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異世界持ち込み食堂~あなたの食材を料理します~  作者: シロの空


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第32話 甘くならない根菜と、継がせたい農家

 バラン・モーグは、自分の畑を嫌いになったことが一度もなかった。


 四十五歳になる牛獣人の彼は、レーヴェンの南門から歩いて一時間ほど離れた農村で、妻と二人の子どもと暮らしながら農業を続けている。広大な土地を持つ大農家というわけではないものの、黄芋、根玉葱、豆類、それに冬前の保存食として重宝される《蜜芯根》まで育てており、収穫した作物の大半はレーヴェンの市場や宿屋へ卸していた。


 特に蜜芯根は、長い間モーグ家の畑を代表してきた作物だった。


 太い黄褐色の根を地中へ伸ばすこの野菜は、生の状態ではわずかな苦味があるものの、十分に成熟してから火を通すと中心部から強い甘味が出る。煮込みへ入れれば肉の脂を受け止め、厚く切って焼けば表面に香ばしい焼き色がつくため、街の食堂から一般家庭まで幅広く使われていた。


 バランの父も、そのさらに前の世代も同じ畑で蜜芯根を育てており、バラン自身も十二歳の頃から収穫を手伝い、十六歳で畝作りを覚え、二十二歳になる頃には父から畑の一部を任されていた。そのため、自分が父から仕事を受け取ったのと同じように、いつか息子も畑へ入り、その次の世代へ土地と仕事を渡していくものだと、長い間ほとんど疑ったことがなかった。


 ところが今年になって、その息子から「農家を継ぐつもりはない」と告げられた。


          ◇


「もう一回言ってみろ」


 秋の収穫を前にした夕食の席で、バランは向かいに座る息子を見据えた。


 息子の名はエクトといい、十八歳になる牛獣人の青年だった。父親よりまだ身体は細いものの、肩幅はすでに十分に広く、畑仕事を任せれば大人一人分として数えられるほどには働ける。


「だから、来年から街で働きたい」


 エクトは視線を逸らさず答えた。


「何の仕事だ」


「木工所」


「何で木工所なんだ」


「前から木を扱う仕事に興味があったから」


「畑はどうする」


「父さんがやってるだろ」


「今は俺がやってる。だが十年後も、一人で全部やれって言うのか」


「姉さんだっているだろ」


「姉は来年結婚する予定だ」


「だからって、俺が継がなきゃいけない理由にはならないだろ」


 その言葉を聞いた瞬間、バランは卓の上へ置いていた大きな手を強く握った。


          ◇


「この畑で育ったくせに、よくそんなことが言えるな」


「畑が嫌いだなんて言ってない」


「俺には同じに聞こえる」


「何が同じなんだよ」


「継がないってことは、ここでやってきたことを要らないって言ってるのと同じだろ」


「そんなこと言ってない!」


 エクトの声も大きくなり、隣に座っていた妻が二人を止めようとしたものの、バランはもう息子から目を逸らせなかった。


「俺はお前が小さい頃から仕事を教えてきた。種の選び方も、水の量も、収穫の時期も、畑へ入るなら必要になることは全部だ。それを今さら、街へ行くから終わりだって言うのか」


「教えてくれって頼んだ覚えはないよ」


 その一言が落ちた瞬間、それまで声をぶつけ合っていた食卓から音が消えた。


          ◇


 バランはしばらく息子を見つめていたものの、やがて椅子から立ち上がった。


「もういい」


「父さん」


「食ったら寝ろ。明日も朝から畑だ」


「来年の話、まだ終わってない」


「今する話じゃない」


「いつならするんだよ」


「畑を捨てるって話なんか、今は聞きたくない」


 それ以上息子の顔を見る気になれず、バランは家を出た。


 夜の農道には冷たい風が吹き、収穫を待つ蜜芯根の葉が暗がりの中で絶えず揺れていた。この畑へ種を蒔き、水を運び、夏の乾燥に耐え、病虫害を避けながら秋まで作物を育てるために、どれだけの手間と時間が必要なのかをバランはよく知っている。


 父も同じように働き、その仕事を自分へ渡したからこそ、今度は自分が息子へ渡すのだと思っていた。その考えを一度も疑わずに生きてきたバランには、息子が別の道を選ぶことを、畑そのものへの否定と切り離して考えることがまだできなかった。


          ◇


 翌朝になっても、父子の間にまともな会話はほとんどなかった。


 収穫期が近いため仕事そのものを止めるわけにはいかず、エクトもいつも通り畑へ出ている。けれど必要なこと以外は話さず、バランが「西側の畝を見ろ」と言えば「分かった」とだけ答え、その後は互いに黙ったまま作業を続けていた。


 昼前になると、エクトが蜜芯根を一本掘り上げて父のところへ持ってきた。


「父さん、これ見て」


 差し出された根は、外見だけなら十分に育っているように見えた。


「何だ」


「試しに一本掘ったけど、芯がまだ白い」


 バランが根を切ると、確かに中心部へ本来あるはずの色が出ていなかった。


 蜜芯根は収穫が近づくにつれて中心部が淡い琥珀色へ変わり、そこへ糖分が集まることで、加熱した時に名前の通り強い甘味を出す。ところが目の前の根は中心まで白っぽいままで、成熟がまだ十分ではないことが分かった。


「掘るのが早かっただけだ」


「でも、この畝は去年ならもう色がついてた」


「今年は雨が多かったから遅れてる」


「東側は?」


「昨日見たけど、似たようなもんだ」


 バランは切った蜜芯根を見ながら、わずかに眉を寄せた。


          ◇


 収穫予定までは十日ほどしか残っていない。


 市場への出荷日もすでに決まっており、宿屋や食堂から予約まで入っているため、単純に何週間も収穫を延ばすことはできなかった。


「今から肥料を足す?」


 エクトが尋ねた。


「この時期に入れてどうする」


「水を減らすとか」


「今度は根が固くなる可能性がある」


「じゃあ、何するんだよ」


「今は待つ」


「十日で甘くならなかったら?」


「なる」


「どうして言い切れるんだよ。今年は去年と違うだろ」


 バランは息子を睨んだ。


「毎年見てきたからだ」


「だからって、今年も同じになるとは限らないだろ」


「育て方を途中で全部変える方が危ない」


「全部変えろなんて言ってないよ」


 エクトはそれ以上反論せず、切った蜜芯根を籠へ入れると、別の畝へ歩いていった。


          ◇


 その日の午後、バランは市場へ出す別の野菜を荷車へ積み、レーヴェンへ向かった。


 根玉葱と黄芋をいつもの卸先へ届けながら、何軒かの料理人へ蜜芯根の収穫が少し遅れるかもしれないと伝えていく。


「品質悪いの?」


 宿屋の料理人が尋ねた。


「まだ甘味が乗りきってない」


「今年は雨が多かったからな」


「十日あれば戻ると思ってる」


「それでも駄目だったら?」


 バランはすぐには答えられなかった。


「その時になったら考える」


 料理人はそれ以上追及しなかったものの、その問いだけは市場を離れたあとも妙に頭へ残った。


 荷をすべて下ろした頃には、荷車に試し掘りした蜜芯根が数本だけ残っていた。家で食べても構わなかったが、今の状態を料理にすると例年のものとどれほど違うのか確かめたくなり、バランは以前市場の商人から聞いた《持ち込み食堂》へ寄ってみることにした。


          ◇


「いらっしゃいませ」


 大きな身体で店へ入ったバランを、ミレイアが迎えた。


「持ち込み、いいか」


「もちろんです。今日は何ですか?」


「蜜芯根を持ってきた」


 厨房から出てきた悠斗は、その名前を聞くとすぐに卓までやって来た。


「蜜芯根なら何度か使ったことがあります」


「今年採れたやつだ」


「もう収穫したんです?」


「試し掘りだ。ちょっと状態を見てほしい」


 バランが袋から太い蜜芯根を三本取り出すと、悠斗は一本を持ち上げて切断面を確認した。


「普段買うものより中心が白いですね」


「やっぱり分かるか」


「いつものものは、もう少し黄色というか、琥珀色に近いです」


「まだ甘くなってないんだ」


          ◇


「食べられないわけではないんですよね?」


 悠斗が尋ねた。


「食えるし、毒があるわけでもない。ただ、蜜芯根としては出来がよくない」


「具体的にはどう違います?」


「苦味が残って、甘さが弱い」


「料理して確かめてみます?」


「そのために持ってきた」


 バランは椅子へ座りながら、いつものように焼いてほしいと頼んだ。


「比較できるように、何種類か試してもいいですか?」


「何をする」


「焼くのと煮るの、それから薄く切ったものを少しずつ試します」


「構わん。好きにやってくれ」


          ◇


 悠斗は蜜芯根をいくつかに切り分け、まず一部を厚めの輪切りにして焼いた。


 少量の油を引いた鉄鍋へ置き、表面に焼き色がつくまでなるべく動かさず、内部まで火が入ったところで塩だけを振る。別の一部は小さく切って根玉葱と一緒に煮込み、最後の一部についてはかなり薄く切り、油を少し多めに使って縁まで色づくように焼いていった。


「普通の蜜芯根なら、焼くだけでもかなり甘いですよね」


 悠斗が尋ねた。


「ああ。冬前の出来がいいやつなら、塩もいらないって言う子どももいる」


「今のものがどれくらい違うのか、食べれば分かりそうですね」


「俺にはもう切った時点で分かるがな」


          ◇


 最初に厚切りで焼いたものを味見すると、バランは一口噛んだだけで眉を寄せた。


「まだ駄目だな」


 悠斗も少量を口へ入れ、味を確かめる。


「確かに少し苦味がありますね。甘さもありますけど、いつもの蜜芯根ほど強くないです」


「このままじゃ普通の商品としては出せん」


「煮た方も見てみましょう」


 根玉葱と一緒に煮たものでは苦味が少し和らいでいたものの、蜜芯根そのものの甘味が強くなったわけではなく、バランが求めている出来とはまだ離れていた。


「やっぱり違うな」


「薄切りの方はどうでしょう」


          ◇


 薄く切って焼いたものは、厚切りとは少し印象が変わっていた。


 縁までしっかり焼いたことで香ばしさが増し、厚切りでは舌へ残った苦味が目立ちにくくなっている。


「これなら食える」


 バランが言った。


「普段の蜜芯根と同じ美味しさではないですけど、料理としては悪くないと思います」


「でも、蜜芯根として客が期待してる味じゃない」


「売り方の問題ですか?」


「客は甘い蜜芯根を買いに来るんだ。苦味を焼き方で隠して、それをいつもの品として出すわけにはいかない」


「それはそうですね」


 悠斗は無理に反論せず、残った根へ視線を向けた。


          ◇


「収穫までは、あとどれくらいなんです?」


「十日だ」


「十日待てば甘くなる?」


「おそらくな」


「確実ではない?」


 バランは少し嫌そうに悠斗を見た。


「今年は雨が多かったから、例年より遅れてる。畑に絶対なんてない」


「それでも出荷日は決まってるんですよね」


「ああ」


「農業も大変ですね」


「今さら分かったのか」


 バランは水を一口飲みながら、息子が今朝言ったことを思い出した。


「うちの息子は、水を減らした方がいいんじゃないかって言ってた」


「息子さんも農家なんです?」


「今は畑を手伝ってる」


 答え方が少し引っかかったのか、悠斗が首を傾げた。


          ◇


「今は、ということは来年は違うんですか?」


「街へ行くって言ってる」


「仕事を探して?」


「木工所へ行きたいらしい」


「じゃあ、農家は継がない?」


「そういうことだ」


 バランの声が少し低くなった。


「十八までこの畑で育って、仕事も一通り覚えさせたのに、急に街へ行くって言い出した」


「急に言っただけで、考え始めたのはもっと前かもしれませんよ」


「知らん」


「理由は聞かなかったんです?」


「木工が好きだからとは言ってた」


「どうして好きなのかは?」


「そこまでは知らん」


「どこの木工所へ行きたいとか、何を作りたいとかも?」


「……知らん」


 答えるほど、自分が息子の話をほとんど聞いていなかったことだけが浮き彫りになっていった。


          ◇


「何なんだ、その聞き方は」


 バランが不機嫌そうに言うと、悠斗はすぐに手を止めた。


「すみません。ただ、農家を継がない理由より、木工をやりたい理由の方は聞いたのかなと思って」


「同じようなものだろ」


「同じです?」


「畑をやらないなら、俺から見れば同じだ」


 そこまで口にしてから、バランは自分の言葉にわずかな引っかかりを覚えた。


 エクトは「畑が嫌いだ」とは一度も言っていない。夕食の席でも「木を扱う仕事に興味がある」と言っただけなのに、自分は畑を継がないという一点だけで、息子がこれまでの暮らしも仕事も全部否定しているように受け取っていた。


「俺が教えたことも、農家にならなきゃ全部無駄になる」


 バランが言った。


「農業に使う知識なら?」


「ああ。種の見分け方や土の水分なんて、街の木工所で何に使う」


「俺には分かりません。ただ、息子さんが覚えたこと自体はなくならないですよね」


「使わなきゃ同じだろ」


 バランは迷わずそう返した。


          ◇


「じゃあ、バランさんはお父さんから教わったやり方を、今も全部同じように使ってます?」


 悠斗が尋ねた。


「何の話だ」


「畑のやり方です」


「変えたものくらいある」


「たとえば?」


「灌水の溝だな。昔はもっと深く掘ってたが、土が流れやすかったから浅くした。それと種の間隔も少し広げた」


「お父さんのやり方を変えた時、怒られました?」


「三日くらい口をきかなかった」


「かなり怒ったんですね」


「頑固な親父だったからな」


 そこまで答えたところで、バランは自分も似たようなことをしているのではないかと思い、わずかに口を閉じた。


「結局、その変更はどうなったんです?」


「俺が作った畝の方が収量がよかった。それを見て、次の年から親父も変えた」


「教わった通りに生きなかったからといって、教わったものを全部否定したわけではなかったんですね」


「それと息子の話は違う。あいつは仕事そのものを変えようとしてる」


「そうですね。ただ、教えた通りの道を選ばないことと、教えたことが全部無駄になることは同じなのかなと思っただけです」


 バランは不機嫌そうに黙り込んだ。


          ◇


 悠斗はそれ以上、家族の話を押し進めなかった。


 代わりに残った蜜芯根を細かく刻み、根玉葱と少量の塩漬け肉を使ってもう一品試すことにした。


「まだ作るのか」


「この程度の苦味なら、脂や他の野菜と合わせた時にどうなるのか見てみたくて」


「普通の商品にはならないぞ」


「今日は売るためじゃなくて、食べるために作ってますから」


「さっきも食っただろ」


「一つの食材として使った時と、一皿の中へ組み込んだ時では印象が変わることもあります」


 バランは何も言わず、厨房で動く悠斗を眺めた。


          ◇


 悠斗は刻んだ蜜芯根を一度湯へ通し、舌へ残りやすい苦味だけを少し抜いた。


 その後、根玉葱と薄切りの塩漬け肉を炒め、肉から脂が十分に出たところへ蜜芯根を加える。表面へ軽く焼き色がついたところで少量の乳を流し込み、煮崩れるほど長く火を入れずに仕上げた。


「《蜜芯根と塩漬け肉の乳炒め》です」


「甘くなってない蜜芯根で作ったのか」


「そのままだと足りない甘さを根玉葱で補って、残っている苦味には肉の脂と塩気を合わせてみました」


「それを誤魔化してるって言ったんだ」


「なら、無理して食べなくてもいいですよ」


「そこまで言われたら食う」


 バランは少し不満そうに匙を取った。


          ◇


 普段の蜜芯根を使った料理とは、確かに違う味だった。


 本来なら根そのものから出る甘味が中心になるところを、根玉葱の柔らかな甘さと乳のまろやかさが補い、わずかに残った苦味を塩漬け肉の脂と塩気が受け止めている。蜜芯根らしい料理かと尋ねられれば、バランは迷わず違うと答えるだろうが、一皿の料理として食べれば不味いわけでもなかった。


「変な感じだな」


「嫌いです?」


「嫌いではない。ただ、これをいつもの蜜芯根の料理だと言われたら違和感がある」


「じゃあ、今年の分を全部この使い方で売るのはなしですね」


「当たり前だ。まずは収穫できる状態まで待つ」


「十日後になっても、まだ甘くなかったら?」


 悠斗に聞かれ、バランは少し考えた。


「その時は出荷先に相談する」


          ◇


「食べられるなら全部捨てるわけではない?」


「状態次第だが、食えるものまで全部捨てる必要はない。加工用として安く出す方法もある」


「さっきは商品にならないって言ってましたよ」


「いつもの蜜芯根としては出せないって意味だ。別の商品として説明して売るなら話は違う」


「なるほど」


 悠斗はそれ以上何も言わなかったが、バラン自身は口にした言葉が妙に耳へ残った。


 いつもの蜜芯根にならなかったとしても、その根が何の価値もなくなるわけではない。


 別の使い方ができるなら、それに合う場所へ渡せばいい。


 もちろん息子を作物と同じように考えるつもりはなかったし、そんな分かりやすい例え一つで家族の問題が片づくとも思えない。それでも、自分が何度も「農家を継がないなら教えたことは全部無駄になる」と決めつけていたことだけが、店を出てからも妙に胸へ引っかかった。


          ◇


 家へ戻ると、エクトは納屋で農具を手入れしていた。


「帰ったのか」


「ああ」


「蜜芯根、どうだった?」


「まだ甘くなかった。普通に出すには早い」


「やっぱり」


「ただ、食えないわけじゃない。料理次第では使える」


「それは最初から分かってるよ」


 バランは納屋へ入り、壁に立てかけられた鍬へ何となく目を向けた。


 柄の部分だけ、去年より新しい木材へ交換されている。


「これ、お前が直したんだったな」


「そうだけど」


「前の柄より使いやすい」


 思いがけない言葉だったのか、エクトが驚いたように父を見た。


          ◇


「急に何だよ」


「木工所へ行きたいって話を、もう一回する」


 その言葉を聞いた途端、エクトの表情が固くなった。


「また怒るなら今日はやめよう」


「怒らんとは言えん」


「じゃあ嫌だよ」


「でも今度は聞く」


 バランは少し間を置き、今まで一度もまともに尋ねなかったことを口にした。


「何で木工なんだ」


 エクトは父の顔をしばらく見つめた。


「前にも言っただろ。好きだから」


「いつから好きだった」


「昔からだよ。父さんが壊れた荷車を直してた時とか、納屋の棚を作った時とか、畑仕事よりそっちを手伝ってる方が楽しかった」


 バランには、その時の記憶がきちんと残っていた。


          ◇


 エクトが十二歳の頃、収穫用の荷車が壊れ、父子で車輪を交換したことがある。十五歳の時には納屋の棚を増やすため一緒に板を削り、その時の息子が作業を終えてもなかなか納屋から出ず、完成した棚を何度も手で確かめていたことまで、思い返せば覚えていた。


 ただ、バランはそれらをすべて「畑仕事の中で必要な作業が好きなのだ」と、自分に都合よく解釈していただけだった。


「どこの木工所へ行くつもりなんだ」


「西区の《樫枝工房》」


「もう話をしたのか」


「見習い募集に応募した。来月、試験してくれるって」


「そこまで進めてたのか」


「言ったら父さんが最初から反対すると思ったから」


 否定しようとしたものの、実際に反対したことを思い出し、バランは何も言えなかった。


          ◇


「畑はどうする」


 それでも、バランにとって簡単に外せない問題だけは尋ねた。


「それは父さんと母さんだけで何とかしろって意味じゃないよ。必要なら人を雇うとか、作る量を少し減らすとか、一緒に考えるしかないだろ」


「簡単に言うな。畑を減らせば収入も減る」


「簡単だとは思ってないよ」


 エクトは父から目を逸らさなかった。


「俺だって、この畑なんかなくなればいいなんて思ってない。蜜芯根も好きだし、収穫の時期も嫌いじゃない」


「だったら、どうして――」


「好きな場所と、自分が一生やりたい仕事は同じじゃないんだよ」


 バランは、その言葉にすぐ返すものを見つけられなかった。


          ◇


「父さんは農業が好きなんだろ」


「ああ」


「俺も、父さんが農家やってることは好きだよ」


「何だ、その言い方は」


「そのままだよ。父さんが作った野菜が市場に並んでるのを、小さい頃からずっとすごいと思ってた」


「だったら――」


「でも、俺は木で物を作る仕事をやってみたい」


 エクトは壁へ立てかけた鍬を取り、父へ差し出した。


「この柄も、前のより手に合うように少し太さを変えたんだ。父さん、指が太いから」


「俺の手を見て決めたのか」


「毎日一緒に働いてるんだから、そのくらい分かるよ」


 バランが握ってみると、確かに以前より手のひらへ食い込みにくかった。


          ◇


「木工所へ入ったら、農具も作るのか」


「最初からそんな仕事を任せてもらえるわけないよ。掃除とか木運びばっかりかもしれない」


「それで嫌になったらどうする」


「その時に考える」


「家へ戻ってくるのか」


「戻るかもしれないし、別の仕事を探すかもしれない」


「農家になる可能性もあるのか」


「あるかもしれないけど、今からそれを約束する気はない」


 以前なら、その答えを無責任だと怒鳴っていたかもしれない。


 しかしバランは鍬の柄を握ったまま、しばらく何も言わなかった。


          ◇


「俺は、お前が畑を継ぐもんだと思ってた」


「知ってる」


「だから仕事を教えてきた」


「それも分かってる」


「お前が農家にならないなら、何のために教えたんだって思った」


 エクトは少し考えてから答えた。


「俺、父さんに仕事を教えてもらったこと自体が嫌だったわけじゃないよ」


「でも農家にはならない」


「少なくとも今は、木工をやりたい」


「なら、使わない知識になるものもある」


「それでも俺が覚えてることまで消えるわけじゃないだろ」


 《持ち込み食堂》で悠斗から聞いたのとよく似た言葉を、今度は息子自身の口から聞くことになった。


          ◇


「木工所へ行っても季節の変化くらいは分かるし、材木を乾かすなら天気も見るだろ。市場へ行けば野菜の値段が上がった理由も分かるし、もし土地があれば、自分で食べるものくらいは育てられる」


「それで俺が満足すると思うか」


「しないと思う」


 エクトは苦笑した。


「でも、父さんが教えてくれたことを無かったことにはしないよ」


 バランは長く息を吐き、ようやく一つだけ別のことを尋ねた。


「木工所の試験、いつだ」


「来月の十二日」


「収穫が終わった後にしたのか」


「そのつもりで選んだ」


「……そうか」


          ◇


 翌日から、父子の関係が突然元通りになったわけではなかった。


 バランは畑を継いでほしいという気持ちを捨てたわけではなく、エクトも木工所へ行く考えを変えていないため、将来について話しているうちに互いの言葉が強くなることはまだあった。


 それでも、以前のように「継がないなら畑を捨てるのと同じだ」と決めつけることだけは、バランも言わなくなった。


 代わりに、木工所で何を作りたいのか、試験では何をさせられるのかを、少しずつ息子へ尋ねるようになった。


「試験って何やるんだ」


「小箱を作るらしい」


「箱?」


「材料を渡されて、半日で組むんだって」


「お前、細かい寸法を測るの苦手だろ」


「畝の間隔を測る時は間違えてないだろ」


「畝と箱は違う」


「そのくらい分かってるよ」


 以前と同じように言い合っていても、話そのものを拒むことはなくなっていた。


          ◇


 一方、収穫を待っている蜜芯根にも、少しずつ変化が現れていた。


 収穫予定の五日前になると、東側の畝では芯が淡い黄色へ変わり始めたものの、西側はまだ白いものが多く、今年は畑の場所によって成熟の進み方にかなり差が出ているらしい。


「全部同じ日に掘るの、やめた方がいいんじゃない?」


 エクトが尋ねた。


「分けたら出荷が面倒になる」


「でも東側だけ先に出せるだろ」


「西側はどうする」


「もう一週間待つ。予約先には、最初の出荷数が少なくなるって説明すればいい」


「それで西が甘くなる保証もないぞ」


「一週間待って駄目なら、その時に加工用へ回せばいい」


 バランはすぐに答えず、目の前に広がる畑をしばらく見渡した。


          ◇


 例年なら、同じ日に人手を集めて一気に収穫する。


 荷車を出す回数も少なくて済み、市場への運搬もまとめられるため、その方が効率はいい。しかし今年の畑は、例年と同じようには育っていない。


「東側は明日から掘る」


 やがてバランが言った。


「西は?」


「七日待つ。その間に市場へ話をつける」


 エクトは少し驚いた顔をした。


「何だ」


「父さんなら、全部一緒に掘るって言うと思ってた」


「甘くなってないもんを、同じ日に掘っても仕方ないだろ」


「それはそうだけど」


「今年は今年の畑を見て決める」


 口にしてから、バランはその言葉が以前より自然に出たことに自分でも少し驚いた。


          ◇


 東側の蜜芯根は、例年よりわずかに甘味が弱いものの、十分に通常の商品として出せる状態まで育っていた。


 西側についてはさらに一週間待ったことでかなり芯の色が進み、それでも甘味が弱かった一部だけを通常品から外した。


 外した分についても捨てることはせず、加工用として状態を説明した上で安く出すことにした。


 最初に相談した宿屋の料理人へ持ち込むと、相手は一本を焼いて確かめた。


「確かにいつものより甘くないな」


「普通の蜜芯根としては出せん」


「じゃあ、どう売るつもりだ」


「薄く焼くか、肉と合わせる料理なら使える。加工用として値段を下げる」


「それなら煮込みの試作に使わせてくれ」


「どれくらい欲しい」


「まず籠一つだけ買う」


「分かった。合わなかったら次は無理に買わなくていい」


 通常品とは違う形ではあったものの、その年の畑から採れたものをすべて同じ基準へ押し込まずに済んだことへ、バランは以前ほど抵抗を感じなくなっていた。


          ◇


 収穫が一段落した数日後、バランはエクトを連れて《持ち込み食堂》へやって来た。


「いらっしゃいませ」


 ミレイアが二人を迎え、厨房から出てきた悠斗は、バランの隣にいる青年を見た。


「息子さんですか?」


「エクトだ」


「初めまして」


 エクトが軽く頭を下げた。


「父さん、ここ来てたんだ」


「一回だけな」


「蜜芯根を料理してもらった時?」


「そうだ」


 バランは袋を卓へ置いた。


「今日は、ちゃんと甘くなった方を持ってきた」


          ◇


 悠斗が蜜芯根を切ると、中心部は前回とは違い、淡い琥珀色へ変わっていた。


「前のものとは全然違いますね」


「東側の畑で採れたやつだ」


「西側はどうなりました?」


「一週間遅らせた」


「上手くいきました?」


「大半はな。それでも甘くならなかった分は、普通の商品から外して加工用へ回した」


「捨てなかったんですね」


「食えるものまで捨てる必要はないだろ」


 バランが少し不機嫌そうに答えると、悠斗は何か言いたそうな顔をしたものの、余計なことは口にせず厨房へ戻った。


          ◇


 その日は、十分に成熟した蜜芯根を厚切りにして焼き、根玉葱と肉を添えた料理にした。


 火を通した蜜芯根からは、本来の特徴である強い甘味が出ており、前回持ち込んだものとは明らかに違う。


「今年のもちゃんと甘いな」


 エクトが言った。


「東はな。西は危なかった」


「でも一週間待ったら大半は戻っただろ」


「ああ」


 二人の会話を聞いていた悠斗が、少し間を置いて尋ねた。


「木工所の試験、どうなったんです?」


 バランが息子を見る。


「こいつから聞いたのか?」


「前に話の流れで少しだけ」


「父さん、自分から話したんだ」


「余計なこと言うな」


 エクトは少し笑った。


          ◇


「試験は来週です」


 エクトが答えた。


「緊張します?」


「かなりします」


「もし落ちたら?」


「また別のところを探すか、次の募集を待ちます」


 すると横からバランが口を挟んだ。


「樫枝工房は来年も見習いを取るらしいぞ」


「父さん、調べたの?」


「市場で工房のやつに会っただけだ」


「それを調べたって言うんだよ」


「うるさい」


 二人のやり取りを見ながら、悠斗はそれ以上家族の話へ踏み込まず、厨房へ戻った。


          ◇


 食事の途中、エクトが持ってきた小さな木箱を卓へ置いた。


「それは何です?」


 悠斗が尋ねる。


「試験の練習で作った箱です。まだ少し歪んでるけど」


 四角い蓋付きの箱で、角の一つがわずかにずれているものの、初めて見る悠斗には十分使えるように見えた。


「何を入れるものなんです?」


「特に決めてません。調味料とか、小物とか」


 悠斗が蓋を何度か開け閉めしてみる。


「厨房で使えそうですね。小袋の香辛料をまとめるのにちょうどいいかもしれません」


「本当ですか?」


「ただ、湿気が多い場所だから、長く置くなら少し気をつけた方がいいかも」


「だったら、次はもっと蓋を深くして、隙間を減らした方がいいかな」


 エクトの表情が急に真剣になった。


          ◇


 バランは、その顔を隣から黙って見ていた。


 蜜芯根の糖の乗り方を話している時とも、畑の畝を直している時とも違い、エクトは木で作った箱を前にしながら、自分なら次をどう変えるのかを本気で考えている。


 その様子を見て寂しくないと言えば嘘になる。


 もし息子が畑を継いでくれれば、自分が覚えてきた仕事をすぐ隣で渡していけるし、歳を取って身体が動かなくなった後も、モーグ家の畑がそのまま残ると思えた。


 けれど、その安心を手に入れるために、息子が自分で選びたい仕事まで父親が決めていいわけではないのだと、バランも少しずつ認め始めていた。


          ◇


「エクト」


 バランが呼んだ。


「何?」


「試験に受かったら、木工所へ行け」


 エクトの手が止まり、そのまま父の顔を見た。


「本当に?」


「受かったらだ」


「落ちたら?」


「その時は、その時考えろ」


「畑継げって言わない?」


「言いたくなることはあるかもしれん」


「そこは言わないって言えよ」


「無理なもんは無理だ」


 エクトはしばらく父を見たあと、呆れたように、それでも少し嬉しそうに笑った。


「父さんらしいな」


          ◇


「ただし、収穫期に人手が足りなかったら手伝いを頼むことはある」


「街から呼ぶの?」


「休日くらいあるだろ」


「毎回は無理だよ」


「毎回とは言ってない」


「だったら先に相談して。父さん、曖昧にすると全部の収穫日に呼びそうだから」


「そこまでひどくない」


「今年だけで何日畑に出たと思ってるんだよ」


 バランは反論しかけたものの、否定できる材料がなく、そのまま口を閉じた。


 悠斗は笑いそうになりながら皿を片づけ、ミレイアも聞こえないふりをして隣の卓を拭いていた。


          ◇


 食事を終えたあと、エクトは持ってきた木箱を悠斗へ置いていった。


「試作品だから、お金はいらないです」


「本当にいいんですか?」


「使ってみてください。湿気が入るとか、蓋が固いとか、何かあったら次に来た時教えてほしいです」


「分かりました。ちゃんと使ってみます」


 そこへバランが横から口を挟んだ。


「金を取れる出来になってから売れよ」


「だから今日は試作品だって言ってるだろ」


「材料代くらいは取った方が――」


「父さんは黙ってて」


「何でだ」


 二人はまた言い合いながら店を出ていったが、来た時よりも、その声にはどこか軽さがあった。


          ◇


 木工所の試験当日、バランはいつも通り畑へ出ていた。


 朝から何度も太陽の位置を確かめ、今頃は試験が始まった頃か、もう箱を組んでいる頃かと考えていたものの、エクトについて街まで行くようなことはしなかった。


 昼を過ぎ、夕方になってもなかなか帰ってこないため、落ち着かないまま蜜芯根の残った畝を確認していると、農道の向こうから息子が走ってきた。


「父さん!」


「走るな。畑の脇で転ぶぞ」


「受かった!」


 エクトは息を切らしながら、それでも抑えきれない笑顔で続けた。


「来月から見習いとして来ていいって!」


 バランは手にしていた鍬を土へ立て、息子の顔をしばらく見た。


          ◇


「そうか」


「それだけ?」


「何を言えばいい」


「何でもあるだろ」


「受かったなら、約束通り行け」


「それは前にも聞いたよ」


「なら十分だろ」


 エクトは不満そうにしたものの、すぐに笑った。


「母さんに言ってくる」


「待て」


「何?」


「来月からなら、それまでこの西畝を片づけろ」


「結局働かせるのかよ」


「まだ今月はうちの農家だろ」


「来月からは?」


 バランは少しだけ考え、今度ははっきり答えた。


「来月からは、樫枝工房の木工見習いだ」


          ◇


 その答えを聞いたエクトは、一瞬だけ黙った。


「……うん」


「ただ、農繁期に都合がついたら手伝え」


「先に連絡してくれたら考える」


「考えるじゃなくて来いと言いたいところだが、木工所の仕事があるなら無理するな」


 以前なら、その言葉を口にするだけでも腹が立ったかもしれない。


 けれど今は、息子が畑以外の仕事を持つことと、この家の家族ではなくなることが同じではないと、以前よりはっきり分かるようになっていた。


          ◇


 エクトが木工所へ入ってからも、モーグ家の畑が突然なくなることはなかった。


 バランは来年から栽培面積を少しだけ減らすことにし、収穫期に必要な時だけ村の若者を雇えるよう、今年のうちから近隣の農家へ相談を始めた。


 エクトが毎日いた頃と同じ広さを無理に維持するより、自分と妻がきちんと管理できる範囲へ変えた方が、作物の状態を見落とさずに済む。


 畑を減らす決断をした時にも、以前ほど「父から継いだものを失う」とは思わなかった。


 父から自分へ渡されたものは土地の広さだけではなく、土や天気を見ながら、その年に合う方法を考えることでもあったのだと、今では少し違う形で理解できていた。


          ◇


 冬が近づいたある夕方、エクトが久しぶりに家へ戻ってきた。


 背中には木工所の道具袋を背負い、手には新しく削った一本の鍬の柄を持っている。


「何だ、それ」


「父さん用に作った」


「まだ今の柄は使えるぞ」


「使えるけど、もっと手に合う形にできると思ったから」


 エクトは古い柄を外し、新しいものへ付け替えた。


 握る部分は以前よりさらに父の手の形へ合わせて削られており、中央には滑りにくい細かな凹凸までつけられている。


「どう?」


 バランは何度か握り直し、重さのかかり方まで確かめた。


「悪くない」


「それ、かなりいいって意味だろ」


「調子に乗るな」


          ◇


「木工所はどうだ」


 バランが尋ねた。


「大変だよ。まだ箱とか棚の部品ばっかり作ってるけど、面白い」


「毎日怒られてるか」


「ほとんど毎日」


「向いてないんじゃないか」


「父さんだって、爺ちゃんに毎日怒られてただろ」


「何で知ってる」


「爺ちゃんから聞いた」


「余計なことを教えやがって」


 二人はそんな話をしながら、畑の端を並んで歩いて家へ向かった。


 エクトはもう毎朝この畑へ出る農家ではない。


 それでも土の状態を見れば今年は少し乾いていると分かり、蜜芯根の葉を見れば収穫の時期も判断できる。バランが長い時間をかけて教えてきたものは、息子が別の仕事を選んだからといって、どこかへ消えてしまったわけではなかった。


          ◇


 数日後、バランはエクトが作った新しい柄の鍬を持って畑へ出た。


 冷えた土へ刃を入れると、以前の柄より手の力が伝わりやすく、何度振り下ろしても握る部分が手のひらへ食い込みにくい。


 父から仕事を教わった畑で、自分が息子へ教えた土の見方を使いながら、その息子が選んだ別の仕事によって作られた鍬を握っていることを、バランは少し不思議に思った。


 自分が若い頃から思い描いていた継がれ方とは、確かに違っている。


 それでも、家族の中で受け渡されていくものが、必ず同じ職業や同じ暮らしの形をしている必要はないのだろう。


 バランは息子の手で削られた新しい柄を握り直すと、来春の自分たちだけで無理なく管理できる畑の広さを確かめるため、その年の土の状態を見ながら次の畝を一つずつ測り始めた。


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