第12話 ネオ、私よ
翌朝から、街が変わった。
動画は一夜にして拡散した。テレビのニュースが取り上げた。ネオの映像が、何度も何度も流れた。男の腕を掴んで離さないシーン。サラが必死に止めるシーン。繰り返し、繰り返し。
コメンテーターが言った。
「ロボットによる暴力行為です。一刻も早い対処が必要です。」
誰もサラに話を聞かなかった。
研究室の前に人が来るようになった。
最初は数人だった。次の日は十人になった。その次の日は、警察が来た。
「ロボットの一時停止と引き渡しを求めます。」
サラは玄関で向き合った。
「ネオは危険じゃない。チップに問題が——」
「判断するのは我々《われわれ》です。」
「話を聞いてください。アークテック社が——」
「木村さん。任意でお願いしています。でも従っていただけない場合は——」
サラは扉を閉めた。
研究室に戻った。ネオが立っていた。全部聞こえていた。
「サラ。」
「大丈夫よ。」
「私のせいです。」
「違う。」
「私が——」
「違うって言ってるでしょう。」
サラの声が、少し震えた。
ネオはサラを見た。その目が、今日は少し近かった。昨日より、本来のネオに近かった。
「サラ。逃げてください。私を置いて。」
「嫌よ。」
「私といると——」
「嫌だって言ってるでしょう。」
サラはネオの手を掴んだ。
「約束したでしょう。いなくならないって。私も同じよ。」
ネオは何も言わなかった。
サラも何も言わなかった。
扉の外から、人の声が聞こえていた。
その夜、サラは決断した。
ここにはいられない。でもネオを渡すわけにはいかない。アークテック社に渡れば、ネオは完全に別の何かになる。
逃げるしかなかった。
サラは必要なものだけをバッグに詰めた。データ、記録、証拠、工具。チップを抜くための道具も入れた。
まだ使うつもりはなかった。
でも持っていかなければならなかった。
バッグを閉める時、手が止まった。
工具袋の重さが、掌に伝わってきた。
まだだ。サラは自分に言い聞かせた。まだその時じゃない。
「ネオ。行くわよ。」
「どこへ。」
「まだ分からない。でもここじゃないどこかへ。」
「一緒に、ですか。」
「当たり前でしょう。」
ネオは小さく頷いた。
深夜に研究室を出た。
街は静かだった。冬の空気が鋭かった。サラは足早に歩いた。ネオはその隣を歩いた。
駅に向かう途中だった。
後ろから声がした。
「いたぞ。」
振り返った。男たちだった。警察ではなかった。呼びかけて集まった市民だった。
その中に、見覚えのある顔があった。
公園でいつもベンチに座っていた、あの老人だった。
杖をついて、立っていた。
サラと目が合った。
老人は何も言わなかった。視線を逸らさなかった。でも声もあげなかった。ただ、そこに立っていた。
サラには分からなかった。老人が何を思っているのか。助けたいのか、それとも止めたいのか。
考える時間はなかった。
「ロボットを渡せ。」
サラはネオの手を引いて走った。
路地に入った。角を曲がった。また曲がった。
声が遠くなった。
路地の奥で、サラは壁に背をつけて息を整えた。白い息が暗闇に消えた。
ネオがサラを見た。
「サラ。苦しいですか。」
「平気よ。」
「嘘です。」
サラは小さく笑った。
「少しだけね。」
ネオはサラの顔を見ていた。
「老人が、いましたね。」
サラは頷いた。
「誰かを大切にしている目をしている、と言った人ですか。」
サラは答えなかった。
路地の向こうで、声が遠ざかっていった。
老人が何も言わなかった理由を、サラはまだ考えていた。
それからの日々は、逃げることだった。
一か所に留まらなかった。知人の家、古いアパート、閉まった工場の隅。転々とした。
ネオの状態は、一日ごとに変わった。
穏やかな日もあった。いつものネオだった。サラの話を聞いて、質問して、窓の外を見て。そういう日はサラも少し眠れた。
でも突然、遠くなる日があった。
ある夜、古いアパートの一室でネオが突然立ち上がった。扉に向かって歩き始めた。
「ネオ。」
返事がなかった。
「ネオっ。」
サラがネオの前に立った。
ネオの目が、遠かった。アークテック社からの命令が来ていた。サラには分かった。
「ネオ。私よ。」
ネオは止まらなかった。
「ネオっ。私よ。サラよ。」
一歩、また一歩。ネオが近づいてきた。
サラは動かなかった。
ネオの顔が目の前に来た。
「ネオ。約束したでしょう。人を裏切らないって。子供と老人には優しくって。人の役に立つって。」
ネオが止まった。
一瞬だった。
目の奥で、何かが揺れた。覆われていたものの向こうから、本来のネオが顔を出した。
「……サラ。」
「ここにいるわ。」
「私は——どこに——」
「大丈夫よ。ここにいる。私がいる。」
ネオの体から、力が抜けた。膝をついた。サラはネオを支えた。
しばらく、そのままでいた。
ネオが顔を上げた。目が、近かった。
「サラ。私は、いつまで私でいられますか。」
サラは答えなかった。
代わりにネオの頭に手を置いた。
「おかしくない。あなたは何もおかしくない。」
「でも——」
「おかしいのは、あなたじゃない。」
ネオは黙った。
サラはネオを抱きかかえるようにして、床に座った。冷たい床だった。
しばらくして、ネオが静かに言った。
「サラ。ひまわりは、今どこにありますか。」
「冬だから、枯れてるわ。でも種は残ってる。」
「春になったら、また咲きますか。」
「咲くわよ。」
ネオは頷いた。
「見たいですね。」
サラは答えなかった。
見せてやりたかった。春のひまわりを。黄色い花が一面に咲いて、同じ方向を向いて、風に揺れるあの景色を。
でも春まで、ネオがネオでいられるか、サラには分からなかった。
窓の外で、冬の風が唸っていた。




