第31話 強すぎる香辛料と、値切れない香辛料商
ナーシャ・コンは、香辛料の値段を決める仕事をしているくせに、自分が誰かから値段を下げてほしいと頼まれることだけは、昔からひどく苦手だった。
二十八歳になる狐獣人の彼女は、レーヴェン東市場を中心に商売をしている香辛料商であり、乾燥香草や辛味種子、樹皮、香りの強い果実から、料理人しか使わない珍しい粉末まで幅広く扱っている。大きな店舗を構えているわけではなく、常設の小さな露店と倉庫を持ちながら、必要に応じて宿屋や食堂、薬草店、冒険者向けの保存食店へ直接商品を届ける形で商売を続けていた。
香辛料は、肉や魚のように見ただけで量と価値の関係が分かりやすい商品ではない。指先へほんの少量つけただけで料理一鍋の印象を変えるものもあれば、同じ名前でも産地や乾燥方法によって香りが大きく違うものもあるため、ナーシャは仕入れ値だけではなく、香りの強さ、保存性、希少性、その年の収穫量まで含めて値段を決めていた。
だからこそ、自分の商品へ付けた値札には一つずつ理由があるのだと考えている。
それなのに客から「もう少し安くならない?」と言われると、その理由を説明するより先に、自分が時間をかけて決めた値段そのものを軽く扱われたような気持ちになり、どうしても言葉が刺々しくなってしまうのだった。
◇
「これ、昨日より高くない?」
朝の東市場で、宿屋の料理人が小袋を持ちながら尋ねた。
袋に入っているのは、《赤針種》と呼ばれる辛味の強い香辛料であり、肉料理や豆の煮込みへ少量加えるだけでも味が引き締まるため、宿屋や酒場ではよく使われている。
「昨日よりじゃなくて、先月よりね。今年は南方便が遅れてるから、仕入れが上がったの」
「でも二割は高いだろ」
「仕入れが一割半くらい上がってるし、運送料も増えてる」
「少し負けてよ」
「無理」
ナーシャはほとんど間を置かずに答えた。
「いつも買ってるじゃん」
「いつも買ってくれてても、私の仕入れ値まで安くなるわけじゃないから」
「でも別の店だと、もう少し安かったぞ」
「なら、そっちで買えば?」
料理人の顔が少し険しくなった。
「そういう言い方するか?」
「安い方がいいんでしょ。だったら安い店で買うのが普通じゃない」
「質が違うからこっち来てるんだよ」
「だったら、その質の分まで値段に入ってる」
料理人はしばらく小袋を見たあと、結局そのまま買ったものの、露店から離れていく時の表情は明らかに不機嫌だった。
◇
「またやったね」
隣で乾燥果実を売っている女商人が、呆れたような顔で声をかけてきた。
「何が」
「値切られた瞬間に喧嘩腰になるやつ」
「喧嘩してない」
「ナーシャはそのつもりでも、相手にはそう聞こえるの」
「だって安くしろって言われたら、こっちが値段つけた意味ないじゃん」
「断るのはいいんだよ。ただ、買うなら買え、嫌なら他へ行けって毎回言う必要ある?」
「事実でしょ」
「事実なら何でもそのまま言えばいいってわけじゃないでしょ」
ナーシャは露店へ並べた香辛料の瓶を整えながら、聞こえなかったふりをした。
実際には言われている意味くらい理解していたが、客に値切られるたび同じ反応をしてしまう自分を、今さらどう変えればいいのかも分からなかった。
◇
午前の終わり頃になると、今度は小さな食堂を営んでいる夫婦がやって来た。
「白樹皮ある?」
「あるよ。細挽きと粗挽き、どっち?」
「煮込み用だから粗挽きかな」
ナーシャは棚の奥から袋を取り出した。
白樹皮は辛味こそ強くないものの、煮込むと甘く温かな香りを出すため、肉料理や乳製品を使った煮込みへよく使われる香辛料だった。
「いくら?」
値段を聞いた夫が少し眉を上げた。
「前より上がった?」
「北の産地で雨が多かったから、乾燥に時間かかってるの。その分、仕入れも上がってる」
「うち、今月ちょっと厳しくてさ。半量でいいから、少し安くできない?」
「半量なら半額」
「いや、そうじゃなくて」
「分かってる。でも値段そのものは下げられない」
妻が困ったように夫を見ると、二人は小声で少し相談した。
「じゃあ今月はやめようか」
「そうだな」
二人は結局何も買わず、そのまま露店を離れていった。
◇
ナーシャは二人の背中を見送りながら、胸の中へ小さな引っかかりを覚えた。
あの食堂は何年も前から自分の店で白樹皮を買っており、大口の客ではないものの、月に一度は必ず顔を出してくれる。だからといって、一度値段を下げれば次も同じことを求められるかもしれないと考えると、簡単に応じる気にはなれなかった。
商品には値段があり、その値段で売ることが商売なのだとナーシャは考えている。相手の事情へ合わせて安くした結果、自分の仕入れや生活が苦しくなれば、長く商売を続けることなどできない。
理屈としては間違っていないはずなのに、いつも買いに来てくれる夫婦が手ぶらで帰っていったことだけが、その日の午前中ずっと妙に気になっていた。
◇
昼過ぎ、倉庫から新しく届いた荷を出していると、見慣れない箱が一つ混ざっていることに気づいた。
南方の交易商から届いたもので、蓋には《炎房果・試供》と書かれている。
「何これ」
ナーシャは独り言を言いながら伝票を確認した。
炎房果という名前そのものは知っている。
南方の乾燥地帯で育つ細長い赤い実で、辛味香辛料として使われるものの、レーヴェンへ入る量はかなり少なく、ナーシャ自身も実物を扱ったことはなかった。
箱を開けると、中には指ほどの長さの赤黒い実が二十本ほど並んでいる。乾燥した皮には細かな皺があり、近づいただけでも鼻の奥へ刺さるような刺激があるため、かなり強い辛味を持っていることだけは、口へ入れなくても想像できた。
ナーシャは一つを持ち上げ、先端をほんの少しだけ削って匂いを確かめたが、それだけで目の奥まで熱くなるような刺激を感じ、舌へ直接つける気にはとてもならなかった。
◇
同封されていた紙には、《通常の赤針種より辛味が強い。少量使用推奨。加熱で香り変化あり》と簡単に書かれているだけで、それ以上の詳しい説明はなかった。
「これだけ?」
ナーシャは紙を裏返してみたが、裏には何も書かれていない。
どれくらい辛いのか、油へ溶けやすいのか、水へ入れるとどう変わるのか、種と皮で強さが違うのかも分からず、この情報だけで客へ売るにはあまりにも足りなかった。
商人として扱うなら、自分が少なくとも使い方の目安くらいは知っておく必要がある。
しかし、少量をそのまま口へ入れて確かめるには刺激が強すぎるため、ナーシャはしばらく箱の中身を眺めたあと、炎房果を数本だけ別の袋へ移した。
こういう正体の分かっている食材でも、調理法の分からないものを少量ずつ試せる店があることを、最近市場の商人たちから聞いていた。
◇
夕方前、《持ち込み食堂》の扉を開けると、ミレイアがすぐに声をかけた。
「いらっしゃいませ」
「持ち込み、試してもらえる?」
「危ないものじゃなければ」
「食用なのは確か。香辛料だから」
厨房から悠斗が出てきた。
「何です?」
「《炎房果》。南方から試供で来たんだけど、使ったことある?」
「ないです」
「やっぱりそうだよね」
ナーシャが袋を卓へ置くと、悠斗は中を確かめるために開き、すぐに少しだけ顔を離した。
「かなり匂いが強いですね」
「触った手で目をこすらない方がいいよ」
「それ、先に聞けてよかったです」
◇
「どうしたいんです?」
悠斗が尋ねた。
「売れるか見たい」
「味じゃなくて?」
「味も必要だけど、香辛料だからどう使えるか分からないと売りにくいの。高いだけで使い方も分からないものを買えって言えないでしょ」
「そのまま食べるのは?」
「私は嫌」
「俺も嫌です」
「料理人なのに?」
「辛いものをそのまま齧る仕事ではないので」
ナーシャはその返事に少し笑った。
「じゃあ少量ずつ試せる?」
「やってみます。ただ、刺激がかなり強そうなので、本当に少しずつにします」
「それでいい」
◇
悠斗は炎房果を一つだけ取り出し、手袋代わりになる薄い布を指へ巻いてから、皮と種の部分を分けた。
「種も使うんです?」
「普通の辛味種なら、種の周りの方が強いものもあるから確認したい」
「なるほど。じゃあ最初は皮だけですね」
まずは皮のほんの小さな欠片を湯へ入れ、数分置いて香りと辛味がどれくらい出るのかを見る。
湯からは薄く赤い色が出たものの、香りそのものはナーシャが予想していたほど強くなかった。
「飲む?」
「ほんの少しだけにします」
悠斗は匙の先へ一滴だけ取り、舌へ触れた瞬間、わずかに目を細めた。
「辛い?」
「かなり強いですね。これを飲み物として一杯飲むのは嫌です」
「分かりやすくていいね」
◇
ナーシャも同じように一滴だけ舐めてみると、舌へ触れた直後はそれほどでもなかったものの、数秒経ったところで熱が一気に広がり、喉の手前まで長く刺激が残った。
「やっぱりかなり強いね。赤針種よりずっと辛い」
「どれくらい違います?」
「正確には比べないと分からないけど、少なくとも同じ量は絶対使わない方がいい。体感なら何倍か違うと思う」
「売る時に注意書きが必要そうですね」
「そうなんだよね。ただ、強いってことは少量で済むから、仕入れ値が高くても売れる可能性はある」
「値段はもう決めてるんです?」
「まだ。仕入れ値から計算したら、かなり高くなると思う」
「その値段でも買う人います?」
「だから、使い方次第なんだよ」
◇
次に悠斗は、ごく少量の炎房果を油へ入れて温めることにした。
「今度は油?」
「水と違う香りの出方をするかなと思って」
「香りは油の方が乗るかもしれない」
「辛味も強くなる?」
「そこまでは分からないから、量はさっきよりさらに減らした方がいいね」
細かく刻んだ欠片を一つだけ油へ入れると、すぐに青さを含んだ鋭い香りが立ち上がった。
「こっちは匂いがかなり出るね」
「ですね。さっきとは印象が違います」
香りを移した油をごく少量だけパンへ塗り、二人で味を見る。
ナーシャは一口食べたあと、先ほどの湯とは違う味わいに少し目を見開いた。
「辛いけど、こっちの方がずっと美味しい」
「香りまで出てますね」
「単に辛いだけの実じゃないんだ」
◇
炎房果には、舌を刺すような辛味の奥に、乾いた果実を思わせる香りとわずかな苦味があった。
水へ入れた時には辛さばかりが前へ出ていたが、油へ移すことで香りが広がり、刺激そのものも料理の中へ馴染みやすくなっている。
「これなら肉料理に使えそう」
ナーシャが言った。
「炒め物とか?」
「脂のある肉の方が合うと思う」
「じゃあ試します?」
「肉あるの?」
「今日は鳥の腿肉があります」
「それなら少しだけお願い」
◇
悠斗は鳥肉を一人前だけ用意し、いきなり炎房果を肉へ直接振ることはせず、まず香りを移した油を少量使うことにした。
根玉葱を炒め、そこへ一口大に切った鳥肉を加え、肉へ十分な焼き色がついたところで塩を振る。最後に炎房果の油を匙の先ほどだけ混ぜると、熱と一緒に先ほどより穏やかな香りが立ち上がった。
「少なくない?」
ナーシャが尋ねる。
「さっきの強さなら、これでも十分だと思います」
「私ならもう少し入れるかも」
「まず食べてから増やしましょう。辛味は一度強くしすぎたら戻しにくいので」
「慎重だね」
「初めて使うものですから」
◇
出来上がった鳥肉を二人で少量ずつ味見すると、口へ入れた瞬間は普通の塩焼きに近いものの、噛んでいるうちに炎房果の乾いた香りと辛味がゆっくり広がっていった。
「私はもう少し入れてもいいかな」
ナーシャが言った。
「俺はこれくらいでも十分です」
「辛いもの弱い?」
「好みの範囲だと思います」
「商売するなら、それも考えた方がいいか」
「辛いものが好きな人だけを基準にすると、他の人が使いにくくなりそうですね」
ナーシャは少し考え、卓の上へ指先を軽く当てた。
「使用量の目安を何段階かに分けた方がいいかも。控えめ、普通、かなり辛い、みたいに」
「その方が初めて買う人も使いやすそうですね」
◇
悠斗はそのまま鳥肉を一皿分仕上げ、炎房果の油は最初の試食よりわずかに増やす程度に留めた。
付け合わせには黄芋と根玉葱を使い、辛味を受け止められるよう、黄芋は柔らかく蒸して軽く潰してある。
「《鳥肉の炎房果焼き、黄芋添え》です」
「名前そのままだね」
「初めて見る人にも分かりやすい方がいいかなと」
「それはそうだね」
ナーシャは鳥肉と黄芋を一緒に口へ運び、今度は料理としての香りと辛味を確かめた。
◇
鳥肉の脂へ炎房果の香りが馴染み、肉を噛むほどに後から辛味が立ち上がる。
そのまま食べれば少し強く感じる刺激も、黄芋の柔らかな甘さと一緒に口へ入れると収まりやすく、辛いだけではなく一皿として食べ続けられる味になっていた。
「これなら売れそう」
ナーシャが言った。
「判断早いですね」
「こういう香りが好きな料理人はいるよ。赤針種より少量で効くなら、袋の値段が高くても、一回の料理で使う量は少なくて済むかもしれない」
「じゃあ高く売る?」
「仕入れ値と使える回数を計算してから決める」
ナーシャはそう答えたものの、そこで朝にやって来た客たちとの会話を思い出した。
◇
「何か気になります?」
悠斗が尋ねた。
「私、値切られるの嫌いなんだよね」
「香辛料商なのに?」
「商人だから嫌なの」
「どういう意味です?」
「値段を決めるまでに、仕入れ値とか運賃とか品質とか全部見てるの。それを客から『もう少し安く』って言われると、何も考えず高くしてるみたいで腹立つ」
「実際はちゃんと理由がある?」
「当然」
「その理由、説明します?」
「説明する前に腹が立つ」
「そこが問題なんですね」
ナーシャは少し嫌そうな顔で悠斗を見た。
「笑ってる?」
「笑ってないですよ」
◇
「今日も常連に言われたんだよ」
ナーシャは朝の宿屋の料理人と、白樹皮を買わずに帰った食堂の夫婦について話した。
「白樹皮を買いに来た方は、今月厳しいから少し安くできないかって」
「値段は下げなかった?」
「下げたら私が困るからね」
「それはそうですよね」
「でも、結局買わずに帰った」
「毎月必要なんですよね?」
「たぶん。ずっと買いに来てるから」
「量を減らすとかは?」
「半量なら半額って言った」
「白樹皮以外で、似たような使い方ができるものは?」
「別の商品ってこと?」
「はい。何に使うのか分かれば、予算内で別の選択肢を出せたりしません?」
ナーシャはそこで少し黙った。
◇
白樹皮とまったく同じ香りにはならないものの、少量の黄甘皮と乾燥花を組み合わせれば、煮込みへ似た方向の温かな香りをつけることはできる。
しかも、その二つは今年の仕入れが安定しており、白樹皮より少し安く客へ出すことができる。
香辛料商であるナーシャなら、少し考えればすぐ思いつける組み合わせだった。
「……代わりに使えるもの、あったかも」
「じゃあ値段を下げなくても、客が払う金額を下げる方法はあった?」
「商品自体を変えるならね」
「それは駄目なんです?」
「駄目じゃない」
答えながら、ナーシャは朝の夫婦に何の料理へ使うのかすら尋ねなかったことを思い出した。
◇
「値段を下げるのと、客の予算に合わせるのは同じじゃないのか」
ナーシャは独り言のように言った。
「違うんです?」
「違うと思う。私が決めた商品の値段を崩さなくても、量や種類、組み合わせを変えれば、相手が払う総額は下げられる」
「じゃあ常連さんが欲しかったのは、値札そのものを否定することじゃなくて、今月払える範囲へ収めたかっただけかもしれない?」
「それは本人に聞かないと分からない」
「ですね」
「でも、私が最初から腹を立てて話を切ったら、その理由も聞けないか」
ナーシャは皿に残っていた黄芋を一口食べ、しばらく考え込んだ。
◇
「炎房果も同じかもしれない」
ナーシャが言った。
「何がです?」
「これ、袋の単価は高くなる。でも赤針種より少量で済むなら、一皿に使う金額ではそこまで高くならないかもしれない」
「計算できます?」
「できるよ。実際の使用量をもう少し確かめれば、だいたい出せる」
「なら、それも説明して売る?」
「普通は袋の値段しか見ない人も多いから、説明した方がいいかもね」
「使い方も?」
「これは入れすぎたら料理ごと食べにくくなるから、絶対つけた方がいい」
ナーシャは少し楽しそうな顔になり、腰袋から小さな記録板を取り出した。
◇
「皮だけの場合と、種ごと使う場合、それから油に移す場合で分けて試した方がよさそう」
「まだ今日試します?」
「今日はもう食べないよ。残りは家で少しずつ試す」
「直接触る時は気をつけてくださいね」
「それ、最初に私が言ったやつ」
「念のため確認です」
「あと、売る時の袋をもっと小さくした方がいいかもしれない」
「高い商品を少量から試せるように?」
「そう。初めての料理人へ大袋だけ売って、使えなかったら次から買ってくれないでしょ」
「試供品みたいにする?」
「無料にはしないよ」
「そこは商人ですね」
「当たり前でしょ」
◇
食事を終えたナーシャは代金を払い、残った炎房果を丁寧に包み直した。
「これ、少し置いていきます?」
悠斗が尋ねた。
「欲しい?」
「また違う料理でも試してみたいです」
「じゃあ二本だけ置いていく。代金は、正式に仕入れることになったらその時考える」
「今日は試供でいいんです?」
「私もここで使い方を試させてもらったから、その分」
「ありがとうございます」
「ただし本当に入れすぎないでね」
「今日の量で十分分かりました」
「それくらい慎重な人の方が、炎房果には合ってるかもね」
ナーシャは笑いながら店を出た。
◇
翌朝、ナーシャはいつもより早く露店へ出た。
炎房果については、昨夜のうちに家でも少量だけ試してある。
水へ入れると辛味が前へ出やすく、油へ移すと香りが分かりやすい。種周りは皮だけより刺激が強く、初めて使うなら種を外した方が量を調整しやすいことも分かった。
ナーシャはそれらを簡単な紙へまとめ、炎房果の箱の前へ置いた。
《炎房果・試験販売》
《赤針種より非常に辛味が強いため少量使用推奨》
《初回用小袋あり》
《油料理向き。使用量相談可》
値段そのものについては、仕入れ値と運賃から計算した通り、決して安くない額をつけた。
◇
最初に興味を示したのは、肉料理を多く出す酒場の料理人だった。
「高っ」
値札を見た瞬間、男が声を上げた。
いつものナーシャなら、その一言だけで少し腹を立て、「高いなら買わなくていい」と返していたかもしれない。
しかし今回は一度だけ言葉を飲み込み、商品の袋を指した。
「袋の値段は高いよ。でも、一回に使う量は赤針種よりかなり少ない」
「どれくらい?」
「辛さの好みにもよるけど、赤針種を一匙使ってる鍋なら、最初は四分の一以下から試した方がいいと思う」
「そんなに強いの?」
「種まで入れたら、もっと刺激が強くなる」
料理人は改めて小袋を見た。
「これ一つで何回くらい使える?」
「肉料理ならたぶん十回以上。辛さを控えめにするなら、もっと使える」
「だったら試してみるか」
◇
「もう少し安くならない?」
料理人が何気なく尋ねた。
ナーシャは一瞬だけ、いつものように即座に断りたくなったが、そこで口を止めた。
「値段そのものは下げられない。仕入れが高いから」
「やっぱ無理か」
「ただ、初めてなら半分の小袋も作れるよ。使えるか分からないものに、この量を最初から買う必要はないでしょ」
「半分ならいくら?」
ナーシャが金額を伝えると、料理人は少し考えたあと頷いた。
「じゃあ、そっちにする」
「最初は種を外して、油へ少しずつ香りを移して使うのが一番失敗しにくかったよ」
「分かった。試してみる」
料理人は小さな袋を受け取り、満足そうに露店を離れていった。
◇
昼頃になると、前日に白樹皮を買わずに帰った食堂の夫婦が再び現れた。
「昨日の白樹皮、やっぱり少しだけ買おうと思って」
妻が言った。
「量は?」
「いつもの半分くらいかな」
ナーシャは袋を取り出しかけたところで手を止めた。
「何に使うんだっけ」
「乳煮込み。月替わりで出してるやつ」
「香りは白樹皮じゃないと駄目?」
夫婦が顔を見合わせた。
「今までそれで作ってたけど、別のものでもできる?」
「完全に同じにはならないけど、黄甘皮と乾燥花を少し合わせれば、近い方向の温かい香りにはできる。そっちなら今年は仕入れが安定してるから、白樹皮より安く済むよ」
「味は変わる?」
「少しは変わる」
「どれくらい?」
「香りだけ試してみる?」
◇
ナーシャは露店の奥から、小さな香り見本を出した。
黄甘皮を指で少し砕き、乾燥花と合わせて匂いを見せる。
「白樹皮より甘さが軽い。その代わり最後に花の香りが少し残るよ」
妻が匂いを確かめた。
「これ、うちの鶏の乳煮込みなら合うかも」
「値段は?」
ナーシャが一か月分のおおよその使用量で計算すると、白樹皮を同量買うよりかなり安くなる。
「じゃあ今月はこれにしてみようか」
夫が言った。
「白樹皮じゃなくていい?」
「今月だけ味を変えてみてもいいだろ」
「なら、黄甘皮は最初から入れていいけど、乾燥花は煮すぎると香りが飛ぶから最後の方に入れて」
「昨日それ教えてくれればよかったのに」
妻が笑った。
◇
「昨日は……何に使うかまで聞かなかったから」
ナーシャが少し気まずそうに答えた。
「私たちも安くしてしか言わなかったしね」
「値段そのものは下げられないけど、予算が決まってるなら先に言って。別の商品で考えられる時は考えるから」
「分かった」
「ただし、毎回代わりがあるとは限らないよ」
「そこまで期待しないって」
夫婦は黄甘皮と乾燥花を買い、今度は手ぶらではなく露店を離れていった。
ナーシャはその背中を見送りながら、前日とは少し違う感覚を覚えていた。
◇
ナーシャは白樹皮の値段を一枚も下げていないし、自分が決めた商品の価値を否定したわけでもなければ、赤字で売ったわけでもない。
ただ、相手が本当に必要としていたものが「白樹皮そのもの」なのか、それとも「予算内で煮込みへ温かな香りを加えること」なのかを、初めて少しだけ聞いただけだった。
その違いが分かれば、自分から出せる選択肢も増える。
今までのナーシャは、値切りの言葉を聞いた瞬間に「自分の値段を否定された」と受け取り、相手がなぜ安くしたいのかを知る前に、自分から話を終わらせていたのかもしれなかった。
◇
数日後、最初に炎房果を買った酒場の料理人が戻ってきた。
「もうなくなった?」
ナーシャが尋ねる。
「まだある。今日はもう一袋買いに来た」
「使えた?」
「かなり使えた。辛い料理が好きな客に好評だったよ」
「入れすぎなかった?」
「最初の一回だけやった」
「やったんだ」
「鍋一つ辛すぎて、芋足して何とかした」
「だから少量からって言ったじゃん」
「二回目からはちゃんとやったよ」
料理人は笑いながら、今度は最初より少し大きな袋を手に取った。
◇
「値段、もう少し――」
男が冗談めかして言いかける。
ナーシャは相手を睨むように目を細めた。
「値段そのものは下げない」
「分かってるって」
「ただ、大袋なら包材の分だけ少し単価は下がるよ」
「本当?」
「大量に使うならね。でも今の使用量なら、中袋くらいで十分だと思う。大袋を買って使い切れずに香りを落としたら、その方が損でしょ」
「高い方を無理に売らないんだな」
「必要ないものまで売って、次から来なくなったら困るから」
「商売人だな」
「最初からそう言ってる」
料理人は中袋を選び、代金を払って帰っていった。
◇
その日の夕方、ナーシャは店じまいを終えたあと、《持ち込み食堂》へ向かった。
今回は炎房果を持っていない。
「いらっしゃいませ」
ミレイアが迎える。
「今日は普通に食べる」
「何にします?」
「辛くないものがいい」
厨房から悠斗が顔を出した。
「炎房果、売れました?」
「売れたよ」
「よかったですね」
「初回用を小袋にしたら、試す人も増えた」
「値段は?」
「下げてない」
「そこは守ったんですね」
「当たり前でしょ」
◇
ナーシャは、炎房果の使い方を書いた紙をつけたことや、白樹皮を買えなかった夫婦へ別の香辛料を提案したことを話した。
「値切られるの、平気になりました?」
「まだ腹立つ時はあるよ」
「そこは残るんですね」
「だって、どう考えても無茶な値段を言ってくる人もいるから」
「じゃあ、そういう時は?」
「無理って言う」
「前と同じ?」
「断るところは同じだけど、前よりは理由を聞くようにした」
ナーシャは水を一口飲み、少しだけ肩をすくめた。
「ただ安くしたいだけなら断る。でも予算とか使い方の問題なら、別の量とか別の商品で考えられることもある」
「全部、相手へ合わせるわけではない?」
「しないよ。私が損する売り方までしたら、商売を続けられないから」
「そのくらいがよさそうですね」
◇
しばらくして、鳥肉と豆を使った穏やかな煮込みが運ばれてきた。
ナーシャは一口食べ、香りを確かめるように鼻を少し動かした。
「これ、白樹皮入ってる?」
「少しだけ使ってます」
「今高いよ」
「知ってます。市場で買ったので」
「誰から買ったの」
「ナーシャさんのところです」
「え?」
「この前ミレイアが買いに行きました」
ナーシャがミレイアを見ると、彼女は少し笑った。
「ちゃんと値札通り払いましたよ」
「値切らなかった?」
「値切った方がよかったです?」
「いや、別にそういう意味じゃないけど」
◇
「でも、次に高かったら何に使うか教えて」
ナーシャが言った。
「どうしてです?」
「白樹皮じゃなくてもいい料理なら、別の香辛料を出せるかもしれないから」
「おすすめしてくれるんです?」
「商品と料理次第だけどね」
「助かります」
「ただし、安いだけで味が合わないものまでは出さないよ」
「そこは任せます」
ナーシャは少し満足そうに頷き、煮込みをもう一口食べた。
◇
商品につける値段には、仕入れに使った金だけでなく、運んだ距離や保存の手間、香りの強さ、自分が商品を見極めるために積んできた経験まで含まれているのだと、ナーシャは今でも考えている。
だから、その数字を理由もなく下げるつもりはこれからもなかった。
けれど、客が払える金額と、自分が売りたい商品の値段が合わない時、どちらかが一方的に諦める以外にもできることはある。量を変えることも、別の香辛料を提案することも、使う回数まで考えて高価な商品を少量だけ売ることもできる。
自分が決めた値札を守ることと、客が何を必要としているのかを聞かないことは、同じではなかった。
◇
翌朝、ナーシャが露店を開いて間もなく、一人の若い料理人が炎房果の前で足を止めた。
「これ、辛いやつですよね」
「かなり辛いよ」
「使ってみたいけど、高いな……」
以前なら、その一言を聞いただけですぐに「高いなら買わなくていい」と返していたかもしれない。
ナーシャは商品の瓶を整えながら、今度は相手の顔を見た。
「何に使う予定?」
「肉の串焼きです。店で辛い味を一つ増やしたくて」
「一日に何本くらい出す?」
「最初は十本くらいかな」
「なら、その大袋はいらないと思う。初回用の小袋で十分だよ」
「それでも何日か使えます?」
「辛さ控えめなら試せる。油に移して使えば量も調整しやすいし、最初から種まで全部使わない方がいい」
「じゃあ、それください」
ナーシャは初回用の小袋を取り出し、使い始める量と種を入れた場合の辛さについて短い注意書きを添え、商品と一緒に若い料理人へ渡した。
客が代金を支払って帰っていくと、ナーシャは次の瓶を棚へ並べながら、自分の値段を守るために相手を追い返すのではなく、その値段の中で相手へ何を渡せるのかまで考えることも香辛料商としての仕事なのだと、以前より自然に受け入れながら、その日の露店を開け続けた。
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