第13話 匂いの強い香草と、鼻の利きすぎる斥候
シエラ・ウォルフは、人より先に気づくことが多かった。
犬獣人として生まれた彼女の鼻は、人間より遥かに多くの匂いを拾う。街道の土に残った獣の臭いから数時間前に通った種類を見分け、森の中では風に混じった血の匂いから負傷者を探し、食料庫へ入れば腐敗の始まった肉を、見ただけでは分からない段階で見つけることもできた。
二十二歳の若さで斥候として何度も仕事を任されている理由の一つが、その嗅覚だった。
「止まって」
北門から続く荷車道を歩いていたシエラは、前を進んでいた商人たちへ声をかけた。
「どうした?」
「右の茂みに何かいます」
「魔物か?」
「まだ分からない。動かないで」
耳を立て、鼻からゆっくり息を吸う。
湿った土の匂いに、荷車を引く馬の汗、商人が腰へ下げている干し肉、革袋に染み込んだ油の臭いが混じっている。その向こうから、かすかな獣臭と腐った木のような匂いが流れてきていた。
「泥牙鼠が二匹いる。たぶん怪我してる」
「見えるのか?」
「匂いで分かる」
シエラが短剣を抜いた直後、茂みから灰色の獣が飛び出した。
一匹目は同行していた護衛が槍で止め、もう一匹はシエラが横から回り込んで脚を切る。大きな戦闘になるほどの相手ではなく、数分もしないうちに二匹とも動かなくなった。
「助かった」
商人がほっと息を吐く。
「まだ安心しないで。血の匂いで別のものが来るかもしれないから、ここを離れよう」
「分かった」
そう言って荷車を進ませようとした時、シエラは眉を寄せた。
「それと、後ろの荷箱を一つ開けて」
「後ろ?」
「左から二番目」
「何でだ?」
「変な匂いがする」
商人は嫌そうな顔をしたものの、言われた通り木箱を開けると、中には布に包まれた燻製肉が詰まっていた。
「別に腐ってないぞ」
「一番下を見せて」
上の包みをどけてもらい、底近くの肉を確認する。
見た目には問題がない。
しかし、シエラには分かった。
「これ、傷み始めてる。たぶん包む前に水がついたんだと思う。まだ全部じゃないけど、このまま街まで積んでたら周りにも広がるよ」
「本当か?」
商人は半信半疑のまま一枚切り、同行していた料理人にも確認させた。
表面を削ると、内部からわずかに酸っぱい臭いが出た。
「……本当だ」
「だから分けておいて。使えるものまで駄目になる」
「助かったよ、シエラ」
「仕事だから」
彼女はそう答えた。
同じ言葉を、その日だけであと四回言うことになるとは思っていなかった。
◇
レーヴェンへ戻ると、シエラは冒険者組合へ報告に向かった。
街道護衛の仕事は無事に終了し、報酬も問題なく支払われたため、本来ならそれで今日の仕事は終わるはずだった。
「シエラ、ちょうどよかった」
受付を離れようとしたところで、別の職員に呼び止められる。
「何?」
「東倉庫で臭いがおかしいって話が出てるんだ。ちょっと見てくれない?」
「今?」
「すぐじゃなくてもいいけど、できれば今日中に頼みたい」
「担当の人は?」
「いるよ。ただ、傷んでる場所が分からないらしい」
シエラは壁の時計へ目を向けた。
昼を過ぎており、本当なら食事を取ってから午後は装備を整えるつもりだった。
「分かった」
「助かる」
東倉庫へ行き、穀物袋や干し肉の棚を一つずつ確認すると、原因は奥に置かれていた乾燥茸だと分かった。袋の底に湿気が溜まり、外からは見えない場所から腐敗が始まっている。
「この二袋は分けて。隣の袋にも匂いが移ってるけど、中身までは大丈夫そう」
「さすがだな」
「保管場所も壁から少し離した方がいいよ。この辺だけ湿ってるから」
「そこまで分かるのか?」
「鼻だけじゃなく、壁を触れば分かるよ」
作業を終えて倉庫を出た時には、昼食の時間をかなり過ぎていた。
どこかで食べようと思ったところで、今度は市場の女に声をかけられた。
「シエラちゃん、ちょうどいいところに!」
「どうしたの?」
「乳酪なんだけど、これまだ使えると思う?」
「私は食材検査官じゃないんだけど」
「一回だけお願い!」
差し出された包みを開き、匂いを確かめた瞬間、シエラは顔を背けた。
「これは捨てた方がいいよ。表面だけじゃなく、中まで変わってる」
「やっぱり?」
「次から買った日を書いておいた方がいい。いつから置いてあるか分かるだけでも判断しやすいから」
「そうする。ありがとう」
ようやく歩き出したシエラは、今度こそ食事をしようとしたところで、向こうから見知った冒険者が走ってくるのを見つけた。
「シエラ!」
「今度は何?」
「この傷、毒のある魔物にやられたか分かる?」
「治療院へ行って」
「その前に見てくれよ」
「私、治癒師じゃないよ」
「でも匂いで分かることあるだろ?」
シエラは思わずため息をついた。
「……傷、見せて」
◇
夕方近くになり、シエラはようやく一人になった。
朝から何も食べていないわけではなく、街道を戻る途中に乾燥果実を二つ食べ、水も飲んでいる。それでもまともな食事は一度も取っておらず、立ち止まったことで急に空腹が意識へ上ってきた。
「……お腹空いた」
誰もいない路地で呟く。
その時、風向きが変わった。
肉を焼く匂いに、温めた乳酪と香草の香りが混じっている。
シエラの耳がわずかに動いた。
「こっちか」
匂いを辿って西区の路地へ入ると、小さな食堂の看板が見えた。
《持ち込み食堂》
名前は知っている。
変わった食材を料理してくれる店として、冒険者の間でも少しずつ話題になっていた。
「でも、私何も持ってないんだけど」
入口で一度立ち止まり、そのまま帰ろうとした時、店内から別の匂いが流れてきた。
それまで嗅いだことのないほど強い香草の匂いだった。
「何これ」
思わず扉を開けた。
◇
「いらっしゃいませ」
ミレイアが声をかけた直後、シエラは鼻を押さえた。
「ごめん、何かすごい匂いする」
「やっぱり分かる?」
「分かるっていうか、店の外まで出てるよ」
厨房から悠斗が顔を出す。
「もしかして犬獣人の方ですか?」
「シエラ・ウォルフ。斥候やってる」
「鏡悠斗です」
「それより何使ってるの?」
悠斗は作業台の上にある籠を指した。
中には細長い紫色の葉が束になっている。
「《雷香草》っていうらしいです」
「それ、生で切った?」
「はい」
「そりゃ臭うよ」
「そんなにですか?」
「私にはかなりきつい」
雷香草は山地で採れる香草の一種で、葉を擦ると刺激的な香りが出るため、肉の臭み消しとして使われることがある。ただし量を間違えると他の匂いをすべて消してしまうほど強いため、扱う料理人はそれほど多くない。
「誰が持ってきたの?」
「市場の人です。余ったから試してみないかって」
「それ、たぶん生で大量に使うものじゃないよ」
「やっぱり」
悠斗は苦笑した。
「さっき少し切って、自分でも失敗したと思いました」
「鼻、平気?」
「俺はそこまでじゃないですけど、かなり強いですね」
「私なら厨房にずっといたくない」
「じゃあ捨てた方がいいですか?」
「そこまでは言ってないよ。使い方次第だと思う」
シエラは籠へ近づき、直接触れない距離から匂いを確かめた。
「乾燥させれば少し弱くなるはずだし、油に香りを移して、葉そのものは取り出した方が使いやすいかも」
「詳しいですね」
「斥候だから、森で使える草くらいは覚えるよ。食べ方までは詳しくないけど」
「じゃあ、ちょうどよかった」
「何が?」
「試食してくれません?」
シエラは一瞬黙る。
「持ち込みしてないけど」
「持ち込みは必須じゃないですよ」
「そうなの?」
「食材を持ってきてもらえる店ではありますけど、普通に食事もできます」
シエラは店内を見回した。
「じゃあ、何か食べたい」
「かなりお腹空いてます?」
「何で分かったの?」
「さっきから料理よりパンを見てるので」
シエラはカウンターに置かれた黒麦パンから目を逸らした。
「……朝から忙しくて」
「昼は?」
「食べてない」
「じゃあ、先にちゃんと一皿作ります」
◇
悠斗が用意したのは、骨付きの山鳥肉だった。
「雷香草を試すなら、香りのある肉の方が合うと思います」
「山鳥なら脂もあるし、悪くないと思う」
「まず香草そのものを減らします」
悠斗は紫色の葉を一枚だけ取り、包丁の腹で軽く潰した。
その時点でも香りは立ったが、先ほどのような刺すほどの強さではない。
小鍋へ油を入れ、弱い火にかける。
そこへ雷香草を一枚だけ入れると、青臭さの中に少し柑橘にも似た刺激的な匂いが広がった。
「焦がすと駄目だよ」
「苦くなります?」
「匂いが焦げ臭さに負ける。それに、この草は熱を入れすぎると舌が痺れることがある」
悠斗が振り返る。
「それ先に言ってください」
「今言った」
「危ないな」
「毒じゃないよ。量の問題」
「余計に慎重にやります」
香りが油へ移ったところで葉を取り出し、そこへ塩を振った山鳥肉を皮側から入れた。
油へ混ざった雷香草の香りが、肉の脂とともに立ち上がる。
シエラの鼻へ届く匂いは、先ほどよりずっと穏やかだった。
「これなら平気」
「ちゃんと料理の匂いになりました?」
「うん。生の時は草の匂いしか分からなかったけど、今は肉の匂いもちゃんと分かる」
悠斗は皮をじっくり焼き、脂を落としながら表面を香ばしくする。
裏返してからは火を少し弱め、中まで熱を通していった。
付け合わせには黄芋と根玉葱を使い、黄芋は一度茹でてから潰して乳酪を少し混ぜ、根玉葱は山鳥から出た脂でゆっくり焼いて甘味を引き出した。
「それだけでいいの?」
「雷香草が強いので、他はあまり増やさない方がいいかなと思って」
「正解だと思う」
「シエラさん、普通に料理の相談相手として優秀ですね」
「鼻が利くだけ」
「それ、料理だとかなり助かりますよ」
シエラは少し困ったように笑った。
「そういうこと言うと、また頼まれる」
「嫌でした?」
「嫌っていうか……」
そこで言葉を止めた。
◇
焼き上がった山鳥肉を切ると、皮は薄く音を立て、内部から透明な肉汁が滲んだ。
悠斗は厚めに切った肉へ、鍋に残った香りのある油をほんの少しだけかける。
「《山鳥の雷香草焼き》です」
「名前そのままだね」
「まだ試作なので」
「じゃあ食べる」
シエラは一切れ口へ運んだ。
最初に感じたのは焼けた皮の香ばしさで、その後から山鳥の濃い旨味が広がり、最後に雷香草の刺激的な香りが鼻へ抜けていく。生の葉を嗅いだ時のような強烈さはなく、脂の多い肉を食べたあとに口の中を軽くする程度に収まっていた。
「これ、美味しい」
「香草、強すぎないです?」
「私にはちょうどいい。人間なら、もう少し入れても平気かもしれないけど」
「そこは人によりますね」
黄芋も一緒に食べると、乳酪を混ぜた滑らかな甘さが香草の刺激を柔らかくし、山鳥肉だけを食べる時とは違った落ち着いた味になる。
「これも合う」
「よかった」
シエラは次の一口へ手を伸ばした。
かなり空腹だったこともあり、食べ始めると止まらない。
「そんなに急がなくても大丈夫ですよ」
「急いでない」
「かなり速いです」
「斥候は食べられる時に食べるの」
「今日はもう仕事終わったんですよね?」
「たぶん」
「たぶん?」
「戻ったら何か頼まれるかもしれない」
「断れないんですか?」
シエラの耳が少し下がった。
「別に、断れないわけじゃないよ」
「じゃあ断ることもある?」
「……あんまりない」
◇
悠斗はそれ以上すぐに聞かず、空いた水の器へもう一度水を注いだ。
「今日もいろいろ頼まれたんです?」
「街道護衛のあとに倉庫を見て、市場で乳酪の傷みを確認して、それから冒険者の傷の匂いも見た」
「最後のは治癒師の仕事じゃないですか?」
「私もそう言った」
「でも見た?」
「見た」
「どうして?」
「頼まれたから」
「それだけ?」
シエラは山鳥肉を噛みながら考えた。
「私の鼻なら分かることがあるから」
「実際、分かったんです?」
「毒っぽい匂いはなかった。だから治療院へ行けって言った」
「最初から治療院でよかったんじゃ」
「それはそうなんだけど」
自分で口にすると、少しおかしかった。
「みんな、シエラさんに頼めば分かると思ってるんですかね」
「たぶん」
「シエラさん自身も?」
「何が?」
「自分なら分かるなら、見ないといけないって思ってる?」
シエラは答えなかった。
思い当たることが多すぎた。
◇
斥候として仕事を始めたのは十六歳の頃だった。
犬獣人の中でもシエラの嗅覚は特に鋭く、最初の頃はそれを褒められることが嬉しかった。森で迷った冒険者を見つけたこともあれば、腐りかけた保存食を見抜いたこともあり、魔物の群れが近づく前に気づいて仲間を助けたこともある。
自分がいるから助かったと言われるたび、役に立てたことが誇らしかった。
「昔から頼まれやすかったの?」
悠斗が尋ねる。
「うん。でも、その頃は嬉しかった」
「今は?」
「今も嫌じゃないよ」
それは嘘ではない。
誰かの役に立つこと自体は好きだった。
「ただ、最近は私を見ると何でも匂いを嗅がせようとする人がいる」
「食べ物以外も?」
「靴とか」
「靴?」
「臭うか確認してくれって」
「それは断っていいと思います」
「断ったよ」
「よかった」
「でも一回だけ」
「一回やったんですか?」
「頼んできたのが同じ隊の人だったから」
「それ、完全に遊ばれてません?」
「あとで殴った」
「なら大丈夫か」
シエラは少し笑った。
「でも、仕事に関係することだと断りにくい」
「何でです?」
「私が見れば早いから」
「それで今日、昼を食べられなかった?」
「そういう日もある」
「頻繁に?」
シエラは答えずに黄芋を食べた。
「かなりあるんですね」
「別に倒れるほどじゃないよ」
「そういう話ではなくて」
「じゃあ何?」
悠斗は雷香草の籠を見る。
「この草、シエラさんの鼻なら、生で切った時点ですぐ強すぎるって分かったんですよね」
「うん」
「俺は分からなかったから、さっき多めに切った」
「それで店中すごい匂いになった」
「でも、シエラさんがいたから量を減らして使えた」
「そうだね」
「だから助かりました」
シエラは少しだけ耳を動かした。
「ただ、だからって明日から毎日、俺が香草を切るたびにシエラさんを呼ぶのは違うでしょう」
「それは困る」
「俺もそう思います」
悠斗は笑った。
「必要な時に頼るのと、できる人に全部任せるのは別だと思うんです」
◇
「でも、私がやった方が早い」
シエラは言った。
「たぶん、そういうこと多いです」
「だったらやればいいでしょ」
「全部?」
「全部じゃないけど」
「どこまで?」
シエラは答えられなかった。
悠斗は料理人であり、斥候の働き方に詳しいわけではない。
それでも、その問いだけは妙に残った。
「それ、自分で決めてます?」
「何を?」
「どこまでなら引き受けるかです」
シエラは目を細める。
「頼まれてから考える」
「じゃあ、基本的には相手が決めてません?」
「……そうなるのかな」
「俺も今日、試食を頼みましたけど」
「これは食事代払うし、別にいいよ」
「それに、シエラさんも興味あった?」
「雷香草は気になった」
「なら、お互い都合がよかったですね」
悠斗は厨房を指した。
「もし俺が、この後ほかの香草を全部嗅いで分類してくれって言ったら?」
「断る」
「何で?」
「今日はもう疲れたから」
「それでいいんじゃないですか」
あまりに簡単に言われたため、シエラは少し黙った。
「でも仕事なら?」
「俺には決められません」
「さっき断っていいって言ったじゃん」
「靴は断っていいと思います」
「そこだけ?」
「そこは自信あります」
シエラは吹き出した。
◇
食事を終える頃には、朝から溜まっていた疲労が少し表へ出てきた。
満腹になったからか、それまで気づかなかった身体の重さまで感じるようになっていた。
「今日はもう帰ります?」
ミレイアが食器を下げながら聞く。
「組合に一回寄る」
「まだ仕事?」
「明日の確認だけ」
「それなら、今日はもう頼まれても断ったら?」
シエラは少し考える。
「何でみんな同じこと言うの」
「悠斗も言った?」
「似たようなこと」
「じゃあ二票」
「投票じゃないよ」
代金を払って立ち上がる。
扉へ向かう途中で、シエラは振り返った。
「雷香草、次に使う時は最初から少なくした方がいいよ」
「覚えておきます」
「あと、生で細かく刻まないこと」
「それも」
「油に移すなら弱火」
「はい」
「……何で私また教えてるんだろ」
「これは頼んでないですよ」
「本当だ」
自分で言い出したことに気づき、シエラは少し笑った。
◇
冒険者組合へ戻ると、予想通り声をかけられた。
「シエラ、戻ったか」
「明日の護衛の確認に来ただけ」
「その前に一つ頼めないか?」
職員が小さな袋を持ってくる。
「南倉庫から出てきた乾燥肉なんだけど、まだ使えるか匂いを――」
「今日はやらない」
言ってから、シエラ自身が少し驚いた。
職員も同じように目を瞬かせる。
「何か予定ある?」
「ない」
「じゃあ……」
「疲れたから帰る」
職員は一瞬困った顔をした。
その表情を見て、シエラの中にいつもの感覚が出てくる。
自分なら数分で終わるし、今確認すれば相手も助かるため、明日に回す必要などないのではないかという考えが自然に浮かんできた。
口を開きかける。
しかし、その前に袋を見る。
「それ、今夜使うの?」
「いや。明日の昼に隊へ回す予定」
「だったら朝見る」
「朝で大丈夫か?」
「大丈夫なら、今日は帰る」
「ああ。分かった」
想像していたより簡単だった。
「それと、保管は涼しいところに置いて」
「了解」
「袋は開けないでね。匂いが移るから」
「分かった」
「じゃあ明日」
シエラは今度こそ組合を出た。
◇
翌朝、シエラはいつもより少し早く目を覚ました。
身体の重さが昨日より減っている。
簡単に朝食を取り、それから冒険者組合へ向かった。
「おはよう」
「昨日の肉、これ」
「先に明日の護衛を確認してから見る」
「分かった」
誰も怒らない。
昨日のうちにやるべきだったと責める者もいないため、すぐに応じなければならないと思っていたのは、自分の方だったのかもしれなかった。
護衛の予定を確認してから、乾燥肉を見る。
匂いを確かめると、一部だけ脂の酸化が進んでいた。
「この端の二つは外した方がいい。残りは大丈夫だけど、今日中に使って」
「助かる」
「次から保存した日も書いておいて。毎回私が嗅がなくても、判断しやすくなるから」
「そうするよ」
以前なら、そこで終わっていた。
しかし、シエラはもう一つ付け加えた。
「それと、私がいない時でも分かるように、見た目と匂いの変化を簡単に書いておく?」
「そんなことできるのか?」
「全部は無理。でも、明らかに駄目なものくらいなら教えられる」
「それ助かるな」
「じゃあ今度時間がある時にね。今日は護衛だから」
「ああ、分かった」
頼まれる前に、自分から条件をつけた。
それだけで少し気が楽だった。
◇
数日後、シエラは東倉庫の職員を数人集め、傷みやすい食材の簡単な見分け方を教えた。
もちろん、匂いだけで完全に判別できるものばかりではない。色が変わるものもあれば、表面に粘りが出るものもあり、保管日数から判断した方が早い食材もあるため、危険なものについては無理に素人判断せず、専門家や治療院へ回すように伝えた。
「これなら、毎回シエラ呼ばなくてもいいな」
倉庫番が言う。
「本当に分からない時は呼んで」
「分かった」
「でも靴は絶対持ってこないで」
「何の話だ?」
「こっちの話」
説明を終えて外へ出ると、その日は珍しく、誰にも呼び止められなかった。
◇
昼になると、シエラは《持ち込み食堂》へ向かった。
「いらっしゃいませ」
ミレイアが声をかける。
「今日は何か持ってきた?」
「何も」
「じゃあ普通にご飯?」
「うん」
悠斗が厨房から顔を出した。
「雷香草ありますよ」
「今日は別のがいい」
「嫌いになりました?」
「嫌いじゃないけど、毎回私が来たら雷香草出す店になったら困る」
「確かに」
「普通の煮込みある?」
「あります」
「じゃあそれ」
シエラは空いている席へ腰を下ろした。
誰かに頼まれて来たわけでも、食材の傷みを確かめるために呼ばれたわけでもない。腹が空いたから、自分のために食事をしに来ただけであり、そのことを改めて意識すると、いつもの仕事帰りとは少し違う気分になった。
「そういえば、昨日の乾燥肉どうでした?」
悠斗が尋ねる。
「朝見た。あと、倉庫の人にも見分け方を教えた」
「じゃあ仕事、少し減りそうですね」
「全部は減らないよ。私じゃないと分からない匂いもあるから」
「それは仕方ないですね」
「うん。でも、何でも私が嗅がなきゃいけないわけじゃないって分かった」
しばらくして、ミレイアが湯気の立つ煮込みを運んできた。
「お待たせしました」
シエラが顔を近づけると、柔らかく煮込まれた肉の香ばしさに、火を通して甘味を増した根玉葱と、主張しすぎない香草の匂いが重なって鼻へ届いた。
「いい匂い」
「シエラさんが言うと説得力あるなあ」
「今日は仕事として嗅いでないから」
「食べるため?」
「そう」
シエラは匙を取り、温かな煮込みをゆっくり口へ運んだ。
普段なら匂いの中から傷みや毒、それ以外の小さな違和感まで無意識に探してしまう。それでも今日は、目の前の料理に危険がないと分かれば、それ以上何かを調べる必要はなかった。
焼いた肉から出た濃い旨味に、根玉葱の柔らかな甘さが重なり、最後に穏やかな香草の香りが鼻へ抜けていく。仕事で匂いを嗅いでいる時とは違い、何かを見つけなければならないという緊張がなかったからこそ、一つ一つの香りをそのまま料理として楽しむことができた。
それだけのことなのに、シエラには妙に新鮮だった。
◇
午後、冒険者組合へ戻る途中で、顔見知りの冒険者に呼び止められた。
「シエラ、この干し肉を見てもらえないか?」
「仕事?」
「いや、俺の昼飯」
「だったら自分で確かめて」
「分かんねえんだよ」
「いつ買ったの?」
「三日前」
「どこに置いてた?」
「荷袋の中」
「暑いところ?」
「馬車の中に置いてた」
シエラは少し考えた。
「それなら、少しでも心配なら食べない方がいいと思う」
「匂いだけ確認してくれない?」
「今日はしない」
「何で?」
「今は仕事じゃないから」
冒険者は不満そうな顔をしたものの、干し肉とシエラの顔を交互に見たあと、自分から袋へ戻した。
「じゃあ新しいの買うか」
「その方がいいと思う」
「前なら見てくれたのに」
「前は頼まれたら大抵やってたからね」
「変わったな」
シエラは少しだけ笑った。
「全部を私が嗅ぐ必要はないって、やっと分かったの」
冒険者はまだ少し納得していない様子だったが、それ以上は頼まず、市場の方へ歩いていった。
シエラも自分の行き先へ向かって歩き出した。
鼻が利くことを嫌いになったわけではないし、この力を使って人を助けることが嫌になったわけでもない。むしろ斥候として働く以上、他の人には分からない匂いを拾えることは、これからも自分の大切な強みであり続けるだろう。
だからこそ、本当に必要な時にきちんと使える状態でいたかった。
誰かに頼まれるたび何でも引き受け、自分の疲れに気づかないまま鼻を使い続けていたら、いざという時に危険な匂いを見落とすかもしれない。それでは役に立ちたいと思って動いていたはずなのに、結果として誰かを危険に晒すことにもなりかねなかった。
シエラは歩きながら、街を抜けていく風の匂いを自然に吸い込んだ。
焼きたてのパンから漂う香ばしさや、通りを走る馬車の油、日に温められた乾いた土、それに近くの家から流れてくる昼食の残り香が入り混じり、いつものレーヴェンらしい匂いになっている。
その中に、今すぐ自分が立ち止まって調べなければならない異変はなかった。
だからシエラは何かを探そうとはせず、ただ自分の鼻へ届く街の匂いをそのまま感じながら、次の仕事までの時間を自分のために使うように歩いていった。




