第18話 消える香りと、言葉を借りる精霊術師
アルマ・フィーネは、人間よりも精霊と話している時間の方が長い女だった。
百六歳になるエルフの彼女は、レーヴェンで精霊術師として働いており、水路の流れを整えたり、街路樹へ集まりすぎた風精霊を別の場所へ移したり、井戸や畑で起こる魔力の偏りを調べたりして生計を立てている。一般的な魔術師が自らの魔力を使って現象を起こすのに対し、精霊術師は土地や水、風、火などに宿る精霊の力を借りるため、その声や機嫌を読み取ることが何より重要だった。
アルマはその仕事において優秀であり、水路が濁れば水の精霊が何を嫌がっているのかを誰より早く見抜き、作物の育ちが悪ければ土の中へ溜まった魔力の偏りを探し出すことができた。ほかの術師には何も感じられない場所であっても、彼女なら風の小さな変化や水面の震えから、そこにいる精霊の状態を読み取ることができる。
しかし、人間や獣人、ドワーフやエルフと話す時にも、同じように相手の気持ちを察して済ませようとする癖があった。
「風の子たちが、今日は東側を嫌がっているわ」
昼前、レーヴェン中央広場の街路樹を見上げながら、アルマはそう言った。
隣に立っていた都市管理局の職員は、手にした記録板へ言葉を書き込みながら眉を寄せた。
「東側を嫌がっている、というのは、具体的にはどういう状態でしょうか」
「落ち着かないみたい」
「原因は?」
「石畳の下が熱いと言っているわ」
「では、地下配管に異常がある可能性が?」
「そこまでは言っていない」
「……精霊が?」
「ええ」
職員は困ったように記録板へ目を落とした。
「アルマさん自身は、どう思います?」
「私は精霊がそう感じていると言っているだけよ」
「それは分かるんですが、こちらは修理班を呼ぶかどうか決めないといけないので」
アルマは街路樹の幹へ手を添え、細い枝の間を通り抜ける風へ意識を向けた。
彼女にしか見えない淡い緑色の光が葉の裏側を走り、石畳の方角へ降りてから、また枝先へ戻っていく。
「地下に熱が溜まっているのは確かね。ただ、配管が割れている感じではないわ」
「それはアルマさんの判断ですか?」
「風の子が――」
「アルマさんの判断として聞きたいんです」
職員に念を押され、アルマは少しだけ眉を寄せた。
「……配管を全部掘り返すほどではないと思うわ。ただし、夕方まで温度が下がらなければ点検した方がいい」
「分かりました」
職員は、ようやく必要な内容が出てきたという顔で記録を続けた。
「最初からそう言ってもらえると助かります」
「同じことを言っていたつもりだけど」
「少し違います」
「そうかしら」
「かなり違います」
アルマには、その差がいまひとつ理解できなかった。
◇
精霊術師として仕事を始めた頃から、アルマは似たようなことを何度も言われてきた。
彼女にとって精霊の言葉と自分の判断は、完全に切り離せるものではない。
精霊が感じていることを聞き、その内容を自分の経験と照らし合わせ、必要であれば別の精霊にも確かめる。そのうえで人々へ伝えているのだから、アルマ自身としては十分に判断しているつもりだった。
ところが周囲の人間は、精霊が何と言ったのかだけでなく、最後にはアルマ自身がどう考えているのかまで知りたがる。
「私が何を考えているかなんて、そんなに必要なのかしら」
中央広場での仕事を終えたあと、アルマは一人でそう呟いた。
すると肩の近くに浮いていた小さな風精霊が、耳元で鈴を転がすような音を立てながら、彼女の周囲を楽しそうに回った。
「あなたたちは気にしないものね」
風精霊がさらに軽い音を返す。
「そうよね。分かれば十分でしょう?」
その反応を肯定と受け取ったアルマは、満足そうに頷いた。
◇
午後になると、アルマは南区にある共同菜園へ呼ばれた。
最近、畑の一角だけ葉野菜の育ちが悪く、土精霊に何か異常が起きているのではないかと相談を受けていたためである。
現地へ着くと、菜園を管理している女性がすぐに駆け寄ってきた。
「アルマさん、こっちです」
「見せて」
案内された場所では、青い葉をつける《青鈴菜》が周囲より明らかに小さく、葉先も少し垂れていた。
アルマは土へ指を触れ、目を閉じた。
地面の奥に宿る弱い魔力の流れを探りながら、近くにいる土精霊へ意識を向ける。
「水が多いと言っているわ」
「水?」
「この辺りだけ、根の下がずっと湿っているみたい」
「でも毎日同じ量しか撒いてません」
「地下から入っているのかもしれない」
管理人の女性が心配そうに畑を見る。
「植え替えた方がいいですか?」
「土の子たちは、ここが嫌だと言っている」
「じゃあ植え替えた方が?」
「そうは言っていないわ」
「でも嫌がってるんですよね?」
「ええ」
「アルマさんは、どうした方がいいと思います?」
午前中にも聞かれた問いを再び向けられ、アルマは少し黙ったあとで、周囲の土まで確かめることにした。
「この一角だけ溝を掘って、水を逃がしてみた方がいいと思う。二日ほど様子を見て、それでも変わらなければ植え替えた方がいいわ」
「分かりました」
「土の子も、その方が――」
「それはもう大丈夫です」
女性は悪意のない笑顔を浮かべた。
「アルマさんがそう思うなら、まずそれをやってみます」
ただ自分の判断を求められただけだと分かっているのに、アルマはなぜか少し居心地の悪さを覚えた。
◇
仕事を終えて共同菜園を出ようとしたところで、管理人の女性が小さな布袋を持って追いかけてきた。
「アルマさん、これ持っていきません?」
「何?」
「《風露葉》です。今年たくさん育ったので」
袋の口を開けると、細長い銀緑色の葉が束になって入っていた。
風露葉は高地に近い場所で育つ香草であり、葉を摘んだ直後には柑橘に似た爽やかな香りを持つものの、乾燥させたり強く加熱したりすると香りが急激に弱くなる。そのためレーヴェンでは、飲み物へ浮かべたり、冷たい料理へ少量使ったりすることが多かった。
「こんなに?」
「市場へ出す分から外したものです。葉の形が悪いだけで、香りは十分ありますよ」
アルマは一枚取り出し、指先で軽く擦った。
爽やかな香りが広がると、近くにいた風精霊たちが一斉に集まり、葉の周囲を楽しそうに回り始めた。
「あら、この子たちが気に入ったみたい」
「なら持っていってください」
「でも、こんな量は使わないわ」
「お茶にすれば?」
「熱を入れると香りが消えるでしょう」
「そうなんですよね。だから余るんです」
女性は困ったように笑った。
「香りはいいのに、使い方が少なくて」
「精霊は好きみたいだけど」
「人が食べる方法を知りたいんですよ」
その言葉を聞き、アルマは風露葉へ目を戻した。
「……そうね」
◇
自宅へ持ち帰ったとしても、アルマ自身が使える量には限りがあり、風精霊が喜んでいるからという理由だけで部屋中へ置いておくつもりもなかった。
少し考えた末、アルマは以前から耳にしていた《持ち込み食堂》へ向かうことにした。
店へ入った瞬間、肩の周囲を漂っていた風精霊が一斉に天井近くまで上がった。
「何?」
アルマが見上げると、精霊たちは厨房の方向を気にしているようだった。
「いらっしゃいませ」
ミレイアが声をかける。
「その袋、持ち込みですか?」
「ええ。風の子たちが、この店に興味を持ったみたいだから」
「風の子?」
「精霊よ」
ミレイアは何も見えない空間を見回した。
「今いるんですか?」
「何人かいるわ」
「人って数え方なんです?」
「厳密には違うけれど、説明が面倒だから私はそう数えているの」
「なるほど」
ミレイアは理解したような、していないような顔で頷いた。
「悠斗ー、精霊のお客さん」
「私は客じゃないの?」
「もちろんお客さんです!」
厨房から悠斗が顔を出した。
「こんにちは」
「アルマ・フィーネ。精霊術師よ」
「鏡悠斗です」
悠斗は袋の中を見た。
「これは?」
「風露葉。風の子たちが気に入っているわ」
「食べられるんですか?」
「ええ。ただし強く火を入れると香りがかなり弱くなる」
「味は?」
「苦味はほとんどなくて、少しだけ酸味があるわ」
「アルマさんは、どう食べたいです?」
その質問を聞いた瞬間、アルマは答えるまでに少し間を置いた。
「風の子たちは、刻まずに使ってほしいみたい」
「アルマさんは?」
「だから、風の子が――」
「精霊の希望とは別に、アルマさん自身はどう食べたいです?」
アルマは悠斗の顔を見た。
「同じことを聞くのね」
「誰かにも言われました?」
「今日は何度も」
「じゃあ、聞き方を変えましょうか」
悠斗は袋から一枚だけ葉を取り出した。
「この葉を、精霊がいなかったとして食べるなら、アルマさんはどんな味が好きです?」
「精霊がいなかったら?」
「はい」
「……考えたことがないわ」
「じゃあ今、考えてみましょう」
◇
アルマは風露葉を一枚受け取り、自分でもう一度香りを確かめた。
爽やかな香りそのものは好きだったが、それを料理へどう使いたいのかと聞かれると、すぐには答えが浮かばない。
「甘いものは好きです?」
「嫌いではないわ」
「酸っぱいものは?」
「強すぎなければ」
「肉と魚なら?」
「今日は肉を食べたいかもしれない」
考えるより先に答えが出たことへ自分で驚き、アルマはわずかに目を見開いた。
「今のは?」
悠斗が聞く。
「私が言ったわ」
「分かってますよ」
「……変な感じね」
ミレイアが笑う。
「普段、自分が食べたいもの言わないんですか?」
「誰かと食べる時は、相手が食べたいものでいいから」
「いつも?」
「大抵は」
「アルマさんが決める日は?」
「精霊が好む店を選ぶことはあるわ」
「また精霊になってる」
ミレイアに言われ、アルマは少しだけ困った顔をした。
◇
悠斗は風露葉を何枚か並べて状態を確認した。
「強い火で香りが飛ぶなら、最後に使う方がよさそうですね」
「風の子たちもそう言っているわ」
「それは参考にします」
「信じるの?」
「アルマさんが食材の特徴として教えてくれているなら」
「精霊の言葉よ」
「それを聞いて、料理に使える情報だと判断したのはアルマさんですよね」
アルマは少し黙った。
「……そうなるのかしら」
「たぶん」
悠斗は鶏に似た家禽肉を取り出した。
「肉を食べたいって言ってたので、今日はこれを焼きます」
「今日は私が決めたから?」
「はい」
肉へ軽く塩を振り、皮のある面から鉄鍋へ置く。
脂が落ち始めるにつれて厨房へ香ばしい匂いが広がると、アルマの周囲を漂っていた風精霊たちも、その香りへ反応するように動きを変えた。
「そっちも好きみたい」
「肉の匂いも分かるんですね」
「風に乗る匂いは好きな子が多いわ」
「食べるんです?」
「この子たちは食べない。香りや熱の動きを楽しんでいるだけ」
「面白いですね」
悠斗は根玉葱を薄く切り、肉から出た脂でゆっくり焼いた。
別の鍋では黄芋を茹で、粗く潰してから少量の乳酪を混ぜる。
「風露葉は?」
アルマが聞く。
「まだ使いません」
「最後まで?」
「たぶん、火を止めてからですね」
肉へ十分に火が通ったところで皿へ移し、少し休ませる。
その間に悠斗は、風露葉をほんの数枚だけ細く切った。
「あ」
アルマが思わず声を出した。
「どうしました?」
「風の子が、切ったって騒いでる」
「駄目でした?」
アルマは精霊たちの動きをしばらく見た。
「……嫌がってはいないわ。驚いただけみたい」
「じゃあ続けますね」
細く切った葉へ少量の油と塩を加え、ほんの少しだけ蜂蜜を混ぜる。
「甘くするの?」
「少しだけです。葉の酸味を丸くする程度に」
さらに少量の酢を足し、加熱せずに軽いソースへ仕上げたあと、焼いた肉を切り分け、その上へ風露葉のソースをかける。
「《焼き鳥肉の風露葉添え》です」
◇
アルマが最初の一切れを口へ運ぶと、焼いた肉の香ばしさと脂の旨味が先に広がり、その直後から風露葉の冷たい香りが鼻へ抜けていった。
葉を加熱していないため、爽やかな香りはほとんど消えていない。
「……好きだわ」
アルマは考えるより先にそう言った。
「精霊が?」
ミレイアが尋ねる。
「私が」
「おお」
「何、その反応」
「いや、ちゃんと本人の感想が出たなって」
「私だって感想くらい言うわ」
「普段も?」
「……言っているつもりよ」
アルマはもう一切れ食べた。
黄芋の柔らかな味を挟んでから再び肉へ戻ると、風露葉の香りを最初よりもはっきり感じられる。
「蜂蜜は少ない方がいい」
アルマが言った。
「今くらい?」
「もう少し減らしてもいいわ。私は酸味が少し残っている方が好き」
「分かりました」
「あと、葉はもう少し太くてもいいかもしれない。細いと肉の味に隠れるところがあるから」
悠斗が笑った。
「結構好みありますね」
アルマは匙を止めた。
「……そうみたいね」
◇
食事が進むにつれて、アルマは自分の昔のことを少しずつ話すようになった。
精霊の声が初めて聞こえたのは、まだ幼い頃だった。
エルフの集落では精霊と意思を交わせる子どもは珍しくなかったが、アルマはその中でも特に感覚が鋭く、周囲の大人から何度も頼りにされた。
「この井戸を精霊が嫌っていないか見てほしいとか、森のどちらへ行けば雨を避けられるか聞いてほしいとか、そういうことを頼まれるようになったの」
「子どもの頃から?」
「ええ。最初は嬉しかったわ」
自分にだけ聞こえる声を、大人たちが必要としてくれる。
精霊の言葉を伝えるたびに褒められ、アルマは自分の役割をそこへ見つけていった。
「そのうち、何を聞かれても精霊へ尋ねるようになったわ」
「何を食べたいとかも?」
「昔、母に夕食を聞かれた時、火の子が焼いた根菜を食べたがっていると言ったことがある」
「本当は?」
「私が食べたかったの」
ミレイアは笑いを堪えきれなかった。
「子どもの頃からじゃないですか」
「そうね」
「何で、自分が食べたいって言わなかったんです?」
アルマは少し考えた。
「精霊が望んでいると言えば、理由になるからかもしれない」
「理由?」
「私が食べたいというだけより、精霊が喜ぶからと言った方が、相手に受け入れてもらえるような気がしたの」
悠斗は皿を片づけながら話を聞いていた。
「断られるのが嫌だった?」
「たぶん、それもあるわ」
自分が望んだことを伝えて断られるより、精霊の希望として伝えた方が傷つかずに済む。
仕事でも似たところがあった。
自分の判断が間違っていた時に「精霊はこう言っていた」と伝えておけば、自分一人の判断ではなかったと思える。もちろん精霊の言葉を嘘に使ったことはないが、その先でどうするべきかという部分まで、無意識のうちに精霊の言葉へ預けるようになっていた。
「でも、精霊は責任取れないですよね」
悠斗が言った。
アルマは顔を上げる。
「どういう意味?」
「今日の地下配管とか畑のことを、精霊が最終的に決めるわけじゃないでしょう」
「もちろんよ」
「なら、聞いた情報をどう使うかはアルマさんが決めるんですよね」
「……そうね」
「それを知りたいから、みんな『アルマさんはどう思う』って聞くんじゃないですか」
アルマはしばらく何も言わず、肩の周囲にいる風精霊へ目を向けた。
小さな風が静かに彼女の髪を揺らしている。
「この子たちは、そんなことまで考えていないものね」
「精霊って、人間と同じ考え方ではないんですよね」
「全然違うわ。そもそも、責任という感覚がない子も多い」
「なら、なおさら最後はアルマさんの言葉が必要そうですね」
アルマは風精霊へ向かって、小さく呟いた。
「あなたたちのせいにしていたみたい」
淡い光の一つが彼女の鼻先を横切り、その直後に柔らかな風が頬を撫でた。
「怒っている?」
もう一度穏やかな風が返ってきたため、アルマは少し笑った。
「そう。気にしていないのね」
◇
店を出る前、アルマは残っていた風露葉を二つに分け、一方を自宅へ持ち帰る分として袋へ戻し、もう一方を悠斗へ差し出した。
「これ、使って」
「いいんですか?」
「ええ。私はそうしてほしい」
悠斗は風露葉を受け取った。
「精霊じゃなくて?」
「この子たちも喜ぶと思うけれど、今のは私が決めたことよ」
「ありがとうございます」
アルマは少しだけ満足そうに頷いた。
◇
翌朝、アルマは前日に調べた中央広場へ向かった。
都市管理局の職員はすでに街路樹のそばで待っている。
「おはようございます。地下の温度、どうでしょう?」
アルマは街路樹へ手を添え、風精霊の様子を確かめた。
精霊は昨日より落ち着いており、石畳から上がってくる熱も明らかに弱くなっている。
「風の精霊は、昨日より落ち着いているわ」
「原因は分かりました?」
「地下の熱そのものは下がっているから、大きな破損の可能性は低いと思う。ただ、昨日だけ急に温度が上がった理由はまだ分からないので、配管を掘り返す必要まではないけれど、外から確認できる範囲だけ点検した方がいいと私は思う」
職員が記録板へ書きながら顔を上げた。
「今日は分かりやすいですね」
「昨日も同じことを言っていたでしょう」
「最後のところが違いますよ」
「私が思う、って部分?」
「そこが大事なんです」
「変なものね」
「そうですか?」
「精霊の情報が一番大事だと思っていたから」
「それを聞いたアルマさんが、どう判断したのかも僕らには大事ですよ」
アルマは少しだけ考えてから頷いた。
「覚えておくわ」
◇
その足で共同菜園へ向かうと、昨日掘った排水用の溝によって、問題の一角から余分な水が抜け始めていた。
管理人の女性が嬉しそうに手を振る。
「アルマさん、見てください。水、かなり減りました」
「青鈴菜は?」
「少し葉が起きた気がします」
アルマは土へ触れ、土精霊の気配を確かめた。
昨日ほど重苦しい感覚はなく、水が抜けたことで根の周囲の状態も少しずつ戻り始めている。
「この子たちも昨日より落ち着いているわ」
「じゃあ、このままで大丈夫ですか?」
以前なら、アルマは精霊の様子だけを伝えて終わらせたかもしれない。
しかし今日は、得られた情報を自分の経験と照らし合わせてから、その先まで言葉にした。
「私は、あと二日はこのまま水を控えて様子を見るのがいいと思う。それでも葉が戻らない株だけ植え替えましょう」
「分かりました」
管理人の女性は素直に頷き、それ以上アルマへ判断を押し返してくることもなかった。
自分の意見を口にしたからといって、強く反論されるわけでも、責任をすべて押しつけられるわけでもないことに、アルマは少し拍子抜けした。
「昨日の風露葉、どうでした?」
「料理にしてもらったわ」
「どんな?」
「焼いた鳥肉へ、火を入れない風露葉のソースをかけたの」
「美味しかった?」
アルマは精霊を見ることなく答えた。
「私は好きだったわ」
「じゃあ今度やってみます」
「蜂蜜は少なめがおすすめよ。酸味が残っている方が、私は美味しいと思う」
自分の好みを二度続けて口にしたあと、アルマは少しだけ可笑しくなった。
◇
それから数日間、アルマの仕事そのものが大きく変わることはなかった。
精霊の声を聞き、それを人へ伝えることはこれからも彼女の役割であり、その能力を手放す理由などない。
ただし、精霊から得た情報と、自分自身がそこから考えた判断を、できるだけ分けて話すようになった。
「水の精霊は流れを嫌がっているから、私はこの場所へ土が詰まっている可能性が高いと思う」
「火の精霊は炉の右側を避けているので、私なら右壁に亀裂がないか先に調べる」
「風の精霊はこの屋根の上だけ流れが乱れていると言っているから、私としては煙突の位置を少し変えた方がいいと思う」
最初のうちは、そう言うたびに妙な違和感が残った。
自分の判断を言葉へすることで、それが間違っていた場合には自分が間違えたことになるため、精霊の言葉だけを伝えていた頃より少し怖い。
それでも、人々との話は以前より短く済むことが増え、何より、相手が何を知りたがっているのかを少しずつ理解できるようになった。
◇
一週間ほど経った夕方、アルマは仕事を終えたあと、一人で《持ち込み食堂》へ入った。
今日は袋も籠も持たず、本当に食事をするためだけに来ている。
「いらっしゃいませ。持ち込みなし?」
ミレイアが尋ねる。
「今日は食べに来ただけ」
「精霊が?」
アルマはミレイアを見る。
「私が」
「確認しただけです」
「わざとでしょう」
「少しだけ」
アルマは空いている席へ座った。
悠斗が厨房から出てくる。
「今日は何にします?」
アルマの周囲には、いつものように小さな風精霊が何体か漂っている。
厨房からは煮込みの匂いと焼いた肉の香り、それにパンの香ばしさが流れてきており、風精霊たちはそれぞれ好き勝手な方向へ動いていた。
以前なら、その様子を見てから何を頼むか決めていたかもしれない。
「風露葉の料理はある?」
「今日はないです」
「そう」
「普通の鳥肉焼きならできますよ」
「じゃあ、それにするわ」
「味付けは?」
「少し酸味が欲しい。甘味は控えめで、香草は強すぎない方がいいわ」
悠斗が頷く。
「分かりました」
注文を終えると、アルマは椅子の背へ身体を預けた。
肩の近くでは風精霊たちが相変わらず厨房の香りを追いかけているが、今日はその動きを見て自分の注文を変えるつもりはなかった。
「あなたたちは好きにしていいわよ」
誰にも聞こえない声へ向かって、アルマは小さく言った。
精霊が何を好むのかを聞くことも、その言葉を大切にすることも、これから先ずっと変わらないだろう。
けれど、自分が何を食べたいのか、自分ならどうしたいのかまで、精霊の言葉へ隠してしまう必要はなかった。
しばらくして料理が運ばれてくると、アルマは最初の一口を自分自身の舌でゆっくり味わい、誰の反応を確かめることもなく、次に頼む時にはもう少しだけ酸味を強くしてもらおうと、自分の好みとして静かに覚えておいた。




