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異世界持ち込み食堂~あなたの食材を料理します~  作者: シロの空


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第28話 噛み切れない尾肉と、退く場所を決められない盗賊

 クロエ・リットは、危険な場所から逃げる速さにはかなりの自信を持っているくせに、依頼の途中で「ここまでにしよう」と自分から言い出すことだけは、昔からひどく苦手だった。


 二十一歳になる彼女は、冒険者ギルドへ登録して三年目になる盗賊職の冒険者であり、細い身体と軽い足取りを生かした偵察や罠の解除、鍵開けを得意としている。正面から魔物へ斬りかかるような力はないものの、危険な場所へ誰より早く入り込み、必要なものを見つけて無事に戻ってくる技術については、同年代の冒険者より一歩抜けているという自負があった。


 依頼中に危険を感じればすぐに足を止めて周囲を確かめられ、解除できない罠を見つければ無理に手を出さず、仲間へ近づかないよう警告することもできる。それなのに依頼そのものを途中で切り上げる話になると、クロエの判断は急に鈍くなり、あと一つだけ調べれば終わるかもしれないとか、次の部屋まで行けば目的の物があるかもしれないと考え始めてしまう。


 ここまで進んだのに手ぶらで帰ったら依頼主に何を言われるだろうか、せっかく危険を越えたのだから少しくらい追加で調べてもいいのではないかと考えているうちに、本来なら誰より先に撤退を提案すべき立場の彼女が、いつも仲間から「もう帰ろう」と言われる側へ回っていた。


          ◇


「右、床踏むなよ。色が違う」


 レーヴェンから北東へ半日ほど進んだ場所にある古い地下倉庫で、クロエは後ろを歩く三人へ小声で注意した。


 今回の依頼は、数十年前まで薬品商が使っていた地下保管庫へ入り、残された帳簿と薬瓶を回収するというものだった。地上の建物はかなり崩れているものの、地下の一部はまだ形を保っており、盗賊対策として当時仕掛けられた罠も生きている可能性があるため、内部調査のできる盗賊職としてクロエが呼ばれていた。


 同行しているのは剣士一人と盾役一人、それに荷物運びも兼ねた若い弓使いであり、三人ともクロエとは何度か組んだことがある。


「そこ?」


 盾役の女が足元を見る。


「その石から右へ二枚目。踏むと、たぶん壁から針が出る」


「たぶん?」


「錆びてるから今も動くかまでは分からない。でも試したくないでしょ」


「絶対試したくない」


「なら左へ寄って」


 クロエは細い通路を先へ進みながら、壁と床へ視線を交互に走らせた。


          ◇


 一つ目の保管室では、依頼主が探していた帳簿を三冊見つけることができた。


 紙は長年の湿気を吸って一部が傷んでいたものの、表紙に残された商会印から目的の帳簿であることは確認でき、これだけでも依頼報酬の半分以上が保証される。


「これだけでも報酬半分は出るんだよな?」


 剣士が尋ねた。


「依頼書にはそう書いてある。薬瓶まで見つければ追加報酬」


「なら瓶も探す?」


「ここまで来たんだしね」


 クロエが軽く答えると、盾役の女がわずかに眉を動かした。


「状態見てからね」


「分かってるって」


 クロエは笑って帳簿を弓使いへ預けると、次の扉へ向かった。


          ◇


 二つ目の通路は、一つ目より明らかに状態が悪かった。


 天井の一部が落ちて床には砕けた石と腐った木材が積もり、壁際には黒い水が細く流れている。さらに奥からは、長い間閉ざされていた地下特有の湿った空気に混じって、何か生き物のものらしい臭気まで漂ってきていた。


「何かいる?」


 弓使いが尋ねる。


「いるかもしれない」


 クロエは床へしゃがみ込み、泥の上に残されている不鮮明な跡を指でなぞった。


「爪の跡がある。少なくとも小型じゃないと思う」


「引く?」


 盾役がすぐ尋ねた。


「まだいいよ」


「帳簿は取れたよ」


「でも薬瓶は奥にあるかもしれないし、入口へ戻れないほど崩れてるわけでもない。危ないと思ったら、その時点で引けばいいでしょ」


 クロエは立ち上がり、再び先頭へ出た。


          ◇


 崩れた通路の先には、小さな保管室が残っていた。


 棚の大半は倒れていたものの、壁際の一つだけは形を保っており、そこには十数本の薬瓶が並んでいる。


「見つけた。たぶんこれ」


 クロエが瓶の印を確認する。


「全部持つ?」


 剣士が尋ねた。


「依頼対象の印があるやつだけにしよう。中身の分からない瓶まで触る必要ない」


 四人は必要な物だけを慎重に選び、布と木箱を使って割れないよう包み始めた。


 ところが最後の一本を収めようとした時、先ほど通ってきた方向から、小石が転がるような乾いた音が聞こえてきた。


 クロエの表情が変わる。


「全員、そのまま動かないで」


 三人が手を止めた。


 次に聞こえたのは、重い何かが床の石を引っかくような音だった。


          ◇


「何か来る。武器だけ出して」


 クロエが短剣を抜くと、狭い通路の奥から《石尾蜥蜴》と呼ばれる中型の爬虫類型魔物が姿を見せた。


 体長は成人男性より少し長く、胴体そのものは低いものの、背中から尾にかけて灰色の硬い鱗で覆われている。特に尾は太く発達しており、本気で振り回されれば人間の脚くらいなら簡単に折られるだけの力があった。


「一体?」


 剣士が尋ねる。


「今見えるのは一体だけ」


「戦う?」


「通路を塞がれてるから、少なくとも退かせないと戻れない」


 盾役が前へ出た。


「じゃあ私が受ける」


「尾だけは真正面から止めないで。横へ流して」


「了解」


          ◇


 石尾蜥蜴は低く身体を沈めると、狭い通路をものともせず一気に突進してきた。


 盾役が正面から頭を受け止め、その横から剣士が背中へ斬りつけるものの、硬い鱗へ当たった刃は滑り、浅い傷しか残せない。


「背中じゃなくて腹側! 脚の付け根が薄い!」


 クロエが叫ぶ。


「潜れって?」


「そこまで行かなくていい、横から狙って!」


 弓使いがすぐに狙いを変え、前脚の内側へ矢を放った。


 一本目は外れたが、二本目が鱗の薄い部分へ刺さる。


 石尾蜥蜴が身体を大きくひねったため、クロエは尾の動きを見た瞬間に声を張った。


「尾が来る、下がって!」


 盾役が一歩引いた直後、太い尾が壁を激しく叩き、砕けた石片が通路へ飛び散った。


          ◇


「これ、長引くよ!」


 盾役の女が言う。


「分かってる!」


 クロエは周囲を見回しながら退路を考えた。


 奥の保管室には別の出口がなく、戻るには石尾蜥蜴を一度後退させなければならない。しかし依頼対象ではない以上、危険を冒してまで倒し切る必要もなかった。


「目の近く狙える?」


 クロエが弓使いへ尋ねた。


「この距離ならいける」


「殺さなくていい。顔の前へ二本飛ばして怯ませて」


「了解」


 弓弦が鳴り、一本目の矢が石尾蜥蜴の頬をかすめ、続く二本目が目のすぐ横へ突き刺さった。


 魔物が驚いて首を振った瞬間、クロエはすぐに声を上げた。


「今のうちに押して、道だけ開ける!」


 盾役が前へ出て身体を押し込み、剣士が傷ついている前脚へさらに一撃を加えたことで、石尾蜥蜴は数歩分だけ後退した。


          ◇


「入口まで一気に戻るよ!」


 クロエが先頭に立ち、三人を連れて開いた通路へ飛び出した。


 背後では石尾蜥蜴が追おうとしているものの、矢と剣で傷ついた前脚のため速度が落ちており、このまま入口へ向かえば十分に振り切れる距離ができている。


 ところが一つ目の保管室まで戻ったところで、クロエは進行方向とは違う右側の扉へ目を向け、思わず足を止めた。


「ちょっと待って」


「何?」


 盾役が振り向く。


「この右側の扉、まだ見てない」


「今見るの?」


「さっきの石尾蜥蜴が通路側にいたなら、ここは巣じゃないかもしれない。薬品庫が分かれてる可能性もあるよ」


「依頼品はもう取ったでしょう」


「でも、追加で何か見つかれば報酬が増えるかもしれない」


「クロエ」


「本当に一分だけ。錠だけならすぐ見られる」


          ◇


 盾役の女は、扉へ向かおうとしたクロエの腕を掴んだ。


「帰るよ」


「すぐ見るだけだって」


「さっき何がいたか忘れた?」


「あの一体は脚を傷めてるし、ここまで追いつくには少し時間がある」


「別の個体がいない保証は?」


「それはないけど」


「だったら帰る」


 クロエは目の前の扉を見た。


 古い錠が取り付けられているものの、自分の腕なら短時間で開けられる可能性は高い。中に何もなければそれで終わりだが、依頼主が欲しがる薬品や帳簿が残っていれば、追加報酬を得られるかもしれなかった。


「本当に一分でいいから」


「駄目」


「何で」


「今のあんた、自分で終わりを決められなくなってるから」


 その言葉を聞いたクロエは、扉へ伸ばしかけていた手を止めた。


          ◇


 直後、背後の通路から石を擦るような重い音が近づいてきた。


 盾役の女はクロエの腕を離し、入口の方へ身体を向ける。


「今の聞こえたよね」


「聞こえた」


「なら帰るよ」


 クロエは最後に一度だけ古い扉へ視線を残したあと、短剣を鞘へ戻した。


「……分かった。行こう」


 四人はそのまま入口へ向かい、石尾蜥蜴に追いつかれることなく地上まで戻ることができた。


          ◇


 依頼そのものは、十分な成功として処理された。


 帳簿三冊と指定された薬瓶九本を回収し、同じ印のついた追加の三本についても依頼主が買い取ることになったため、当初予定されていた報酬より少し多い金額を受け取ることができた。


「これなら十分じゃない?」


 ギルドで報酬を受け取ったあと、盾役の女が言った。


「まあね」


 クロエは報酬袋を腰へしまいながら答えた。


「まだあの扉が気になってる?」


「少しだけ」


「何が入ってたと思うの」


「分からないから気になるんだよ」


「それで入ってたら、また石尾蜥蜴が来たかもしれないよ」


「それも分かってる」


「分かってる人の顔には見えないけど」


 クロエは言い返そうとして、やめた。


          ◇


「でも、あそこで帰ったから依頼成功で終われたんだよ」


 盾役の女が続ける。


「分かってるって」


「ならいいけど」


「私だって危なくなったら逃げるよ」


「それは知ってる。クロエ、逃げるの自体は上手いもん」


「褒めてる?」


「かなり褒めてる」


「ならいい」


「ただ、逃げるって決めるまでが遅いんだよね」


 クロエは眉を寄せた。


「それ、同じことじゃない?」


「全然違うよ。逃げ始めた後の技術はあるけど、どこで終わりにするか決めるのが遅いってこと」


 言われてみれば、自分の中では今まで一つにして考えていた二つが、別の話なのかもしれなかった。


          ◇


 翌日、ギルドから追加の連絡が入り、クロエは昨日の地下保管庫について新しい報告を聞くことになった。


 確認された石尾蜥蜴を処理するため、別の討伐班が地下へ入ったところ、クロエが最後まで気にしていた右側の扉の奥に、もう一頭の石尾蜥蜴と複数の卵がある巣が見つかったという。


「もう一頭いたの?」


 クロエが受付で聞き返す。


「いました。しかも卵を守っていたので、かなり攻撃的だったそうです」


「……入らなくてよかった」


「本当にそうですね」


 受付の女性は記録をめくりながら言った。


「昨日の班、途中で撤退した判断が正解でした」


「判断したのは私じゃないけど」


「班として正解ならいいでしょう」


「私は入ろうとしてた」


「でしたら、止めてくれた人にはきちんと感謝してください」


「昨日もうしたよ」


「本当に?」


「心の中で」


「口でしてください」


          ◇


 その日の午後、クロエは討伐班が持ち帰った石尾蜥蜴の一部が市場へ流れるという話を聞いた。


 食用になる部位はそれほど多くないらしいが、尾の付け根に近い肉だけは食べられると聞き、昨日あれだけ苦労させられた魔物がどんな味なのか少し興味を持った。


 市場へ行ってみると、解体台の上には白みの強い赤身肉がいくつか並んでいた。


「これ、本当に食えるの?」


 クロエが肉屋へ尋ねる。


「食える。ただし相当固いぞ」


「どれくらい?」


「何も考えず厚切りで焼いたら、食い終わる頃には顎が疲れるくらいだ」


「そこまで固いんだ」


「尾を振り回す筋肉だからな」


 クロエはしばらく肉を見たあと、指で一塊を示した。


「じゃあ、それ少しちょうだい」


「自分で料理するのか」


「しないよ」


「なら何で買うんだ」


「持っていけば何とかしてくれそうな店があるから」


          ◇


 夕方になり、クロエは包んでもらった石尾蜥蜴の尾肉を持って《持ち込み食堂》へ向かった。


「いらっしゃいませ」


 ミレイアが迎える。


「これ、料理できる?」


「何です?」


「石尾蜥蜴の尾肉」


 厨房から出てきた悠斗が包みへ目を向けた。


「見てもいいですか」


「どうぞ」


 布を開くと、中には厚みのある肉が二塊入っている。


「かなり筋が強そうですね」


「肉屋にも固いって言われた」


「食べたことあります?」


「ないよ」


「俺もないです」


「じゃあ失敗するかも?」


「その可能性はあります」


「そういうの普通に言うんだね」


「初めてなので、分からないところは分からないです」


          ◇


 悠斗は肉を指で押し、断面へ走っている繊維の方向まで確かめた。


「普通に厚切りで焼くと、かなり噛み切りにくそうですね」


「肉屋も、顎が疲れるって言ってた」


「少しだけ焼いて状態を見てもいいです?」


「何するの」


「端を切って、塩だけで焼きます」


 悠斗は肉の端を薄く切り取り、塩を振って鉄鍋で焼いた。


 安全に食べられるところまで火を通したあと、二人でほんの少量ずつ味見してみる。


 クロエは何度も噛んでから眉を寄せた。


「固いね。噛み切れないほどじゃないけど、これを一皿食べるのは嫌かも」


「確かに固いですね。ただ、味そのものは悪くないですし、噛んでいると旨味も出ます」


 悠斗は残った肉を見ながら、次の方法を考え始めた。


          ◇


「もっと薄く切れば?」


 クロエが尋ねる。


「それもできます。ただ、この筋だと薄切りだけでは少し残るかもしれません」


「じゃあ叩く?」


「試せそうですね」


「煮るのは?」


「時間をかければ柔らかくなる可能性はあります」


「どれが一番いいと思う?」


「今の段階ではまだ分からないので、肉を無駄にしない量で三つ試してみます」


「全部やるんだ」


「少量ずつなら比較できますから」


 クロエは椅子へ座り直し、興味深そうに厨房を眺めた。


          ◇


 悠斗は肉を三つに分け、一つは繊維を断つ方向へかなり薄く切り、もう一つは少し厚みを残したまま包丁の背で丁寧に叩いた。残る一つは小さめの角切りにし、根玉葱と少量の水を加えて弱火で煮ることにする。


「煮る方、どれくらいかかる?」


 クロエが尋ねた。


「状態次第ですけど、一時間以上は見た方がいいかもしれません」


「結構長いね」


「薄切りと叩いた方は先に食べられます」


「じゃあ、それ食べながら待つ」


 クロエは卓へ座り、頬杖をつきながら鍋の方を見た。


          ◇


 最初に焼き上がったのは、繊維を断つ方向へ薄く切った肉だった。


 塩だけで焼いたものをクロエが口へ運ぶと、最初の厚切りよりは明らかに噛み切りやすくなっているものの、最後には少し筋が残る。


「さっきよりずっといい。でも少し引っかかる」


「じゃあ次を試します」


 続いて悠斗は、包丁の背で叩いた肉へ少量の塩と香辛料を馴染ませ、表面へ焼き色をつけてから火を弱めた。


 こちらは薄切りより厚みが残っているものの、叩いたことで繊維がほどけており、歯を入れた時の抵抗はかなり減っている。


「これ好き。ちゃんと肉食べてる感じも残ってる」


「なら、今のところは叩いた方が良さそうですね」


「煮たらもっと変わるかもしれない?」


「可能性はあります」


「じゃあ、そこまでは待つ」


          ◇


 クロエは卓に置かれた水を飲みながら、厨房でゆっくり煮えている鍋を眺めた。


「こういう肉って、最初に焼いて駄目だった時点で別の肉にした方が早くない?」


「普通の食堂なら、そうすることもあると思います」


「今日は何で続けるの」


「ここは持ち込まれた食材を、どうしたら食べやすくできるか試す店でもあるので」


「何でも最後まで試す?」


「そこまではしません。危険なものなら止めますし、必要な時間や道具が店で用意できないなら途中でも断ります」


「もう始めてても?」


「始めてから無理だと分かることもありますから」


 その答えを聞いたクロエは、少しだけ目を細めた。


          ◇


「途中で止めたら、使った肉とか時間がもったいなくない?」


「もったいないですよ。でも、無理なやり方を続けて残りまで全部駄目にする方が、もっともったいないです」


「もう金も時間も使ってるのに?」


「使った分は、続けても戻ってこないですからね」


「だからこそ、その分くらい取り返したくならない?」


「なりますよ」


 悠斗は鍋の火加減を見ながら答えた。


「ただ、取り返そうとしてさらに食材や時間を使うと、最初より大きく失敗することもあります」


 クロエはその言葉を聞いて、しばらく黙った。


          ◇


「何か思い当たることでもありました?」


 悠斗が尋ねる。


「何でそう思うの」


「急に黙ったので」


「昨日、地下倉庫の依頼へ行ったんだ」


「危なかった?」


「ちょっとね」


 クロエは帳簿を見つけたことから話し始め、薬瓶まで回収したあと石尾蜥蜴に襲われ、どうにか通路から抜けたこと、その帰りにまだ開けていない扉を見つけて入ろうとしたことまで順番に説明した。


「その扉、結局入ったんです?」


「仲間に止められて入らなかった」


「それで今日、何か分かった?」


「扉の向こうに二頭目の巣があったらしい」


 悠斗の手が一瞬止まった。


「かなり危なかったですね」


「そうなんだけど、今気になってるのはそこじゃないんだよね」


          ◇


「じゃあ、何が気になるんです?」


 悠斗が尋ねた。


「何で私は、あそこでまだ入ろうとしたんだろうってこと」


 クロエは頬杖をやめ、両腕を卓の上へ置いた。


「逃げるのは苦手じゃないんだ。戦闘でも危ないと思ったら距離を取れるし、足の速さにも自信がある」


「でも、依頼そのものを終えるのは苦手?」


「仲間にはそう言われた。逃げる技術はあるけど、逃げるって決めるのが遅いって」


「聞いてる限りでは、違う話みたいですね」


「簡単に納得されると腹立つな」


「すみません」


          ◇


「昨日だって、依頼品は全部取ってたんだよ」


 クロエが続けた。


「なら、依頼の目的そのものは達成してた?」


「かなりね」


「それでも扉を開けたかった理由は?」


「追加で何かあったら報酬が増えるかもしれなかったし、そこまで奥へ来たのに見ないで帰るのが嫌だった」


「そこまで来たから、ですか」


「そう」


「もし同じ扉が入口のすぐ横にあって、石尾蜥蜴と戦った後だったら?」


 クロエは少し考えた。


「たぶん入らない」


「じゃあ、そこまで進んだ時間とか手間があるから、開けたくなった?」


「……そう言われると、そうかも」


 言葉にしてみると、自分でもかなり奇妙な判断に聞こえた。


          ◇


「俺も似たことはありますよ」


 悠斗が言った。


「料理で?」


「料理でもあります」


「焦がした料理に調味料足して何とかしようとするとか?」


「それ、実際ありますね」


「あるんだ」


「ありますよ」


 悠斗は苦笑した。


「もう少し何か入れれば戻せる気がして、塩を足したり、水を入れたり、別の材料を加えたりしてるうちに、最初よりひどくなることもあります」


「そうなったらどうするの」


「早い段階で諦めて作り直した方がいいです」


「捨てることもある?」


「食べられない状態ならあります」


「料理人でも?」


「料理人だからこそ、次の食材まで巻き込まないようにします」


          ◇


「もったいないね」


 クロエが言った。


「かなりもったいないです。ただ、一皿を惜しんで次の材料まで駄目にしたら、もっと困ります」


「一時間作ってても?」


「使った一時間が、続けたからって戻ってくるわけではないので」


「それ、頭では分かるんだけどな」


「気持ちは別?」


「かなり別」


「俺もそうですよ」


 悠斗は鍋の蓋を少し開け、石尾蜥蜴の肉の状態を確認しながら続けた。


「だから、途中で迷いそうなものは、やめる条件を先に決めることもあります」


「やめる条件?」


「ここまで焦げたら作り直すとか、この時間まで煮ても変わらなかったら別の方法にするとかですね」


 クロエは興味を引かれたように顔を上げた。


          ◇


「途中じゃなく、最初に決めるの?」


「作ってる途中だと、『あと少しだけ』って思いやすいので」


「それ、冒険者でもやる人いるよ」


「撤退条件ですか」


「そう。うちの班にも一応ある」


「昨日の依頼なら?」


「重傷者が出たら撤退、通路が完全に崩れたら撤退、日没までに戻れなくなりそうなら撤退、みたいな感じ」


「石尾蜥蜴一頭が出た時は?」


「戦えるなら続行できる範囲だった」


「依頼品を全部取った後については?」


 クロエは少し考えたあと、首を振った。


「そこは何も決めてなかった」


「じゃあ、その後は全部その場で判断することになる?」


「そうだね」


          ◇


「その場で決めること自体が悪いんです?」


 悠斗が尋ねた。


「悪くはないよ。でも私の場合、その場で決めると欲張るみたい」


「なら、事前に決めておく方が楽かもしれない?」


「たぶんね。たとえば依頼品を取ったあとに予定外の危険が出たら、追加探索はしないとか」


「使えそうですね」


「でも、すごい物が目の前にあったらどうする?」


「それも条件に入れる?」


「価値が高ければ危険を取るべきかな」


「そこは俺に聞かれても判断できません」


「こういう時だけすぐ逃げるね」


「冒険者の危険判断はできないので」


 クロエは少し笑った。


          ◇


 その頃には、厨房から煮込みの香りがかなり強くなっていた。


 悠斗は石尾蜥蜴の肉を一つ取り出し、串を刺して柔らかさを確かめる。


「最初よりは柔らかいですけど、まだ少し固いですね」


「もう一時間近く煮てるよ」


「もう少しで変わる可能性はあります」


「まだ待つ?」


「クロエさんが食べたいなら。ただ、終わりを決めずに延ばすのはやめましょう」


「何で私に聞くの」


「食べる人なので」


「料理人が決めてよ」


「今でも食べられる状態ではあります。ただ、もう少し柔らかくなる可能性もある」


「確実じゃない?」


「確実ではないです」


「じゃあ、あとどれくらい試す?」


 悠斗は鍋と火加減を見比べ、少し考えた。


「あと二十分にします。それで大きく変わらなければ、今日はここまでです」


 クロエの眉が少し上がった。


「今、先に決めた?」


「決めました」


「二十分後にまだ柔らかくなりそうでも?」


「その時に変化がほとんどなければ、さらに一時間待つ理由は弱いので止めます」


          ◇


 二十分後、石尾蜥蜴の肉は先ほどより少し柔らかくなっていたものの、長時間煮込んだ肉のようにほぐれるところまでは変化しなかった。


「どうする?」


 クロエが尋ねる。


 悠斗は一切れを取り出し、状態を確認した。


「今日はここまでにします」


「もう少し煮れば変わるかもしれないよ?」


「変わる可能性はあります。ただ、鍋の水分もかなり減ってますし、このまま続けると柔らかくなるより先に肉が乾くかもしれないので、最初に決めたところで止めます」


「思ったよりきっぱり止めるんだね」


「先に決めたので、迷わなくて済みます」


 悠斗はそう答えながら火を止めた。


          ◇


 最終的には、叩いて焼いた尾肉を中心に一皿を作ることになった。


 石尾蜥蜴の肉を包丁の背で丁寧に叩き、塩と少量の香辛料を馴染ませて表面を強く焼く。そこへ根玉葱を炒めたものと酸味のある果実を少量添えることで、淡白な肉へ香りと柔らかな甘味を加えた。


 煮た肉については無理に主役へせず、細かく裂いたものを煮汁や根菜と合わせ、小さな副菜として皿の端へ添えた。


「《石尾蜥蜴の叩き焼きと尾肉の根菜煮》です」


「同じ肉で二種類になったね」


「煮た方も食べられるので、そのまま使います」


「思ったほど柔らかくならなかったのに?」


「狙った状態にならなかっただけで、料理として食べられないわけではないですから」


          ◇


 クロエは最初に叩き焼きから口へ運んだ。


 薄切りだけにしたものより肉の厚みが残っている一方、叩いたことで筋の抵抗はかなり弱くなっており、噛むたびに淡白な旨味がゆっくり広がっていく。根玉葱の甘さと果実の酸味が加わることで、噛む回数が多くても味が単調にならず、最初に試した肉とはかなり印象が違っていた。


「これなら普通に好き」


「よかったです」


 続いて根菜煮を食べてみると、こちらは焼いた肉ほど歯応えが強くないものの、完全に柔らかくほぐれるわけでもない。


「煮た方も悪くないね」


「もっと時間を取れば、また違うかもしれません」


「次に同じ肉が来たらやる?」


「やるなら、最初から長時間煮込み前提で仕込みたいですね」


「今日はもうやらない?」


「今日はここまでです」


 クロエはその答えを聞き、少しだけ笑った。


          ◇


「料理って、途中で方法を変えてもいいんだね」


 クロエが言った。


「食材の状態が予想と違えば、普通に変えますよ」


「最初に決めた作り方を最後まで守らなくても?」


「最初の目的が、美味しく食べてもらうことなら、作り方を守る方が目的になる必要はないので」


「依頼も同じなのかな」


「そこは冒険者じゃない俺には分からないですけど、現場へ行ったら最初の予定と違うことはあるんでしょう?」


「かなりある」


「なら、依頼そのものの目的を変えなくても、どこまでやるかは現場に合わせて変わることもあるのかもしれませんね」


 クロエは皿の肉を切りながら、昨日の地下倉庫を思い出した。


「私は、依頼品を取ったあとも『まだできる』って理由で続けようとしたんだ」


「追加探索は、本来の目的じゃなかった?」


「やらなくても成功だった」


「なら、成功したあとに追加で危険を買おうとしてた?」


「言い方悪いね」


「すみません」


「でも、たぶんそういうことなんだと思う」


          ◇


 クロエは食事を続けながら、以前にも似たことがなかったか思い返した。


 採取依頼で必要数をすでに集め終えていたのに、珍しい薬草がありそうだからと谷へ降りたことがある。鍵開けの依頼でも、指定された箱を開けたあと、隣の棚に置かれていた古い金庫が気になって余計な罠へ触れかけたことがあった。


 どちらも大きな事故にはならず、追加で素材を見つけて依頼主に喜ばれたことさえあったため、自分は上手くやれていると思っていた。


「今まで、運がよかっただけの時もあったのかも」


 クロエが言う。


「何がです?」


「依頼が終わった後の余計な一歩」


 悠斗はすぐに否定せず、少し考えてから尋ねた。


「全部が余計だったと思います?」


「役に立った時もあるよ。追加で素材を見つけたこともあるし、依頼主から喜ばれたこともある」


「じゃあ、追加で何かすること自体を全部やめる必要はない?」


「そうなんだよね」


「なら、やる条件とやめる条件を分けて決める方が合ってるのかもしれませんね」


「またその話に戻るんだ」


「今のクロエさんには便利そうなので」


          ◇


「たとえば、依頼目的を達成した後に予定外の危険を一つでも確認したら、その日は追加探索なし」


 クロエは指を折りながら、自分なりの条件を考え始めた。


「予定より一時間以上遅れてても追加なし。怪我人がいたら絶対なし。正体不明の魔物が出た後もなし」


「結構ありますね」


「逆に全員無傷で、時間も余ってて、追加で見る場所が入口の近くなら相談してもいい」


「一人で決めない?」


「そこは大事かも」


 昨日の右側の扉を思い出すと、自分一人だけが「一分だけ」と言い張っていたことが妙に恥ずかしく感じられた。


「班のみんなが駄目って言ったら、その場ではやめる」


「状況によっては多数決?」


「命に関わるなら多数決だけで決められないけど、少なくとも私一人の好奇心で決めないようにする」


          ◇


 食事を終えたあと、クロエは料理代を支払い、残っていた石尾蜥蜴の肉をどうするか尋ねた。


「これ、冷やしておけば明日まで大丈夫?」


「きちんと冷やせるなら大丈夫です」


「じゃあ残りは持って帰る」


「どうやって食べるんです?」


「繊維を切る方向に薄く切って焼くよ」


「叩かない?」


「宿に肉を叩けるような丈夫な台がないから」


「なら薄切りの方がいいですね」


「煮るのはもういいかな」


「一時間待てない?」


「今日は十分待ったし、次にやるなら最初から長時間煮るつもりでやる」


「それならいいと思います」


 クロエは包み直された肉を受け取った。


          ◇


 翌朝、クロエは昨日一緒に地下倉庫へ入った盾役と剣士へ声をかけ、ギルドの隅にある卓へ三人で座った。


「昨日はありがとう」


 盾役の女が目を丸くする。


「何が?」


「倉庫で止めてくれたこと」


「急にどうしたの」


「受付に、ちゃんと口で礼を言えって怒られた」


「じゃあ自発的じゃないんだ」


「半分は自発的だよ」


「なら半分だけ受け取っておく」


 クロエは少し笑ったあと、用意してきた紙を卓へ置いた。


「次の依頼から、終わり方をもう少し細かく先に決めない?」


「終わり方?」


「撤退条件。今もあるけど、依頼目的を達成した後にどこまで追加で動くかも決めたい」


          ◇


 剣士が紙を引き寄せた。


「何で急にそこまで考えたんだ」


「私、依頼の目的を達成した後の方が欲張るみたいだから」


「知ってた」


「知ってたなら早く言ってよ」


「言っても聞かなかっただろ」


「今なら聞くよ」


「本当か?」


「……たぶん」


 盾役の女が笑った。


「そこは言い切らないんだ」


「自信ないから」


「じゃあ一緒に決めようか」


 三人は依頼の種類ごとに使えそうな撤退条件や、追加探索を許してもいい場合について順番に書き出していった。


          ◇


 数日後、クロエたちは古い街道沿いに残された小型遺跡を調査する依頼へ入った。


 目的は地下へ続く入口がまだ使用可能かどうかを確認し、内部へ入れる場合でも最初の広間までの安全を調べるところまでと、依頼書にははっきり記載されている。


 現地へ着くと、入口は半分ほど土に埋まっていたものの、人が通れる程度の隙間は残っていた。


 クロエが先頭へ入り、罠や崩落の危険を確かめながら進むと、やがて最初の広間へ到着した。


 床には崩れた石像があり、その奥にはさらに二本の通路が続いている。


「ここまでが依頼範囲だね」


 盾役の女が言う。


「分かってる」


 そう答えながら、クロエは右側の通路へ視線を向けた。


「でも右、ちょっと気になる」


「もう出た」


「まだ行くって言ってないでしょ」


          ◇


 クロエは通路の入口近くへしゃがみ、床の状態を確かめた。


 右側には新しい土の跡が残されており、何かが最近出入りした可能性がある。


「生き物がいるかもしれない」


「危険そう?」


「何がいるかまでは分からない」


「少し調べる?」


 剣士が尋ねた。


 以前なら「少しだけ」と答え、そのまま奥へ進んでいたかもしれない。


 クロエは腰袋から、出発前に三人で確認した紙を取り出した。


《依頼目的達成後、未知の生物痕跡を確認した場合は追加探索を行わず、位置と状態だけ記録して帰還する》


 そこに書かれた一文を読み、クロエは右側の暗い通路をもう一度見た。


「今日はここまでにする」


 盾役の女が少し意地悪そうに尋ねた。


「本当にいいの?」


「よくないよ。かなり気になる」


「じゃあ行く?」


「行かないって」


「本当に?」


「何回聞くの」


「珍しいから」


          ◇


 クロエは新しい土の跡を記録板へ写し、通路の方向と幅、見える範囲の状態も簡単に書き残した。


 奥を見たい気持ちは消えていなかったものの、そこまで終えると自分から入口へ向きを変え、仲間と一緒に遺跡を出た。


 帰還後の報告で右側通路の痕跡について伝えると、ギルドは翌日に専門の調査班を出すことを決めた。


 二日後、その通路から小型魔物の群れが確認されたという連絡が入ったが、クロエたちがその場で奥へ入らなかったことについて、誰も「もったいなかった」とは言わなかった。


          ◇


 その夜、クロエは再び《持ち込み食堂》へ足を運んだ。


 今回は食材を何も持っていない。


「今日は石尾蜥蜴なし?」


 ミレイアが尋ねる。


「残りは宿で食べたよ」


「固くなかった?」


「繊維を切る方向に薄くしたら平気だった」


「今日は普通の注文?」


「うん。できれば早く出るやつ」


 悠斗が厨房から顔を出した。


「急いでるんです?」


「別に急いでないけど、今日はあんまり待ちたくない」


「なら白身魚の焼いたものが早いですよ」


「それでお願い」


          ◇


「この前の依頼、その後また何かありました?」


 料理を待つ間、悠斗が尋ねた。


「何で毎回何かある前提なの」


「冒険者なので」


「今日はちゃんと、自分で帰るって決めて帰ってきたよ」


「前も無事に帰ってきてますよね」


「そうだけど、今回は仲間に止められる前に自分で終わりにした」


 クロエは遺跡で右側の通路を見つけたことと、事前に決めていた条件に従って追加探索をしなかったことを簡単に話した。


「奥は気になりました?」


「かなりね」


「それでも行かなかった?」


「条件に引っかかったから」


「先に決めておいたやつですね」


「そう。気分としては腹立ったけど、役には立った」


「腹立つんですね」


「だって見たかったし」


          ◇


「次の日、実際に魔物がいたんだって」


 クロエが続けた。


「危なかったですね」


「でも、もし何もいなかったとしても、あの日は帰ってよかったと思う」


「どうして?」


「依頼はそこまでだったから」


 少し前までのクロエなら、結果的に何もいなかったと分かれば「やっぱり見ておけばよかった」と考えたかもしれない。


「追加で見たいなら、その場で勝手にやらずに、一回帰って依頼として受け直せばいいんだよね」


「その方が準備できます?」


「人数も道具も変えられるし、報酬だってちゃんと交渉できる」


「じゃあ、余計な一歩を全部やめたわけじゃない?」


「やるなら、勝手な追加にしないってこと」


 クロエは卓へ肘をつき、少し得意そうに笑った。


          ◇


 ほどなくして白身魚の焼き物が運ばれてくると、クロエは湯気が残っているうちに食べ始めた。


 石尾蜥蜴のように切り方や加熱時間を何度も試す必要はなく、柔らかな白身は箸を入れれば簡単にほぐれ、薄く塩を利かせただけでも十分な旨味がある。


「今日はすぐ食べられるね」


「そういう料理を選びましたから」


「何でも最後まで試さなくていいんだ」


「毎回一時間以上試してたら、店を閉められなくなります」


「料理人もちゃんと途中で終わらせるんだね」


「諦めるというより、その日はどこまでやるか決める感じですね」


「それ、今ならちょっと分かる」


          ◇


 食事を終えたクロエは代金を支払い、翌朝の依頼で使う予定の小さな鍵開け道具を腰袋の奥へしまい直した。


 これからも仕事へ入れば、気になる扉を見つけることはあるだろうし、依頼には含まれていない部屋の向こうに、珍しい品が眠っていそうだと感じることもあるはずだった。


 その好奇心まで捨てる必要はないと、クロエは思っている。危険な場所へ入り、人が見落とすものを見つけることそのものは、自分が盗賊職を選んだ理由の一つでもある。


 ただし、すでに依頼の目的を達成し、予定外の危険まで増えているのに、「ここまで来たから」という理由だけで次の一歩を足す必要はなかった。まだ先を見たいのなら、その場で無理をするのではなく、一度戻って必要な人数と道具を揃え、改めてそこへ向かえばいい。


 クロエは店を出たあと、翌日の依頼書に書かれている目的と撤退条件を歩きながらもう一度確かめ、今回はどこまで進めば十分なのかを先に頭へ入れたうえで、宿へ続く夜道を軽い足取りで帰っていった。


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