届かないもの
お茶だけでは終われなかった。
昨夜だけは特別だと、自分へ言い聞かせていたはずだった。茶を飲み終えたら戻る。少し話をしたら切り上げる。その程度のつもりでいたのに、気づけば机の上には報告書が何枚も広がり、窓の外にはすっかり深い夜が落ちている。
星見宮は静かだった。
昼間には水音を立てていた噴水も今は沈黙し、開いた窓から入り込む夏の風だけが、薄い白布をゆるやかに揺らしている。灯りへ照らされた机の上には警邏隊から届いた報告書が積まれ、乾ききらないインクの匂いが微かに残っていた。
向かいに座るセレネは、しばらく同じ頁へ視線を落としたまま動かない。
灯りの下へ流れた黒髪が、白い夜着の肩口へ静かに落ちていた。
昼間、廊下で見た光景が頭へ残っている。
シオンと向かい合っていたセレネは、あの時いつもより少しだけ表情が硬かった。閉じた扉の向こうで何を話したのかは、まだ聞けていない。
静かに告げられた「まだ話せません」という声だけが、妙に耳へ残っていた。
聞きたいとは思う。
だが、無理に言葉を奪いたくはなかった。
報告書をめくる音が止まる。
気づけば、セレネの肩がわずかにルシアンへ寄っていた。さらりと流れた黒髪が腕へ触れる。
「……セレネ」
「起きています」
返事はあったが、少し遅い。
ルシアンは思わず息を吐いた。
「その顔で言われても説得力がない」
セレネは何か言い返しかけたものの、そのまま視線を伏せる。長い睫毛の影が白い頬へ落ちていた。
普段なら、ここまで無防備に寄りかかったりはしない。
昨夜の彼女はどこかおかしかった。
無理に平静を保とうとしているように見えるくせに、一人でいようとはしない。自分でも気づかないうちに、静かにこちらへ寄ってくる。
理由は分からない。
それでも、そのまま放っておけるほど器用でもなかった。
「今日は終わりだ」
報告書を閉じると、セレネは抵抗しなかった。
ルシアンは立ち上がり、そのまま彼女を抱き上げる。驚くほど軽い身体が腕の中へ収まり、解けきっていない黒髪がさらりと肘を滑った。
「……重くありませんか」
「何回聞くんだ、それ」
小さく返すと、セレネは少しだけ目を伏せた。
寝台へ下ろし、掛布を整える。離れようとした時、シャツの袖がわずかに引かれた。
振り返る。
掛布の上へ落ちた白い指が、ほんの少しだけ布を掴んでいた。
セレネは視線を伏せたまま、小さく言う。
「……一人で眠る気分では、ありません」
静かな声だった。
弱音というより、確かめるような響きに近い。
ルシアンはその指を見下ろしたまま、しばらく動けなかった。戻るべきだと分かっているのに、こんなふうに引き止められて振り払えるほど、もう余裕がない。
やがて諦めたように息を吐き、寝台の横に置かれた長椅子へ腰を下ろした。
「……少しだけだぞ」
セレネは何も言わなかった。ただ、布を掴んでいた指先だけが、ゆっくり力を抜いていく。
窓の外では、風が低く枝葉を揺らしていた。
その音を聞きながら報告書へ目を戻していたルシアンは、不意に小さな声を聞いた。
「……ルシアン」
半分眠ったような声だった。ルシアンは眉間を押さえる。名前を呼ばれるたび、心臓に悪い。
「寝ろ」
「……はい」
素直な返事のあと、やがて静かな寝息が落ち始める。長椅子へ身体を預けながら、ルシアンは薄暗い天井を見上げた。
結局その夜、完全には自室へ戻れなかった。
翌朝、王族特務隊の執務室には重い空気が沈んでいた。
机の上には警邏隊から届けられた追加報告が積み上がり、その脇には王都で流れ始めた噂を書き留めた紙が広げられている。
内容はどれも気味が悪い。
だが、それ以上に厄介なのは、噂が広がる速度だった。誰かが意図して流しているような、不自然さがある。
ルシアンは報告書へ視線を落としたまま、無意識に紙の端を指先で押さえた。
昨夜の感触が、まだ妙に残っている。
袖を掴まれた時の指先の重みも、眠そうに名前を呼ばれた声も、長椅子越しに聞こえていた静かな寝息も、頭のどこかへ引っかかったままだった。
集中しろ、と自分へ言い聞かせた、その時だった。
ルシアンしかいない、執務室の扉を叩く音が響いた。
「殿下、お客人の方がいらしているのですが……」
報告書へ落としていた視線を、ルシアンはゆっくり上げた。部下の声に、妙なためらいがある。
「名は」
「アステリオス公爵令息です」
紙の端を押さえていた指へ、わずかに力が入る。
「通せ」
数秒後、執務室の扉が開いた。
入ってきたシオンは、いつも通り笑っていた。レヴァンティス風の長衣は相変わらず派手で、少し開いた襟元も軽薄な印象しか与えない。だが、その笑みはどこか薄く、華やかな装いに比べて目元だけが妙に疲れて見えた。
「やあ、ルシアン」
「勝手に来るな」
「ちゃんと通されたよ」
「お前が勝手に歩いただけだろ」
「否定はしない」
シオンは軽く笑い、そのまま向かいの椅子へ腰を下ろした。いつも通りの調子だった。
それなのに、どこか空気が違う。笑っているくせに、奥の方でずっと気を張り続けているような違和感があった。
シオンはしばらく机上の報告書へ目を落としていたが、やがて静かに口を開く。
「……俺、ルシアンに話しておかないといけないことがあるんだ」
思ったより真面目な声音だった。ルシアンはわずかに眉を寄せる。
「珍しいな。お前がそんな顔するの」
「失礼」
シオンは笑う。だが、その笑みも長くは続かなかった。数秒の沈黙のあと、彼は何でもないような顔で続ける。
「実はさ。俺とセレネ、ちょっと秘密共有しちゃってるんだよね」
空気が止まった。ルシアンは口を開かなかった。
ただ、机へ置いたままの手にゆっくり力が入る。
「君の知らないセレネを、俺は少し知ってる」
昨夜の声が蘇る。
まだ話せません、と静かに告げた声。拒絶ではなかった。だからこそ、余計に苦しい。
ルシアンは机へ置いた手に力を込めたまま、シオンを睨んだ。
「……そういう言い方をするな」
低い声だった。
シオンの笑みが少し止まる。
「何が?」
「セレネが話したことを、お前と俺の勝ち負けみたいに言うな」
数秒、沈黙が落ちた。
シオンはすぐには答えなかった。笑って流そうとしたのか、唇の端がわずかに動く。けれど、その笑みは形になる前に消えた。
ルシアンの視線から、逃げなかった。
数秒の沈黙のあと、シオンは机の上へ落としていた指先をゆっくり引いた。
「……悪かった」
軽さのない声だった。
「そういうつもりじゃなかった」
そこで一度、言葉が止まる。
「いや。そう聞こえたなら、俺の言い方が悪い」
「だったら最初からやるな」
不機嫌に返すと、シオンは困ったように苦笑した。だが、その笑みもすぐに消える。
シオンは椅子へ身体を預け、天井を見上げたまま低く言った。
「……その件も含めて、話がある」
軽さを戻そうとした声だったが、戻りきっていなかった。
「俺、本当は帰国してすぐセレネに会いに来るつもりだった」
ルシアンは黙ったまま続きを待つ。
「でも、来られなかった」
短い言葉だった。
その言い方に、妙な引っかかりが残る。
「レヴァンティスで、妙な事件が起きてる」
シオンの声から、さっきまでの軽さが少し消える。
「最初は、向こうだけの話だと思ってた」
シオンは机上の報告書へ視線を落とした。
「でも、違った」
窓の外を抜けた風が、机の上の紙をわずかに揺らす。
「……最近、王都で首のない死体が見つかってるらしいね」
ルシアンの目が細くなる。
「まさか、お前」
「たぶん、繋がってる」
シオンは小さく頷いた。
「向こうだけで終わると思ってたんだけどね」
ルシアンはすぐには言葉を返さなかった。
なぜ、それをシオンが抱えている。
レヴァンティスの公爵家嫡男とはいえ、こいつは本来、こんなふうに一人で何かを背負い込む男ではない。もっと軽薄で、もっと器用に人を使う。
それなのに、帰国してからの三ヶ月、こいつは何を追っていた。
「……俺一人じゃ、もう抱えきれなくなった」
その声音には、これまで聞いたことのない疲労が滲んでいた。
「特務隊へ依頼したい」
「事件の話なら今ここでしろ」
「いや」
シオンは首を横へ振る。
「これは、セレネにも聞いてほしい」
さらに少し迷うように視線を落とし、
「……できれば、フェリクス殿下にも」
と続けた。
フェリクスまで必要。
その意味を考え、ルシアンはゆっくり目を細める。
窓の外では、風に揺れた木々が低く鳴っていた。
シオンは机上の報告書へ視線を落としたまま、小さく息を吐く。
「近いうちに時間をもらえる?」
その声音には、いつもの余裕がほとんど残っていなかった。
ルシアンは数秒黙り込み、やがて静かに口を開く。
「……分かった」
「数日中に場を用意する」
シオンはそれ以上何も言わなかった。
開いた窓から入り込む風が、机の上の紙を再び揺らす。
報告書へ落ちた影が、妙に黒く見えた。




