第6話 二人だけの日常
夏が来た。
ネオが起動してから、三ヶ月が経っていた。研究室の窓から見える街路樹が、濃い緑に変わっていた。朝の光が早くなり、夜が遅くなった。
二人の日常が、少しずつ形を持ち始めていた。
朝はサラが先に起きた。
コーヒーを淹れる間、ネオは窓の外を見ていた。通りを歩く人を観察するのが、いつの間にか習慣になっていた。
「サラ。あの老人は毎朝同じ時間に歩いている。」
「そうね。」
「昨日より少しゆっくりだった。」
「気づくのね。」
「足が痛いのかもしれない。」
サラはコーヒーカップを持ったまま、窓の外を見た。白髪の老人が、杖をつきながら歩いていた。確かにいつもより歩幅が小さかった。
「ネオ。」
「はい。」
「あなた、いつの間にかそういうことを見るようになったのね。」
ネオはサラを見た。
「おかしいですか。」
「おかしくない。」
サラはコーヒーを一口飲んだ。
「人間みたいだと思っただけ。」
ネオは窓に向き直った。老人が角を曲がって、見えなくなった。
「明日も来るといいですね。」
サラは何も言わなかった。ただ、少し笑った。
でも笑いながら、胸の奥に小さな棘が刺さった。
明日も来るといいですね。
その言葉が、どうしてか、ひっかかった。ネオがそう言える日が、ずっと続くといいと思った。続くはずだと思った。でも引き出しの中の契約書が、頭をよぎった。
サラはコーヒーを飲み干した。考えすぎだと、自分に言い聞かせた。
昼は近所の公園に行くことが多かった。
ネオの存在は、少しずつ街に知れ渡っていた。川で子供を助けた話が広まってから、避けていた市民が少しずつ近づくようになった。
公園では子供たちが集まってきた。
「ネオ、こっち来て。」
「ネオ、これ見て。」
ネオは子供たちの輪の中に入った。虫を見つけた子供が手に乗せて見せると、ネオは顔を近づけてじっと観察した。折り紙を持ってきた女の子がいた。ネオは不器用な手で、それでも丁寧に折った。歪な鶴ができた。女の子が笑った。
「ありがとう、ネオ。」
ネオも、どこか笑っているような顔をした。
サラはベンチに座って、それを見ていた。
老人が隣に座ってきた。毎朝窓から見ていた老人だった。杖を両手で握って、ネオを眺めていた。
「あなたが作ったのかね。」
「はい。」
「いいものを作った。」
老人はしばらく黙っていた。それからサラを見た。
「あのロボットは、誰かを大切にしている目をしている。」
サラは老人を見た。
「そう見えますか。」
「儂はもう八十になる。人の目は分かる。」
老人は立ち上がり、杖をつきながら去っていった。
サラはその後ろ姿を見ていた。
誰かを大切にしている目。
その言葉が、胸に残った。
夜はサラが本を読んだ。
ある夜、ネオが聞いた。
「サラ。その本は何ですか。」
「フランケンシュタイン。古い小説よ。」
「どんな話ですか。」
サラは本を閉じた。少し考えた。
「科学者が、命のないものに命を与える話。でも生まれたものは、誰にも理解されなかった。」
「どうして。」
「怖かったから。人間は、理解できないものを怖がる。」
ネオはしばらく黙った。
「その、生まれたものは、悪かったのですか。」
「悪くなかった。最初は。」
「最初は。」
「誰にも受け入れてもらえなかったから、孤独になった。孤独が、彼を変えた。」
ネオは窓の外を見た。夜の街が、灯りを散らしていた。
「サラ。孤独とは何ですか。」
サラは答えるのに、少し時間がかかった。
「一人でいることじゃない。誰にも分かってもらえないと感じること。」
ネオは窓の外を見たまま、静かに言った。
「私には、サラがいる。」
サラは本を膝に置いた。
その言葉が、胸に温かく落ちた。と同時に、どこかが痛かった。
フランケンシュタインの怪物にも、最初は誰かがいればよかった。ただそれだけで、あの物語は違う結末になったかもしれない。
私にはサラがいる。
ネオにはいる。
サラはそれだけは、守ろうと思った。何があっても。
その夜遅く、サラは一人で研究室に残った。
ネオはスリープ状態に入っていた。静かな寝息のような、低い動作音だけが聞こえていた。
サラは作業台の前に座って、ネオを見た。
白い躯体。閉じた目。穏やかな顔。
五年かけて作ったものが、今ここで眠っている。音楽に動けなくなって、雨粒の軌跡を数えて、星の光の遅れを考えて、子供のために川に飛び込んで。公園で歪な鶴を折って、老人の歩幅を心配して。
サラは小さく息を吐いた。
作業台の引き出しを開けた。中に一枚の書類があった。
グローバル企業「アークテック社」からの契約書だった。ネオの開発に際して締結した協定書。研究資金の提供と引き換えに、ネオのチップの基幹設計にアークテック社の技術を使用するという内容だった。
第十七条に目が止まった。
運用状況に応じ、アークテック社はチップの基幹設定を随時更新できる。使用者への事前通知は必須ではない。
サラは書類を閉じた。引き出しに戻した。
ネオの動作音だけが、静かに続いていた。
「大丈夫よ。」
自分に言い聞かせた。
でもその夜、なかなか眠れなかった。




