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異世界持ち込み食堂~あなたの食材を料理します~  作者: シロの空


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第11話 慣れない食べ方と、宿屋のもてなし

 マルタ・グレイは、自分の宿で出す料理に自信を持っていた。


 城壁都市レーヴェンの西区で《跳ね鹿亭》を営んで二十年以上になる。夫を亡くしてからは一人で店を切り盛りするようになったが、宿の経営も料理も人任せにするつもりはなく、今では近隣の商人や旅人から「あそこへ泊まれば腹だけは減らない」と言われる程度には名前も知られていた。


 それが褒め言葉なのかどうかは少し怪しかったが、マルタ本人は気にしていない。


 旅人は疲れて宿へ来る。


 眠れる寝床を用意し、身体を拭くための湯を渡し、温かいものを腹へ入れてやれば、とりあえず翌朝にはもう一度歩き出せる。それが宿屋の仕事だと考えていた。


 だから料理についても、妙な飾り気より量と温かさを大事にしている。


 この地方でよく食べられる鹿肉や根菜を煮込み、黒麦パンを添えれば大抵の客は満足する。街道を長く歩いてきた商人なら塩気を少し強くし、年寄りには肉を柔らかく煮る程度の調整はするものの、基本の味を大きく変えることはなかった。


 少なくとも、その日の朝までは、それで何の問題もないと思っていた。


          ◇


「これ、もう少し酸っぱくできますか?」


 朝食を食べていた旅人にそう言われた時、マルタは聞き間違いかと思った。


「何を?」


「この煮込みです」


 客は三十歳前後の男で、南西の街道からレーヴェンへ入ってきた商人だった。前夜に一泊し、朝になると食堂で鹿肉と根菜の煮込みを食べていた。


 残しているわけではない。


 むしろ半分以上は食べている。


「酸っぱくって、酢を入れろってことかい?」


「似たようなものでいいです。故郷では肉の煮込みに酸味の強い果汁を入れるので、その方が食べ慣れていて」


「こっちじゃ入れないよ」


「そうなんですね」


 男はそれ以上何も言わず、再び木匙を取った。


 喧嘩になったわけでもない。


 料理を不味いと言われたわけでもない。


 それでもマルタの中には、小さな引っ掛かりが残った。


「嫌なら残していいよ」


「嫌ではないですよ。美味しいです」


「ならいいじゃないか」


「はい。ただ、できれば少し酸味がある方が好きだというだけで」


 客は穏やかに答えた。


 その言葉が、かえってマルタには分かりにくかった。


 美味しいなら、そのまま食べればいい。


 この土地にはこの土地の味がある。


 旅をしているなら、行った先の料理を食べるものではないのか。


 男は結局、煮込みをすべて食べた。


 食器を戻す時にも「美味しかったです」と言い、宿代と食事代をきちんと払って出ていった。


 それなのに、マルタは昼になっても朝の言葉を忘れられなかった。


          ◇


「そんなに気にすること?」


 昼の仕込みをしていた手を止めず、近所から手伝いに来ている女が言った。


「気にしてないよ」


「朝から三回その話してるけど」


「三回しかしてないだろ」


「三回も、でしょ」


 マルタは根玉葱を少し強めに刻んだ。


「この辺りの鹿煮込みに酸っぱい汁なんて入れないんだよ。そんなことしたら別の料理になるじゃないか」


「別の料理でも、客が好きならいいんじゃない?」


「宿で一人ずつ違うもの作ってたら厨房が回らない」


「それはそうだけど」


「それに、初めて来た土地で、その土地の料理を食べるのも旅のうちだろ」


 自分で言いながら、マルタは少しだけ違和感を覚えた。


 客は別に、レーヴェンの料理を否定したわけではない。


 ただ自分が慣れた食べ方を口にしただけだ。


 それでも、自分の料理に何か足りないと言われたような気がした。


「西区に、変な食堂あるじゃない」


「変なって何だい」


「客が食材持ってくところ」


「ああ、《持ち込み食堂》か」


 名前なら知っている。


 最近では西区の市場や宿でも、時々話題に上がるようになっていた。


「前にうちへ香珠果の荷物が届いた時、あそこの店主が関わってたって配達人が言ってたよ」


「フェリスかい」


「そう、その子」


 以前、《跳ね鹿亭》宛ての香珠果が途中で行き先不明になりかけたことがあった。結局、配達人のフェリスが探し当てて無事に届けてくれたが、その時に《持ち込み食堂》の名前も聞いている。


「だったら、そこで酸っぱい肉でも作ってもらえば?」


「何であたしが」


「気になってるんでしょ」


「気になってない」


「じゃあ行かなくていいんじゃない」


 マルタは包丁を止めた。


「……昼の仕込みが終わったら少し行ってくる」


「気になってるじゃない」


「うるさいよ」


          ◇


 午後の客が落ち着く時間を選び、マルタは小さな籠を持って《持ち込み食堂》へ向かった。


 中には鹿肉と根玉葱、それに《跳ね鹿亭》で普段使っている香草が入っている。


「いらっしゃいませ」


 店へ入ると、ミレイアが明るく声をかけてきた。


「マルタさんですよね。《跳ね鹿亭》の」


「知ってるのかい」


「近いですから。それにフェリスさんの荷物の届け先だったし」


「その話、ここまで回ってるのか」


「フェリスさん本人が話してました」


「あの子は口が軽いねえ」


 奥から悠斗が出てくる。


「こんにちは」


「あんたが店主?」


「鏡悠斗です」


「マルタ・グレイ。《跳ね鹿亭》やってる」


「知ってます。西区で長くやってる宿ですよね」


「長いだけさ」


 そう言いながらも、少し悪い気はしなかった。


「今日は食材の持ち込みですか?」


「まあね」


 マルタは籠を置いた。


「鹿肉と根玉葱。どっちも普通のやつだ」


「珍しい魔物じゃないんですね」


「普通じゃ悪いかい」


「そんなことないです。むしろ普段食べてる食材の方が、違いを見るには面白いこともありますから」


「違い?」


「今日は何か作りたい料理があるんですか?」


 マルタは少し迷ったあと、朝の客について話した。


          ◇


「つまり、鹿肉の煮込みを酸っぱくしてほしいと言われた?」


「そういうことさ」


「それで作ってみたいんです?」


「作りたいっていうか、どんなものになるのか確かめたい」


「なるほど」


「先に言っとくけど、うちの煮込みが不味いって話じゃないからね」


「そこは分かってます」


「ちゃんと全部食べたし、美味いとも言った」


「はい」


「ただ、その客は故郷じゃ酸味を入れるって言ったんだ」


 悠斗は籠の食材を見ながら考える。


「何の酸味を使うんでしょうね」


「そこまでは聞かなかった」


「この辺で手に入りやすいなら、香珠果とか?」


「香珠果を肉に?」


「前に鶏肉と合わせたことがあります」


「果物を?」


「はい」


 マルタは怪訝な顔になる。


「あんたの故郷じゃ普通なのかい?」


「肉と果物を合わせる料理はいろいろありました」


「ずいぶん変わったところだね」


「俺にとっては普通だったんですけどね」


 その言い方に少しだけ引っ掛かるものはあったが、マルタは深く聞かなかった。


「香珠果なら、うちにもまだ少し残ってるよ。前にフェリスが届けたやつ」


「じゃあ、それを使えそうですね」


「わざわざ取りに戻るのも面倒だね」


「店にも少しあります」


 悠斗は保存していた香珠果を一つ持ってきた。


 マルタは皮を指で押す。


「これを鹿肉へ入れるのかい」


「そのまま全部は入れません。果汁を中心に使って、皮は香りを見ながら少しだけにします」


「苦いから?」


「はい。前に使った時、皮はかなり苦かったので」


 マルタは腕を組んだ。


「じゃあ、やってみな」


          ◇


 悠斗はまず鹿肉を確認した。


 宿で普段使う部位らしく、煮込み向きの赤身に筋と脂がほどよく入っている。


「普段はどう作ってます?」


「大きめに切って焼き目をつけてから、根玉葱と一緒に煮る。塩と香草を入れて、最後に少しだけ乳酪を溶かす時もあるね」


「美味しそうですね」


「美味しいよ」


「自信ありますね」


「二十年以上出してる料理だからね」


 悠斗は笑った。


「じゃあ、その作り方を大きく変えずに酸味だけ入れてみましょう」


「別物にしないのかい」


「今回確かめたいのは、酸味が入るとどう変わるかですよね」


「そうだね」


 鹿肉は普段より少し小さめに切り、塩を軽く振って表面の水分を拭き取る。


 熱した鍋へ油脂を入れ、肉の表面に焼き色をつけていく。


 肉から香ばしい匂いが立つ。


「ここまでは同じだね」


「はい。マルタさんの作り方を基準にしたいので」


 肉を一度取り出したあと、同じ鍋へ薄く切った根玉葱を入れた。


 肉の旨味が残った油を吸わせるように炒め、根玉葱が柔らかくなったところで鹿肉を戻す。


「ここから香珠果?」


「まだです。最初から酸を入れるより、肉がある程度柔らかくなってからの方がいいと思います」


「理由は?」


「肉の状態を見たいのと、長く煮すぎると香りが飛びそうなので」


「ふうん」


 マルタは腕を組んだまま、悠斗の手元を見続けた。


 水を加え、香草を入れて弱火で煮る。


 しばらくすると鹿肉から灰汁が出てきたため、悠斗は丁寧に取り除いた。


「そういうところはちゃんとしてるね」


「料理人なので」


「変な店やってるから、もっと適当かと思ってた」


「ひどい評価だな」


「持ち込まれたもの何でも料理するんだろ?」


「何でもは無理ですよ。食べられるか分からないものは調べますし、危ないと思ったら断ります」


「その辺はまともなんだね」


「その辺“も”です」


          ◇


 鹿肉が柔らかくなり始めたころ、悠斗は香珠果を切った。


 果肉から絞った汁を小さな器へ取り、まずほんの少量だけ鍋へ加える。


「それだけ?」


「最初から入れすぎたら戻せないので」


「慎重だね」


「初めての組み合わせですから」


 少し煮たあとで味を確かめる。


「まだ弱いですね」


「食べていいかい?」


「どうぞ」


 マルタも小さな匙で煮汁を取った。


 確かに酸味はあるが、ほとんど気づかない程度だった。


「これじゃ、いつもの煮込みとあまり変わらないね」


「じゃあ少し増やします」


 二度目は先ほどより多く加え、さらに少量の蜂蜜で角を丸める。


「甘くするのかい」


「甘くするというより、酸味を尖らせすぎないためです」


「だったら根玉葱の甘さだけでもよくない?」


「それでもいいかもしれません。まず比較します?」


 悠斗は小鍋へ少量を分け、蜂蜜を入れないものと入れたものを作った。


 マルタは両方を味見する。


「蜂蜜なしの方が好きだね」


「俺は少し入った方が食べやすいです」


「料理人でも好み分かれるじゃないか」


「普通に分かれますよ」


「客に合わせるなら、どっちが正しい?」


「正しい方を決めなくてもいいんじゃないですか」


 マルタが悠斗を見る。


「どういう意味だい」


「店の基本の味はマルタさんが決めていいと思います。でも、酸味が好きな人には後から足せるようにしてもいい」


「別鍋で作るんじゃなく?」


「毎回一人分だけ違う煮込みを最初から作るのは大変でしょう。だったら、基本の煮込みはそのままにして、客が希望した時だけ酸味を足す方法を考えるとか」


 マルタは少し考え込んだ。


「それなら厨房も止まらないね」


「はい。全部合わせる必要はないと思います」


「でも、それじゃこの土地の料理じゃなくなるんじゃないかい」


「酸味を足しただけで?」


「そこから何でも客の言う通り変え始めたら、何がこの店の味か分からなくならないかね」


 悠斗はすぐには答えなかった。


 鍋の火を弱め、しばらくしてから口を開く。


「マルタさんは、客が塩を少し足してほしいって言ったら?」


「料理によるけど、そのくらいならやるよ」


「肉を小さく切ってほしいって言われたら?」


「年寄りや子供ならするね」


「黒麦パンじゃなくて柔らかいパンがほしいと言われたら?」


「在庫があれば出す」


「それで《跳ね鹿亭》の料理じゃなくなります?」


 マルタは黙った。


「……ならないね」


「じゃあ、酸味もそのくらいの話かもしれないです」


          ◇


 完成した煮込みを二種類に分けた。


 一つは《跳ね鹿亭》で普段出している味に近いもの。


 もう一つには香珠果の果汁を少し多めに加えている。


 見た目にはほとんど違いがない。


「食べ比べます?」


「そのために来たんだ。食べるよ」


 マルタは最初に、いつもの味に近い方を食べた。


 肉は柔らかく、根玉葱の甘味と香草の香りが馴染んでいる。


「悪くない」


「マルタさんの料理が元ですからね」


「ちゃんと分かってるじゃないか」


 次に、酸味を加えた方へ木匙を入れた。


 口へ入れた瞬間、香珠果の香りがわずかに鼻へ抜ける。


 酸っぱすぎるわけではない。


 脂のある鹿肉を食べたあとに口の中が少し軽くなり、次の一口へ進みやすかった。


「……なるほどね」


「嫌いです?」


「いや」


 もう一口食べる。


「思ったより悪くない」


「好きです?」


「そこまでは言わないよ」


「厳しいな」


「でも、肉を多く食べるならこっちの方が重くないね」


「俺もそう思います」


「なるほど。あの客が言ってたのは、こういうことかもしれないね」


 朝の旅人は、自分の料理を否定していたわけではなかった。


 ただ、長く食べ慣れた味があった。


 旅先でも、その味に少し近づけられないか尋ねただけだった。


 マルタはそこでようやく、その可能性を素直に考えられた。


          ◇


「でもさ」


 マルタは食べながら言った。


「旅に出たら、その土地のもの食べたいって思わないのかね」


「人によるんじゃないですか」


「せっかく知らない街へ来たのに?」


「新しいものを食べたい人もいると思います。でも、旅が長ければ、慣れた味が恋しくなる人もいるでしょうね」


「自分も?」


 悠斗の手がわずかに止まった。


「……ありますよ」


「故郷の味?」


「はい」


「何が食べたくなる」


 悠斗は少し考えた。


「いろいろありますけど、すごく特別な料理じゃないことが多いですね」


「例えば?」


「温かいご飯とか、汁物とか、家で普通に食べてたものです」


「ごはん?」


「主食みたいなものです」


「この辺の黒麦みたいな?」


「近いです」


 悠斗は少し笑った。


「住んでる時は、いつでも食べられると思ってたんですけどね」


「今は食べられない?」


「同じものは、なかなか」


 そこから先は話さなかった。


 マルタも聞かなかった。


 ただ、旅人が慣れた味を求める気持ちについて、朝より少しだけ具体的に想像できるようになった。


 故郷を離れたからといって、その土地の味を全部忘れるわけではない。


 知らない料理を楽しむことと、慣れた料理を恋しく思うことは、別に矛盾しないのだろう。


          ◇


「これ、持って帰っていいかい」


 マルタが酸味を加えた煮込みを指した。


「もちろん。マルタさんの食材ですし」


「明日のまかないで試す」


「宿の料理には?」


「いきなり変えるわけないだろ」


「ですよね」


「まず自分のところの連中に食べさせる。そのうえで、希望する客にだけ出せる方法を考える」


「それがいいと思います」


「あと、香珠果を全部の鍋へ入れるのは高くつくね」


「そこはロイドさんに相談したら喜びそうです」


「あの商人かい」


「値段の話ならすごく真剣に考えてくれます」


「それは商人なら普通だろ」


「最近、味もちゃんと見るようになりました」


「何があったんだい」


「黒い豆がありまして」


「よく分からないけど、今度聞くよ」


          ◇


 翌日の昼前、《跳ね鹿亭》の厨房には小さな器が並んでいた。


 いつもの鹿肉煮込み。


 香珠果の果汁を少し入れたもの。


 少量の蜂蜜まで加えたもの。


「また増えてる」


 手伝いの女が呆れた顔をする。


「比較するなら必要だろ」


「昨日まで酸っぱい煮込みなんて駄目って言ってなかった?」


「駄目とは言ってない」


「言ってたようなものだけど」


「うるさいね。食べな」


 従業員たちへ三種類を少量ずつ出した。


「私は普通のが好き」


「俺は酸っぱい方」


「蜂蜜入りはパンと一緒ならいいですね」


 見事に意見が分かれた。


 マルタは腕を組んだ。


「本当に一つに決まらないねえ」


「当たり前じゃない?」


「今まで客に同じもの出してきたから、もう少し揃うと思ってたよ」


「みんな文句言わず食べてただけじゃない?」


「それ、もっと早く言いな」


「怒るじゃん」


「今も怒るよ」


「ほら」


 厨房に笑いが起きた。


 マルタは呆れながらも、自分も少し笑った。


          ◇


 その日の夕方、宿へ一人の旅人が入ってきた。


 朝の男とは別人で、北側の街道から来た年配の女性だった。


 夕食時になり、いつもの鹿肉煮込みを出す。


「美味しいねえ」


「そりゃどうも」


「ただ、私は歯が弱くてね。肉をもう少し小さくしてもらえるかい?」


 以前からなら、それくらいは普通に応じていた。


「いいよ。次から先に言ってくれれば小さく切る」


「助かるよ」


 マルタは皿を下げ、肉を食べやすい大きさへ切り直した。


 厨房へ戻る途中で、ふと自分がおかしくなった。


 肉の大きさを変えるのは気にしない。


 塩気の調整もする。


 柔らかく煮ることもある。


 なのに、酸味を足すことだけは、この土地の料理を否定されたように感じていた。


 違いは何だったのだろう。


 慣れているかどうか。


 自分が知っている変更かどうか。


 結局、それだけだったのかもしれない。


          ◇


 数日後、マルタは食堂の壁に小さな札を一枚追加した。


《鹿肉煮込みは、希望があれば香珠果の酸味を少し足せます》


 大きく宣伝するほどのものではない。


 基本の料理を変えたわけでもない。


 《跳ね鹿亭》の鹿肉煮込みは、以前と同じ味で出している。


 ただ、希望する客がいれば少し変えられるようにした。


 最初の数日は、誰も頼まなかった。


「ほら見な。誰も酸っぱくしないじゃないか」


 マルタが言うと、手伝いの女が笑った。


「それでも札外さないんでしょ?」


「せっかく書いたからね」


 四日目の夜になって、南から来た若い旅人が札へ気づいた。


「これ、本当に酸味を足せるんですか?」


「少しだけね」


「お願いします。故郷の料理に似てるかもしれない」


「分かったよ」


 マルタは厨房へ戻り、普段の煮込みを小鍋へ一人分だけ取り分けた。


 香珠果の果汁をほんの少し加え、煮立てすぎないよう温め直す。


 客へ出す。


 しばらくして、空になった皿が戻ってきた。


「どうだった?」


「美味しかったです」


「普通の方は食べたことある?」


「昨日食べました。あっちも美味しかったですよ」


「じゃあ、何で今日はこっちにしたんだい」


 若い旅人は少し考えた。


「今日は、ちょっと故郷の味が恋しかったので」


 マルタはその言葉を聞いて、今度は引っ掛からなかった。


「そうかい」


「明日は普通の方に戻すかもしれません」


「好きにしな」


「いいんですか?」


「宿屋ってのは、旅の途中で休むところだろ」


 マルタは空になった皿を受け取った。


「たまには自分の家に近い味が食べたい日だってあるさ」


 若い旅人は笑って礼を言い、部屋へ戻っていった。


          ◇


 閉店後、マルタは翌朝の仕込みをしながら壁の札を眺めた。


 自分の料理を捨てたわけではない。


 《跳ね鹿亭》の味を誰かの故郷へ合わせて、全部作り替えたわけでもない。


 ただ一つ、選べる食べ方を増やしただけだった。


 旅人は、知らない土地へ来たからといって、故郷を置いてくるわけではない。


 新しい味を楽しみながら、時には昔から知っている味を恋しく思う。その両方を抱えたまま旅をしている客へ、宿屋ができることは案外難しくないのかもしれなかった。


 マルタは翌朝分の鹿肉へ下味をつけ終えると、香珠果の入った小さな籠も手の届く棚へ置いた。


 基本の煮込みは、明日もこれまで通り作る。


 その味を気に入ってくれる客には、そのまま食べてもらえばいい。


 けれど、少し違う味を必要としている客が来たなら、その時は話を聞いてから、小鍋を一つ火にかければよかった。


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