第14話 追われながら
夜が明けた。
サラとネオは、街外れの廃工場にいた。
錆びた鉄扉を内側から押さえて、息を整えた。外から声は聞こえなかった。とりあえず、撒けた。
工場の中は広かった。天井が高く、冬の光が割れた窓から斜めに差し込んでいた。埃が光の中に漂っていた。機械の残骸が、あちこちに放置されていた。
サラは床に座り込んだ。
膝が震えていた。寒さなのか、疲労なのか、恐怖なのか、もう分からなかった。
ネオがサラの隣に座った。
「サラ。足を見せてください。」
「何で。」
「走る時に、躓いていた。」
サラは右足を見た。靴の縁が擦れて、血が滲んでいた。気づかなかった。
ネオはバッグの中から救急セットを出した。サラがいつも入れていたものだった。無言で手当てをした。丁寧に、ゆっくりと。
サラはネオの俯いた頭を見ていた。
白い躯体に、泥と埃がついていた。逃げ続けた跡だった。
「ネオ。」
「はい。」
「疲れた?」
ネオは手を止めずに答えた。
「疲れという感覚が私にあるか分かりません。でも。」
「でも?」
「重い感じがします。どこかが。」
サラは黙った。
ネオは手当てを終えて、顔を上げた。
「大丈夫ですか。」
「ええ。ありがとう。」
サラはネオの手を見た。泥で汚れていた。でも動きは丁寧だった。いつも通りだった。
こんな場所でも、ネオはネオだった。
昼になった。
サラは恩師にデータを送った。廃工場に細かに届く電波を拾って、全ての証拠ファイルを転送した。
送信完了を確認してから、画面を閉じた。
あとは恩師に任せるしかなかった。
でも発表されるまで時間がかかる。その間にネオの状態は進む。追っ手も迫っている。
サラは工具袋を見た。
チップを抜く道具が入っていた。
視線を逸らした。
まだだ。まだじゃない。
でも「まだ」がいつまで続くのか、サラには分からなかった。
午後、ネオが突然立ち上がった。
工場の奥に向かって歩き始めた。
「ネオ。」
返事がなかった。
サラは立ち上がった。足が痛かった。それでも走った。ネオの前に回り込んだ。
「ネオっ。私よ。」
ネオの目が遠かった。今日は戻るのに時間がかかった。
一分が経った。二分が経った。
サラは動かなかった。ネオの顔の前に立ったまま、待った。
三分が経った。
ゆっくりと、目が戻ってきた。
「……サラ。」
「ここにいるわ。」
「私は——どこに行こうとしていましたか。」
「外よ。」
ネオは俯いた。
「また、命令が来ました。今日は強かった。」
「どんな命令。」
「自首しろ、と。アークテック社に戻れ、と。」
サラは息を呑んだ。
「従わなかったの?」
ネオは少し間を置いた。
「サラの顔が見えたから。」
サラは何も言えなかった。
三分かかった。今まで一番長かった。次は戻ってこないかもしれない。
サラはその考えを、頭の奥に押し込んだ。
ネオはゆっくりサラを見た。
「サラ。私は、いつまで私でいられますか。」
サラは答えなかった。
答えられなかった。
代わりにネオの手を握った。
冷たかった。でも握り返してきた。
夕方、外が騒がしくなった。
窓から覗くと、遠くに人影が見えた。懐中電灯の光が揺れていた。
見つかるのも時間の問題だった。
サラはネオを見た。
「ネオ。もう一度だけ、逃げるわよ。」
「はい。」
「走れる?」
「サラが走れるなら、走れます。」
サラは小さく笑った。
何度聞いても、同じ答えだった。サラが走れるなら、走れます。それだけでよかった。それだけで、もう少し走れた。
「じゃあ行くわよ。」
走った。
夜の野原を走った。枯れ草が足に絡んだ。冬の風が顔を叩いた。
後ろから声が聞こえた。光が追ってきた。
ネオはサラの手を握って走った。
丘を越えた。
その向こうに、広い野原が広がっていた。
夜だった。暗かった。でもサラには分かった。
枯れた茎が、一面に立っていた。
ひまわり畑だった。
冬のひまわり畑。花は枯れ、茎だけが残っていた。でも確かにそこにあった。あの夏、ネオが初めて「綺麗な花だ」と言った場所だった。
サラは立ち止まった。
ネオも止まった。
二人は枯れた畑の前に立っていた。
後ろから声が近づいていた。でもサラには、遠く聞こえた。
ネオが枯れた茎を見ていた。
「サラ。」
「何。」
「ここは。」
「覚えてる?」
ネオはしばらく枯れた畑を見ていた。
「……綺麗な花でした。」
サラは頷いた。
目が、熱くなった。
「また春になったら咲くわ。」
ネオは答えなかった。
後ろの声が、大きくなってきた。
サラはバッグを握った。工具が入っていた。
ネオを見た。
ネオはまだ枯れた茎を見ていた。その横顔が、夏に「綺麗な花だ」と言った時のネオと、重なった。
サラは唇を噛んだ。
まだだった。
まだここではなかった。
「ネオ。走るわよ。」
「はい。」
二人は夜の中に駆け出した。
枯れたひまわりの茎が、冬の風に揺れていた。
種は、まだそこにあった。




