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感情を持たない婚約者は怪異の真実を知っている 〜第三王子と月夜の怪異事件録〜  作者: 葉月うみ
第3章 選ばれなかった物語

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夜の訪問者

 星見宮へ戻った頃には、すでに日付が変わりかけていた。


 夜の回廊は静まり返り、窓の外では夏の風が木々を揺らしている。灯りの落とされた廊下を歩きながら、ルシアンは無意識に眉間を押さえた。


 シオンの言葉が頭から離れない。


 レヴァンティスで起きていた連続殺人。首を落とされた遺体。そして、向こうだけで終わると思っていた、というあの言い方。


 あれは、ただの推測ではなかった。


 何かを知っている声だった。


 自室へ入ると、ルシアンは外套を脱ぎ、椅子の背へ掛けた。夜気を吸った布が重く揺れる。窓は半分ほど開けられており、薄い幕が風に押されて静かに膨らんだ。


 机には持ち帰った報告書が積まれている。


 灯りの下へ歩み寄り、最上段の紙へ手を伸ばしたが、視線は文字を追わなかった。


 シオンは何を知っている。


 セレネは何を隠している。


 あの男は、確かに言った。


 セレネと秘密を共有している、と。


 紙の端を指先で押さえたまま、ルシアンは小さく息を吐く。


 隣国の事件と、王都で見つかった死体。その繋がりはまだ見えない。だが、触れられる距離にいるのに、肝心なところだけが遠かった。


 その時、扉を叩く音がした。


「……入れ」


 短く返すと、扉が静かに開く。


 そこに立っていた姿を見て、ルシアンはわずかに目を細めた。


 セレネだった。


 淡い生成り色の部屋着の上へ、薄手の羽織を重ねている。結い切られていない黒髪が肩から背へ流れ、灯りを受けて静かな艶を落としていた。普段よりも柔らかな格好だったが、それでも妙な隙は感じさせない。


 むしろ、部屋着姿でここへ来たこと自体が珍しい。


 いつもは自分が彼女の部屋へ行く。セレネから訪ねてくることはほとんどなかった。


「遅い時間に申し訳ありません」


「いや……そこはいい。入れ」


 セレネは小さく頷き、室内へ足を踏み入れる。扉が閉じる音は控えめだったが、そのあと落ちた静けさは妙にはっきり耳へ残った。


「座るか」


「はい」


 長椅子へ腰を下ろしたセレネへ、ルシアンは向かい側ではなく隣へ座る。


 近くで見ると、羽織を押さえる指先にわずかな力が入っていた。


「日中のお仕事をお手伝いできず、申し訳ありません」


「気にするな。最近はリリアーナ達に捕まっているんだろう」


 そう言うと、セレネは少しだけ視線を上げた。


「……はい。最近、お茶会へ誘っていただくことが増えまして」


「ミレイユも楽しそうだったな」


「お二人とも、とても良くしてくださいます」


 声は落ち着いている。


 だが、どこか不自然だった。


 会話そのものではない。言葉の選び方だ。


 必要なことだけを静かに話すセレネが、今夜は別の話題を置いて、本当に言いたいことを後ろへ隠しているように見える。


 ルシアンはしばらく黙って彼女を見ていた。


 セレネは視線を落としたまま、羽織の端を指先で整えている。


「……何かあったか」


 その問いに、セレネはすぐ答えなかった。


 長い睫毛が伏せられ、灯りの影が頬へ落ちる。


 静かな沈黙だった。


 やがて、彼女は小さく息を吐く。


「最近、部屋へ戻ると……妙に静かで」


 掠れるほど小さな声だった。


「以前は気にならなかったのですが、一人でいると、落ち着かないことが増えました」


 ルシアンは何も言わず続きを待つ。


 セレネは羽織を握っていた手をゆっくり解いた。だが、今度は膝の上で指先を重ねる。


「ですから、その……もう少しだけ、一緒にいていただけませんか」


 返事が出なかった。


 怪異を前にしても、死体を前にしても、この女は滅多に揺れない。誰より冷静で、誰より静かに立っていられる女だと思っていた。


 だが今、目の前にいるセレネは泣きそうなわけでも、取り乱しているわけでもない。ただ、見えない場所で均衡を崩しかけているように見えた。


 それが妙に胸へ引っかかる。


 ルシアンはゆっくり立ち上がり、長椅子へ座るセレネの前へ歩み寄った。


「セレネ──」


 名前を呼びかけた声が最後まで続く前に、ルシアンはそっと彼女を抱き寄せる。


 細い身体が腕の中でわずかに強張った。


 けれど、逃げない。


 数拍遅れて、セレネの指先が静かに服の布地へ触れる。そのまま、胸元を軽く掴んだ。


「……冷静なお前が、どうした」


 低く問いかける。


 だが、返事はなかった。


 代わりに、服を掴む指先へ少しだけ力が入る。


 ルシアンは抱き寄せたまま、黒髪へ視線を落とす。黒髪から微かに香油の匂いがした。夏の夜気よりも柔らかい匂いだった。


 静かな時間だった。


 その空気を裂くように、再び扉を叩く音が響く。


「殿下」


 部下の声だった。


 ルシアンは小さく眉を寄せる。


 セレネも気付いたのか、そっと身体を離した。


 ルシアンは短く息を吐き、扉へ向かう。室内が見えないよう半分だけ開けると、隊員は緊張した顔で立っていた。


「何だ」


「最初の被害者の婚約者が、遺体で発見されました」


 一瞬で空気が冷えた。


 さきほどまで残っていた柔らかな熱が消える。


「場所は」


「王都南区、運河沿いです」


 運河沿い。


 ルシアンの脳裏へ、シオンの言葉が蘇る。


 向こうだけで終わると思っていた。


 無意識に奥歯へ力が入った。


「分かった。すぐ向かう」


 隊員が一礼して下がる。


 扉を閉め、振り返ると、セレネはすでに立ち上がっていた。


 先ほどまでの迷いは消えている。


 事件の話が出た瞬間、セレネの目から迷いだけが消えていた。


「一緒に来られるか」


「着替えて参ります」


 迷いのない返答だった。


 ルシアンはその横顔を見つめ、小さく頷いた。


「宮の前で待つ」


「はい」


 セレネは静かに一礼し、部屋を出ていく。


 閉じた扉の向こうで、足音が遠ざかっていった。


 ルシアンはしばらくその音を聞いていたが、やがて机へ視線を向ける。


 灯りに照らされた報告書の文字が、先ほどよりもずっと重く見えた。


 もう、隣国だけの話ではない。




 宮の前に出る頃には、夜気はさらに深くなっていた。


 星見宮の石階段の下では、すでに馬車と数名の特務隊員が待機している。灯具の炎が風に揺れ、近衛の鎧が鈍く光を返していた。


 背後から静かな足音が近づく。


 振り返ると、黒い外套へ着替えたセレネが歩いてきた。調査へ出る時の、いつもの簡素な装いだった。つい先ほどまで部屋着姿で自分の腕の中にいた女が、もう静かな顔へ戻っている。


「お待たせしました」


「いや」


 短く返した時、横合いからクライヴが歩み寄ってきた。


「殿下。警邏隊から追加報告が届いています」


「聞く。歩きながらでいい」


 クライヴは頷き、馬車へ向かうルシアンの斜め後ろについた。


「遺体が発見されたのは、南区の運河沿いにある空き倉庫です。身元は確認済み。三日前、最初に発見された首なし遺体の婚約者でした」


 ルシアンは足を止めなかった。


「婚約者も首がないのか」


「はい」


 クライヴの声が少し低くなる。


「死亡推定時刻は、最初の遺体が見つかった頃とほぼ同じ。少なくとも今夜殺されたものではない、との見立てです」


 夜風が外套の裾を揺らした。


 同じ頃に死んでいた。


 それなのに、片方だけが三日遅れて見つかった。


「……隠していたのか」


「その可能性が高いかと」


 クライヴは言葉を選ぶように続ける。


「遺体の傍には、破れた婚約証書らしき紙片が残されていたそうです。まだ正式な確認は取れていませんが、家名の一部が読めたと」


 婚約証書。


 ルシアンは奥歯に力を込めた。


 噂に合わせているのか。


 それとも、噂が事件に合わせて広がっているのか。


 どちらにせよ、偶然ではない。


 隣を歩くセレネは何も言わなかった。ただ、海色の瞳だけが静かに細められている。


 馬車の扉が開かれる。


 乗り込む直前、ルシアンは南の空へ目を向けた。


 王都の向こう、運河のある方角は、夜の底へ沈んでいるように暗かった。

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