第17話 濁った酒と、味を変えられない醸造家
ドラン・バッカスは、自分の酒を嫌いだと言われることには、とっくの昔に慣れていた。
七十三歳になるドワーフの彼は、レーヴェン西区で《赤樽醸造所》を営んでおり、若い頃から数えれば五十年以上にわたって酒を造り続けている。麦を使った濃い酒を得意とし、とりわけ深く焙煎した麦芽から仕込む《黒炉酒》は、焦がした穀物を思わせる香ばしさと強い苦味、それに喉を通ったあとまで長く残る重い風味によって、街の酒好きたちからよく知られていた。
好きな者からは、これほど酒らしい酒はないと言われる一方、苦手な者からは、一杯を飲み切る前に水が欲しくなるとも言われる。
長いあいだ同じ酒を造ってきたドランにとって、どちらの感想も珍しいものではなく、黒炉酒の苦味が嫌なら無理に飲む必要はないというのが、昔から変わらない考えだった。
ところが、その日の朝、《赤樽醸造所》で若い職人から告げられた言葉だけは、いつものように聞き流すことができなかった。
「親方、この樽、売りません」
酒の状態を確認していたドランは、持っていた木杯を止め、太い眉を大きく動かした。
「もう一回言ってみろ」
「この樽は、いつもの黒炉酒としては売れません」
「飲めんのか」
「飲めます」
「腐ってんのか」
「腐ってません」
「じゃあ何が悪い」
若い職人は樽の横に置かれていた木杯を取り、少量の酒を入れてから中身を揺らした。
「味が違います。香りが軽いし、苦味も弱いうえに、いつもの黒炉酒より甘味がかなり残っています」
「仕込みごとに多少違うのは当たり前だろうが」
「多少で済む範囲じゃありません」
ドランは職人から木杯を奪うように受け取った。
中に入っている酒は、見た目からして普段の黒炉酒とはわずかに違っている。通常の黒炉酒は、光へ透かしても反対側がほとんど見えないほど濃い褐色をしているが、この樽のものは少し赤みが強く、底へ沈んでいる澱も普段より細かい。
ドランは一度香りを確かめてから、酒を口へ含んだ。
焦がした麦の香りは明らかに弱く、最初に舌へ届く苦味も少ない。その代わり、穀物由来と思われる甘さが舌の奥へ残り、飲み込んだあとにも強い渋味が追いかけてこないため、同じ仕込み方をした酒とは思えないほど印象が軽かった。
「……薄いな」
「でしょう?」
「焙煎が甘かったか」
「記録では、いつもと同じ時間です」
「火が弱かった」
「炉の温度も、記録上は同じです」
「なら麦だ」
「今年の南畑の麦は、前より糖が強いって仕入れ先も言ってました」
「だったら次から焼きを強くすりゃいい」
ドランはそう言って木杯を卓へ置いた。
「この樽は?」
「売る」
「黒炉酒として?」
「他に何として売る」
若い職人はすぐには答えなかったが、その沈黙を見たドランは、かえって機嫌を悪くした。
「言いたいことがあるなら言え」
「親方、この味を無理にいつもの味へ寄せなくてもいいんじゃないですか」
「何だと?」
「失敗してないんですよ。ただ、いつもの黒炉酒とは違うだけです」
「黒炉酒を仕込んだんだぞ」
「でも、出来上がったものはいつもの黒炉酒じゃない」
「だから直すんだろうが」
「もう出来上がった酒を、どうやって直すんです?」
その問いを受けて、ドランは返事をしなかった。
熟成を終えた酒へ焦がした麦を後から加えれば、香りだけなら少し近づけられるかもしれないが、味の芯まで元へ戻すことはできない。無理に苦味を加えれば全体の釣り合いを崩す可能性が高いことくらい、五十年以上酒を造ってきたドラン自身が誰より理解していた。
「混ぜる」
「別の濃い樽と?」
「そうだ」
「そしたら、この樽の味は消えますよ」
「消して何が悪い」
「……俺は、結構好きです」
若い職人からそんな言葉が出てきたため、ドランは顔を上げた。
「お前、黒炉酒の職人だろうが」
「だから分かるんですよ。これはいつもの黒炉酒とは違いますけど、酒としてまずくはありません」
「客は黒炉酒を買いに来る」
「なら別の名前で出せばいい」
その言葉を聞いた瞬間、ドランは木杯を卓へ強く置いた。
「そんな簡単に酒の名前を増やすな」
「でも――」
「黒炉酒は黒炉酒だ。五十年近く同じやり方で造ってきたものを、今年の麦が少し違ったくらいで別物にしてたまるか」
若い職人は口を閉じ、それ以上は何も言わなかった。
ドランもまた、答えを出せないまま樽へ向き直った。
◇
午前中いっぱい、ドランは醸造所に残されている仕込み記録を読み返した。
仕込みの日付や麦の産地、焙煎した時間と炉の温度、発酵期間、使用した酵母、樽へ移した日の気温まで一つずつ確認したものの、工程上の大きな失敗は見つからなかった。
過去の記録と明確に違っているものがあるとすれば、やはり原料となった麦そのものだった。
今年、南側の畑で採れた麦は例年より粒が大きく、水分を抜いたあとにも糖分が多く残っていた。焙煎すれば当然香ばしさは生まれるものの、これまでと同じ時間では内部まで強く焼き切れず、その甘味が酒へ残った可能性が高い。
「だったら、来年から火を変えりゃ済む話だ」
ドランは一人でそう呟き、次回の仕込みについてはすでに答えを出した。
問題なのは、今まさに目の前にある今年の酒だった。
すでに大樽三本分が仕上がっており、そのすべてを従来の黒炉酒へ混ぜれば、ある程度は味を揃えられるだろう。ただし軽い酒を大量に混ぜれば、せっかく良い状態に仕上がっている古い樽まで全体の輪郭が変わってしまう。
酒そのものだけを見れば、無理に混ぜず、別の味として扱う方が自然なのかもしれない。
そこまで理屈では理解できていたが、それでもドランの中には、黒炉酒として仕込んだものを別の酒として認めることへの強い抵抗が残っていた。
「親方」
昼前になると、朝の若い職人が再び声をかけてきた。
「何だ」
「一樽だけ残しません?」
「何のために」
「試しに売るんです」
「誰が買う」
「酒場とか、料理屋とか」
「黒炉酒じゃない酒を、うちが出すのか」
「うちは黒炉酒しか造っちゃいけないんですか?」
ドランは職人を睨んだが、相手も今回は引かなかった。
「親方が黒炉酒を大事にしてるのは知ってます。でも、同じ味じゃないものが出来た時に、何でも失敗ってことにするのは違うと思うんです」
「お前はまだ二十年も酒を造ってねえ」
「だから、五十年やってる親方に聞いてるんです」
「何をだ」
「本当に、同じじゃないと駄目なんですか」
ドランは答えを返せないまま、樽へ視線を落とした。
◇
昼を過ぎた頃、ドランは小さな樽を一つ抱えて醸造所を出た。
若い職人には、酒場へ試飲を持っていくとだけ告げてあるため、完全な嘘をついたわけではない。
ただし彼が向かった先は、いつも酒を卸している酒場ではなかった。
西区の外れにある《持ち込み食堂》について、ドランは以前から耳にしていた。変わった食材を料理する店であり、持ち込んだものをそのまま使うだけでなく、焼いたり煮たりしながら性質を確かめることもあるらしい。
酒を料理屋へ持ち込むというのは少し違う気もしたが、醸造所で働く職人とは別の舌で、この味を確かめる価値はあるはずだった。
そこまで考えたところで、ドランは道の途中で足を止めた。
酒なら自分ですでに飲んでいるし、若い職人にも飲ませている。ほかの職人たちにも少しずつ味を見てもらったが、全員が「いつもより軽いが、まずくはない」と答えていた。
それでも外へ持ち出す理由を探しているのは、酒の良し悪しを知りたいからではなく、自分がまだ違う味を認めたくないからなのかもしれない。
「面倒くせえ」
吐き捨てるように呟きながらも、ドランは引き返さず、そのまま食堂へ向かった。
◇
《持ち込み食堂》へ入ると、ミレイアがドランの抱えている小樽を見て目を丸くした。
「今日はお酒ですか?」
「持ち込みは食材だけか」
「料理に使えるなら大丈夫だと思いますけど、飲むだけなら普通に注文してください」
「料理人を呼べ」
「その言い方だと喧嘩しに来たみたいですよ」
「喧嘩じゃねえ」
「じゃあ悠斗ー」
厨房から出てきた悠斗が、小樽とドランを交互に見た。
「こんにちは」
「お前が店主か」
「鏡悠斗です」
「ドラン・バッカスだ。《赤樽醸造所》をやってる」
「ああ、黒炉酒の」
「飲んだことあるのか」
「あります。かなり苦いやつですよね」
その言い方を聞いたドランの眉が動いた。
「苦いだけじゃねえ」
「香ばしさも強いですね。あと、後味がかなり長く残ります」
「分かってるじゃねえか」
「一杯でかなり満足する味でした」
「二杯飲め」
「仕事中なので」
ミレイアが横で笑いを堪えているのを睨んでから、ドランは小樽を卓へ置いた。
「一口飲め」
「いきなりですか?」
「毒は入ってねえ」
「それは信じますけど、昼から酒ですか」
「味を見るだけでいい」
「仕事としてなら」
「そうしろ」
◇
ドランが木杯へ少量の酒を注ぐと、悠斗はすぐ飲むのではなく、最初に色と香りを確かめた。
「黒炉酒より明るいですね」
「分かるか」
「前に飲んだものは、もっと黒かったです」
悠斗はほんの少しだけ口へ含み、すぐには飲み込まず、舌の上で風味の変化を確かめてから木杯を置いた。
「これ、同じ酒ですか?」
「同じ仕込みだ」
「でもかなり違いますね」
「だから来た」
「何が起きたんです?」
「今年の麦が甘い」
ドランは仕込みの経緯を簡単に説明した。
焙煎時間も発酵期間も例年通りであり、大きく違うのは原料となった麦だけだった。その結果として、出来上がった酒はいつもの黒炉酒より苦味が弱く、甘味が残ったと考えられる。
「失敗したんです?」
悠斗にそう聞かれたドランは、すぐには答えなかった。
「そこを聞きに来たわけじゃねえ」
「じゃあ何を?」
「料理に使えるか見ろ」
「普通に飲めますよ」
「それは知ってる」
「なら、料理に使う理由は?」
「食堂だろうが」
「そうですけど」
悠斗はもう一度ほんの少しだけ味を確かめた。
「肉には合いそうですね」
「黒炉酒も肉に使う」
「これは黒炉酒より甘いので、煮込みへ入れた時の印象はかなり変わりそうです」
「試せ」
「何の肉がいいかな」
悠斗は厨房へ戻り、その日仕入れていた牛に近い家畜肉を取り出した。
「せっかくだから、いつもの黒炉酒と比べてみます?」
「何とだ」
「店にある黒炉酒です」
「何である」
「料理用に一本買いました」
「うちのか?」
「《赤樽醸造所》って書いてありましたよ」
それを聞いたドランの機嫌は、ほんの少しだけ良くなった。
「なら使え」
◇
悠斗は同じ大きさへ切った肉を二つの小鍋へ分け、根玉葱も同量ずつ入れたうえで、塩や香草についても条件をできるだけ揃えた。
「一方へいつもの黒炉酒を入れて、もう一方へ今日の酒を入れます」
「酒の量も同じにしろ」
「そのつもりです」
ドランはすぐ横で腕を組み、先ほどまでの客としての顔ではなく、完全に職人の表情で鍋を見ていた。
「煮詰めすぎるな」
「香りが飛びます?」
「飛ぶし、黒炉酒の場合は苦味だけ強く残ることもある」
「今日の酒だと?」
「そこは分からん」
「分からないんですね」
「だから見に来たんだろうが」
悠斗は笑いながら鍋を火へかけた。
最初に根玉葱を炒め、肉の表面へ焼き色をつけてから、それぞれへ同じ量の酒を加える。
条件をほとんど揃えたにもかかわらず、酒を入れた直後から香りの立ち方には明確な違いが現れた。
従来の黒炉酒を入れた鍋からは、焦がした麦と苦味を思わせる強い香りが立ち上がり、肉の脂にも負けない存在感を残している。
その一方、今回の軽い酒を加えた鍋からは、香ばしさの奥へ穀物の甘い匂いが混じり、根玉葱の香りとも自然に馴染んでいた。
「全然違いますね」
悠斗が言った。
「見りゃ分かる」
「料理だと、今日の酒の方が使いやすい場面もありそうです」
「何?」
ドランの眉が跳ね上がる。
「黒炉酒の方が悪いって意味じゃないですよ」
「今そう聞こえたぞ」
「料理によって使い分けられるって話です。黒炉酒みたいに味の強い酒なら、料理側にもそれに負けない材料が必要になりますから」
悠斗は黒炉酒を入れた方の鍋へ、少量の赤根を追加した。
「こっちは肉や根菜の味も強めにした方が釣り合いそうです」
「なら最初からそうしろ」
「比較なので」
「料理人は面倒だな」
「この前、傭兵の人にも同じこと言われました」
◇
二つの鍋を弱火でしばらく煮ると、香りだけではなく色や煮汁の濃さにも差が出始めた。
黒炉酒を使った方は煮汁の色が濃く、焦がした麦の香ばしさと苦味が前へ出ている。その一方、今回の酒を使った方では根玉葱の甘さがはっきり残り、肉の脂を包み込むような柔らかい味になっていた。
悠斗はまず黒炉酒を使った鍋を味見した。
「やっぱり濃いですね」
「当たり前だ」
「肉にはかなり合うけど、一皿全部食べるなら結構強い味ですね」
「酒飲み向けだ」
「たぶんそうですね」
続いて軽い酒を使った方を口へ含み、しばらく味を確かめる。
「こっちは食べやすい」
「薄いだろ」
「薄いというより、方向が違います」
「同じ意味だ」
「違いますよ。黒炉酒の方は酒の味が料理全体を引っ張っていて、こっちは肉や根玉葱の味へ酒が馴染んでいる感じです」
「だから主張が弱い」
「主張が弱いことが、いつでも欠点になるわけじゃないでしょう」
ドランは何も答えず、悠斗が二つの煮込みを別々の皿へ盛る様子を見ていた。
「食べてみます?」
「そのために来た」
◇
最初に口へ運んだのは、従来の黒炉酒を使った煮込みだった。
ドランにとって馴染みの深い香りであり、肉の脂へ黒炉酒の焦げた香ばしさが絡み、その後から強い苦味が追いかけてくる。
「悪くねえ」
「俺も好きですよ」
次に、今年の軽い酒を使った煮込みを口へ入れた。
肉の旨味が先に広がり、そのあとから麦の甘い香りが重なる。根玉葱の甘さとも自然に繋がっており、酒を使っていることははっきり分かるものの、それだけが口の中を支配するような強さはない。
ドランは何も言わず、もう一口食べた。
「どうです?」
「……甘い」
「嫌です?」
「嫌とは言ってねえ」
さらに食べてみると、黒炉酒の煮込みより軽く、量を食べても味に疲れにくいことが分かった。
「これなら、普段は黒炉酒を重いと感じる人でも食べやすそうですね」
「酒が苦手な奴に、わざわざ酒を使った料理を食わせるのか」
「飲むのと料理に使うのでは印象も違いますからね」
「子どもには出すなよ」
「もちろんです」
ドランは匙を置いた。
「料理には使える」
「飲むのも普通にいけますよ」
「それは分かってる」
「じゃあ何が問題なんです?」
その質問を受け、ドランはしばらく木杯へ視線を落としたまま黙っていた。
◇
ミレイアが水を置いて別の卓へ戻っていくと、昼を過ぎた店の中には静かな時間が流れ始めた。
「黒炉酒は、俺の親父が形にした酒だ」
しばらくしてから、ドランが自分から話し始めた。
悠斗は何も挟まず、その続きを待った。
「昔の《赤樽醸造所》は何でも造ってた。安い麦酒も、果実酒も、蜂蜜酒もあって、どれもそこそこ売れたが、これってものがなかった」
「黒炉酒が出来て変わった?」
「ああ」
ドランの父は、焦がしすぎて使い物にならないと言われた麦を捨てず、仕込み方を何度も変えながら酒にした。
最初に出来たものは苦すぎて飲めず、次は香りが弱く、その次は発酵がうまく進まず、樽を丸ごと捨てることになった。
それでも改良を重ねた末に、ようやく形になったものが現在の黒炉酒だった。
「親父が死んでから、俺が味を守ってきた」
「ずっと同じ味に?」
「完全に同じなんて無理だ。麦も水も毎年違う。それでも、飲んだ奴が黒炉酒だと分かるところだけは変えなかった」
「それで五十年?」
「俺が仕込みに入ってからなら、それくらいだ」
ドランは自分の分厚い手へ目を落とした。
「親父が死んだ年、何軒かの酒場に言われたんだよ。息子になって味が変わったってな」
「本当に変わったんですか?」
「少しはな」
「それで戻した?」
「死ぬほどやった」
焙煎の時間を変え、酵母を選び直し、熟成樽を置く場所まで父の時代と同じにした。
何年もかけて「昔の味に戻った」と言われるようになった時、ドランはようやく自分が醸造所を継いだのだと実感できた。
「それから、味が変わること自体が嫌になったんですか」
「嫌というより、一度変えたら終わると思ってた」
「何が?」
「黒炉酒がだ」
ドランは軽い酒を使った煮込みへ目を向けた。
「一度違う味を認めたら、どこまで変えていいのか分からなくなる」
◇
「でも、今の黒炉酒も、お父さんが最初に作った時と完全に同じではないんですよね」
「同じじゃねえ」
「なら、途中ではずっと変えてきた?」
「変えたんじゃない。合わせてきたんだ」
「何に?」
「麦や水にだ」
ドランは迷わず答えた。
「同じ味を出すために、その年の材料へ合わせて火を変える。発酵が速けりゃ温度を下げるし、麦が弱けりゃ焙煎を変える。何もしなければ、同じ味になんかならねえ」
そこまで自分で言ったところで、ドランは口を閉じた。
悠斗は少しだけ笑った。
「結構変えてますね」
「結果を変えないためだ」
「でも、やり方は変える?」
「当たり前だ」
「じゃあ今年は、やり方をいつも通りにしたのに、材料がそれ以上に変わっていたから、結果まで同じにはならなかった」
「……そうだ」
「それだけ今年の麦が違ったんですね」
ドランは不満そうな顔で悠斗を見る。
「だから次の仕込みでは焙煎を強くする」
「それは黒炉酒を造るため?」
「そうだ」
「なら、この出来上がった酒まで無理に黒炉酒へ戻さなくてもいいんじゃないですか」
「簡単に言うな」
「すみません」
「謝るなら黙れ」
「でも、この酒を別で出したからって、次から黒炉酒を造らなくなるわけじゃないでしょう」
ドランは木杯へ残っていた酒を見つめた。
「客がこっちを好んだらどうする」
「売れたら困るんです?」
「……困らん」
「なら?」
「黒炉酒より売れたら腹が立つ」
悠斗は思わず吹き出した。
「笑うな」
「すみません。でも、それは酒の問題じゃないでしょう」
「分かってる」
そう答えたドラン自身も、最後には少しだけ笑った。
◇
しばらくすると店の扉が開き、食料商人のロイド・バッセルが入ってきた。
悠斗へ黒月豆の追加注文について話すために立ち寄ったらしいが、卓へ置かれた小樽とドランを見るなり、すぐに足を止めた。
「おや、ドランさん」
「何だ、商人か」
「珍しいですね。酒場以外で会うなんて」
「お前こそ、ここに何しに来た」
「仕事半分、食事半分ですよ」
ロイドは卓上の小樽を見る。
「試作品ですか?」
「違う」
「では新酒?」
「違うと言ってる」
悠斗が横から説明した。
「今年の黒炉酒の仕込みで、いつもより軽い味になったそうです」
「おい」
「秘密でした?」
「……別に隠してねえ」
事情を聞いたロイドの目が、すぐに商人らしいものへ変わった。
「飲んでも?」
「一口だけだぞ」
ドランが自分で木杯へ注ぐ。
ロイドは香りを確認し、少量を口へ含んだあと、しばらく考えてから杯を置いた。
「これは売りやすそうですね」
「お前までそれか」
「黒炉酒より軽いですから」
「軽けりゃ売れるってもんじゃねえ」
「もちろんです。ただ、黒炉酒が好きでも一杯までという客は多いので、こちらなら二杯目に選ぶ人もいるでしょう」
「俺の黒炉酒を飲んだあと、薄い方を飲ませるのか」
「逆でもいいですよ」
「商人はすぐ売り方の話をする」
「それが仕事なので」
ロイドはもう一度香りを確かめた。
「名前は?」
「ねえ」
「つければ?」
「簡単に言うな」
「売るなら必要です」
「売るって決めてねえ」
「では売らないんですか?」
ドランは答えなかった。
ロイドもそれ以上追及せず、今度は本来の用事である悠斗との話へ戻った。
◇
食事を終えると、ドランは小樽を抱えて醸造所へ戻った。
行きと帰りで樽の重さが大きく変わったわけではないのに、帰り道だけは妙に短く感じられた。
醸造所へ入ると、朝から気にしていた若い職人がすぐに寄ってきた。
「どうでした?」
「料理には使えた」
「飲んだ人は?」
「料理人と商人が飲んだ」
「何て?」
「軽いだの、売りやすいだの、好き勝手言いやがった」
「まずいとは?」
「誰も言ってねえ」
職人の表情が少し明るくなった。
「じゃあ、一樽だけ残します?」
「三樽ある」
「全部?」
「二樽は残す」
「一樽は?」
「黒炉酒と混ぜる」
「何でです?」
「濃い方の樽が一つ強すぎる。あれと合わせりゃ、いつもの範囲へ戻せる」
職人は少し驚いた顔をした。
「ちゃんと使い分けるんですね」
「酒を無駄にする気はねえ」
「残す二樽はどうします?」
ドランはしばらく考えた。
「試飲に出す」
「新酒として?」
「まだ名前はつけねえ」
「じゃあ何て書くんです?」
「今年の南麦仕込み。それでいい」
「長くないですか?」
「名前をつけるほどのもんか、それを客に飲ませてから決める」
職人は笑って頷いた。
「分かりました」
◇
三日後、《赤樽醸造所》の店先には小さな試飲樽が置かれ、その横へ説明を書いた木札も立てられた。
木札には《今年の南麦仕込み 試飲一杯・銅貨一枚》と書かれており、黒炉酒と同じものだと思って飲む者が出ないよう、その下へ《黒炉酒より軽く、甘味強め》という説明まで加えられていた。
最初の客として現れたのは、近所の鍛冶職人だった。
「ドラン、何だこれ」
「読め」
「黒炉酒じゃないのか」
「同じ仕込みから出来たが、味が違う」
「失敗?」
「飲んでから決めろ」
職人は銅貨を払い、一杯飲んだ。
「俺、こっちの方好きかも」
「帰れ」
「金払っただろ!」
「もう一杯飲むなら座れ」
「売る気あるのかないのか分からんな」
二人目に来たのは黒炉酒を長く好んでいる常連で、こちらは一口飲んだあとに首を振った。
「俺はいつもの方がいい」
「そうか」
「怒らんのか?」
「何で怒る」
「さっきの奴には帰れって言ってたぞ」
「あいつはこっちの方が好きだと言った」
「それだけで?」
「うるせえ。次」
三人目は酒にそれほど強くない料理屋の女主人であり、軽い方を気に入ったあと、料理へ使いたいから小瓶で売ってほしいと言った。
その後も両方好きだと言う者や、黒炉酒よりこちらの方が飲みやすいと言う者が現れた一方、どちらも苦いから果実酒の方が好きだという客まで現れたため、その時ばかりはドランも「だったら何で来た」と呆れて追い返した。
◇
一週間ほど試飲を続けてみると、客の反応は想像以上にはっきり分かれた。
黒炉酒を長く飲んできた客の多くは従来の味を好み、その一方、黒炉酒は重すぎると感じていた客の中には、今年の南麦仕込みなら飲みやすいと言う者がいた。
料理屋からも少量ながら注文が入り、少なくとも酒として売れないという心配はなくなった。
「親方」
若い職人が帳面を持ってくる。
「二樽目、もう半分です」
「早いな」
「新しく仕込みます?」
「馬鹿言え。今から同じものを造ろうとしたって、同じ麦が残ってねえ」
「じゃあ今年だけ?」
「今年はな」
「来年、同じような麦が採れたら?」
ドランは少し考えてから答えた。
「その時考える」
「前なら絶対、黒炉酒の味へ戻すって言ってましたよ」
「俺は黒炉酒をやめるとは言ってねえ」
「誰も言ってませんよ」
「なら黙って樽を見てこい」
若い職人は笑いながら作業場へ戻っていった。
◇
その日の夕方、ドランは醸造所の奥にある焙煎炉の前へ立った。
次に仕込む黒炉酒のため、今年の南麦を少量ずつ分け、焙煎時間を変える試験を行っていた。
最初の一皿は従来より少し長く焼き、次は火を少し弱めながら時間だけを伸ばし、さらにもう一つについては比較のために従来通りの条件で仕上げる。
どの方法が今年の麦でも最も黒炉酒らしい味へ近づくのかを、実際に仕込んで確かめるつもりだった。
若い職人が横から炉を覗き込んだ。
「新しい方が売れたのに、黒炉酒の仕込みもやるんですね」
「当たり前だろ」
「同じ麦なら、新しい方を増やした方が楽ですよ」
「楽かどうかで酒を造ってねえ」
「じゃあ何で?」
ドランは炉の中へ視線を向けたまま答えた。
「黒炉酒は黒炉酒で残す。あの味を飲みたい奴がいるうちはな」
「南麦仕込みは?」
「欲しい奴がいて、材料が合うなら造るかもしれん」
「二種類?」
「樽が増えるな」
「場所空けます?」
「勝手に増やすな。まだ決めてねえ」
そう言いながらも、ドランの声には以前のような強い拒絶はなくなっていた。
◇
数日後、ドランは小瓶を二本持って《持ち込み食堂》を訪れた。
一本には従来の黒炉酒が入り、もう一本には今年の南麦仕込みが入っている。
「今日は料理しろって話じゃねえ」
席へ着くなりそう言われ、悠斗は笑った。
「じゃあ飲みに?」
「お前に渡しに来た」
「いいんですか?」
「料理に使うって言ってただろ」
「ありがとうございます」
「ただし、黒炉酒と同じ使い方だけするな」
悠斗が少し目を見開いた。
「使い分けろ。味が違うんだからな」
「分かりました」
「あと、軽い方を黒炉酒って客に出すな」
「別の名前あるんです?」
「まだ正式にはねえ」
「まだ?」
ドランは少し不機嫌そうな顔をした。
「職人どもが勝手に候補を出してる」
「どんなのです?」
「《南麦酒》とか、《赤麦酒》とか、《若炉酒》とか、どれも気に入らん」
「ドランさんは何か考えてるんです?」
「考えてねえ」
「本当に?」
「……《淡炉》なら、まだましだと思ってるだけだ」
悠斗は笑った。
「もう考えてるじゃないですか」
「まだ決めてねえ」
「じゃあ決まったら教えてください」
「気が向いたらな」
◇
その日の帰り道、ドランは《赤樽醸造所》の看板が見える場所で足を止めた。
建物の奥から漂ってくるのは、五十年以上嗅ぎ続けてきた、焦げる直前の甘さと苦味が混じった焙煎麦の香りだった。
父が形にした黒炉酒を、ドランはこれからも造り続けるつもりでいる。
同じ名前で出す以上、その味を守るために今年の麦へ合わせて火を変え、発酵を調整し、必要なら何度でも仕込み方を細かく変えていくだろう。
その考え自体は、これまでと何も変わっていなかった。
ただし、同じやり方をした結果として別の良い酒が出来た時まで、それを失敗として元の形へ押し戻す必要はないのだと、今では少しだけ考えられるようになっていた。
守りたい味が一つあることと、新しく生まれた味を認めることは、どちらか一方しか選べない話ではない。
ドランは醸造所へ戻ると、黒炉酒の仕込み記録を置いている棚の隣へ新しい帳面を一冊置き、その表紙へ、まだ正式な酒名ではなく《南麦仕込み・試験記録》と書き込んだ。
さらに最初の頁へ正式名称を書くための欄も作ったが、そこだけは今すぐ埋めようとせずに空白のまま残し、まずは次に同じ味を造れるのか確かめるため、麦の状態や焙煎条件から順番に記録し始めた。




