第10話 値札のない豆と、商人の一食
# 『異世界持ち込み食堂~あなたの食材、料理します~』
## 第10話 値札のない豆と、商人の一食
ロイド・バッセルは四十二歳になる人間の食料商人であり、レーヴェン中央市場に二つの倉庫と一つの常設店を持つ中堅商会《バッセル商会》の主人だった。焦げ茶色の髪を後ろへ撫でつけ、顎には短く整えた髭を残しており、商談の席では濃紺の上着に銀縁の帳面を携えることが多い。
体格はやや大きいが、力仕事をする商人というよりは、毎日倉庫と市場を歩き回ってきたことで足腰が鍛えられた身体つきをしている。人と話す時には相手の表情をよく見ており、声を荒らげることは少ないものの、値段や数量の話になると質問が細かくなるため、若い仕入れ人からは少し緊張する相手として知られていた。
ただし、ロイドは金に細かいだけの商人ではなかった。
どれだけ珍しい食材であっても、売れる見込みがなければ大量には仕入れない。反対に、一見地味な根菜でも回転が早く、保存が利き、一定の需要があるなら安定した商品として扱う。
食料商人にとって、食材は食べるものであると同時に商品でもある。
美味しいというだけで必ず売れるわけではなく、珍しいからといって高く売れるとも限らない。誰が買うのか、どの程度の量が動くのか、保存にどれだけ費用がかかるのかまで考えて初めて、仕入れる価値が決まる。
ロイドはそういう現実的な考え方を、長い失敗の積み重ねから身につけていた。
◇
ロイドはレーヴェンから南へ二日ほど下った宿場町で、食料品店を営む家の次男として生まれた。
父親は乾物や穀物を扱い、母親は帳簿と店頭販売を担当していた。
幼い頃のロイドは、食べ物より値札を見る子どもだった。
同じ大きさの林檎でも傷があれば安くなり、雨が続けば麦粉の値段が上がり、祭りの前には干し肉がいつもより早く売れる。
その変化が面白かった。
十二歳になる頃には父親の横で簡単な計算を手伝い、十五歳では近隣村へ仕入れについていくようになった。
兄が家業を継ぐことになったため、ロイドは二十歳を過ぎた頃に独立し、より大きな市場を求めてレーヴェンへ移った。
◇
最初は小さな荷車一台から始めた。
農家から豆や根菜を買い、市場で売る。
余れば宿屋へ安く卸す。
売れ筋を覚え、季節ごとの価格差を記録し、少しずつ取扱量を増やしていった。
二十代後半には一つ目の倉庫を借りられるようになり、三十代に入る頃には南方から入る乾物や香辛料も扱うようになった。
商売そのものは順調だった。
だからこそ、三十四歳の時に犯した失敗はロイドの中へ深く残った。
南方の行商人が、《赤蜜根》という見慣れない保存根菜を持ち込んできた時のことだった。
◇
赤蜜根は外皮が濃い赤紫色で、加熱すると甘味が強くなる珍しい食材だった。
生産地が遠い。
レーヴェンではほとんど知られていない。
持ち込まれた量も少ない。
行商人は「南では祝い事にも使う」と説明した。
ロイドはそこで、珍しいものなら高値で売れると判断した。
自分で味を確かめる前に、その場で残っていた在庫をほぼ全量買い取った。
値段も安くはなかった。
しかし、珍しさを考えれば十分利益を出せると思っていた。
◇
結果は散々だった。
市場へ並べても、客は赤蜜根の食べ方を知らない。
試しに買った料理屋は「甘すぎて普段の煮込みには使いにくい」と言った。
焼けば美味しいと知っている客もいなかった。
祭りでもない普通の日に、高い金を出して見慣れない根菜を買おうとする者は少なかった。
数日後には値下げを始め、最後には仕入れ値を大きく下回る価格で処分することになった。
保存のために借りた場所代まで考えると、かなりの損失だった。
ロイドはその時、珍しいという言葉だけで商品価値を決めた自分を強く恥じた。
◇
それ以来、彼の商売は慎重になった。
初めて見る食材については、まず相場を調べる。
他都市でいくらなのか。
誰が買っているのか。
保存期間はどの程度なのか。
料理屋が使うのか、家庭向けなのか、薬師向けなのか。
値段の目安が立たなければ、大量には買わない。
その姿勢のおかげで大きな失敗は減った。
ただし、少しずつ別の癖もついていった。
値段が分からない食材を見ると、味や使い方より先に「いくらで売れるか」を決めたくなるようになったのである。
◇
その日、ロイドが《持ち込み食堂》へ持ってきたのは、小さな麻袋だった。
「いらっしゃいませ」
ミレイアが迎える。
「持ち込みですか?」
「そうだ」
「何です?」
「それを知りに来た部分もある」
「名前分からない?」
「名前はある」
ロイドは麻袋を卓の上へ置き、中身を少しだけ出した。
黒に近い深い紫色の豆が、ころころと卓へ転がる。
一粒は普通の白豆より少し大きく、表面には月の輪のような薄い灰色の模様が浮かんでいた。
「《黒月豆》だ」
ロイドが言う。
◇
悠斗が厨房から出てきた。
「黒月豆?」
「知っているか?」
「初めて見ます」
「そうか」
ロイドは少し残念そうな顔をした。
「何で?」
ミレイアが聞く。
「知っていれば話が早いと思った」
「何の話?」
「値段だ」
悠斗が豆を見る。
「俺、商人じゃないですよ」
「食材を見る目はあるだろう」
「料理に使えるかなら多少は」
「それでいい」
「でも市場価格は分かりません」
「味と使い方が分かれば、値段の参考にはなる」
ロイドはそう言った。
◇
「どこから来た豆です?」
悠斗が尋ねる。
「北東から来た小さな商隊だ」
「量は?」
「今レーヴェンにあるのは、おそらく二袋だけだ」
「かなり少ないですね」
「だから値段がない」
「売った実績も?」
「ほとんどない」
「生産地では?」
「向こうでは普通に食べるらしいが、こちらまで持ってくる者が少ない」
「どう料理する?」
「煮るとは聞いた」
「毒とかは?」
「ない。そこは商隊の料理人にも確認した」
「浸水は必要?」
「一晩水へ入れると言っていた」
◇
悠斗は乾いた黒月豆を手に取った。
表面は硬い。
匂いは強くない。
「もう戻してあります?」
「少量だけ」
ロイドは別の小袋を出した。
中には水を吸って一回り大きくなった黒月豆が入っている。
「準備いいですね」
「商売だからな」
「食べた?」
「まだだ」
悠斗が顔を上げる。
「まだ?」
「だからここへ来た」
「煮れば食べられるって分かってるなら、自分で試してもよかったんじゃ?」
「料理が得意じゃない」
「それだけ?」
ロイドは少し黙った。
◇
「先に一つ聞きたい」
「何です?」
「この豆、いくらの価値があると思う」
悠斗は少し困った顔をした。
「料理する前に?」
「先に知りたい」
「見ただけでは分からないです」
「珍しいだろ」
「珍しいですね」
「量も少ない」
「そうですね」
「なら高い?」
「それは俺には決められません」
ロイドは眉を寄せた。
「料理人なら、いい食材かどうかくらい分かるだろ」
「食べてないので」
「見た感じでは?」
「使えそうとは思います」
「それで値段は?」
◇
ミレイアが二人を交互に見る。
「ロイドさん、何でそんなに先に値段知りたいんです?」
「商人だからだ」
「食べてからじゃ駄目?」
「値段が決まっていないものを食べても、その感想をどう扱えばいい」
「美味しいかどうか分かる?」
「それだけでは商売にならん」
「でも味分からないと売り方も分からなくない?」
ロイドはすぐには答えなかった。
「それは……そうだが」
悠斗が黒月豆を見ながら尋ねる。
「以前、珍しい食材で失敗したことあります?」
ロイドの目が少し細くなった。
「なぜそう思う」
「珍しいって言いながら、全然嬉しそうじゃないから」
◇
「嬉しそうに仕入れる商人は危ない」
「それはそうかもしれないですね」
「昔、一度やった」
ロイドは椅子へ座った。
「《赤蜜根》という根菜を知ってるか」
「知らないです」
「南では珍しくないが、レーヴェンでは当時ほとんど知られていなかった」
「大量に買った?」
「珍しい、遠方産、入荷量が少ない。その三つだけ見てな」
「味見せず?」
「しなかった」
「売れなかった?」
「かなり損した」
ロイドは短く息を吐いた。
◇
「まずい食材だったんです?」
ミレイアが聞く。
「いや」
「じゃあ何で?」
「使い方が合わなかった」
ロイドは答えた。
「甘味が強く、普通の根菜と同じ感覚では使いにくかった。料理屋へ売ろうとしても、普段の煮込みには合わないと言われた」
「なら菓子とか?」
「後から聞けば、焼き菓子や甘い煮物には使えたらしい」
「最初に知ってたら?」
「買う量を減らして、使える店を探した」
「でも最初は珍しいから売れると思った?」
「ああ」
◇
「それから慎重になったんですね」
悠斗が言う。
「慎重で悪いか」
「悪くないです」
「ならいい」
「ただ、今度は値段を決めないと食べられなくなった?」
ロイドの表情が少し硬くなった。
「そこまでは言っていない」
「でも今、まだ食べてないですよね」
「市場価値が分からない食材を、先に個人的な好みで判断したくない」
「何で?」
「美味ければ高く見積もりたくなるかもしれん」
「逆も?」
「不味ければ安く見積もるかもしれん」
◇
「それって駄目なんですか?」
ミレイアが聞く。
「商売では危ない」
「でも味も価値の一つですよね」
「一つではある」
「じゃあ無視もできない?」
「できない」
ロイドは少し苛立ったように答えた。
「だから難しいんだ」
「なら今日は値段を決めなくていいんじゃないですか」
悠斗が言う。
「何?」
「今日は食べて、どう使えるかだけ見る」
「それで商売になるか?」
「今日だけで全部決めなくてもいいでしょう」
「商人は判断を遅らせると他に取られることもある」
◇
「黒月豆、もう全部買ったんですか?」
「まだだ」
「どのくらい押さえてる?」
「試しに一小袋分だけ買った」
「じゃあちょうどいいですね」
「何がだ」
「その量で使い方を見る」
「それは最初からそのつもりだ」
「なら値段は後でいい?」
ロイドは返事をしなかった。
悠斗は豆を少量取り出す。
「とりあえず煮ます」
「何を合わせる」
「干し肉があります。乳酪も少し」
「豆に乳酪?」
「合うか試します」
「試す?」
「初めての食材なので」
◇
ロイドは少し驚いたように悠斗を見る。
「料理人でも分からないのか」
「初めてですから」
「見れば大体分かるんじゃないのか」
「ある程度の予想はしますけど、絶対じゃないです」
「失敗したら?」
「食べられる範囲で調整します」
「商売なら損だぞ」
「今日は料理なので」
「気楽だな」
「ロイドさんよりは」
ミレイアが笑う。
ロイドは不満そうにしたが、席を立つことはなかった。
◇
悠斗は一晩水で戻された黒月豆を鍋へ入れ、新しい水でゆっくり煮始めた。
最初から強く火を入れず、皮が割れすぎない程度に柔らかくしていく。
「煮えるまで時間かかる?」
ロイドが尋ねる。
「多少」
「店ならその時間も値段に入るな」
「そうですね」
「燃料も」
「入ります」
「戻す時間も必要だ」
「それも使い勝手に関係しますね」
「保存は乾燥状態なら長い」
「それは利点?」
「かなり」
ロイドの声が少し仕事らしくなった。
◇
「重さは?」
悠斗が聞く。
「乾物としては普通だ」
「輸送費は?」
「生産地が遠いから高い」
「なら高級品?」
「そこが分からん」
「何で?」
「高くしすぎれば誰も買わん。安くすれば輸送費が出ない」
「使う店が分かれば?」
「話は変わる」
「じゃあ先に料理ですね」
「簡単にそこへ戻すな」
ロイドは苦笑した。
◇
豆が柔らかくなり始めると、煮汁に薄い紫色が出た。
悠斗は一粒だけ取り出し、少し冷ましてから割る。
中は淡い灰紫色で、白豆よりやや粉質が強い。
「食べても?」
ロイドが聞く。
「もう火は通ってます」
「味付け前?」
「そうです」
「それで分かるのか」
「素の味を見たいので」
悠斗が一粒食べる。
ロイドも続いた。
◇
「どうです?」
ミレイアが尋ねる。
ロイドは少し考える。
「思ったより甘い」
「甘い?」
「砂糖みたいな甘さではない」
「豆の甘さ?」
「そうだな」
悠斗も頷いた。
「白豆より少し濃いですね。皮には香ばしい感じもあります」
「高く売れる?」
「まだそこですか」
「味を見ただろ」
「味は分かりました」
「なら」
「今度は使い方を見ます」
ロイドは諦めたように椅子へ背を預けた。
◇
悠斗は干し肉を細かく切り、湯へ軽く通して塩気を調整した。
根玉葱を少量炒め、そこへ煮た黒月豆と干し肉を加える。
豆の煮汁も少し使い、弱火で馴染ませていく。
最後に乳を少量加え、乳酪を溶かした。
「色、変わりましたね」
ミレイアが鍋を覗き込む。
黒月豆の煮汁によって、全体は淡い灰紫色を帯びていた。
「見た目は少し変わってるな」
ロイドが言う。
「売りにくい?」
「料理による」
「黒い豆って嫌われます?」
「知らないものを警戒する客はいる」
「でも珍しいから食べる客も?」
「いる」
「どっちです?」
「だから客による」
◇
自分で答えてから、ロイドは少し黙った。
「何です?」
悠斗が聞く。
「いや」
「今、答え出た?」
「一つはな」
「どんな?」
「値段だけじゃなく、誰へ売るかが先かもしれん」
「今までもそうしてたんじゃ?」
「普通の商品ならな」
「珍しいものだと?」
「珍しさ自体を客だと思ってた」
「どういう意味です?」
ミレイアが聞く。
「珍しいなら誰かが買う、と雑に考えてたってことだ」
◇
「赤蜜根の時?」
「ああ」
「今度は逆に慎重すぎる?」
「そうかもしれん」
ロイドは卓の上の乾燥豆を見る。
「値札が先にないと、扱えない気がしていた」
「でも誰へ売るか分かってないと値札も決めにくい?」
「その通りだ」
「料理屋向けと家庭向けでも違いますしね」
「量も違う」
「保存期間は長い」
「そこは強い」
「戻すのに時間かかる」
「家庭では面倒に感じる者もいる」
「料理屋なら?」
「仕込みとして組める店なら問題ない」
◇
「じゃあ値段、一つじゃない?」
ミレイアが尋ねる。
「同じ商品なら基本の売価は必要だ」
「でも売り方は変わる?」
「小袋と大袋で変えられる」
「試食は?」
ロイドが眉を上げる。
「試食?」
「知らない豆なら、食べ方分からないでしょう」
「無料で配るのか」
「全部じゃなくて少し」
「手間がかかる」
「でも赤蜜根の時、使い方知られてなかったんですよね」
ロイドは少し考え込んだ。
◇
「それも方法か」
「商人なのに今気づいた?」
ミレイアが笑う。
「今までは知ってる商品ばかり扱ってたんだ」
「珍しいものは?」
「大量に触らなくなった」
「失敗したから?」
「そうだ」
「じゃあ黒月豆は久しぶり?」
「かなりな」
ロイドは豆を一粒指で転がした。
「だから昔の失敗を避けることばかり考えてた」
「避けるのは悪くないですよ」
悠斗が言う。
「でも同じ失敗を避けるのと、何もしないのは別かもしれないですね」
◇
「商売を知らない料理人に言われると腹立つな」
「じゃあ聞かなかったことにします?」
「それはもっと腹が立つ」
ミレイアが笑う。
やがて煮込みが仕上がった。
悠斗は一部をそのまま皿へ盛り、残りの黒月豆は煮汁を切って粗く潰した。
「それは何する」
ロイドが尋ねる。
「パンにのせます」
「同じ豆を?」
「食べ方を二つ見たいので」
「なるほど」
粗く潰した豆へ少量の塩と乳酪を混ぜ、薄く焼いたパンへ塗る。
◇
「《黒月豆と干し肉の乳酪煮込み》と、黒月豆の粗潰しをのせた焼きパンです」
悠斗が二皿を卓へ置いた。
「同じ豆で二つか」
ロイドは煮込みから食べた。
柔らかく煮えた黒月豆は白豆より少し密度があり、噛むと穏やかな甘味が広がる。
干し肉の塩気と乳酪の濃さを受け止めても豆の味が消えず、皮の香ばしさが最後に残った。
「悪くない」
ロイドが言う。
「商人の言う悪くないは?」
ミレイアが尋ねる。
「普通に美味いという意味だ」
「素直じゃない」
「仕事で味見してるんだ」
◇
次に焼きパンを食べる。
粗く潰した豆は煮込みより味が直接分かり、パンと合わせると軽い食事として食べやすい。
「これは店先でも出せるな」
ロイドが言った。
「商会で料理するんです?」
「料理人はいないが、小さな試食ならできる」
「豆だけ潰して?」
「前日に戻して煮ておけばな」
「手間は?」
「かかる」
「じゃあ値段上げる?」
「試食分は宣伝費だ」
「ちゃんと商人ですね」
「当たり前だ」
◇
「それで、いくらなら売れる?」
悠斗が逆に尋ねた。
ロイドはすぐ答えなかった。
「今度はそっちが聞くのか」
「味見したから」
「まだ決められん」
「何で?」
「仕入れ値と輸送費は分かる。だが客がどのくらい興味を持つかが分からない」
「じゃあ?」
「少量で試す」
「全部買わない?」
「買うわけがない」
ロイドは即答した。
「昔の俺じゃない」
◇
「どのくらい?」
「今ある残りの一袋を全部買うのも多いな」
「二袋しかないんですよね?」
「そうだ」
「なら半分?」
「商隊が分けてくれればな」
「売り方は?」
「まず商会の店頭で小袋を数個だけ出す」
「料理屋には?」
「知り合いの二軒に見本を持っていく」
「値段は?」
「最初から高級品扱いにはしない」
「安くする?」
「輸送費が出る最低線より少し上だ」
「利益少ない?」
「最初は情報を買う」
◇
「情報を買う?」
ミレイアが聞く。
「誰が興味を持つかを見る」
「売れたら?」
「次回の仕入れを増やす」
「売れなかったら?」
「理由を見る」
「味が嫌?」
「見た目かもしれんし、使い方が分からないのかもしれん。値段が高い可能性もある」
「じゃあ一回売れなかっただけで全部駄目にはしない?」
「少量ならな」
「大量に買ってたら?」
「損を減らすために早く処分したくなる」
ロイドは自分で言いながら頷いた。
◇
「だから小さく試す」
「赤蜜根の時とは逆?」
「完全に逆にはしない」
「どういうこと?」
「昔は味も使い方も見ず大量に買った。だからといって今度は、全部分かるまで一粒も買わないというのも極端だ」
「少し買って確かめる?」
「そうだ」
「商人らしいですね」
「最初から商人だ」
ロイドは煮込みをもう一口食べた。
「ただ、順番は少し変えた方がいいかもしれん」
「何の?」
「値段を決めてから味を見るのではなく、味を見て、使い方を考えて、客を見て、それから値段を決める」
◇
「利益は最後?」
ミレイアが尋ねる。
「利益は全部の途中にある」
「難しい」
「利益を考えない商人は続かん」
「でも美味しければいい、でもない?」
「当然だ」
ロイドははっきり答えた。
「美味くても高すぎれば売れん。珍しくても使いにくければ売れん。安くても保存で損が出れば扱えん」
「じゃあ今日は何が分かった?」
「少なくとも、この豆には料理として使える価値がある」
「市場価値は?」
「まだ分からん」
「それで平気?」
ロイドは少し笑った。
「前よりはな」
◇
その日の会計を済ませた後、ロイドは残った黒月豆を持って商会へ戻った。
すぐに部下を一人呼ぶ。
「北東の商隊、まだ市場にいるか」
「夕方まではいるはずです」
「黒月豆の残りを確認してこい」
「全部買います?」
「買わん」
部下が少し驚いた。
「珍しい品ですよね」
「だからだ」
「高く売れるかもしれません」
「それを確かめる」
「どのくらい?」
「半袋だけ交渉しろ」
「半袋?」
「小分けできないと言われたら、一袋全部買うかはその時考える」
◇
「店へ出すんですか」
「少量だけ」
「値段は?」
ロイドは一瞬、以前ならすぐに答えていたであろう数字を思い浮かべた。
希少性。
輸送距離。
入荷量。
その三つだけ見れば高くできる。
しかし、それでは赤蜜根の時と大きく変わらない。
「まだ決めない」
ロイドが答える。
部下の方が驚いた。
「ロイドさんが?」
「何だ」
「値段決めずに仕入れるんですか」
「仕入れ値は分かってる。売値をまだ決めないだけだ」
◇
「先に何するんです?」
「料理屋二軒へ少量持っていく」
「無料で?」
「見本だ」
「店では?」
「一日十袋だけ出す」
「説明書きつけます?」
ロイドは少し考えた。
「それも要るな」
「何て書きます?」
「一晩水へ浸ける。柔らかく煮る。干し肉や乳酪と合う」
「それ、ロイドさんが料理したんです?」
「俺じゃない」
「どこで?」
「西区の持ち込み食堂だ」
「例の?」
「知ってるのか」
「市場で少し噂になってます」
「ならちょうどいい」
◇
翌朝、市場へ向かう途中のロイドは、顔見知りの少年を見つけた。
茶色の髪を自分で切ったように不揃いにし、継ぎの当たった服を着た十二歳の少年、ルカ・ベルだった。
以前は市場で荷運びや掃除をしているだけだったが、最近は《持ち込み食堂》のために値段や珍しい食材を調べる仕事もしているらしい。
「ルカ」
ロイドが呼ぶ。
「何」
「少し聞きたい」
「仕事?」
「いや、まず質問だ」
「ただなら答えないこともある」
「相変わらずだな」
「仕事なら聞く」
ロイドは少し笑った。
◇
「《黒月豆》を市場で見たことあるか」
「昨日見た」
「どこで?」
「北東の商人」
「客は見てた?」
「何人か」
「買ってた?」
「見てただけ」
「何か言ってたか」
「黒い豆だって」
「それだけ?」
「食い方分からないって言ってた人もいた」
「値段の話は?」
「まだ値札なかった」
ロイドが眉を上げる。
「よく見てるな」
「悠斗に珍しい食材あったら見ろって言われてる」
◇
「じゃあこれは仕事として頼む」
ロイドは銅貨を二枚取り出した。
「今日の昼まで、黒月豆を見た客が何を気にしてるか聞ける範囲で見てほしい」
「店の邪魔しない範囲?」
「そうだ」
「値段?」
「それも。ただし無理に客へ聞かなくていい」
「何を見る?」
「触るか、質問するか、食べ方を聞くか、値段を見てやめるか」
「売れるか調べる?」
「そういうことだ」
「悠斗の仕事と被る」
「今日は俺の仕事として頼む」
「銅貨二枚?」
「半日だからな」
◇
「分かった」
ルカは銅貨をまだ受け取らない。
「終わってから?」
ロイドが尋ねる。
「そうする」
「信用しないな」
「仕事だから」
「それも商売だ」
ロイドは頷いた。
◇
黒月豆は商隊から予定通り半袋だけ買うことができた。
ロイドはまず、付き合いのある料理屋二軒へ少量を持っていった。
一軒目は煮込み料理を多く出す店で、店主は色を見て少し警戒したものの、味見すると「白豆より濃い」と興味を示した。
ただし、「戻す時間が必要なら、毎日使うには仕込みを変える必要がある」と言われた。
二軒目は酒場だった。
そこでは粗く潰した黒月豆を薄いパンへ塗って出すと、酒に合わせやすいかもしれないという意見が出た。
どちらもすぐ大量に欲しいとは言わなかった。
しかし、完全に不要とも言わなかった。
◇
昼頃、ルカが商会へ戻ってきた。
「見てきた」
「どうだった」
「黒月豆、立ち止まる人はいる」
「買う?」
「今日はまだ売ってなかった」
「何を聞いてた?」
「食い方が一番多い」
「値段より?」
「値段ないから」
「他は?」
「保存できるか聞いてた人いた」
「誰?」
「宿屋の人っぽい。あと、豆屋の客が色を気にしてた」
「嫌がってた?」
「変わってるって」
「悪い意味?」
「分からない」
ロイドは頷いた。
◇
「それでいい」
「役に立った?」
「十分だ」
ロイドは銅貨二枚を渡した。
ルカは枚数を確認してからしまう。
「また頼む?」
「必要なら」
「黒月豆、高く売るの?」
「まだ決めてない」
ルカが少し驚く。
「商人なのに?」
「商人だからだ」
「変なの」
「最近よく言われる」
◇
その午後、ロイドは店頭へ黒月豆を十袋だけ並べた。
一袋の量は少ない。
値段は、輸送費と仕入れ値を考えれば利益がわずかに出る程度に抑えた。
横には短い説明を書いた札を置いた。
《黒月豆》
《乾燥豆・長期保存可》
《一晩水に浸し、柔らかく煮て使用》
《干し肉、乳酪、パン料理などに》
さらに、店の奥で戻して煮た豆を少量だけ粗く潰し、塩を加えた簡単な試食品を用意した。
ロイド自身が料理したわけではない。
商会で昼食を担当している年配の使用人に、悠斗から聞いた手順を説明して作ってもらった。
◇
「無料ですか?」
使用人が尋ねる。
「一口だけだ」
「珍しいですね」
「何が」
「旦那様が食べ物をただで出すの」
「宣伝費だ」
「そういうことにしておきます」
「そういうことだ」
ロイドは少し不満そうに答えた。
◇
最初の客は年配の女性だった。
「これ何?」
「黒月豆です」
「黒いわね」
「煮ると少し紫になります」
「甘い?」
「豆としては少し甘味があります」
「食べられる?」
「試してみますか」
女性は少量の試食品を食べた。
「白豆より味が濃いね」
「煮込みにも使えます」
「一晩水につけるの?」
「はい」
「面倒だね」
「乾燥のままなら長く置けます」
「じゃあ一袋だけ」
◇
ロイドは売れた袋の数を帳面へ記録した。
次に来た若い料理人は試食だけして買わなかった。
理由を聞くと、「今の店の献立へ入れる場所がない」と答えた。
別の客は値段を見て少し迷ったあと、保存性があるなら試してみると言って買った。
夕方までに十袋すべてが売れたわけではない。
売れたのは六袋だった。
以前のロイドなら、「珍しい品なのに初日で四袋残った」と考えたかもしれない。
あるいは逆に、「六袋も売れたなら次は大量に仕入れよう」と判断したかもしれない。
その日はどちらもしなかった。
◇
帳面へ客の反応を書いた。
食べ方への質問が多い。
保存性への反応は良い。
色を気にする客がいる。
白豆より価格は高いが、極端に嫌われてはいない。
料理人は用途が見えれば興味を持つ。
家庭客には戻す手間が障害になる可能性がある。
六袋売れたという数字だけでは分からないことが、試食と会話からいくつも見えた。
「明日、値段変えます?」
部下が尋ねる。
「まだ同じでいい」
「売れたなら上げても」
「一日だけだ」
「じゃあ次の仕入れは?」
「まだ増やさない」
「慎重ですね」
「慎重でいい」
◇
「でも買わないわけじゃない?」
「そうだ」
「前なら?」
「昔なら全部買ったかもしれん」
「最近なら?」
「数年前までなら、相場ができるまで手を出さなかった」
「今は?」
「小さく試す」
ロイドは帳面を閉じた。
「失敗しても潰れない量でな」
◇
三日間の試験販売で、最初に用意した黒月豆はほぼ売れた。
ただし、売れ方には偏りがあった。
最も反応が良かったのは、保存の利く食材を探していた宿屋や小規模な食堂だった。
一方、日々必要な分だけ買う家庭では、白豆より少し高いことと、水に戻す時間が必要なことを理由に見送る客も多かった。
酒場の一軒は、黒月豆の粗潰しをパンへ塗って出す試作を始めた。
別の料理屋は、干し肉との煮込みを季節限定で試したいと言った。
ロイドはそれらをすべて帳面へ記録した。
◇
北東の商隊が街を出る前日、ロイドは再び交渉へ向かった。
「残り、一袋あるな」
「あります」
商人が答える。
「買いますか?」
「全部は要らん」
「前にも半分だけでしたね」
「今回も半分でいい」
「売れませんでした?」
「売れた」
「なら全部でも」
「売れたから全部、とはならん」
相手の商人が笑う。
「慎重ですね」
「商人だからな」
◇
「値段はどうでした?」
「今の仕入れ値なら、こちらでも扱える」
「次回もっと持ってきます?」
「待て」
「何袋?」
「まず次回は今の二倍まで」
「それだけ?」
「売れ方をもう一度見る」
「もっと持ってきた方が安くできますよ」
「余ればその安さ以上に損する」
「それもそうですね」
ロイドは必要な量だけ契約した。
◇
数日後、ロイドは昼食を取るため《持ち込み食堂》へ再び来た。
今日は麻袋を持っていない。
「いらっしゃいませ」
ミレイアが迎える。
「黒月豆は?」
「今日はない」
「売れた?」
「そこそこな」
「いくらにしたんです?」
悠斗が聞く。
ロイドは値段を答えた。
「思ったより普通ですね」
「珍しいからといって倍にする必要はない」
「利益は?」
「出る」
「十分?」
「初回としてはな」
◇
「味見してから値段決めた?」
「ああ」
「どうでした?」
「思ったほど怖くなかった」
「何が?」
「値段が先にないことだ」
ロイドは席へ座った。
「以前は、相場がない商品は足元が見えない気がしていた」
「今も相場ない?」
「まだ安定はしていない」
「じゃあ?」
「仕入れ値、輸送費、売る相手、使い方、反応を見て仮の値段をつける。その後で変える」
「最初から完璧な値札じゃなくていい?」
「商売は普通そういうものだ」
「なのに黒月豆ではできなかった?」
「昔の失敗が邪魔してた」
◇
「赤蜜根?」
「ああ」
「今でも嫌いです?」
「食材を?」
「そう」
ロイドは少し考えた。
「嫌いではない」
「じゃあ自分を?」
「それも今さらだ」
「また扱う?」
「赤蜜根を?」
「はい」
「条件次第だな」
「珍しいから?」
「違う」
ロイドは少し笑った。
「誰がどう食べるか分かれば考える」
◇
「結局、利益は大事なんですね」
ミレイアが言う。
「当たり前だ」
「今回、美味しかったから売ったわけじゃない?」
「美味しかっただけなら、自分で食えばいい」
「商売では?」
「美味しいこと、使い道があること、買う客がいること、利益が出ること、その全部を見る」
「一個だけじゃ駄目?」
「長く続けるならな」
「じゃあ黒月豆は?」
「今のところ、もう少し試す価値がある」
ロイドはそう答えた。
◇
その日の昼食には、黒月豆ではなく普通の白豆と鶏肉の煮込みを頼んだ。
「黒月豆じゃないんですね」
ミレイアが言う。
「毎日仕事の味見はしたくない」
「商人でも?」
「商人でも飯くらい普通に食う」
「今日は値段考えない?」
「この皿についてはな」
ロイドは匙を取った。
◇
食事をしながらも、市場のことを完全に忘れるわけではない。
白豆の値上がり。
明日の荷車。
倉庫の空き。
北東の商隊との次回契約。
考えることはいくらでもある。
それでも、目の前の料理を口へ入れる前に値段へ換算することはしなかった。
食べる。
味を見る。
その後で必要なら商売のことを考える。
順番を少し変えただけだった。
◇
翌朝、ロイドは商会の店頭へ立った。
黒月豆の棚には、前回より少し分かりやすい説明札が置かれている。
値段は変えていない。
今回は試食も毎日出すのではなく、人通りが多くなる時間だけにした。
費用と手間を記録するためである。
「旦那様」
部下が帳面を持ってきた。
「昨日までの売上です」
「置いてくれ」
「次の仕入れ、もっと増やせそうですよ」
「数字だけ見るな」
「売れてますよ」
「誰に売れた」
部下が帳面を見る。
◇
「宿屋が三軒、料理屋が二軒、一般客が……」
「その内訳を見る」
「はい」
「次回の量を決めるのはそれからだ」
「分かりました」
ロイドは黒月豆の小袋を一つ手に取った。
値札はついている。
今はもう、この豆にもレーヴェンでの価格がある。
しかし、その数字が豆そのものの価値をすべて表しているわけではない。
料理屋にとっては新しい献立になるかもしれない。
宿屋にとっては保存の利く食材になる。
家庭では少し手間のかかる豆として見送られることもある。
同じ食材でも、相手によって必要とされる理由は変わる。
◇
それを考えず、珍しさだけで高値をつければ昔と同じになる。
反対に、相場がないからと触れずにいれば、新しい需要があるかどうかも分からない。
食べてみる。
使い方を知る。
誰が欲しがるかを見る。
少量を売り、結果を記録する。
そのうえで、次にどれだけ仕入れるかを決める。
利益を捨てたわけではない。
むしろ、利益を出し続けるために必要な順番を一つ思い出しただけだった。
◇
「ロイドさん」
店頭から部下が呼ぶ。
「黒月豆について、料理屋の人が聞きたいそうです」
「何を」
「大袋で買った場合の値段を」
「どのくらい使う店だ」
「週に一袋くらい試したいと」
「店は?」
名前を聞く。
以前、見本を渡した店の一つだった。
「分かった。帳面持ってこい」
「値引きします?」
「量と継続次第だ」
「すぐ決めない?」
「話を聞いてからだ」
◇
ロイドは店頭へ向かった。
相手の料理人へ、まずどんな料理に使うつもりなのか尋ねる。
次に一週間でどの程度使えそうかを聞く。
保存場所も確認する。
その後で、まとめ買いした場合の価格を提示した。
料理人は少し考え、まず一週間分だけ買うことにした。
「次も同じ値段?」
料理人が尋ねる。
「量が安定すれば考える」
「上がる?」
「仕入れ値が上がればな」
「下がることも?」
「輸送量が増えて安くなれば」
「分かった」
取引は成立した。
◇
料理人が黒月豆を持って帰るのを見送り、ロイドは帳面へ数量を書き込んだ。
その横には、まだ空白の欄がいくつもある。
次回の仕入れ量。
継続購入する店の数。
家庭向け小袋の売れ方。
試食にかかる費用。
どれも今は完全には分からない。
以前のロイドなら、その空白を早く数字で埋めたくなっただろう。
今でも気にならないわけではない。
ただ、分からない数字を無理に決めるより、必要な情報を集めてから書いた方が商人として正確だと考えられるようになっていた。
ロイドは黒月豆の棚に並ぶ残りの袋を確認すると、値札だけで食材を分かったつもりにはならず、味と使い道と買い手を見てから次の仕入れを決めるため、新しく作った記録欄へ今日の取引内容を書き加えていった。
●評価●ブックマーク●アクション●感想待ってます!
読者様が応援してくれると嬉しいです!




