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感情を持たない婚約者は怪異の真実を知っている 〜第三王子と月夜の怪異事件録〜  作者: 葉月うみ
第3章 選ばれなかった物語

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届かないもの

 お茶だけでは終われなかった。


 昨夜だけは特別だと、自分へ言い聞かせていたはずだった。茶を飲み終えたら戻る。少し話をしたら切り上げる。その程度のつもりでいたのに、気づけば机の上には報告書が何枚も広がり、窓の外にはすっかり深い夜が落ちている。


 星見宮は静かだった。


 昼間には水音を立てていた噴水も今は沈黙し、開いた窓から入り込む夏の風だけが、薄い白布をゆるやかに揺らしている。灯りへ照らされた机の上には警邏隊から届いた報告書が積まれ、乾ききらないインクの匂いが微かに残っていた。


 向かいに座るセレネは、しばらく同じ頁へ視線を落としたまま動かない。


 灯りの下へ流れた黒髪が、白い夜着の肩口へ静かに落ちていた。


 昼間、廊下で見た光景が頭へ残っている。


 シオンと向かい合っていたセレネは、あの時いつもより少しだけ表情が硬かった。閉じた扉の向こうで何を話したのかは、まだ聞けていない。


 静かに告げられた「まだ話せません」という声だけが、妙に耳へ残っていた。


 聞きたいとは思う。


 だが、無理に言葉を奪いたくはなかった。


 報告書をめくる音が止まる。


 気づけば、セレネの肩がわずかにルシアンへ寄っていた。さらりと流れた黒髪が腕へ触れる。


「……セレネ」


「起きています」


 返事はあったが、少し遅い。


 ルシアンは思わず息を吐いた。


「その顔で言われても説得力がない」


 セレネは何か言い返しかけたものの、そのまま視線を伏せる。長い睫毛の影が白い頬へ落ちていた。


 普段なら、ここまで無防備に寄りかかったりはしない。


 昨夜の彼女はどこかおかしかった。


 無理に平静を保とうとしているように見えるくせに、一人でいようとはしない。自分でも気づかないうちに、静かにこちらへ寄ってくる。


 理由は分からない。


 それでも、そのまま放っておけるほど器用でもなかった。


「今日は終わりだ」


 報告書を閉じると、セレネは抵抗しなかった。


 ルシアンは立ち上がり、そのまま彼女を抱き上げる。驚くほど軽い身体が腕の中へ収まり、解けきっていない黒髪がさらりと肘を滑った。


「……重くありませんか」


「何回聞くんだ、それ」


 小さく返すと、セレネは少しだけ目を伏せた。


 寝台へ下ろし、掛布を整える。離れようとした時、シャツの袖がわずかに引かれた。


 振り返る。


 掛布の上へ落ちた白い指が、ほんの少しだけ布を掴んでいた。


 セレネは視線を伏せたまま、小さく言う。


「……一人で眠る気分では、ありません」


 静かな声だった。


 弱音というより、確かめるような響きに近い。


 ルシアンはその指を見下ろしたまま、しばらく動けなかった。戻るべきだと分かっているのに、こんなふうに引き止められて振り払えるほど、もう余裕がない。


 やがて諦めたように息を吐き、寝台の横に置かれた長椅子へ腰を下ろした。


「……少しだけだぞ」


 セレネは何も言わなかった。ただ、布を掴んでいた指先だけが、ゆっくり力を抜いていく。


 窓の外では、風が低く枝葉を揺らしていた。


 その音を聞きながら報告書へ目を戻していたルシアンは、不意に小さな声を聞いた。


「……ルシアン」


 半分眠ったような声だった。ルシアンは眉間を押さえる。名前を呼ばれるたび、心臓に悪い。


「寝ろ」


「……はい」


 素直な返事のあと、やがて静かな寝息が落ち始める。長椅子へ身体を預けながら、ルシアンは薄暗い天井を見上げた。


 結局その夜、完全には自室へ戻れなかった。



 翌朝、王族特務隊の執務室には重い空気が沈んでいた。


 机の上には警邏隊から届けられた追加報告が積み上がり、その脇には王都で流れ始めた噂を書き留めた紙が広げられている。


 内容はどれも気味が悪い。


 だが、それ以上に厄介なのは、噂が広がる速度だった。誰かが意図して流しているような、不自然さがある。


 ルシアンは報告書へ視線を落としたまま、無意識に紙の端を指先で押さえた。


 昨夜の感触が、まだ妙に残っている。


 袖を掴まれた時の指先の重みも、眠そうに名前を呼ばれた声も、長椅子越しに聞こえていた静かな寝息も、頭のどこかへ引っかかったままだった。


 集中しろ、と自分へ言い聞かせた、その時だった。


 ルシアンしかいない、執務室の扉を叩く音が響いた。


「殿下、お客人の方がいらしているのですが……」


 報告書へ落としていた視線を、ルシアンはゆっくり上げた。部下の声に、妙なためらいがある。


「名は」


「アステリオス公爵令息です」


 紙の端を押さえていた指へ、わずかに力が入る。


「通せ」


 数秒後、執務室の扉が開いた。


 入ってきたシオンは、いつも通り笑っていた。レヴァンティス風の長衣は相変わらず派手で、少し開いた襟元も軽薄な印象しか与えない。だが、その笑みはどこか薄く、華やかな装いに比べて目元だけが妙に疲れて見えた。


「やあ、ルシアン」


「勝手に来るな」


「ちゃんと通されたよ」


「お前が勝手に歩いただけだろ」


「否定はしない」


 シオンは軽く笑い、そのまま向かいの椅子へ腰を下ろした。いつも通りの調子だった。


 それなのに、どこか空気が違う。笑っているくせに、奥の方でずっと気を張り続けているような違和感があった。


 シオンはしばらく机上の報告書へ目を落としていたが、やがて静かに口を開く。


「……俺、ルシアンに話しておかないといけないことがあるんだ」


 思ったより真面目な声音だった。ルシアンはわずかに眉を寄せる。


「珍しいな。お前がそんな顔するの」


「失礼」


 シオンは笑う。だが、その笑みも長くは続かなかった。数秒の沈黙のあと、彼は何でもないような顔で続ける。


「実はさ。俺とセレネ、ちょっと秘密共有しちゃってるんだよね」


 空気が止まった。ルシアンは口を開かなかった。


 ただ、机へ置いたままの手にゆっくり力が入る。


「君の知らないセレネを、俺は少し知ってる」


 昨夜の声が蘇る。


 まだ話せません、と静かに告げた声。拒絶ではなかった。だからこそ、余計に苦しい。


 ルシアンは机へ置いた手に力を込めたまま、シオンを睨んだ。


「……そういう言い方をするな」


 低い声だった。


 シオンの笑みが少し止まる。


「何が?」


「セレネが話したことを、お前と俺の勝ち負けみたいに言うな」


 数秒、沈黙が落ちた。


 シオンはすぐには答えなかった。笑って流そうとしたのか、唇の端がわずかに動く。けれど、その笑みは形になる前に消えた。


 ルシアンの視線から、逃げなかった。


 数秒の沈黙のあと、シオンは机の上へ落としていた指先をゆっくり引いた。


「……悪かった」


 軽さのない声だった。


「そういうつもりじゃなかった」


 そこで一度、言葉が止まる。


「いや。そう聞こえたなら、俺の言い方が悪い」


「だったら最初からやるな」


 不機嫌に返すと、シオンは困ったように苦笑した。だが、その笑みもすぐに消える。


 シオンは椅子へ身体を預け、天井を見上げたまま低く言った。


「……その件も含めて、話がある」


 軽さを戻そうとした声だったが、戻りきっていなかった。


「俺、本当は帰国してすぐセレネに会いに来るつもりだった」


 ルシアンは黙ったまま続きを待つ。


「でも、来られなかった」


 短い言葉だった。


 その言い方に、妙な引っかかりが残る。


「レヴァンティスで、妙な事件が起きてる」


 シオンの声から、さっきまでの軽さが少し消える。


「最初は、向こうだけの話だと思ってた」


 シオンは机上の報告書へ視線を落とした。


「でも、違った」


 窓の外を抜けた風が、机の上の紙をわずかに揺らす。


「……最近、王都で首のない死体が見つかってるらしいね」


 ルシアンの目が細くなる。


「まさか、お前」


「たぶん、繋がってる」


 シオンは小さく頷いた。


「向こうだけで終わると思ってたんだけどね」


 ルシアンはすぐには言葉を返さなかった。


 なぜ、それをシオンが抱えている。


 レヴァンティスの公爵家嫡男とはいえ、こいつは本来、こんなふうに一人で何かを背負い込む男ではない。もっと軽薄で、もっと器用に人を使う。


 それなのに、帰国してからの三ヶ月、こいつは何を追っていた。


「……俺一人じゃ、もう抱えきれなくなった」


 その声音には、これまで聞いたことのない疲労が滲んでいた。


「特務隊へ依頼したい」


「事件の話なら今ここでしろ」


「いや」


 シオンは首を横へ振る。


「これは、セレネにも聞いてほしい」


 さらに少し迷うように視線を落とし、


「……できれば、フェリクス殿下にも」


と続けた。


 フェリクスまで必要。


 その意味を考え、ルシアンはゆっくり目を細める。


 窓の外では、風に揺れた木々が低く鳴っていた。


 シオンは机上の報告書へ視線を落としたまま、小さく息を吐く。


「近いうちに時間をもらえる?」


 その声音には、いつもの余裕がほとんど残っていなかった。


 ルシアンは数秒黙り込み、やがて静かに口を開く。


「……分かった」


「数日中に場を用意する」


 シオンはそれ以上何も言わなかった。


 開いた窓から入り込む風が、机の上の紙を再び揺らす。


 報告書へ落ちた影が、妙に黒く見えた。

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