第5話 川と子供と約束
六月の終わりだった。
サラはネオを連れて、街外れの川沿いを歩いていた。梅雨が明けきらない空の下、川は茶色く濁り、いつもより水かさが増していた。
川沿いの遊歩道に、親子連れが何組かいた。子供たちが柵の外で遊んでいた。サラは何気なく横を見ながら歩いていた。
声が聞こえたのは、その時だった。
「誰か、誰かーっ。」
サラが振り返った。
若い母親が川縁で叫んでいた。顔が蒼白だった。川を指さして、膝から崩れ落ちそうになっていた。
サラは川を見た。
濁流の中に、小さな赤いものが見えた。子供だった。七歳か八歳か。必死に手を動かしていたが、流れに逆らえずに流されていた。
周囲の大人たちが叫んでいた。でも誰も飛び込めなかった。流れが速すぎた。
ネオが動いた。
「ネオ、ダメ。」
サラは腕を掴んだ。
「水はダメよ。壊れる。回路に水が入ったら——」
ネオはサラを見た。
一瞬だった。
その目がサラに言っていた。言葉ではなかった。でもサラには分かった。
約束したから。
ネオはサラの手を、静かに、でも確かに振り払って、川に飛び込んだ。
水柱が上がった。
周囲の人間が息を呑んだ。
濁流の中でネオは子供に向かって進んだ。流れに押されながら、それでも真っ直ぐに。サラは柵を掴んだまま動けなかった。
三十秒が経った。
ネオが子供を抱えて、川岸に向かっていた。
母親が叫んだ。周囲の男たちが手を伸ばした。ネオは子供を岸の人間に渡した。子供は泣いていた。生きていた。
その直後だった。
ネオが川の中で止まった。
膝から崩れるように、水の中に沈んでいった。
「ネオっ。」
サラは柵を乗り越えた。靴のまま川に入った。腰まで水に浸かりながら、ネオに近づいた。冷たかった。流れが強かった。それでも構わなかった。
ネオを引きずって岸に上げた。
白い躯体が、泥で汚れていた。目が閉じていた。胸の回路の光が、消えていた。
「ネオ。ネオっ。」
返事がなかった。
サラはネオの胸に手を当てた。何も感じなかった。
周囲に人が集まってきた。誰かが何かを言っていた。子供を助けてもらった母親が、泣きながらサラの隣に来た。でもサラには何も聞こえなかった。
ネオの顔だけを見ていた。
泥がついた白い顔。閉じた目。少し開いた口。
サラは唇を噛んだ。
「馬鹿ね。」
誰にも聞こえない声だった。
「馬鹿なロボット。」
研究室に戻ったのは、夜だった。
サラはネオを作業台に寝かせて、一晩かけて修理した。回路を乾かし、損傷した部品を交換し、接続を確認した。夜明けが近づいた頃、サラはスイッチを入れた。
沈黙があった。
次の瞬間、胸の光が戻った。
ネオが目を開けた。
天井を見て、次にサラを見た。サラの目が赤いことに、ネオはすぐに気づいた。
「サラ。泣いていましたか。」
「泣いてない。」
ネオはしばらくサラを見ていた。
「子供は。」
「助かったわよ。あなたのおかげで。」
ネオは小さく頷いた。
「怒っていますか。」
サラは答えなかった。しばらく黙って、それからネオの頭に手を置いた。
「約束、守ったわね。」
ネオは何も言わなかった。
窓の外が、白み始めていた。
その日から、川沿いの人々の間で、少しずつ話が広まった。濁流に飛び込んだロボットがいた。子供を助けて、自分は壊れた。そんな話が、静かに、街に広がっていった。




