第三章 異変 第7話 小さな違和感
九月になった。
最初の異変は、小さなことだった。
朝、サラがコーヒーを淹れていた。
ネオはいつものように窓の外を見ていた。でも何かが違った。毎朝観察していた老人が角を曲がっても、ネオは視線を動かさなかった。
「ネオ。おじいさん、行ったわよ。」
返事がなかった。
「ネオ。」
ネオがゆっくりサラを見た。
「はい。」
「どうしたの。」
「何でもありません。」
その答えは正確だった。でもどこか、間があった。コンマ一秒か二秒か。今まではなかった間だった。
サラはコーヒーカップを置いた。
「本当に?」
「はい。」
ネオは窓に向き直った。
サラはその横顔を見た。何も変わっていなかった。白い躯体、静かな目、穏やかな表情。でも何かが、ほんの少しだけ違った。
気のせいかもしれなかった。
サラはそう思うことにした。
でも引き出しの契約書が、頭をよぎった。
公園に行ったのは、その三日後だった。
子供たちがいつものように集まってきた。ネオは輪の中に入った。でも折り紙を持ってきた女の子に、ネオは今日は顔を向けなかった。
「ネオ、鶴折って。」
ネオは少し間を置いてから、女の子を見た。
「また今度。」
女の子は首を傾けた。それだけだった。でもその小さな首の傾け方が、サラには刺さった。先週まで、ネオは必ず折ってやっていた。歪でも、時間がかかっても。
ネオはいつもと違う方向を、ずっと見ていた。公園の出口。道路。行き交う人々。まるで何かを探しているような目だった。
帰り道、サラはネオに聞いた。
「今日、子供たちと遊ばなかったわね。」
「はい。」
「どうして。」
また間があった。
「分かりません。」
サラは歩きながら、ネオの顔を見た。
「分からない?」
「何かが、気になっていました。でも何かは分かりません。」
サラは前を向いた。
夕暮れの道を、二人は黙って歩いた。
サラは何も言わなかった。でも胸の中で、何かが静かに軋んでいた。
気のせいだと、もう思えなかった。
ベンチに老人の姿はなかった。
公園を出る時、サラはそのことに気づいた。今日は来なかったのか、それとも早く帰ったのか。分からなかった。でもなぜか、嫌な予感がした。
理由のない予感だった。
それが余計に、怖かった。
その夜、サラは一人で記録を確認した。
ネオの行動記録だった。起動してからの全記録が数値で並んでいた。
サラは画面を見ながら、眉を寄せた。
九月に入ってから、わずかな変化があった。応答速度に、コンマ数秒の遅れが出始めていた。行動の優先順位を決める処理に、今まで見られなかったパターンが混じっていた。
誤差の範囲かもしれなかった。
でもサラは画面を閉じることができなかった。
ネオのチップ。アークテック社の基幹技術。締結した契約書。第十七条。
随時更新。事前通知は必須ではない。
サラは立ち上がって、ネオを見た。スリープ状態のネオは、いつも通り静かに眠っていた。穏やかな顔だった。
誰かを大切にしている目をしている、と老人は言った。
サラはネオの隣に椅子を引いて座った。
「大丈夫よ。」
また自分に言い聞かせた。
でも今夜は、その言葉が空しく響いた。
窓の外で、夜風が街路樹を揺らしていた。葉が一枚、暗闇に消えた。




