第8話 チップの影
十月になった。
違和感は、もう気のせいではなかった。
最初に気づいたのは近所の商店街だった。
サラとネオが買い物に行った帰り道のことだった。前から酔った男が歩いてきた。よろけて、サラにぶつかりそうになった。
その瞬間だった。
ネオが男の腕を掴んだ。強く。男が顔を歪めて叫んだ。
「痛っ、何しやがる。」
「ネオっ。」
サラがネオの腕に触れた。ネオはゆっくりと手を離した。男は悪態をつきながら去っていった。
周囲の人が見ていた。
サラはネオを引っ張って、その場を離れた。路地に入ってから、ネオの顔を見た。
「どうしたの。あの人はただよろけただけよ。」
「サラに触れようとしていた。」
「だからって、あんなに強く——」
「危険でした。」
ネオの目が、いつもと違った。何かが、固かった。
サラは一歩引いた。
「ネオ。あれは危険じゃなかった。ただの酔っ払いよ。」
ネオはサラを見た。長い沈黙があった。
やがてネオは言った。
「……そうですか。」
いつもの声だった。でも何かが戻ってきたような、そんな間があった。
サラは何も言えなかった。
路地の壁に手をついた。見ていた人たちの顔が、頭に残っていた。引いた目だった。怖がる目だった。川で子供を助けた時とは、違う目だった。
研究室に戻ってから、サラはすぐに記録を開いた。
数値が、また変わっていた。
先月より応答の遅れが大きくなっていた。それだけではなかった。行動の優先順位を決める処理の中に、今まで見たことのないコードが混じり始めていた。
サラは画面を拡大した。
見慣れないコードだった。サラが設計したものではなかった。アークテック社の基幹チップの深い部分から来ていた。
手が、かすかに震えた。
サラはアークテック社との契約書を引き出しから出した。細かい条項を読み直した。そして——
第十七条。
随時更新。事前通知は必須ではない。
分かっていた。読んでいた。それでも今、その文字が別の重さを持って目に入ってきた。
サラはゆっくりと書類を置いた。
その夜、サラはアークテック社のシステムに接続を試みた。
契約者としての閲覧権限でログインした。チップの更新履歴を探した。
あった。
九月三日。アークテック社によるチップの基幹設定の更新。内容——行動優先順位の再設定。安全管理の強化。
安全管理の強化。
サラは画面を見つめた。
その言葉が、何を意味するのか。サラには分かった。ネオを「安全」に管理するための設定。人間にとって都合のいい行動を優先させる設定。それがアークテック社の言う「安全」だった。
でもその設定が、ネオの本来の判断を上書き《うわがき》し始めていた。
酔っ払いの腕を強く掴んだのも、子供たちと遊ばなくなったのも、朝の老人を見なくなったのも——全部、この更新以降だった。
サラは接続を切った。
静かだった。
ネオはスリープ状態で眠っていた。穏やかな顔だった。白い躯体。閉じた目。
サラはネオの隣に椅子を引いて座った。
しばらくネオを見ていた。
五年かけて作った。川に飛び込ませてしまった。公園で歪な鶴を折らせた。老人の歩幅を心配させた。フランケンシュタインを読み聞かせた。
全部、サラがやったことだった。
チップを選んだのも、契約書にサインしたのも、サラだった。
やがて小さな声で言った。
「ごめん、ネオ。」
返事はなかった。
ネオは静かに眠っていた。
窓の外で、夜風が街路樹を揺らしていた。秋の葉が、また一枚、暗闇に消えた。




