夜の訪問者
星見宮へ戻った頃には、すでに日付が変わりかけていた。
夜の回廊は静まり返り、窓の外では夏の風が木々を揺らしている。灯りの落とされた廊下を歩きながら、ルシアンは無意識に眉間を押さえた。
シオンの言葉が頭から離れない。
レヴァンティスで起きていた連続殺人。首を落とされた遺体。そして、向こうだけで終わると思っていた、というあの言い方。
あれは、ただの推測ではなかった。
何かを知っている声だった。
自室へ入ると、ルシアンは外套を脱ぎ、椅子の背へ掛けた。夜気を吸った布が重く揺れる。窓は半分ほど開けられており、薄い幕が風に押されて静かに膨らんだ。
机には持ち帰った報告書が積まれている。
灯りの下へ歩み寄り、最上段の紙へ手を伸ばしたが、視線は文字を追わなかった。
シオンは何を知っている。
セレネは何を隠している。
あの男は、確かに言った。
セレネと秘密を共有している、と。
紙の端を指先で押さえたまま、ルシアンは小さく息を吐く。
隣国の事件と、王都で見つかった死体。その繋がりはまだ見えない。だが、触れられる距離にいるのに、肝心なところだけが遠かった。
その時、扉を叩く音がした。
「……入れ」
短く返すと、扉が静かに開く。
そこに立っていた姿を見て、ルシアンはわずかに目を細めた。
セレネだった。
淡い生成り色の部屋着の上へ、薄手の羽織を重ねている。結い切られていない黒髪が肩から背へ流れ、灯りを受けて静かな艶を落としていた。普段よりも柔らかな格好だったが、それでも妙な隙は感じさせない。
むしろ、部屋着姿でここへ来たこと自体が珍しい。
いつもは自分が彼女の部屋へ行く。セレネから訪ねてくることはほとんどなかった。
「遅い時間に申し訳ありません」
「いや……そこはいい。入れ」
セレネは小さく頷き、室内へ足を踏み入れる。扉が閉じる音は控えめだったが、そのあと落ちた静けさは妙にはっきり耳へ残った。
「座るか」
「はい」
長椅子へ腰を下ろしたセレネへ、ルシアンは向かい側ではなく隣へ座る。
近くで見ると、羽織を押さえる指先にわずかな力が入っていた。
「日中のお仕事をお手伝いできず、申し訳ありません」
「気にするな。最近はリリアーナ達に捕まっているんだろう」
そう言うと、セレネは少しだけ視線を上げた。
「……はい。最近、お茶会へ誘っていただくことが増えまして」
「ミレイユも楽しそうだったな」
「お二人とも、とても良くしてくださいます」
声は落ち着いている。
だが、どこか不自然だった。
会話そのものではない。言葉の選び方だ。
必要なことだけを静かに話すセレネが、今夜は別の話題を置いて、本当に言いたいことを後ろへ隠しているように見える。
ルシアンはしばらく黙って彼女を見ていた。
セレネは視線を落としたまま、羽織の端を指先で整えている。
「……何かあったか」
その問いに、セレネはすぐ答えなかった。
長い睫毛が伏せられ、灯りの影が頬へ落ちる。
静かな沈黙だった。
やがて、彼女は小さく息を吐く。
「最近、部屋へ戻ると……妙に静かで」
掠れるほど小さな声だった。
「以前は気にならなかったのですが、一人でいると、落ち着かないことが増えました」
ルシアンは何も言わず続きを待つ。
セレネは羽織を握っていた手をゆっくり解いた。だが、今度は膝の上で指先を重ねる。
「ですから、その……もう少しだけ、一緒にいていただけませんか」
返事が出なかった。
怪異を前にしても、死体を前にしても、この女は滅多に揺れない。誰より冷静で、誰より静かに立っていられる女だと思っていた。
だが今、目の前にいるセレネは泣きそうなわけでも、取り乱しているわけでもない。ただ、見えない場所で均衡を崩しかけているように見えた。
それが妙に胸へ引っかかる。
ルシアンはゆっくり立ち上がり、長椅子へ座るセレネの前へ歩み寄った。
「セレネ──」
名前を呼びかけた声が最後まで続く前に、ルシアンはそっと彼女を抱き寄せる。
細い身体が腕の中でわずかに強張った。
けれど、逃げない。
数拍遅れて、セレネの指先が静かに服の布地へ触れる。そのまま、胸元を軽く掴んだ。
「……冷静なお前が、どうした」
低く問いかける。
だが、返事はなかった。
代わりに、服を掴む指先へ少しだけ力が入る。
ルシアンは抱き寄せたまま、黒髪へ視線を落とす。黒髪から微かに香油の匂いがした。夏の夜気よりも柔らかい匂いだった。
静かな時間だった。
その空気を裂くように、再び扉を叩く音が響く。
「殿下」
部下の声だった。
ルシアンは小さく眉を寄せる。
セレネも気付いたのか、そっと身体を離した。
ルシアンは短く息を吐き、扉へ向かう。室内が見えないよう半分だけ開けると、隊員は緊張した顔で立っていた。
「何だ」
「最初の被害者の婚約者が、遺体で発見されました」
一瞬で空気が冷えた。
さきほどまで残っていた柔らかな熱が消える。
「場所は」
「王都南区、運河沿いです」
運河沿い。
ルシアンの脳裏へ、シオンの言葉が蘇る。
向こうだけで終わると思っていた。
無意識に奥歯へ力が入った。
「分かった。すぐ向かう」
隊員が一礼して下がる。
扉を閉め、振り返ると、セレネはすでに立ち上がっていた。
先ほどまでの迷いは消えている。
事件の話が出た瞬間、セレネの目から迷いだけが消えていた。
「一緒に来られるか」
「着替えて参ります」
迷いのない返答だった。
ルシアンはその横顔を見つめ、小さく頷いた。
「宮の前で待つ」
「はい」
セレネは静かに一礼し、部屋を出ていく。
閉じた扉の向こうで、足音が遠ざかっていった。
ルシアンはしばらくその音を聞いていたが、やがて机へ視線を向ける。
灯りに照らされた報告書の文字が、先ほどよりもずっと重く見えた。
もう、隣国だけの話ではない。
宮の前に出る頃には、夜気はさらに深くなっていた。
星見宮の石階段の下では、すでに馬車と数名の特務隊員が待機している。灯具の炎が風に揺れ、近衛の鎧が鈍く光を返していた。
背後から静かな足音が近づく。
振り返ると、黒い外套へ着替えたセレネが歩いてきた。調査へ出る時の、いつもの簡素な装いだった。つい先ほどまで部屋着姿で自分の腕の中にいた女が、もう静かな顔へ戻っている。
「お待たせしました」
「いや」
短く返した時、横合いからクライヴが歩み寄ってきた。
「殿下。警邏隊から追加報告が届いています」
「聞く。歩きながらでいい」
クライヴは頷き、馬車へ向かうルシアンの斜め後ろについた。
「遺体が発見されたのは、南区の運河沿いにある空き倉庫です。身元は確認済み。三日前、最初に発見された首なし遺体の婚約者でした」
ルシアンは足を止めなかった。
「婚約者も首がないのか」
「はい」
クライヴの声が少し低くなる。
「死亡推定時刻は、最初の遺体が見つかった頃とほぼ同じ。少なくとも今夜殺されたものではない、との見立てです」
夜風が外套の裾を揺らした。
同じ頃に死んでいた。
それなのに、片方だけが三日遅れて見つかった。
「……隠していたのか」
「その可能性が高いかと」
クライヴは言葉を選ぶように続ける。
「遺体の傍には、破れた婚約証書らしき紙片が残されていたそうです。まだ正式な確認は取れていませんが、家名の一部が読めたと」
婚約証書。
ルシアンは奥歯に力を込めた。
噂に合わせているのか。
それとも、噂が事件に合わせて広がっているのか。
どちらにせよ、偶然ではない。
隣を歩くセレネは何も言わなかった。ただ、海色の瞳だけが静かに細められている。
馬車の扉が開かれる。
乗り込む直前、ルシアンは南の空へ目を向けた。
王都の向こう、運河のある方角は、夜の底へ沈んでいるように暗かった。




