第29話 火の通りすぎた干し肉と、戻る場所を決められない元冒険者
ザック・ローウェンは、冒険者を辞めたことそのものについて、今さら後悔しているつもりはなかった。
長年使い続けた右脚は、数年前に負った怪我の影響で以前のようには動かず、長い距離を歩けば膝の奥へ鈍い痛みが残る。剣を振るうだけなら今でも若い冒険者へ多少の手本を見せられるが、一日中山道を歩き、魔物に追われても走り、必要なら仲間を支えて撤退するような仕事へ戻れる身体ではないことくらい、本人が誰よりよく理解していた。
だから冒険者を辞めた判断について問われれば、ザックは今でも迷わず正しかったと答えるだろう。けれど、その先に何をするのかという問いになると途端に答えが曖昧になり、冒険者ではなくなった自分がどこへ向かえばいいのかについては、引退から三年近く経った今も決められずにいた。
◇
「またいる」
冒険者ギルドへ入った若い受付職員が、掲示板の脇に置かれた長椅子へ目を向けて小さく笑った。
朝の依頼受付が始まったばかりだというのに、そこにはすでにザックが座っており、腰にはもう剣を下げず、代わりに歩行用の杖を一本持っているものの、依頼掲示板を眺める目だけは現役だった頃とほとんど変わっていなかった。
「悪いか?」
ザックが尋ねる。
「悪くはないですけど、三日に二日は来てません?」
「暇なんだよ」
「仕事探せばいいじゃないですか」
「今探してる」
「冒険者依頼を?」
「見るだけなら無料だろ」
受付職員は苦笑しながら自分の持ち場へ戻り、ザックはまた掲示板へ視線を戻した。
◇
掲示板には、討伐、護衛、採取、調査、荷運びと、その日の朝に貼り出された依頼が並んでいた。
ザックはそれらを端から順番に眺めながら、受ける予定など一つもないはずなのに、無意識のうちに難易度や必要人数を頭の中で組み立てていた。
《南街道・商隊護衛。二泊三日。最低四名》
(この時期なら東側の森沿いを避ければ三人でも行けるが、新人を入れるなら四人いた方がいい)
《灰爪犬の駆除。農村北側。確認数五》
(確認が五なら、実際は七か八くらいいることもある。日帰りで全部追うなら、帰りの時間を先に決めないと暗くなるな)
《湿地薬草採取。赤沼草二十束》
(今月は水位が高いから、腰まで入る場所へ新人だけで行かせるのは危ない)
依頼を受けるつもりはなくても、長年続けた習慣まで同時に手放せるわけではなく、ザックは紙を見るたびに、現役だった頃と同じように必要な準備や危険を考えてしまっていた。
「ザックさん」
名前を呼ばれて振り向くと、そこにはニール・アッシュが立っていた。
◇
「お前か」
「何してるんです?」
「見れば分かるだろ」
「依頼探してるように見えますけど」
「見てるだけだ」
「前にもそう言ってませんでした?」
「年寄りの暇つぶしにいちいち口出すな」
ニールは掲示板を見たあと、少し迷ってから一枚の依頼書を指した。
「この護衛、どう思います?」
「どれだ」
「北門から二つ先の村まで行くやつです」
ザックは依頼内容へ目を通した。
「お前が受けるのか?」
「訓練教官から、そろそろ少人数の護衛も経験していいって言われました」
「何人で?」
「経験者一人と新人二人で、俺は後方確認と足跡を見る役です」
少し前まで前衛へ入ることばかり気にしていた少年が、今では自分の役割を先に説明するようになっていることに気づき、ザックはわずかに目を細めた。
「なら行けばいい」
「それだけ?」
「何を期待してる」
「もう少し何か言うかと思って」
「出発前に水と靴底を確認しろ。北側は昼に乾いてても夕方になると滑る場所があるから、荷車の速度に合わせすぎて歩くと、帰りに脚が残らんぞ」
そこまで言ってから、ザックは自分が結局いつものように口を出していることに気づき、わずかに口を閉じた。
◇
ニールはそんなザックを見て少し笑った。
「やっぱり詳しいですね」
「昔行っただけだ」
「こういうの、教える仕事とかしないんです?」
「しない」
「何で?」
「教官でもないからだ」
「でも今、教えましたよね」
「聞かれたから答えただけだ」
「それって、教えるのと何が違うんです?」
ザックは答える代わりに杖の先でニールの靴を軽く叩き、人の仕事より自分の準備をしてこいと追い払った。
ニールは笑いながら受付へ向かい、ザックはその背中を見送ったあと、もう一度掲示板へ視線を戻した。
◇
その日の昼過ぎ、ザックはギルドを出た。
家へ戻ったところで、することはそれほど多くない。
洗濯をして簡単な食事を作り、たまに昔使っていた装備を手入れしているうちに一日が終わる。生活に困るほど金がないわけではなく、長く冒険者を続けたことで多少の蓄えもあるため、働かなければ明日の食事にも困るという状況ではなかった。
それがかえって、彼を中途半端な場所へ留めていた。
何かをしなければ生きていけないわけではないからこそ、自分が何をしたいのかを自分で決めなければならず、ザックにとってその選択は、魔物を相手にするよりも難しいものになっていた。
◇
西市場を歩いていると、乾物屋の主人に呼び止められた。
「ザック、ちょうどいいところに来た」
「何だ」
「これ持ってけ」
渡されたのは、大きな紙包みだった。
「何だこれ」
「《赤背山羊》の干し肉。昨日仕込んだやつなんだが、燻す時に温度を上げすぎた」
「食えないのか?」
「食えるけど、固いし端が乾きすぎて商品にはできん」
「それを俺にどうしろっていうんだ」
「暇そうだから食え」
「喧嘩売ってる?」
「代金はいらん」
「ならもらう」
ザックは文句を言いながらも紙包みを受け取り、そのまま家へ持ち帰った。
◇
家へ戻って一切れ齧ってみると、乾物屋の主人が言っていた通り、食べられないほどではないもののかなり固かった。
塩味そのものは悪くなく、赤背山羊らしい濃い肉の旨味も残っている。けれど端の方は水分が抜けすぎており、かなり長く噛み続けてもなかなか柔らかくならないため、一切れを食べきる頃には顎の方が先に疲れそうだった。
ザックは半分ほど食べたところで残りを包みに戻した。
捨てるほど悪くはないが、このまま何日も齧り続けたいとも思えない。
そこで彼は、以前ガルドと一緒に食事をした《持ち込み食堂》のことを思い出した。
◇
「久しぶりですね」
夕方前の《持ち込み食堂》へ入ると、悠斗がすぐにザックへ気づいた。
「覚えてたか」
「ガルドさんと一緒に来たでしょう」
「もう結構前だろ」
「顔は覚えてますよ」
ミレイアも卓を拭きながら振り向いた。
「今日は一人ですか?」
「一人だと入っちゃ駄目か?」
「そういう意味じゃないですよ」
「なら今日は一人だ」
ザックはそう答えながら卓へ紙包みを置いた。
「これ、何とかなるか」
「見てもいいです?」
「そのために持ってきた」
◇
悠斗が包みを開くと、赤褐色の干し肉が何枚も入っていた。
「かなり乾いてますね」
「燻す時に火を入れすぎたらしい」
「食べて大丈夫なのは確認済みです?」
「乾物屋が自分でも食ってたし、俺も一切れ食った」
「味はどうでした?」
「悪くない。ただ顎が疲れる」
悠斗は端を少し切り、香りや硬さを確認した。
「そのまま焼いたら、もっと固くなりそうですね」
「じゃあ煮るか?」
「水分を戻すなら、その方が良さそうです」
「任せる」
「嫌いなものあります?」
「甘すぎるのは嫌いだ」
「分かりました」
◇
悠斗は干し肉をすぐ鍋へ入れず、まず一枚だけ薄く切って温かい湯へ浸し、どの程度まで塩気と硬さが変わるのかを見ることにした。
「そんなところから試すのか」
ザックが尋ねる。
「塩分がどれくらい抜けるか見たいので」
「全部入れればいいだろ」
「思ったより塩が抜けたら、煮込み全体の味を変えないといけないですから」
「面倒なことするな」
「料理なので」
「最近その言葉、流行ってるのか?」
「誰かにも言われた気がします」
悠斗は笑いながら、湯へ浸した干し肉の状態を確かめた。
◇
少し時間を置いた肉は、表面こそわずかに柔らかくなっていたものの、中心まではまだかなり固いままだった。
悠斗は小さく切って味を確かめる。
「塩は結構残ってますね」
「煮込みには使えそうか?」
「使えそうです。ただ、肉として大きく残すより、細く切った方が食べやすいかもしれません」
「好きにしろ」
「じゃあ根玉葱と豆を使います」
「豆?」
「干し肉から出た塩気と旨味を煮汁へ出して、豆にも吸わせようかなと」
「腹に溜まりそうだな」
「かなり溜まると思います」
「それでいい」
◇
悠斗は干し肉を細い短冊状へ切り、少量の湯へ浸して表面の塩気だけを少し抜いた。
鍋では根玉葱をゆっくり炒め、甘い香りが出てきたところへ戻した干し肉と下茹で済みの白豆を加える。そこへ水を注ぎ、香草は強くしすぎず、肉から出てくる塩味を確かめながら弱火で煮込んでいった。
「結構時間かかるか」
ザックが尋ねる。
「豆は下茹でしてあるので、それほどでもないですよ」
「なら待つ」
ザックは杖を椅子へ立てかけ、料理ができるまで店内を眺めることにした。
◇
夕食には少し早い時間だったため、客はまだ多くなかった。
窓際には年配の夫婦が座っており、奥の卓では職人らしい男が一人で魚を食べている。
冒険者ギルドとは違い、ここには依頼掲示板もなければ、武器を手に急いで出ていく若者もいない。それでもザックは長年の癖から、無意識のうちに人の動きを見ていた。
職人の男は左手を少し庇っており、夫婦の男の方は腰が悪いらしく、立ち上がる時に卓へ手をついている。厨房では悠斗が鍋を見ながら別の料理も同時に進め、ミレイアは客の様子を確認しながら空いた皿を回収していた。
何かを警戒する必要などない場所へ来ても、人の動きから状態を読む癖だけは、冒険者を辞めたからといって簡単には抜けていなかった。
◇
「ザックさん、今は何してるんです?」
鍋の様子を見ながら、悠斗が尋ねた。
「何って?」
「仕事とかです」
「してない」
「完全に休んでる感じですか」
「まあな」
「前に会った時、冒険者は辞めたって言ってましたよね」
「ああ」
「脚は今どうです?」
「走ったり長く歩いたりしなきゃ、普通に生活できる」
「なら、今はゆっくりしてるんですね」
「そういう言い方されると、随分立派なことしてるように聞こえるな」
ザックは少し笑った。
◇
「実際は暇なんだよ」
ザックはそう言ってから、自分の毎日を説明した。
「朝起きて飯を食って、することがなければギルドへ行って、依頼を見るだけ見て帰る。たまに新人へ余計な口を出して、夕方になったら酒飲んで寝るくらいだ」
「ギルドへは結構行くんですね」
「家より人がいるからな」
「依頼は受けない?」
「受けられん」
「脚のせいで?」
「それもある」
ザックは右膝を軽く叩いた。
「昔みたいに三日歩いて、その途中で魔物と戦って、帰りも自分の脚で戻るなんて無理だ」
「なら無理して受けない方がいいですね」
「簡単に言うな」
「でも、無理なら受けないでしょう」
「そうなんだけどな」
◇
悠斗はザックの返事に少し引っかかったようだった。
「冒険者へ戻りたいんです?」
「分からん」
「剣を振りたい?」
「たまにはな」
「依頼へ行きたい?」
「そう思う時もある」
「じゃあ戻りたい?」
「それは違う」
ザックは少し苛立ったように答えた。
「毎日あの仕事をやりたいわけじゃない。朝から晩まで歩くのも、寝床のない場所で夜営するのも、もう十分やった」
「なら、何が気になってるんでしょうね」
「それを俺が聞きたい」
◇
鍋からは、干し肉と豆が馴染み始めた香りが少しずつ立ってきていた。
悠斗は煮汁を一口味見し、まだ干し肉の塩気だけで十分だと判断して、塩を足さずそのまま煮ることにした。
「冒険者を辞めた後、何か別の仕事は考えなかったんです?」
「考えたよ」
「どんな仕事を?」
「倉庫番、門の見張り、商隊の荷の確認、武器屋の手伝いとかだな。いくつか話も来た」
「やらなかった?」
「どれも別にやりたいと思わなかった」
「嫌だった?」
「嫌ってほどでもない」
「じゃあ、続けたいと思えるほどでもなかった?」
「そういうことだ」
ザックは腕を組み、少し考え込むように厨房を見た。
◇
「冒険者を辞めた時は、辞めた後に何をするかまで考えてなかったんだ」
しばらくしてからザックが言った。
「怪我した直後は、とにかくもう前みたいに動けないってことしか頭になかったし、治療が終わった頃には仲間も別の班へ移ってた。だったら引退でいいと思った」
「その判断自体は後悔してます?」
「してない」
「じゃあ、困ってるのはその先だけ?」
「たぶんな」
ザックは少し笑った。
「辞めるところまでは決めたのに、その後どこへ行くかを何も決めてなかった」
◇
悠斗はすぐに答えず、鍋の中から干し肉を一切れ取り出した。
「だいぶ柔らかくなりましたよ」
「味見できるか?」
「どうぞ」
小皿へ置かれた肉をザックが噛むと、家で食べた時より明らかに柔らかくなっており、長く噛み続けなくても繊維がほどける程度まで戻っていた。
「悪くないな」
「塩も抜けすぎてないですね」
「豆はまだか?」
「もう少しだけ煮たいです」
「肉だけならもう食えるのに?」
「肉だけ食べるなら今でもいいですけど、一皿として出すなら豆と根玉葱にも、もう少し味を馴染ませたいので」
◇
「お前、料理の完成ってどこで決めるんだ」
ザックが尋ねた。
「料理の完成ですか?」
「そうだ。今でも食えるのに、もう少し煮るんだろ」
「ものによりますけど、食べてもらえる状態になった上で、その料理としてまとまったと思えたところですかね」
「もっと煮れば旨くなるかもしれんだろ」
「なることもあります」
「なら、ずっと続けるのか?」
「続けすぎれば豆が崩れたり、肉が逆に乾いたりもします」
「じゃあ一番旨い瞬間なんて、本当は分からんだろ」
「分からないですよ」
悠斗はあっさり認めた。
「実際、あと五分煮た方がよかったって後になって思うこともあります」
◇
「それで店やれるのか」
「毎回完璧な正解を当てられなくても、今日はここで出すって決めないと、お客さんへ料理を出せませんから」
「雑だな」
「そんなに雑ではないですよ」
悠斗は笑った。
「今の状態を見て、これなら食べてもらえると思ったところで一度出します。次に同じ材料が来たら、前より少し変えることだってあります」
「完成したのに変えるのか?」
「次の料理でですね。前の一皿を失敗にするというより、次にもっと合うやり方が分かったらそっちを試す感じです」
ザックは何となく鍋へ目を向けた。
◇
「俺も、冒険者としてはもう終わったんだろうな」
ザックが言った。
「引退したなら、冒険者としての仕事はそこで一区切りなんでしょうね」
「でも次に何かを始めるほど、やりたいものが決まってない」
「決まるまで休んだら駄目です?」
「もう三年近く休んでる」
「結構長いですね」
「だろ」
「でも三年休んだからって、次に始めるものを一生続けないといけないわけでもないでしょう」
ザックは眉を寄せた。
「どういう意味だ」
◇
「次にやる仕事を、最後の仕事にしなくてもいいんじゃないですか」
悠斗が答えた。
「すぐ辞めろって?」
「合わなかったら、別のものを探すこともできるって意味です」
「いい歳した男が職を転々とするのか」
「駄目です?」
「格好悪いだろ」
「誰に対して?」
ザックは一瞬だけ言葉を失い、その問いに答えられる相手が思い浮かばないまま口を閉じた。
「なら、まず試すくらいでもいいのかなと思っただけです」
「簡単に言うな」
「俺もこの店を始めた時、ずっとここでやれるって確信があったわけじゃないですよ」
◇
ザックは悠斗を見た。
「お前、前は何してた」
「料理の仕事です」
「ここじゃない場所で?」
「はい」
「それを辞めてここへ来たのか」
「辞めたという言い方とは少し違いますけど、今ここで店をやることまで最初から全部決めていたわけではないです」
「じゃあ何で始めた」
「その時の自分にできることの中で、一番やってみたいと思ったのが料理だったからです」
悠斗はそこまで答え、それ以上、自分がどこから来たのかについては話さなかった。
◇
やがて白豆にも十分に味が入り、根玉葱は形を少し残しながら柔らかくなった。
悠斗は最後に少量の香草を加え、煮汁の味を確認してから火を止めた。
「《赤背山羊の干し肉と白豆の煮込み》です」
深めの皿には白豆と根玉葱がたっぷり入り、その間へ細く切った干し肉が混ざっている。煮汁には干し肉から出た塩味と肉の旨味が溶け込み、強い味付けを追加しなくても十分な香りと濃さがあった。
「パンもつけます?」
「くれ」
ザックは匙を手に取った。
◇
最初に白豆と干し肉を一緒に口へ入れると、豆の柔らかな甘さのあとから、赤背山羊の濃い肉の味がゆっくり広がってきた。
そのまま食べれば固く、長く噛み続けなければならなかった干し肉は、細く切って煮たことでかなり食べやすくなっている。それでも普通の生肉を煮たものとは違い、燻した香りと締まった食感がわずかに残っており、干し肉として失敗したからといって、もともとの特徴まで消えているわけではなかった。
「これなら普通に食えるな」
「よかったです」
「商品にならない失敗品だったのに」
「干し肉として売るには失敗だったんですよね」
「そう聞いた」
「でも、食材として使えなくなったわけではなかったみたいですね」
「料理の説教始める気か」
「まだ何も言ってません」
ザックは鼻で笑い、そのまま続きを食べた。
◇
「俺、ガルドにも似たようなこと言ったんだよな」
食事を進めながら、ザックが言った。
「前に一緒に来た時ですか?」
「あいつが冒険者を辞めるか迷ってた時だ」
ザックは少しだけ遠い目をした。
「俺は怪我で選べなくなったから、選べるうちに慌てて答えを出すなって言った」
「覚えてます」
「偉そうに言ったくせに、俺は引退した後のことを三年も決められてない」
「同じ話なんでしょうか」
「何が」
「ガルドさんは、辞めるか続けるかを決めようとしてた。ザックさんは、次に何をずっと続けるかまで一度に決めようとしてるように見えます」
「ずっととは言ってない」
「でも、さっき次の仕事が最後じゃなくてもいいって言ったら、かなり嫌そうでしたよね」
ザックは匙を止め、しばらく皿を見た。
◇
「確かに、そういうところはあるかもしれん」
小さく呟いたあと、ザックは再び食べ始めた。
倉庫番を断った時も、門の見張りを断った時も、その仕事を十年、二十年と続ける自分を想像して、面白そうではないと思っていた。
冒険者という仕事を長く続けたせいで、次に始めるものも同じくらい長く続けられるものでなければならないと、いつの間にか考えていたのかもしれない。
「一月だけやる仕事でもいいのか」
「雇う側がそれでいいなら」
「半年で変えても?」
「双方が納得してれば問題ないんじゃないですか」
「そんな働き方したことないから、落ち着かんな」
「最初から長く続けるって決めない方が、試しやすいものもあると思いますよ」
◇
ザックは皿の煮込みをほとんど食べ終えたところで、朝に交わしたニールとの会話を思い出した。
「今日、ギルドで新人に教える仕事しないのかって言われた」
「ニールさんですか?」
「知ってるのか」
「この店にも来ますよ」
「そうだったな」
「ザックさん、教えるのは嫌いです?」
「嫌いじゃない」
「じゃあ教官になる?」
「そこまでやる気はない」
「補助なら?」
「何だそれ」
「常勤の教官を手伝うとか」
ザックは少し考えた。
◇
冒険者ギルドには新人向け訓練があり、常勤の教官だけでなく、特定の技術を教える経験者が臨時で呼ばれることもある。
ザック自身も現役だった頃、盾の構え方や野営の準備、街道ごとの危険について新人へ教えたことは何度もあった。それでも引退後、その経験を仕事として使うことを正式に考えたことはなかった。
「脚が悪い」
「走る訓練は難しいですね」
「実戦形式も長くはできん」
「座って教えられることは?」
「依頼書の見方、荷物の組み方、野営、撤退判断、街道ごとの危険とかなら……まあ、あるにはある」
「結構ありますね」
「別に俺じゃなくても教えられる」
「ザックさんにも教えられる?」
「それはできる」
◇
「なら、一度だけやってみたらどうです?」
悠斗が言った。
「一度だけ?」
「合わなかったら、その時に次を考えればいいでしょう」
「適当だな」
「試し料理と同じにはしませんよ」
「今しようとしただろ」
「ばれました?」
「分かるわ」
二人は少し笑い、その話はそこで一度終わった。
◇
翌朝、ザックはいつものように冒険者ギルドへ向かった。
ただし、その日は長椅子へ座る前に受付まで歩いていった。
「どうしました?」
いつもの受付職員が尋ねた。
「新人訓練の教官って、足りてるか」
「急に何です?」
「質問に答えろ」
「常勤はいますけど、経験者の補助ならいつでも欲しいですよ」
「どんなことをする」
「実戦訓練だけじゃなく、依頼前の準備や野営、危険判断の講習もあります」
「一度だけでもできるか?」
受付職員は、聞き間違えたのかと思ったように目を丸くした。
◇
「もちろんできますよ」
「その顔やめろ」
「だってザックさん、仕事の話すると毎回逃げてたから」
「まだやるとは言ってない」
「今、一度ならって聞きましたよね」
「条件聞いてから決める」
「分かりました」
職員は予定表を取り出した。
「三日後に新人向けの《依頼準備講習》があります。教官一人だけなので、補助が一人いると助かります」
「内容は?」
「依頼書の読み方、持ち物、移動時間の見積もり、撤退時刻の決め方ですね」
「どれくらいかかる」
「休憩込みで三時間です」
「立ちっぱなしじゃない?」
「座っても構いません」
ザックは予定表をしばらく見たあと、軽く息を吐いた。
「じゃあ、一度だけやってみる」
◇
三日後、ザックは十二人の新人冒険者の前に座っていた。
講習を担当する教官が依頼書を一枚ずつ配り、参加者へ必要な装備を考えさせる。
内容は、片道三時間の森へ入り、薬草を十五束採取して戻るという簡単な想定だった。
「剣」
一人が言う。
「水」
別の一人が続ける。
「袋」
「昼飯」
「治療薬」
ザックはしばらく黙って聞いていたが、最後まで誰も触れなかったため、杖の先で床を軽く叩いた。
「帰る時間は決めないのか」
新人たちが一斉にザックを見る。
◇
「片道三時間なんだろ。朝九時に出て三時間歩いたら、その時点で昼だ。そこから採取に何時間使うつもりだ」
「二時間くらい?」
「なら帰りも三時間かかる」
「夕方五時には戻れる?」
「全員が予定通り歩ければな」
「遅れることもある?」
「森の中で一時間遅れたら、日没までに街へ戻れるか?」
新人たちは顔を見合わせたあと、配られた依頼書をもう一度読み直し始めた。
ザックはその様子を見ながら、思っていたよりも自分がこの時間を楽しんでいることに気づいた。
◇
講習の途中、若い冒険者が手を上げた。
「薬草を十五束取ったあと、近くに高く売れる茸があったら採ってもいいですか?」
ザックは少し笑った。
「時間と人数と周囲の危険次第だ」
「取った方が得ですよね」
「得になる時もある。だが、その茸を採ったせいで帰りが遅れて、暗くなって魔物に襲われたらどうする」
「じゃあ取らない方がいい?」
「最初からそう決めつけるな。追加で動く条件を出発前に班で決めとけ。時間に一時間以上余裕があって、全員無傷で、安全確認できた場所なら相談するとかな」
自分の口から出た言葉を聞き、ザックは少しだけ可笑しくなった。
「何か?」
教官が尋ねる。
「いや、何でもない」
◇
三時間の講習を終える頃には、右脚が少し重くなっていた。
それでも現役だった頃に一日中歩いたあとの痛みに比べれば、大したものではない。
「どうでした?」
受付職員が尋ねた。
「疲れた」
「もうやりません?」
ザックはすぐには答えず、少しだけ考えた。
「来週も同じ講習あるか」
「あります」
「なら、もう一回だけならやってもいい」
「二回目ですね」
「うるさい」
受付職員は嬉しそうに予定表へザックの名前を書き込んだ。
◇
その週の終わり、ザックはもう一度《持ち込み食堂》へ行った。
今回は食材を何も持っていない。
「今日は干し肉なしですか?」
悠斗が尋ねた。
「全部食った」
「そのまま?」
「残りも煮た。豆入れてな」
「上手くいきました?」
「お前のより水が多かった」
「それもありですよ」
「今日は普通の飯をくれ」
「肉と野菜の煮込みがあります」
「それでいい」
ザックはいつものように席へ座った。
◇
料理を待っている間、悠斗が尋ねた。
「何か仕事、試してみました?」
「何で分かる」
「前より暇そうな顔してないので」
「そんな顔あるか」
「何となくです」
ザックは新人講習の補助を一度やり、さらに翌週も引き受けたことを話した。
「教官になるんです?」
「ならん」
「じゃあ補助を続ける?」
「まだ分からん」
「それでいいんじゃないですか」
「お前は本当に決めさせないな」
「ザックさんが今すぐ決めなくても困らないなら、急いで決める理由もないでしょう」
◇
「ただ、前よりギルドへ行く理由はできた」
ザックが言った。
「今までは?」
「依頼を見るだけだった」
「今は?」
「新人に依頼書の見方を教える日がある。たまに教官から別の講習も頼まれるようになった」
「楽しいです?」
ザックは少し考えた。
「思ってたよりはな」
「なら、しばらく続けてみる?」
「そうするつもりだ」
「一生?」
「そこまでは知らん」
悠斗が笑った。
「それでいいと思います」
◇
しばらくして運ばれてきた煮込みを、ザックはゆっくり食べた。
冒険者を辞めた自分が、これから何者になればいいのかという答えを見つけたわけではなく、新人を教える仕事を一生続けると決めたわけでもない。数か月後には別のことをしているかもしれないし、思ったより長くギルドへ残っている可能性もある。
それでも三年間、ほとんど同じ長椅子へ座って誰かが受ける依頼を眺めているだけだった頃とは、少しだけ毎日の形が変わり始めていた。
◇
翌週の朝、ザックが冒険者ギルドへ入ると、掲示板の前にニールがいた。
「ザックさん」
「何だ」
「今日も依頼見に来たんです?」
「違う」
「じゃあ何しに?」
「講習だ」
「受けるんですか?」
「教える方だ」
ニールは一瞬黙ったあと、驚いたように目を見開いた。
「本当にやったんだ」
「何だその言い方」
「この前、教える仕事しないんですかって言ったから」
「お前に言われたからじゃない」
「じゃあ誰に?」
「色々だ」
ザックは杖をつきながら、講習室の方へ歩き始めた。
◇
「今日何教えるんです?」
後ろからついてきたニールが尋ねる。
「護衛依頼の準備だ」
「俺も受けようかな」
「お前はもう実地に出てるだろ」
「復習になるじゃないですか」
「金払うなら好きにしろ」
「ザックさん厳しいな」
「遊びじゃなくて仕事だからな」
そう答えた自分の言葉が少しだけ可笑しく、ザックは誰にも気づかれない程度に口元を緩めた。
◇
講習室へ入ると、まだ誰も座っていない椅子が十脚ほど並んでいた。
ザックは前方の机へ資料を置き、右脚へ負担がかからない位置へ自分の椅子を引き寄せた。現役だった頃のように剣を持って先頭を歩くことはもうできないが、自分が何度も歩いた街道の危険や、失敗した野営の話、進むべきではない時に進んで痛い目を見た経験なら、これから依頼へ出ようとする者たちへ渡すことができる。
それを十年続けるのか、一年で辞めるのか、それとも途中で別の仕事を見つけるのかについては、今ここで決める必要はなかった。
廊下から新人たちの声が聞こえ始めると、ザックは今日使う依頼書の見本を一枚ずつ卓へ並べ、冒険者を辞めたあとの人生を一度の選択だけで決め切ろうとするのではなく、まずは今の自分にできる仕事をもう一度続けてみるつもりで、講習を始める準備を整えた。
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