第27話 薄い匂いの鹿肉と、確信を待つ斥候
ロッカは、分からないことを口にするのが苦手なのではなく、まだ確かめ終えていないことを誰かへ伝えるのが嫌いだった。
二十六歳になる狼獣人の彼は、冒険者として剣を振るうよりも、足跡や匂い、折れた枝や踏み荒らされた草から魔物の動きを読むことを得意としている。ライオス、ミア、エルドと組むようになってからも、その役割はほとんど変わらず、三人より先に危険を見つけ、安全な道を探し、必要なら敵へ気づかれる前に引き返すための判断材料を集めることが、彼の仕事になっていた。
誰より早く異変へ気づけた時には素直に嬉しく、地面へ残ったわずかな痕跡から相手の数や進行方向を読み当てた時には、自分の技術が仲間を守っているという実感もあるため、ロッカ自身は斥候という役割をかなり気に入っている。
しかし、獣のものかもしれない薄い匂いや、風で折れただけかもしれない枝、足跡にも見えるものの雨で輪郭が崩れた窪みなど、異変を感じても正体まで断定できない痕跡については、できるだけ自分の中だけで確認を続けようとする癖があった。
間違った情報で仲間を動かすくらいなら、確かなところまで調べてから報告した方がいいという考えによって助かったことも多かったが、その慎重さがいつでも正しいとは限らなかった。
◇
「二頭だな」
北西の丘陵地帯で地面を見ながら、ロッカはそう言った。
今回の依頼は、《霞走鹿》と呼ばれる中型魔物の討伐だった。
細長い脚と灰白色の毛を持つ鹿型の魔物で、危険度そのものはそれほど高くないものの、危険を感じると薄い霧のような魔力を身体の周囲へ広げ、その姿を見失わせながら一気に逃げる習性がある。
農地へ降りて若芽を食べる個体が増えているため、確認されている二頭を農地から遠ざけるか、それが難しければ討伐することが今回の目的だった。
ライオスがロッカの隣へしゃがみ込んだ。
「大きさは?」
「片方は成体。もう片方は少し小さいと思う」
「親子か?」
「そこまでは分からない」
地面には二種類の蹄跡が残っており、幅の違いから体格差があることまでは読み取れるものの、それ以上のことまで決めつけられる状態ではなかった。
「北へ行ってる?」
ミアが尋ねた。
「たぶん」
「たぶん?」
「途中から地面が硬くなってるから、跡がかなり薄い」
エルドが周囲を見渡した。
「匂いは?」
「残ってはいるけど、ここは風が回ってるから当てにしすぎない方がいい」
「なら慎重に行くか」
ライオスがそう言い、四人は丘を登り始めた。
◇
しばらく進んだところで、先頭を歩いていたロッカが急に足を止めた。
右手には低い灌木が続き、その向こうには浅い谷が広がっている。
そこへ一度だけ風が吹き込み、霞走鹿とは違う匂いがロッカの鼻をかすめた。
湿った毛と土、それにごくわずかな血の匂いが混ざっている。
「どうした?」
後ろからミアが尋ねた。
「いや、ちょっと待って」
ロッカはもう一度鼻を動かしたが、次に吹いた風からは同じ匂いを拾えなかった。
「何かあった?」
「まだ分からない」
そう答えながら灌木の近くまで歩き、地面へしゃがみ込む。
古い落ち葉が一部だけ乱れているものの、はっきりした足跡は見当たらず、近くの枝も一本折れていたが、それが新しいものかどうかまでは判断しにくかった。
「鹿?」
ライオスが尋ねた。
「違うと思う」
「魔物?」
「まだそこまでは分からない」
「調べるか?」
「少しだけ見てくる」
ロッカは谷側へ数歩降りた。
◇
湿った土の上には浅い窪みがあり、形だけを見れば狼型の魔物が残した跡にも思えた。
ただし輪郭がかなり崩れているため、普通の獣が踏んだだけかもしれず、昨日以前に残されたものという可能性もある。周囲には新しい糞もなく、毛も見つからないうえ、本来追っている霞走鹿の足跡は北へ向かって続いていた。
(古い跡かもしれないな)
ここで別の魔物を警戒して回り道をすれば、せっかく追っている霞走鹿を見失う可能性もある。
「どう?」
ミアが尋ねた。
ロッカはもう一度周囲を見回したあと、立ち上がった。
「古い跡っぽいし、今すぐ危険がある感じでもない。進んで大丈夫だと思う」
「了解」
四人はそこで調査を切り上げ、再び北へ向かった。
◇
一時間ほど進んだところで、ようやく二頭の霞走鹿を見つけた。
灰白色の二頭は丘の斜面で草を食べており、大きい方は周囲を警戒するように何度も顔を上げている。
ロッカは手を上げて三人を止めた。
「まだ気づかれてない」
「追い払えるか?」
ライオスが小声で尋ねる。
「農地と逆へ逃がせればいけると思う」
「どうする」
「俺が左から回るから、エルドは右を塞いで、ライオスとミアは南側へ立って」
「攻撃は?」
「最初はしない。逃げる方向だけ作る」
三人が頷いた。
ロッカは身を低くし、風下を選びながら斜面を大きく回り込んだ。
◇
霞走鹿の成体がロッカの存在へ気づいたのは、彼が十分に回り込んでからだった。
成体が頭を上げて短く鳴くと、二頭はほとんど同時に走り出した。
南側にはライオスとミアがいるため、予定していた通り北東へ向きを変える。
「そのまま行かせろ!」
ロッカが声を上げる。
農地から遠ざかる方向へ走っており、依頼条件としても無理に討伐する必要はないため、ロッカは二頭の進路を確認しながら少しだけ速度を落とした。
その瞬間、左側の灌木が大きく揺れた。
◇
「ロッカ!」
ミアの声が飛んだ。
反応するよりわずかに早く、黒灰色の獣が灌木を突き破るように飛び出してきた。
現れたのは《裂顎狼》と呼ばれる肉食魔物で、普通の狼より一回り大きいうえ、口の端が耳近くまで裂けたように広がっている。単独で行動することも多い種類だが、どうやら霞走鹿を追ってこの丘まで入り込んでいたらしい。
ロッカは咄嗟に身体を横へ投げ出した。
裂顎狼の牙が、直前まで右腕のあった場所を通過する。
「何でこんなのがいる!」
ライオスが走ってくる。
「分からん!」
ロッカは起き上がりながら短剣を抜いた。
裂顎狼は着地するとすぐ向きを変え、もう一度こちらへ飛びかかってくる。
◇
二度目の突進にはミアが割って入り、盾の縁を裂顎狼の肩へ当てることで進行方向を横へずらした。
「エルド!」
「分かってる!」
横から風弾が飛び、狼の身体を斜面側へ押したところへライオスが踏み込んで剣を振るう。
しかし裂顎狼は予想以上に素早く、斜面を蹴って後方へ逃れた。
「ロッカ、数は!」
「一頭――」
答えかけたところで、ロッカは朝に嗅いだ匂いを思い出した。
あの時に感じた湿った毛と血の匂いが、目の前にいる裂顎狼のものだった可能性は高い。しかし、だからといって一頭だけだったと決める材料はない。
ロッカは周囲へ鼻を向けた。
「待って! もう一頭いるかもしれない!」
ライオスの表情が変わった。
「どこ!」
「そこまでは分からない!」
「それでいい、全周警戒!」
ミアが盾を構え直した。
◇
四人はすぐに距離を詰め、互いの背後を補える位置へ集まった。
一頭目の裂顎狼は少し離れた場所からこちらを窺っている。
エルドが周囲へ意識を向けながら、小声で尋ねた。
「匂いか?」
「最初に谷の手前で嗅いだ。鹿とは違う匂いがあった」
「何で言わなかった」
「跡が古いと思ったんだ」
「今は?」
「分からない。ただ、さっきより血の匂いが強い」
その直後、後方の草が大きく揺れた。
「右後ろ!」
ロッカが叫ぶ。
二頭目の裂顎狼が草むらから飛び出してきた。
◇
ミアが素早く盾を振り向けたものの完全には間に合わず、裂顎狼の前脚が盾の側面を滑って肩をかすめた。
それでも彼女は体勢を崩さず、そのまま狼の身体を押し返す。
「二頭!」
「今度こそ確定だな!」
ライオスが叫んだ。
「うるさい!」
ロッカは一頭目へ向かって走った。
正面から力をぶつける必要はないため、斜めから入り込んで意識だけを自分へ向ける。
狼がロッカを追って進路を変えたところへエルドの風弾が飛び、脚を取られてよろめいた瞬間、ライオスの剣が急所へ入った。
一頭目の裂顎狼は地面へ倒れ、そのまま動かなくなった。
◇
二頭目は仲間が倒れたことを見て不利を悟ったのか、ミアの盾から距離を取り、そのまま谷の方へ逃げようとした。
「追う?」
ライオスが尋ねる。
ロッカは一瞬だけ地面と風向きを確かめた。
「追わない。霞走鹿も散ったし、先にミアの肩を見た方がいい」
「賛成」
ミアが答えた。
「浅い傷だけどね」
「浅いかどうかは後で見る」
「最近みんな私にそれ言う」
「前に無理したからだろ」
「それはそうだけど」
エルドは倒した裂顎狼を見下ろした。
「こいつ、依頼対象じゃないぞ」
「ギルドには追加報告が必要だな」
ライオスが答えた。
◇
周囲の安全を確認したあと、ロッカは先ほど二頭目が潜んでいた場所へ向かった。
草の奥には獲物を引きずった跡があり、さらに少し進むと、小型獣の食べ残しと二種類の裂顎狼の足跡が見つかった。
「二頭とも前からいたんだ」
ミアが言う。
「ああ」
「最初の場所では分からなかった?」
ロッカはすぐには答えず、足元へしゃがみ込んだ。
ここまで明確な痕跡が揃っていれば、今の自分でも迷うことなく裂顎狼だと判断できる。けれど一時間ほど前に見たものは、匂いも足跡も中途半端で、そこまでの確信を持てる状態ではなかった。
◇
「ロッカ」
ライオスが呼んだ。
「何」
「最初に何を見つけた」
「匂いと崩れた足跡、それに折れた枝」
「裂顎狼だと思った?」
「可能性はあると思った」
「どれくらい」
「半分もなかった」
「それでも言ってくれ」
ロッカは顔を上げた。
「確証なかったんだぞ」
「それでもだ」
「間違ってたら?」
「間違ってたら、何もいなかったで終わる」
「それで毎回足止めしてたら依頼にならないだろ」
「毎回止まる必要はない」
「じゃあどうしろっていうんだよ」
ロッカの声が少し強くなった。
◇
ライオスはすぐには答えず、少し考えてから口を開いた。
「俺も少し前までなら、斥候が判断してから報告しろって思ってたかもしれない」
「じゃあ同じだろ」
「でも、それだとロッカ一人で全部判断することになる」
ロッカは黙った。
「『何かいる気がするけど、確信はない』って情報でも、俺たちが知ってれば動き方は変えられるだろ」
ミアも頷いた。
「たとえば回り道まではしなくても、隊列を少し詰めたり、私が後ろを多めに見たりできるし、エルドが探知を足すことだってできるよ」
「探知術は万能じゃないぞ」
エルドが言う。
「知ってる。でも、使う場所を絞れるなら違うでしょ」
「それはそうだな。曖昧な匂いでも、方向が分かるだけで探知範囲を狭くできる」
三人とも、ロッカへ完全な答えを出すことまでは求めていなかった。
◇
「斥候って、答えを出してから渡す仕事だと思ってた」
ロッカが言った。
「答えも出すだろ」
ライオスが答える。
「でも途中経過も欲しい」
「そんなの全部言ってたら、うるさいぞ」
「お前が匂いを嗅いで黙るたび、何かあったのか気にしてる方が面倒だ」
「見てたのかよ」
「結構分かる」
「何で今まで言わなかった」
「必要ならお前から言うと思ってた」
ロッカは露骨に嫌そうな顔をした。
「それ、お互い様じゃん」
「そうだな」
ライオスが笑った。
◇
霞走鹿については、二頭とも農地から遠ざかる北東方面へ逃げたことを確認できたため、その日の依頼は一旦成功として扱われることになった。
ただし裂顎狼が少なくとも二頭入り込んでいたことから、周辺に他の個体がいないか追加調査が必要になる。
四人は倒した一頭から毛皮と牙を回収できるよう処理し、レーヴェンへ戻る準備を始めた。
「これ、肉も持ち帰る?」
ミアが裂顎狼を見ながら尋ねる。
「食用には向かないよ」
ロッカが答えた。
「知ってるけど、一応」
「毛皮と牙だけでいいと思う」
「じゃあ今日は霞走鹿の肉もないんだ」
「追い払う依頼だったからな」
ロッカは少し考えたあと、思い出したように言った。
「昨日市場で買った霞走鹿なら、宿に少し残ってるけど」
エルドが呆れたように振り返る。
「お前、依頼の前日に対象を食ってたのか」
「食える魔物なんだから別にいいだろ」
◇
ギルドへ戻ると、裂顎狼についての追加報告にかなり時間がかかった。
受付職員は地図を広げ、最初にロッカが異変を感じた場所と、実際に襲撃を受けた位置を書き込んでいく。
「最初の地点では確認できなかったんですね」
「匂いと崩れた跡だけだった」
「その時点で裂顎狼だと判断した?」
「いや、可能性があると思った程度」
「では、記録上はどうします?」
ロッカは少し迷った。
以前なら、正体を断定できなかった以上は《不明》とだけ書いて終わらせていただろう。
「裂顎狼の可能性あり。ただし確度は低い、って書ける?」
職員が顔を上げた。
「もちろん書けます」
「そんな書き方できるの?」
「できますよ」
「確定情報しか記録しちゃいけないと思ってた」
「斥候からの報告なら、確度を分けて残すのは普通です」
ロッカは眉を寄せた。
「誰か早く教えてよ」
「聞かれなかったので」
◇
報告を終えたあと、ロッカは一度宿へ戻った。
部屋には前日に市場で買っておいた霞走鹿の腿肉があり、本来ならその日の夕食として自分で焼くつもりだったが、帰還が遅くなったことで、今から火を起こして調理するのが面倒になっている。
肉を眺めているうちに《持ち込み食堂》のことを思い出した。
ライオスもミアもエルドも、それぞれ一人であの店を利用したことがあり、ロッカ自身も四人で何度か食事をしているため、今さら一人で入ることに抵抗があるわけでもない。
「腹も減ったし、持ってくか」
ロッカは霞走鹿の肉を包み直し、宿を出た。
◇
「今日は一人なんですね」
《持ち込み食堂》へ入ると、ミレイアが言った。
「一人でも食うだろ」
「ライオスさんたちと一緒の印象が強くて」
「今日はもう解散した」
「依頼帰り?」
「そう」
厨房から出てきた悠斗が、ロッカの持っている包みを見た。
「こんばんは。持ち込みです?」
「霞走鹿」
「鹿みたいな魔物ですか」
「ほぼ鹿だけど、逃げる時にちょっと霧を出す」
「肉も霧になったり?」
「しない」
「ですよね」
ロッカは包みを卓へ置いた。
◇
悠斗が肉を確認すると、見た目は赤身の強い鹿肉によく似ていた。
「かなり脂が少ないですね」
「よく走るからな」
「匂いは……少しありますね」
「分かる?」
「獣っぽい感じはします」
「それだけ?」
ロッカが尋ねた。
「それだけって?」
「他に何か匂わない?」
悠斗はもう一度肉へ顔を近づけ、しばらく考えた。
「少し甘いような気もします。でも、はっきり言えるほどじゃないですね」
「料理人でもそんな言い方するんだ」
「初めての食材なので」
◇
「甘い匂いは、たぶん間違ってない」
ロッカが言った。
「たぶん?」
「霞走鹿は季節によって食う草が変わるんだ。今の時期は《蜜穂草》をよく食うから、肉に薄く甘い匂いが出る個体がいる」
「へえ」
「でも全部じゃない」
「この肉は?」
ロッカは自分でも肉へ鼻を近づけた。
「あると思う。ただ、かなり弱い」
「じゃあ、その香りは残した方がいい?」
「それは料理人が決めるんじゃないの」
「食べたことある人にも聞きたいです」
ロッカは少しだけ悠斗を見た。
「煮込むと分かりにくくなる」
「焼いた方がいい?」
「たぶん」
「じゃあ焼く方向で試します」
◇
悠斗は肉を二つに分け、一つには塩だけを振り、もう一つには塩とごく少量の香草を使った。
「比べるの?」
「薄い匂いなら、香草を使った時に消えるかもしれないので」
「なら最初から使わなきゃいいじゃん」
「本当に残した方が美味しいのかは、まだ分からないので」
「面倒だな」
「ロッカさん、こういうの嫌いです?」
「嫌いじゃないけど、今は腹が減ってる」
「なるべく早くします」
◇
鉄鍋をしっかり熱したあと、悠斗は最初に塩だけを振った肉を焼いた。
霞走鹿の肉は脂が少ないため、表面へ焼き色をつけたところで火を弱め、乾かしすぎないよう様子を見ながら中まで火を通していく。
焼き上がった肉を切ると、赤身らしい濃い香りの奥に、ごくわずかに草のような甘さが混じっていた。
「これですかね?」
悠斗が尋ねる。
「たぶん」
「まだ、たぶんなんですね」
「俺の鼻でも弱いんだから仕方ないだろ」
「じゃあ俺が自信なくても普通ですね」
「普通」
二人は小さな一切れをそれぞれ味見した。
◇
「噛んだ後の方が分かりますね」
悠斗が言った。
「そう?」
「少しだけ甘い香りが鼻に戻る感じがあります」
「俺は焼く前の方が分かった」
「じゃあ感じ方が違いますね」
「鼻の差じゃない?」
「それもありそうです」
続いて香草を薄くまとわせた肉を焼くと、こちらは焼き上がった瞬間から香草の匂いが前へ出てしまい、霞走鹿にもともとあった薄い甘さはほとんど拾えなくなった。
「消えたな」
ロッカが言う。
「味としては悪くないです」
「でも同じ肉じゃなくても作れそう」
「俺もそう思います」
「なら最初の方がいい」
「決まりですね」
◇
悠斗は残った肉へ軽く塩を振り、表面へ焼き色をつけ始めた。
別の鍋では根玉葱と薄切りの黄根を炒め、付け合わせとして使う香草をごく少量だけ加える。
「肉には香草使わないの?」
「使わないです。付け合わせの方へ少しだけ入れます」
「何で」
「肉の匂いを邪魔しないよう、香りを分けておこうかなと思って」
「合うか分かる?」
「そこはまだ分かりません」
「またそれか」
「結構便利な言葉ですよ」
ロッカは少し笑った。
◇
根玉葱が十分に柔らかくなったところへ少量の果実酒を加え、酸味を飛ばしながら煮詰めていく。
霞走鹿そのものが持つ薄い香りを隠さないよう、甘味も味付けも強くしすぎず、皿へ炒めた根菜を敷いた上に、食べやすく切った肉を載せた。
「《霞走鹿の焼き肉と根玉葱の酒炒め》です」
「今日は名前普通だな」
「いつも変です?」
「たまに長い」
「よく言われます」
◇
ロッカは最初に肉だけを口へ運んだ。
噛み始めにはしっかりした赤身の味があり、脂が少ない分だけ後味は軽いものの、奥には獣肉らしい濃さも残っている。飲み込む直前になると、ごく薄い草と蜜を思わせる香りが鼻へ抜けた。
次に根玉葱と一緒に食べると、炒めた甘さが肉へ重なるものの、もともとの味を覆い隠すほど強くはない。
「こっちの方がいい」
「香草ありより?」
「うん」
「薄い香り、分かります?」
「分かる」
「俺は言われなかったら気づかなかったかもしれないです」
「料理人なのに?」
「鼻ではロッカさんに勝てないですよ」
「そりゃそうか」
◇
悠斗は少し考えてから尋ねた。
「こういう匂いって、斥候の時もすぐ分かるんですか」
「種類による」
「今日も何か匂いを見つけた?」
ロッカの耳が少し動いた。
「何で分かった」
「依頼帰りだって聞いたので、何となくです」
「適当だな」
「当たりました?」
「まあな」
ロッカは料理を食べながら、その日に遭遇した裂顎狼について話し始めた。
◇
最初に谷の近くで異なる匂いを感じたこと、足跡らしいものも見つけたこと、それでも確信が持てなかったため古い跡だと判断して進んだこと、その後に裂顎狼二頭から襲われたことまで説明すると、悠斗は少し驚いた顔をした。
「怪我は?」
「ミアが肩をかすったくらい。本人は大したことないって言ってた」
「ロッカさんは?」
「避けた」
「二頭いるって途中で分かった?」
「途中でも確信はなかったけど、今度は言った」
ロッカは水を飲んだ。
「それで最初から言っておけばよかったって話になった」
「仲間から?」
「そう」
「ロッカさんは納得してる?」
「まだ少し引っかかってる」
◇
「何でです?」
悠斗が尋ねた。
「斥候が毎回『何かいるかも』って言ってたら、そのうち誰も信用しなくなるだろ」
「毎回間違うんです?」
「そんなに間違わない」
「じゃあ、気になった時だけ言う?」
「それでも外れることはある」
「外れたら駄目?」
「斥候だぞ」
「斥候だと駄目なんです?」
「俺の情報で、みんな動きを変えるんだから」
ロッカは少し苛立ったように言った。
「間違って回り道したら時間を無駄にするし、いない魔物に警戒して余計に疲れさせることもある。何でも言えばいいってもんじゃない」
「それはそうでしょうね」
「じゃあ仲間が間違ってる?」
「そこまでは言ってないです」
◇
悠斗は焼く前の霞走鹿の肉を、確認用としてほんの少しだけ残していた。
「さっき俺、この肉から甘い匂いがする気がするって言いましたよね」
「言った」
「確信はなかったです」
「うん」
「ロッカさんが、たぶん正しいって教えてくれた」
「そうだな」
「それで香草ありとなしを分けて試せた」
「料理と魔物じゃ危険が違う」
「違いますよ。そこは同じだとは思ってません」
悠斗はすぐに認めた。
「ただ、確信がない情報でも、聞いた側が次に何を確かめればいいのか分かることはあるのかなと思っただけです」
ロッカはすぐには答えなかった。
◇
「俺が何も聞かず、香草を全部入れてたらどうなってました?」
「甘い匂いは消えてた」
「でも普通には美味しかった?」
「たぶん」
「じゃあ料理として失敗とも言い切れない」
「何が言いたいんだよ」
「最初に『甘い匂いがあるかもしれない』って情報があったから、二つに分けて確かめられたでしょう」
「だから魔物と料理は――」
「同じじゃないです」
「先に言うなよ」
「すみません」
ロッカは少し笑いかけたものの、すぐに表情を戻した。
◇
「昔、匂いを外したことがある」
ロッカが言った。
「どういう時です?」
「冒険者になって二年目くらいの頃、今とは違う臨時班で護衛依頼へ入った時だ」
森を進んでいる途中、ロッカは大型魔物のものらしい強い匂いを感じ、危険だと思ってすぐ班へ報告した。
班長はその情報を重く見て大きく迂回することを決めたが、依頼していた商人は急ぎの荷を運んでおり、予定より半日遅れたことで納品に間に合わなくなった。
「あとで別の冒険者が元の道を通ったけど、大型魔物は一体もいなかった」
「匂いの正体は?」
「たぶん古い毛皮だった。前日に狩人が通ってたらしい」
「怒られた?」
「商人にはかなりな」
班の仲間から直接責められたわけではなかったものの、後日、酒場で事情を知った別の冒険者から「狼鼻も大したことないな」と笑われたことだけは、今でも妙にはっきり覚えていた。
◇
「それから、確信するまで言わなくなった?」
「すぐじゃないけど、だんだんそうなった」
「今日までは大丈夫だった?」
「大体はな」
「じゃあ、そのやり方も役に立ってたんですね」
ロッカは少し意外そうに悠斗を見た。
「否定しないの?」
「全部間違ってたとは思わないので」
「じゃあ変えなくていい?」
「でも今日、それで困ったんですよね」
「まあ」
「なら全部捨てるんじゃなくて、困ったところだけ変えればいいんじゃないですか」
「どうやって」
「そこは仲間と決めた方がいいと思います」
「料理人のくせに投げたな」
「斥候の仕事は分からないので」
◇
「ギルドでは、確度を書けばいいって言われた」
「確度?」
「確実、たぶん、可能性低い、みたいに情報の強さを分ける」
「それを仲間にも言えばいいんじゃないです?」
「戦ってる時に長いだろ」
「短くできない?」
ロッカは少し考えた。
「『匂いあり、正体不明、確度低い』とか」
「十分短いですね」
「『足跡あり、古い可能性』とかでもいいか」
「それなら聞く側も判断できそうです」
「……そうだな」
言葉にしてみると、思っていたより簡単な方法だった。
◇
「でも外したら?」
ロッカが尋ねた。
「後で外れたって分かります?」
「分かることは多い」
「なら次から調整できる?」
「匂いの強さとか風向きとかは記録できる」
「じゃあ、外れた情報も次の判断には使えるんじゃないですか」
「商人には怒られるけどな」
「回り道するかどうかまで、ロッカさん一人で決めないようにしたら?」
ロッカはそこで言葉を止めた。
昔の護衛依頼では、自分が「大型魔物の匂いがする」と報告したあと、実際に迂回を決めたのは班長だった。それでも結果が外れたことで生じた責任を、ロッカはほとんど自分一人のものとして抱えていた。
◇
「俺の情報だったから」
ロッカが言う。
「でも最終的に決めたのは班長?」
「そう」
「じゃあロッカさんは情報を出すところまでで、どう動くかはみんなで決めてもいい時もある?」
「斥候がすぐ判断しなきゃいけない時もある」
「急いでる時とか?」
「もちろん」
「余裕がある時は?」
「相談できる」
悠斗は頷いた。
「なら、そこを分ければいいのかもしれませんね」
「簡単に言うな」
「俺は安全な店の中にいるから言えるんです」
「それ、自分で言うんだ」
「現場を知らないので」
◇
ロッカは皿に残った最後の霞走鹿を口へ運んだ。
薄い甘い香りは、最初に食べた時より分かりやすく感じられたが、匂いそのものが強くなったわけではない。一度何を探せばいいのか知ったことで、意識して拾えるようになっただけだった。
「これ、最初に何も聞かず食べてたら、甘い匂いに気づきました?」
悠斗が尋ねた。
「俺ならたぶん気づく」
「俺は微妙です」
「鼻弱いからな」
「普通です」
「俺からしたら弱い」
「狼基準やめてください」
◇
食事を終えたロッカは代金を支払い、そのまま宿へ戻るつもりで店を出た。
ところが途中で冒険者ギルドの灯りがまだついていることに気づき、少し迷ったあと進路を変える。
中へ入ると、夜番の受付職員が顔を上げた。
「追加報告ですか?」
「いや、聞きたいことがある」
「どうぞ」
「斥候の報告で、確度を三段階くらいに分けるやり方って、決まった形式ある?」
「ありますよ」
「訓練用の資料ある?」
「あります」
「それ、見せて」
職員は棚から薄い冊子を取り出した。
◇
冊子には、斥候や調査役が不確定情報を共有する際の簡単な基準が書かれていた。
《確認》は、痕跡が複数一致しており、対象をほぼ特定できる状態を示す。
《有力》は、複数の可能性が残っているものの、特定対象である可能性が高い場合に使う。
《注意》は、何らかの異変は確認したものの、その原因までは特定できない状態を表していた。
ロッカは三つの項目を一通り読んだ。
「こんなの訓練でやった覚えないんだけど」
「斥候専門の講習だと扱います」
「俺、独学寄りだったから受けてない」
「受けます?」
「金かかる?」
「半日講習ならそれほど高くないですよ」
「来週空いてる?」
「確認します」
ロッカはその場で申し込んだ。
◇
翌日、四人は裂顎狼の追加調査へ向かった。
昨日とは違い、討伐よりも生息範囲の確認が主な目的になっている。
北西の丘陵へ入って一時間ほど経った頃、先頭を歩いていたロッカが急に足を止め、前方から流れてくる匂いを確かめるように鼻を動かした。
獣臭はある。
ただし昨日の裂顎狼と同じものかどうかまでは判断できない。
以前なら、もう少し近づいて確信を得るまで黙っていただろう。
「獣臭あり」
三人が止まる。
「裂顎狼?」
ライオスが尋ねた。
「まだ不明。昨日よりかなり弱いから、確度は低い」
「方向は?」
「正面より少し左」
エルドが杖を上げた。
「なら左へ探知を飛ばす」
ミアも盾を持ち直した。
「私は後ろを見るね」
「俺は?」
ライオスが尋ねる。
「静かにしてて」
「俺だけ雑じゃないか?」
「足音でかいから」
◇
エルドの探知術には何の反応もなく、少し進んだところで匂いの正体も分かった。
木の根元に、裂顎狼よりずっと小さな野生獣の毛が引っかかっていた。
「外れたな」
ロッカが言った。
「そうだな」
ライオスが答える。
「時間無駄にした?」
「探知一回分くらいだろ」
エルドが肩をすくめた。
「魔力も大して使ってない」
ミアが笑った。
「それより今回はちゃんと言ったね」
「うるさい」
「褒めてるんだけど」
「そういう言い方やめろ」
◇
さらに進んだ先で、今度は別の足跡を見つけた。
ロッカはしゃがみ込み、土へ残った爪の形と歩幅を順番に確かめる。
「裂顎狼。有力」
「数は?」
「一頭分しか見えない。ただ、昨日逃げた個体の可能性は高いと思う」
「追える?」
「追える。ただし北側へ向かってるから、農地とは逆」
ライオスが少し考えた。
「討伐する必要は?」
「今回の依頼は生息範囲確認が優先だよ」
ミアが答える。
エルドも頷いた。
「なら深入りする理由は薄いな」
四人は足跡の位置と進行方向だけを地図へ記録し、それ以上追わないことを選んだ。
◇
帰路へ入ってから、ライオスがロッカへ尋ねた。
「どうだった」
「何が」
「途中で言うの」
「面倒」
「駄目じゃん」
「でも昨日よりは楽だった」
「何が?」
「俺一人で全部決めなくていいから」
ライオスは少し笑った。
「今さら気づいたか」
「お前にだけは言われたくない」
「何で」
「この前まで全部自分でやろうとしてたやつが」
「それはもう反省した」
「俺も今してる」
「じゃあ同じだな」
「一緒にするな」
◇
その後、ロッカは予定通り斥候専門の半日講習へ参加した。
匂いや足跡を読む技術そのものは講師役の冒険者から見ても十分な水準だったが、情報を仲間へ渡す方法については何度も指摘を受けた。
「お前、確定するまで抱え込みすぎ」
「最近それよく言われる」
「なら直せ」
「簡単に言うな」
「斥候の情報は答えでもあるが、仲間が判断する材料でもある。そこを混ぜるな」
講師は黒板へ《確認》《有力》《注意》という三つの言葉を書いた。
「確信が弱いなら、弱いまま出せ。その代わり、どれくらい弱いのかまで伝えろ」
「外れても?」
「外れた記録も残せ。どの条件で読み違えたのか分かる」
ロッカは何も言わず、その内容を書き写した。
◇
さらに一週間が過ぎた頃、ロッカは再び《持ち込み食堂》へ足を運んだ。
今度は何も持ち込まず、普通の夕食を頼むつもりだった。
「今日は霞走鹿なし?」
ミレイアが尋ねる。
「毎回持ってくるほど食ってない」
「何にします?」
「肉以外で頼む」
「白身魚ありますよ」
「それ」
厨房から顔を出した悠斗が尋ねた。
「講習どうでした?」
「何で知ってる」
「この前、行くって言ってたでしょう」
「そうだっけ」
「言ってました」
「まあ、行ったよ」
◇
「役に立ちました?」
「かなり」
「意外そうですね」
「もっと知ってることばっかりだと思ってた」
「知らないことあった?」
「報告の仕方」
ロッカは水を一口飲んだ。
「俺、斥候って自分が見つけて、自分が判断して、その結果を仲間に渡す仕事だと思ってた」
「違った?」
「それもあるけど、途中の情報を渡して一緒に決めることもあるらしい」
「今はできてる?」
「前よりは」
「外れました?」
「昨日、猪の匂いを魔物だと思った」
「どうなった?」
「エルドに探知させて終わり」
「怒られた?」
「『鼻詰まってるんじゃないか』って言われた」
「怒られてないですね」
「後で軽く蹴った」
「喧嘩してるじゃないですか」
「軽くだよ」
◇
その日は、白身魚と黄芋を一緒に焼いた料理が出てきた。
ロッカは食べながら、仲間へ途中の情報を出すようになったことで、自分の鼻が鈍くなったわけでも、斥候として慎重さを失ったわけでもないことを考えていた。
むしろ何かを見つけるたびに一人で何度も確認し続ける必要が減り、その分だけ別の痕跡へ意識を向ける余裕ができている。
何かを見つけるのは自分の仕事でも、その情報から班全体がどう動くのかまで、すべて一人で背負う必要はなかった。
◇
「これ、香草入ってる?」
ロッカが魚を食べながら尋ねた。
「少しだけ」
「前にサラが持ってきたやつ?」
「霧香草です」
「薄いな」
「分かります?」
「分かる」
「俺は入ってるって知ってるから分かる程度です」
「もっと入れれば?」
「魚の味が消えそうなので、今日はこれくらいにしました」
「それが正解?」
ロッカが尋ねる。
悠斗は少し考えた。
「今のところは、ですかね」
「自信ないな」
「ロッカさんはどう思います?」
ロッカも魚をもう一口食べ、鼻へ抜ける香りを確かめた。
「俺は好き。ミレイアは?」
「私も好きです」
「じゃあ二票」
「多数決なんです?」
「判断材料は増えただろ」
ロッカは笑った。
◇
食事を終えて店を出ると、夜のレーヴェンには弱い風が吹いていた。
ロッカは通りを歩きながら、いつもの癖で周囲から流れてくる匂いを拾っていく。焼いた肉や濡れた石、馬車の車輪へ塗られた油、少し離れた酒場から漏れてくる麦酒の匂いまで、意識を向ければ街の中だけでもいくらでも情報が入ってくる。
そのすべてへ、自分一人で完全な答えを出す必要はなかった。
危険かもしれない痕跡を見つけた時にも、確かなところまで黙って抱え続けるのではなく、自分が何を感じたのかと、そこからどこまで確かだと思っているのかを分けて伝えれば、仲間はその情報を使って次の判断をすることができる。
ロッカは翌日の依頼で使うために買った小さな記録板を取り出し、《確認》《有力》《注意》の三つの文字が暗い道でも読めることを確かめると、次に曖昧な痕跡を見つけた時には、その曖昧さまで含めて自分の仕事として仲間へ渡してみようと考えながら、宿へ続く夜道を歩いていった。
●評価●ブックマーク●アクション●感想待ってます!
読者様が応援してくれると嬉しいです!




