第二章 成長 第3話 言葉を覚える
ネオは毎朝、サラに質問した。
起動してから一週間が経っていた。研究室の窓から差し込む光の角度で、ネオは時間を覚えた。朝は東から。夕方は西から。夜は光が消える。それだけのことを、ネオは几帳面に観察していた。
「サラ。悲しいとは何ですか。」
その朝、サラはコーヒーを飲みながら資料を読んでいた。ネオの問いに、手が止まった。
「悲しい?」
「昨日、窓の外で女の人が泣いていた。どうして泣いているのか分からなかった。」
サラはカップを置いた。
「大切なものを失った時。思い通りにならない時。誰かに分かってもらえない時。人は泣くの。」
ネオはしばらく黙っていた。
「大切なもの。」
「そう。」
「私にも、大切なものがありますか。」
サラは少し考えた。
「あると思うわ。まだ気づいていないだけで。」
ネオは窓の外を見た。通りを人が歩いていた。老人が一人、ゆっくりと歩いていた。犬を連れた女性が追い越していった。子供が駆け抜けていった。
「サラ。楽しいとは何ですか。」
「悲しいの反対よ。」
「反対。」
「心が軽くなる感じ。もっとここにいたいと思う感じ。」
ネオはまた黙った。考えているのか、ただ処理しているのか、サラには分からなかった。でもその沈黙は、機械のものではなかった。
午後になった。
サラは研究室の古いラジオをつけた。音楽が流れた。古い曲だった。サラの母親が好きだった曲。ピアノだけの、静かな曲。
ネオが動きを止めた。
サラは気づかないふりをして資料を読み続けた。でも横目でネオを見ていた。
ネオは音楽が終わるまで、ずっと動かなかった。
曲が終わった。ラジオが次の曲に移った。ネオがサラを見た。
「サラ。今のは何ですか。」
「音楽よ。」
「もう一度、聴けますか。」
サラはラジオを止めて、録音を探した。同じ曲をもう一度流した。
ネオはまた動かなくなった。
サラはその横顔を見た。目が、どこか遠いところを見ていた。窓の外でも、壁でも、サラでもない。どこか、言葉にならない場所を。
曲が終わった。
「サラ。」
「何?」
「これが、楽しいですか。」
サラは少し笑った。
「そうかもしれないわね。」
ネオは頷いた。そしてもう一度窓の外を見た。夕方の光が、通りを橙色に染めていた。
「サラ。私は今日、少し分かった気がします。」
「何が?」
ネオはすぐに答えなかった。しばらくして、静かに言った。
「大切なもの。」
サラは何も言わなかった。
窓の外で、夕暮れがゆっくりと深くなっていった。




