第20話 薄すぎる乳と、譲れない酪農家
ハンナ・リーベは、自分の牛乳を薄いと言われることが何より嫌いだった。
三十九歳になる彼女は、レーヴェン南東の城壁外で小さな酪農場を営んでおり、毎朝まだ陽が昇り切らないうちから牛舎へ入り、乳を搾り、乳酪を仕込み、街へ運ぶ分をまとめる生活を十五年以上続けている。父の代から飼ってきた《白背牛》を中心に二十数頭を育てており、量では大きな牧場に敵わないものの、青草の時期に出る香りの良い乳と、塩を控えめに仕上げた柔らかな乳酪には固定の客がついていた。
その日も、ハンナは夜明け前からいつも通り乳を搾っており、白背牛の腹を軽く撫でて桶の位置を確かめてから手を動かすと、温かな乳が一定の音を立てながら溜まっていった。
「よし、今日も悪くないね」
匂いを確かめた時点では特に異常を感じなかったため、そのまま朝の配達分を整えて街へ送り出した。
ところが、昼前に牧場へ戻ると、若い手伝いの男が難しい顔をして待っていた。
「ハンナさん、ちょっといいですか」
「何だい」
「今朝の乳、宿屋から一瓶戻ってきてます」
「何で」
「薄いって」
その一言を聞いた瞬間、ハンナの表情がはっきりと変わった。
「どこの宿だい」
「東通りの《銀木亭》です」
「昨日まで普通に買ってたところだろう」
「そうです」
「傷んでたのか」
「いえ、そこは問題ないみたいです」
「だったら薄いって何さ」
手伝いの男は返された瓶を差し出した。
「料理に使ったら、いつもより乳の味が弱かったって」
ハンナは瓶を受け取って栓を開け、少しだけ口へ含んだ。
腐敗した匂いもなければ妙な酸味もないが、普段自分が出している乳と比べれば、確かに口当たりが少し軽いようにも感じられた。
「……水なんか足してないよ」
「誰もそこまでは言ってません」
「薄いって言うなら同じようなもんだろ」
「味の話です」
「味だろうが何だろうが、うちの乳は昔からこのままだよ」
そう言い切ったものの、ハンナはもう一度だけ瓶へ目を落とした。
◇
昼過ぎになると、別の取引先からも似た話が入り、今度は菓子工房から、昨日までより乳の味が軽く感じられるという連絡があった。
「またかい」
手伝いの男が帳面を見ながら伝えると、ハンナは露骨に眉を寄せた。
「でも返品まではされてません。焼き菓子には使えるって」
「それなら問題ないじゃないか」
「ただ、乳酪仕込みだと歩留まりが少し落ちるかもって」
ハンナは腕を組み、しばらく考えた。
「今日は暑いからじゃないの」
「朝はそこまで暑くなかったです」
「青草の水分が多かったのかもしれない」
「昨日、雨降りましたからね」
「だったらそれだよ」
理由が一つ見つかったように思えて、ハンナは少しだけ安心した。
白背牛は季節や餌によって乳の状態が変わり、春先の若草を多く食べれば香りが強くなり、乾いた飼料が続けば脂の感じ方も変わる。雨の後で水分の多い草を多く食べれば、乳が少し軽くなることもあるため、今回もその範囲なのだろうと考えた。
「明日は乾草を少し増やす」
「全部の牛に?」
「そうだよ」
「でも、今日の乳が薄いのって全部ですかね」
「どういう意味だい」
「牛ごとに違うかもしれないでしょう」
その言葉を聞いて、ハンナは手伝いの男を見た。
「うちの牛は同じ餌を食べてる」
「量は違いますよ」
「それくらい分かってる」
「じゃあ分けて搾ってみます?」
「そこまでしなくてもいいよ」
「でも原因を見るなら」
「牛乳は牛乳だよ。一頭ずつ別の商品にしてるわけじゃない」
ハンナはそう言って話を切り上げた。
◇
夕方の搾乳でも、ハンナは普段通り複数の牛から搾った乳を大きな桶へまとめた。
手伝いの男は何度か何かを言いたそうにしていたが、結局それ以上は口を出さなかった。
搾り終えたあと、ハンナが自分で味を確かめると、朝と同じように、やはり少し軽く感じる。
「……青草のせいだね」
誰に聞かせるでもなくそう呟いたものの、自分で口にした説明だけでは収まりきらない小さな引っかかりが、胸の奥には残っていた。
◇
翌朝、ハンナは餌へ混ぜる乾草を少し増やしたが、昼前に搾った乳を確かめても、状態は大きく変わらなかった。
「一日じゃ変わらないですよ」
手伝いの男が言う。
「分かってるよ」
「だったら、牛ごとに見ません?」
「またそれかい」
「一回だけでも」
「忙しいんだよ。毎朝何本街へ出してると思ってるの」
「だからこそ、原因分からないまま続ける方が困りません?」
ハンナは返事をせず、乳桶へ布をかけた。
「今日もこのまま出す」
「宿屋には?」
「いつもの値段で持っていく」
「また戻されたら?」
「その時はその時だよ」
手伝いの男は、それ以上何も言わなかった。
◇
しかし、街へ着いて最初の取引先へ乳を渡そうとしたところで、ハンナ自身が手を止めた。
昨日「薄い」と言った《銀木亭》の主人が、瓶を受け取りながら困ったように笑ったからである。
「今日はどうです?」
「知らないよ。飲んでみな」
「いや、怒ってるわけじゃないんです」
「なら何さ」
「この乳で作ってる白煮込みがあるんですが、昨日はいつもの濃さにならなかったんですよ」
「塩の量じゃないの」
「同じです」
「煮詰め方は?」
「いつもと同じですよ」
「じゃあ乳が悪いって言いたいのかい」
「悪いとは言ってません。違ったって言ってるんです」
その言葉に、ハンナは黙った。
「使えないなら返品していいよ」
「だから使えないわけじゃありません。ただ、状態が違うなら先に分かると助かるんです」
「そんなこと毎日言えるわけないだろ。乳はその日で違うんだから」
「そこまで違うんですか?」
「当たり前だよ。生き物から出るものなんだから」
「なら、今日の乳がどう違うのか教えてもらえたら助かります」
宿屋の主人は、ごく普通の調子でそう言った。
ハンナはすぐには答えられず、自分でも今日の乳について「少し軽い気がする」としか説明できないことに、急に腹立たしさを覚えた。
◇
配達を終えたあと、ハンナは空になった瓶籠を抱えて西区まで歩いた。
本来ならそのまま牧場へ戻るところだったが、先ほど宿屋で言われた「味が違うなら説明してほしい」という言葉が頭から離れない。
十五年以上乳を扱ってきた自分が、客よりも曖昧なことしか言えないのが気に入らなかった。
西区へ入ったところで、以前乳酪を買いに来た客から聞いた食堂を思い出した。
持ち込んだ食材を見ながら、料理人が性質を調べてくれる店だという。
「乳なんて持っていって、何が分かるんだか」
そう言いながらも、ハンナは牧場へ戻らず、《持ち込み食堂》へ向かった。
◇
店へ入った時、ハンナが持っていたのは配達用に残していた乳瓶一本だけだった。
「いらっしゃいませ」
ミレイアが声をかける。
「持ち込み?」
「まあね」
「牛乳ですか?」
「白背牛の乳だよ」
「そのまま飲める?」
「飲めるに決まってるだろ」
「聞いただけです」
奥から悠斗が出てきた。
「こんにちは」
「ここ、持ち込んだもの見てくれるんだって?」
「食材なら、できる範囲で」
「じゃあ飲んでみな」
ハンナは瓶を卓へ置いた。
悠斗は少しだけ乳を器へ注ぎ、匂いを確かめてから口へ含んだ。
「普通に美味しいですね」
「普通って何だい」
「変な味はしないです」
「それは分かってる」
「じゃあ、何を見ればいいです?」
ハンナは少し苛立ったように答えた。
「薄いって言われたんだよ」
「誰に?」
「宿屋と菓子工房」
「前より?」
「そうらしい」
「ハンナさん自身は?」
そこで、ハンナは少し間を置いた。
「……少し軽い気はする」
「いつもより脂っぽさが少ないとか?」
「そういう感じかもしれない」
「いつもの乳あります?」
「今日はこれしかない」
「なら比較できないですね」
「役に立たないねえ」
「比較するなら、もう一つ欲しいです」
悠斗は特に気を悪くした様子もなく答えた。
「明日の朝、別の牛から搾った乳を分けて持ってくるとかできます?」
ハンナの眉が動いた。
「何で牛ごとに」
「同じ牧場でも違うかもしれないでしょう」
「今朝もそれ言われたよ」
「誰に?」
「うちの手伝い」
「じゃあ、その人と同じ意見ですね」
「若いくせに生意気なんだよ」
「でも試してない?」
「忙しいんだ」
「分けるの、そんなに大変です?」
「大桶にまとめる前に小瓶へ取ればできるけどね」
「なら、二、三頭分だけでも」
ハンナはしばらく乳瓶を見てから、ため息をついた。
「……明日来ればいいのかい」
「俺はいますよ」
「暇なんだね」
「食堂なので昼前なら仕込みしてます」
◇
翌朝、ハンナは手伝いの男へ三本の小瓶を用意させた。
「本当に分けるんですか」
「一回だけだよ」
「どの牛にします?」
「ミーナ、ポルカ、セラ」
三頭はいずれも白背牛だが、年齢と体格が違う。
ミーナは十歳を超えた古株で、乳量は少ないものの脂が多いことで知られており、ポルカは五歳で最も乳量が多く、セラは二歳半で今年から本格的に搾乳へ入った若い牛だった。
一頭ずつ別の小桶へ搾り、そのまま小瓶へ移したあと、ハンナは三本を順番に味見した。
「……違うね」
手伝いの男が笑う。
「でしょう?」
「笑うな」
「どれが薄いです?」
「セラだよ」
若いセラの乳はほかの二頭より明らかに軽く、ポルカはその中間で、ミーナの乳は口へ含んだ時点から濃さが分かるほど脂の存在感が強かった。
「じゃあ原因これですかね」
「全部じゃない」
「何で?」
「セラ一頭で、大桶全部があそこまで変わるほどじゃない」
「ほかにも若い牛いますよね」
その言葉で、ハンナは少し考えた。
今年は春から搾乳へ入った若い白背牛が、セラを含めて四頭いる。
去年までは古い牛の割合がもっと多かった。
「……全部調べるよ」
「今ですか?」
「今しかないだろ」
結局その朝は、予定していた作業を少し遅らせ、搾乳中の牛をいくつかに分けて味を確認することになった。
◇
調べてみると、思っていたよりも違いははっきりしており、若い牛の多くは古い牛より乳量が多い代わりに、脂の感じ方が軽かった。
さらに今年は新しく搾乳へ入った牛の割合が増えたため、全部を大桶へまとめた時の味まで変わっていた。
「餌だけじゃなかったね」
ハンナが言った。
「雨の影響も少しはあるかもしれませんけど」
「それでも今年の群れ自体が違う」
「ですね」
手伝いの男は記録板へ数字を書いていた。
「これ、今後も分けて記録します?」
「毎日全部は無理だよ」
「週に一回とか」
「……それくらいならやる」
ハンナは少し不満そうだったが、今度は否定しなかった。
◇
昼前になると、ハンナは三種類の乳を持って《持ち込み食堂》へ向かった。
「本当に持ってきたんですね」
悠斗が言う。
「言われたからね」
「違いありました?」
「かなり」
三本の瓶を卓へ並べる。
「こっちがミーナ。古い牛で、乳量は少ないけど濃い。真ん中がポルカで、これがいつもの平均に近い。最後がセラで、若くて乳量が多い」
悠斗は順番に味を見る。
「本当に違いますね」
「今さら驚くことじゃないよ」
「昨日は牛ごとに分けてなかったじゃないですか」
「うるさいね」
悠斗は笑った。
「料理でも比較します?」
「そのために来たんだよ」
「何を作りましょう」
「乳の違いが分かるやつ」
「じゃあ、同じ材料で白い煮込みを三つ作ります」
◇
悠斗は小鍋を三つ並べ、それぞれへ同じ量の根玉葱と黄芋を入れた。
油の量や塩、火加減までできるだけ揃え、最後に三種類の乳を別々に加えていく。
ハンナは厨房前へ座り、腕を組んで見ていた。
「乳、煮立たせすぎるなよ」
「分かりました」
「分離するからね」
「この乳は分離しやすい?」
「濃い方は特にね」
「なるほど」
根玉葱が柔らかくなり、黄芋へ火が通ったところで、三種類の煮込みが仕上がった。
見た目にもわずかな差があり、ミーナの乳を使ったものは煮汁に艶があってとろみも強く、ポルカはその中間、セラの乳を使ったものは最もさらりとしている。
「食べ比べましょう」
最初にミーナの乳を使ったものを口へ入れると、黄芋と根玉葱の味のあとから濃い乳の風味が長く残り、少量でも十分な満足感があった。
次にポルカを使ったものは、乳の味を感じながらも全体の釣り合いが良く、最後にセラの乳を使ったものを食べると、最初の二つより軽い代わりに根玉葱の甘さが前へ出てきた。
「どうです?」
悠斗が尋ねる。
「薄い」
「まずい?」
ハンナはもう一口食べてから答えた。
「……まずくはない」
「じゃあ薄いこと自体が悪いわけではない?」
「濃い方が乳らしいだろ」
「乳としては?」
「私にとってはね」
「でも煮込みなら、軽い方が好きな人もいそうです」
「宿屋みたいなこと言うね」
「昨日の宿屋は、いつもの濃さにならなかったのが困ったんですよね」
「そうだよ」
「なら、セラの乳が悪いんじゃなくて、いつもの乳だと思って使ったことが問題だったのかもしれない」
その言葉を聞き、ハンナは三つの器へ視線を落としたまま黙り込んだ。
◇
悠斗は三つの器を並べたまま話を続けた。
「もし『今日は軽めの乳です』って最初から分かってたら、宿屋は煮詰める時間を変えるとか、乳酪を少し足すとかできたかもしれないですよね」
「毎日そんなこと客に説明するのかい」
「毎日細かく言う必要はないかもしれませんけど、いつもと大きく違う時だけでも」
「手間だよ」
「返品されるよりは?」
ハンナは少し嫌そうな顔をした。
「それはそうだけどね」
「あと、乳を用途で分けられません?」
「牛ごとに売れって?」
「全部じゃなくても、濃い乳を必要とするところへ少しだけ別で出すとか」
「そんな面倒なことしたら値段が上がる」
「上げたら?」
「簡単に言うね」
「手間が増えるなら、その分は取っていいんじゃないですか」
「客が払うかねえ」
「それは聞いてみないと」
ハンナは三種類の煮込みを順番に見た。
「うちの乳は、混ぜて同じものにして売るのが普通だったんだよ」
「ずっと?」
「父の代から」
「牛の数も同じ?」
「昔はもっと少なかった」
「若い牛の割合は?」
「今ほど多くなかったね」
「じゃあ、やり方が同じでも群れが変わった?」
その言葉を聞いたところで、ハンナの眉が少し動いた。
◇
ハンナの父が牧場をやっていた頃、白背牛は十二頭ほどしかおらず、その多くは長く飼っている成牛で、新しく搾乳へ入る若い牛も一度に一頭か二頭程度だった。
ハンナが牧場を継いでから少しずつ頭数を増やし、ここ数年でようやく二十頭を超え、今年は特に若い牛四頭がほぼ同時に搾乳へ入っている。
「増やしたのは私だよ」
「商売が順調だから?」
「注文が増えたからね」
「じゃあ、昔と同じ混ぜ方で味が変わったのは、牧場が悪くなったからじゃなくて、牧場が大きくなったからでもある?」
ハンナは少し考えた。
「そう言われると、腹が立つね」
「何で?」
「私が自分で増やしておいて、その変化を認めてなかったみたいじゃないか」
「実際そうだった?」
「……たぶんね」
ハンナはミーナの乳を使った煮込みを食べた。
「父の頃の乳に近いのは、こっちだ」
「濃い方?」
「昔は牛が年取ってたからね。乳量は今より少なかったけど、もっと濃かった」
「その味を基準にしてたんですね」
「そうかもしれない」
◇
店の奥で皿を拭いていたミレイアが、会話へ口を挟んだ。
「私は軽い方好きですよ」
「聞いてないよ」
「でも客の意見です」
「まだ金払ってないだろ」
「じゃあ払います」
「そういう問題じゃない」
悠斗が笑う。
「ミレイアはどれがいい?」
「朝ならセラのがいいです。濃いのは美味しいけど、朝から一杯飲むと重そう」
「ほら」
悠斗が言う。
「何がほらだい」
「用途で好みが変わるってことです」
「でも乳酪作るなら濃い方がいい」
ハンナが返す。
「じゃあ菓子工房や乳酪屋には濃い方、宿屋の飲み物には軽い方とか」
「そこまで簡単に分けられないよ。毎日同じ牛が同じ量出すわけじゃない」
「なら、大きく分けるだけでも?」
「濃い組と軽い組?」
「はい」
ハンナは腕を組み、しばらく考え込んだ。
◇
帰る前、ハンナは三本の乳瓶のうち、セラのものだけを手に取った。
「これ、少し残ってるね」
「料理で使った分だけなので」
「他に何かできる?」
「軽いなら、飲み物とか冷たい料理には使いやすそうです」
「甘いものは?」
「合うと思います」
「じゃあ何か作ってみな」
「今?」
「せっかく来たんだから」
悠斗は少し考えたあと、蜂蜜と香りの弱い茶葉を用意した。
セラの乳を温めすぎない程度に火へかけ、濃く出した茶を合わせ、蜂蜜をほんの少しだけ加える。
「乳茶ですね」
「こんな簡単なのでいいのかい」
「乳の軽さを見るなら、これくらいの方が分かりやすいかと」
ハンナが一口飲むと、濃い乳で作った時ほど口の中へ重さが残らず、その分だけ茶葉の香りがはっきり感じられた。
「……悪くないね」
「また『まずくない』ですか」
「美味しいよ」
「言えるじゃないですか」
「うるさい」
◇
牧場へ戻ると、ハンナはすぐに手伝いの男を呼んだ。
「明日から、一週間だけ試すよ」
「何を?」
「搾乳を二つに分ける」
「牛ごと?」
「そこまではやらない。濃い組と軽い組だよ」
手伝いの男は目を丸くした。
「本気ですか」
「嫌ならやめるかい」
「やります」
「返事が早いね」
「言ったの俺ですから」
「調子に乗るな」
二人は牛の記録を見ながら、どの牛をどちらへ分けるか決めた。
ミーナのような古い牛と脂の多い乳を出す牛は濃い組へ入れ、セラを含む若い牛は軽い組へ分けることにした。
毎日まったく同じ濃さになるわけではないが、少なくとも全部を一緒にするよりは違いを把握しやすくなる。
◇
次の朝、ハンナは二種類の乳を持って《銀木亭》へ向かった。
「今日は二本ですか?」
宿屋の主人が尋ねる。
「試しだよ。こっちが濃い方で、こっちが軽い方」
「分けたんです?」
「一週間だけね」
「値段は?」
「今は同じ。続けるなら濃い方は少し上げるかもしれない」
「乳酪向けですか」
「そういう使い方もできる」
宿屋の主人は二種類を少しずつ飲んだ。
「白煮込みなら濃い方ですね」
「だろう」
「でも朝食でそのまま出すなら軽い方がいいかも」
「そっち選ぶのかい」
「飲みやすいですよ」
「まあ、好きにしな」
以前なら軽い方を選ばれただけでも面白くなかったはずだが、この時のハンナには、そこまで強い苛立ちは湧かなかった。
◇
菓子工房では濃い方の乳を選ばれた。
「乳酪菓子ならこっちがいいです」
「軽い方は?」
「焼き菓子なら使えますけど、今は濃い方が欲しいですね」
「分かった」
さらに別の宿屋では朝食用に軽い方を多めに頼まれたため、客の反応は見事に分かれることになった。
「本当に売れましたね」
牧場へ戻ると、手伝いの男が言った。
「まだ一日だよ」
「でも軽い乳、全部なくなりましたよ」
「濃い方もほとんどない」
「分けた方がいいんじゃないですか」
「一週間見るって言っただろ」
「はい」
◇
一週間後、帳面にははっきりした傾向が現れていた。
乳酪屋や菓子職人は濃い乳を好み、宿屋や食堂の一部は軽い乳を選んでおり、濃い方については少し値段を上げても買いたいという客も何人かいた。
ただし毎日の乳量には差があるため、二種類を常に同じ量で用意することはできない。
「予約制にするしかないね」
ハンナが言った。
「濃い方だけ?」
「そう。必要なところから先に取ってもらう。残ったら混ぜる」
「軽い方は?」
「普通に出すよ。ただし、今日の乳は軽めだって分かるようにする」
「札でもつけます?」
「瓶に色紐でも巻けばいい」
「濃い方は赤?」
「目立ちすぎる。茶色でいい」
「軽い方は?」
「青」
「分かりやすいですね」
ハンナは帳面へ必要な本数を書き込みながら、翌日の搾乳量まで確認した。
◇
数日後、ハンナは久しぶりに《持ち込み食堂》へ立ち寄った。
今回は二本ではなく、青い紐を結んだ乳瓶一本だけを持っている。
「軽い方ですね」
悠斗が瓶を見る。
「分かるようにした」
「売れてます?」
「思ったよりね」
「濃い方は?」
「予約が増えた」
「じゃあよかったですね」
「面倒も増えたよ」
「分ける作業?」
「記録も増えたし、牛の状態も前より見るようになった」
「悪いことです?」
ハンナは少し考えた。
「悪くはないね」
以前は牧場全体の乳だけを見ていたが、今は牛ごとの年齢や餌の食べ方、乳の出方まで以前より注意して見るようになり、若い牛がいつ頃から味を変えていくのかについても記録を取り始めている。
「父のやり方を守ってたつもりだったんだけどね」
「今は違う?」
「父の頃と同じ牧場じゃないんだから、同じやり方だけじゃ足りないって分かったよ」
「牛も増えたし?」
「客も増えた。それに、欲しい乳も客ごとに違う」
ハンナは青い紐の瓶を卓へ置いた。
「これ、今日の分。昨日より少しだけ濃いけど、濃い組ほどじゃない」
「そこまで分かるようになったんですね」
「十五年やってるんだ。分からない方がおかしいよ」
「この前は『青草のせい』で終わらせようとしてましたけど」
「昔の話をいつまでも出すんじゃないよ」
◇
悠斗は青紐の乳を使い、以前と同じ乳茶を作った。
前回よりわずかに乳の風味が強くなっているため、茶葉との釣り合いも少し変わっている。
「今日は蜂蜜少なめの方がいいですね」
悠斗が言う。
「どうして」
「乳の甘味が前よりあります」
ハンナも飲んでみた。
「確かにね」
「毎回違いますね」
「当たり前だろ。生き物なんだから」
そこまで言ってから、ハンナは以前にも同じ言葉を口にしていたことを思い出した。
あの時は、乳が違う理由を説明できないことへの言い訳として使っていたが、今では、生き物から得るものだからこそ、その日の状態を自分で確かめなければならないという意味へ変わっている。
「何笑ってるんです?」
悠斗が聞く。
「別に」
「何かありました?」
「同じこと言ってても、意味って変わるんだね」
「何の話です?」
「こっちの話だよ」
◇
その日の夕方、ハンナは牧場へ戻ると、牛舎の中を一頭ずつ見て回った。
ミーナはいつものようにゆっくり乾草を噛み、ポルカは水桶の近くで尻尾を振り、セラは若い牛らしく落ち着きなく柵の向こうへ鼻先を伸ばしている。
以前なら、どの牛から搾った乳も大桶へ入れば一つの商品になると考えていた。
けれど、同じ白背牛であっても乳の状態は違い、その違いを混ぜて平均へ近づけることもできれば、あえて残して用途へ合わせることもできる。
どちらか一方だけが正しいわけではなく、必要なのは、今どんな乳が出ているのかを自分自身が分かっていることだった。
ハンナはセラの首を軽く撫でながら、明日の朝に出る乳が今日より少し濃くなるのか、それともまた軽くなるのかを考えた。
搾ってみるまでは分からないからこそ、昨日と同じだと決めつけず、その日の状態を確かめたうえで、どこへ届けるのが一番合うのかまで考えることを、これからは自分の仕事として続けていけばよかった。




