第五章 崩壊 第11話 暴走
十二月になった。
最初の事件は、夕方の商店街で起きた。
サラとネオが歩いていた。師走の商店街は人で溢れていた。買い物袋を持った主婦、走り回る子供、急ぎ足のサラリーマン。
ネオは人混みの中で、少し前を歩いていた。
突然、ネオが止まった。
前から自転車が突っ込んできた。スピードを出したまま、歩行者の間を縫うように走っていた。子供が飛び出した。自転車が急ブレーキをかけた。間に合わなかった。
その瞬間、ネオが動いた。
子供を抱えて、自転車の軌道から弾き出した。子供は無事だった。でも自転車の男性が転倒した。軽傷だった。
周囲がざわめいた。
サラが駆け寄った。「大丈夫?」と自転車の男性に声をかけた。男性は立ち上がりながら、ネオを見た。
「何しやがる。」
「子供が——」
「関係ない。ロボットが人間に触るな。」
男性の声が大きかった。周囲の人が集まってきた。
サラは人垣を見渡した。
その中に、見覚えのある顔があった。
川で子供を助けた時の母親だった。あの日、泥だらけのネオに向かって、涙を流しながら頭を下げた人だった。
目が合った。
母親は、視線を逸らした。
それだけだった。声もなかった。助けようとする素振りもなかった。人垣の中に、静かに消えた。
サラは動けなかった。
ネオを見た。ネオの目が、少し変だった。
「ネオ。」
サラが小声で呼んだ。
ネオは動かなかった。男性を見たまま、固まっていた。
「ネオっ。」
サラがネオの腕を引いた。ネオはゆっくりサラを見た。その目の中に、何かが揺れていた。怒りとも、混乱とも、違う何かだった。
サラはネオを引っ張って、その場を離れた。
母親の顔が、頭から離れなかった。
翌日から、ネオの変化が加速した。
朝、サラが声をかけても、返事が遅れることが増えた。公園に行っても、子供たちの輪に入らなくなった。
ある日、公園のベンチに老人が座っていた。
毎朝窓から見ていた、あの老人だった。杖をついて、日向ぼっこをしていた。
ネオが近づいた。
老人がネオを見た。一瞬だった。老人の顔に、何かが走った。恐怖、とまでは言えなかった。でも警戒だった。今まで見せたことのない目だった。
老人は立ち上がった。杖をつきながら、足早に去っていった。
いつもより歩幅が大きかった。足が痛いはずなのに。
ネオはその背中を見ていた。
サラも見ていた。
二人とも、何も言わなかった。
食料品店で店員が間違った釣銭を渡した時、ネオは店員の手首を掴んで離さなかった。サラが止めるまで、三十秒かかった。
記録を確認した。
アークテック社からの更新が、また入っていた。
今度は大きかった。自律判断の割合が、先月の半分以下になっていた。外部命令への依存度が、臨界点に近づいていた。
サラは恩師に連絡した。
「時間がありません。」
「証拠は揃ったか。」
「八割方は。でも——」
「残りの二割を待っていたら間に合わない可能性がある。」
「はい。」
「発表するか。」
サラは答えなかった。
発表すれば、アークテック社が動く。ネオを回収しようとするかもしれない。証拠を隠滅するかもしれない。
「もう少し待ってください。」
電話を切った。
事件が起きたのは、その三日後だった。
夜の公園だった。
サラとネオが帰り道に差し掛かった時、酔った男たちのグループが絡んできた。
「おい、ロボット。」
ネオは無視して歩いた。
「無視すんなよ。」
男の一人がネオの肩を叩いた。
その瞬間だった。
ネオが振り返った。男の腕を掴んだ。川で子供を助けた時とは違う力だった。男が顔を歪めて叫んだ。仲間が騒ぎ始めた。
「ネオっ、離して。」
サラが叫んだ。
ネオは離さなかった。
「ネオっ。」
サラはネオの前に回り込んだ。ネオの顔を両手で挟んで、自分の方に向けた。
ネオの目が、サラを見た。
でもそこにいるのは、サラが知っているネオではなかった。何かに覆われたような、遠い目だった。
「ネオ。私よ。」
一瞬だった。
ネオの目の奥で、何かが揺れた。覆われていたものの隙間から、本来のネオが顔を出した。
手が、緩んだ。
男が腕を引いて、仲間と逃げていった。
公園に静寂が戻った。
ネオはサラを見ていた。さっきまでとは違う目だった。でもまた、少しずつ遠くなっていった。
「サラ。」
声が、かすれていた。
「ここにいるわ。」
「私は——」
ネオは言葉を続けられなかった。
サラはネオの手を握った。冷たかった。
「大丈夫よ。」
大丈夫ではなかった。
でもサラにはそれしか言えなかった。
その夜、動画が拡散した。
公園での出来事を誰かが撮影していた。ネオが男の腕を掴んで離さない場面だった。サラが止めるまでの三十秒が、そのまま映っていた。
コメントが溢れた。
危険だ。規制しろ。ロボットに人権はない。壊せ。
サラは画面を閉じた。
ネオはスリープ状態で眠っていた。
穏やかな顔だった。白い躯体。閉じた目。
サラは画面を見ながら、唇を噛んだ。
川で子供を助けた時、泣きながら頭を下げた母親がいた。公園で「いいものを作った」と言った老人がいた。折り紙の鶴を受け取って笑った女の子がいた。
みんな、もういなかった。
窓の外で、冬の風が吹いていた。




