したわけではなかったが、水分を吸えば粒の大きさが不均一になり、不純物が表面へ浮くこともあるため、いつもの商品と同じ袋へ混ぜて販売するわけにはいかなかった。
トーマは問題の袋を脇へ避けると、残りの荷物についても一つずつ状態を確認していった。
◇
すべての荷を確かめ終えた頃には、空がかなり暗くなっていた。
「じゃあ俺たちは帰るぞ」
「ああ。明日は朝から袋詰めを頼む」
「分かった。トーマさんも早く帰れよ」
「この湿った分だけ見たら帰る」
御者は呆れたように笑い、仲間と一緒に倉庫を出ていった。
トーマは一人になると、湿気を含んだ岩塩を小皿へ取り、指先で崩しながら状態を確かめた。
乾かせば売れる部分はあるものの、どの程度まで品質が戻るかを判断するには、少なくとも一晩は広げて乾燥させた方がいい。
そのための作業を始めようとしたところで、倉庫の扉が勢いよく開いた。
◇
「やっぱりここにいた」
入ってきたのは、娘のリーナだった。
十六歳になった彼女は母親譲りの茶色い髪を肩まで伸ばしており、今日は雨除けの外套を羽織っている。
「どうした」
「母さんが、父さん帰ってきたって聞いたから」
「今から家へ帰るところだ」
「それ、三時間前にも言ってたって御者のおじさんから聞いた」
「荷物に問題があったんだ」
「毎回何かあるじゃん」
「今回は本当にある」
トーマは湿った岩塩を娘へ見せた。
「これを確認しないと、明日からどう売るか決められん」
「今日じゃなきゃ駄目なの?」
「商売だからな」
その答えを聞いたリーナは、あからさまに不満そうな顔をした。
◇
「母さん、夕飯作って待ってるよ」
「分かってる。もう少ししたら帰る」
「その『もう少し』が長いんだって」
「今日は旅から戻ったばかりなんだ。荷の確認くらいさせろ」
「戻ったばかりだから言ってるの」
リーナは倉庫の入口から動かなかった。
「十八日ぶりに帰ってきたのに、最初に家へ来ないで倉庫へ来て、夕飯の時間になっても仕事してるじゃん」
「この塩を売った金で、お前たちも暮らしてるんだぞ」
「それを言えば、何でも仕事優先にしていいの?」
トーマの表情が硬くなった。
「子どもが商売のことを簡単に言うな」
「私はもう十六だよ」
「まだ店を持ったこともないだろ」
「父さんだって、家にほとんどいないのに、家族のこと全部分かってるみたいに言うじゃん」
言い返そうとしたトーマより先に、リーナが背を向けた。
◇
「母さんには、今日も遅いって言っとく」
「待て、リーナ」
「何?」
「帰るって言ってるだろ」
「だったら帰ってきてよ」
それだけ言い残し、リーナは雨の中へ出ていった。
トーマは扉まで追いかけたものの、すぐに呼び止めることはできなかった。
倉庫には西方から運んできた岩塩が積まれており、家へ戻れば妻と娘が待っている。どちらが大事かと聞かれれば迷わず家族だと答えるつもりなのに、実際の行動だけを見れば、毎回先に選んでいるのは仕事だった。
◇
結局その夜、トーマが帰宅したのは、家族の食事が終わったあとだった。
妻のマイラは何も責めず、冷めた煮込みを温め直してくれた。
「リーナは?」
「部屋にいるわ」
「まだ怒ってるのか」
「怒るでしょうね」
「荷物に問題があったんだ」
「分かってるわよ。あなたが遊んで遅くなったなんて、誰も思ってないもの」
「だったら――」
「仕事だから仕方ないって、私もずっと言ってきたわ」
トーマは言葉を止めた。
◇
「でもね、仕方ないことが続きすぎると、待つ方も疲れるのよ」
「旅に出ないわけにはいかん」
「旅へ出るなとは言ってないでしょう」
「帰ってきた日は荷を見なきゃならん」
「全部あなたが見ないと駄目なの?」
「俺の商品だぞ」
「御者の人たちも、倉庫で働いてる若い人もいるじゃない」
「最後に責任を持つのは俺だ」
「最後に責任を持つことと、最初から最後まで全部一人でやることは同じなの?」
その問いには、トーマもすぐには答えられなかった。
最近どこかで似たような話を聞いた気がしたものの、今はまだ思い出せなかった。
◇
翌朝、トーマは日の出前から倉庫へ向かった。
昨夜広げておいた湿った岩塩を確認すると、表面はかなり乾いていたものの、固まった部分にはまだ水分が残っている。
通常の細粒塩として砕き直すこともできそうだったが、一度湿気を吸っている以上、いつもの上等塩と同じ価格で出すことには抵抗があった。
「加工用へ回すか」
独り言を漏らしながら、トーマは塊をいくつか袋へ入れた。
肉屋や漬物屋なら、細かな粒の見た目をそこまで気にせず、用途によっては十分使えるかもしれない。
まず実際に食材へ使った時の違いを確かめたいと思い、馴染みの料理人へ持っていくことも考えたが、以前取引先から聞いた《持ち込み食堂》のことを思い出した。
◇
昼前、《持ち込み食堂》へ入ったトーマは、持ってきた袋を卓へ置いた。
「いらっしゃいませ」
ミレイアが中身を見て首を傾げた。
「今日は塩ですか?」
「岩塩だ。雨で少し湿った」
厨房から出てきた悠斗が、袋の中を確認した。
「食べる分には問題ないんです?」
「塩そのものは問題ない。ただ、普段売ってる状態とは違う」
「かなり固まってますね」
「水を吸ったんだ。乾かして砕き直せば使えると思うが、味まで変わってないか確かめたい」
「だったら、普通の塩と比べてみましょうか」
「できるか?」
「単純な料理なら、違いが分かりやすいと思います」
トーマは頷いた。
◇
悠斗は、店に置いてある通常の岩塩と、トーマが持ってきた湿気を吸った塩を少量ずつ用意した。
まずそれぞれを少量の湯へ溶かし、濁りや沈殿がないかを確かめる。
「見た感じ、大きな違いはないですね」
「元は同じ塩鉱の品だからな」
「じゃあ、味も少し見てみます」
ごく薄い塩水にして比べたところ、塩味そのものにも大きな差はなかった。
「食べる分には普通に使えそうです」
「問題は粒か」
「料理する側からすると、塊のままだと量を測りにくいですね」
「やっぱり砕き直す必要はあるか」
「ただ、全部細かくしなくても使い道はありそうです」
悠斗は塊になった岩塩を一つ持ち上げた。
◇
「肉を焼く時に、こういう大きめの塩を使うことはあります?」
「粗塩ならある」
「じゃあ今日は鳥肉で試してみます」
悠斗は鳥肉を二枚用意し、一方には通常の細粒塩を均等に振り、もう一方には湿った岩塩を砕いて、少し粗めの粒として使った。
塩を馴染ませる時間を同じにしてから鉄鍋へ並べ、皮側から焼いていく。
焼けた肉を切り分けると、トーマは二つを順番に食べ比べた。
「ほとんど変わらんな」
「塩の当たり方は少し違いますね」
「粗い方は場所によって強い」
「なら、均等に味をつける料理より、仕上げで使う方が向いてるかもしれません」
悠斗は残った粗い塩を見ながら言った。
◇
「もう一つやってみます?」
「何だ」
「根菜を焼いて、最後に少しだけ乗せます」
黄芋と根玉葱を厚めに切り、油を少量使ってゆっくり焼く。中まで柔らかくなったところで、湿った岩塩を乾かして粗く砕いたものをほんの少量だけ振り、仕上げに香草を添えた。
「《焼き根菜の粗岩塩仕立て》です」
「名前は大げさだな」
「今日は塩を試す料理なので」
トーマは笑いながら黄芋を一つ取った。
表面には大きめの塩粒がところどころ残っており、噛むと柔らかな黄芋の甘さが広がったあと、少し遅れてはっきりした塩味が感じられる。
「これは悪くない」
「細かい塩とは、使い方を分けられそうですね」
◇
「ただ、この状態で普通の上等塩として売るのは違う」
トーマが言った。
「そこは変えない?」
「変えん。一度湿って粒が崩れてるものを、いつもの袋へ混ぜて同じ値段で売るのは客に失礼だ」
「じゃあ別の商品として出す?」
「粗く砕いて料理用の粗塩にするか、加工用へ回す。値段は少し下げるつもりだ」
「売れそうです?」
「取引先に聞けばな」
「全部捨てるよりはよさそうですね」
「塩は簡単に捨てられるようなものじゃない。運ぶだけでも金がかかってる」
トーマはそこまで言ってから、自分の話し方が完全に商売のものへ戻っていることに気づいた。
◇
「仕事好きなんですね」
悠斗が言った。
「嫌いなら二十年もやってない」
「旅も多い?」
「ああ。西の塩鉱まで行けば、往復だけでも十日以上かかる」
「家族は?」
「妻と娘がいる」
「長く留守にするんですね」
「商人だから仕方ない」
トーマは自然にそう答えたものの、昨夜娘から言われた言葉が頭へ浮かんだ。
「昨日帰ってきたんだ」
「長い旅のあとに?」
「十八日ぶりだった」
「かなり疲れてますね」
「そんなに分かるのか」
「顔に出てます」
悠斗は苦笑した。
◇
「昨日、家族とゆっくりできました?」
「帰ったのは遅かった」
「倉庫にいた?」
トーマは少し眉を上げた。
「本当に何で分かるんだ」
「その塩、昨日の荷物だったんですよね」
「ああ。湿ってたから確認してた」
「家族は?」
「娘が迎えに来て、怒って帰った」
「どうして?」
「俺が倉庫から帰らなかったからだ」
悠斗はすぐには何も言わず、トーマが続きを話すのを待った。
「十八日ぶりだった」
「それなら、帰ってくるのを待ってたかもしれませんね」
「分かってる」
トーマの返事は、少し強くなった。
◇
「でも荷物も放っておけん。もし水がもっと入ってたら、早く乾かさないと駄目になる袋もあるし、取引先への納品も決まってる。俺が責任を持って仕入れた品だからな」
「家に帰ることと、どっちか一つしかできなかったんです?」
トーマは答えに詰まった。
「昨日の話です」
「確認に時間がかかった」
「全部トーマさんが確認した?」
「ああ」
「誰かに途中まで任せるのは?」
「御者もいたし、倉庫で働く若いのもいる。ただ、最後に俺が見ないと気が済まん」
「じゃあ、全部自分でやる必要があったのか、全部自分で見ないと落ち着かなかったのかは、少し違う話かもしれませんね」
トーマは悠斗を睨んだ。
◇
「商人でもないやつが簡単に言うな」
「すみません。そこは俺には分からないです」
「分からないなら余計なこと言うな」
「はい」
悠斗はあっさり引き下がり、厨房へ戻った。
トーマは一人で根菜を食べながら、しばらく苛立ちを抱えていた。
ただ、その苛立ちは悠斗の言葉だけへ向いたものではなく、昨夜妻から聞かされた言葉とも重なっている。
最後に責任を持つことと、最初から最後まで自分一人でやることは本当に同じなのかと問われても、二十年近く商売を続けてきたトーマには、すぐ答えを出すことができなかった。
◇
「俺がいないと困るんだ」
しばらくして、トーマが自分から言った。
悠斗が振り返る。
「倉庫も?」
「ああ。塩の等級を決めるのも、取引先ごとにどの袋を出すのか決めるのも、俺が一番分かってる」
「他の人には教えてない?」
「教えてはいる」
「できない仕事ばかりです?」
「できることもある」
「だったら、トーマさんが帰ってきた日に全部やらなくてもいい仕事もある?」
トーマはすぐに否定しようとしたが、昨日の荷下ろしを順番に思い返した。
湿っていた袋を見つけるところまでは御者でもできたし、他の袋へ水が回っていないかを確認する作業も、決めた基準さえあれば倉庫係へ任せられる。自分が本当に必要だったのは、問題のある塩をどう扱うかという最後の判断だけだった。
◇
「二時間くらいなら短くできたかもしれん」
トーマが言った。
「それでも家へ着くのは遅かった?」
「昨日なら夕飯には間に合った」
「じゃあ、どうして全部見たんです?」
「昔からそうしてきたからだ」
「昔から?」
「親父の頃からな」
「お父さんも塩商人だった?」
「ああ」
トーマは水を飲み、少し黙った。
「うちは親父と二人で商売してた。俺が二十代の頃は、二人で交代して仕入れにも行ってたんだ」
「今は一人で?」
「親父は十年前に引退した。それからは、俺が全部見るようになった」
◇
父親が現役だった頃、トーマが仕入れの旅から戻ると、倉庫の確認は二人で行っていた。
トーマが袋を開けて中身を見る間に父が数量を確認し、問題のない荷は先に棚へ移していく。判断が分かれる品だけを二人で見ればよかったため、荷馬車一台分を扱っても、今ほど遅い時間まで倉庫へ残ることはなかった。
ところが父が引退してから、トーマはその二人分の手順をほとんど一人で続けている。
倉庫で働く者を雇うようになっても、袋を開けるところから品質を決めるところまで自分で行い、従業員には運搬や記録だけを任せることが多かった。
「親父がいなくなった時、商売の質を落としたくなかったんだ」
トーマが言った。
◇
「二人で守ってた品質を、一人になったから下げたって言われたくなかった」
「それで全部自分で見るようになった?」
「ああ。取引先も親父から引き継いだところが多かったからな」
「十年続けて、品質は落ちました?」
「落としてない」
「従業員は?」
「二人増えた」
「その人たちには何を教えてます?」
「袋の保管、湿気の見方、色の違い、粒の選別くらいは教えてる」
「かなりのところまでできますね」
「最終判断は俺がする」
「そこは、そのままでもいいんじゃないですか」
トーマは意外そうに顔を上げた。
◇
「全部任せろって話じゃないのか」
「俺はそこまで言ってないですよ」
「じゃあ何だ」
「トーマさんしかできない判断だけ最後に見て、それまでの確認を他の人へ任せる方法もあるのかなと思っただけです」
「間違えたら?」
「最後に確認し直す?」
「二度手間だ」
「毎回全部トーマさんがやる時間と、ときどき確認し直す時間なら、どっちが長いんでしょうね」
トーマは黙った。
「料理でも、全部俺だけでやった方が早い時はあります。でも店がもっと大きくなったら、それだけじゃ回らないかもしれません」
「今は小さい店だろ」
「はい。だから俺も、偉そうなことは言えません」
悠斗はそこで話を切った。
◇
トーマは残った根菜を食べながら、十八年間の商売を振り返った。
父と二人で働いていた頃、自分一人ですべてを見ていたわけではなく、むしろ父へ任せることと、自分が任されることの両方を経験しながら商売を覚えてきた。
それなのに父が引退し、自分が商会の責任者になった途端、「責任者は全部自分で確かめるものだ」と考えるようになっていた。
家族を養うために働いているという言葉も嘘ではないものの、その仕事を理由にして、自分で減らせるはずの時間まで家族から取っていたのだとすれば、娘が怒った理由も少し違って見えた。
◇
「この塩、持って帰ります?」
悠斗が尋ねた。
「ああ。乾かして分ける」
「売り方は決まりました?」
「通常品には混ぜない。状態のいい分は粗塩として別に出して、残りは加工用を使う店へ相談する」
「それなら無駄にはならなそうですね」
「食える塩だからな」
「今日中に全部やります?」
トーマは反射的に「ああ」と答えかけたものの、口を止めた。
今から倉庫へ戻れば、袋の中身をすべて広げ、粒の大きさを分け、取引先ごとの量まで決めることができる。
しかし明日の納品には、まだ丸一日以上の余裕がある。
「今日は乾燥だけ部下に頼む」
「トーマさんは?」
「家に帰る」
言葉にすると、少しだけ落ち着かない気分になった。
◇
食堂を出たトーマは、そのまま倉庫へ向かった。
いつもなら外套を脱いですぐ作業へ入るところだったが、今日は入口で若い倉庫係を呼んだ。
「ハイン」
「はい」
「昨日の湿った塩、覚えてるな」
「端に分けた袋ですよね」
「全部平箱へ広げて乾かしてくれ。黒ずみや変な匂いがある部分は別に分けろ」
「粒の大きさは?」
「今日は分けなくていい」
「明日の朝で?」
「ああ。俺が見て決める」
ハインは少し不思議そうな顔をした。
「トーマさん、もう帰るんですか?」
「帰ったら悪いか」
「いや、まだ明るいから珍しいなって」
「余計なこと言うな」
◇
「でも、どこまで判断していいんです?」
ハインが尋ねた。
「売り物の判断はするな。今日は乾かして、明らかに変色してるところだけ別にしろ」
「それならできます」
「迷ったら触らず残しておけ。明日俺が見る」
「分かりました」
トーマは倉庫を出かけたものの、三歩ほど進んだところで振り返った。
「覆い布も乾かせよ。濡れたまま畳むな」
「分かってます」
「床側の箱は――」
「湿気が残ってないか確認します」
「……そうか」
自分が何度も教えてきたことを、相手はきちんと覚えている。
トーマは今度こそ倉庫を離れた。
◇
自宅へ着くと、まだ夕食の支度をしている時間だった。
扉を開けたトーマを見て、台所にいたマイラが一瞬動きを止めた。
「どうしたの?」
「帰ってきた」
「それは見れば分かるけど」
「何だ、その言い方は」
「まだ倉庫にいると思ってたから」
奥の部屋から出てきたリーナも、父の姿を見て驚いた。
「忘れ物?」
「家へ帰ってきたんだ」
「昨日もそう言ってた」
「今日は本当に帰ってきただろ」
リーナはすぐには笑わなかった。
◇
「塩は?」
娘が尋ねた。
「部下に乾かすところまで任せた」
「大丈夫なの?」
「俺が教えた通りにやればな」
「父さんがやらなくていいの?」
「最後は明日俺が見る」
リーナは少しだけ目を細めた。
「それ、昨日もできなかった?」
「……できたかもしれん」
「かもしれん?」
「たぶん、できた」
トーマが認めると、リーナはそれ以上責めようとはしなかった。
代わりに台所へ戻り、母から皿を受け取った。
「じゃあ今日は、温かいうちに食べられるね」
その何気ない言葉が、トーマには妙に重く聞こえた。
◇
三人で食卓を囲むのは、十八日ぶりだった。
マイラが作った豆と肉の煮込みを食べながら、トーマは仕入れ先で起きたことを話し、途中で荷馬車の車輪が泥へはまったことや、塩鉱の周辺では今年雨が多かったことまで説明した。
「父さん、前に言ってた白い谷は通った?」
リーナが尋ねた。
「ああ」
「本当に岩が全部白いの?」
「全部じゃないが、塩が露出してるところは遠くからでも白く見える」
「見てみたいな」
「旅は楽じゃないぞ」
「行くとは言ってないよ。見てみたいって言っただけ」
トーマは、自分が娘の話をすぐ仕事の話へ変えようとしたことに気づき、少し考え直した。
◇
「今度、荷運びじゃない時に近くまで連れていければな」
「本当に?」
「近場までだぞ。塩鉱の奥は危ない」
「母さんも?」
「私は馬車酔いするから遠慮するわ」
マイラが笑う。
「だったら母さんは街で土産待ってればいい」
「あなた、まず次の休みを決めてから言いなさい」
「休み?」
「また十日も二十日も先まで仕事を詰めたら、いつになるか分からないでしょう」
トーマは少し考えた。
「次の仕入れは二週間後だ」
「それまで毎日仕事?」
「いや」
予定を思い返すと、三日後の午後には大きな納品が入っていなかった。
◇
「三日後の午後なら空けられる」
「今、決めるの?」
リーナが驚いた。
「空いてから考えたら、また仕事を入れるかもしれん」
その言葉に、マイラが小さく笑った。
「自分で分かってるじゃない」
「うるさい」
「じゃあ三日後、何する?」
リーナに尋ねられ、トーマは少し困った。
休みを取ることまでは考えても、その時間に何をすればいいのかまでは考えていなかった。
「何かしたいことあるのか」
「市場の北側に新しい雑貨屋できた」
「買い物か」
「見るだけでもいいよ」
「じゃあ行くか」
娘はようやく、昨日とは違う顔で笑った。
◇
翌朝、トーマが倉庫へ行くと、湿った岩塩は指示通り平箱へ広げられていた。
ハインは変色した部分を別へ分け、判断に迷ったところには小さな木札まで置いている。
「ここだけ、少し色が違います」
「見せろ」
トーマは塩を手に取り、匂いと色を確かめた。
「これは問題ない。鉱石由来の色だ」
「こっちは?」
「それは外せ。泥が混じってる」
「分かりました」
「昨日、困ったか?」
「特には」
「本当に?」
「トーマさんがいつもやってた順番を真似しただけなので」
ハインは特に気負う様子もなく答えた。
◇
「俺がいない時もできるか」
トーマが尋ねる。
「乾かして分けるところまでならできます。ただ、売り物の等級を決めるのはまだ怖いです」
「それは俺がやる」
「でも、その基準は教えてほしいです」
「教えたつもりだったが」
「色とか粒の違いは聞きました。でも、『これは料理用の上等塩』『これは加工用』って最後に決めるところは、いつもトーマさんが黙って分けるから」
その指摘に、トーマは少し言葉を失った。
自分では部下へ仕事を教えているつもりだったが、本当に重要だと思っている判断ほど自分だけで済ませてしまい、その理由を説明していなかった。
◇
「今日は横で見てろ」
トーマは平箱の前へ椅子を置いた。
「等級の分け方ですか?」
「ああ。全部一度に覚えなくていい」
「本当にいいんです?」
「その代わり、分からないのに勝手に決めるな」
「そこは守ります」
トーマは湿った塩を何種類かに分けながら、色、匂い、粒、溶かした時の濁りによって何を見ているのかを、一つずつ説明していった。
いつもなら自分の手だけで進めれば半分ほどの時間で終わる仕事だったが、説明しながら行う分だけ時間はかかった。
それでも、その時間を以前のように無駄だとは思わなかった。
◇
数日後、湿気を吸った岩塩のうち状態の良い分は、《粗割り塩》として通常品より少し安く販売することになった。
肉の焼き上げや根菜料理に使いやすいと説明すると、何軒かの宿屋や料理店が試しに買っていった。
残りは保存肉を作る加工業者へ回し、泥が混じっていたごく少量だけを商品から外した。
「全部損にならなくてよかったですね」
ハインが言う。
「雨を食った時点で多少の損は出てる」
「でも大半は売れました」
「次は覆い布の留め方を変える。あの道だと横から雨が入る」
「御者にも言っときます」
「頼む」
以前なら、その伝達まで自分で御者へ言いに行っていたかもしれないが、今回はハインへ任せた。
◇
三日後の午後、トーマは予定通り倉庫を出た。
仕事が残っていないわけではなく、翌月の仕入れ表を作ることもできたし、粗割り塩の売れ行きを確認するため取引先を回ることもできた。
しかし、どれも今日の午後でなければ困る仕事ではない。
家へ戻ると、リーナがすでに外套を着て待っていた。
「本当に帰ってきた」
「お前、毎回それ言うつもりか」
「あと三回くらいは言う」
「好きにしろ」
「行こう」
父娘は並んで市場へ向かった。
◇
新しくできた雑貨屋では、リーナが髪留めや小さな鏡を見て回り、トーマは最初こそ居心地が悪そうに後ろを歩いていた。
「父さん、これとこれ、どっちがいい?」
娘が二つの髪留めを見せる。
「俺に聞くのか」
「父さんしかいないじゃん」
「母さんに聞けばいいだろ」
「今ここにいないでしょ」
片方は青い石を使った細身の髪留めで、もう片方には淡い緑の硝子玉がついている。
トーマはかなり真剣に見比べた。
「青い方」
「何で?」
「お前は普段、茶色い服が多いから、その方が目立つ」
リーナが意外そうな顔をした。
◇
「父さん、私の服見てたんだ」
「一緒に住んでるんだから見るだろ」
「でも全然いないじゃん」
「……それは今言うな」
リーナは笑い、青い髪留めを買った。
そのあと二人は市場を歩き、焼いた木の実を売る露店で立ち止まり、甘い果実水まで買った。
仕事で市場へ来る時には、トーマは値段、荷量、客の動きばかり見ているため、同じ道を娘と歩いてみると、普段なら目にも留めない店がいくつもあることに気づいた。
「父さん、楽しい?」
突然そう聞かれ、トーマは娘を見た。
「何だ、急に」
「仕事してないから落ち着かないかなと思って」
◇
「少し落ち着かん」
「やっぱり」
「でも、帰るほどじゃない」
「ならいい」
リーナは果実水を飲みながら歩いた。
「昨日みたいに、仕事するなって言いたいわけじゃないよ」
「分かってる」
「塩の仕事、父さん好きでしょ」
「ああ」
「私も嫌いじゃないよ。倉庫の匂いはちょっと嫌だけど」
「塩にそんな匂いないだろ」
「袋と馬車の匂い」
「それはあるな」
トーマはそこで初めて、娘が自分の仕事そのものを嫌っているわけではなかったことを、はっきり理解した。
◇
「ただ、帰ってきた時くらい、一緒にご飯食べたいだけ」
リーナが続けた。
「毎回とは言わない。大変な日もあるだろうし」
「昨日は、帰れた」
「うん」
「次からは、荷に問題があっても俺しかできないところだけ見るようにする」
「できる?」
「部下に少しずつ教えてる」
「父さん、人に任せるの苦手そう」
「お前まで言うな」
「だって見れば分かるよ」
リーナが笑ったため、トーマも否定しきれずに苦笑した。
◇
それから数週間の間に、トーマは倉庫の仕事をいくつか整理した。
荷馬車が戻った直後の袋数確認、外側の濡れや破れの検査、保管棚への振り分けについては、ハインを中心に倉庫係へ任せる。
色や匂いに異常があるものだけを別へ分けてもらい、最終的な等級と販売先についてはトーマが確認する。
すべてを手放したわけではなく、塩の品質を判断する責任は今も自分にあり、取引先へ出す品について最後に名前を出すのもトーマだった。
それでも、自分が責任者であることと、自分一人が全工程を行うことを、以前ほど同じ意味では考えなくなった。
◇
次の仕入れ旅は十四日間だった。
帰路では雨に降られたものの、前回の反省から覆い布の留め方を変えていたため、荷の大半は乾いたままレーヴェンへ戻ってきた。
西門を通過して倉庫へ着くと、ハインたちがすぐに荷を下ろし始める。
「外袋の確認は任せる」
「はい」
「破れてるのと濡れてるのだけ、奥へ回すな」
「分かってます」
「数量は記録と照らせよ」
「それも分かってます」
「……じゃあ頼んだ」
トーマはすぐに倉庫へ入らず、その場に立った。
◇
「トーマさんは?」
ハインが尋ねた。
「家へ行く」
「確認しないんです?」
「問題があった袋だけ、明日の朝見る」
「今でもできますよ」
「今じゃなくてもいい」
自分でそう答えるまでには、以前より少しだけ時間がかからなくなっていた。
トーマは荷馬車の積み下ろしが始まったのを見届けると、西区から南区へ向かう道へ足を向けた。
十四日ぶりの帰宅になるため、途中で市場の菓子屋へ寄り、妻には乾燥果実を、娘には前に気にしていた小さな焼き菓子を買った。
土産を選ぶ時間についても、以前ほど「仕事をしていない時間」として落ち着かなくなることはなかった。
◇
家の扉を開けた時、ちょうど夕食の支度が始まっていた。
「ただいま」
トーマが声をかけると、奥からリーナが顔を出した。
娘は父の姿を確認したあと、少しだけ間を置いた。
「今日は本当に家に来た」
「まだ言うのか」
「二回目だから、あと一回」
「数えてたのか」
「おかえり」
「ああ。ただいま」
トーマは荷物を下ろし、焼き菓子の袋を娘へ渡した。
「これ何?」
「市場で買った」
「父さんが?」
「俺が買ったらおかしいか」
「ちょっとだけ」
◇
その夜も、荷物の中に濡れた袋がなかったかどうかは気になっていた。
それでも倉庫へ戻ろうとはしなかった。
問題があればハインが分けておき、明日の朝に自分が見れば間に合うよう、すでに手順を決めてあるからだった。
夕食を食べながら、リーナが最近学校で始めた計算の授業について話し、マイラが近所の家から野菜をもらった話をする。
どれも商売の利益にはならず、明日の荷を軽くしてくれるわけでもないが、それでも、その時間が何も生み出していないとはもう思わなかった。
◇
翌朝、倉庫へ行くと、問題のある袋が二つだけ別へ置かれていた。
一つは輸送中に紐が緩んだだけで、中身に異常はなく、もう一つにはわずかに湿気が入っていたため、トーマはハインと一緒に状態を確認した。
「これは乾かして粗塩へ回す」
「前のやつと同じですか?」
「前より軽いから、乾けば通常の粗塩でもいける。ただし先に溶かして濁りを見ろ」
「分かりました」
「それが済んだら俺を呼べ」
「はい」
ハインが作業へ戻ると、トーマはすぐに手を出さず、別の取引帳を開いた。
◇
昼になって確認を終えると、トーマは湿った岩塩を少量袋へ入れた。
「また食堂ですか?」
ハインが尋ねる。
「違う。前の粗割り塩を買った店へ様子を聞きに行く」
「売れてるらしいですよ」
「誰から聞いた」
「宿屋の人が追加で欲しいって来ました」
「そういうのは先に言え」
「今言いました」
「……まあいい」
トーマは苦笑しながら倉庫を出た。
以前なら、部下が自分より先に取引先の反応を知っていることを少し面白くないと感じたかもしれないが、今は、その情報が商売の中へきちんと戻ってくるなら、それで十分だと思えるようになっていた。
◇
数日後、トーマは《持ち込み食堂》へ再び姿を見せた。
「今日は湿ってないですね」
悠斗が袋を見て言った。
「前と同じこと何度もやってたら商売にならん」
「覆いを変えたんです?」
「ああ。荷台の横側も紐で締めるようにした」
「粗い塩の方は?」
「意外と売れた。焼いた肉や芋の仕上げに使う店がある」
「なら別の商品として残す?」
「全部じゃないが、塩鉱で最初から粗い粒だけ分けてもらえないか話してみる」
「失敗した荷から新しい商品ができましたね」
「失敗を繰り返して作るつもりはないぞ」
「それはもちろんです」
悠斗は笑った。
◇
「家へは帰れてます?」
不意に尋ねられ、トーマは少し顔をしかめた。
「お前、客の商売だけじゃなく家まで確認するのか」
「嫌なら聞きません」
「帰ってるよ」
「旅から戻った日も?」
「ああ。次の旅からは、倉庫の初期確認を部下に任せることにした」
「問題なかったです?」
「今のところはな。俺が見ないと決められないところだけ翌朝確認してる」
「仕事は増えてません?」
「最初は教える時間が増えた。でも、覚えればその分だけ俺がやることは減る」
「じゃあ、帰る時間も?」
「前よりは早い」
トーマは少しだけ笑った。
◇
その日は通常の細粒塩と、新しく試している粗塩を使い、同じ魚を二種類の焼き方で食べ比べた。
全体へ均一に味を入れるなら細かな塩の方が使いやすく、焼き上がりへ粒の感触を残したいなら粗い塩の方が面白いため、どちらが上という話ではなく、料理によって役割が違うことがよく分かった。
トーマは食べながら商売のことをいくつか悠斗へ話したものの、以前のように食事中まで倉庫の予定を細かく組み始めることはなかった。
「今日はこのあと倉庫です?」
「家だ」
「早いですね」
「明日できる仕事まで、今日やる必要はない」
「誰かの影響です?」
「知らん」
トーマは水を飲みながら答えた。
◇
食事を終えて店を出ると、まだ夕暮れ前だった。
今から倉庫へ戻れば、一時間ほど仕事を進めることはできるという考えが浮かばなくなったわけではない。
ただ、今日は夕食までに帰ると家族へ伝えてあり、倉庫にも自分が戻るとは言っていないため、その約束を破ってまで今やるべき仕事があるのかと考えれば、答えは簡単だった。
家族のために働くことをやめるつもりはなく、塩商人としての責任を誰かへ丸投げするつもりもない。それでも、守ろうとしている暮らしへ自分自身が帰らなければ、その仕事が何のためなのかを見失ってしまう。
トーマは夕食の時間までまだ少し余裕があることを確かめると、娘が気に入っていた焼き菓子を二つ買うため、帰り道の途中にある小さな菓子屋へ足を向けた。
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