第23話 冷えない茸と、失敗を隠す魔術師
エルド・ファランは、知らないと言うことよりも、知っているふりをして間違えることの方が恥ずかしいと、頭では分かっていた。
百四十三歳になる彼は、レーヴェンを拠点に活動するエルフの魔術師であり、ライオス・ベルグ、ミア・レイン、ロッカと組んで多くの討伐や護衛依頼をこなしている。火、氷、風の三系統を扱える器用な術者であり、とりわけ戦闘中に複数の術式を切り替える速さには定評があったため、仲間からだけでなく、ギルドの若い魔術師たちから質問を受けることも少なくなかった。
長く生きている分だけ見てきた魔物も多く、古い術式の癖や魔力石の扱い、旅先で使われる簡易結界についても詳しかったからこそ、何かを尋ねられた時に「分からない」と答えることが、いつの間にか以前より難しくなっていた。
◇
「エルドさん、これって本当に冷気茸ですか?」
午後の冒険者ギルドで、若い魔術師が小さな木箱を持ってきた。
箱の中には、白い傘へ薄い青筋の入った茸が六本ほど並んでおり、見た目だけなら《冷気茸》によく似ている。冷気茸は湿った洞窟や地下水脈の近くに生え、周囲の熱をわずかに奪う性質を持つ茸で、食用にもなるものの、最大の用途は薬品や食品の保冷にあった。
乾燥させたものを布袋へ入れておくだけでも、普通の水より低い温度を長く維持できるため、旅商人や治療師から一定の需要がある。
エルドは箱へ顔を近づけた。
「どこで採った?」
「北東の湿地です。洞窟の入口近くで」
「匂いは?」
「少し甘いです」
若い魔術師が答えると、エルドは一本を手に取り、指先へ弱い魔力を流した。
冷気茸なら、魔力を近づけると内部の水分が反応し、ごく弱い冷たさが返ってくるはずだったが、手の中の茸から返ってきたのは冷気というより、わずかな湿気を帯びた魔力の揺らぎだった。
「似てるな」
「やっぱり冷気茸ですか?」
若い魔術師の声には、隠しきれない期待が混じっていた。
北東湿地で冷気茸が見つかったとなれば、新しい採集地としてかなりの価値がある。エルドは傘の青筋や白い柄、湿った場所に生える特徴まで順番に確かめたが、どれも既知の冷気茸と大きく外れてはいなかった。
「たぶん冷気茸だ。ただ、少し若い個体かもしれんから、冷却力が弱い可能性はある」
「じゃあ育てれば強くなります?」
「そこまでは分からんが、可能性はある」
「ギルドへ報告してきます!」
若い魔術師は嬉しそうに木箱を抱え、そのまま受付の方へ走っていった。
エルドは呼び止めなかったし、その時点では自分の判断が大きく間違っているとも思っていなかった。
◇
翌朝、エルドがギルドへ入ると、昨日の若い魔術師が受付前で困った顔をしていた。
「どうした」
「あ、エルドさん」
「冷気茸の件か?」
「はい。昨日、一本を保冷袋へ入れて試したんですけど、全然冷えなくて」
「量が少なかったんじゃないか」
「三本入れても駄目でした」
エルドは眉を寄せた。
「乾燥させたか?」
「しました」
「時間は?」
「半日です」
「冷気茸ならそれで十分だな」
「ですよね」
若い魔術師は箱を開け、中に残っていた三本の茸を見せた。
「受付の人から、採集地報告を一旦保留にしろって言われました」
「当然だ」
「これ、本当に冷気茸なんでしょうか」
その問いを聞いたエルドは、今度はすぐに答えず、箱の中の茸をじっと見た。
「外見はかなり似ている。ただ、別種の可能性も考えた方がいい」
「昨日は、たぶん冷気茸だって」
「ああ」
「俺、もう仲間にも新しい採集地見つけたって言っちゃいました」
若い魔術師の声には責める響きよりも困惑の方が強く、それがかえってエルドには居心地悪く感じられた。
「調べ直す」
「お願いします」
◇
ギルドの資料室には、周辺地域で確認された茸類の記録がまとめられていた。
エルドは冷気茸の項目から外見の似た種を順番に調べ、《霜傘茸》は傘へ白い粉を吹くため違い、《青脈茸》は柄が灰色になるため一致せず、《湿晶茸》は魔力へ反応するものの、傘の形が細長いため候補から外した。
一時間ほど記録を調べても完全に一致するものは見つからず、資料台へ肘をついたところで、隣で古い記録を整理していた年配の職員が顔を上げた。
「珍しいな」
「何が」
「お前が茸一つでそんな顔してるの」
「似た種類が多いんだ」
「知らない茸?」
「まだ分からん」
「なら未同定で出せばいいだろ」
職員は簡単に言った。
「それじゃ昨日の報告と食い違う」
「昨日の報告が間違ってたなら直せばいい。訂正欄もそのためにあるんだろ」
「簡単に言うな」
「書類としては簡単だぞ」
エルドは返事をせず、開いていた記録へもう一度視線を戻した。
◇
昼前になると、ライオスたちがギルドへ集まった。
その日は依頼を入れておらず、装備の点検と次の護衛依頼について相談する予定だったため、資料室から出てきたエルドを見ると、ライオスがすぐ声をかけた。
「何やってるんだ?」
「茸を調べてる」
「依頼?」
「違う」
ロッカが木箱を覗き込んだ。
「食えるの?」
「たぶん」
「たぶん?」
「既知の毒性の報告はない」
「じゃあ何茸?」
エルドは少し間を置いた。
「冷気茸に似てる」
「似てるだけ?」
ミアが尋ねる。
「昨日は冷気茸だと思った」
「今日は?」
「分からん」
その返答を聞いた三人が一瞬だけ黙り、最初にライオスがわずかに口元を上げた。
「珍しいな」
「何が」
「お前が素直に分からんって言った」
「お前までそれを言うのか」
「別に悪い意味じゃない」
ロッカは茸へ顔を近づけ、鼻を動かした。
「甘いな」
「触るなよ」
「食えるんだろ?」
「まだ食べるな」
「さっき毒性報告ないって言ったじゃん」
「既知の毒が報告されていないだけで、未確認のものを勝手に食う理由にはならん」
「分かったよ」
◇
午後になっても種類は判明しなかったため、エルドは名前を探すだけではなく、茸そのものの性質を調べることにした。
まず冷気茸と同じように乾燥させてから魔力を与え、温度変化を確認したものの、冷却と呼べるほどの反応は現れない。次に水へ浸すと青筋の色が少し濃くなり、火へ近づけると、傘の表面から甘い香りが強く立ち上がった。
その時点で、エルドは冷気茸とは別種である可能性がかなり高いと判断した。冷気茸は熱を加えると独特の青臭さが出るが、この茸はむしろ焼いた木の実に近い香りを出しているからである。
そこへ昨日の若い魔術師が戻ってきた。
「何か分かりました?」
「少なくとも、冷気茸ではないと考えた方がいい」
「やっぱり」
「昨日の判断は間違いだった。確認が足りなかった、すまん」
口にした瞬間、エルドは思っていた以上に強い居心地の悪さを覚えたが、若い魔術師は責めるような顔をしなかった。
「何で謝るんです?」
「俺が冷気茸だと言ったから、お前は報告したんだろ」
「でも俺もそう思って持ってきたし」
「確信がない段階で名前を出したのは俺だ」
「じゃあ一緒に間違えたってことでいいんじゃないですか」
「軽いな」
「だって、まだ誰も困ってないでしょう」
「新しい採集地だと報告した」
「もう訂正しました」
「仲間にも言ったんだろ」
「言いましたけど、違ったって言えば終わりです」
若い魔術師はそこで少し笑った。
「それより、これ何なのか知りたいです」
エルドはその言葉を聞き、しばらく何も答えなかった。
◇
茸を食材として調べるなら料理人に見てもらう方法もあったが、未同定の茸をいきなり食べさせるわけにはいかない。
そこでエルドはギルドの薬師へ持ち込み、既知の茸毒や麻痺毒、幻覚性の成分について先に調べてもらった。検査では危険な反応は見つからなかったものの、記録のない種である以上、それだけで安全を断定することはできない。
「火を通した少量試験ならどうだ?」
エルドが尋ねると、薬師は少し考えてから答えた。
「自己責任なら止めはしないが、最初は食べずに加熱反応を見るところまでにしておけ。安全確認を急ぐ理由もないだろ」
「分かった」
その日の夕方、エルドは茸を数本だけ木箱へ入れ、《持ち込み食堂》へ向かった。
◇
「今日は一人なんですね」
ミレイアが言った。
「毎回四人で来るわけじゃない」
「何か持ってます?」
「茸」
「また茸?」
「またって何だ」
「前にセレナさんが苦い茸持ってきたので」
「ああ、銀星茸か」
「知ってるんですか?」
「薬師なら使うだろ」
厨房から悠斗が出てくる。
「こんばんは」
「相談がある」
「食材です?」
「たぶん」
「たぶん?」
エルドは木箱を卓へ置いた。
「名前が分からんうえに、安全性も完全には確認できていない」
悠斗は箱を開いたものの、すぐには中身へ触れなかった。
「食べられるかも分からない?」
「既知の毒反応は出ていない。ただし未同定だ」
「なら今日は食べない方がいいですね」
「俺もそのつもりだ」
「じゃあ何を見ます?」
「加熱した時の変化を見たい」
「それならできます」
悠斗は茸を一本だけ取り出し、傘と柄を切り分けた。
「匂いは甘いですね」
「火を入れると強くなる」
「冷気茸に似てる?」
エルドが顔を上げた。
「知ってるのか」
「名前だけです。市場で見たことがあります」
「これは違う」
「最初はそう思った?」
「……そうだ」
悠斗はそれ以上聞かず、まず薄く切った一片を鉄鍋へ入れて乾煎りした。
◇
火へかけると茸の表面からすぐに水分が出始め、その量は普通の茸と比べてもかなり多かった。
「かなり水持ってますね」
「冷気茸も水分は多い」
「でも冷たくならない?」
「ならない」
少し焼き色がつくと甘い香りがさらに強くなり、悠斗は鼻を近づけてから首を傾けた。
「栗みたいな匂いですね」
「クリ?」
「俺の故郷にあった木の実です」
「また遠い故郷の食べ物か」
「そうです」
「お前の故郷、何でもあるな」
「そうでもないですけどね」
悠斗は焼いた茸を皿へ取り出したが、安全確認が済んでいないため口には入れず、今度は別の一片を小鍋で茹でてみることにした。
湯へ入れると青筋の色が薄くなり、湯にはわずかに黄色い色が移る。香りも焼いた時ほど残らず、箸で押した感触を比べると、焼いた方には弾力が残る一方、茹でた方はかなり柔らかくなっていた。
「もし食べられるなら、焼く方が向いてそうですね」
「俺もそう思う」
「でも、そこは安全性が分かってからですね」
「ああ」
◇
悠斗は加熱した茸を別皿へ避けながら、エルドを見た。
「何か急いでます?」
「何で」
「種類を早く決めたそうに見えるので」
「分からないまま放置するのが嫌なだけだ」
「研究者みたいですね」
「魔術師だ」
「でも調べるのは好きなんでしょう」
「必要だから調べてる」
「最初に何だと思ったんです?」
「冷気茸」
「違った?」
「違った」
「誰かにそう言った?」
「……言った」
悠斗は少し考えたあと、焼いた茸へ目を向けた。
「それで、間違えたままにしたくなくて、早く別の正しい名前を出したいんですか」
エルドはすぐには返事をしなかった。
◇
「間違えたままにしたくないのは分かります」
悠斗は使い終えた小鍋を洗いながら言った。
「でも、正解がまだ見つかってないなら、今は『分からない』が一番正しいんじゃないですか」
「簡単に言うな」
「俺、この店で何度も言ってますよ」
「何を」
「分からないって」
「お前はこの世界の食材を知らないからだろ」
「そうですよ」
「それと俺は違う」
「どこが?」
「俺は百年以上生きてる」
「それなら、知らないものを見る機会も百年以上分増えてそうですけど」
エルドは思わず顔を上げた。
「どういう理屈だ」
「長く生きたら、世界中のものを全部知れるわけじゃないでしょう」
「当たり前だ」
「じゃあ知らない茸があっても、別におかしくないですよね」
「……」
「俺なんて、知らない食材が出るたび客に教えてもらってます」
「それで料理人を名乗れるのか」
「知ったふりをして危ないものを食べさせるよりは、分からないと言った方がまだ料理人としてましだと思ってます」
その言葉は、エルドが予想していたより真っ直ぐ胸へ入ってきた。
◇
「昔、一度ひどく間違えたことがある」
エルドはしばらく黙ったあと、そう言った。
まだ七十歳にもなっていなかった頃、彼は故郷近くの小さな森で魔術師として働いていた。若いながらも知識があり、集落では魔力異常や植物の変化を調べる役目を任されていた。
ある年、森の一角で木々が急に枯れ始めた。
エルドは原因を土中の火属性魔力が増えたためだと判断し、水属性の術式で地面を冷やした。
「違ったんです?」
「ああ」
実際の原因は、地下へ入り込んだ寄生性の魔力虫だった。地面を冷やしたことで虫の動きは一時的に鈍ったものの、湿気が増えた結果、別の場所へ広がりやすくなり、被害は当初より大きくなった。
「森、どうなったんです?」
「全部じゃないが、かなり枯れた」
「エルドさん一人のせい?」
「俺が判断した」
「他の人は?」
「長老たちは俺の説明を聞いて許可した」
「じゃあ一人だけの判断ではないですよね」
「でも原因を決めつけたのは俺だ」
その時、年上の魔術師から「分からないなら分からないと言え」と強く叱られたことを、エルドは今でも覚えていた。
「それなら今回、最初から分からないって言えた方がよかったんじゃないですか」
悠斗が言う。
「そうなんだがな」
「難しい?」
「年を取るほど、難しくなった」
「何で?」
「昔は、俺が知らなくても誰も驚かなかった。今は聞かれる側だ」
若い魔術師たちから頼られ、知らないことまで知っていると思われるようになると、質問へ答えられないだけで相手の期待を裏切ったような気がする。
「それで昨日、冷気茸だって言った?」
「似ていたし、可能性は高いと思った」
「でも確信はなかった?」
「……なかった」
エルドは自分でそこまで言ってから、少し苦い顔をした。
◇
「じゃあ、今日はこの茸を使った料理はなしですね」
悠斗が言った。
「急に話を切るな」
「安全確認できてないので」
「分かってる」
「代わりに普通の夕食作ります?」
「茸を持ってきた意味がないだろ」
「調理反応は見られましたよ。かなり水が出ることと、焼くと甘い香りが強くなること、それに茹でると香りが抜けやすいことも分かりました」
「分類には足りない」
「でも情報は増えたでしょう」
エルドは焼いた茸の欠片へ視線を落とした。
「食べられるなら、料理には使えそうだな」
「安全が分かったら試します」
「その時は俺が持ってくる」
「お願いします」
◇
その日は結局、店にある普通の鳥肉と根菜を使った炒め物を食べることになった。
茸を持ち込んだのに料理へ使わないまま終わることへ、最初のうちは少し不満を感じていたものの、食事が進むにつれてエルド自身もそこまで気にしなくなっていた。
「ところで」
ミレイアが水を足しながら言う。
「何だ」
「エルドさんって、百四十三歳なんですよね」
「そうだが」
「それでも知らないことあるんですね」
「喧嘩売ってるのか」
「違います。百年以上生きたら、だいたい何でも知ってると思ってました」
「そんなわけあるか」
「じゃあ私が百歳になっても、分からないことある?」
「世界の広さが今と同じなら、むしろ今より増えてるかもしれんぞ」
「ええ」
「新しいものが見つかるたび、知らないことも増えるからな」
そこまで言ってから、エルドは自分でも少し可笑しくなり、わずかに笑った。
◇
翌朝、エルドはギルドへ行くと、受付へ昨日の採集地報告を訂正する書類を出した。
《北東湿地・冷気茸採集地》
そう書かれていた欄へ線を引き、その下へ《未同定茸・冷気茸類似種》と書き直す。
「正式名称は?」
受付の職員が尋ねる。
「まだ分からん」
「仮名つける?」
「不要だ」
「調査中でいい?」
「そうしてくれ」
昨日の若い魔術師も近くにいた。
「分からなかったんですか?」
「ああ。だからもう一度、採集地から調べ直す」
「俺も行っていいですか」
「お前が見つけたんだから当然だ」
若い魔術師は嬉しそうに頷いた。
◇
二日後、エルドは若い魔術師とロッカを連れ、北東湿地へ向かった。
今回は戦闘ではなく採集調査が目的だったため、ロッカには周囲の警戒と地形確認を頼み、茸が見つかったという浅い洞窟の入口を詳しく調べることにした。
「ここです」
若い魔術師が指差した先には、湿った岩壁に沿うように同じ茸が群生していた。
エルドはすぐ採らず、周囲の状態から確認した。
「日が当たらないな」
「冷気茸と同じですね」
「水は?」
「壁から少し染みてます」
ロッカが地面へ鼻を近づけた。
「この辺、甘い匂い強いな」
「茸から?」
「それだけじゃない気がする」
周囲を調べると洞窟の奥に小型獣の糞があり、その中にも同じ茸の欠片が混ざっていた。
「食ってるのか」
エルドが呟く。
「じゃあ安全?」
若い魔術師が尋ねる。
「動物が食うから人間も安全とは限らん。ただ、少なくともこの辺の小型獣が食べているという情報にはなる」
「じゃあ記録します」
「ああ」
エルドも同じ内容を記録板へ書き込んだ。
◇
さらに洞窟の奥へ進むと、茸の生えている場所の近くに、薄い青色の苔が広がっているのが見つかった。
エルドがその苔へ魔力を流すと、今度は指先へ明確な冷気が返ってきた。
「冷たいのはこっちか」
「何がです?」
「茸じゃなく、この苔が周囲の熱を奪ってる」
茸は冷気を発しているのではなく、低温環境へ適応して生えているだけなのかもしれない。
「だから見た目が冷気茸に似たんですかね」
「その可能性はある」
「まだ可能性?」
若い魔術師が笑う。
「ああ。今度は一つ見つけたくらいで決めつけない」
「エルドさん変わりましたね」
「二日前の話だぞ」
「でも前なら、今ので決定って言いそう」
エルドは少し嫌そうな顔をした。
「否定できん」
◇
採取した茸と苔を別々に持ち帰り、ギルドの薬師へ再度調査を依頼した。
数日かけて確認した結果、茸からは危険な毒性が見つからず、加熱したごく少量での試験でも問題は起きなかった。さらに古い植物記録を調べ直したところ、似た特徴を持つ茸について百年以上前に書かれた短い記述も見つかった。
《温甘茸。冷涼な岩場に生え、加熱すると甘い香りを発する。食用可》
記録はそれだけであり、絵も詳しい形態の説明も残されていない。
「名前あったんですね」
若い魔術師が言う。
「似たものについての名前はあった、という方が正しいな」
「じゃあこれで確定?」
エルドは古い記録と実物を見比べた。
「特徴はかなり一致するが、同一種だと断定するには記録が少なすぎる」
「じゃあ何て出すんです?」
「当面は《温甘茸候補》で記録する」
「慎重ですね」
「悪いか」
「いいと思います」
◇
安全性の確認が取れた日の夕方、エルドは温甘茸候補を持って《持ち込み食堂》を訪れた。
「結果出ました?」
悠斗が尋ねる。
「食用としては問題ないと判断された」
「名前は?」
「温甘茸の可能性が高い。ただし正式にはまだ候補扱いだ」
「じゃあ今日は料理できますね」
「ああ」
ミレイアが箱を覗く。
「これが冷えない冷気茸?」
「その呼び方やめろ」
「分かりやすいですよ」
「温甘茸候補だ」
「長い」
「我慢しろ」
◇
悠斗は前回の試験結果を思い出しながら、茸を厚めに切った。
「水がかなり出るので、最初に強めの火で表面を焼いてみます」
「前は乾煎りだったな」
「今日は油を少しだけ使います」
鉄鍋へ薄く油を引き、温甘茸を並べると、すぐに水分が出始めた。悠斗はそこで慌てて触らず、片面へ焼き色がつくまで待つ。
やがて、前回よりはっきりと甘い香りが立ち上がった。
「やっぱり木の実みたいですね」
「冷気茸とは全然違う」
「今ならそう言えます?」
「ああ。少なくとも、俺が知っている冷気茸とは性質が違う」
茸を一度取り出し、同じ鍋へ根玉葱と細切りの塩漬け肉を入れ、根玉葱が透き通ったところで温甘茸を戻した。
そこへ少量の乳と乳酪を加える。
「重くならないか?」
「茸自体がかなり水っぽいので、少し濃さを足したいです」
最後に黒胡椒に似た香辛料をほんの少しだけ振り、全体を短く合わせた。
「《温甘茸と塩漬け肉の乳酪炒め》です」
◇
エルドが一口食べると、最初に乳酪と塩漬け肉の強い旨味が広がり、そのあとから温甘茸の柔らかな甘さと、焼いた木の実を思わせる香りが追いかけてきた。食感は冷気茸より柔らかいものの、水っぽさはなく、焼き目のついた部分にはわずかな弾力も残っている。
「美味いな」
「よかった」
「冷気茸より、こっちの方が料理向きかもしれん」
「冷気茸も食べたことあるんです?」
「ある。食えるが、少し青臭い」
「じゃあ温甘茸には別の価値がありそうですね」
「保冷材としては役に立たんが、食材としてなら十分ありそうだ」
「最初に冷気茸だと思った時より、価値が下がったと思います?」
エルドは少し考えた。
「用途が違っただけだな。価値があるかどうかは、これから使う側が決める」
「なるほど」
「間違えたから価値を見つけたとか、綺麗にまとめるなよ」
先回りして言われ、悠斗は笑った。
「言おうとしてました」
「やっぱりな」
◇
翌週、北東湿地の茸について、ギルドへ新しい採集情報が掲示された。
《温甘茸候補。食用確認済み。採取量制限あり。周辺環境調査継続》
冷気茸の新採集地という派手な発見ではなかったため、最初に話を聞いていた冒険者の何人かは少し残念がったものの、料理店や宿屋からは試しに使ってみたいという問い合わせが入り始めた。
若い魔術師が掲示板を見ながら笑う。
「結局、売れそうですね」
「少量だけだ」
「何で制限?」
「生えてる範囲が狭い。採りすぎたら来年どうなるか分からん」
「了解です」
「あと、青い苔は採るな。茸の生育環境に関係してる可能性がある」
「そこもまだ可能性?」
「ああ。分からない部分を分かったことにするより、その方が楽になってきた」
「エルドさん、それ最近よく言いますね」
「便利なんだよ」
◇
その日の午後、別の若い魔術師がエルドのところへ来た。
「エルドさん、ちょっと聞いていいですか」
「何だ」
「南の石切場で、魔力を吸う黒い苔が出たらしいんですけど、これ《吸魔苔》ですか?」
差し出された紙には、黒色、湿った岩場、魔力へ反応するといった特徴が簡単に書かれており、確かに吸魔苔と似ている部分はあった。
以前のエルドなら、その場で可能性の高い名前を口にしていたかもしれない。
「実物は?」
「まだ見てません」
「なら、この紙だけでは分からん」
若い魔術師が少し驚く。
「エルドさんでも?」
「ああ。現地を見て、魔力反応も調べて、それから考える」
「分かりました」
「必要なら俺も行く」
「本当ですか?」
「時間が合えばな」
「お願いします」
彼が去ったあと、近くで聞いていたロッカが笑った。
「ずいぶん素直になったな」
「お前ら最近そればっかりだな」
「だって前なら、とりあえず名前出してたじゃん」
「いつもじゃない」
「結構やってた」
「うるさい」
◇
夕方になると、エルドは一人で《持ち込み食堂》へ立ち寄ったが、今回は温甘茸を持ってきたわけではなかった。
「今日は普通に食べる」
そう言うと、ミレイアが少し笑った。
「茸なし?」
「毎回茸持ってくると思うな」
「何食べます?」
「何でもいい」
厨房から悠斗が顔を出す。
「それ一番困るやつです」
「じゃあ今日おすすめのやつ」
「鳥肉と根菜の焼き物があります」
「それで」
注文を終え、エルドは席へ座った。
百四十三年生きても、知らない茸はあったし、知らない魔物や土地、見たことのない術式も、これからいくらでも出てくるだろう。質問された時に答えられないこともあれば、一度出した答えを訂正しなければならない日もある。
それでも、自分が何を知っていて、何をまだ知らないのかをそのまま認めれば、少なくとも間違った名前へしがみつくことなく、そこから調べ始めることができる。
やがて料理が運ばれてくると、エルドは最初の一口をゆっくり味わいながら、次に誰かから知らないものについて尋ねられた時には、無理に答えを埋めるのではなく、まず確かなところまでを言葉にし、その先は一緒に調べればいいのだと考えていた。




