第14話 名前のつかない肉と、決めつける研究者
レオル・クラインは、分からないものをそのままにしておくことが苦手だった。
三十三歳になる彼は、レーヴェンでも少し珍しい魔物研究者として働いており、冒険者が討伐した魔物の身体を調べては、骨格や牙、内臓、皮膚、血液、それに食用として利用できる部位まで記録している。危険度や生息域だけを調べる研究者も多い中、レオルは魔物が人間の暮らしへどう関わり、どの部分なら資源として利用できるのかというところまで調べることに強い興味を持っていた。
そのせいで、彼の研究室には普通の人間なら食事前に近づきたくないようなものまで並んでいた。乾燥させた毒腺や透明な瓶へ漬けられた眼球、砕いた甲殻、切断した角、それに魔物の糞から取り出した種子まで棚という棚を埋めているが、レオル本人にとっては、その一つ一つが魔物を理解するために必要な情報だった。
「違うな」
午前の研究室で、レオルは机の上へ置かれた赤黒い肉片を見ながら小さく呟いた。
掌二つ分ほどの大きさがある肉の表面には薄い膜が残っており、見た目だけなら一般的な獣肉と大きく変わらない。それでも筋繊維の走り方や脂肪の入り方を観察すると、彼がこれまで調べてきた魔物の肉とは少し違っていた。
隣に立っていた若い冒険者が、落ち着かない様子で尋ねる。
「何が違うんです?」
「君はこれを《沼角獣》の腿肉だと言ったな」
「はい。たぶん」
「たぶん?」
「倒した場所が沼地だったし、角もあったので」
「角があるだけで《沼角獣》になるなら、山羊型の魔物の半分が同じ名前になる」
「でも、灰色だったんです」
「泥を被っていれば、大抵のものは灰色に見える」
レオルは肉を指で押し、沈んだ部分が戻る速さを確かめた。
「筋肉の密度が違うし、脂肪の入り方も《沼角獣》の特徴とは一致しない。それに、臭いについても私が保存している記録とは違っている」
「じゃあ何なんですか?」
「それを今から調べる」
「食べられます?」
その質問を聞いたレオルは、わずかに眉を寄せた。
「現時点では分からない」
「でも研究者なんですよね?」
「研究者だからこそ、分からないものを分かるとは言わない」
若い冒険者は困ったような顔をした。
「これ、結構いっぱいあるんです」
「どれくらいだ」
「荷車一台分くらい」
その言葉を聞いたところで、レオルの手が止まった。
「なぜ先に言わなかった」
「聞かれなかったので」
「全部持ってきたのか?」
「解体場にあります」
レオルは椅子から立ち上がった。
「行くぞ」
◇
西区の解体場には、すでに一頭分の肉が吊るされていた。
頭部と皮は別の台へ置かれ、内臓も種類ごとに分けられている。全体の大きさは大型の鹿ほどだったが、頭には前へ曲がった二本の角があり、脚の先には蹄ではなく三本の太い爪が生えていた。
レオルは頭部を見るなり、眉間に皺を寄せた。
「これは《沼角獣》じゃない」
「やっぱり?」
「歯を見ろ。《沼角獣》なら奥歯がもっと平たいが、こいつは尖った歯も混じっているから、植物だけでなく肉も食べる可能性が高い」
若い冒険者は顔をしかめた。
「じゃあ、食えない?」
「肉を食べる魔物だから食用にできない、という結論になる理由が分からない」
「でも肉食う魔物って、臭そうじゃないですか」
「それも種類と食性による」
レオルは爪や尾、それに耳の形まで順番に確認していったが、どれを見ても自分が知っている魔物と完全には一致しなかった。
「どこで倒した」
「北西の湿地です。古い水路の先」
「群れだったか?」
「一匹だけでした」
「何をしていた?」
「泥の中を掘ってました」
「何を食べていたかは見たか?」
「そこまでは……」
「胃の内容物は?」
「残してあります」
「見せてくれ」
保存されていた胃を開いて中身を確認すると、水草の茎や小さな甲殻類、それに魚の骨らしいものまで入っていた。
「少なくとも植物だけを食べる種類ではなさそうだな。今のところは雑食と考えるのが妥当だ」
「やっぱり何か分かりました?」
「分かったことが増えただけで、名前まではまだ分からない」
若い冒険者は首を傾げる。
「名前って、そんなに大事なんですか?」
レオルは振り返った。
「当然だ。名前が分かれば過去の記録を探せるし、毒性や生息域、繁殖期、それに食用として利用できる部位まで調べられる可能性がある」
「名前が分からないと?」
「既存の記録へ正確に繋げられない以上、安全性を保証できない」
「じゃあ、全部捨てます?」
その言葉を聞いて、レオルはしばらく黙った。
目の前には、まだ鮮度の高い肉が大量に残っている。食用にできるなら相当な量になるが、毒性さえ分からない状態で市場へ流すわけにはいかなかった。
「今日は売るな」
「分かりました」
「ただし、すぐ捨てる必要もない。氷石を使って、できる限り状態を保て」
「いつまで?」
「私が調べる」
「名前、見つかります?」
「見つけるつもりだ」
レオルは迷わず答えた。
◇
その日から二日間、レオルは研究室と記録庫を何度も往復した。
北西湿地に生息すると記録されている魔物を片端から確認し、百年以上前の討伐報告まで遡って読んだものの、今回の個体と完全に一致するものは一つも見つからなかった。
似た特徴を持つ魔物ならいくつか存在した。
角の形だけなら《泥角鹿》に近く、爪は《湿地掘り》と似ており、歯の構造については《水牙獣》に近い部分もあった。しかし、体格や尾の長さ、脂肪のつき方まで含めて確認すると、どの種類にも当てはめることができない。
三日目の朝、助手役をしている職員が研究室へ入ってきた。
「先生、まだ調べてるんですか?」
「見れば分かるだろ」
「肉、今日中に使わないと厳しいらしいですよ」
「氷石を追加しろ」
「追加しても限界があります」
「分かっている」
「だったら、食べられるかどうかだけでも先に調べた方がよくないですか?」
レオルは顔を上げた。
「食用にできるか分からないから、種類を特定しようとしている」
「逆の順番じゃ駄目なんです?」
「何がだ」
「名前を知らなくても、毒があるかどうかとか、加熱したらどう変わるとか、そういうことを直接調べる方法もあるんじゃないですか」
レオルはわずかに目を細めた。
「通常なら、種類を特定して既存の情報を確認する方が先だ」
「でも肉の鮮度は、先生が名前を見つけるまで待ってくれませんよ」
「だから急いで記録を探している」
「先生、昨日は寝ました?」
「三時間は寝た」
「それ、普通に寝たって言わないと思います」
「研究が詰まっている時なら珍しくない」
「それを普通ってことにしないでください」
職員は机の上へ置かれた肉片を見る。
「これ、本当に名前が分からないと何も調べられないんですか?」
「既知の魔物なら、過去の記録から安全性を確認できる」
「じゃあ既知じゃなかった場合は?」
「新種、あるいは未記録種という可能性もある」
「だったら、過去の名前だけ探し続けても見つからないかもしれませんよね」
レオルは返事をしなかった。
その可能性を考えていなかったわけではないが、認めてしまえば、ここ二日間ずっと続けてきた調査方法そのものを変える必要が出てくる。
「新種だと断定するには早い」
「断定しなくてもいいんじゃないですか?」
「何?」
「分からないものとして、そのまま調べればいいんですよ」
レオルは眉を寄せた。
「それでは基準がない」
「先生なら、その基準から作れるでしょう」
職員はそれだけ言い残して、自分の仕事へ戻っていった。
◇
昼を過ぎても、レオルは肉片を前に座っていた。
いくら記録を探しても一致する名称は見つからず、目の前にある肉が何という魔物のものなのかも分からない。それでも、名前が分からないというだけで、その肉そのものが消えるわけではなかった。
これまで彼は、未知のものを既知の分類へ当てはめることで理解してきた。
角がこの形ならこの系統、歯がこの形ならこの食性、骨格が似ていれば近縁種というように情報を積み上げていけば、最後には必ずどこかの分類へ収まると思っていた。
しかし、今回の魔物はどこにも綺麗には収まらなかった。
「……面倒だな」
その時、昨日の職員が言っていたことを思い出した。
種類の特定を待つのではなく、毒性の有無や加熱した際の変化、脂肪や筋繊維の状態、それに肉そのものの特徴を直接調べるという方法なら、名称が分からない今でも試せることはある。
そう考えているうちに、別の場所の名前が頭へ浮かんだ。
《持ち込み食堂》。
以前から冒険者たちの間で聞いていた店であり、未知の食材でもいきなり料理へ使うのではなく、匂いや繊維、熱を加えた際の反応を確認しながら扱う料理人がいるという。
「料理人に研究を任せるわけじゃない」
レオルは誰もいない研究室で、自分へ言い聞かせるように呟いた。
「加熱した時の反応を確認するだけだ」
そう理由をつけてから、保存してあった肉を一部だけ包んだ。
◇
午後、《持ち込み食堂》の扉を開けると、ミレイアがいつものように客を迎えた。
「いらっしゃいませ」
「ここが、未知の食材を扱う店か?」
「未知の食材だけを扱ってるわけじゃないですけど、持ち込みなら見てもらえますよ」
「料理人はいるか?」
「悠斗ー、お客さん」
厨房から悠斗が出てくる。
「こんにちは」
「レオル・クライン。魔物研究者だ」
「鏡悠斗です」
「これを見てくれ」
挨拶が終わるか終わらないかというところで、レオルは包みを開いた。
中から赤黒い肉が現れる。
悠斗はすぐには触れず、少し距離を取ったまま全体を確認した。
「何の肉です?」
「分からない」
「種類が分からないんですか?」
「まだ特定できていない」
悠斗はレオルを見る。
「食用にされた記録はあります?」
「現時点では確認できていない」
「毒性については?」
「それも不明だ」
「それなら、そのまま料理して食べるわけにはいきませんね」
「やはりそうか」
「ただ、料理する前段階の確認ならできます」
その言葉を聞いて、レオルの目が少し動いた。
「どうやって?」
「まず匂いと見た目を確認して、ごく少量へ火を入れて変化を見ます。ただし、安全だと確認できるまでは俺も食べません」
「それで構わない」
「あと、俺はこの世界の魔物について、研究者ほど詳しくありません」
「構わない」
「むしろ、魔物そのものについてはレオルさんに教えてもらうことになると思います」
レオルは少し意外そうな顔をした。
「料理人なら食材を知っているものだと思っていた」
「知ってる食材はありますけど、知らないものまで知ってるふりはできませんよ」
その返答が、レオルの中に妙に残った。
「それは研究者も同じだ」
「じゃあ話は早いですね」
◇
悠斗は肉を切る前に、表面の状態から確認した。
「脂はかなり少ないですね」
「筋肉量が多い個体だった」
「赤身の色も濃いです。血抜きは?」
「解体場で通常通り行っている」
「獣肉らしい匂いはあるけど、少し水っぽい感じもありますね」
「湿地に生息していた個体だ」
「食性については分かってます?」
「胃から水草、小型甲殻類、それに魚の骨が出ている。今のところ雑食と見ている」
「なるほど」
悠斗は包丁で肉を細く切った。
断面を見ると繊維は細かいが、かなり締まっている。
「結構硬そうですね」
「私もそう考えている」
「ただ、筋の方向はかなり分かりやすい」
「料理では重要なのか?」
「切り方だけでも食感が変わるので、特に硬い肉なら大事です」
悠斗はごく小さな肉片を三つに分け、一つは湯で茹で、もう一つは少量の油で焼き、残った一つは弱い火で蒸すことにした。
「一度に料理へ仕上げるわけではないのか?」
「今は味より反応を確認したいので、条件を少しずつ変えます」
「合理的だ」
「研究みたいですね」
「料理でもこういうことをするのか?」
「知らない食材を扱う時なら、いきなり一番大きな一皿を作るより、少しずつ試した方が失敗も減りますから」
湯へ入れた肉は、すぐに赤色を失って灰色がかった色へ変わり始め、表面からは少量の泡も出てきた。
「脂はほとんど浮かないな」
鍋を覗き込んだレオルに、悠斗も頷く。
「その代わり、水分はかなり出ていますね」
「記録しておこう」
「今書くんですか?」
「当然だ」
レオルはすぐに手帳を開いた。
一方、油で焼いた肉は表面がかなり早く締まり、加熱とともに獣肉の香りに混じって、どこか魚に近い匂いまで出てきた。
「少し魚っぽい匂いがしますね」
「私もそう感じる」
「魚を食べていた影響ですかね」
「可能性はあるが、現時点では断定できない」
「そうですね」
レオルはその答えまで手帳へ書き込んだ。
「焼いたものは、かなり縮みましたね」
「水分が多い分だけ変化も大きいのかもしれません」
「蒸した方は?」
「焼いたものほどは縮んでいませんね。水分もこちらの方が残っているように見えます」
悠斗は三つの肉片を並べる。
「見た感じだと、強く焼くより蒸すか煮る方が向いているかもしれません」
「食感は確認しないのか?」
「安全だと分かるまでは口にしません」
「そうだったな」
レオルは少し考え込んだ。
「毒性の簡易検査なら研究所でもできる」
「できるんですか?」
「ああ」
「それなら、先にそっちをやった方がよかったんじゃないですか?」
悠斗が率直に言うと、レオルはしばらく黙った。
「何か理由があったんです?」
「名前が分かれば、検査を一からする必要はないと思っていた」
「種類が分かれば、既存の記録で確認できるから?」
「そうだ」
「見つからなかったんですか?」
「三日探した」
「三日も?」
「記録庫に残っているものは、かなり遡って調べた」
悠斗は少し考える。
「名前が分からないと、一番何が困るんです?」
「分類できないことだ」
「分類できないと?」
「何を基準に扱えばいいのか分からない」
悠斗は加熱した三種類の肉へ目を向けた。
「でも今、焼くと縮みやすいとか、蒸すと水分が残りやすいとか、名前が分からなくても結構分かりましたよ」
「それは料理上の反応だ」
「料理上の反応でも、情報には違いないんじゃないですか?」
レオルはすぐには返事をしなかった。
◇
その日のうちに、レオルは肉を研究所へ持ち帰った。
簡易毒性検査を行い、血液成分や組織についても調べた結果、少なくとも一般的な神経毒や強い内臓毒は検出されなかった。ただし、それだけで食用として完全に安全だと保証することはできないため、解体場に残っていた個体の肝臓や腎臓まで追加で確認した。
そこにも異常な毒性は見られなかった。
翌日になると、レオルは過去に似た魔物を食べた記録がないか、今度は名称ではなく身体的特徴や生息地を手掛かりにして調べ始めた。
すると、百二十年ほど前の旅人が残した日誌の中に、気になる記述が見つかった。
北西湿地で「角のある爪獣」を仕留め、その肉を長時間煮て食べたと書かれている。
正式な魔物名は記されていなかったが、角や脚、それに生息場所についての説明は、今回の個体とかなり近かった。
「名前は残っていないのか」
レオルは古い日誌を見ながら呟いた。
それでも、その獣が存在し、誰かが観察し、食べたという記録はきちんと残っている。
名前が残っていないからといって、その存在までなかったことになるわけではなかった。
◇
三日後、レオルは再び《持ち込み食堂》を訪れた。
「簡易毒性検査では大きな問題は見つからなかった。それに、過去に似た個体を煮て食べたと思われる記録も見つけた」
「それなら、少量から試せそうですか?」
「研究者としては、まず私自身が食べて確認する」
「俺も料理したら味見します」
「危険性については説明したぞ」
「そこまで確認してるなら、料理する側も味を知らないと次の調整ができないので」
悠斗は前回の加熱試験を思い出しながら、肉の状態をもう一度確認した。
「今回は煮込みにしてみましょう」
「理由は?」
「焼いた時は縮みがかなり強くて水分も抜けやすかったので、弱い火で長く煮た方が食感を残せそうだからです」
「味付けは?」
「最初は強くしません。肉そのものがどんな味なのか確認したいので」
用意したのは、根玉葱、黄芋、白根、それに香りが強すぎない香草だった。
肉は筋を断つ方向へ大きめに切り、表面へ薄く塩を振る。
鍋へ入れて表面に軽く焼き色をつけたあと、根玉葱を加えて甘味を引き出し、水を注いでから火を弱めた。
「中まで焼かないのか?」
「ここでは表面の香りだけつけて、中まで火を通すのは煮ながらやります」
「なるほど」
レオルは横で記録を続ける。
「料理中もずっと書くんですね」
「新しい情報だからな」
「食べる時も書きます?」
「当然だ」
「それでちゃんと味わえるんですか?」
「記録しながらでも味くらい分かる」
◇
一時間ほど煮ると、最初は締まっていた肉がかなり柔らかくなった。
悠斗が箸で押すと、肉は筋に沿ってゆっくりほぐれる。
「かなり柔らかくなりましたね」
「見た目は鹿肉に近い」
「匂いは、まだ少しだけ魚介っぽさが残ってます」
「香草を増やして消すか?」
「完全に消す必要はないと思います。もしかしたら、この肉の特徴なのかもしれないので」
悠斗は塩で味を整えたあと、最後に乳酪をほんの少しだけ加えた。
「乳酪を入れるのか?」
「水分が多くて味が少し淡い肉なので、コクだけ補います。ただ、入れすぎると全部が乳酪の味になるので、ほんの少しです」
出来上がった煮込みを器へ盛る。
濃い赤色だった肉は茶色へ変わり、根玉葱と白根の間で柔らかく煮えていた。
「料理名は?」
レオルが尋ねる。
「まだ魔物の名前、分からないんですよね」
「ああ」
「なら、今は《名前のない獣肉の煮込み》にしておきます」
「料理名として雑ではないか?」
「正式な名前が決まるまでの仮名ですよ」
「仮称ということか」
「研究者っぽい言い方ですね」
◇
最初に料理を口へ運んだのはレオルだった。
一切れを匙で切り、少し冷ましてから慎重に口へ入れると、見た目から想像したより肉は柔らかく、長時間煮込んだことで筋繊維も簡単にほどけた。味そのものは鹿肉より淡く、鶏肉よりは濃いものの、飲み込んだあとにごく弱い魚介のような風味が残る。
「……妙な味だな」
「まずいです?」
「いや、そういう意味ではない」
レオルはもう一口食べた。
「何か一種類へ分類しにくい味だ」
「それ、褒めてます?」
「単純な感想だ」
悠斗も少量を口へ入れて、しばらく味を確かめる。
「確かに変わってますね」
「何に近い?」
「無理に言うなら鹿と魚の間みたいな感じですけど、それも正確ではないですね」
「なら、似ているものを無理に探さない方がいいのかもしれない」
レオルは自分でそう言ってから、匙を持つ手を止めた。
「今、自分で何て言ったか分かってます?」
悠斗が聞く。
「似ているものを無理に探さなくてもいい、と言った」
「三日前とは変わりましたね」
「うるさい」
それでも、レオルは否定しなかった。
◇
食べ進めながら、レオルは手帳を開いた。
肉質や加熱時間、縮み方、加熱後の匂い、それに食感と味について、いつも通り細かく書き込んでいく。
ただし、一番上に設けてある名称欄だけは空白のままだった。
「そこ、書かないんです?」
悠斗が聞く。
「まだ名前が分からないからな」
「仮名をつければ?」
「安易に名前をつけると、後で別種だと分かった場合に記録が混乱する」
「じゃあ、空欄のままでいいんじゃないですか」
「……それが嫌だった」
「何でです?」
レオルは匙を置いた。
「分からないと書くのが、負けたように感じていたんだ」
悠斗は少し意外そうに見る。
「研究者でもそういうのあるんですね」
「研究者だからこそある」
レオルは手帳へ視線を落とした。
「知識を扱う仕事をしていると、周囲は答えを求めてくる。魔物を見せれば名前を聞かれ、肉を見せれば食べられるか聞かれ、毒を見せれば治療法まで尋ねられる」
「全部分かるわけじゃないでしょう」
「当然だ」
「それでも、分からないって言いにくい?」
「昔はそうでもなかった」
レオルは少し遠くを見る。
「若い頃は、分からないものを見ると面白かった。知らないなら調べればいいと思っていたし、名前が見つからなければ新しい発見かもしれないと喜んでいた」
「今は?」
「いつの間にか、分からない状態を早く消すことの方に夢中になっていたらしい」
仕事を長く続けるうちに依頼人は増え、判断を求められる機会も多くなった。研究報告へ曖昧なことを書けば、もっと調べろと言われることもあり、後輩から質問されれば、自分が知っている範囲ならできるだけ答えようとしてきた。
そうしているうちに、未知のものを見るたび、まず既存の分類へ押し込む癖がついた。
「名前がつけば安心するんだ」
「レオルさん自身が?」
「私もそうだし、周囲もそうだ」
「でも今回はつかなかった」
「ああ」
「それでも毒性を調べて、火を入れた時の変化も見て、味まで分かった」
「結果としてはな」
悠斗は少し笑った。
「名前が分からないままでも、かなり調べられましたね」
「……腹立たしいが、その通りだ」
◇
翌日、レオルは研究所で新しい記録用紙を作った。
これまでの魔物記録では、一番上に正式名称を書く欄があり、その下に分類や生息地、危険度、食性、それに利用できる部位について記入する形式になっていた。
新しく作った用紙では、その名称欄の横へ《未同定》という項目を追加した。
助手役の職員がそれを見つける。
「これ、何です?」
「名前が分からない個体を、そのまま記録するための欄だ」
「今まではどうしてたんです?」
「類似種の欄へ仮に入れていた」
「それ、結構無理してません?」
「今思えばな」
「先生がそれ言うんだ」
「うるさい」
職員は笑った。
「例の肉、どうでした?」
「食用として利用できる可能性は高い。ただし個体差や長期的な安全性までは確認できていないから、当面は研究所と解体場で記録を取る」
「名前は?」
「まだ分からない」
「先生が平気そうに言うと変な感じですね」
「名前がないから調べられないわけではないと分かったからな」
「それ、前に私が言いましたよ」
「覚えている」
「じゃあ、私の名前も報告書へ入れてください」
「何の功績だ」
「発想提供です」
「却下だ」
◇
数日後、北西湿地へ調査隊が出た。
レオルもその一員として同行し、例の魔物が倒された場所まで足を運んで、足跡や糞、食痕、それに巣として使われていそうな穴を探した。
半日ほど歩いたところで、泥の斜面に三本爪の跡が見つかった。
「先生、これじゃないですか?」
助手が声を潜めて聞く。
「可能性は高い」
「追います?」
「風下から回る」
「捕まえるんですか?」
「まずは観察する」
「討伐しないんですか?」
「危険がないなら必要ない」
茂みの向こうに、解体場で見た個体とよく似た魔物が一頭いた。
前脚で泥を掘り、小さな蟹のような生き物を食べたあと、水辺へ移動して水草まで噛み始める。
レオルは物音を立てないように注意しながら、その行動を一つずつ記録した。
正式名称はまだ分からない。
それでも、昨日までより分かることは確実に増えている。
体長や食性、活動している時間、水辺への依存度、それに単独行動をする可能性など、名称とは別に記録できる情報はいくらでもあった。
「先生」
助手が小声で聞く。
「何だ」
「名前、どうします?」
「まだつけない」
「いいんですか?」
「ああ。今は無理に決めるより、もう少しこのまま調べた方がいい」
レオルはそう答え、そのまま観察を続けた。
◇
一週間後、レオルは《持ち込み食堂》へ再び現れた。
手には小さな包みがある。
「また肉ですか?」
ミレイアが聞く。
「今日は違う」
包みを開くと、中から湿地で採取した太い白色の根が現れた。
「例の魔物が食べていた植物だ」
悠斗が興味深そうに見る。
「これも名前が分からないんですか?」
「植物研究者にも確認しているところだ」
「食べられるかは?」
「それもまだ分からない」
「じゃあ今日は料理できませんね」
「ああ」
レオルは以前とは違い、特に不満そうな顔もせずに頷いた。
「まず見せに来ただけだ」
悠斗は少し笑った。
「前だったら、名前が分かるまで持ってこなかったでしょうね」
「そうかもしれない」
「それで、今日は何を確認したいんです?」
「切った時の匂いと、熱を加えた時の変化を見たい。ただし、食べるのは安全性を確認してからだ」
「分かりました」
悠斗が白い根を受け取る。
レオルは隣で手帳を開いた。
名称欄には、まだ何も書かれていない。
以前なら、その空白を見るたびに早く埋めなければならないと焦っていたが、今はそこへ無理に既存の名前を書き込もうとは思わなかった。
名前を知らないものなら、知らない状態から観察を始めればいい。
分からないという状態は、調査に失敗した証拠ではなく、これから確かめられることが残っているというだけだった。
レオルは空白の名称欄をそのまま残し、その下にある観察記録へ、今日初めて分かったことから一つずつ書き加えていった。




