番外編:【昭和の女子学生の初めての海外旅行の奮闘記】
「お母さん、もうすぐでお父さんの赴任している異国の地に行く日だね」
僕がそう言うと、部屋の隅にいくつもの紙袋が置いてあるのが目に入った。
「あれ、お母さん。今日パートだったんじゃないの? 買い物に行ってきたの?」
「そうなのよ。海外旅行に使える便利グッズを、町田のハンズに見に行ってきたの」
「便利グッズ?」
「飛行機で使えるネックピローとか、スーツケースベルトとかパスポート入れとか。スリッパも何か良さそうなのがあればと思って」
「あれ、それって100均でも売ってるよね? 僕、この前見たよ」
「そうなのよ! 結局、100均で全部揃っちゃって。コストパフォーマンスを考えたらそっちよね。ハンズまで行った意味がなかった気もするけれど……でも、店内をいろいろ見て回るのは純粋に楽しかったわ」
そう笑うお母さんに、ふと聞いてみた。
「お母さん、そういえば海外旅行って、若い頃に行ったことあるの? 飛行機に乗った経験は?」
お母さんは少し目を見開いてから、遠い思い出を語り始めた。
「お母さんが子供の頃は、飛行機なんて滅多に乗れるものじゃなかったわ。新幹線だって、中高の修学旅行で乗った2回だけ。19歳まではね」
「えっ、修学旅行まで新幹線に乗ったことがなかったんだ」
「そうなの。だから19歳の時、学校の研修旅行で初めての海外、タイに行くことになった時はもう、成田空港へ向かうだけでワクワクしちゃって。日本の中なのに『今から出発します!』っていう、あの独特の空気が何とも言えなくてね。初めての飛行機が国際線だなんて、心臓がドキドキしっぱなしだったわ」
空港の自販機の水が驚くほど高かったこと。免税店の独特な香水の匂い。「今でもデパートの化粧品売り場に行くと、あの匂いを嗅ぐだけで旅のワクワクが蘇るのよ」とお母さんは少し照れくさそうに笑った。
初めての機内食で、2種類のメニューに真剣に悩んだこと。現地に着いた瞬間の、熱い空気がむっと襲いかかってきたこと。香辛料の多い料理でさっぱりしたものが食べたいと思って注文した料理が、ほうれん草だと思ったら実はパクチーの炒め物で、あの独特な匂いが口中に広まって苦手になってしまったこと。「あの時の衝撃ったら……」とお母さんは顔をしかめて言った。
「何より驚いたのはトイレね。日本のトイレの優秀さを痛感したわ」
そう聞いて、お父さんの赴任先のトイレ事情が少し心配になってきた。後で画面越しに聞いてみよう。
「でもね、帰りの飛行機ではトラブルもあったのよ。日本に着くのが5時間も遅れちゃって」
「それって大変じゃん!」
「そうなの。当時はスマホなんてないから、迎えに来てくれるはずのおじいちゃんとおばあちゃんに連絡ができなくて。でも学校の研修だから、周りの仲間との結束は固いのよ。みんなで情報を集めて、航空会社が無料で国際電話させてくれるって突き止めてね。長蛇の列に並んで、初めての国際電話をかけたの」
お母さんの話によると、受話器を取ったおじいちゃんにはオペレーターが英語で話しかけ、おじいちゃんはとりあえず「イエス」と答えたらしい。
「危ないよ! 何が起こるか分からないのに!」
「今ならそうよね。でも昔はそうやって繋いでもらうしかなかったのよ。あの時の『イエス』のおかげで、到着が遅れることを伝えられたんだから」
その後、配給されたサンドイッチは日本と違ってボソボソであまり美味しくなかったと笑いながら、お母さんは最後にこう言った。
「トラブルもたくさんあったけれど、今思えばどれも楽しい経験よ。空港で迎えに来てくれたおじいちゃん達の顔を見た時、『やっぱり日本はいいなぁ』って心から思ったけれど、それでも海外への憧れはずっと消えなかったわね」
お母さんの話を聞いていたら、僕も今度のお父さんの所へ行く旅への期待が、ぐんと高まってきた。
母と子の冒険は、もうすぐそこまで来ている。




