第34話 固まらない蜜と、休業を決められない錬金術師
アデル・ノームは、自分の工房を一日閉めるという決断を、難しい錬金術の調合よりも苦手としていた。
三十二歳になる彼女は、レーヴェン北西区の職人街で《青玻璃工房》という小さな錬金術工房を営んでいる。治療薬そのものを専門とする薬師とは少し違い、傷薬に使う精製液、保存剤、革や金属を扱う職人向けの薬品、染料の定着剤、魔力を蓄える簡易触媒など、他の仕事を支えるための材料を作ることが多かった。
客の大半は職人や商人であり、一日店を閉めたからといって、すぐに誰かが命を落とすような仕事ではない。それでもアデルは、十年以上続けてきた工房を病気でもない日に閉めたことがほとんどなかった。
朝に注文票を確認し、昼までに調合を進め、午後には受け渡しや材料の仕入れを行い、夜になれば翌日のために器具を洗う。休むとしても店の奥で帳簿を整理するか、新しい調合を試す程度であり、何も作らず、何も売らず、一日を仕事以外のために使うという考えそのものが、アデルには妙に落ち着かなかった。
工房を開いていれば、その日にも誰かが必要としているものを作れる一方、店を閉めれば、その時間には何も生み出せないように感じてしまう。アデルは長い間、その感覚を疑うこともなく、働かなかった時間と無駄にした時間をほとんど同じものとして扱っていた。
◇
「姉さん、本当に忘れてたの?」
朝の《青玻璃工房》で、二十六歳になる妹のセシルが呆れたように尋ねた。
彼女は錬金術師ではなく、市場近くの衣料店で帳簿を担当しており、今日は仕事へ行く前に工房へ寄ったらしく、まだ外套を着たままだった。
「何を?」
「母さんの誕生日」
アデルの手が止まった。
作業台の上では、透明な瓶の中へ青緑色の液体が落とされており、あと数滴加えれば、職人向けの防腐剤が完成するところだった。
「今日だっけ」
「今日だよ」
「来週じゃなかった?」
「来週なのは父さんの命日。母さんの誕生日は今日」
アデルは作業台の脇へ置いてある予定表を確認した。
注文の受け渡し時間、材料の到着日、組合への支払い期限については細かく記されているのに、家族の予定だけはどこにも書かれていなかった。
「夜なら行ける」
「母さん、昼から叔母さんの家へ行くって言ってたでしょ」
「じゃあ夕方に――」
「帰ってくるのは明日」
アデルは予定表を見たまま眉を寄せた。
◇
「先週、今日の昼に三人で食事しようって話したじゃない」
「聞いた覚えはある」
「覚えてないから今こうなってるんでしょ」
「今日の注文をずらすのは無理なの」
「何件あるの?」
「受け渡しが四件。それと午後に定着剤を作って、夕方には乾燥炉を動かす予定」
「その仕事、全部今日じゃないと駄目なの?」
妹からそう尋ねられ、アデルはすぐには答えられなかった。
「受け渡しは今日って約束してる」
「何時まで?」
「一件は午前中で、残りは夕方」
「じゃあ昼は?」
「昼に調合作業をする」
「その調合は明日にできない?」
「できなくはないけど、その分だけ明日の仕事が増える」
「一日休めなんて言ってないんだから、せめて昼だけ来られないの?」
「途中で工房を閉めると、その後の予定を組み直さなきゃいけなくなるの」
セシルはしばらく姉を見つめたあと、呆れたように小さく息を吐いた。
◇
「姉さんって、仕事が忙しいんじゃなくて、空いてる時間に自分で仕事を入れてるだけじゃない?」
「必要な仕事をしてるだけ」
「昨日だって夜まで新しい触媒を試してたんでしょ」
「今後注文が増えるかもしれないから」
「でも、まだ誰にも頼まれてないやつだよね?」
「今のうちに試しておけば、必要になった時にすぐ出せる」
「それを全部やってたら、いつ休むの?」
「疲れたら休む」
「もう疲れてるじゃん」
「寝れば戻る」
妹はさらに何か言い返そうとしたものの、店先から客の声が聞こえたため、結局そこで口を閉じた。
「母さんには私から謝っとく」
「夜に手紙を持っていく」
「手紙じゃなくて、本人が会いたがってたんだけどね」
その言葉だけを残し、セシルは工房を出ていった。
◇
午前中の仕事を終えたアデルは、予定を変えず、そのまま昼の調合へ取りかかった。
作るのは染色工房から注文された定着液であり、素材の色を繊維へ残しやすくするための補助剤だった。決められた手順通りに進めれば滅多に失敗しない調合であり、アデル自身もこれまで何十回と同じものを作っている。
ところが昼を過ぎた頃から、何度も欠伸が出るようになった。
前夜は新しい触媒の試験を続け、寝床へ入ったのは日付が変わってからかなり経った時間だったうえ、朝も普段と変わらない時間に起きている。そのため身体には明らかな疲労が残っていたが、アデルは作業を止めず、煮詰めた基液へ粉末を加えた。
その瞬間、液体が本来とは違う濁り方をした。
「……あれ?」
アデルはすぐに火を弱め、材料の瓶を確認した。
◇
入れるべきだった白灰粉ではなく、その隣へ置いていた凝結粉を匙一杯加えていたことに気づいた。
危険な反応を起こす組み合わせではなかったものの、定着液として使うには粘りが強くなりすぎており、この一鍋をそのまま注文品として出すことはできない。
アデルは鍋の中を見つめたまま、しばらく動かなかった。
高価な材料を大量に失ったわけではないとはいえ、作り直せば、その分だけ材料も時間も余計に使うことになる。
「何やってるのよ……」
誰もいない工房で呟きながら額へ手を当てると、朝から集中できていなかったことを自分でも分かっていたことまで思い出した。
それでも工房を閉めるほどではないと判断し、空いている時間へ仕事を詰め込んだ結果として、今度は自分の失敗によって仕事そのものを増やしてしまっていた。
◇
失敗した液体をすぐ捨てる気にはなれず、アデルは少量を別の容器へ移した。
定着液として使えないことは明らかだったが、毒性が生じているわけではなく、凝結粉によって粘度が上がっただけなら、何か別の用途へ回せる可能性がある。
そのまま反応を確認し、記録を始めたところで、夕方受け取り予定だった客が予定より早く工房へ現れた。
「注文の定着液、できてる?」
「今日の夕方だったでしょう」
「近くまで来たから、もうできてるなら受け取ろうと思って」
「まだです」
「珍しいね。いつもなら昼には終わってるのに」
「少し調整が必要になっただけ」
「夕方にはできる?」
「できます」
アデルはそう答えて客を帰したが、その瞬間から、失敗液の検証まで続ける余裕はなくなった。
◇
予定していた仕事をすべて終えた頃には、外はすっかり暗くなっていた。
妹の言葉を思い出し、母へ手紙を書くつもりだったものの、空腹と疲労で文章がまとまらない。仕方なく短い謝罪だけを書き、翌日に渡すことにして工房を出た。
家へ帰ってから料理をする気力は残っておらず、どこかで食べて帰ろうと考えながら歩いていると、手提げ袋の中に昼の失敗液を入れた小瓶が残っていることを思い出した。
本来は自宅でも続きを検証するつもりで持ち出したのだが、今夜さらに調合器具を広げる気には到底なれない。
アデルは袋を持ち直して西区へ向かい、以前錬金術師仲間から聞いたことのある《持ち込み食堂》の前で足を止めた。
◇
「いらっしゃいませ」
店へ入ると、ミレイアが席へ案内しようとした。
「今日は普通の食事でもいい?」
「もちろんです。持ち込みがなくても大丈夫ですよ」
「一応、持ってるものはあるんだけど、食材じゃないの」
アデルは苦笑しながら小瓶を取り出した。
薄い琥珀色の液体には強い粘りがあり、瓶を傾けても、すぐには底から流れ落ちてこない。
厨房から出てきた悠斗が、小瓶を見て少し警戒したような顔をした。
「何です?」
「失敗した錬金液」
「それ、厨房で開けて大丈夫なものです?」
「毒じゃないよ。使ってる材料も、全部食べても害のないものだけ」
「食用として作ったんですか?」
「そこが微妙なの」
悠斗はすぐには瓶へ触れず、まず説明を求めた。
◇
アデルは本来作る予定だった定着液と、誤って入れた凝結粉について一つずつ説明した。
基液には《琥珀蜜》という植物性の蜜が使われており、さらに水、少量の酸味果汁、食用にも使われる樹脂粉が入っている。そこへ本来とは違う凝結粉を加えたため、液体が半端に固まり、定着剤として必要な流動性を失ったのだという。
「全部食べられる材料でも、混ぜたあとまで食べて安全とは限らないですよね」
悠斗が言った。
「そこは確認済み。この組み合わせで危険な反応は起きてないし、工房でも別用途では使うことがある。ただ、料理として食べるためのものじゃないってだけ」
「味はどうなんです?」
「たぶん甘酸っぱい」
「たぶん?」
「調合品をいちいち舐める習慣はないから」
「それは、そのままの方がいい習慣な気がします」
悠斗は少し笑った。
◇
「これを料理に使いたいんです?」
「そこまでは考えてない。ただ、捨てる前に何か使い道がないかと思って」
「だったら、今日は無理して使わなくてもいいんじゃないですか」
「せっかく持ってきたし」
「お腹空いてます?」
「かなり」
「それなら先に普通のものを食べませんか」
アデルは、その提案が意外だったのか少し目を丸くした。
「試さないの?」
「食事の前に知らない調合物を延々調べるより、今は先に食べた方がよさそうなので」
「料理人なのに、珍しいものが気にならない?」
「気にはなります。でもアデルさん、かなり疲れてますよね」
言われて初めて、アデルは自分が椅子へ深くもたれたまま話していることに気づいた。
◇
「そんなに分かる?」
「さっきから三回くらい欠伸してます」
「見てたの?」
「目の前なので」
「仕事してきたからよ」
「それなら、なおさら先に食べましょう」
「でも、この液のことも――」
「瓶の中から逃げたりはしないですよ」
悠斗は小瓶を卓の端へ移した。
「料理でも調合でも、思いついたことを今すぐ全部終わらせないと駄目なんです?」
アデルはその言葉に少し眉を寄せた。
「仕事なんだから、終わらせるものは終わらせるでしょ」
「今日はもう工房の仕事を終えたんですよね」
「注文分については」
「なら、この液の検証は明日でもできます?」
「できるけど」
「じゃあ今日は、食べる方を先にしましょう」
◇
悠斗が出したのは、鳥肉と根玉葱、それに白豆を使った温かい煮込みだった。
味付けは塩と穏やかな香草を中心にしたもので、疲れている時でも食べやすいよう、脂も強くしすぎていない。
アデルは最初の一口を食べたところで、自分が思っていた以上に空腹だったことへ気づいた。
「今日、昼は食べました?」
悠斗が尋ねる。
「食べた」
「何を?」
「パン」
「それだけです?」
「調合作業の途中だったから」
「いつもそんな感じなんですか?」
「忙しい日はね」
「休憩は?」
「仕事が切れたところで取る」
「ずっと切れなかったら?」
「あとで取る」
悠斗は一瞬何か言おうとしたものの、説教するような言葉は選ばず、そのまま話題を変えた。
◇
「工房は一人でやってるんですか?」
「基本はね。忙しい時だけ組合経由で手伝いを頼む」
「じゃあアデルさんが休むと、店も閉まる?」
「そうなる」
「最近、休業したことは?」
「病気した時以外は、ほとんどないかな」
「どれくらいです?」
「……七年くらい?」
「七年ですか?」
悠斗が驚いたため、アデルは少し不満そうな顔をした。
「毎日朝から夜まで働いてるわけじゃないよ。注文が少なければ早く閉めることもあるし」
「仕事を全然しない日は?」
「たぶんない」
「趣味の調合も仕事に数えるなら?」
「それなら、本当にないかもね」
◇
「休みたいと思わないんです?」
悠斗が尋ねた。
「別に」
「今日も?」
アデルは反射的に否定しようとしたが、昼に材料を取り違えたことを思い出し、少しだけ言葉を変えた。
「今日は、さすがに少し疲れてる」
「じゃあ明日は休む?」
「明日は今日やり直した分で予定がずれたから無理」
「明後日は?」
「新しい触媒の試験をしたい」
「それは注文ですか?」
「違うけど、今のうちにやっておけば後で使える」
「その次の日は?」
「組合への報告書をまとめる予定」
「そうすると、いつ休むんです?」
アデルは匙を持ったまま動きを止めた。
「……予定が空いたら」
「でも予定が空くと、自分で新しい仕事を入れるんですよね」
「入れるね」
「なら、待ってても空かないですね」
あまりにも単純に言われたせいで、アデルは返す言葉を失った。
◇
「今日、妹にも似たようなこと言われた」
アデルは、母の誕生日を忘れていたことを話した。
「会いに行かなかったんです?」
「仕事があったから」
「今日じゃないと駄目な仕事だった?」
「受け渡しは今日だった。でも昼だけなら、たぶん行けたと思う」
「それでも行かなかった?」
「その時間に別の調合を入れた」
「急ぎだったんです?」
「別に急ぎじゃなかった」
自分で順番に口へ出してみると、アデルにも、なぜそこまでして仕事を入れたのか少し分からなくなってきた。
「別に、母を大事にしてないわけじゃないよ」
「そうは思ってません」
「妹にはそう見えたかもしれないけど」
「なら、どうして昼に仕事を入れたんです?」
「空いてたから」
答えた直後、アデルは自分でも嫌そうな顔をした。
◇
「仕事が嫌いじゃないんですね」
悠斗が言った。
「好きだよ。作ったものがちゃんと役に立つのも好きだし、調合が狙った通りにできるのも楽しい」
「だから、休みを入れる方がもったいなく感じる?」
「休んだら、その時間は何も進まないから」
「何も進まない日って、そんなに駄目です?」
「駄目というより、時間がもったいない」
「何がもったいないんです?」
「一日あれば調合を何本か作れるし、新しい試験もできるでしょ。何もしないで終わったら、その一日分は戻らない」
「仕事をした一日だって、戻らないですよ」
「でも成果が残る」
「じゃあ、お母さんと食事した一日は何も残らない?」
アデルはそこで黙った。
◇
「何も残らないと思います?」
悠斗が尋ねた。
「そういう聞き方はずるいね」
「すみません」
「残るよ。記憶とか、話したこととか、そういうのは残る」
「なら、仕事以外へ使った時間が全部空になるわけではないんですね」
「分かってるよ、そのくらい」
「それでも休めないのは、別の理由があるのかもしれませんね」
「それを私に聞く?」
「俺には分からないので」
アデルは煮込みを食べながら、少しずつ考えた。
仕事そのものが苦痛で、それから逃げられないわけではなく、むしろ好きだからこそ、空いた時間を見ると何かを作りたくなる。ただ、何も作らない時間ができるたび、その間にもできたはずの仕事を勝手に数えてしまうため、休むことだけが損失のように感じられていた。
◇
「父が工房をやってたんだ」
しばらくして、アデルが言った。
「錬金術師だったんです?」
「そう。今の《青玻璃工房》も、元々は父の店」
「継いだんですね」
「十九の頃から手伝って、二十五で正式に任された」
「お父さんは?」
「六年前に亡くなった」
悠斗は余計な慰めを挟まず、そのまま話の続きを待った。
「父は、よく工房を閉める人だった」
「休むために?」
「釣りに行ったり、母と市場を歩いたり、私たちを連れて郊外へ行ったりしてた」
「仕事は大丈夫だったんです?」
「私は、それが嫌だった」
アデルは当時を思い出すように、少しだけ笑った。
◇
「注文が残ってるのに、『今日は天気がいいから休む』とか平気で言うの。子どもの頃は一緒に出かけられて楽しかったけど、仕事を覚え始めてからは無責任に見えた」
「実際に納期へ困ったことは?」
「ほとんどなかった。急ぎの注文があればちゃんと働いてたし」
「なら、休める日を選んでたんですね」
「今考えれば、たぶんそう」
「アデルさんはその反対に?」
「休まないようになった」
「どうしてです?」
「父が倒れた時、注文がかなり残ってたから」
アデルは匙を皿へ置き、少し遠くを見るような目をした。
◇
父が病に倒れた時、アデルは二十六歳だった。
当時はまだ父が工房主であり、アデルはその補助という立場だったため、仕入れ先との交渉も、納期の管理も、工房全体でどれだけ注文を抱えているのかを把握することも十分にはできていなかった。
父が突然働けなくなったことで、未完成の注文が十件以上も残り、アデルは一軒ずつ事情を説明して回らなければならなくなった。
急ぎのものから自分で作り、どうしても間に合わないものについては同業者へ頭を下げて引き受けてもらい、何日もまともに眠れないまま工房を動かし続けて、ようやくすべての注文を片づけた。
「それからだと思う。工房を閉めるのが嫌になったのは」
◇
「閉めたら、またあの時みたいに仕事が溜まる気がする?」
悠斗が尋ねた。
「たぶんね」
「でも今は、注文の管理も自分でできてる?」
「できてるよ。父の時みたいに抱えすぎないよう、受ける数にも上限を決めてる」
「なら、一日休んでも立て直せる?」
「次の日に少し増えるくらいだと思う」
「増えても終わる?」
「たぶん」
「だったら、昔とは少し違うんですね」
アデルは何も答えなかった。
六年前の状況を繰り返さないため、注文数の上限も決め、納期には余裕を持たせ、材料の在庫も以前より細かく管理している。それなのに、工房を休むということだけについては、父が倒れた直後と同じように「止めれば全部が崩れる」と感じ続けていた。
◇
「失敗液、そろそろ見ます?」
食事をほとんど終えたところで、悠斗が尋ねた。
「今から?」
「食べ終わったので、少しだけなら」
「見たい」
アデルは小瓶を取り出した。
悠斗は安全性についてもう一度確認し、食用可能な材料だけでできていることと、有害な反応が起きていないことをアデル自身に保証してもらったうえで、ほんの少量だけ皿へ出した。
液体は蜜より少し固く、匙ですくうと細い糸を引くように伸びる。
「匂いは普通ですね」
「琥珀蜜が主体だから」
「本当に少しだけ味を見ます?」
「私も確認する」
二人はごく少量だけ口へ含んだ。
◇
「甘いね」
アデルが言った。
「あと、少し酸味があります」
「定着液だから、味を整えてるわけじゃないし」
「ただ、食べられない味ではないですね」
「凝結粉が入ったせいで、変な粘りはあるけど」
悠斗は少し考えたあと、厨房から薄切りのパンを持ってきた。
「これに塗って焼いてみてもいいです?」
「料理になるの?」
「分かりません。試すとしても少量だけです」
「やってみて」
薄く塗ったパンを鉄鍋で焼くと、表面の琥珀蜜が熱でわずかに色づき、甘い香りが立ち上がった。
◇
焼けたものを少し冷ましてから食べると、粘りが落ち着いて表面に薄い膜ができ、元の液体よりは食べやすくなっていた。
「悪くない」
アデルが言った。
「もう少し酸味を調整したら、甘い料理として使えそうではありますね」
「でも、わざわざこの失敗液から作る必要はないでしょ」
「そうですね。料理に使うなら、最初から普通の琥珀蜜で作った方が早いと思います」
悠斗があっさり認めたため、アデルは思わず笑った。
「そこ、何とか役立てられるって話にしないんだ」
「食べられることと、わざわざ使う価値があることは別ですから」
「じゃあ、この液は?」
「アデルさんが少量を自分で試す程度なら問題なさそうですけど、料理用として残す必要はないと思います」
◇
アデルは小瓶を眺めた。
「捨ててもいいと思う?」
「アデルさんのものなので、俺が決めることじゃないですよ」
「せっかく材料と時間使ったのに」
「残して検証したいなら残せばいいと思います」
「別用途を調べれば、何か見つかるかもしれない」
「そのために、今夜また仕事します?」
アデルは返事をしなかった。
「明日でもできますよね」
「できる」
「明後日でも?」
「たぶん」
「それどころか、やらなくても誰かが困るものではない?」
「今のところはね」
悠斗はそこまで確認すると、それ以上何も言わなかった。
◇
店を出る前、アデルは失敗液の小瓶をもう一度手に取った。
その場で捨てることはせず、結局工房へ持ち帰ることにしたものの、その夜に検証を始めることはしなかった。
家へ戻ると瓶を棚へ置き、調合器具にも触れず、母へ渡すつもりだった手紙を書き直した。
誕生日を忘れていたことを謝り、翌日の午後に会いに行ってもいいか尋ねる内容へ変えたあと、普段なら寝る前に必ず確認する予定表を開いた。
翌日の午後には、新しい触媒の試験と、急ぎではない保存剤の配合確認が入っている。
アデルはその二つの予定を翌々日へ移した。
◇
翌朝に工房を開けると、最初の客として染色工房の職人がやって来た。
「昨日の定着液、問題なかったよ」
「そう。よかった」
「珍しく遅かったけど、何かあった?」
「材料を間違えた」
「アデルが?」
「私だって間違えるよ」
「初めて聞いた」
「できれば忘れて」
職人は笑ったあと、新しい注文票を出した。
「これ、三日後までにできる?」
アデルは内容を確認し、自分の予定表と見比べた。
「四日後なら確実」
「三日だと無理?」
「無理ではないけど、明日の午後は工房を閉めるから」
その言葉を自分の口から聞いたアデル自身が、一番驚いた。
◇
「休み?」
「半日だけ」
「珍しいな」
「そういう日もある」
「じゃあ四日後でいいよ。急ぎじゃないし」
あまりにも簡単に受け入れられ、アデルは思わず相手の顔を見た。
「本当に四日後でいいの?」
「何が?」
「納品」
「最初から急ぎじゃないって言っただろ」
「なら、三日って言ったのは何だったの」
「早ければ嬉しいくらい」
職人は注文票を置き、そのまま何事もなかったように工房を出ていった。
アデルはその背中を見送りながら、今まで自分がどれほど「早い方が喜ばれる」という理由だけで、本来急ぐ必要のない仕事まで前倒ししていたのかを考えた。
◇
その日のうちに、アデルは翌日に予定していた客へ一軒ずつ確認を取った。
午前中に必要な受け渡しは予定通り行い、午後でも翌日でも構わないものについては時間をずらす。
「午後閉めるの?」
薬品を受け取りに来た革職人が驚いた。
「そう」
「具合悪い?」
「元気」
「じゃあ何で?」
「母に会いに行く」
「それだけ?」
アデルは少し眉を寄せた。
「それで閉めちゃ駄目?」
「いや、駄目じゃない。珍しいと思っただけ」
相手は笑いながら帰っていった。
◇
翌日の正午、アデルは工房の扉へ小さな札を掛けた。
《本日午後休業。明朝より通常営業》
札を掛け終えてからも、アデルはしばらく扉の前に立ったまま動けなかった。
中にはまだ洗っていない小瓶が三本あり、試したい触媒も残っている。昨日の失敗液についても、凝結粉の量を変えれば別の用途が見つかるかもしれない。
今から一時間だけ作業をして、それから母のところへ向かうこともできる。
そんな考えが浮かんだものの、アデルは工房へ戻らず、そのまま鍵を閉めた。
午後に仕事を入れてしまえば、おそらく次の休みでも同じことをする。今日はすでに「休む」と決めたのだから、そこから新しい仕事を探して予定を埋める必要はなかった。
◇
母は妹と一緒に、南区の小さな茶店で待っていた。
「本当に来た」
セシルが最初に言った。
「何よ、その言い方」
「姉さんだから」
「昨日は悪かったって」
「私じゃなくて母さんに言って」
アデルが母を見ると、六十を少し過ぎた女性は怒っているというより、呆れながらも嬉しそうに笑っていた。
「仕事は?」
「午後だけ閉めた」
「工房を?」
「半日だけね」
「病気?」
「どうしてみんな同じこと聞くの」
母と妹が同時に笑った。
◇
三人で昼食を取り、そのあと茶を飲みながら、久しぶりにゆっくり話をした。
特別なことをしたわけではなく、母が最近育て始めた花の話を聞き、セシルが衣料店で帳簿を間違えて店主に怒られた話をし、父が生きていた頃の工房についても自然と話題に上った。
「父さん、よく工房閉めてたよね」
アデルが言うと、セシルが笑った。
「晴れたらすぐ釣りに行ってた」
「あの人は少し休みすぎだったのよ」
母まで同意したため、アデルは驚いて顔を上げた。
「母さんもそう思ってたの?」
「もちろん。でも納期だけは守ってたし、働く時はちゃんと働いてたから、最後は諦めてたわ」
「私は父さんみたいになりたくなかった」
「知ってたわよ」
「どうして?」
「あなた、工房を継いでから一度も自分から遊びに誘ってくれなくなったもの」
アデルはすぐには返事をしなかった。
◇
「仕事を大事にするのは悪くないわ」
母が続けた。
「お父さんだって、工房が嫌いで休んでいたわけじゃないのよ。好きだったからこそ、あれだけ長く続けたんだと思う」
「でも休んでた」
「好きなものを長く続けるために、毎日一度も離れちゃいけないわけでもないでしょう」
アデルは茶の表面を見た。
「私が休んだら、店が止まるから」
「今日の午後は止まった?」
「止まった」
「そのせいで誰か困った?」
「今のところは誰も」
「なら、今日できなかった分は明日以降にやればいいんじゃない」
母の言い方は、拍子抜けするほど簡単だった。
◇
夕方になり、三人は茶店を出た。
今から急げば工房へ戻って少し作業できる時間は残っていたが、アデルは北西区へ向かわず、母を家まで送ることにした。
「明日忙しくなるんじゃない?」
セシルが尋ねる。
「少しはね」
「大丈夫?」
「今日の午後の分を全部明日に押し込んだら、大丈夫じゃなくなると思う」
「じゃあどうするの」
「急がないものは、その次の日へ回す」
セシルは足を止めそうなほど驚き、姉の顔を見た。
「本当に?」
「何よ」
「姉さんがそんなこと言うと思わなかった」
「私だって予定くらい変えるよ」
「昨日まで、その予定を絶対変えなかった人が言う?」
アデルは言い返さず、少しだけ笑った。
◇
翌朝、《青玻璃工房》を開けたアデルは、最初に予定表を書き直した。
前日の午後に行うはずだった仕事をすべて今日へ移すのではなく、納期が近いものだけを今日の欄へ入れ、新しい触媒の試験は三日後へ延ばした。
失敗液の検証についても、急ぎではない試験の欄へいったん移す。
その小瓶を見たところで、《持ち込み食堂》で焼いたパンの味を思い出した。
食べられないものではなかったし、探せば別の用途も見つかったかもしれない。それでも、わざわざ時間を使って料理用へ変える必要はなく、何としてでも役に立つ用途を見つけなければならない理由もない。
アデルはしばらく考えたあと、中身を錬金廃液として適切に処理し、空になった瓶だけを洗って棚へ戻した。
◇
それから、アデルの生活が急に大きく変わったわけではなかった。
仕事が重なれば今まで通り遅くまで工房へ残り、面白そうな調合を思いつけば、予定していなかった試験を始めることもある。それでも、注文表の隙間へ見つけた仕事を何でも詰め込むことは、少しずつ減っていった。
月に二度だけ、午後の予定を最初から空けることにし、その時間を必ず遊びに使わなければならないという厳しい決まりまでは作らなかった。ただ、注文がなければそのまま閉めてもいい時間として残し、新しい仕事を思いついたという理由だけでは埋めないことにした。
最初の一回は、工房を閉めてからもしばらく落ち着かなかった。
二回目にも、途中で戻って仕事をしたくなった。
それでも三回目になる頃には、母と市場を歩きながら、作業台に置いたままの触媒について考えない時間が少しずつ増えていた。
◇
数週間後、アデルは《持ち込み食堂》へ再びやって来た。
「今日は失敗液なしですか?」
悠斗が尋ねる。
「持ってこないよ、あんなもの」
「結局、検証したんです?」
「捨てた」
「前はかなり使い道を探したそうだったのに」
「探せば何かあったかもしれない。でも、今必要なものじゃなかったからやめた」
「なるほど」
アデルは席へ座った。
「今日は普通の夕飯ちょうだい」
「豆と鶏肉の煮込みがあります」
「それでいい」
◇
料理を待ちながら、アデルは工房を半日閉めた日のことを話した。
「どうでした?」
「最初はずっと落ち着かなかった」
「仕事は溜まりました?」
「少し。でも二日くらいで予定は戻った」
「困った人は?」
「いなかった」
「じゃあ、その後も休んだんです?」
「もう二回休んだ」
「早いですね」
「半日ずつだけどね」
「何してたんです?」
「母と市場を歩いたのと、家で本を読んだ」
「錬金術の本?」
「違う本」
悠斗は少し笑った。
◇
「仕事が嫌いになったわけではない?」
悠斗が尋ねた。
「全然。今だって新しい触媒を試したくて仕方ない」
「なら、仕事も休みも両方必要になった?」
「たぶん、そういうことみたい」
アデルは水を一口飲んだ。
「今までは、休むって仕事を捨てるみたいな感じがしてた。でも半日閉めたくらいで、工房がなくなるわけじゃなかったし、次の日にはまた開けられた」
「本当に止めたら困る日もあるでしょうけどね」
「そういう日は働くよ。急ぎの注文を放置して遊ぶつもりはない」
「そこは変えないんですね」
「変える必要ないでしょ。休むことと、仕事を雑にすることは別なんだから」
アデルはそう言ってから、自分の中でもようやく二つを別のものとして扱えるようになってきたことへ気づいた。
◇
運ばれてきた煮込みを、アデルは急がずに食べ始めた。
以前なら食事の途中でも翌日の調合順を考え、店を出れば家で試せる作業を探していたかもしれない。
今も仕事のことを完全に考えなくなったわけではなく、ふとした瞬間に新しい配合を思いつくこともある。
それでも、思いついたことをすべて今夜始める必要はなく、明日でも困らない仕事なら、そのまま明日へ置いておける。
工房を長く続けるために必要なのは、一日も止めずに動かし続けることだけではないのだと、アデルは以前より無理なく考えられるようになっていた。
◇
食事を終えたアデルが立ち上がると、悠斗が尋ねた。
「今日は帰ってから何か調合するんです?」
「しない」
「予定がない?」
「あるけど、明日やる」
「じゃあ今日は?」
「帰って寝る」
「それがよさそうですね」
「普通でしょ」
「アデルさんが言うと少し珍しく聞こえます」
「失礼ね」
アデルは笑いながら代金を支払い、そのまま店を出た。
◇
翌日の午後、《青玻璃工房》には一人の若い職人がやって来た。
「この保存液、今日中にできます?」
注文票を差し出され、アデルは内容を確認した。
「実際に使うのはいつ?」
「明後日です」
「なら、明日の夕方でいい?」
「できます?」
「できる」
「今日だと?」
アデルは予定表を確認した。
今日の午後には、急ぎではない新しい触媒の試験を入れている。以前なら、それを夜へずらしてでも注文を当日中に仕上げていただろうが、今は相手が本当に必要としている期限まで聞いたうえで決めることができた。
「今日でも作れるけど、明日で間に合うなら明日にする」
「じゃあ明日で大丈夫です」
「分かった。夕方までには用意しておく」
若い職人は特に不満を見せず、注文票を置いて帰っていった。
◇
アデルはその注文を翌日の欄へ書き込み、予定表を閉じた。
作業台には、これから試す予定の触媒材料が並んでいるが、その試験についても今日中に成功させなければならない理由はない。思ったより時間がかかれば、途中で反応と分量だけを記録し、続きは次の機会へ回せばいい。
仕事を雑にするつもりはなく、頼まれたものを遅らせても平気だと思うようになったわけでもなかった。
ただ、今日できることをすべて今日のうちに終わらせようとすれば、明日でも構わない仕事まで自分の手で今日へ運び込み、その積み重ねによって、いつまでも休める日はやって来ない。
アデルは調合器具の前へ座ると、まず今日試す範囲だけを記録板へ書き出し、その範囲を終えたところで工房を閉めるつもりで、新しい触媒へ使う最初の一滴を静かに量り始めた。
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