第19話 泡立たない蜜酒と、急がせる菓子職人
ピノ・コレットは、待つことが苦手な菓子職人だった。
三十八歳になる小人族の彼女は、レーヴェン南区で《砂糖鈴》という小さな菓子工房を営んでおり、蜂蜜を使った焼き菓子や果実を煮詰めた飴、それに祝い事へ出す乳酪菓子などを作って暮らしている。背丈は人間の成人男性の腰ほどまでしかないが、作業台の上へ特注の踏み台を置き、朝から晩まで休むことなく手を動かしている姿は、周囲の職人たちにもよく知られていた。
彼女の菓子は評判がよく、とりわけ《蜜泡菓子》と呼ばれる柔らかな焼き菓子は、祝い事や贈答品として何日も前から予約が入るほど人気がある。
ところが、その日の朝だけは、工房の空気がいつもとは違っていた。
「何で膨らまないのよ」
ピノは焼き上がったばかりの蜜泡菓子を前にして、腕を組んだ。
丸い型から取り出した菓子は表面こそ綺麗に焼けているものの、本来なら指二本ほど高く膨らむはずの生地が今日は半分ほどの高さで止まり、切ってみても中の気泡は細かく、ふんわりというより、しっとりと詰まった食感になっていた。
「昨日と同じ分量?」
隣で働いている若い職人が尋ねる。
「同じに決まってるでしょう。蜜も粉も卵も、全部昨日と同じ量よ」
「火も?」
「同じ」
「混ぜる時間は?」
「いつも通り」
「じゃあ何が違うんでしょう」
「それを今考えてるの」
ピノは苛立った様子で答え、もう一度生地の断面を指で押した。
味そのものに大きな問題はなく、むしろ蜂蜜の香りは強いため、噛んだ時のしっとりした口当たりを好む客なら美味しいと感じるかもしれない。それでも、普段の蜜泡菓子として売るには明らかに違っていた。
「昼までに四十個焼くんですよね」
「分かってる」
「予約、三件でしたっけ」
「四件よ」
「じゃあ、仕込み直した方が」
「もうやってる」
ピノはすでに次の生地を用意し、卵を割って蜂蜜を加え、いつも通りの手順で混ぜ始めていた。
若い職人は横で様子を見ながら、しばらく黙っていた。
「親方」
「何」
「少し、混ぜるの速くないですか」
「急いでるんだから当然でしょう」
「でも、いつもはもっとゆっくりだった気がします」
「そんなことない」
「昨日より急いでますよ」
「今日の予約数を知ってるでしょう」
「知ってますけど」
「なら手を止めない」
ピノはそう言って、混ぜる速度を落とさなかった。
◇
一時間後に焼き上がった二回目の蜜泡菓子も、最初よりわずかに高さが出ただけで、本来の商品として出せるほどには膨らまなかった。
「おかしい」
ピノは焼き台の前へしゃがみ込み、炉の中を覗いた。
「火が弱い?」
「温度石はいつもと同じです」
「じゃあ粉?」
「今朝開けた袋です」
「卵?」
「昨日と同じ農家から来てます」
「蜂蜜は?」
そこで若い職人が手を止めた。
「今日から新しい樽ですよね」
「だから?」
「昨日までの蜜と違うとか」
「見た目は同じ」
「味は?」
ピノは作業台に置かれていた蜜壺を取り、木匙の先へ少量をつけて舐めた。
「……少し薄い?」
「俺もそう思います」
その味を確かめたことで、今年は北丘陵で採れた花蜜の水分が例年より多いという話を、数日前に聞いたことをピノは思い出した。
蜂蜜そのものが悪いわけではないが、水分が多ければ生地の状態まで変わる可能性はある。
「だったら蜜を減らす」
「粉を増やすんじゃなくて?」
「まず蜜を減らす」
「試します?」
「試してる時間はないの」
ピノはすぐに次の仕込みへ移った。
「蜜を一割減らして、粉はそのまま。卵は変えない」
「でも一回分だけ焼いた方が」
「四十個あるのよ。少量ずつ試してたら昼に間に合わない」
「間に合っても失敗したら?」
「失敗させない」
ピノは迷いなく言い切った。
◇
しかし、三回目の焼き上がりは、それまでよりさらに悪かった。
蜂蜜を減らしたことで香りまで弱くなったうえ、生地も予想していたほど膨らまず、若い職人が焼き台の前で黙り込む横で、ピノもすぐには言葉を出せなかった。
「……次」
「親方」
「次は粉を少し減らす」
「一回止めません?」
「止めてどうするの」
「材料、見直しましょう」
「見てるでしょう」
「全部一度に変えようとしてるから、何が原因か分からなくなってます」
ピノは振り返った。
「今それを言う?」
「今だから言ってます」
「時間がないのよ」
「だからですよ」
若い職人は、作業台に並ぶ失敗した菓子へ目を向けた。
「急いで三回焼いて、朝から何も解決してないです」
ピノの表情が硬くなった。
「言いたいことがあるなら、はっきり言いなさい」
「親方は、間に合わせることしか見てないです」
「予約を守るのは職人の仕事でしょう」
「でも、同じ失敗を四回やる方が客に迷惑です」
「四回目は変える」
「何を?」
蜂蜜を減らすのか、粉を減らすのか、混ぜ方を変えるのか、それとも火の状態まで見直すのか、自分でも整理できていなかったため、ピノはすぐに答えられなかった。
「……私が決める」
「そう言うと思いました」
若い職人はため息をついた。
「少し外の空気吸ってきたらどうです?」
「何で私が」
「俺が失敗した分片づけます」
「私が失敗したって言いたいの?」
「二人で作ってるから、二人の失敗です」
ピノは言い返そうとしたものの、作業台に並ぶ三つの焼き菓子を見たところで口を閉じた。
◇
工房を出たピノは、南区の通りを早足で歩いた。
どこへ行くかを決めていたわけではなかったが、作業台の前へ立ったまま次の生地を作れば、また同じように手を急がせることだけは自分でも分かっていた。
「時間ないのに」
そう呟きながらも、ピノは足を止めなかった。
昼まで残り三時間ほどしかなく、本来なら今頃は一回目の予約分を包装している時間である。
頭の中では、客へ遅れる連絡を入れるべきか、別の菓子へ変更してもらうべきか、それとも何とか今から作り直すべきかという考えが何度も入れ替わっていた。
そのまま西区へ向かう通りまで来たところで、ピノは以前客から聞いた店を思い出した。
持ち込んだ食材を見て、料理方法を考える食堂があるという話だった。
菓子職人が蜂蜜を持ち込んで何になるのかとも思ったが、今の状態で工房へそのまま戻るよりは、別の料理人に一度見てもらう方がましに思えた。
◇
《持ち込み食堂》へ入ったピノは、最初から少し機嫌が悪かった。
「いらっしゃいませ」
ミレイアが声をかける。
「食材持ってきてないけど、相談でもいい?」
「内容によりますけど、たぶん大丈夫です」
「たぶんって何よ」
「料理できる話か分からないので」
「店主いる?」
「いますよ」
厨房から悠斗が出てくる。
「こんにちは」
「菓子作れる?」
「種類によります」
「蜜泡菓子」
「聞いたことはありますけど、作ったことはないです」
「じゃあ駄目ね」
ピノはすぐに帰ろうとした。
「でも、失敗の原因を見るくらいなら手伝えるかもしれません」
その言葉を聞いたところで、ピノの足が止まった。
「何で失敗したって分かるの」
「顔がそういう顔だったので」
「失礼ね」
「すみません」
悠斗は少し笑った。
「それで、何が起きたんです?」
◇
ピノは仕方なく、今朝から起きたことを順番に説明した。
いつもの蜜泡菓子が膨らまないこと、材料も手順も同じつもりだったこと、新しい蜂蜜だけが少し水っぽいこと、すでに三回試して全部うまくいかなかったことまで話す。
「蜂蜜、少し持ってます?」
「工房にある」
「失敗した菓子は?」
「置いてきた」
「見た方が早そうですね」
「今から取りに戻るの?」
「持ってきてもらえれば」
「時間ないんだけど」
「じゃあ、ここで想像だけで話します?」
ピノは黙った。
「俺も蜜泡菓子を作ったことはないので、現物を見ないと分からないです」
「……分かった。取ってくる」
「急がなくていいですよ」
「急ぐわよ」
「転ばない程度で」
ピノは悠斗を睨んだが、今度は何も言わず店を出た。
◇
二十分ほどして戻ってきたピノは、蜂蜜の小瓶と、朝に失敗した蜜泡菓子を一つずつ持ってきた。
悠斗は最初に菓子を切り、断面へ入っている気泡の状態を確認した。
「かなり詰まってますね」
「分かってる」
「でも、生焼けではない」
「火は通ってる」
「味見していいです?」
「そのために持ってきたんでしょう」
悠斗は一口分だけ切って食べた。
「普通に美味しいです」
「蜜泡菓子としては駄目なの」
「食感が違う?」
「もっと軽くて、噛んだ時に戻るくらい柔らかくないと駄目」
「なるほど」
次に蜂蜜の状態を調べるため、匙ですくって皿へ落としてみると、一般的な蜂蜜より明らかに流れが速かった。
「確かに水分が多そうですね」
「でしょ」
「今日、この蜂蜜に変わってからですか?」
「そう」
「でも三回とも、完全に同じ失敗じゃないんですよね」
「何が言いたいの」
「最初の一回と、その後の二回では条件を変えました?」
「二回目は少し急いだし、三回目は蜂蜜を減らした」
「混ぜる時間は?」
「……少し短かったかも」
「火は?」
「同じ」
悠斗はそこまで聞いてから少し考えた。
「蜂蜜だけが原因とは限らないですね」
「でも違う材料はそれだけよ」
「最初の失敗については、そうだったかもしれません。でも二回目からは、ピノさん自身が条件を変えてる」
「私が悪いって言いたいの?」
「誰が悪いという話じゃなくて、原因を探し切る前に一度に色々動かしたから、何が効いたのか分からなくなってるんだと思います」
朝の職人とほとんど同じことを言われ、ピノは眉を寄せた。
「みんな同じこと言うのね」
「工房でも言われました?」
「若いのに」
「じゃあ、その人の意見も聞いた方がよかったかもしれませんね」
「簡単に言わないで」
◇
悠斗は蜂蜜を小皿へ少量取り、水分の多さを確かめながら考えた。
「蜜泡菓子って、何で膨らませるんです?」
「卵を泡立てるの」
「酵母じゃなくて?」
「使わない。卵を泡立てて、その泡を潰さないように粉を混ぜる」
「蜂蜜も最初に入れる?」
「そう」
「じゃあ蜂蜜が水っぽいと、泡の状態に影響する可能性はありそうですね」
「だから減らした」
「でも、減らした分だけ味も変わった」
「そう」
「なら量そのものじゃなく、入れるタイミングを変える方法も試せませんか」
その提案を聞いたピノの目が少し動いた。
「後から?」
「最初から全部入れずに、一部だけ使って泡立てて、残りは最後に混ぜるとか」
「……やったことない」
「駄目そうです?」
「分からない」
「じゃあ、少量だけ試しましょう」
「だから時間がないって言ってるでしょう」
「少量なら、一回失敗しても材料も時間も少なくて済みます」
「でも予約が」
「今から一気に四十個仕込んで、それが全部失敗したら?」
ピノは答えなかった。
「一回成功する条件を見つけてから増やす方が、結果的に早く終わるかもしれません」
「かもしれない、でしょ」
「はい。保証はできません」
「料理人なのに?」
「初めての菓子なので」
悠斗がためらいもなくそう答えたため、ピノは少し意外そうに顔を見た。
「分からないって普通に言うのね」
「分からないものは分からないので」
「職人として不安じゃない?」
「かなり不安です。でも、分からないまま全部やる方がもっと不安ですよ」
ピノは小さく息を吐いた。
◇
店の厨房を借り、二人は本来の分量よりかなり少ない量で試験をすることになった。
まず卵を泡立て、いつもならここへ最初から全量加える蜂蜜を、今回は半分だけ混ぜる。
「もっと速く混ぜた方がいい」
「普段は?」
「もっと時間かけるけど、今日は急いでた」
「今も急いではいますけど、試験なので普段の速さに戻しましょう」
「分かってる」
口ではそう言いながらも、ピノの手は何度か無意識に速くなり、そのたびに自分で気づいて速度を落とした。
卵と蜂蜜が十分に泡立ったところで粉を少量ずつ加え、最後に残しておいた蜂蜜を少しずつ合わせていく。
「これで泡潰れない?」
「そこは混ぜ方次第ですね」
「見てて」
ピノはへらを大きく回すのではなく、生地を底から持ち上げるようにして丁寧に合わせた。
「それ、かなり慎重ですね」
「菓子だから当然でしょう」
「朝も同じように?」
ピノは一瞬だけ手を止めた。
「……二回目からは、もっと速かった」
「じゃあ蜂蜜だけが原因じゃなかった可能性もありますね」
「まだ焼いてない」
「そうですね」
◇
小さな型へ生地を流し、炉へ入れたあとは、焼き上がるまで待つしかない。
その時間になると、ピノは何度も炉の前へ近づいた。
「途中で開けない方がいいですよね」
悠斗が言う。
「分かってる」
「今、開けようとしてませんでした?」
「見ただけ」
「三回目です」
「うるさい」
少し離れたところで見ていたミレイアが笑った。
「菓子って大変ですね」
「焼いてる間に触れないのが嫌なのよ」
ピノが答えた。
「煮込みなら途中で味見できるでしょう。焼き菓子は炉へ入れたら、あとは待つしかない」
「それが苦手?」
「昔からね」
「何でです?」
「手を動かしてる方が安心するから」
ピノは腕を組んだ。
「待ってる時間って、何もしてないみたいで嫌なのよ」
「でも実際は、ピノさんが仕込んだ生地を炉が焼いてる」
「炉がね」
「そこまで含めて作ってる途中じゃないですか」
「分かってるけど、自分の手が止まってるでしょう」
悠斗は少し考えた。
「仕事してない感じがする?」
「そうかもね」
◇
ピノが十七歳で菓子職人の見習いになった頃、最初に仕えた親方は非常に仕事の速い人だった。
粉を量りながら別の鍋を見て、蜜を煮詰めながら次の型を用意し、炉から一つを出した時にはすでに次の生地が完成しているほど手際が良く、若かったピノはその働き方に強く憧れた。
「止まってる暇があったら、次の仕事を探せって何度も言われた」
「厳しい人だった?」
「厳しかったけど、嫌いじゃなかったわ。実際、その人の工房はすごく繁盛してた」
「それでピノさんも速くなった?」
「なった。誰よりもね」
独立してからも、早く作れることは大きな強みになった。
朝に追加注文が入っても対応できたし、急な祝い事へ菓子を用意してほしいと言われれば、ほかの工房より先に仕上げられることも少なくなかった。
「でも、早くすることと急ぐことは同じじゃないですよね」
悠斗が言った。
ピノは眉を上げる。
「何が違うの」
「早くできる人は、必要なところではちゃんと時間を使うんじゃないですか」
「随分分かったように言うのね」
「料理でもありますから。火が通る前に出したら、作業が速くても意味ないです」
「菓子はもっと細かいの」
「そこは認めます」
「簡単に認めるのね」
「専門じゃないので」
ピノは少しだけ笑った。
◇
焼き時間を迎えると、ピノは炉から小さな型を取り出した。
中の蜜泡菓子は、朝に焼いたものより明らかに高く膨らんでいる。
「……上がってる」
「成功?」
「まだ」
型から外して冷ましてから切ると、断面には細かな気泡が均一に入り、指で押してもゆっくりと元の形へ戻った。
ピノは一口分を食べた。
「味は?」
悠斗が聞く。
「蜂蜜が少し弱い」
「最後に入れた分を増やせます?」
「たぶん」
「じゃあ次は、そこだけ変えます?」
ピノは答えかけたところで、少しだけ考えた。
朝なら、ここで粉の量や混ぜ方、火の強さまで同時に動かしていたかもしれない。
「……蜂蜜だけ少し増やす」
「ほかは同じ?」
「同じにする」
「じゃあ二回目ですね」
「今度は半量で試す」
「いきなり四十個じゃなく?」
「うるさい」
そう返したピノの声には、最初に店へ来た時ほどの苛立ちは残っていなかった。
◇
二回目の試験では、最後に加える蜂蜜だけを少し増やし、混ぜる速さも粉を加える順番も、火の強さも変えなかった。
焼き上がった菓子は最初の試験と同じように十分膨らみ、味だけが普段の蜜泡菓子へ近づいている。
「これなら出せる」
ピノは断面を見ながら言った。
「間に合いそうです?」
「全部一からならぎりぎり」
「予約先へ連絡しなくていい?」
「……する」
その返答を聞き、悠斗は少し意外そうにした。
「遅れるんです?」
「一件だけ、昼ぴったりに受け取り予定がある。今からなら半刻くらい遅れる」
「じゃあ伝える?」
「伝えるわ」
「無理に間に合わせないんですね」
「失敗したものを渡すよりましでしょう」
ピノはそう言いながら、自分でも少し可笑しそうに笑った。
◇
工房へ戻る前に、ピノは朝から失敗していた蜜泡菓子へ目を向けた。
「これ、どうする?」
「食べられますよね」
「商品にはできないけど」
「別の使い方ならありそうです」
「例えば?」
悠斗は少し考えた。
「薄く切って焼き直すとか」
「焼き直す?」
「柔らかい菓子として失敗なら、水分を飛ばして最初から硬い菓子へ変えてみるとか」
「そんな雑な」
「試します?」
ピノは少し迷った末に頷いた。
失敗した蜜泡菓子を薄く切り、低い火でゆっくり焼き直していくと、表面だけでなく内部の水分まで抜け、柔らかかった生地は軽い歯応えを持つ焼き菓子へ変わった。
仕上げに少量の蜂蜜を薄く塗り、さらに短く火を入れる。
十分に冷めたものをピノが口へ入れると、さくりと乾いた音がした。
「……これ、悪くない」
「失敗した方も使えそうですね」
「名前変えれば売れるかも」
「商人みたいですね」
「菓子屋よ。売れないと困るの」
その頃には、ピノの目は完全に菓子職人としてのものへ戻っていた。
「朝の三回分、全部これにできる」
「量あります?」
「かなり」
「今日中に?」
ピノは答える前に少しだけ考えた。
「明日でいい」
「珍しいですね」
「何が」
「急がないんだなって」
「蜜泡菓子の方が先でしょう」
「その通りです」
◇
《砂糖鈴》へ戻ると、若い職人が片づけを終えた状態で待っていた。
「親方、どうでした?」
「原因、半分は蜜で、半分は私」
「え?」
「蜂蜜の水分が多い。それに、私が急いで混ぜ方を変えてた」
「……それ、俺言いましたよね」
「今それ言ったら殴るわよ」
「言いません」
「顔に書いてある」
ピノは作業台へ蜂蜜を置いた。
「仕込みを変える。最初に使う蜜を減らして、残りは粉を合わせたあとに少しずつ入れる」
「試したんですか?」
「二回」
「成功した?」
「した」
「じゃあやりましょう」
若い職人はすぐに準備へ入ろうとしたが、ピノがそれを止めた。
「待って。今日は、いつもの量を一気に作らない」
「どうするんです?」
「二十個分ずつ仕込む。もし最初の二十で違いが出たら、残りを直せるようにする」
若い職人は少し驚いたあと、笑った。
「分かりました」
「何笑ってるの」
「別に」
「手を動かしなさい」
「はい」
◇
最初の二十個は問題なく膨らみ、続けて焼いた二回目も、ほとんど同じ状態へ仕上がった。
最後の菓子まで確認した頃には、予定していた受け取り時刻を少し過ぎていたため、ピノは自分で予約客のところへ向かい、遅れたことを直接謝った。
「すみません。仕込みの調整に手間取って、予定より半刻遅れました」
客は少し驚いたが、怒ることはなかった。
「ちゃんと出来たなら大丈夫ですよ」
「次からは、遅れそうだと分かった時点でもっと早く伝えます」
「そこまで?」
「予約ですから」
客は笑った。
「相変わらず真面目ですね」
「職人だから当然です」
そう答えたピノも、最後には少し笑った。
◇
翌朝、《砂糖鈴》の作業台には、前日に失敗した蜜泡菓子が並べられていた。
ピノはそれを薄く切り、若い職人と一緒に低い火で焼き直していく。
「これ、本当に売るんです?」
「まずは試食に出す」
「名前は?」
「《蜜薄焼き》でいいでしょう」
「そのままですね」
「分かりやすい方がいいの」
焼き上がったものを工房前へ少量並べると、昼までに何人かが試食し、「固いけれど香ばしい」「お茶に合いそうだ」「いつもの蜜泡菓子とは全然違う」「これはこれで好きだ」と、それぞれ違う感想を残していった。
客の反応は悪くなかったため、ピノは一つずつ帳面へ書き込んだ。
昨日の朝までなら、失敗した菓子を前にして、すぐ次を作ることしか考えなかっただろう。
今は、なぜ失敗したのかを記録し、どこを変えたことで戻ったのかを残し、そのうえで失敗したものまで別の使い方へ変えられるか試している。
手を動かしている時間そのものは以前より少し減ったが、それでも仕事が遅くなったとは感じなかった。
◇
数日後、ピノは新しい蜂蜜を小瓶に入れ、《持ち込み食堂》を訪れた。
「今日は何です?」
悠斗が尋ねる。
「新しい樽の蜜」
「また水分多い?」
「前よりもっと多い」
「大丈夫なんですか?」
「だから来たの」
「また蜜泡菓子?」
「今度は違うもの作る」
「何にします?」
ピノは小瓶を卓へ置いた。
「この蜜は、蜜泡菓子に合わせるより、最初から水分が多いことを利用した方がいいと思う」
悠斗は少し笑った。
「もう考えてるんですね」
「職人だからね」
「急いで試します?」
ピノはすぐに答えず、厨房の作業台と、時計代わりに置かれた砂計へ目を向けた。
「今日は予約ないから、少量ずつ試す」
「珍しい」
「それ言うの二回目よ」
「覚えてたんですね」
「菓子職人は細かいこと覚えるの」
◇
二人は蜂蜜へ乳と卵を合わせ、小さな焼き菓子を試すことにした。
最初の一回では火が強すぎて表面だけが先に焼けたため、ピノはすぐ次を作ろうとしたものの、途中で手を止めて断面を確認した。
「中の水分が多い」
「じゃあ火を弱く?」
「弱くして、時間を少し伸ばす」
「ほかは?」
「変えない」
二回目では表面も中も均等に火が入り、ピノは一口食べてから少し考えた。
「まだ甘すぎる」
「蜂蜜減らします?」
「次はそこだけ減らす」
以前なら、同時に乳の量や粉の量まで変えていたかもしれないが、今は一度に一つだけ確かめる方が、結局は早く答えへ近づけることを理解している。
悠斗が何も言わずに見ていると、ピノが顔を上げた。
「何?」
「いや、ちゃんと待てるようになったなと思って」
「待つのが好きになったわけじゃない」
ピノはすぐに答えた。
「今でも焼いてる間は手を動かしたいし、結果が出るまで待つのは嫌いよ」
「じゃあ変わってない?」
「嫌いでも、必要なら待つだけ」
そう言ってから、ピノは炉の中にある二回目の菓子へ目を向けた。
「急ぐことと、早く終わらせることが同じじゃないって分かったから」
◇
その日の夕方、ピノは工房へ戻ると、翌日の仕込み表を書き直した。
朝一番の蜜泡菓子は最初から全量を混ぜず半分ずつ仕込み、新しい蜂蜜を使う日には、いきなり本番へ入らず小さな試験を一度だけ挟む。さらに炉へ入れたあとは、焼き時間が来るまで扉を開けないという一文まで加えた。
若い職人が横から仕込み表を覗き込んだ。
「親方、最後のやつ自分向けですよね」
「全員向けよ」
「俺、途中で開けたことないです」
「これからあるかもしれないでしょう」
「親方だけだと思いますけど」
「明日の粉量っておきなさい」
「はいはい」
「返事は一回」
「はい」
ピノは帳面を閉じた。
待つ時間そのものを好きになれたわけではなく、炉の前で何もできない時間には今でも落ち着かなさを覚える。それでも、急いで手を動かし続けるより、必要なところで一度止まり、何が起きているのかを確かめた方が、結果として客へ早く良い菓子を渡せることは理解できた。
翌朝の最初の仕込みに使う材料を一つずつ確認したあと、ピノは砂計へ目を向けたが、まだ作業を始める時刻には少し早かったため、先に生地へ手を伸ばすことはせず、予定していた時間になるまで工房の窓を開け、昨日より少しだけゆっくりと朝の空気を入れ替えた。
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