第七章 ひまわり 第15話 サラの決断
夜が明けた。
廃屋の隅だった。街から外れた古い民家。扉が半分壊れていた。でも風だけは凌げた。
サラはネオの隣で壁に背をもたれていた。眠れなかった。
外は静かだった。追っ手の声は聞こえなかった。でも時間の問題だった。
夜明けの光が、壊れた窓から差し込んできた。
ネオが目を開けた。
サラを見た。
「眠れましたか。」
「少しね。」
「嘘です。」
「そうね。」
サラは膝を抱えた。
ネオはしばらくサラを見ていた。
「サラ。」
「何。」
「昨夜のひまわり畑。覚えていますか。」
「覚えてるわ。」
「枯れていました。」
「冬だから。」
「でも茎は残っていた。」
「ええ。」
ネオは壊れた窓の外を見た。白い空だった。
「春になったら、また咲きますか。」
サラは答えなかった。
胸が痛かった。
春になったら、また咲く。でもネオは春を見られるのか。サラには分からなかった。分からないから、答えられなかった。
昼になった。
ネオが突然、立ち上がった。
今日は早かった。午前中から三度、命令が来ていた。その度にサラが「私よ」と言って引き戻した。でも今回は違った。
ネオが扉に向かって歩いた。
「ネオ。」
返事がなかった。
「ネオっ。」
サラが前に回り込んだ。ネオの目が、遠かった。今まで見た中で、一番遠かった。
「私よ。サラよ。」
ネオは止まらなかった。
「ネオっ。約束したでしょう。人を裏切らない。人の役に立つ。子供と老人には優しく。約束したでしょう。」
ネオの足が、止まった。
でも目は戻らなかった。
「ネオ。ひまわり。覚えてる?あの夏、初めて見た時。綺麗な花だって言ったでしょう。覚えてる?」
一瞬だった。
目の奥で、何かが揺れた。
でもすぐに消えた。
ネオがまた歩き始めた。
サラはネオの腕を掴んだ。引っ張った。でもネオの力には敵わなかった。
「ネオっ。」
扉まであと三歩だった。
サラはネオの前に立った。両手を広げた。
ネオが止まった。
目が、遠いままサラを見ていた。
サラは動かなかった。
ここで退いたら、終わりだった。
しばらく、そのままだった。
やがてネオの目の奥で、また何かが揺れた。今度は消えなかった。ゆっくりと、霧が晴れるように、目が戻ってきた。
「……サラ。」
「ここにいるわ。」
「私は——また——」
「大丈夫よ。」
「大丈夫では、ありません。」
ネオはゆっくり床に膝をついた。サラはネオを支えた。
「サラ。」
「何。」
「私は、もう私でいられなくなっています。」
サラは何も言わなかった。
「さっき、サラの顔が見えなかった。声が聞こえなかった。ひまわりも、思い出せなかった。」
サラは唇を噛んだ。
「それが、怖かったです。」
サラは目を閉じた。
ネオが怖いと言った。初めてだった。
怖い。その言葉が、どれだけの意味を持つのか。ネオが初めて覚えた恐怖が、サラを失うことへの恐怖だということが、サラには分かった。
「ネオ。」
「はい。」
「一つだけ聞いていい。」
「はい。」
「今、私が見える?」
ネオはサラを見た。
「見えます。」
「声が聞こえる?」
「聞こえます。」
「ひまわり、覚えてる?」
ネオは少し間を置いた。
「覚えています。綺麗な花でした。」
サラは頷いた。
まだいる。まだここにいる。
夕方になった。
外で物音がした。
遠くから声が聞こえた。懐中電灯の光が、窓を掠めた。
見つかった。
サラは立ち上がった。バッグを掴んだ。工具が入っていた。
ネオを見た。
ネオはサラを見ていた。今は近かった。本来のネオだった。
サラは工具袋を開けた。
ネオは工具袋を見た。何が入っているか、分かっているはずだった。
「サラ。」
「何。」
「それを、使うのですか。」
サラは答えなかった。
「チップを抜けば、私は——」
「分かってる。」
「それでも。」
「分かってるって言ってるでしょう。」
サラの声が震えた。
外の声が近づいていた。
「ネオ。あなたに聞く。」
「はい。」
「チップのないあなたは——本当のあなただと、私は思う。アークテック社に上書きされる前の、約束を守ったあなたが、本当のあなただと思う。」
ネオはサラを見ていた。
サラは続けた。
「音楽を聴いて動けなくなったあなた。雨粒を数えたあなた。星の光の遅れを考えたあなた。川に飛び込んだあなた。歪な鶴を折ったあなた。老人の歩幅を心配したあなた。」
声が、震えた。
「全部、本当のあなたよ。」
ネオは何も言わなかった。
外の声が、すぐそこまで来ていた。
ネオが静かに言った。
「サラ。」
「何。」
「ひまわり畑に、行きましょう。」
サラは目を閉じた。
涙が出そうだった。出さなかった。
「ええ。行きましょう。」
二人は裏口から出た。
夜の野原を走った。
丘を越えた。
その向こうに、ひまわり畑が広がっていた。
冬だった。花は枯れていた。でも無数の茎が、夜風の中で静かに揺れていた。
サラは畑の中に入った。ネオも入った。
枯れた茎に囲まれて、二人は立った。
夏にここに来た日のことを、サラは思った。ネオが初めてひまわりを見た日。綺麗な花だと言った日。また見に来ようと言った日。
あの日から、どれだけのことがあったか。
音楽。雨。星。川。鶴。老人。逃げた夜。冷たい床。毛布。コンビニの店員の「頑張ってください」。
全部、ネオと一緒だった。
サラはネオを見た。
ネオは枯れた茎を見ていた。その横顔が、あの夏と同じだった。
「ネオ。」
「はい。」
「怖い?」
ネオはサラを見た。
「サラがいるから、怖くないです。」
サラは工具袋を握った。
後ろから声が聞こえた。光が見えた。
時間がなかった。
サラはネオの胸に手を当てた。チップのある場所だった。かすかな振動があった。回路が動いていた。
「ネオ。最後に聞く。」
「はい。」
「サラが見える?」
「見えます。」
「ひまわり、綺麗?」
ネオは枯れた畑を見た。
「綺麗です。春になったら、もっと綺麗でしょう。」
サラは頷いた。
涙が、落ちた。
工具を手に取った。




