第30話 崩れやすい白身魚と、治りを急がせる治癒師
ティナ・アルベルは、怪我をした人間から「もう痛くない」と言われる瞬間が好きだった。
二十五歳になる彼女は、レーヴェン西区にある治療院で働く治癒師であり、切り傷や打撲の処置だけでなく、骨や筋肉へ残った損傷を魔力で整える治癒術も使うことができる。重傷者を一度の術だけで立ち上がらせるほどの力はないものの、街で暮らす人々が日常的に負う怪我を扱うには十分な技術を持っており、治療院の中では若手ながら頼られる機会も多かった。
以前、同じ治療院で働くユリア・セインが食事も休憩も忘れて患者へ向き合っていた頃には、ティナが代わりに診察を引き受けることもあったため、治癒師が自分を削りすぎる危険については理解しているつもりだった。実際、彼女自身は食事や睡眠まで犠牲にして働くような無茶をしているわけではなく、必要な休憩も取っている。
ティナが苦手としていたのは自分を休ませることではなく、患者を「まだ痛みが残っている状態」のまま治療院から帰すことだった。
傷が閉じても痛みが残っていれば気になり、腫れが少しでも引ききっていなければ追加で魔力を流したくなる。本人が「もう大丈夫です」と言っていても、治療台の上で完全に楽になるところまで整えなければ、自分の仕事を途中で放り出したように感じられてしまう。
そのためティナの治療は丁寧だと評判だったが、年長の治癒師からは何度も、「治療院を出る時に痛みがないことと、身体が元通りになったことは同じじゃない」と注意されていた。
◇
「まだ痛みます?」
午前の治療院で、ティナは椅子に座っている男へ尋ねた。
三十代半ばほどの荷運び人で、朝の仕事中に荷車から足を滑らせ、右足首を捻って運び込まれてきた患者だった。
「最初よりは全然いいですよ」
「立つと?」
「ちょっと響くくらいです」
「ちょっと、ですか」
ティナは男の足首へ両手を添え、もう一度治癒魔力を流した。
淡い光が腫れた部分を包み、筋肉と腱に残った細かな損傷を整えていく。
「ティナ」
少し離れた診察台から、年長の治癒師が声をかけた。
「もう十分じゃない?」
「まだ痛いそうです」
「捻挫なら痛みは残るよ。今日は荷運びをやめてもらって、明日もう一度見せてもらえばいい」
「でも、もう少しだけ整えられます」
「整えられることと、今やる必要があることは別だからね」
ティナは返事こそしたものの、患者の足から手を離さなかった。
◇
もう一度だけ術を使うと、男は足を動かしてから驚いたように笑った。
「かなり楽です。もうほとんど痛くない」
「歩いてみてください」
「はい」
男は診察台から降り、数歩だけゆっくり歩いた。
「大丈夫そうです」
「今日は仕事へ戻らないでくださいね」
「え?」
「痛みがなくても、組織の回復が全部終わったわけではありません。荷物を持ったり走ったりすると、また傷める可能性があります」
「でも歩けますよ」
「歩けるのと、重い荷物を運べるのは違います」
ティナが念を押すと、男は少し残念そうな顔をしたものの、最後には頷いて治療院を出ていった。
その背中を見送った年長の治癒師は、手元の記録を書きながらティナへ尋ねた。
「今の患者に、何回術を使った?」
「三回です」
「最初の一回で歩けるところまでは戻ってたでしょう」
「でも痛みが残っていました」
「その痛みを全部消す必要があった?」
ティナは少し考えたあと、自分にとっては当然だと思っていることをそのまま口にした。
「消せるなら、消した方がいいと思います」
◇
年長の治癒師は筆を止め、ティナの方へ顔を向けた。
「痛みは苦しいものだけど、身体が『まだ無理をするな』って知らせている時もあるんだよ」
「強い痛みを残す必要はないでしょう」
「もちろんないよ。ただ、魔力で感覚だけ先に楽にしすぎると、治ったと勘違いする患者もいる」
「だから仕事へ戻らないよう説明しました」
「全員が守ると思う?」
ティナはすぐには返事ができなかった。
治療院を訪れる患者の中には、医者や治癒師から休めと言われても、生活のために仕事へ戻る者がいる。本人が無茶をした結果だから仕方がないと割り切れるほど、ティナは患者から距離を置ける性格でもなかった。
「なら、痛いまま帰せってことですか」
「そうじゃないよ。どこまで治癒術を使って、どこから先を身体自身の回復へ任せるか判断しようって話」
「できるのに、やらないんですか」
「治癒術だって身体へ負担をかける。魔力で無理に回復を進めれば、それだけ疲労も増えるんだからね」
ティナは納得しきれないまま、次の患者を呼んだ。
◇
その日の午後、治療院へ一人の少年が運ばれてきた。
十四歳になる工房見習いで、木材を運んでいる途中に転倒し、左手首を強く打ったらしい。
骨折まではしていなかったが、手首は赤く腫れており、指を動かすと痛みが走る状態だった。
「明日、仕事あるんです」
少年は診察台へ座るなり言った。
「今日は休めます?」
「親方が休めって言ってくれたんで。でも明日は戻りたいです」
「木材を持つ仕事?」
「それもします」
ティナは手首へ触れ、損傷の程度を確かめた。
軽度の捻挫と打撲が重なっているものの、十分に休ませれば数日でかなり改善する程度の怪我に見える。
「明日は無理しない方がいいと思います」
「でも、魔法で治せるんですよね」
少年にそう聞かれた瞬間、ティナはわずかに言葉を止めた。
◇
「ある程度は治せます」
「じゃあ治してください」
「完全に元通りになるとは限らないよ」
「痛くなくなれば働けます」
その言葉が、ティナには引っかかった。
今朝の荷運び人にも同じような説明をしたばかりなのに、治療台へ座る患者から「痛くなくなれば働ける」と言われると、やはり痛みを残して帰すことへの抵抗が強くなる。
「分かった。まず一度やってみるね」
ティナは治癒魔力を流した。
腫れが少し引き、少年の表情が柔らかくなる。
「動かしてみて」
少年は指を握ったり開いたりした。
「まだ少し痛いです」
「どこ?」
「ここ」
示された場所へ、ティナはもう一度手を当てた。
◇
二度目の治癒を終えると、少年は手首を回しながら笑った。
「もうほとんど痛くないです」
「でも、今日は絶対に使わないでね」
「明日は?」
「明日の朝の状態を見てから」
「たぶん仕事できますよね?」
「だから、まだ分からないって」
ティナは少し強い口調になった。
「今日痛くなくても、明日になったら腫れることはあるから。朝になって痛みが戻ってたら、工房へ行く前にここへ来て」
「分かりました」
少年は元気よく頷いた。
その返事を聞いたティナはひとまず安心し、少年を治療院から送り出した。
◇
翌日の昼前、その少年がもう一度治療院へやって来た。
今度は昨日より強く手首が腫れており、ティナはそれを見た瞬間に表情を変えた。
「何したの?」
「朝は痛くなかったから、仕事行って……」
「木材持った?」
「少しだけ」
「少しじゃないでしょ、この腫れ方」
少年は気まずそうに俯いた。
「親方には休めって言われたんです。でも昨日より動いたから、大丈夫だと思って」
ティナはそこで言葉を失った。
治癒によって痛みが減ったことを、少年は「治った」という判断材料にしてしまったのであり、その痛みを消したのは昨日の自分だった。
「何で治療院に来なかったの」
「痛くなかったから」
その答えが、ティナの胸へ重く残った。
◇
幸い損傷は悪化していたものの、骨や腱に重大な問題が生じたわけではなかった。
今回は強い治癒術を追加せず、腫れを抑える最低限の処置だけを行い、固定具を巻いて三日間は左手で重い物を持たないよう伝える。
「でも痛いです」
少年が言った。
「うん」
「昨日みたいに消せないんですか」
「消すことはできると思う」
「なら――」
「でも、今日は全部消さない」
自分で口にした言葉なのに、その判断をしたティナ自身が一番落ち着かなかった。
「どうしてですか」
「今の手は、まだ使ったら駄目だから。痛みが強すぎるところは楽にするけど、動かした時に違和感があることまで全部消したら、また使えると思っちゃうでしょう」
少年は不満そうな顔をしたものの、昨日のことを思い出したのか、最後には小さく頷いた。
◇
少年を帰したあと、ティナはしばらく記録台の前から動かなかった。
「落ち込んでる?」
年長の治癒師が隣へ来た。
「私が治療しすぎたからですか」
「それだけじゃないよ。あの子が指示を守らなかったのも事実だから」
「でも、痛みがあったら仕事できるとは思わなかったかもしれない」
「そうかもしれないね」
「じゃあ私のせいでもある」
「一部はね」
慰めるのではなく、あっさり認められたことで、ティナは少し驚いた。
「否定しないんですか」
「次から変えればいいことまで、無理に否定しても仕方ないでしょう」
◇
「私、患者が痛いって言ったまま帰るのが嫌なんです」
ティナが言った。
「知ってる」
「治せなかったみたいじゃないですか」
「治療の目的は、治療院を出る瞬間だけ快適にすること?」
「違います」
「なら、その後も含めて考えないとね」
「でも、苦しそうなのに治癒を止めるのは……」
「治療を止めるんじゃない。必要なところまで使うんだよ」
「その必要なところが分からないんです」
「だから経験を積むんでしょう」
年長の治癒師はそう言い残し、次の患者のところへ戻っていった。
◇
仕事を終えたティナは、いつもより少し遅い時間に治療院を出た。
自分が取り返しのつかない失敗をしたわけではないことは、頭では理解している。少年の怪我は数日休めば回復する程度であり、今回の悪化によって将来まで残る問題が起きたわけでもない。
それでも、自分が「痛みを消すこと」を治療の分かりやすい成功として扱っていたことだけは、もう否定できなかった。
そんなことを考えながら市場を通り抜けようとした時、魚屋の前から声をかけられた。
「治癒師のお姉ちゃん」
振り向くと、以前治療院へ来たことのある中年の漁師が立っていた。
◇
「この前はありがとな。指、ちゃんと動くようになったよ」
漁師は左手を開いて見せた。
網で深く切った傷をティナが治療した患者だった。
「無理してないですか?」
「してないしてない。言われた通り二日は網触らなかった」
「ならよかったです」
「これ持ってけ」
漁師が差し出したのは、銀白色の細かな鱗を持つ魚だった。
長さは腕ほどあり、胴体は厚いものの、触れると普通の魚より身が柔らかそうに感じられる。
「何ですか?」
「《綿身魚》。今日たくさん入ったんだ」
「綿身魚?」
「味はいいんだが、身が柔らかすぎて売り物にしにくい。礼代わりに一本持ってけ」
「そんな、治療費はもらってますよ」
「余ったやつだから気にすんな」
漁師は半ば押しつけるように魚を渡した。
◇
ティナは魚を抱えたまま、自宅へ帰るか少し迷った。
魚料理がまったくできないわけではないものの、綿身魚という種類を扱った経験はない。柔らかすぎると言われた身を自分が適当に焼いて崩してしまうくらいなら、誰かに任せた方がいいように思えた。
そこで思い出したのが《持ち込み食堂》だった。
以前ユリアから話を聞いたことがあり、治療院の患者や冒険者からも店の評判は何度か耳にしている。時間もまだ遅すぎるわけではなかったため、ティナは魚を持ったまま西区へ向かった。
◇
「いらっしゃいませ」
店へ入ると、ミレイアがすぐに声をかけた。
「あ、ティナさん」
「私のこと知ってました?」
「ユリアさんから聞いてます。前にも一度、付き添いで来てましたよね」
「そうでしたね」
厨房から悠斗も顔を出した。
「こんばんは。持ち込みですか?」
「魚をもらったんですけど、私だと失敗しそうで」
「見てみます」
ティナは綿身魚を卓へ置き、漁師から聞いた特徴を説明した。
「身が崩れやすいらしいです」
「食べたことは?」
「ありません」
「俺も初めてですね」
「料理できます?」
「状態を見ながらなら試せると思います」
◇
悠斗が綿身魚を捌き始めると、名前の理由がすぐに分かった。
骨から身を外すだけでも柔らかな白身が崩れやすく、強く押さえれば指の跡が残るほどだった。
「確かに柔らかいですね」
「焼けます?」
「焼けるとは思います。ただ、何度も触ると崩れそうです」
「煮た方がいい?」
「煮汁の中で動かすと、それも崩れるかもしれません」
「難しい魚ですね」
「そうですね。でも味は良さそうです」
悠斗は切り取ったごく小さな身へ軽く塩を振り、試しに鉄鍋で焼いて状態を見ることにした。
◇
最初の一切れは、焼き始めてすぐに崩れた。
悠斗が火の入り具合を確認しようとして早めに裏返したところ、柔らかな身が鍋へ張りつき、半分ほど形を失ってしまった。
「あ」
ティナが思わず声を漏らす。
「やっぱり崩れますね」
「失敗ですか?」
「見た目はかなり崩れましたね。ただ、味までは駄目になったとは限らないので確認できます」
崩れた身へ十分に火が通ったところで少量を味見すると、水分の多い柔らかな身には穏やかな甘味があり、脂は少ないものの魚そのものの旨味はしっかり残っていた。
「美味しいですね」
ティナが言った。
「美味しいです。次はもっと触らないようにしてみます」
◇
二切れ目には軽く塩を振り、表面から出た水分を布で丁寧に拭いた。
鍋へごく薄く油を引き、十分に熱してから魚を置く。
「もう返さないんですか?」
ティナが尋ねた。
「まだ返しません」
「焦げません?」
「火を少し落として、側面の色を見ます」
悠斗は魚へ触れず、鍋の縁から見える焼き色と、身の側面が白く変わっていく様子だけを確認していた。
「中、見なくて大丈夫?」
「かなり見たいですけど、今触ると崩れる可能性の方が高いので待ちます」
◇
しばらくしてから、悠斗は一度だけ魚を返した。
今度は表面に薄い焼き色がついていたため身が崩れず、そのまま反対側にも火を入れていく。
「さっきより何もしてないように見えます」
ティナが言った。
「さっきは確認しようとして触りすぎましたから」
「でも中が生だったら?」
「時間と厚みを見ながら火を入れてます。ただ、最後にはちゃんと確認しますよ」
悠斗は火を止める少し前に、厚い部分へ細い串を一本だけ刺し、内部まで熱が通っていることを確かめた。
「それだけでいいんですか?」
「この魚については、今のところそれ以上触らない方が良さそうです」
ティナは不思議そうに魚を見た。
◇
焼き上がった二切れ目は、最初のものより形がしっかり残っていた。
悠斗は小さく分け、ティナにも味を確認してもらう。
「こっちの方が美味しい」
「何が違います?」
「水っぽくないです。身も柔らかいけど、ちゃんと形があります」
「最初のは何度も動かした分、水分も出たのかもしれませんね」
「じゃあ、何もしない方がいい魚なんですか」
「何もしないわけじゃないですよ。塩をして水分を拭いたし、火加減も変えてます。ただ、焼いている途中に触る必要があまりなかったんです」
その言葉を聞いたティナは、少しだけ考え込むような顔をした。
◇
悠斗は残った綿身魚も、二切れ目と同じ方法で調理することにした。
付け合わせには根玉葱と細い青菜を使い、魚の淡い味を消さないよう、強い香草や濃い乳酪は避ける。根玉葱をゆっくり炒めて甘味を出し、最後に酸味のある果汁をほんの少しだけ加えたものを、焼いた魚の横へ添えた。
「《綿身魚の塩焼き、根玉葱添え》です」
「思ったより普通ですね」
「魚自体に味があるので、今日はこれくらいでいいかなと」
「もっと何かしないんですか?」
「した方が美味しくなるならしますけど、今は足さなくても十分だと思います」
ティナは皿を見ながら、どこか納得しきれないような顔をしていた。
◇
一口食べると、表面にはごく薄い焼き色があり、その内側から柔らかな白身がほどけた。
肉厚なのに重たくなく、噛むというより舌で押すだけでも崩れるほど柔らかい。根玉葱の甘さとわずかな酸味を一緒に食べると魚の淡い旨味が引き立ち、最初に崩れた試し焼きよりも明らかに食感がよかった。
「美味しいです」
「よかったです」
「でも、焼いてる時にもう少し確認したくならないんですか」
「かなりなりますよ」
「じゃあ、何で触らなかったんです?」
「触ることで悪くなる可能性の方が高かったからです」
悠斗はそう答えたあと、ティナの表情を見た。
「何か気になります?」
「今日、似たようなことを言われたんです」
◇
ティナは少し迷ったあと、治療院で起きたことを話し始めた。
工房見習いの少年が手首を傷めたこと、治癒術で痛みをほとんど消したこと、そのため本人が治ったと思って仕事へ戻り、翌日には怪我を悪化させて戻ってきたことまで説明する。
「私、ちゃんと仕事を休むよう言ったんです」
「でも戻った?」
「痛くなかったから大丈夫だと思ったって」
「それは困りますね」
「私が悪かったんでしょうか」
悠斗はすぐには答えなかった。
「治療のことは分からないので、悪かったかどうかまでは言えません」
「みんなそれ言いますね」
「分からないものは分からないので」
◇
「でも、先輩には治しすぎるって言われます」
ティナは続けた。
「治しすぎる?」
「痛みが残ってると、追加で治癒術を使いたくなるんです。完全に楽になってから帰ってほしいから」
「それ自体は、患者さんのためを思ってるようにも聞こえますけど」
「でも治癒術は魔力で回復を早めてるだけで、身体が本当に全部戻るわけじゃないんです。痛みだけ先に消えることもあります」
「じゃあ、痛くないのにまだ怪我してる状態がある?」
「あります」
「患者さんは、それを分かってる?」
「説明はします」
「今日の子は守らなかった?」
「はい」
ティナは魚を少しだけ崩しながら、俯いた。
◇
「なら、治療しなければよかったと思ってる?」
悠斗が尋ねた。
「そこまでは思ってません。痛みを強く残す必要はないし、腫れも抑えた方がいいから」
「じゃあ、どこまでやるかで迷ってる?」
「そうです」
「完全に痛くなくなるところまで?」
「今までは、できればそこまでやりたかったです」
「理由は?」
「治したって分かりやすいから」
口に出してから、ティナは自分でも嫌そうに眉を寄せた。
「それ、患者のためじゃなくて私のためみたいですね」
「全部そうなんです?」
「分かりません」
「なら、全部を同じ理由にしなくてもいいんじゃないですか」
◇
悠斗は綿身魚の皿へ視線を向けた。
「さっき俺、一切れ目は触りすぎて崩しました」
「はい」
「二切れ目は、必要だと思うところだけ確認した」
「料理と治療は違いますよ」
「違います。だから同じだとは言いません」
悠斗はすぐに認めた。
「ただ、何かしている方が安心する気持ちは、ちょっと分かります」
「料理でも?」
「火にかけたら混ぜたくなるし、焼いたら何度も裏を見たくなるし、煮込みなら味見も何回もしたくなります」
「した方が失敗しないんじゃないですか」
「必要な確認ならそうです。でも、確認するために触りすぎて形を壊すこともあります」
ティナは皿の魚へ視線を落とした。
◇
「私、患者を確認するために壊してるわけじゃないです」
「もちろんです」
「治してるんです」
「はい」
「でも、やりすぎることはある」
「その判断が難しい?」
「すごく難しいです」
ティナは少し強く答えた。
「傷なら閉じたか見ればいいし、骨なら繋がったか確かめられます。でも筋肉とか腱は見えないし、患者の感じ方も違う。痛いって言われたら、私はまだ治療が足りないのかもしれないと思ってしまうんです」
「痛みが残っていても、治療として十分な場合はある?」
「あります」
「じゃあ、その時は患者さんに何を渡すんです?」
「何をって?」
「魔法以外で」
ティナは少し考えた。
◇
「説明とか、固定具とか、休む期間とか、薬とか……」
「それも治療なんですよね」
「当然です」
「じゃあ魔法を使うところまでが治療ではない?」
「そうですけど」
「なら、全部の痛みをその場で消せなくても、仕事を途中でやめたことにはならない?」
ティナはすぐには答えなかった。
治療院では日常的に患者へ固定具を渡し、薬を処方し、家での過ごし方を説明している。それらも自分の仕事だと知っていたはずなのに、「治癒師としてどこまで治したか」を考える時だけ、なぜか術を使った直後の身体ばかり見ていた。
「……そうかもしれません」
◇
「ただ、患者が言うことを聞かなかったら?」
ティナが尋ねた。
「それは困りますね」
「また仕事へ戻ったら?」
「戻らないよう説明する?」
「しても戻る人はいます」
「じゃあ、全部ティナさんの責任にする?」
ティナは口を閉じた。
「でも私の治療が原因になることはあります」
「そこは次から変える?」
「はい」
「それでも本人が無茶したら?」
「……全部までは止められない」
「なら、自分にできるところまでやるしかないんでしょうね」
「簡単に言いますね」
「店の外のことなので」
ティナは少し笑った。
◇
食事を終える頃には、綿身魚の扱いについても悠斗といくつか話していた。
「これ、蒸したらどうなりますか?」
「合うかもしれません。鍋の中で触らずに火を入れられるので」
「煮るのは?」
「崩れてもいい料理ならありですね。最初から汁へ溶け込むような使い方なら、崩れること自体が欠点ではなくなるかもしれません」
「いろいろありますね」
「今度また手に入ったら試せますよ」
「今日全部やらないんですか?」
「魚がなくなりますから」
「それもそうですね」
ティナは少し笑い、料理代を支払って店を出た。
◇
翌朝、治療院へ行くと、昨日の工房見習いの少年が約束通り診察へ来ていた。
「今日は仕事行ってない?」
「行ってません」
「親方に何か言われた?」
「昨日、また悪くしたって言ったら、治るまで来るなって怒られました」
「いい親方だね」
「怖かったですけど」
ティナは固定具を外し、手首の腫れを確認した。
昨日よりかなり引いているため、今度はすぐに術を使わず、指と手首の動きから状態を見ていく。
「指を動かしてみて」
少年がゆっくり動かす。
「痛い?」
「少しだけ」
「どんな痛み?」
「昨日より弱いです。動かすと、ここが引っ張られる感じ」
ティナはその言葉を聞き、さらに腫れと熱を確認した。
◇
「今日は強い治癒術は使わないね」
ティナが言った。
「まだ痛いのに?」
「うん。でも腫れは引いてるし、回復は進んでる」
「治せないんですか?」
「治せる部分はあるよ。でも今は、身体が自分で戻っていくのを待った方がいいと思う」
「何日?」
「少なくとも明日までは重い物禁止。その後は痛みと腫れを見て決める」
「仕事は?」
「親方に軽い作業だけにしてもらえるか相談しよう。木材運びはまだ駄目」
少年は少し不満そうだったが、今度は素直に頷いた。
◇
ティナは固定具を巻き直しながら、家へ帰ってから気をつけることを一つずつ説明した。
「痛みが強くなったら作業を止めること。腫れが増えたら、その日のうちに来ること。それから、痛くなくても明日までは重い物を持たないこと」
「痛くなくても?」
「そこが大事。痛みだけで治ったかどうかを決めないで」
「昨日みたいになるから?」
「そう」
「分かりました」
少年の返事を聞いても、ティナは以前のように「本当に全部分かっただろうか」と不安になった。
それでも、その不安を消すためだけにさらに術を重ね、痛みを完全になくすことはしなかった。
◇
数日後、少年はもう一度治療院へ来た。
手首の腫れはほとんど消え、動かした時の痛みもごく弱くなっている。
「仕事は?」
「軽い作業だけやってます。親方が木材触らせてくれません」
「それでいいよ」
「もう持っていいですか?」
ティナは手首を動かし、力を入れた時の状態まで確認した。
「軽い物からなら大丈夫そう。ただし今日は片手で持てるものだけにして、痛みが出たら止めること」
「分かりました」
「いきなり前と同じ量まで戻さないでね」
「はい」
少年は笑いながら治療院を出ていった。
◇
「今日は追加しなかったね」
年長の治癒師が言った。
「必要ないと思ったので」
「痛みは少しあったでしょう」
「ありました。でも回復の途中として普通の範囲だったから」
「怖くなかった?」
「ちょっとだけ怖かったです」
ティナは正直に答えた。
「でも、痛みをゼロにすることだけが治療じゃないって、今さら少し分かってきました」
「今さらでも分かればいいよ」
「先輩、前から言ってました?」
「何回も」
「もっと分かりやすく言ってください」
「十分言ったと思うけどね」
年長の治癒師は笑った。
◇
その週から、ティナは診察の記録方法を少し変えた。
これまでは治療前後の痛みや腫れを中心に書いていたが、患者がどの程度まで身体を使っていいのか、次に何を目安として治療院へ戻るべきなのかまで、以前より細かく残すようにした。
治癒術を追加するか迷った時にも、単純に「まだ痛いか」だけを見るのではなく、腫れが増えているのか、動きが悪化しているのか、休めば自然に改善すると考えられるのかを順番に確認するようになった。
それは何もしないという判断ではなく、患者へ今必要なものが治癒術なのか、固定なのか、休養なのか、あるいは経過を見ることなのかを、以前より細かく分けて考えるようになったということだった。
◇
しばらくして、以前足首を捻って治療院へ来た荷運び人が再び顔を見せた。
「また痛めました?」
ティナが尋ねる。
「いや、今日は別件じゃないです。この前の礼を言おうと思って」
「足は?」
「翌日は休んで、その次の日から軽い荷だけ運びました。今はもう平気です」
「本当に?」
「走って見せましょうか」
「やめてください」
ティナがすぐ止めると、男は笑った。
「治癒師さん、前より慎重になった?」
「前から慎重です」
「そうかな」
「そうです」
ティナも少し笑い、そのまま男を見送った。
◇
その日の仕事を終えたあと、ティナはもう一度《持ち込み食堂》へ立ち寄った。
今回は魚を持っていない。
「今日は持ち込みなしですか?」
ミレイアが尋ねた。
「普通に食べに来ました」
「何にします?」
「魚以外がいいです。最近、魚のことばっかり考えたので」
「鳥肉ありますよ」
「じゃあそれで」
悠斗が厨房から顔を出した。
「治療院、どうです?」
「どうしてそれ聞くんですか」
「この前かなり気にしてたので」
「少しだけ、やり方を変えました」
◇
ティナは、治癒術を使う回数を単純に減らしたわけではなく、患者によってどこまで術を使うべきなのかを、以前より考えるようになったことを話した。
「重傷なら今まで通り必要なだけ使いますし、痛みが強すぎる人を我慢させるつもりもないです。ただ、軽い怪我まで全部その場で痛みを消すことだけを目標にするのはやめました」
「難しそうですね」
「難しいです」
「毎回判断違います?」
「違います。年齢も仕事も怪我の場所も違うから」
「一つの基準だけでは決められない?」
「治療ですからね」
ティナはそこまで答えてから、自分で少し笑った。
「前の私だったら、もっと一つの分かりやすい基準が欲しかったかもしれません」
◇
「綿身魚、また来たらどうします?」
悠斗が尋ねた。
「何で私に聞くんです?」
「少し詳しくなったので」
「一回食べただけですよ」
「俺も一回だけです」
「じゃあ次は蒸してみたら?」
「やっぱりそれですかね」
「でも焼いた方も美味しかったです」
「両方試す?」
「魚が二匹あったら」
「一匹だったら?」
ティナは少し考えた。
「その時の魚を見て決めればいいんじゃないですか」
悠斗が笑った。
「治癒師っぽい答えですね」
「料理人に言われたくないです」
◇
やがて鳥肉と根菜を焼いた料理が運ばれてくると、ティナは温かいうちに食べ始めた。
以前なら患者が痛みを訴えるたび、自分がもう少し何かをすれば完全に楽にできるのではないかと考え、その不安を消すように追加の治癒術へ手を伸ばしていた。
これからも必要なら術は使うし、治癒によって苦痛を減らせる場面で、無理に患者を我慢させるつもりもない。
ただし、治療院を出る瞬間に何も感じなくなることと、その人の身体が元の生活へ戻れることは同じではなかった。魔力を使うことも、固定具を巻くことも、休む期間を伝えることも、次の診察まで身体自身の回復を待つことも、患者が本当に元の生活へ戻るために必要なら、そのすべてが治療の一部だった。
◇
翌朝、ティナはいつもの時間に治療院へ入り、その日最初の患者を呼び入れた。
診察台へ座ったのは、仕事中に肩を捻ったという女性だった。
「腕を上げると痛いです」
「どの辺りまで上がります?」
ティナはすぐに治癒術を使わず、肩の動きと腫れ、力を入れた時に痛む位置を順番に確かめた。
「骨は大丈夫そうです。今日は腫れを抑える治療だけして、腕を高く上げる仕事は休んでください」
「痛み、全部なくなりません?」
「少し残るかもしれません」
「それで大丈夫なんですか?」
以前なら、その質問を聞いた瞬間にもう一度術を重ねることを考えていただろう。
ティナは患者の肩へ手を添えながら、今度は迷わず落ち着いて答えた。
「大丈夫かどうかは、痛みが消えたかだけで決めません。今日は必要なところまで治療して、明日の身体がどう戻るかも一緒に見ましょう」
そう説明してから淡い治癒の光を流し始めたティナは、その日のうちに全部を元通りへ戻そうとするのではなく、患者が本当に元の生活へ戻るところまでを治療として見届けるつもりで、目の前の肩の状態を一つずつ確かめていった。
●評価●ブックマーク●アクション●感想待ってます!
読者様が応援してくれると嬉しいです!




