第25話 小さすぎる獲物と、一人前を急ぐ新人冒険者
ニール・アッシュは、自分より後から冒険者になった者が褒められるたびに、胸の奥へ小さな棘を刺されたような焦りを覚えるようになっていた。
十七歳の彼がレーヴェンの冒険者ギルドへ登録してから、すでに一年と三か月が経っている。最初の半年ほどは、薬草採取や荷物運び、街道沿いに現れる小型魔物の駆除といった仕事を一つずつ覚えていくことが楽しく、依頼を終えるたびに増えていく経験そのものを素直に喜べていた。
ところが一年を越えたあたりから、同時期に登録した者の中に昇級する者が現れ始め、半年遅れて冒険者になった少年が中型魔物の討伐へ参加したという話まで聞こえてくると、自分だけが同じ場所へ取り残されているように感じるようになった。
ニールの依頼達成率そのものは決して悪くなく、大きな怪我もなければ依頼主との揉め事も少ないうえ、採取では必要量をきちんと見極められるため、受付からの評価も安定している。それでも本人にとっては、薬草を百束集めた実績より、大きな魔物を一体倒したという話の方が、ずっと分かりやすく「冒険者らしい実績」に見えていた。
◇
「これ、俺も入れませんか」
朝の冒険者ギルドで、ニールは掲示板に貼られた一枚の依頼書を指差した。
依頼内容は、北東の林道周辺へ現れた《赤牙狼》二体の討伐であり、推奨されているのは三人以上の経験者を含む班だった。
受付を担当していた女性は依頼書とニールを交互に見たあと、首を横へ振った。
「今回は駄目」
「何でです?」
「赤牙狼との戦闘経験がないでしょう」
「小型の灰狼なら何回も倒してます」
「赤牙狼は別よ。体格も違うし、一体が正面から注意を引いている間に、もう一体が側面へ回る」
「知ってます。資料も読みました」
「知識があることと、実際に対応できることは同じじゃない」
「だったら経験者と一緒に入ればいいでしょう」
「その経験者側が新人枠を募集してないの」
ニールは依頼書へもう一度目を向けた。
「誰が行くんです?」
「朝早くにローディ組が受けたわ」
「じゃあ、もう決まってるんですか」
「そういうこと」
受付の女性は隣の掲示板を指した。
「あなたなら、今日はこっちの《畑鼠》駆除か、《角尾鳥》の卵採取がちょうどいいと思う」
どちらもニールが何度も受けたことのある依頼だった。
「またそれですか」
「また、って言えるくらい経験してるなら、失敗しにくいでしょう」
「失敗しない依頼ばっかりやってても、上に行けないじゃないですか」
「難しい依頼を受ければ自動的に上へ行けるわけでもないわよ」
ニールは返事をせず、結局《畑鼠》の駆除依頼を一枚取って受付へ差し出した。
◇
依頼先はレーヴェンから南へ一時間ほど歩いた場所にある、小規模な穀物農園だった。
《畑鼠》は名前の通り畑や穀倉へ入り込む小型魔物で、普通の鼠よりかなり大きいものの、成体でも猫ほどしかない。鋭い前歯を持ち、数が増えると作物へ大きな被害を出す一方、一体ごとの危険度は低く、冒険者になったばかりの者が最初に経験する討伐対象の一つでもあった。
農園へ着くと、依頼主の男が倉庫の裏を指差した。
「朝までに三匹見た。たぶん穴があっちにある」
「分かりました」
「作物傷めないでくれよ」
「大丈夫です」
ニールは短剣を抜き、足跡と糞を確認しながら畑の端を進んだ。
本来なら丁寧に追跡する作業は嫌いではなく、地面へ残った跡から移動方向を読み、穴の数を確かめ、逃げ道を塞いでから追い出すという一連の手順も、今ではほとんど迷わずできる。
しかし、その日は自分がやっていることの一つ一つが妙に小さく感じられ、穴を探しながらも、朝に見た赤牙狼の依頼書が頭から離れなかった。
(赤牙狼なら、今頃もっと緊張してるんだろうな)
そんなことを考えながら最初の穴を見つけ、煙を入れて反対側から出てきた畑鼠を一体仕留めると、二体目もそれほど時間をかけずに見つけることができた。
三体目だけは少し手間取ったものの、昼前には依頼された数をすべて討伐し、被害が広がりそうな巣穴も二つ塞いでいた。
「助かったよ」
依頼主は素直に喜んだ。
「また増えたら頼む」
「はい」
返事をしながらも、ニールの気持ちは晴れなかった。
◇
「肉、持ってくか?」
依頼主が尋ねた。
「畑鼠のですか?」
「ああ。食えるぞ」
「知ってますけど」
「若いのは嫌がるか?」
「そういうわけじゃないです」
畑鼠は食用になる魔物であり、脂は少ないものの、腿や背中には鶏肉に近い淡白な肉がついている。ただし一体が小さいため、解体の手間に対して取れる肉が少なく、市場の商品として高く売れるものではなかった。
「三匹分なら、それなりになる」
「報酬に入ってるんですか」
「毛皮はこっちで使うから、肉は好きにしていい。いらなきゃ犬にやる」
ニールは少し迷った。
赤牙狼なら、牙や皮だけでも立派な討伐証明になり、仲間へ話せるほどの戦利品になる。それに比べれば、畑鼠の肉を持ち帰ったところで誰かに自慢できるようなものではなかった。
「……もらいます」
それでも食べられるものを捨てる必要はないと考え、ニールは三体分の肉を布へ包んだ。
◇
レーヴェンへ戻った頃には昼をかなり過ぎており、ニールはまずギルドへ向かって依頼完了の報告を出した。
「全部終わった?」
朝と同じ受付の女性が尋ねる。
「三体。巣穴も二つ塞ぎました」
「依頼主の確認印もあるわね。お疲れさま」
銅貨の報酬が渡されると、ニールは無意識にその枚数を数え、朝に見ていた赤牙狼討伐の報酬と比べた。金額は四分の一にも届かない。
「赤牙狼の方、戻りました?」
「まだよ」
「そうですか」
「気になる?」
「別に」
ニールがそう答えた直後、ギルドの扉が勢いよく開いた。
入ってきたのは四人組の冒険者で、朝に赤牙狼の依頼を受けたローディ組だったが、先頭の男は肩へ血の染みた布を巻き、後ろにいる若い剣士も足を引きずっていた。
「治療院先に行って!」
受付の女性が声を上げる。
「報告だけ」
「後でいいから」
「一体しか倒せてない。もう一体は北へ逃げた」
「分かった。追跡は別の班に回すから、今は治療院」
四人はそのままギルドを出ていき、ニールは無意識に彼らの背中を目で追っていた。
◇
「入りたかった?」
受付の女性が静かに尋ねた。
「……朝は」
「今は?」
「分かりません」
「怖くなった?」
「そういうんじゃないです」
ニールは少し強い声で答えたものの、実際には怖くなかったわけではない。
赤牙狼へ行っていれば、自分も怪我をしていたかもしれない。それでも、その事実を理由に「行かなくてよかった」と考えてしまえば、自分が最初から逃げていたような気がして、素直に安堵することもできなかった。
「今日は畑鼠三体を問題なく終わらせたんでしょう」
「だから何です」
「何で怒ってるの」
「怒ってません」
「じゃあ、その肉どうするの?」
受付の女性が、ニールの持っている布包みを指した。
「食べます」
「自分で料理できる?」
「焼くくらいなら」
「畑鼠、焼きすぎるとかなり固くなるわよ」
「知ってます」
そう答えたが、本当は以前一度だけ自分で焼き、火を入れすぎてひどく固くしたことがあった。
◇
ギルドを出たあと、ニールは東市場へ向かった。
肉を売ることも一度は考えたものの、畑鼠の肉は市場でも高く買い取られないため、三体分を売って得られる金額を考えると、自分で食べた方がまだ納得できそうだった。
そうして歩いている途中、《赤鉈屋》の前を通りかかると、店先には以前にはなかった小さな籠が置かれていた。
《加工向け・状態説明あり》
ニールが足を止めると、店内から熊獣人のガッシュが声をかけた。
「買うのか」
「見るだけです」
「なら邪魔にならんところで見ろ」
籠には筋の多い鹿肉や、形の揃っていない脂身などが少量ずつ入っていた。
「これ、安いんですね」
「理由があるからな」
「普通に食べられる?」
「食える。だが使い方を間違えると硬かったり、臭かったりする」
「安いから新人向け?」
「腕がなければ高い肉より扱いにくいぞ」
「じゃあ上手い人向けじゃないですか」
「上手いか、失敗して覚える気があるやつ向けだ」
ニールは少し考えた。
「失敗って、していいんですか」
ガッシュが眉を寄せた。
「料理の話か?」
「まあ」
「食えなくなるほど無茶するのは感心せんが、初めてやることなら失敗するだろ」
「肉屋でも?」
「俺が何年肉切ってると思ってる」
「知りません」
「二十年以上だ。その間、一度も切り方間違えてないと思うか」
「思ってました」
「馬鹿か」
ガッシュは鼻を鳴らした。
◇
「それ何だ」
ガッシュが布包みを指した。
「畑鼠です」
「見せろ」
ニールが布を開くと、中には依頼主に教わりながら簡単な下処理まで済ませた肉が入っていた。
「三体か」
「はい」
「自分でやったのか」
「依頼主に教えてもらいながら」
「悪くない」
ガッシュは腿肉を一つ持ち上げ、筋や切り口を確かめた。
「小さいな」
「畑鼠だから」
「当たり前だ」
「やっぱり、大した肉じゃないですよね」
「誰が言った」
「だって小さいし、安いし」
「小さい肉が大した肉じゃないなら、鳥の肝も魚の卵も全部大したことなくなるぞ」
「でも高くないでしょう」
「値段と味は同じじゃない」
ニールは黙った。
「焼くのか」
「たぶん」
「また固くするぞ」
「何で分かるんです?」
「お前、今『たぶん』って言っただろ。調理法を決めてないやつが腹減った状態で帰れば、大体そのまま焼く」
「……じゃあどうすればいいですか」
「俺は料理人じゃない」
「そこまで言って教えてくれないんですか」
「西区へ持ってけ」
「西区?」
「《持ち込み食堂》だ」
◇
ニールはその店の名前を知っていた。
冒険者の間でも、変わった魔物肉や採集品を持ち込めば料理してくれる店として少しずつ知られるようになっており、ライオスたちのような上級冒険者も利用しているという話を聞いたことがある。
「俺みたいなのが行ってもいいんですか」
ニールが尋ねると、ガッシュは露骨に嫌そうな顔をした。
「飯屋へ行くのに等級がいるのか」
「そういう意味じゃなくて」
「肉持ってるなら行け」
「畑鼠ですよ」
「だから何だ」
ガッシュはそう言うと会話を終わらせるように次の肉へ手を伸ばしたため、ニールはしばらく迷ったあと、西区へ向かうことにした。
◇
《持ち込み食堂》
路地へ入った先にある店は、ニールが想像していたよりずっと小さかった。
有名な上級冒険者も来ると聞いていたため、もっと立派な店を想像していたが、外から見る限りでは街にいくつもある普通の食堂とそれほど変わらない。
扉を開けると、ミレイアが声をかけた。
「いらっしゃいませ」
「一人です」
「どうぞ。持ち込みあります?」
「これ」
ニールは布包みを見せた。
「お肉?」
「畑鼠」
「畑鼠って食べられるんですね」
「食べられるよ」
ニールは思わず少し得意になった。
「腿と背中のところが一番取りやすくて、脂は少ないけど、ちゃんと血抜きすれば臭くない」
「詳しいですね」
「今日、自分で獲ったから」
「依頼?」
「うん」
そこで厨房から悠斗が出てきた。
「こんにちは」
「これ、料理できますか」
「見てもいいです?」
「どうぞ」
悠斗が布を開き、中の肉を一つずつ確認した。
「かなり小さい肉ですね」
その言葉を聞いた瞬間、ニールの胸の奥にまた少し引っかかるものが生まれた。
「大したものじゃないですけど」
「そうなんです?」
「畑鼠だから」
「畑鼠って安い?」
「かなり」
「でも食べられるんですよね」
「食べられる」
「じゃあ料理できます」
悠斗は何でもないことのように答えた。
◇
「普段どう食べます?」
「焼くか、串にするか。煮る人もいる」
「ニールさんは?」
「焼いたことある」
「どうでした?」
「固かった」
「じゃあ今日は別の方法にします?」
「できるなら」
悠斗は肉を一つずつ確認しながら、繊維の方向を見た。
「かなり脂少ないですね」
「走り回るから」
「なるほど」
「畑の穴とか走るの速いよ。追いかけるより、出口塞いだ方が楽」
「今日もそうした?」
「煙入れて、反対の穴で待った」
「一人で?」
「一人」
「じゃあ、ちゃんと獲り方を考えて狩ってるじゃないですか」
「畑鼠だけど」
また同じ言葉が出たため、悠斗は肉から視線を上げた。
「畑鼠だと駄目なんです?」
「駄目じゃないけど、冒険者ならもっと大きい魔物倒したいでしょ」
「俺、冒険者じゃないので分からないです」
「男なら分かるでしょう」
「料理人なので、大きい食材が偉いとも思ってないです」
「でも、大きい肉の方がいっぱい取れるじゃないですか」
「それはそうですね」
「ほら」
「量が多いことと、価値が高いことは同じです?」
ニールは答えに詰まった。
◇
悠斗は畑鼠の肉を大きく切らず、火の通りが揃いやすいよう食べやすい細長い形へ整えた。
「何作るんです?」
「脂が少ないので、乾かさないようにしたいんですよね」
根玉葱を薄く切り、黄芋も小さめに切ったうえで、最後に使うための卵を二個用意する。
「卵?」
「最後に使います」
「肉と?」
「合うと思います」
鍋へ少量の油を入れ、畑鼠の肉へ軽く焼き色をつけたところで、完全に火を通す前に一度取り出す。続いて同じ鍋で根玉葱をゆっくり炒めると、やがて柔らかな甘い香りが立ち上がり、そこへ黄芋と少量の水を加えて蓋をした。
「焼かないんだ」
「最初だけ焼きました」
「あれだけで?」
「あとで戻します」
「肉ってずっと火にかけた方が安全じゃないですか」
「安全に食べられるところまでは火を通します。でも、必要以上に長く加熱すると、この肉は固くなりそうなので」
ニールは以前自分が焼いた畑鼠を思い出した。
焦げるほど焼いた結果、噛み切るのに苦労するほど固くなった肉だった。
◇
黄芋へ火が通ったところで、悠斗は畑鼠の肉を鍋へ戻し、少量の塩と穏やかな香草で味を整えた。
最後に溶いた卵を全体へ回し入れ、すぐには混ぜすぎず、半分ほど固まったところで火を弱める。
「《畑鼠と黄芋の卵とじ煮》です」
「見たことない」
「俺もこの肉では初めてです」
「大丈夫?」
「肉にはちゃんと火を通しました」
「そっちじゃなくて、味」
「それは食べてもらわないと分からないですね」
ニールは匙を取り、最初に卵をまとった畑鼠の肉を口へ運んだ。
以前自分で焼いた時とは違い、歯を立てれば無理なく切れ、肉自体は淡白ながら、根玉葱の甘さと卵の柔らかな味が絡んでいる。黄芋と一緒に食べれば腹へもしっかり溜まり、小さな肉の量を補うように一皿全体がまとまっていた。
「……美味い」
「よかった」
「畑鼠なのに」
「その言い方、畑鼠に失礼じゃないです?」
「魔物だよ」
「今食べてますけど」
「まあ、そうだけど」
◇
ニールは二口、三口と食べ進めた。
朝からほとんど何も食べていなかったため、身体が温かい料理を強く求めていたらしく、気づけば最初に思っていたより速い勢いで皿が減っていく。
「今日、畑鼠の依頼だったんです?」
悠斗が尋ねた。
「三体駆除」
「全部一人で?」
「そう」
「何か問題ありました?」
「なかった」
「じゃあ依頼としては成功したんですね」
「依頼としてはね」
「それでも不満?」
ニールは匙を止めた。
「赤牙狼の依頼に入りたかった」
「赤牙狼?」
「狼の魔物。畑鼠よりずっと強い」
「入れなかった?」
「経験ないからって断られた」
「それで畑鼠?」
「うん」
「畑鼠は経験ある?」
「何回も」
「だから一人で問題なく終わらせられたんですね」
「それが嫌なんだよ」
思っていたより強い声が出た。
◇
ミレイアが少し離れた場所からこちらを見たものの、ニールは話を止めなかった。
「俺、もう一年以上冒険者やってるんだ。なのにまだ畑鼠とか薬草とか、そういう新人がやる依頼ばっかりで、後から入ったやつが中型魔物倒したとか聞くと、何やってるんだって思う」
「誰が?」
「俺が」
「依頼は失敗してる?」
「してない」
「じゃあ何で上の依頼に行けないんです?」
「経験がないから」
「経験を積む依頼は?」
「班に入らないと難しい」
「班に入れば?」
「誘われない」
「自分から?」
「何回か聞いた」
「断られた?」
「今の俺じゃ、前衛として中途半端だって」
ニールは少し悔しそうに唇を噛んだ。
◇
彼が使っている武器は短剣だった。
冒険者になった当初は長剣を買う金がなかったため短剣を選んだが、狭い場所では扱いやすく、採取作業にも便利だったため、そのまま使い続けている。
しかし中型以上の魔物を相手にする前衛としては間合いが短く、防具も革鎧しか持っていない。
「じゃあ装備を変えればいい?」
悠斗が尋ねる。
「長剣買う金がない」
「貯めてる?」
「一応」
「どれくらい足りない?」
「まだ半分くらい」
「じゃあ時間かかりますね」
「だから焦ってるんだよ。上の依頼なら報酬も上がるから」
「でも今の装備だと危ない?」
「そう言われる」
「上の依頼へ行くための装備を買いたいのに、装備を買うためには上の依頼へ行きたいんですね」
「そうなんだよ」
ようやく分かってもらえた気がして、ニールは強く頷いた。
◇
「今日の赤牙狼の人たち、どうなったんです?」
悠斗が尋ねた。
「一体倒して、二人怪我した」
「結構危ないんですね」
「俺がいたら違ったかもしれない」
口にした直後、自分でも少し無理があると分かった。
悠斗は否定も肯定もせず、少し考えるように問い返した。
「どう違ったと思います?」
「人数増えるし」
「何をする?」
「……横から攻撃するとか」
「それ、その人たちに必要だった役割?」
「知らない」
「じゃあ、ニールさんが入りたいことと、向こうが必要としてる人は別かもしれないですね」
「それは分かってるよ」
「分かってても焦る?」
「焦る」
ニールは匙を皿へ置いた。
◇
「俺、前に料理人として働いてたところでも、新人の時に魚ばっかり洗ってたことあります」
悠斗が言った。
「魚?」
「魚です」
「料理しないの?」
「最初は下処理ばっかりでした」
「どれくらい?」
「かなり長く感じるくらい」
「嫌じゃなかった?」
「嫌でしたよ」
悠斗は苦笑した。
「隣で先輩が包丁使ってるのに、自分は洗う、拭く、片づける、それが終わったらまた洗う、みたいな日が続いてました」
「それで?」
「早く料理したくて、一回勝手に仕込みへ手を出したことがあります」
「怒られた?」
「かなり」
「失敗した?」
「切る厚さを全部揃えられなくて、火の通りがばらばらになりました」
「料理でもそういうのあるんだ」
「あります」
悠斗はニールの皿を指した。
「今日の肉も、厚さが全部ばらばらだったら、同じ時間で火を入れにくかったと思います」
「じゃあ練習が必要だった?」
「必要でした。ただ、洗い物だけしてれば勝手に包丁が上手くなるわけでもないので、途中から先輩に練習させてもらいました」
「それ、どうやって?」
「頼みました」
「何て?」
「仕事が終わったあとでいいから、切る練習をさせてくださいって」
◇
「俺も頼んでる」
ニールが言った。
「上の依頼に入れてくれって?」
「そう」
「練習を頼んだことは?」
「何の?」
「赤牙狼なら、必要な動きとか」
「資料は読んでる」
「実際にできるか見てもらった?」
ニールは黙った。
「ギルドに訓練ってないんですか」
「あるけど、金かかる」
「依頼一回分より高い?」
「いや、畑鼠二回分くらい」
「なら受けられる?」
「受けられるけど、その金を装備に回したい」
「なるほど」
ニールは再び皿へ目を落とした。
長剣を買うために金を貯め、そのために訓練を避け、訓練不足だから上の依頼へ入りにくいという流れを口に出して並べてみると、どこかがおかしい気がした。
◇
「全部を一気に上げようとしてるんじゃないですか」
悠斗が言った。
「何が?」
「依頼の難しさも、報酬も、装備も、戦える相手も」
「上に行くなら必要だろ」
「全部同じ日に必要?」
「それは……」
「今日の料理も、最初から全部鍋に入れたわけじゃないです」
「料理の話にする?」
「無理に例えなくてもいいですけど」
「じゃあしないで」
「分かりました」
悠斗があっさり引いたため、ニールは少し笑った。
◇
「じゃあ一つだけ増やすなら、今一番欲しいのは何です?」
悠斗が尋ねた。
「長剣」
「それは道具?」
「うん」
「その長剣を買ったら、赤牙狼に入れる?」
「……分からない」
「じゃあ本当に欲しいのは剣じゃなくて、その依頼に入っても大丈夫だと思ってもらえるだけの信用じゃないですか」
ニールは今度こそ言葉を止めた。
自分が欲しいと思っていたものを、別の言葉で言われたような気がした。
「たぶん」
「なら、それを増やす方法を聞いた方が早いかもしれないですね」
「誰に」
「ギルドの人とか、前に断った班とか」
「何て聞くんだよ」
「何が足りないですかって」
ニールは顔をしかめた。
「それ、格好悪くない?」
「俺なら知らない食材を客に聞きますよ」
「料理人と冒険者は違う」
「そこは違います。でも、知らないことを聞かずに分かったふりをすると困るのは同じじゃないですか」
◇
その時、店の扉が開き、入ってきたガッシュがニールを見て足を止めた。
「まだいるのか」
「今食べてます」
「見れば分かる」
「ガッシュさんも食べに来たんですか」
「肉を届けに来ただけだ」
ガッシュは小さな包みを悠斗へ渡した。
「頼まれてた山角鹿の脂」
「ありがとうございます」
「次の分は来週だ」
「分かりました」
ガッシュは帰ろうとしたものの、ニールの皿へ目を向けた。
「畑鼠か」
「そうです」
「どうだった」
「美味い」
「ならよかったな」
「ガッシュさん」
「何だ」
「俺、何ができたら中型魔物の班に入れてもらえると思います?」
自分でも驚くほど突然、その質問が口から出た。
◇
ガッシュはニールをしばらく見た。
「俺は冒険者じゃない」
「知ってます」
「ならギルドで聞け」
「ですよね」
ニールが肩を落としかけたところで、ガッシュは少し間を置いてから続けた。
「ただ、肉持ってくる冒険者を二十年以上見てるが、長く来るやつほど、でかい獲物の話ばっかりはしない」
「何の話するんです?」
「今日は血抜き遅れたとか、刃を一本欠いたとか、荷車が足りなかったとか、そういう話だ」
「地味ですね」
「仕事ってそういうもんだろ」
「でも強い人でしょう?」
「強いから細かいところまで見るんじゃないのか」
それだけ言うと、ガッシュは今度こそ店を出ていった。
◇
ニールは残っていた料理を最後まで食べた。
三体分あった畑鼠の肉のうち、悠斗が使ったのは半分ほどだったため、残りはもう一度包み直して持ち帰ることにした。
「同じ料理にするなら作り方書きますけど」
「自分でできるかな」
「難しくないです。肉を焼きすぎないことだけ気をつければ」
「じゃあ書いて」
悠斗は簡単な手順を紙へ書いた。
「料理代はいくら?」
金額を聞いたニールは、今日受け取った報酬から必要な分を支払い、残った銅貨を掌の上で数えた。
「訓練って、これの二倍くらいなんだよな」
「何の?」
「ギルドの」
「受ける?」
「まだ決めてない」
そう答えたものの、店を出る頃には、朝までとは少し違う計算を頭の中で始めていた。
◇
翌朝、ニールは冒険者ギルドへ行ったが、掲示板を見るより先に受付へ向かった。
「昨日の赤牙狼、どうなりました?」
「別の班が追跡して、今朝一体倒したわ」
「怪我した人たちは?」
「大きな怪我ではないみたい。数日は休むそうよ」
「そうですか」
ニールは少し迷ったあと、受付の女性を見た。
「聞きたいことがあります」
「何?」
「俺、何ができたら赤牙狼みたいな依頼に入れます?」
受付の女性はすぐには答えず、しばらく彼の顔を見た。
「昨日までと聞き方変わったわね」
「駄目ですか」
「いいえ」
彼女は記録板を取り出した。
◇
「まず、あなたは討伐経験が少ないわけじゃない」
「畑鼠とか灰狼ですよね」
「それも経験よ。ただ、中型以上の相手になると、班の中でどう動くかの評価が足りない」
「一人の依頼が多いから?」
「そう」
「じゃあ班でやればいい?」
「誰でもいいわけじゃない。初心者向けの合同討伐訓練があるでしょう」
「金かかるやつ」
「そうね」
「受ければ変わります?」
「一回で許可が出るとは言えないけど、少なくとも他人と組んだ時の動きを見てもらえる」
「武器は短剣のままでも?」
「そこも見てもらえばいい。あなたが本当に長剣へ変えるべきなのか、それとも短剣を活かせる役割を覚えるべきなのか、今の私は決められない」
「前衛になりたいんです」
「どうして?」
ニールは答えようとして、すぐには言葉が出なかった。
「冒険者っぽいから?」
受付の女性が先に尋ねた。
「……少し」
「なら、一回そこも考えてみたら」
◇
その日のニールは、掲示板から薬草採取の依頼を取った。
以前なら「また採取か」と思っただろうが、今回は報酬欄を確認し、合同訓練の費用まであといくら必要なのかを頭の中で計算してから選んだ。
午後には指定量を集めて戻り、報酬を受け取る。
その金を、長剣購入用に貯めていた袋へそのまま入れることはせず、別の小袋を取り出した。
「何それ」
受付の女性が尋ねた。
「訓練代」
「剣は?」
「あとで考える」
「随分変わったわね」
「まだ剣欲しいですけど」
「それならいいんじゃない」
◇
三日後、ニールは初心者向けの合同討伐訓練へ参加した。
相手は本物の魔物ではなく、木製の可動標的と、教官役の冒険者であり、参加者はニールを含めて六人いた。
訓練開始の合図が出ると、ニールは当然のように前へ出ようとした。
「アッシュ、止まれ」
教官が言う。
「何です?」
「お前、何でそこにいる」
「前衛だから」
「誰が決めた」
「短剣ですけど、戦えます」
「そうじゃない。班で役割決めたか?」
ニールは他の参加者を見た。
誰も決めていなかった。
「まず話せ。戦うのはそれからだ」
最初の訓練は、標的へ一度も攻撃する前に止められた。
◇
そこでニールは、自分が想像していたより多くのことを知らないと気づいた。
盾役がいる時の立ち位置や、魔術師の射線へ入らない動き方、斥候が見つけた敵へ勝手に近づかないこと、誰かが転んだ時に全員で助けへ行かず、敵を押さえる者と救助する者を分けることなど、一人の依頼では必要にならなかった判断が次々に出てくる。
「お前、足は速いな」
訓練後、教官が言った。
「畑鼠追ってるんで」
「追うのか?」
「出口塞ぐ方が多いですけど」
「地面の跡は見られる?」
「少しなら」
「なら斥候寄りの動きも練習してみろ」
「斥候?」
「短剣とも相性悪くない」
「俺、前衛になりたいんですけど」
「やってみてから決めろ」
ニールは複雑な顔をしたものの、その場で断ることはしなかった。
◇
それから二週間、ニールは以前と同じような依頼を続けながら、週に一度だけ合同訓練へ参加した。
畑鼠の駆除も受ければ、薬草も採り、荷物護衛にも入ったが、以前とは違い、それぞれの依頼で自分が何を練習できるのかを考えるようになった。
畑鼠の駆除では足跡を読む練習をし、護衛では荷車から離れすぎない位置を覚え、採取では時間配分を確認しながら、帰路へ必要な余力を残しておく。
地味な仕事が急に立派な仕事へ変わったわけではなかったものの、少なくとも「上へ行くまで何もできない待ち時間」ではなくなっていた。
◇
三週間後、受付の女性から声をかけられた。
「ニール」
「何です?」
「明日、灰爪犬の討伐訓練を兼ねた依頼があるけど、入る?」
ニールの顔が上がった。
「本物?」
「本物。二体確認されてる。経験者二人と新人二人の四人班」
「入ります」
「まだ説明終わってない」
「聞きます」
「赤牙狼ほど強くはないけど、畑鼠よりはずっと危険。勝手に追わないこと、経験者の指示を聞くこと、危険なら撤退することが条件」
「分かりました」
「あと、あなたは前衛じゃなく、側面確認と追跡補助」
ニールは一瞬だけ黙った。
「短剣だから?」
「訓練記録を見る限り、そっちの評価が高いから」
「……分かりました」
以前なら、その役割を聞いた時点で不満を顔に出していたかもしれない。今でも完全に納得したわけではなく、前衛として戦いたい気持ちは残っていたが、それでもせっかく得た機会を断る理由にはならなかった。
◇
翌日の依頼では、ニールが魔物へ最後の一撃を入れることはなかった。
林の中に残された灰爪犬の足跡を見つけ、移動方向を読み、別の新人が前へ出すぎた時には袖を引いて止めた。
一体目は経験者の剣士が倒し、二体目は盾役が動きを止めたところへ、もう一人の新人が槍を入れて仕留める。
「討伐完了」
経験者が言った。
ニールは少しだけ悔しかった。
自分も攻撃したかったし、できることなら最後の一撃を入れてみたかった。
しかし帰る途中、先頭を歩いていた経験者が振り返った。
「アッシュ、二体目の回り込みよく見つけたな」
「畑鼠の穴探すのに似てたんで」
「畑鼠?」
「逃げ道探す時、地面見るから」
「なるほどな。あれ気づかなかったら、槍の方が横から噛まれてた」
ニールはすぐには返事をしなかった。
胸の奥に生まれた嬉しさを、そのまま喜んでいいのかまだ分からなかったからである。
◇
レーヴェンへ戻ると、依頼は正式に成功として記録された。
討伐証明として提出された灰爪犬の牙を見ても、自分が倒したものではないことに変わりはなかったが、今回はその事実を隠したいとは思わなかった。
「俺は一体も倒してないです」
報告の時、ニールが自分から言った。
受付の女性は記録を書きながら答えた。
「知ってるわよ」
「でも依頼成功?」
「班で成功したからね」
「俺の評価は?」
「追跡補助と側面警戒、どちらも問題なし。指示違反もなし」
「それだけ?」
「不満?」
ニールは少し考えた。
「前なら不満でした」
「今は?」
「もう一回やりたい」
受付の女性は笑った。
「それなら十分」
◇
その日の夕方、ニールは《持ち込み食堂》へ向かった。
持ってきたのは大きな牙でも、珍しい魔物肉でもなく、朝の出発前に市場で買っておいた小さな畑鼠の肉だった。
「また畑鼠?」
ミレイアが笑う。
「今日は買ったやつ」
「何でわざわざ?」
「前の料理、もう一回食いたくて」
悠斗が厨房から出てきた。
「依頼帰り?」
「うん」
「どうでした?」
「成功」
「何倒したんです?」
「灰爪犬」
「ニールさんが?」
ニールは少しだけ笑った。
「俺は倒してない。足跡を見つけて、横から来るやつを先に見つけただけ」
「それ、必要だった?」
「たぶん。気づかなかったら仲間が噛まれてたって言われた」
「じゃあちゃんと仕事してきたんですね」
「そうみたい」
ニールは布包みを卓へ置いた。
「今日は畑鼠、前と同じやつにして」
「分かりました」
◇
料理ができるまでの間、ニールは次に必要な装備について考えていた。
長剣を買うことは、まだ諦めていない。
ただし今すぐ買う必要があるのか、それとも短剣と軽い防具のまま斥候寄りの技術を伸ばした方が、自分の強みを早く作れるのかについては、次の訓練で教官へ聞いてみるつもりだった。
分からないことを尋ねるのは、以前ほど格好悪いとは思わなくなっている。
やがて《畑鼠と黄芋の卵とじ煮》が運ばれてくると、ニールは最初の時より迷いなく匙を取り、柔らかく煮えた小さな肉を黄芋と一緒に口へ運んだ。
今日は大きな魔物を倒した日ではなく、誰かに見せられる立派な戦利品も持っていない。それでも、自分が見つけた足跡と、自分が出した警告が班の役に立ったという事実まで、小さな仕事だからという理由だけで自分から切り捨てる必要はなかった。
食事を終えたあと、ニールは翌週の訓練代として残しておく銅貨を先に小袋へ分け、残った金だけを普段使いの財布へ戻すと、次に大きな依頼へ入れる日を急いで数えるのではなく、その日までに自分が増やせる経験を一つずつ積み重ねるつもりで、店を出ていった。
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