第12話 小さな魚と、大漁を追う漁師
ダリオ・ロッサは、大きな魚を釣るのが好きだった。
漁師なら誰だって大物を嫌いではないだろうが、四十六歳になるダリオの場合、それは単純な収入や食料の問題だけではなかった。
船から持ち上げた魚を市場へ運んだ時に人々が振り返り、仲間の漁師たちが「またダリオか」と呆れながら笑う瞬間が好きだった。自分の腕で海から引きずり出したものが、大勢の目を奪うほど大きければ大きいほど、その日の仕事をやり遂げたという実感が強くなる。
鉄殻貝を持ち込んだ時もそうだった。
あの巨大な貝を前に、鍛冶師のボルグでさえ最初は力任せに殻を割ろうとし、結局は道具の使い方を変えて開けることになった。青刃魚を釣り上げた時には門で足止めを食らったが、最終的には《持ち込み食堂》で料理され、グレンまで食卓へ引きずり込むことができた。
大きな獲物は面倒も呼ぶが、同じくらい話の種にもなる。
だから、その日の朝に網を引き上げた時、ダリオは露骨に顔をしかめた。
「……小せえな」
網の中では、銀色の小魚が大量に跳ねていた。
一匹一匹は手のひらに収まる程度で、細長い身体に淡い青色の線が走っている。数だけなら悪くないものの、市場で一匹ずつ高く売れる魚ではない。
「銀筋魚だな」
隣の船から漁師仲間が声をかける。
「見りゃ分かる」
「ずいぶん入ってるじゃないか」
「入ってるだけだ」
「売れるだろ」
「安い」
「飯にはなる」
「それも分かってる」
ダリオは網の端を掴み、船底へ魚を移した。
銀筋魚はこの近海では珍しくなく、群れに当たれば一度に大量に獲れる。しかし、一匹が小さいため下処理には手間がかかり、干物や塩漬け、魚醤の材料として使われることが多かったため、庶民の食卓では重宝されていても高値がつく魚ではなかった。
悪い魚ではない。
ただ、今朝のダリオが欲しかった魚ではなかった。
「今日は沖へ出るのか?」
仲間が聞く。
「もう一度行く」
「この風で?」
「昼までなら持つ」
「銀筋魚だけでも十分じゃないか」
「昨日も似たようなもんだった」
「毎日大物が来るわけねえだろ」
「だから探しに行くんだよ」
仲間は肩をすくめた。
「好きにしろ。ただ、南の雲は見とけよ」
「分かってる」
ダリオはそう答え、銀筋魚を港へ下ろした。
◇
朝の市場では、銀筋魚にそれなりの値がついた。
ただし、ダリオの顔は晴れなかった。
「量はあるんだから悪くないだろ」
魚を買い付けに来た商人が言う。
「安い」
「銀筋魚なんだからこんなもんだ」
「昨日より下がってる」
「今日は他の船も群れに当たった。市場に多いんだから仕方ない」
商人は籠の魚を確認しながら続ける。
「全部買うぞ」
「いくらだ」
提示された金額は、生活に困るほど低いわけではなかった。
燃料や氷石、それに港の使用料を引いても利益は残るため、漁そのものが失敗だったとは言えない。それでもダリオは提示された金額を眺めたあと、素直に全部を売る気にはなれなかった。
「半分だけ売る」
「残りどうするんだ」
「午後に別のとこへ持っていく」
「今日の夕方になったらもっと値が下がるぞ」
「分かってる」
「だったら今売れよ」
「いい」
商人は不思議そうな顔をしたが、それ以上は言わなかった。
結局、ダリオは銀筋魚の半分だけを売り、残りを氷石と一緒に箱へ収めたあと、もう一度船へ戻った。
◇
昼前の海は、朝より風が強くなっていた。
空にはまだ明るさが残っていたものの、南の水平線には灰色の雲が集まり始めており、漁師なら天候が変わりつつあることに気づかないはずがなかった。
ダリオは帆を調整しながら、それでも沖を目指した。
狙っていたのは、最近この辺りへ入ってきたという黒峰鯛だった。
成魚なら腕ほどの厚みがあり、身には脂が乗り、王都方面へ流せば高値がつく。何より、港へ持ち帰れば誰もが見に来る程度には立派な魚だった。
一度目の仕掛けには何もかからず、二度目も手応えはなかったが、三度目になってようやく強く糸が引かれた。
「来たか!」
ダリオは腰を落とし、船底へ足を踏ん張る。
魚は強い力で海中へ潜ろうとし、手に伝わる重さからもかなりの大きさがあることが分かった。
「そうこなくちゃな」
時間をかけながら慎重に引き寄せていくと、水面近くに黒い影が見えた。
黒峰鯛ではなく、細長い大型魚だった。
「潮牙か?」
狙っていた魚ではないが、決して悪い獲物ではない。
市場でも十分な値がつくうえ、この大きさなら港でも目を引くだろう。
あと少しで船縁まで寄せられるところまで来た時、南から突然強い風が吹いた。
帆が大きな音を立て、船体が横へ流される。
「くそっ」
張りつめた糸が船縁へ擦れた次の瞬間、乾いた音とともに切れた。
海面で大きく水が跳ね、ようやく引き寄せた魚の影が深い海へ消えていく。
「……逃げやがった」
ダリオは手元に残った切れた糸を見つめた。
悔しさは強かったが、それ以上に問題なのは、先ほどより風が強くなっていることだった。南にあった雲は予想以上の速さで近づき、海面にも細かな波が立ち始めている。
この時点で港へ戻るべきだということは、漁師として長く海に出てきたダリオ自身が一番よく分かっていた。
それでも、彼はもう一度仕掛けを準備した。
「一匹だけだ」
一匹でも大物を釣り上げれば帰るつもりだった。
そうすれば、朝から銀筋魚しか獲れなかった一日ではなくなると、そんなことを考えながら仕掛けを海へ入れた。
しかし、その直後に横から強い波を受け、船体が大きく傾いた。
積んでいた桶が倒れ、予備の綱が床を滑っていく中、ダリオは反射的に帆柱へ掴まって身体を支えた。
「馬鹿か、俺は」
そこでようやく仕掛けを回収した。
大物を追いかけるより先に、無事に船を港へ戻さなければならなかった。
◇
港へ着いた頃には、雨が降り始めていた。
幸い、本格的に荒れる前には戻ることができたが、岸で待っていた漁師仲間はダリオの船を見るなり声を張り上げた。
「遅いぞ!」
「見りゃ分かる!」
「南の雲見ろって言っただろ!」
「見た!」
「見た上で沖出たのか!」
「うるせえな!」
船を固定しながら言い返したものの、自分の判断が間違っていたことはダリオにも分かっていた。
「何か獲れたのか?」
「逃げられた」
「じゃあ何しに行ったんだ」
「それ以上言ったら海に落とすぞ」
「今落とされたら風で戻って来れねえからやめろ」
仲間は呆れながらも、船を固定するのを手伝ってくれた。
「朝の銀筋魚で十分だったじゃないか」
「十分かどうかは俺が決める」
「そのために死にかけてもか?」
「死にかけてねえ」
「船がひっくり返りかけた奴の顔してるぞ」
ダリオは返事をしなかった。
◇
雨が弱くなった夕方、ダリオは朝に残しておいた銀筋魚の箱を持って西区へ向かった。
市場へ戻ったところで、朝よりさらに値が下がっていることは分かっていた。かといって、まだ十分に食べられる魚を捨てる気にもなれず、考えた末に向かったのが《持ち込み食堂》だった。
「また魚?」
店へ入った瞬間、ミレイアに言われた。
「漁師なんだから魚持ってくるだろ」
「この前も魚だった」
「その前は貝だった」
「海で仕事してるんだから、海のものばっかりになるのは当たり前だ」
悠斗が箱を覗き込む。
「今日は小さいですね」
「悪かったな」
「悪いとは言ってませんよ」
「みんな同じこと言うんだ」
「誰に言われたんです?」
「港の奴ら」
悠斗は一匹を手に取った。
「銀筋魚ですよね」
「知ってるのか?」
「市場で見ました。干したものも売ってましたよね」
「そうだよ。安い魚だ」
「美味しくないんですか?」
「普通に食える」
「なら料理する分には問題なさそうですね」
「俺にとっちゃ問題あるんだよ」
ダリオは椅子へ座った。
「こいつじゃ高く売れねえ」
「今日は売りに来たんです?」
「半分は市場で売った」
「じゃあ残りは?」
「料理してくれ」
「分かりました」
悠斗は箱の中身をもう一度確認する。
「かなり量がありますけど、作り方に希望はあります?」
「うまけりゃいい」
「それが一番困る注文なんですよ」
「料理人だろ」
「そうですけど、せめて方向くらいはほしいです」
「だったら酒に合うやつ」
「それなら考えやすくなりました」
◇
銀筋魚は一匹が小さいため、数が多くなるほど下処理に手間がかかる。
悠斗は頭を落とし、腹を開いて内臓を取り除き始めたが、しばらくすると見ていたダリオも隣へ立って作業を手伝った。
「速いですね」
「漁師だぞ」
「小さい魚もちゃんと捌くんですね」
「何だと思ってたんだ」
「大きい魚しか興味ないのかと」
その言葉を聞いた瞬間、ダリオの手が少しだけ止まった。
「誰が言った」
「誰にも。何となくです」
「失礼な奴だな」
そう言い返したものの、完全には否定できなかった。
小魚そのものを嫌っているわけではなく、自宅では普通に焼いて食べることもある。ただ、仕事の成果として港へ持ち帰るものなら、大物の方がいいと考えていた。
下処理を終えた銀筋魚へ軽く塩を振り、表面から余分な水分が出るのを待つ間に、悠斗は根玉葱を薄く切っていった。
「どうするんだ?」
「油で表面をしっかり焼いてから、酸味のある汁へ漬けようと思います」
「揚げるのか?」
「完全に沈めるほど油は使わず、少し多めの油で揚げ焼きにします」
「昨日の宿屋の女みたいなことするな」
「マルタさんが来たの知ってるんですか?」
「西区だぞ。話くらい回る」
「早いですね」
「それで、こいつも酸っぱくするのか?」
「少しだけです。小魚なら合うと思います」
銀筋魚へ薄く穀粉をまぶし、熱した油へ入れると、魚が鍋へ触れた瞬間に細かな泡が一斉に立ち上った。
表面が徐々に固まり、銀色だった皮へ淡い焦げ色がついていくにつれ、香ばしい匂いが厨房に広がっていった。
「そのまま食ってもよさそうだな」
「一匹味見します?」
「する」
悠斗が油を切り、少し冷ましたものを渡す。
ダリオは頭を落とした魚を骨ごとかじった。
「うまい」
「骨は大丈夫です?」
「このくらいの大きさなら平気だ」
しっかり火が入った骨は硬さが弱まり、身と一緒に噛み砕ける。
「これでいいじゃねえか」
「今日はもう少しやります」
悠斗は薄く切った根玉葱に、香珠果の果汁を水で少し薄めたものを合わせ、塩と少量の蜂蜜を加えた。さらに焼いた香草をほんの少し入れて香りを整えてから、熱い銀筋魚を根玉葱と一緒にその汁へ漬け込んだ。
魚へ汁が触れた瞬間に小さな音が立ち、焼いた魚の香りへ香珠果の爽やかな匂いが重なった。
「すぐ食える?」
「食べられますけど、少し置いた方が味が馴染みます」
「待つのか」
「今日は急いでるんです?」
その言葉に、ダリオは黙った。
「……別に」
「じゃあ、少し待ちましょう」
◇
料理が馴染むまでの間、ミレイアがダリオの前へ水を置いた。
「今日は海どうだったんです?」
「普通だ」
「雨すごかったけど」
「途中からな」
「船、大丈夫だった?」
「問題ねえ」
ダリオが答えると、ミレイアはそれ以上追及せず、別の卓へ向かった。
悠斗も厨房で片づけを続けており、何か聞いてくるかと思ったのに特に声をかけてこない。
それがかえって気になった。
「聞かねえのか」
「何をです?」
「今日の漁だよ」
「話したいなら聞きますけど、さっき普通だったって言ってたので」
「……本当に普通ならな」
悠斗が手を止めた。
「何かあったんです?」
「大物に逃げられた」
「それは残念でしたね」
「それだけか」
「それ以上、何て言えばいいんです?」
ダリオは少し苛立った。
「もっと腕がどうとか、次があるとか言うだろ」
「俺は漁師じゃないので、ダリオさんの腕のことまでは分かりません」
「役に立たねえな」
「料理人ですから」
悠斗は濡れた布を絞りながら続ける。
「ただ、今日の天気で沖にいたなら、魚よりそっちの方が気になります」
「ちゃんと戻ってきた」
「ならよかったです」
「魚は逃げたけどな」
「でも、ダリオさん自身は戻ってきた」
ダリオは眉を寄せた。
「慰めてるのか?」
「別に。起きたことをそのまま言っただけです」
◇
十分に味を馴染ませた銀筋魚を、悠斗は根玉葱と一緒に皿へ盛った。
「《銀筋魚と根玉葱の香珠漬け》です」
「地味だな」
「一匹が小さいので、こうしてまとめて盛ると、それなりに見栄えはすると思いますけど」
「そういう問題なのか?」
「まず食べてみてください」
ダリオは木箸で一匹つまんだ。
揚げ焼きにした表面は汁を吸って少し柔らかくなっているが、香ばしさはきちんと残っている。香珠果の酸味が魚の脂を軽くし、根玉葱の甘さと一緒に食べれば、もう一匹と自然に手が伸びる味になっていた。
「これは酒だな」
「言うと思いました」
「酒あるか」
「ありますけど、今日は飲みすぎないでくださいね」
「何でお前まで港の連中みたいなこと言うんだ」
「今日も船を出してたんでしょう」
「もう港へ戻ってる」
「なら一杯だけにしておきましょう」
「二杯」
「一杯半なら」
「何だ、その半端な量は」
「交渉です」
「ロイドに似てきたな」
しばらく交渉した結果、結局ダリオは二杯飲むことになった。
◇
「銀筋魚、嫌いなんです?」
悠斗が尋ねたのは、皿の半分ほどがなくなったころだった。
「嫌いじゃねえよ」
「じゃあ、さっきから何でそんなに悪そうに言うんです?」
「安いからだ」
「それだけ?」
「一匹が小さいし、市場に並べても目立たない。処理に手間がかかる割に値もつかねえ」
「でも、いっぱい獲れたんですよね」
「それでも大物一匹の方がいい日もある」
「今日みたいに?」
ダリオは酒を一口飲む。
「朝から銀筋魚ばっかりだった」
「だからもう一回海に出たんですか?」
「黒峰鯛が出てるって聞いてたからな」
「それを狙った?」
「結局、別の大物がかかって逃げられたけどな」
「天気、悪くなってませんでした?」
「途中からだ」
「戻るのが遅れたんですか?」
「……少し」
悠斗は何も言わなかった。
「何だよ」
「何も言ってませんよ」
「言いたそうな顔してる」
「ダリオさんが自分で分かってそうなので」
「何が」
「危なかったってことです」
ダリオは酒杯を置いた。
「漁師なら多少の無茶はする」
「そうなんですね」
「海相手なんだから、全部安全にやってたら何も獲れねえ」
「その加減は俺には分かりません」
「だったら黙ってろ」
「はい」
悠斗は本当に黙った。
すると、ダリオの方がかえって居心地が悪くなった。
「……でもな」
「はい」
「戻るべきだったのは分かってた」
口にしてしまうと、思っていたより簡単だった。
「風が変わった時点で分かってた。それでも、朝の銀筋魚だけで終わるのが嫌だったんだ」
「どうしてです?」
「大物がなかったからだよ」
「それがそんなに嫌なんです?」
「嫌だ」
「何で?」
ダリオは答えようとして、言葉に詰まった。
大きい魚の方が高く売れるのは事実だが、今日の銀筋魚だけでも赤字ではなかったし、生活ができなくなるわけでもない。
「……漁師として、負けた気がする」
「誰に?」
「海にだよ」
「海と勝負してるんです?」
「漁師なんて、そんなもんだ」
「毎日?」
「毎日じゃ……いや、昔はそうだったかもしれん」
若い頃は、とにかく誰より大きな魚を獲りたかった。
港で名前を覚えられたかったし、腕のある漁師だと言われたかった。
実際に何度も大物を持ち帰り、少しずつ評判がついてくると、やがて「ダリオなら何か変なものを獲ってくる」と言われるようになった。
その評判が嬉しかった。
だから気づかないうちに、普通の魚だけで帰る日を物足りなく感じるようになっていた。
「最近は、大物を持って帰らないと、何となく負けた気がするんだよ」
「誰もそんなこと言ってないのに?」
「言わなくても思ってるかもしれないだろ」
「港の人たちが?」
「客だってそうかもしれねえ」
「今日、小魚を持ってきたダリオさんを見ても、俺は別に何とも思わなかったですよ」
「お前は漁師じゃねえ」
「そうですね」
「だから分からん」
「それもそうかもしれません」
悠斗は簡単に否定せず、そこで話を止めた。
◇
その時、店の扉が開き、買い物帰りらしいマルタが入ってきた。
「あれ、ダリオじゃないか」
「何だ、宿屋」
「誰が宿屋だい。名前で呼びな」
「お前だって俺のこと漁師って呼ぶだろ」
「魚臭いからね」
「宿臭いって言われたいのか」
「どんな臭いだい」
言い合いながら、マルタはダリオの皿を覗いた。
「銀筋魚?」
「そうだ」
「珍しいね。あんたがこんな小さい魚持ってくるなんて」
ダリオの顔が少し固くなる。
「ほらな」
小声で悠斗へ言う。
「何がです?」
「やっぱりそう思うだろ」
マルタが怪訝な顔をする。
「何の話だい」
「俺が小魚持ってるのが珍しいって言っただろ」
「珍しいから珍しいって言っただけだよ」
「大物じゃないと変だと思うだろ」
「別に思わないよ。昔は普通に銀筋魚だって持ってきてたじゃないか」
「昔?」
「あたしが店を始めた頃は、あんたもまだ若かっただろ。朝獲れの小魚を安く持ってきてくれたことが何度もあったよ」
ダリオは眉を寄せた。
「覚えてんのか」
「忘れるわけないだろ。金がなくて仕入れに困ってた時、売れ残りそうだからって安くしてくれたじゃないか」
「そんなことしたか?」
「したよ」
「覚えてねえ」
「あんたはそうだろうね」
マルタは皿から漂う香りを確かめた。
「これ、美味しそうだね」
「食うか?」
「金取る?」
「俺の店じゃないんだから、料理代を払って食え」
「けちだねえ」
「お前まで言うな」
◇
マルタは少量を注文し、ダリオの隣へ座った。
「何で今日は銀筋魚なのさ」
「獲れたからだ」
「それならいいじゃないか」
「よくねえ」
「何が」
「大物がなかった」
「毎日獲れたら大物じゃないだろ」
ダリオは黙った。
「何だい、その顔」
「今日、もう一回沖へ出たんだ」
「この天気で?」
「昼前だ」
「馬鹿じゃないのかい」
「港でも言われた」
「なら二回目も言ってやるよ。馬鹿だね」
「うるせえ」
「魚一匹のために宿の仕入れ先を一人減らす気かい」
「何でお前の仕入れの話になる」
「あんた、うちにも魚卸してるだろ」
「たまにな」
「死んだら卸せないじゃないか」
言い方は乱暴だったが、怒鳴りつけるほど強い声ではなかった。
「昔、銀筋魚を持ってきてたのを忘れたって言ったね」
「ああ」
「あたしは覚えてるよ」
「だから何だ」
「あんたにとっちゃ安い魚でも、こっちには助かった日があったってことさ」
ダリオは返事をしなかった。
「大きい魚もありがたいよ。祭りの日なんかは特にね。でも、毎日の飯で使うなら小さい魚だって十分役に立つ」
「それは分かってる」
「分かってるなら、何でそんなに嫌そうな顔してるんだい」
「漁師としての話だ」
「客から見れば、漁師は食べられる魚を持って帰ってくる人だよ」
「ずいぶん雑だな」
「宿屋の客なんてそんなもんさ。魚が美味けりゃ、毎回どれだけ大きかったかなんて覚えてないよ」
悠斗が少し笑った。
「俺も近いかもしれません」
「お前まで何だ」
「鉄殻貝も青刃魚も面白かったですけど、今日の銀筋魚だって料理していて面白かったですよ」
「気遣ってるだろ」
「本当に。小さいから骨まで食べやすくできるし、大きい魚とは別の料理が作れます」
ダリオは皿に残る魚を見る。
確かに、青刃魚を丸ごと同じ方法で料理することはできないし、鉄殻貝ならなおさら無理だった。
小さいからこそ、骨まで火を通し、一匹ずつ丸ごと味わう料理にできる。
「魚の価値って、大きさだけじゃないんですね」
悠斗が言う。
「それを商人に言ったら怒られるぞ」
「ロイドさんなら、大きさ以外も全部値段に入れると思います」
「ありゃ絶対入れるな」
マルタが笑った。
◇
酒を飲み終えるころ、ダリオはまだ箱に残っている銀筋魚へ目を向けた。
「これ、明日まで持つか?」
悠斗が魚の状態を確認する。
「氷石をちゃんと使えば大丈夫だと思いますけど、できれば早く食べた方がいいですね」
「全部ここで料理できるか?」
「量が多いので、一部ならできます」
「だったら半分はあたしが買おうか」
マルタが横から言う。
「宿で使うのか?」
「明日の朝に出せるし、塩焼きでもいい。今食べてる漬け方を教えてくれるなら昼にも使える」
「安くねえぞ」
「さっきまで安い魚って散々言ってたじゃないか」
「売る時は別だ」
「急に元気になったね」
そこから値段の交渉が始まり、マルタは市場の夕方価格を基準にしようとし、ダリオは朝の価格に近づけようと粘った。
最終的には、その中間ほどの金額でまとまった。
「残りはどうします?」
悠斗が尋ねる。
「一部は塩漬けにして、残りは家で食う」
「ちゃんと自分でも食べるんですね」
「最初から食える魚だって言ってるだろ」
◇
翌朝、ダリオはいつもより少し遅い時間に港へ向かった。
昨日の荒れた天気が嘘のように海は穏やかで、仲間の漁師たちも朝からそれぞれの船へ道具を積み込んでいる。
「今日は沖行くのか?」
昨日の仲間が聞く。
「行く」
「また大物狙い?」
「天気を見ながらな」
「珍しいこと言うな」
「うるせえ」
ダリオは網や綱、氷石、餌など、いつもの漁に必要な道具を順番に船へ積み込んだ。昨日切れた仕掛けについては同じものを使わず、新しいものへ交換してから状態を確かめる。
「南の風が出たら戻れよ」
「分かってる」
「昨日もそう言った」
「今日は戻る」
「本当か?」
「しつこいな」
仲間は笑った。
◇
午前の漁では、大物はかからなかった。
代わりに銀筋魚の群れと、それより少し大きい赤尾鯖が網へ入ったため、漁そのものとしては悪くない量になっている。
以前のダリオなら、ここからさらに沖へ行ったかもしれない。
空は晴れており、まだ時間も残っている。
それでもダリオは網に入った魚の状態を一匹ずつ確かめ、今日はこれで十分だと判断して港へ戻ることにした。
「今日はこれでいい」
誰に聞かせるでもなく、そう呟く。
これで完全に満足しているのかと聞かれれば、そういうわけではない。
大物を釣りたいという気持ちは消えておらず、港中が驚くような魚を持ち帰ることができれば、今でも嬉しいに決まっている。
その気持ちまで捨てる必要はなかった。
ただ、大物が獲れなかった一日を、それだけで失敗と決める必要もなかった。
◇
港へ戻ると、昨日の仲間が籠の中を覗いた。
「今日はどうだった?」
「銀筋魚と赤尾鯖だ」
「大物なし?」
「ああ」
「もう一回行く?」
ダリオは一瞬だけ海を見た。
風は弱く、今からでももう一度出ようと思えば出られる。
それでも、今日は首を横に振った。
「もう戻る」
「どうした?」
「何が」
「熱でもあるのか」
「海に落とすぞ」
「元気そうだな」
仲間が笑う。
「銀筋魚はどうする?」
「半分は市場へ持っていって、残りは《跳ね鹿亭》に聞いてみる」
「宿に?」
「昨日、買ってもらった」
「へえ」
「あと少しは自分で食う」
「大物専門やめたのか」
「最初から大物専門じゃねえよ」
◇
昼前、ダリオは《跳ね鹿亭》へ銀筋魚を持っていった。
「また持ってきたのかい」
マルタが笑う。
「要らないなら市場へ持っていくぞ」
「値段次第だね」
「昨日より新しいぞ」
「今日獲ったんだから当たり前だろ」
値段について言い合いながら、二人で魚の状態を確認する。
腹の張り具合や目の透明さ、それに鰓の色まで一緒に確かめたうえで、マルタは宿で使う分だけを買った。
残りの魚が入った籠を持ち上げたダリオへ、マルタが尋ねる。
「今日は大物は?」
「なかった」
「そうかい」
返ってきたのは、それだけだった。
落胆するでもなく、からかうでもない。
「明日はどうするんだい?」
「海次第だ」
「なら、また何か獲れたら持ってきな」
「小魚でも?」
「ちゃんと食えるならね」
「どうせ値切るだろ」
「商売だからね」
「ロイドみたいなこと言うな」
◇
その夜、ダリオは自宅へ持ち帰った銀筋魚を炭火で焼いた。
味付けには塩だけを使い、魚を網へ並べてじっくり火を通していく。脂が炭へ落ちるたびに小さな炎が立ち上がり、皮には少しずつ香ばしい焼き色がついていった。
港町なら誰でも食べたことのあるような、特別でも珍しくもない料理だった。
焼き上がった一匹を取って口へ運ぶ。
「……うまいな」
昨日食べた香珠漬けとはまるで違うが、塩だけだからこそ銀筋魚そのものの味がよく分かった。
これからも大物を追うことはやめない。
黒峰鯛も潮牙も、これまで見たことのないような魚だって、海にいるなら狙ってみたいと思う。
ただ、大きな獲物を持ち帰れなかったからといって、その日の自分の仕事まで小さくなるわけではない。
網いっぱいの銀筋魚を持ち帰った日にも、それを必要としている店があり、料理して食べる人がいる。
ダリオは焼けた銀筋魚をもう一匹皿へ取り、自分が今日の海から持ち帰った獲物を、今度は大きさと比べることなく最後まで味わった。




