第15話 固すぎる肉と、負けを認めない傭兵
ヴァン・クロードは、自分より強い相手に負けることそのものを、それほど恥じる男ではなかった。
三十八歳になるまで傭兵として生きてきた彼は、剣を握ったばかりの若者が口にするような「一度も負けたくない」という言葉が、実戦ではほとんど意味を持たないことを知っている。護衛の人数が足りなければ退き、魔物の数が想定を超えていれば依頼人を連れて逃げ、相手の装備や地形がこちらに不利なら、勝てる場所まで移動してから戦えばいい。
死んだ者には次の仕事がない以上、生き残るために退くことを恥だと思ったこともない。
それでも、自分が負けたと胸の内で認めることと、自分から誰かへ「今の自分では足りない」と伝えることの間には、ヴァン自身にも説明しづらい隔たりがあった。
「だから、負けてねえって言ってるだろ」
昼前の冒険者組合で、ヴァンは同業の傭兵へ三度目になる説明をしていた。
「じゃあ、その腕はどうしたんだよ」
「少し捻っただけだ」
「左腕、昨日からほとんど上がってないじゃねえか」
「剣は右で振る」
「そういう問題じゃないだろ」
向かいに座っている男は呆れたように眉を上げ、ヴァンの左肩へ巻かれた厚い布へ視線を落とした。
三日前、ヴァンは北東街道を通る薬草商人の護衛を引き受けていた。仕事そのものは珍しくなく、護衛対象も荷馬車一台と商人二人だけだったため、彼を含めた三人の護衛がいれば十分だと考えられていた。
ところが、レーヴェンから半日ほど離れた丘陵地帯へ差しかかったところで、街道脇の岩場から《重角牛》が現れ、荷馬車の進路を塞いだ。
重角牛はその名の通り、頭部へ太い角を持つ大型魔物であり、動きそのものは決して速くない。しかし正面から突進を受ければ、頑丈な盾を構えた人間でも身体ごと吹き飛ばされるほどの力を持っている。
本来なら距離を取り、進行方向から外れてやり過ごすのが最も安全だった。
ところが、その個体は片脚に傷を負っていたせいか気が立っており、荷馬車の馬が怯えて鳴いた瞬間、こちらへ向かって突進してきた。
ヴァンは商人を逃がす時間を作るため、その真正面へ出た。
重角牛を力だけで止めるつもりはなく、斜めへ衝撃を逃がしながら角を剣で逸らし、自分の身体も横へ滑らせるつもりだった。しかし実際に受けた突進の重さは予想を大きく上回り、逸らし切れなかった衝撃が左肩へまともに入った。
「それで吹っ飛ばされたんだろ?」
「三歩くらいだ」
「荷車の車輪まで転がったって聞いたぞ」
「誰が言った」
「一緒にいた護衛」
「あいつら、帰ってきたら余計なことばかり喋りやがる」
「で、その後は?」
「仕留めた」
「お前が?」
「三人でだ」
その答えについて、ヴァンは何も誇張していなかった。
重角牛の突進を受けたあと、彼は左腕をほとんど使えない状態になっていたが、残る二人の護衛と連携しながら魔物を倒している。商人にも荷馬車にも被害はなく、依頼そのものは問題なく達成できた。
「だったら普通に、重角牛にやられて肩を痛めたって言えばいいだろ」
「やられてねえ。倒してる」
「肩を潰されかけたじゃねえか」
「折れてない」
「治療院では何て?」
「十日は左腕で重い物を持つな」
「十分怪我だろ」
ヴァンは答えず、卓上の水へ手を伸ばした。
同業者はしばらく彼を見ていたが、やがて何を言っても今は聞かないと判断したらしく、諦めたように椅子から立ち上がった。
「明日の仕事、断れよ」
「何でだ」
「左腕使えない奴と組みたくないからだよ」
「右だけでもお前より強い」
「そういうところだぞ」
男が去ったあと、ヴァンは一人で椅子へ残った。
翌日には南街道で荷車二台の護衛が入っているが、その道では魔物が出る可能性も低く、盗賊についても最近は報告されていない。左肩に大きな負担さえかけなければ、いつも通り働けるとヴァン自身は考えていた。
◇
昼を過ぎると、ヴァンは組合の裏手にある解体場へ向かった。
三日前に倒した重角牛の素材について、護衛を担当した三人にも一部分け前が出ることになっていたからである。
皮や角については薬草商人側が引き取り、残った肉の一部が護衛三人へそれぞれ分けられていた。
「ヴァンさんの分、これです」
解体場の男が、厚い布へ包んだ肉塊を台の上へ置いた。
ヴァンが受け取るには右手だけでも持ち上げられそうだったが、片腕で長く運ぶには少々厄介な重さがある。
「持ってく」
「大丈夫ですか?」
「何が」
「肩ですよ」
「右手がある」
ヴァンは右腕だけで包みを持ち上げた。
確かに持ち上げること自体はできたが、身体の均衡を取ろうとして無意識に左腕へ力が入った瞬間、肩の奥を鋭い痛みが走った。
「っ……」
「ほら」
「今のは関係ない」
「いや、完全に関係ありますよ」
「持てる」
「届けましょうか?」
「要らん」
「でも、その肉かなり重いですよ」
「要らんと言ってる」
解体場の男は何か言いたそうな顔をしたものの、それ以上ヴァンを止めることはしなかった。
ヴァンは包みを右肩へ担ぎ、左側をかばうようにして歩き始めた。
左肩を避けるために姿勢が不自然になり、数十歩も進まないうちに背中から腰にかけて重さを感じ始めたが、それでも立ち止まるつもりにはならなかった。
解体場から宿までなら、それほど遠いわけではない。
途中で誰かに持ってもらうほどの距離でもないと考えながら歩いていたところで、包みの端から濃い獣肉の匂いが漂ってきた。
「そういや、これどう食うんだ」
重角牛の肉を食べた経験そのものはあるが、自分で料理したことはほとんどない。火で焼けば食べられるだろうと思ったものの、以前に野営地で口にした重角牛の肉は、飲み込むまで噛み続けるだけで顎が疲れるほど硬かった。
宿へ持ち帰ったとしても、泊まっている部屋でできるのは簡単な炙りもの程度しかない。
そこでヴァンは、宿へ向かっていた足を途中で止め、西区の方角へ少しだけ進路を変えた。
最近になって傭兵や冒険者の間でも名前を聞くようになった食堂が、その辺りにあることを思い出したからだった。
◇
《持ち込み食堂》の扉を片手で開けたヴァンを見て、ミレイアは最初に肉ではなく肩へ目を向けた。
「いらっしゃいませ……って、その肩どうしたんですか?」
「別に」
「別に、って巻き方じゃないと思うけど」
「治療院には行った」
「ならいいですけど、その荷物は早く下ろした方がいいですよ」
「今下ろす」
ヴァンは右肩から肉の包みを卓へ下ろそうとした。
しかし片腕だけでは高さのある卓へ置きにくく、途中で左手を添えた瞬間に肩へ痛みが走り、動きがわずかに止まった。
それを見たミレイアが、すぐに包みの反対側へ手を伸ばした。
「持ちます」
「要らん」
「もう持ってます」
「離せ」
「ここで落としたら、せっかくの食材が駄目になるでしょう」
その言葉を聞いたヴァンは、少しだけ迷ったあとで手を緩めた。
二人で包みを卓へ置けば、先ほどまで肩にかかっていた重さが一気になくなる。
「……軽いだろ」
「一人で持つよりは」
「そういう意味じゃねえ」
厨房から悠斗が顔を出した。
「どうしました?」
「持ち込みです。あと、この人が肩を怪我してるのに、大きい肉を一人で持とうとしてました」
「余計な説明をするな」
「怪我してるんですか?」
「料理に関係あるか?」
「包丁を振ってもらう予定はないので、直接は関係ないですね」
「だったら肉を見ろ」
「分かりました」
悠斗はあっさり引き下がり、卓上の包みを開いた。
中から現れたのは、濃い赤色をした大きな肉塊だった。
「大きいですね。何の肉です?」
「重角牛」
「名前は聞いたことあります。かなり硬い肉だとか」
「食ったことは?」
「まだないです」
「じゃあ料理できるのか」
「最初に肉質を確認して、それから考えます」
悠斗は表面を指で押し、筋の走っている方向まで慎重に確かめていった。
「かなり締まった肉ですね」
「焼くと硬いぞ」
「どれくらいです?」
「顎が疲れる」
「それは相当ですね」
悠斗が包丁を入れて断面を確認すると、赤身の内部へ太い筋が何本も走っているのが見えた。
「これは薄く切って短時間で焼くだけだと、かなり噛み応えが残りそうですね」
「だから持ってきた」
「何か希望あります?」
「酒に合えばいい」
「最近、その注文多いな」
「誰が言った」
「漁師のダリオさんも似たことを言ってました」
「知ってる。港の親父だろ」
「知り合いです?」
「酒場で何度か一緒になった」
悠斗は肉の切断面を眺めながら、しばらく調理法を考えた。
「時間あります?」
「どれくらいだ」
「少なくとも二時間くらいは欲しいです」
「長いな」
「柔らかくしたいなら、少し時間をかけたいですね」
「焼くだけじゃ駄目か?」
「焼くこともできますけど、硬いと分かってる肉を、わざわざ一番硬くなりそうな方法で食べる必要はないでしょう」
ヴァンは少し考えてから椅子へ座った。
「二時間なら待つ」
「じゃあ、今日は煮込みにしましょう」
◇
悠斗は重角牛の肉を、そのまま大きな塊で鍋へ入れることはしなかった。
最初に筋の流れを確認し、それを断つ方向へ少し厚めに切り分けていく。
「もっと細くしないのか?」
「長く煮るので、あまり薄くすると崩れすぎると思います」
「硬い肉なら、細く切った方が食いやすいだろ」
「短時間で焼くならそうします。でも今回は時間をかけて、硬い筋そのものを柔らかくしたいんです」
ヴァンは厨房前の席へ腰を下ろし、右手だけで頬杖をついた。
「肉なんて火を通せば同じじゃねえのか」
「そんなこと言うと、肉を扱ってる人に怒られますよ」
「料理人も面倒だな」
「傭兵だって、剣なら何でも同じって言われたら嫌でしょう」
「重さも長さも違う」
「肉も同じです」
「……なるほどな」
悠斗は切り分けた肉へ軽く塩を振り、そのまま少し休ませる間に根玉葱と赤根、それに香りの穏やかな香草を用意した。
大きめの鍋へ少量の油を入れ、熱が回ったところで肉の表面だけを強めの火で焼いていく。濃い赤色だった表面へ焼き色がつくにつれ、重角牛らしい力強い獣肉の香りが厨房へ広がった。
「いい匂いだな」
「まだ食べないでくださいね」
「分かってる」
「今、かなり真剣に見てましたけど」
「腹減ってんだよ」
「昼は?」
「食ってない」
悠斗が手を止める。
「何でです?」
「組合で話して、そのまま解体場へ行った」
「肩怪我してるのに?」
「腹と肩は関係ない」
「身体としてはかなり関係あると思いますけど」
「お前まで言うのか」
「誰かに同じこと言われたんです?」
「今日はやたら言われる」
ヴァンは面倒そうに答えた。
◇
焼き色をつけた肉をいったん鍋から取り出し、残った脂で根玉葱を炒めると、最初は辛みのあった香りが火を通すにつれて柔らかな甘さへ変わっていった。
そこへ赤根を加えてさらに炒め、肉を戻してから、悠斗は料理用の酒を用意する。
「酒は?」
ヴァンが聞いた。
「入れますよ」
「飲む方じゃなくて」
「まだ昼ですよ」
「傭兵に昼も夜もあるか」
「俺には営業時間があります」
「固い奴だな」
「肩が治るまで酒を控えろって言われませんでした?」
「言われた」
「だったら今日は、鍋へ入れる分だけにしておきましょう」
「治癒師でもないのに口出すな」
「客が店の中で倒れたら困るので」
「倒れねえよ」
悠斗は料理用の酒を少量鍋へ加え、香りが立ったところで水を注いで蓋を閉めた。
いったん沸騰する直前まで火を強めてから、表面が静かに揺れる程度まで弱くする。
「しばらくこれで煮ます」
「本当に二時間も待つのか」
「途中で肉の状態を見ながらですけどね」
「その間、俺は何するんだ」
「別のもの食べます?」
「それやったら持ってきた意味ねえだろ」
「じゃあ、黒麦パンくらいなら出しましょうか」
「金取るか?」
「取ります」
「正直だな」
「食堂なので」
ヴァンは結局、黒麦パンと水だけを頼み、重角牛の肉が柔らかくなるまで店で待つことにした。
◇
パンを食べながら待っていると、店へ入ってきた顔見知りの傭兵がヴァンを見つけた。
朝、冒険者組合で肩について散々言ってきた男だった。
「お前、何してんだ?」
「飯だ」
「明日の仕事断ったか?」
「まだだ」
「断れって言っただろ」
「お前に決められることじゃない」
男はヴァンの肩を見た。
「その腕で、何かあった時どうするんだよ」
「剣は右で振れる」
「荷物は?」
「他の奴が持てばいい」
「だったら、最初から肩が使えないって言えよ」
「何が」
「一人で何でもやろうとするなって話だよ」
ヴァンの眉がわずかに動いた。
「俺は別に一人でやってねえ」
「三日前の重角牛、最初にお前が一人で正面から受けただろ」
「あれは商人を逃がすためだ」
「そこを責めてるんじゃねえ。問題はそのあとだ」
「そのあと?」
「肩をやられたのに、何も言わず前へ戻っただろ。俺らはお前が左腕をほとんど使えないって、しばらく気づかなかったんだぞ」
ヴァンは黙った。
悠斗は厨房で鍋の様子を見ていたが、二人の会話へ割り込むことはしなかった。
「言ったところで何が変わる」
「配置を変えられただろ。お前を右側へ置いて、左から来る奴を俺らで止めるとか、やり方はいくらでもあった」
「最終的には倒した」
「結果だけの話してんじゃねえよ」
男は向かいの椅子へ座った。
「お前、撤退することには抵抗ないくせに、自分が弱ってるって周りへ言うのだけ異様に嫌がるよな」
「弱ってねえ」
「ほら、それだ」
「怪我してるだけだ」
「それを普段より弱ってるって言うんだよ」
「戦える」
「戦えるかどうかと、普段通り動けるかどうかは別だろ」
ヴァンは黒麦パンを少し乱暴に千切った。
「明日の仕事は危険度が低い」
「絶対に何も起きない保証は?」
「そんなものはない」
「だったら、何か起きた時に俺たちが最初からお前の状態を知ってるのと、途中で気づくのと、どっちがいい」
その問いへの答えは、ヴァンにも分かっていた。
分かっているからこそ、すぐには答えたくなかった。
「好きにしろ。ただし俺と組むなら、依頼主と残りの護衛には先に言え」
「……考えとく」
「今言えよ」
「うるせえ」
男はため息をついたあと、自分の用事を済ませるために店を出ていった。
◇
「仲いいんですね」
悠斗が鍋の様子を見ながら言った。
「どこがだ」
「かなり心配されてましたよ」
「余計なお世話だ」
「でも、言ってることは分かります?」
「分かるから腹立つんだよ」
ヴァンは水を飲んだ。
「撤退するのは平気なんですよね」
「勝てない場所に残る方が馬鹿だ」
「じゃあ、怪我してることを言うのは何で嫌なんです?」
「嫌とは言ってない」
「でも、自分からは言わないでしょう」
ヴァンは悠斗を睨む。
「料理人は客の怪我まで聞くのか」
「待ち時間が長いので」
「暇つぶしか」
「そんなところです」
「正直だな」
悠斗は鍋の蓋を少し開け、肉を裏返した。
「俺は戦いのことは分からないですけど、料理なら少し似たことがありますよ」
「何がだ」
「一人で持てる鍋でも、無理に一人で運ばないことがあります」
「持てるなら持てばいいだろ」
「持てるかどうかより、こぼしたら駄目な時があるんです」
ヴァンは少し黙った。
「熱い汁が満杯に入った鍋なら、俺一人でも持ち上げられる重さでも、ミレイアが空いていたら一緒に持ってもらうことがあります」
「料理人のくせに?」
「料理人だからですよ。腕力を見せるのが仕事じゃなくて、料理を無事に客へ出すのが仕事なので」
「傭兵とは違う」
「そうでしょうね」
悠斗はあっさり認めた。
「でも、護衛も依頼人を無事に目的地へ着かせるのが仕事じゃないんです?」
ヴァンは水の器を卓へ置いた。
「……それを言われると面倒だな」
「すみません」
「謝るくらいなら言うな」
「でも、たぶん間違ってないですよね」
「料理に戻れ」
「はい」
◇
一時間ほど経ったところで、悠斗は鍋から肉を一つ取り出して状態を確かめた。
箸で押してみてもまだかなり弾力が残っており、噛めないほどではないものの、わざわざ時間をかけて煮込むならもう少し柔らかくしたいところだった。
「まだ硬いですね」
「食えないほどか?」
「食べられますけど、せっかくなので、もう少し待ちたいです」
「まだ待つのか」
「急ぎます?」
「いや」
ヴァンは右手だけで水の器を持ち上げた。
何もしていない時間が長く続くと、これまで仕事中には気にならなかった左肩の疼きが、かえってはっきり感じられるようになる。
「治療院では、どれくらい休めって?」
悠斗が尋ねた。
「左腕で重い物を持つなとは言われた」
「仕事自体は?」
「危険な戦闘は避けろ」
「明日は街道護衛なんですよね」
「ああ」
「危険な戦闘になる可能性は?」
「低い」
「ゼロではない?」
「そんな保証がある護衛の仕事なんてない」
「なら、他の人には肩のことを言っておいた方がよさそうですね」
「さっきの奴と同じこと言うな」
「じゃあ、俺の意見というより、さっき聞いて納得した意見です」
「屁理屈だろ」
悠斗が笑うと、ヴァンも口元だけわずかに緩めた。
◇
さらに時間が経ち、根玉葱が煮汁へ溶け込むほど柔らかくなった頃には、重角牛の肉にも明らかな変化が出ていた。
悠斗が一切れを取り出して箸で押すと、今度は肉の表面が簡単に沈み、筋に沿ってゆっくりと裂けていく。
「これならよさそうです」
「やっとか」
「二時間待った甲斐はあると思います」
煮汁には肉の旨味と根玉葱の甘さが十分に出ていたため、悠斗は塩を少し加え、香草も強くならない程度に整えるだけにした。
黄芋は別の鍋で茹でてから潰し、重角牛の煮汁を少量吸わせて皿の脇へ添える。
最後に柔らかくなった肉を大きめに盛り、根菜と煮汁をたっぷりかけた。
「《重角牛のやわらか煮込み》です」
「ずいぶん普通の名前だな」
「食べれば分かります」
「柔らかくなってなかったら文句言うぞ」
「その時は聞きます」
ヴァンは右手で匙を取り、大きな肉の端へ差し込んだ。
力を入れて切り分けるつもりだったのに、肉は想像していたより簡単に繊維へ沿ってほどけていく。
「本当に柔らかくなってるな」
「まず食べてみてください」
口へ入れた肉は、以前に野営地で食べた重角牛とはまるで違っていた。
肉そのものが持つ力強い味は残っているが、長い時間をかけて火を入れたことで太い筋はほどけ、噛み続けなければ飲み込めないような硬さもない。根玉葱の甘味が獣肉の癖を丸くし、少量の酒と香草が後味を軽くしてくれる。
「……うまい」
「よかった」
「これ、本当に同じ肉か?」
「同じですよ」
「前に食った時は革みたいだったぞ」
「焼き方が悪かったとは限りません。野営中なら時間も道具も限られてたんじゃないですか?」
「串へ刺して焼いただけだ」
「それなら、この肉だとかなり硬くなりやすかったんでしょうね」
ヴァンはもう一口食べる。
「硬いなら、もっと強く火を入れりゃどうにかなると思ってた」
「逆に硬くなる肉もありますよ」
「力を入れれば何でもどうにかなるわけじゃねえのか」
「料理では特にそうですね」
「……嫌な言い方するな」
「何がです?」
「何でもねえ」
◇
料理を半分ほど食べたところで、ヴァンは匙で柔らかな肉を崩しながら尋ねた。
「こいつも、負けたってことになるのか?」
「肉がですか?」
「火にだ」
「どうでしょう。柔らかくなっただけじゃないですか」
「最初はあれだけ硬かったのに」
「硬いままでいないと負けなんです?」
「知らん」
「じゃあ、そもそも勝ち負けじゃないんじゃないですか」
悠斗の返答があまりにも普通だったので、ヴァンは思わず鼻で笑った。
「お前、何でもそうやって単純に考えるのか」
「料理は食べてもらえれば十分、くらいには考えてます」
「雑だな」
「でも、肉が硬さを守り抜いて誰にも噛めなかったら困るでしょう」
「それはそうだ」
「柔らかくなったからって、重角牛の肉じゃなくなるわけでもないですし」
ヴァンは匙で肉をほぐした。
力を込めなくても簡単に分かれる様子を見ながら、しばらく考え込む。
「俺はな、負けること自体が嫌いなわけじゃない」
「そうなんです?」
「傭兵なんて、勝てないと思ったら逃げることもある。依頼人を生かすためならな」
「じゃあ何が嫌なんです?」
「自分が使えない状態だと思われるのが嫌なんだろうな」
口にしてから、ヴァンは自分でも少し納得できないように眉を寄せた。
「自分でも、まだよく分からん」
「怪我してると仕事は減ります?」
「減ることはある」
「収入の問題もある?」
「それもある」
傭兵は仕事へ出た分だけ報酬を得るため、怪我で依頼を受けられなくなれば収入は減る。その一方で、宿代や食費、それに治療費まで必要になるため、動けない期間が長くなるほど生活は苦しくなっていく。
「ただ、それだけじゃねえんだ」
ヴァンは続けた。
「若い頃、一度かなり大きな怪我をしてな。二月ほど剣を持てなかったことがある」
「その時はどうしたんです?」
「仲間の荷物番や、組合の雑用をしてた」
「それでも仕事はあったんですね」
「あったが、同情されるのが嫌だった」
「同情?」
「前線に出られなくて可哀想だとか、無理しなくていいとか、戻るまで待ってるとか、そういうことを散々言われた」
そう言ってきた者たちに悪意がなかったことくらい、当時のヴァンにも分かっていた。
それでも剣を持てない自分だけを特別扱いされるたびに、これまで積み上げてきた自分の価値まで小さくなったような気がした。
「治ってから、怪我してても言わなくなったんです?」
「隠してるつもりはない」
「でも、自分から言わないようにはなった?」
「……そうかもしれん」
悠斗は少し考える。
「今日、ミレイアに肉持ってもらいましたよね」
「あれは勝手に持っただけだ」
「断ったけど、最後は任せたでしょう」
「食材を落としたら困るからだ」
「そのおかげで肉は無事だった」
「ああ」
「なら、それでいいんじゃないですか」
ヴァンは答えず、残っている煮込みを食べ続けた。
◇
食事を終える頃には、肩の痛みも少し落ち着いていた。
もちろん治ったわけではなく、重い肉を運び続けることもなく、二時間以上座って身体を休めたことで、強く痛まなくなっただけだった。
「残りの肉、どうします?」
悠斗が尋ねる。
「宿に持って帰る」
「一人で?」
「……さっきよりは軽いだろ」
「煮込んだ分しか減ってないですよ」
ミレイアが横から口を挟む。
「近いなら届けましょうか?」
「店あるだろ」
「閉店後でも」
「そこまでされる筋合いはない」
「じゃあ、誰か呼びます?」
ヴァンは少し迷った。
朝に話していた傭兵仲間なら、今頃は組合にいるはずだった。呼べば来るだろうし、その代わり間違いなく散々からかわれることも簡単に想像できる。
「……紙あるか」
悠斗が小さな紙片を渡した。
ヴァンは右手で短い伝言を書く。
《食堂にいる。肉を運ぶのを手伝え》
そこまで書いたあとで一度手を止め、しばらく迷ってから、さらに一文を付け加えた。
《左肩はまだ使えん》
ミレイアが横からそれを見て笑う。
「ちゃんと書けるじゃないですか」
「読むな」
「見えました」
「誰か組合に行くなら渡してくれ」
「ちょうど買い物に出るので、私が持っていきます」
「頼む」
その言葉を口にしたあと、ヴァンはわずかに黙った。
ミレイアは特に何も言わず、紙を受け取って店を出ていった。
◇
二十分ほどすると、朝の傭兵が店へ入ってきた。
「お前が手伝えって言うとはな」
「うるせえ」
「しかも肩使えませんって、自分で書いてある」
「読めば分かることをいちいち言うな」
「明日は雪でも降るんじゃないか?」
「帰れ」
「肉置いて帰っていいなら帰るぞ」
ヴァンは舌打ちした。
「半分持て」
「最初からそう言えよ」
二人で包みを持ち上げると、一人で運んだ時とは比べものにならないほど楽で、左肩へ余計な力を入れる必要もなかった。
「明日の仕事だけどな」
店を出る前に、ヴァンが言った。
「何だ」
「依頼主に肩のことは言う」
男が眉を上げる。
「おう」
「ただし、仕事から外すかどうかは向こうに決めてもらう」
「それでいい」
「俺は行けると思ってる」
「そこは話してから決めろ」
「分かってる」
男は少し笑った。
「ようやく人の話聞くようになったな」
「肉を落とすぞ」
「やめろ。せっかくの食材が駄目になる」
「これは俺の肉だ」
「半分持ってやってるんだから少しくらい寄越せ」
「手伝い代が高すぎる」
二人はそんなことを言い合いながら、宿まで肉を運んだ。
◇
翌朝、ヴァンは依頼主と護衛仲間の前で、左肩の状態を自分から説明した。
「十日ほど、左腕で重い物を持つなと言われている。右腕は問題なく使えるが、普段通りの状態ではない」
自分の口からそう言ってみると、やはり居心地の悪さは残った。
依頼主の商人は少し考えてから尋ねる。
「剣は使えるんですか?」
「右なら問題ない。ただ、組み合いになるような状況なら普段より不利になる」
「それなら、今回は荷物運びから外れてもらって、前方の警戒をお願いできますか?」
ヴァンは少し意外に思った。
「仕事から外さないのか?」
「外した方がいいんですか?」
「いや」
「護衛は三人いますし、戦闘になった時に無理して一人で止めないと約束してくれるなら、私は問題ないと思います」
仲間の傭兵が横から口を挟む。
「聞いたな?」
「聞こえてる」
「無理するなよ」
「状況次第だ」
「ヴァン」
「分かった。必要なら先に言う」
依頼主は頷き、それ以上ヴァンを特別扱いすることもなかった。
仕事を取り上げられることもなければ、同情されて宿へ帰されることもなく、単に今できる役割へ配置を変えただけで話は終わった。
◇
南街道の護衛は、昼過ぎまで大きな問題もなく進んだ。
ヴァンは普段より少し前方を歩き、荷車の周辺警戒を担当する。
途中、小型の魔物が三匹ほど街道脇から現れたものの、危険度は低く、三人の護衛がそれぞれ役割を分ければ十分に対処できる相手だった。
「右から二匹!」
ヴァンが声を上げた。
以前のように自分で全部を片づけようとはせず、右側から来た一匹だけを引き受け、残る二匹については仲間へ任せた。
数分後には魔物がすべて倒れ、街道は再び静かになった。
「問題ないか?」
仲間が聞く。
「肩は平気だ」
「本当に?」
「今回は本当だ」
「その言い方だと、前は嘘だったみたいだな」
「黙れ」
そう返しながらも、ヴァンの口元にはわずかに笑みが浮かんでいた。
◇
仕事を終えてレーヴェンへ戻ると、ヴァンは宿へ向かう前に《持ち込み食堂》へ寄った。
「肩どうです?」
悠斗が聞く。
「まだ痛い」
「ちゃんと言うようになりましたね」
「お前まで笑うな」
「笑ってませんよ」
「顔が笑ってる」
「仕事はどうでした?」
「行った。最初に肩のことも話した」
「それで?」
「別に何も起きなかった。荷物運びから外れて、警戒の担当が少し変わっただけだ」
「よかったですね」
「まあな」
悠斗が厨房へ戻ろうとしたところで、ヴァンが呼び止めた。
「待て」
「何です?」
「昨日の煮込み、もう一回できるか」
「肉、持ってきました?」
「少しだけな」
ヴァンは右手に持っていた小さな包みを卓へ置いた。
昨日とは違い、片手でも無理なく運べるだけの量しか入っていない。
「残りは?」
「宿の保冷庫に置いた」
「全部持ってこなかったんですね」
「今日食う分だけあれば十分だろ」
「そうですね」
「あと、今日は酒も出せ」
「治療院は?」
「一杯ならいいと言われた」
「ちゃんと確認したんですか?」
「昨日、お前らがうるさかったから聞いた」
「じゃあ一杯だけですね」
「二杯」
「一杯です」
「お前、そこは本当に譲らねえな」
ヴァンは空いている席へ座った。
左肩はまだ完全には治っておらず、明日も普段通りの仕事ができるとは限らない。それでも、できないことを隠したまま自分一人で埋め合わせようとしなくても、傭兵としての価値まで失うわけではないことは分かった。
誰かに負けたわけでもなければ、自分自身が弱い人間へ変わったわけでもない。
今使える右腕と、今は十分に使えない左腕について、その状態を周囲へ伝えただけだった。
しばらくして運ばれてきた重角牛の煮込みを前に、ヴァンは右手で匙を取り、昨日よりもさらに味の染みた肉をゆっくり口へ運んだ。
力任せに噛み続けなくてもほどける肉を味わいながら、ヴァンは少なくとも左肩が治るまでは、自分一人で安全に扱えない荷物があれば、最初から誰かの手を借りるつもりでいた。
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